日曜日, 8月 07, 2016

秋留台地 湧水散歩 そのⅠ:秋留台地の段丘崖・面より湧出する水を辿り、秋川・多摩川・平井川に囲まれた台地をぐるりと廻る

先日、石工の里・伊奈を辿り秋留台地を歩いたとき、秋留台地が8面9段からなる段丘によって形成されることを知った。段丘であれば各段丘面を画する段丘崖があるだろうし、その崖下には湧水があるのでは?
帰宅後チェックすると湧水点が記載された資料が見つかった。「Ⅲ あきるの市の地質・地形」とタイトルにあるそのpdf資料は、URLに「city.akiruno.tokyo」とある。あきる野市の調査報告書(以下『報告書』)の一部かと思う。 その『報告書』の「湧水と段丘」に記載されている「秋留台地の湧水」に拠ると;
「◇秋留台地の概要 
西端の伊奈丘陵南麓から東端の二宮神社まで、東西約 7.5km、南北約 2.5km である。 西端標高 186m、東端標高 138m、勾配 6.4/1,000 である

秋留台地の地質構成
表土 約30cmの火山性黒土や氾濫性土壌
立川ローム層 0.5~2m 約3万年前からの富士山起源の火山灰
段丘礫層  約8m 関東山地からの堆積層
上総層(大荷田層・加住層) 60~150cm 100~300万年前の河成~海成層

秋留台地の段丘構成 
 段丘は 8 段 9 面あり、上位から
1.秋留原面 2.新井面 3.横吹面 4.野辺面 5.小川面 6.寺坂面 7.牛沼面 8.南郷面 9.屋城面 と区分されている
湧水のしくみ
秋留台地には年間約 1,500mm の降水量があり、そのうち約半分は地下に浸透する。浸透した水は、水を通しやすい表土、関東ローム層、段丘礫層を通過し、五日市砂礫層(上総層)に達する。上総層は礫層の間に砂屑やシルト層を多く含んでいるため、水を通しにくい地層である。このために透過してきた水は上総層の上に溜まり、台地の6.4/1,000の傾斜に沿って流れ下り、段丘の崖から流れだしてくる。
秋留台地の湧水の源は、台地西側の山地であり、ここから流れでた水は地下水として東に流れ、平沢地区、二宮地区、野辺地区、小川地区などで湧出している。

「あきる野市の報告書」より
秋留台地の一層目の帯水層は秋川や平井川で運ばれた砂利層であり、その下にある上総層は、その間に詰まった粘土が不帯水層をつくり、その上に帯水する。何層にもなった帯水層の最上部の層の地下水が湧水となって地表に流れ出すと考えられている」との概説の後、以下18の湧水点がその所在地区・標高・段丘面・流量などともに記載されていた(調査日時省略)。



また、同報告書には記載のなかった各段丘に関する説明、その概要図は「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」といった論文がWebで見つかったので、素人ながらそれを参考に湧水散歩のメモをはじめることにする。

今回のルート;山田八幡神社裏(山田地区)>瑞雲寺(山田地区>秋川フィッシングセンター(山田地区)>引田橋>真照寺(引田地区)>真城寺(上代継地区)>白滝神社境内(上代継地区)>秋川神明社から50m東の崖下(牛沼地区)>石器時代住居跡群崖下(牛沼地区)


五日市線・武蔵増戸(ますこ)駅
湧水散歩は、上述『報告書』にあった番号の1番から順に18番まで辿ることにして、最初は山田地区の山田八幡神社に向かう。最寄駅は五日市線増戸駅。 増戸は地名にはない。チェックすると、いつだったかあきる野市の二宮考古館で買い求めた『五日市の古道と地名;並木米一』には、「この辺りの網代、山田、伊奈、横沢、館谷、三内という六つの地域は中世から近世、明治まで独立村として続いたのだが、明治22年(1889)の町村制施行時に館谷を除いた五ヶ村が合併し、将来の戸数増加を願い「増戸村」となる。昭和30年(1955)の改革で五日市町と合併し、「増戸」の地名は消滅した」とあった。駅名はその名残だろう。


都道185号を南に秋川方面へ
武蔵増戸駅を下り、直ぐ西を南北に通る都道186号を南に下る。この道筋はかつての「鎌倉街道山ノ道」。高尾から4回にわけて(鎌倉街道山ノ道そのⅠ:高尾から秋川筋に、鎌倉街道山ノ道そのⅡ:秋川筋から青梅筋に、鎌倉街道山ノ道そのⅢ:青梅筋から名栗筋に、鎌倉街道山ノ道そのⅣ:妻坂峠を越えて秩父路に)秩父まで歩いたことを思いだす。

山田八幡神社;あきる野市山田477番地
南北を走る都道185号・通称「山田通り」は、東西を走る都道7号、かつて伊奈の石工たちが江戸の町普請に往来しした伊奈道と交差。その「山田交差点」から先も「山田通り」と称されるが、道は都道61号となって秋川を山田大橋で渡り、加住丘陵を網代トンネルで抜ける。
山田八幡神社は都道61号・山田通りを少し南に進み、山田大橋が秋川を跨ぐ左岸段丘崖下にある。山田大橋手前から左に入る脇道を下り、巨大な橋の桁下を潜ると正面に瑞雲寺、その左手に山田八幡神社の鳥居が見える。

山田八幡湧水
鳥居手前には如何にも湧水湿地といった趣の水草が繁る。水の流れはないのだが、その水路に沿って境内に入る。社の左手に水汲み場があり、そこにパイプがあるのだが水は流れていない。とりあえずそのパイプに崖地の湧水を集めてはいるのだろうと社裏手の崖地を探すが、これといって崖地からの湧出箇所は見当たらなかった。上述『報告書』には水量は「小」とあった、とはいうものの、最初のポイントで湧水点が見つからないのは、ちょっと残念。
山田八幡神社
鎮座地 東京都あきる野市山田477番地
御祭神 応神天皇
御由緒 文和年間(1352‐)足利尊氏公家人景山大炊介貞兼の建立で瑞雲寺が奉任していた。明治2年神仏分離令により神職の奉任となる。
明治6年社殿再建 昭和60年社殿再建





瑞雲寺;あきる野市山田496番地
山田八幡の湧出箇所を探し、崖面を彷徨っていると、神社左手の瑞雲寺の裏手崖下に池が見える。ひょっとして、この池は湧水からの池では?と崖地をお寺さま側に移る。
瑞雲寺湧水
と、池の脇に竹筒があり、それを辿ると崖地に大きな管が埋め込まれていた。山田神社と同じく水は流れていなかったのだが、この管が崖地からの湧出箇所ではないだろうか。





瑞雲寺 
所在地:あきる野市山田496番地
境内にあった案内
「足利尊氏坐像 あきる野市指定有形文化財(彫刻)
臨済宗建長寺派に属する瑞雲寺は、南北朝時代に開かれたと考えられています。開基(創立者)は尊氏の子である基氏の母(あるいは伯母)という寺伝がありますが、この像はこの伝承と符合しています。また、南朝、北朝にわかれての全国的な戦乱の時代に、当地方は北朝系地侍の地盤であったことを示しています。
制作年代は江戸時代と考えられ、尊氏像はあまり類例を見ないことから希少価値があります。なお、昭和40年代に修復が行なわれ、彩色が施されています」
瑞雲寺板碑 あきる野市指定有形文化財(歴史資料)
「板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて、追善や供養などの目的で作られた石製塔婆の一種です。この板碑は蓮華台の上に、草書体で「南無阿弥陀仏」と「阿弥陀仏」の称号(明号)が大きく彫られ、その下方中央に「門阿」(供養者名)、右に「建武二年乙亥(一三三五)、左に「七月廿一日」の文字が刻まれています。
秩父産の緑泥片岩が使用され、市内では大型に属し、保存状態も良好です。 (全長122センチ、幅32.6センチ、厚さ2.8センチ)」

多摩川流域の臨済宗建長寺派
鎌倉時代、宋から栄西によってもたらされた禅宗の一派。蘭渓道隆など中国から来朝した名僧によって鎌倉・室町期に公家・武家の庇護を受け隆盛。
建長5年(1253)、鎌倉幕府5代執権北条時頼が鎌倉に蘭渓道隆を招き建長寺を建立するに及び臨済宗は発展。中でも建長寺は鎌倉五山第一として幕府の庇護を受けると、その末寺は鎌倉末期から相模・武蔵を中心に関東に広がり、南北朝以降は関東臨済宗の中心となる。
特に多摩川流域に顕著。戸倉の光厳寺(建武元年1334)、芝崎村の普済寺(文和4年;1355)、小和田村の広徳寺(応安6年;1373)が創建され、その末が多摩に広がる。


その他、鎌倉五山第三の寿福寺を拠点とする寿福寺派(明治以降建長寺派に)の普門寺(あきるの市)も南北朝期に再興され末を広げる。
更に南禅寺派の広園寺(八王子)松の法林寺も康応元年頃(1389)発展

山田の地名の由来
「山」は所謂高く聳える「山」を指すだけではない。平坦地であってもそこき木々が生えているところを「山」と称することも多い。「山田」の由来は平坦地に木々が茂る辺りに開いた水田地帯、といった説もある。
また、『新編武蔵風土記稿』には、「山田村ハ其地名ノ起リヲ尋ルニ村内瑞雲寺ノ開基瑞雲尼ハシメ勢州山田慶光院ニ住シテソレヨリ當所ニ移住アリシユヘカノ勢州ノ地名ヲコヽニウツシテ山田ト號スト云」といった説もあるようだ。勢州とは伊勢のこと。

山田八幡と瑞雲寺の湧水と段丘
上述したあきる野市の『報告書』には山田八幡神社の湧水は「牛沼面下」の「崖地」にあると記される。瑞雲寺も状況からみて同じと考えてもいいかと思う。で、「牛沼面下の崖地」ということは、「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文にあった秋留台地の段丘図を見るに、牛沼面の下は、秋川の「氾濫原」となっている。
ということは、山田神社や寺瑞雲寺は崖面直下ではあるものの、氾濫原に建てたということ?秋川の川床の標高は144mといったところだから、比高差は5,6m。護岸工事もない室町期、洪水の心配はなかったのだろうか?、何故に氾濫原に寺社を建てたのか結構気になる。

奇妙な分布を示す新井面と横吹面
増渕和夫さんの論文より
で、山田八幡や瑞雲寺の位置する段丘面を確認するため「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文にあった秋留台地の段丘図を凝視していると、気になることが現れた。
五日市線・武蔵増戸駅から山田八幡・瑞雲寺に下るまでに、知らず秋留台を形成する最上位面の秋留原面、新井面、横吹面、小川面、寺坂面を歩いて来たようである。
それはそれでいいのだが、各段丘面を見ていると、新井面、横吹面、野辺面、特に新井面、横吹面が通常河岸段丘で見られるように連続した階段状にならず、新井面は武蔵増戸駅の南東側および西秋留駅の東側に狭い面積で分布し、また横吹面も武蔵増戸駅の南西側や東秋留駅の南西側などに分布しているだけである。そして、「切り離された」新井面や横吹面の間には秋留原面が「割り込んでいる」ように見える。
平井川水系の氾濫による秋留原面のオーバーフローがその要因?
これってどういうことだろう?と、好奇心にまかせあれこれチェックすると、上述「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文に、「横吹・野辺面形成期(約12000から10000年前)に平井川系の水流が秋留原面にオーバーフロー」し、「秋留原面上に分布する浅い谷や凹地はその氾濫流路跡」とあった。
「オーバーフロー」ってどういうことは詳しいことは分からないが、素人なりの妄想によれば、上位面の秋留原面の地層が氾濫流によって下位の段丘面を埋めてしまった、ということだろうか。段丘図にある東本宿から五日市線・武蔵引田、秋川駅を経て蛙沢へ南東に延びる氾濫流路跡の窪地と下位段丘面に「割り込む」秋留原面のラインが見事に一致している。また、野辺面の下位段丘である小川面が、通常の段丘に見られる階段状の段丘の姿を残しているのも、オーバーフローの時期が横吹・野辺面形成期であり、小川面の形成以前のことからして、素人なりに納得できる。

秋留台の段丘
以下、「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」をもとに秋留台の段丘の概要をまとめておく;

秋留原面
秋留原面は秋留台地の主要部を占め,標高は西端の伊奈丘陵の南麓で約186m,東端の東秋留駅近くで138m。基盤は五日市砂礫層。その上に立川礫層=段丘礫層、そして最上段にローム層が堆積する。
段丘中央部は基盤まで地表から20mを越える箇所もあるが、段丘周辺部では基盤の位置は相的に高く、段丘東端部では地表から2mほどのところもある。

新井面
新井面は秋留原面より4?6m 低く, 武蔵増戸駅の南東側および西秋留駅の東側に,狭い面積で分布している。段丘礫層は2,3mほどと推定される。

横吹面
横吹面は武蔵増戸駅の南西側や東秋留駅の南西側などに分布し, 平面形は釛錘形をしている。新井面との比高は2-4m。東秋留駅の南西部においては,比高約1.5m の段丘崖下において大雨後には湧水が見られ,藍染川の水源地となっている。このことから段丘礫層の層厚は2?3m 程度で,その下位には秋留台地の基盤となっている上総層群(五目市砂礫層)があると考えられる。

野辺面
野辺面は伊奈から引田にかけて, 西秋留駅前付近および東秋留駅前付近に分布している。上位や下位の段丘面との比高は1?3mとなっている。
段丘礫層は東秋留駅の東端で約4m,東秋留駅の西にある東秋留小学校でも約4mとなっている。東秋留駅の東から南にのびる段丘崖は比高1.5 ?2mを示すが,段丘崖の各所から地下水が湧出している。引田では下位の小川面とは1?2.5m の緩傾斜の段丘崖で境されるが,大雨の際には段丘崖から地下水が湧出するところから, 段丘礫層は2 ?4mの層厚と推定される。

小川面
小川面は関東ローム層におおわれない段丘としては発達が最も良く,伊奈から代継にかけて,あるいは牛沼から小川・二宮にかけて広く分布している。
段丘礫層の層厚は6m前後のところもあるが、おおむね3?5mではあるが、層厚が1.5?4mの幅をもつ箇所もあり場所によって異なる。
段丘崖では段丘礫層との不整合面から不圧地下水が湧出している。
粘土層は段丘礫層とは層相が著しく異なるところから, 段丘礫層を堆積させた多摩川・秋川によって運搬されたのではなく,横吹面および野辺面の段丘崖下に水源をもつ舞知川,あるいは秋留原面の段丘崖下に水源をもつ千人清水によって運搬され, 堆積したものと考えられる。粘土層の基底部からは先土器時代終末あるいは縄文時代初頭のものと思われる尖頭器をはじめとする遺物が多数出土している。また粘土層内からは縄文時代以降の遺跡・遺物も出土している。

寺坂・牛沼・南郷面
寺坂面は武蔵増戸駅の南に狭い面積で分布し,秋川の現河床からの比高は23?25m ,上位の小川面との比高は約1.5rnである。
牛沼面は牛沼をはじめとして数ヶ所に狭い面積で分布している。秋川の現河床からの比高は伊奈付近で18?20m ,牛沼16?18m ,秋川と多摩川の合流点付近で10?14m となっている。南郷面は上位の段丘面の縁に点在して分布して秋川の現河床からの比高は10m前後。これらの段丘はいずれも五日市砂礫層とその上に堆積する層厚2?4mの段丘礫層からなる。

屋城面
屋城面は秋川・平井川および多摩川によって形成された河岸段丘のうち最下位の段上面で,氾濫面との比高は0.5?3mである。秋川の現河床からの比高は4?6m,平井川の現河床からの比高は3m前後を示すが,多摩川の現河床からの比高は7?10mとなっている。
多摩川の現河床からの比高が高いのは,多摩川の河川敷における砂利採取の影響によるもので,第2次大戦後その影響は特に大きく現れたようである。段丘面はに示されているように,いくぶん起伏があるが,これは河床面だった時代の礫堤あるいは礫州がそのまま残っているものと考えられる。段丘礫層の層厚は2?3mである。


秋川フィッシングセンター北の崖下に湧水路
次の目的地は、前述『報告書』の湧水番号2.にあった「元山田釣堀敷地内隣接崖」。地図で確認すると護岸工事された秋川と段丘図の牛沼面の間に広がる氾濫原に「秋川フィッシングセンター」がある。そこが「元山田釣堀」ではないだろうか。
瑞雲寺から道なりに進むと、護岸工事された秋川脇に出る。その道を進むと「秋川フィッシングセンター」があった。そこから北を見ると結構比高差のある崖地が見える。崖下の手前は民家の敷地や畑地があり、道はない。仕方なく畑地の畦道を進み崖下に。そこには水路があった。如何にも崖地からの湧水を集めたような自然な水路である。

水路は源流点近くまで崖下を東に進めるのだが、水路が切れる「源流点」らしき辺りは民家の敷地となっており、それ以上は進めない。崖地側から進もうとも思ったのだが、藪がひどく迂回は諦めた。とりあえず、崖下から湧出したであろう結構豊かな水の流れを確認し湧水点2番目をクリアしたとみなす。なお、この水路は西南に進み秋川に注いでいた。
崖面は牛沼面氾濫原を画する崖ではあろう。また、角田さんの論文には「伊奈丘陵内に源を発し,台地上を南東方向に流れる溝ッ堀という川があり、堀が丘陵から台地上に出たところには小規模な扇状地を形成している。普段は尻無川のようになっているが, 豪雨の際には氾濫することもある。約2.2krn流下して秋川に合流している」との記事があったが、上流・中流は水路跡がわからないが、下流部は崖下の湧水の流れと同じように思える。

牛沼面崖が秋川に突き出す箇所を進み引田橋に
秋川に沿って進む。前方はブッシュが激しく進めるかどうかよくわからない。が、とりあえず左手に崖面を見遣りながら護岸堤に沿って進むと通行止めの案内。ここまで来て戻るのも何だかなあ、行き止まりとなれば川床に下りればいいか、などと思いながら先に進む。
段丘図を見れば、牛沼面下の崖が秋川へとせり出している箇所である。氾濫原にあった道もなくなり、牛沼面の崖が直接秋川に接する箇所は、護岸堤のコンクリートの上を慎重に進み、ほどなく引田橋に出た。秋川右岸の秋川丘陵には 六枚屏風岩が見えた。

六枚屏風岩
「六枚屏風岩は、大規模の土柱が並列する特異な崖の地形として天然記念物に指定されたものである。奥多摩山地の麓に南北に広がる丘陵をつくる礫層(加住礫層)が、秋川の洪水時の激流によって急な崖をつくり、更に浸食されて、後退していく過程で、ほぼ等間隔に高さ10メートル以上の六つの土柱が形成され、それが六枚折り屏風に見立てられ六枚屏風の俗称が与えられた。この土柱は六枚屏風として、文政四年(1821)の『武蔵名勝図会』に描かれている。このうち、現在、第四柱が消失している。六枚屏風岩の崖では、数百年以上前から土柱が成長、崩壊を繰り返したと推定され、自然環境の移り変わりを知るうえで貴重な文化財である。東京都教育委員会」

真照寺湧水;あきる野市引田863番地
成り行きで進む。地域は引田に入る。あきる野市発行の「郷土あれこれ」に地名の由来があり、それによれば、「曳き;ヒキ>ヒクイ=低いの意味。秋川沿いの低地に集落が開け、そこに低田を開いて生活していたのだろう」と記されていた。
引田地区を進む。帰宅後段丘図をチェックすると。牛沼面と屋代面の境を進んで行ったようである。ほどなく趣のある木塀に囲まれた真照寺に。
境内に入り湧水点を探す。本堂の右手に薬師堂があり、その前に池がある。この池に繋がる湧水の手掛かりはないものかと辺りを彷徨うが、これといった痕跡はなかった。市の報告書には流量は極少とあった。
また、市の『報告書』には「小川面下・傾斜地」とある。段丘図でチェックすると、このお寺様の辺りは小川面と屋代面の境のようでもある。
真照寺
真言宗豊山派のお寺さま。寛平3(891)年、僧義寛上人によって創建されたと伝えられている。本尊は不動明王である。享禄4(1531)年に現在の地に遷された。都指定有形文化財の薬師堂と、市指定有形文化財の山門がある。朱印寺領7石。



真照寺山門
真照寺山門 あきる野市指定有形文化財(建造物)
薬師堂(東京都指定文化財)に伴う門として、元禄元年(1688)に建立されました。
構造は、本柱の前後に二本ずつ計4本の控え柱をもつことから四脚門と呼ばれ、和洋を基本としています。当初より彩色が施されていたようで、部材の保存もよく、江戸時代中期初めの特徴をよくとどめています。
また棟札により建立年代、寄進者、住職、大工名もわかり、歴史資料として貴重です」

薬師堂
「真照寺薬師堂 東京都指定有形文化財(建造物)
木造で屋根は宝形造、桁行3間、梁間3間の建物で、間口・奥行ともに約4.42m(19.5㎡)です。外回り切目縁付き、軒回り柱上部に舟肘木があり、建築年代は室町時代と考えられています。
寺には廷文元年(1356)、関東管領足利基氏建立の棟礼写しがあります。『新編武蔵風土記稿』には寛平3年(891)造立の柱を用いて、廷文元年に再建したと見え、すでに江戸中期頃には柱に虫穴などがあって古色を呈していたと記されています。
昭和44年解体修理を行い、屋根はもとの茅葺を銅板葺に改めました。真照寺は引田山金蓮院と号する真言宗豊山派の寺院で、寛平3年に義寛上人によって開山されたと伝えられています。なお、宮川吉国寄進の厨子も附として指定されています」

殿沢
左手に大宮神社の社を見遣りながら進むと氾濫原に拓かれたような畑地が広がる。と、足元を見ると水流のない水路が東へと続く。畑地を道なりに進むと、南に曲がり秋川に向かう水路と交差する。チェックすると、殿沢と呼ばれるようだ。上述角田さんの論文に「殿沢は秋川市引田の小川面の段丘崖下にある海老沢沼に源を発する。さらに,途中,段丘崖下の各所から湧出する地下水を合わせ, 約1.8km 流れて秋川に合流している」とあった。海老沢沼がどこか不明だが、真照寺の北西の牛沼面と接する小川面崖下辺りであろうと思う。

真城寺湧水;あきる野市上代継344番地
殿沢を越え上代継地区に入る。代継は余次、世継とも表記される。四ツ木榾(ほだ)から。家の囲炉裏の四隅から樫などの堅い榾木をくべて赤々と燃やすことに由来するとある(前述「郷土あれこれ」より)。
ほどなく真城寺。湧水点を探し境内を彷徨うと幾つかの池があり、池に樋から水が注がれている。樋に沿って裏の崖地に入ると、小石の間から浸みだす湧水箇所が見つかった。市の『報告書に』は「小川面下・崖地 」とある。段丘図から推測するに、小川面と屋代面を画する崖地ではあろう。今回の湧水散歩ではじめて目にした、ささやかではあるが湧出点である。

真城寺
臨済宗建長寺派。観応2(1351)年、足利基氏が開基となり、大光禅師復庵宗己を請じて開山としている。その後、天正7(1579)年に八王子城主北条氏照が再興したと伝えられている。本尊は延命地蔵菩薩。市指定天然記念物のシダレザクラがある。御朱印寺領7石2斗。


沢に入る
新城寺の境内西に結構水が流れる水路がある。地図を見ると、真城寺の北から下っている。沢の源流が如何なものかちょっと寄り道。水路は石をコンクリートで固めた両岸とコンクリートの底部から成る。水路底部に下り北に向かうとすぐに護岸工事部は切れ、藪に覆われた沢となる。
沢の中程に湧出点もあったのだが、更に上流からの伏流水かとも思い、藪漕ぎで更に上流に進む。水はほとんど見あたらない。と、沢は崖地で阻まれる。崖上には民家が見える。都道7号のすぐ南といった箇所である。この崖地は秋留原面と小川面を画するものと思う。

御滝堀
沢を戻り、水路に沿って進もうと思うのだが、水路は民家の中を通っており、仕方なく南を大きく迂回し次の目的地である白滝神社境内湧水に向かう。道を東に進み白滝神社に向かって北に折れると水路にあたる。この水路は先程の沢からの水と、白滝神社境内湧水からの水を合わせて下っている。
角田さんの論文には御滝堀とあり、「御滝堀は秋川市下代継の白滝恵泉に源を発する。白滝恵泉は小川面の段丘崖に位置し,層厚約3,5m の段丘礫層の基底付近から地下水が湧出している。常に湧水量は多く, 約1.7km 流れて秋川に合流する」と記載されていた。

白滝神社境内湧水;あきる野市上代継331番地
滝からの流れであろう水路を辿り白滝神社に。社に上る石段横に沢があり、石組みの堰堤から豊かな水が数条の滝となって落ちる。今回の湧水散歩ではじめて目にした、豊かな湧水である。
堰堤の先の沢に入り湧出箇所を確認したいのだが、水神様脇に竹で作られた進入禁止の柵。普通なら先に進むのだが、神様の「霊地」に入り込むのは何だかなあ、と今回は遠慮する。報告書によれば「秋留原面下・崖地」とあるので、秋留原面と小川面を画する崖地から滾々と水が湧き出ているのだろう。


白滝神社
鳥居を潜り正面石段を上ると社がある。その昔には「白滝の社」と称されたようだ(「**神社」と呼ぶようになったのは明治以降のこと)。社脇には八雲神社の小祠も祀られていた。社の上は五日市街道・都道7号が走る。
鎮座の年代は不詳。この地の郷士・代継縫之介が自宅の鬼門除けとして、不動堂を建立。この地は日本武尊のゆかりの地とされ、村民に篤く崇敬されていた地とされる。
『新編新日本風土記』には「村の中程にあり わずかなる堂にて 上屋二間(約三,六メートル)四方 南向きなり 不動は木の立像長一尺二寸最古色に見ゆ されど作詳らかならず前に石段三十四段あり境内に入りて左の方に滝あり 槻(欅の一種)の大木一本あり 囲八十九尺許り 其の外雑樹蓊鬱として繁茂し 年経たるさまの境内なり 村内東海寺の持」と記載される。

秋川神明社湧水;あきる野市牛沼88番地
秋川神明社は白滝神社の南東、圏央道秋川インター傍にある。地図には秋川神社となっているのだが、秋川神明社であろうと圏央道の高架を潜り、その東の国道41号を南に下り、圏央道あきる野インターへの出入り口手前にある秋川神社に。
『報告書』に神明社から50m東、牛沼面下の崖とある。それらしきところを彷徨うが、湧出点らしき箇所は見当たらない。段丘図で見ると、牛沼面と南郷面の境とは思うのだが、秋川神社の南は圏央道あきる野インターへの出入り口で車道に立ち入ることができない。
『報告書』の湧水調査日は2011年6月、あきる野インターのサービス開始が2005年であるので、調査日は、インターの工事以降と考えられる。インターのアプローチ下に隠れているのか、それとも社の東50mほどのところに2、3mほどの比高差の崖があるのだが、その辺りなのだろうか。崖下を彷徨うも、湧出点らしき箇所は確認はできなかった。

秋川神社
もと日吉山王大権現と称していたが、同村神明神社と合祀して秋川神明社と改めた。永禄年代末(1569)一面の唐銅円鏡を鋳造し(洪水時に秋川を流れてきたとも、真照寺の山王権現の神体が流れてきたとも)ご神体としたと言われる。 また、境内にある大杉は市の天然記念物である。
牛沼
青梅線の牛浜に限らず牛がつく地名は全国に散見されるが、「牛」は必ずしも動物の牛と限ることはないようである。前述「郷土あれこれ」には、「牛はウシ>ウス>薄い色>浅い色>浅い沼」といった説明があった。地名の由来は諸説あることが多く、何が正しいか不明だが、少なくとも漢字ではなく、「音」からの解釈が必要かと思う。はじめに「音」があり、それに物知りが「漢字」をあてるわけであり、まずは「音」からの解釈が必要とは思うので、上記説明にはそれなりに納得。

石器時代住居跡群崖下湧水;秋留の市牛沼265‐2番地
秋川神社の北東に石器時代住居跡群崖下湧水があるとのこと。成り行きで進むとフェンスに囲まれた一角があり、そこに「国指定 西秋留石器時代住居跡」の案内があった。住居跡の南は崖。崖下で草刈りをしているご婦人に遠慮しながら石垣下を回り込むと、史跡西端の石垣の奥から水が流れ出していた。そこが湧水であろう。『報告書』に、「牛沼面下・崖地」とある。段丘図を見るに、牛沼面と氾濫原の境を画する崖面であろうと思う。

「国指定 西秋留石器時代住居跡 指定日昭和8年4月13日
昭和七年、後藤守一氏を中心として、東京府(現東京都)によって調査が行われ縄文時代後期の敷石住居跡5軒や石棺墓2基、石組の炉一基などが発見された。 当時、敷石住居跡が単独で出土した例はあったが、このように狭い範囲にまとまったものはほとんど無く、昭和8年国の史跡に指定された。
また、これらの遺構の他、縄文時代後期の土器や石皿、凹石、石棒、打製石斧、石錘などの石器も多数出土している。
調査当時、発見された住居の床面と周囲とが同じ面と認められたため、竪穴式住居ではなかったと判断され、それ以降の敷石住宅が平地住宅であるとする説の有力な根拠とされるなど、学史的にも貴重な遺跡である あきる野市教育「委員会」

今回はここで時間切れ。最寄りの五日市線・秋川駅に戻り、一路自宅へ.。

0 件のコメント:

コメントを投稿