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増渕和夫さんの論文より |
ところで、秋留台地の湧水の仕組みであるが、基本は水を通しにくい秋留台地の基盤層・五日市砂礫層(上総層)の上の段丘礫層に溜まり、段丘の崖から湧出するわけだが、角田さんの論文を見ると、秋留台地の下には地下水谷が走り、低水時と豊水時ではその流れに違いがある、と言う。
で、この地下水谷は秋留原面形成より古く、古秋川筋とも言われる。その谷筋は、「伊奈丘陵内を流れる横沢が秋川に合流する付近から始まり,伊奈一武蔵増戸駅を経て西秋留駅(注;現在は秋川駅)の北方を通り,平沢に至っている。地下水谷の深さは武蔵増戸駅で4m 前後,武蔵引田駅付近で4?6m ,西秋留駅(注;現在は秋川駅)付近では3?6mとなっている」、とのこと。
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角田清美さんの論文より |
一方豊水時には、「低水時の地下水面等高線図とは大きく異なり,台地のほぼ中央を東西にのびる地下水谷は認められない。地下水量は著しく増加し,台地のほぼ中央を伊奈丘陵から東端の二宮まで地下水の尾根がのびており,地下水面は地下水の尾根から北東および南東方向へ傾斜している。台地の西端の伊奈においても,地下水谷の存在は認められず,地下水面は北西から南東方向へ傾斜している。
秋留台地の南側,秋川に面する側の横吹面より下位の段丘においては, 低水時の際と同様, 段丘地形と段丘礫層の厚さに対応して数本の地下水瀑布線が形成されている。地下水面が下位の段丘面より相対的に高いところでは,各所で地下水が湧出している。秋留台地の北側,平井川に面する側においては,段丘崖に沿ってほぼ全面にわたって地下水瀑布線が形成されている」とする。
門外漢であり、いまひとつ理解はできていないのだが、とりあえず、秋留台の地下水流は低水時と豊水時とはその流路が異なり、その因は秋留原面形成以前の古秋川筋とされる地下水谷とその尾根に拠る、ということのようだ。 上記論文には,「低水時における秋留台地の不圧地下水の涵養は,主として平沢より上流の平井川によって行われていると考えられる」、とあるが、これは秋留台の大半を占める地下水位谷の北の秋留原面のことをさすのだろうか。低水時には平井川水系の地下水は地下水谷の尾根を越えられないだろうから、低水時における地下水谷尾根の南を流れる地下水の涵養は、平井川ではなく、伊奈丘陵の横沢あたりからの地下水ということだろうか。
門外漢の妄想はこのくらいにして、今回のルートであるが、雨間から野辺、小川と進み、小川地区から秋川筋を離れ多摩川筋を二宮地区、更には平井川筋の平沢地区へと向かうことにする。
本日のルート;雨間湧水(雨間地区)>小川湧水(小川地区)>小川湧水群(小川地区)>八雲神社境内湧水(野辺地区)>梨の木坂(平沢地区)>広済寺境内(平沢地区)>二宮神社のお池(二宮地区)
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あきる野市の報告書より |
五日市線・秋川駅
今回は雨間地区にある雨間湧水から始める。最寄りの駅である五日市線・秋川で下車し、南の秋川筋に下る。途中、都道5号・五日市街道の手前に油平地区。既述、あきる野市教育お委員会の「郷土あれこれ」には、その地名の由来を、油をとるための作物(荏胡麻)などを栽培した平坦な畑地から、とする。このン場合の「油」は明かりとりのためのものである。
同ニューズレターには、油菜は江戸時代の中頃に関西で作られ、急速に全国に広まった。また、障子に使う和紙が安価に手に入るようになり、日本の生活が「明るくなった」、と。そうだよな。
雨間湧水:あきる野市雨間698番地
管の先はコンクリートで固められた水場となっており、その先も暗渠となって下る。暗渠に沿って少し下ると、東秋留橋に通じる車道の石垣に行く手を遮られる。石垣をよじ登り道の東を見ると茂った草に覆われた水路が続いていた。地図を見ると途切れてはいるが秋川に繋がる水路が見える。 あきる野市作成の『報告書』によれば、雨間湧水は野辺面下にあるとのこと。湧出する崖下は小川面であるが、野辺面になんらか水路跡でもないものかと彷徨うが、これといった水路の痕跡を見つけることはできなかった。
◆蛙沢
◆雨間
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、この「雨間」は全国唯一の地名とのこと。雨は高いところ(=天;あま、ということだろうか)。間は場所。雨間は「高いところ」の意。秋川近くの蛙沢沿いに雨武生(あめむす)神社がある。雨間は「高いところ」故に、田をつくるのに水に困るためこの社を祀った、と。
八雲神社の手前に水路
◆藍染川
散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない。
とはいうものの、八雲神社の周辺には水の涸れた水路が数条通っており、どれが藍染川の流れなのか、はっきりしない。それはともあれ、藍染川は八雲神社の湧水を源流とする「細川」と前田小学校付近で合流し舞知川(もうちかわ)となって秋川に注ぐ。
◆野辺
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、由来は文字どおり、「野の辺り」。野は原(平で畑となるところ)と異なりやや起伏があり山が交るところ。山は平でも木が生えているところは山と呼ぶとのことである。
八雲神社境内の湧水;あきる野市野辺316番地
崖線からの湧出であれば、池を囲む石組みの間から湧き出る箇所はないものかと湧出箇所を探すも、見つけることはできなかった。池の中央部分が一段深くなっており、そこから湧出するといった記事も見かけたが、それらしき湧出は確認できなかった。ただ、池から流れ出す水路の水は豊富であり、湧出量が大きいことは想像できる。
なお、社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?藍染川と八雲神社の湧水、八雲神社近くの水流の方向、同じく普門寺脇の水路の方向、こういったあれこれがさっぱり整理できない。近いうちにこれらの水路を全部追っかけてみる必要があるかと思う。
●八雲神社
社の入口にあった案内によると
「長禄年中(一四五七-六〇)の創立であって、京都(祇園)牛頭天王を勧請し、野辺新開院が別当として、毎年六月十五日を祭日としていた。明治維新の大改革で神仏併合が禁じられ八雲神社と改称、明治六年十二月村社に列格、以後、例祭日を七月二十五日とする」
◆八雲神社の五輪塔(群)
この配置は室町時代の伊奈石製の五輪塔に多い形式ですが、本資料はその古い例です。形態はこの時代の様式をよく示していて、室町時代最初頭における伊奈石製五輪塔の基準的な資料として貴重です あきる野市教育委員会」
細川
■後日談
上記メモの如く、藍染川と八雲川、さらには普門寺川からの流れと藍染川の繋がりなど、気にな
ったことを整理に後日再訪。わかったことを整理すると;
藍染川が細川と合わさり南に下る |
また、八雲神社手前で現れた水路・藍染川が暗渠となって南に弧を描く箇所から一直線に東に向かう水路は、八雲神社湧水からの水が左右に分かれる箇所に繋がっている。
細川・藍染川分流が東に分流する箇所 |
舞知川 |
普門寺裏水路 |
細川・藍染川分流と合わさり舞知川に |
既述メモでの疑問点を整理すると
●「普門寺は五日市線・東秋留駅の南にある。境内を囲むように四分の一円の弧を描く水路が地図に見えるが、流路の方向は不明」
流路は西から東に。普門寺裏の水路は、水が枯れており流れは見えないが、東側が一段水路底が高くなっており、西から東へ向かうものと思い、都道168号の先の道を進むと上でメモの如く舞知川とつながった。
●「散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は
上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」
方向は東から西。「東秋留小学校の崖下」からかどうかは、トレースしていないが「多分そうだろう」。
また「普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」は誤り。上上述の如く普門寺からの水路は東から南に進み前田小学校のあたりで藍染川から、というか「細川」+「藍染川の分流」の水路と合わさる。
●山田神社の「社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?」
社殿裏手の水路らしきものは、単なる叢。藍染川からの分水は境内南端を進み、湧水池からの水路とT字に合流し細川となって境内を出る。
◆普門寺からの水路脇に湧水池が
屋敷林
◆小川
小川の名は奈良時代の記録に残る。延長5年(927)制定の『延喜式』には勅使牧(天皇家直属の馬牧)としてこの地の小川牧が記録される。小川牧からの貢馬数は10疋。牧で飼育される馬の数は貢馬の二十倍とされる。ということは小川牧の馬の総数は200疋。牧の管理は牧長と記録係の牧帳、それと馬100疋につき二人の牧子であるから、200疋では四人の牧子の総勢6名の運営体制ということであろうか(Wikipediaを参照)。
で、小川の地名の由来は、藍染川のことろでメモしたが、「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」の小川の地名由来の項に「武蔵名所図会:普門寺境内より流れ出づる藍染川が、これを小川といった」とあるので、「小川」の流れるところ、と言ったところだろう。
小川交差点湧水;あきる野市小川820番地
宝清寺
御利益はともあれ、境内の南端から東秋川橋の向こうに見える加住丘陵の北端、 秋川に突き出た箇所にある高月城を辿った記憶が蘇る。
◆宝清寺の歴史
甲州武田勝頼公滅亡後、その青木勘左衛門は、八王子城落城後、関東に入国した徳川家康に見出されてこのあきる野市小川の地を賜った。勘左衛門は、戦国時代に滅んだ武士達の霊を弔うために出家し、元和年間(1615~1624)故郷甲斐国雨利郷(甘里)にあった東照山教林寺をこの地に移し東照山法清寺と号し創立した。
最初は、東照山と号していたが、宝永年間(1704~1711)九世圓妙院日亮上人の代に、東照山とは徳川家に対して畏れ多い山号だとして、領主水谷信濃守より身延山に申し出て、寺禄等を寄進して祈願処としたことにより水谷山宝清寺と改められたといわれる」とあった。
小川湧水群;あきる野市小川837番地辺り
法林寺
寺伝によれば、開山の僧が二宮神社の龍に功徳を施し、そのお礼に絶えざる水が湧出するようになった、とのことだが、近くの小川湧水群を見るにつけ、小川の崖線からの湧水なのでは、とも妄想する。
舞知(もうち)川
小川地区と二宮地区の境に舞知川が流れる。東秋留の南西の東秋留小学校の裏・横吹面の段丘崖下から、またまた、普門寺境内よりの湧水を集めた藍染川と八雲神社の湧水から流れ出す「細川」が前田小学校辺りで合流し舞知川となって秋川に下る、とのことである。
平沢
二宮地区を進み、二宮本宿交差点で都道166号から多摩川方面に向かう都道7号に乗り換える。多摩川の対岸に福生方面を見遣りながら弧を描く坂を下ると平沢交差点。平沢東と平沢地区の境となっている。「地名あれこれ(あきる野市教育委員会)」には平沢の由来を「平井川沿いの浅い平らな谷地のこと」とする。
梨の木坂湧水;あきる野市平沢859‐1辺り
●東京都水道局平沢増圧ポンプ場の裏手の崖面から湧出
●民家脇から湧水
◆ざくざく婆の湧水跡

ざくざく婆の由来はお婆さんが小豆を洗う「ざくざく」という音が聞こえていたから、と。
因みに梨の木沢は「ところてん坂」とも呼ばれるようだ。由来は二宮での芝居見物に向かう人に、この湧水を使ったおいしい「ところてん」が評判になった、故と。
湧水湿地
広済寺境内湧水;あきる野市平沢732番地
『報告書』には「小川面下・傾斜地」とある。小川面と氾濫原の境の崖というほどではないが、傾斜地から湧出しているのだろう。
●田中丘隅回向墓
田中丘隅(休愚)は江戸時代を代表する民政家の一人で、自らの経験をもとに近世を通じて最もすぐれた経世の書といわれる 「民間省要」 を著述している。 その著書は八代将軍吉宗に献上され、享保改革に少なからぬ影響を与えたといわれている。
丘隅は、自著が将軍吉宗の上覧に達したことを契機に、江戸幕府の地方役人に抜擢され、荒川・多摩川・酒匂川の治水エ事、さらに大丸用水、六郷用水・ニヶ領用水の普請工事などに手腕を振るい、そして、のちには代官(支配勘定格)に任ぜられ、武蔵国などの幕領支配にもあたっていた。
彼は旧多摩郡平沢村(現・あきる野市平沢)出身で、享保14年(1729)12月22日に死去しているが、回向墓は彼の死後間もない時期に、兄の祖道が願主となり一族縁者の助成によって建立されたものと考えられる。
建立時やその後の状況についてはまったく不明である。材質は伊奈石。台座は白河石。回向墓の高さは台座を含め約166・7センチメートル。 彼の生家の菩提寺である広済寺境内に建つ回向墓は、丘隅の事績を簡潔にまとめた銘文が刻まれており、民政家田中丘隅の活躍を偲ぶことができる貴重な歴史資料である」とあった。
●広済寺
お寺様のHPに拠れば、
開創安土桃山時代天正15年(1587)
廣済寺を建立された開基は、平沢村名主八郎左衛門の先祖とされています。 創建当時の境内には三間四方の阿弥陀堂がありました。
文政3年(1820)の大火で山門を残しすべて焼失したものの、天保7年(1836)すぐに再建されました。
昭和24年(1949)羅災により再び本堂、庫裏を焼失。その後、平成6年(1994)檀信徒が力を合わせ旧姿に復しました。以来、この地域の信心・信仰の道場として今日に至っております」とあった。
玉泉寺
本堂には明治の頃、成田山より遷座された不動明王が安置され、ために当寺は秋川不動尊とも称されるようである。
二宮神社のお池; 東京都あきる野市二宮2252
湧水池は誠に大きい。水は枯れることがないと言う。池の底から湧出しているとのことだが、大きな池からなんとなく「不自然」に、細長く都道方向に延びる箇所がある。また、都道から池に水路が続き、都道脇の石組みの中に造られた管からも水が流れ出しているように見える。
湧水池は日本武尊(やまとたけるのみこと)が国常立尊(くにたちのみこと)を祀ったところ水が湧き出た、と伝わる。国常立尊は水の神さまである。公園となっている湧水池からは水路となって水が東に流れている。特に水路に名はないようだ。
●二宮神社
この神社には、藤原秀郷にまつわる由来がある。秀郷は天慶の乱に際し、戦勝祈願のためこの神社におまいりした、と。故郷にある山王二十一社のうち二宮を尊崇していたため、である。天慶の乱とは平将門の乱のこと。
またこの神社は、源頼朝、北条氏政といった武将からも篤い信仰を寄せられていた。滝山城主となった北条氏照も、ここを祈願所としている。
武蔵一の宮である小野神社の周囲には小野牧があった。この二宮のある小川郷にも小川牧がある。因果関係は定かではないが、馬の飼育・管理と中央政府の結びつきってなんらかインパクトのある関係だったのではなかろうか。実際小野牧に栄転した小野氏も、それ以前は秩父での牧の経営で実績をあげての異動であったように思える。
藤原秀郷と二宮のかかわりは、母が近江の山王権現に祈願して授かった子、であったため。山王二十一社とは、 上七社・中七社・下七社の総称。そのなかでも特に重要な位置を占める上七社は大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮である。秀郷は二宮にお願いして生まれたのであろう、か。
◆武蔵六社
武蔵六宮とは一宮・小野神社、二宮は小川・小河神社(現二宮神社、東京都あきる野市)、三宮は氷川神社(のち一宮。さいたま市)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金鑽神社(埼玉県神川町)、六宮は杉山神社(横浜市)である。
◆大石氏
二宮神社の地は大石氏の館があったところ、と。『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』によれば、貞和年間(1345年)鎌倉幕府の命により、木曽義仲の七代の孫・大石信重が築いた、とか。信濃国佐久郡、大石郷から移ってきた、とも。正平11年(1356年)には入間・多摩郡のうち、13郷を領している。
大石氏はこの二宮神社の南に館を構えた。正平11年(1356年)から至徳元年(1384年)の間の28年間である。その後、陣場山麓上恩方案下に山城を築く。甲斐の武田信玄に対して西の備えとしたわけだ。この恩方城に至徳元年(1384年)から長禄2年(1458年)までの74年間居を構え、鎌倉公方持氏の滅亡、足利成氏と長尾影春の戦いなど、戦乱の巷を乗り切った。
●二宮考古館
二宮神社にお参りし、その傍にある「二宮考古館」に久しぶりに立ち寄る。二宮神社周辺の遺跡や、市内で発掘された土器、石器などが展示されている。先回訪れた時に考古館で購入した『五日市町の古道と地名』は、その後の秋川筋の散歩で誠に役にたった。先人の研究に深謝。
これで秋留台地段丘の湧水散歩も平井川筋を残すのみ。お楽しみは次回に廻し五日市線・東秋留駅に向かい、一路家路へと。