火曜日, 2月 07, 2017

埼玉 旧利根川散歩 会の川:その② 川俣締切跡から御河渡橋まで

旧利根川流路を辿る散歩の手始めとして向かった、会の川締切の地への最寄りの羽生駅。その羽生駅下車時に次の駅名にあった「川俣」の名に惹かれ、思わず羽生下車を取りやめ、利根川を渡り川俣駅に向かった。
川俣駅で下車し群馬県邑楽郡明和町を歩くことになり、当初の散歩の始点と考えていた埼玉県羽生市の川俣締切跡に戻るまで2時間もかかってしまった。それでも当日は、会の川締切跡から会の川筋に沿って下り、国道122号が会の川とクロスする辺りまで歩いたのだが、第一回のメモは切りよく、会の川締切跡までとした。
今回は本来の目的である古利根川の流路である「会の川」筋を、当日歩き終えた国道122号が会の川とクロスする辺りまでをメモする。


本日のルート; 「道の駅 羽生」>北河原用水の流末>埼玉用水路>羽生用水分水工>会の川を辿る>会の川源頭部>南方用水に沿って下る>国道122号とクロス>土腐落が合流>会の川・一号橋>土腐落合流点に>県道128号・原野橋>秩父鉄道・会の川橋梁>南方用水から金山圦用水路が分岐>御霊神社>堂城稲荷神社>天神窪落悪水路が合流>会の川堰>新郷用水・中新田川が合流>鷹橋>行田バイパス>旧花見橋>島山寺>加須市境が唐突・不自然〈自然?〉に羽生市に入り込む>志多見堰>国道125号・自然堤防>御河渡橋>南羽生駅

「道の駅 羽生」
会の川締切跡の石石碑のある「道の駅 羽生」から「会の川」の源流点に向かう。地図を見ると、「道の駅」の南に、東西に走るふたつの水路が見え、その水路を南北に貫き、その左に大きく弧を描く水路が見える。その水路が会の川筋であろうと、その地に向かう。
道の駅の東には柵に囲まれたヘリポートや、なんだか巨大な敷地がある。水路に向かうには結構迂回しなければならないため、道の駅から南に、国道122号を進むことにした。
上新郷水防センター
道の駅東側の巨大スペースは上新郷水防センターと呼ばれ、災害時には水防活動や災害復旧拠点として機能するスペースであった。巨大な敷地は土砂備蓄ヤードとのことである。
羽生
羽生は「埴生、羽丹生」などとも表記された。埴は「粘土、赤土」、生は「村」の意もある。赤土・粘土質の土地からなる村といったところだろう。埴生の産地からとの説もあるが、そもそもの埴生の窯跡が未だ見つかっていないようであり、わかりやすいが少々エビデンスに欠ける、かも。

北河原用水の流末
国道を少し進み、最初の水路に下りる。それほど大きくはない。特に用水名の案内も見当たらない。当日は特に気にすることなく、右に折れ更に南にある水路へとむかったのだが、後日チェックすると、この水路は正保元年(1644)に伊奈忠治により開削された北河原用水の流末とのことであった。
北河原用水
熊谷市と行田市の境、行田市北河原辺りで利根川に注ぐ福川から取水され、利根川の右岸を流れ、忍領を越え末流は羽生領の用水としても利用された。羽生領に入った北河原用水は、この地川俣で北方用水路と南方用水路に分かれ、北方用水路は、利根川に沿って東に向かい、南方用水路は南に下ったとのことである。
用水路は現在、利根大堰で取水される見沼代用水で分断される。見沼代用水は享保13年(1728)に開削されたものであり、羽生領への北河原用水の流れは、見沼代用水を掛渡井で渡し、後には一度合流させ樋管から取水したと言うが、見沼代用水による下流の新田開発が盛んになるにつれ、忍領下流への水不足を妨げないよう、羽生領の用水は天保11年(1840)に羽生領上川俣圦で利根川から取水することになった。
見沼代用水
Wikipediaに拠れば、「見沼代用水(みぬまだいようすい)は、江戸時代の1728年(享保13年)に幕府の役人であった井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために、武蔵国に普請した灌漑農業用水のことである。名前の通り、灌漑用溜池であった見沼溜井の「代替用水路」であった。流路は、現在の埼玉県行田市付近の利根川より取水され、東縁代用水路は東京都足立区、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至る」とある。

いつだったか、さいたま市の見沼代用水東縁や西縁見沼通船堀を歩いたことがある。東縁代用水路と西縁代用水路は上尾市と蓮田市、伊奈町の境が合わさる辺り(東北本線の東大宮駅の北を東西に通る東大宮バイパスの少し北辺り)で分かれるのだが、その見沼代用水が利根川から引かれているとは思ってもみなかった。見沼代用水と言う以上、見沼溜井を灌漑用水とする代わりに開削された水路であろうと思い込んでいた。実際は見沼溜井の代用水路であるとともに、利根川の東遷事業により源頭を断ち切られた河川(溜井)の替わりの代用水路として、関東平野に広がる広大な低湿地を新田とするため幕府により構想されたものであった。
羽生領
ここで言う羽生領とは藩政時代の行政区切りとは少し異なるようだ。「WEBサイト:水土の礎」に拠れば、「羽生領とは、現在の羽生市を中心とする一帯ですが、この「領」という言葉(概念)はこの地方独自のもので、利根川の乱流でできた自然堤防に囲まれて輪中状になっているエリアで、水利、水防の面から利害を等しくする区域のことを指します。領内にはいくつもの村が存在しており、それぞれ固有の歴史を持っていますが、ひとつの村だけでは行えないような規模の大きい利水・治水事業は「領」を単位に行われたといいます」とある。
行田
行田といえば忍城。忍城と言えば、秀吉の小田原征伐の折、小田原北条勢で最後まで城を落とすことのなかった成田氏の居城。その成田>行田(なりた)>行田(ぎょうだ)となったと言う。

埼玉用水路
東西に走る二つ目の水路は、地図に埼玉用水路とある。昭和43年(1968)に開削された灌漑用水路である。取水口は利根大堰。それ以前、利根大堰から直接取水していた農業用水路に水を送るべく開削された。上述「北河原用水」が誠にささやかな水路であったのも、その役割の大半をこの埼玉用水に替えた故ではあろう。




羽生用水分水工
少し東に進むと水路施設があり、水路が分流している。羽生用水分水工と呼ばれるようだ。南に分流している大きな水路が会の川だろうと思っていたのだが、「南方用水」とあった。
南方用水
地図を見ると、先ほど出合った北河原用水の末流から分水工にささやかな水路が続いている。かつての南方用水の痕跡であろうが埼玉用水にその吐き出し口が見当たらない。
南方用水の分流箇所を確認すると、用水路は二つの流れが合流していた。ひとつは埼玉用水路の分水工右岸から直接吐きだされるが、もうひとつは?チェックすると北河原用水からの水が、埼玉用水路の下を伏越で吐きだされているとのことであった。
この地で分かれた南方用水は西に向かって弧を描いて南に下った後、羽生市砂山で流路を東に変え、加須市の市街地を流れ、東北道加須ICと国道125号が交差する南篠崎辺りで会の川に合流する。全長16㎞ほど。
四ヶ村用水

分水工施設に「四ヶ村用水」との既述がある。なんだろう?チェックすると、南方用水を南に分け、東に進む埼玉用水路、かつての北方用水と呼ばれた水路であろうが、その少し下流で右に分流する用水ののようであった。
因みに、地図を見ると、かつての「北河原用水」はもう少し東に進んだところで埼玉用水に合わさっていた。



(NOTE;左四角の部分をクリックし、表示したいレイヤーを選んでください)


会の川を辿る

会の川源頭部



それはそうと、当初「会の川」かと思っていた水路は「南方用水」であった。では会の川は?南方用水と「日本独特」のホテルを隔てた西側に水路があった。水路とは言うものの、田圃の畦道に沿った、コンクリート補強の農業用水路といったものである。











iphoneでチェックすると、この水路が「会の川」のようである。地図を見ると、北河原用水から埼玉用水路に下る細い水路も見える。「会の川用悪水路系統図」には、北河原用水の北に「会の川放流工」が記され、北河原用水を伏越で越えている。川俣での会の川締切後も湧水を水源として流れていたと言うから、堤防近くに湧水水源があるのかもしれない。
南方用水と同じく、埼玉用水は伏越で渡る。道路下から突然現れた水路に水が豊富なのはそのためだろう。



南方用水に沿って下る
会の川

会の川散歩を始める。田圃の中を貫く会の川の水路に沿って下ろうかとも思ったのだが、南に開ける田圃の水路はそれほど変化もないようだ。当初予定になかった南方用水に出合ったことだし、基本用水は玉川上水の例を待つまでもなく、尾根筋といった周辺の一番高いところを進む。低きに落ちた自然流は高きに戻らない理故である。
ということは、南方用水って、尾根筋ではないわけで、可能性とすれば会の川の自然堤防に沿って開削されたものではなかろうかと推察される。現在の南方用水は往時の自然流下用水ではないだろうが、往時の会の川の土手をイメージしながら、南方用水に沿った舗装道を歩き、時に田圃の中の畔を歩いて会の川を眺めることにする。

国道122号とクロス
しばらく下ると国道122号に交差。少し東に移り会の川を確認。コンクリート板で囲まれた(柵渠)の用排水兼用の水路の風情に変わりはない。幅は2m弱といったものである。







土腐落が合流
南方用水に沿って、県道59号を越え、南方用水3号分水工を見遣り南に進むと、会の川に東から水路が合流する。メモの段階でチェックするとこの水路は土腐落と呼ばれる水路であった。
この辺りから会の川の川幅も広くなり4mほどになる。護岸も棚渠からコンクリート3面護岸に変わる。なんとなく川らしくなってきた。また、今まで無かった会の川に沿った道も川の右岸に見える。
ここで右岸の道に出ようと思うのだけど、付近に橋はない。県道59号まで戻り、会の川右岸に出るにした。


土腐落(どぶおとし)
土腐落取水口
文字通り悪水路。古い歴史をもつ忍領の悪水路であるが、現在は見沼代用水から分水された水路を南に下り、埼玉用水路のおおよそ400m南、稲荷神社の辺りの「会の川分水樋管」で見沼代用水分水路と分かれ、東に向かい会の川に落とす用排水兼用の水路となっている。

ということは、現在の会の川は見沼代用水の水も取り入れているようだ。養水の量が多ければ、もう少し水路はきれいになると思うのだが、生活用水といった現代の「悪水落し」にも使われており、水質はあまりよくない。

会の川・一号橋
土腐落との合流点から引き返し、県道59号と会の川がクロスする箇所に「一号橋」との標識がある。橋の詳細は不明だが、会の川散歩ではじめて登場した橋である。





土腐落合流点に
会の川の一筋東の道を南に下り、道なりにすすみ土腐落に架かる橋を渡り、会の川との合流点右岸に到着。右岸には桜の並木が続き、それまでの田圃の風景から変わり、宅地の脇を下る。





県道128号・原野橋
西側に並走する南方用水を見遣りながら桜並木の道を進む。羽生市立新郷第一小学校の南で桜並木が切れた道を先に進むと県道128号にあたる。その県道が会の川渡る箇所に古き趣の橋が架かる。文字が潰れて当日は読めなかったが後日チェックすると原野橋とのことであった。
原野橋
原野橋と会の川橋梁
昭和7年(1932)から13年(1938)にかけて実施された会の川改修工事の際に架けられた橋のひとつ。昭和10年(1935)頃のものと言う。

秩父鉄道・会の川橋梁
原野橋の少し下流に秩父鉄道の橋梁が見える。橋台は煉瓦のようだ。メモの段階でチェックすると「会の川橋梁」と呼ばれ。その直ぐ西側には、南方用水に架かる「羽生領用水経橋梁」も見える。橋台は同じく煉瓦造りである。共に、大正10年(1921)頃につくられたとのこと。

大正10年(1921)に北部鉄道が羽生・行田間を開業したとあるので、もとは北部鉄道の橋梁であったのだろう。大正11年(1922)に行田・熊谷間の開通に合わせ、既に熊谷・寄居間を開業していた秩父鉄道に合併したとのことである。

南方用水から金山圦用水路が分岐
南方用水
金山圦用水路
秩父鉄道にクロスする会の川にも南方用水にも、水路に沿った道はない。県道を東に向かい踏切を越え、道なりに南へと進む。ほどなく鬱蒼と茂った社叢の手前に南方用水から分岐した水路があった。「金山圦用水路」とのことである。 金山圦用水路の詳細は不明。地図を見ると、少し東に向かった水路は上岩瀬から下岩瀬に向かって南東に下り、埼玉純真短大辺りで国道122号に合わさる辺りまではトレースできるが、その先はいくも水路が分岐し不明である。
金山?
金山圦の金山って、その由来は何だろう?検索すると金山圦用水路の北、県道128号傍に「金山庵」という食事処がある。そのお店の名が、なんらかの「金山」由来に繋がらないかとあれこれ調べると、かつてその辺りを「岩瀬金山」と呼んでいた、といった記事があった。
その経緯;その昔、会の川を挟んで忍領と羽生領に分かれていたわけだが、戦国時代、羽生城を関東出兵の拠点とする上杉謙信と、北条氏に与する忍城主成田氏(多分?)は敵対関係にあった。合戦に際し、敗れた羽生勢は上杉方の金山城(太田市)に敗走との記録がある。で、岩瀬金山であるが、その金山勢が羽生城に援軍を送った際に在陣したのがこの地であり、在陣地を岩瀬金山と呼ぶようになった、とか。
金山勢は上杉から離反するなど、敵味方常ならずの戦国の世であり、真偽のほどは不明だが、かくの如き話が伝わっているようである。

御霊神社
金山圦用水路の分岐する社叢は御霊神社のものであった。案内に拠れば「江戸時代以前、利根川(現在の会の川)が氾濫した時、はやり病(伝染病)に悩む村人が、京都から村の守り神として「御霊神社」を創建したと伝えられています。
御祭神は、火雷天神(菅原道真公)・早良親王・伊予親王・文夫人・藤原広嗣公・藤原夫人・吉備公・橘逸勢公の八柱」とのこと。

堂城稲荷神社
会の川と南方用水が並走

今までも基本、並走してきたふたつの水路であるが、金山圦用水を分けたあたりから更に間隔が狭まる。会の川が締め切られたのが文禄元年(1592)、南方用水のはじまりである北河原用水が開削されたのが正保元年(1644)。締め切られた会の川の自然堤防を活用して開かれたのだろう。
ほどなく堂城稲荷神社。会の川と南方用水路の間に建つ。「どうぎ」と読む。「胴切」がその由来とか。対峙した大蛇を胴切りにしたとの伝説による。八岐大蛇(やまたのおろち)の伝説同様、大蛇=暴れ川の治水を願った伝説であろうか。単なる妄想。根拠なし。


天神窪落悪水路が合流
草で覆われた会の川と南方用水の間を、時に会の川筋をチェックしながら下ると右岸に水路が合流する。天神窪落と呼ばれる悪水落し。地図を見ると、土腐落の辺りまでは伸びてはいるが、「会の川用悪水路系統図」でチェックしても埼玉用水とも見沼代用水とも繋がっていない。このあたりの田圃の悪水落しの排水路かと思える。

会の川堰
少し川幅の広がった会の川の水路を進むと、堰と併設された古い橋がある。堰は「会の川堰」と呼ばれる。会の川を下って出合った最初の農業用取水堰かと思う。併設の橋は名称不詳。昭和10年(1935)頃に架けられたもの。前述の会の川改修工事の際に架橋されたものだろうか。親柱もアーチ型の欄干もちょっと洒落ている。

新郷用水・中新田川が合流
会の川堰のすぐ下流に右手から水路が合わさる。地図を見ると、北西に進み秩父鉄道にあたると線路に沿って西に向かい、すぐ先で再び北西に進み見沼代用水と繋がっているように見える。
チェックすると、この水路は新郷用水とその分流である新中田川の水路のようである。

新郷用水
新郷用水取水口

新郷用水は見沼代用水から分水された分水路から取水する。分水路は見沼代用水に沿って南に下り、前述の土腐落を分け、その下流100m辺りのところに設けられた四谷大圦・小圦で取水。そこから東に向かった後、流れを南東に変え、秩父鉄道とクロスし、更に南へと下る。その先は水路が複雑に分かれている。
中新田川
川とは言うものの、新郷用水の悪水落のひとつである、上記新郷用水が秩父鉄道にあたるあたりで、その先の水路がふたつに分かれている。そのまま南に進むのが新郷用水。秩父鉄道を少し東に戻り、そこから会の川へと繋がる水路が中新田川である。
秩父鉄道の築堤が田圃の真ん中に造られたため、悪水の流れが妨げ妨げられるのを避けるべく、この悪水落が造られたようである。

鷹橋
南方用水脇の道を進み、南方用水9号分水工を越え家中橋に。そこから先は、道ではないが会の川に沿って土手を進めそうである。草に覆われた土手道の草を踏みしだきながら進むと古き趣のある橋に出合う。
欄干にはアーチ状、親柱には三本線(川?)のデザインが施されている。この橋も昭和10年(1935)頃の架橋と言う。

南方用水が会の川から離れる
この鷹橋辺りから、源頭部よりずっと並走してきた南方用水が離れてゆく。如何なる趣の用水かと確認しながら進んで来たのだが、終始、鉄柵に囲まれたコンクリート護岸の用水に改修されていた。

行田バイパス
土手を進むと前方に行田バイパスが見えてきた。バイパスを横切ることは危険だろうし、なんとか橋の下を潜り抜けられることを願う。腰をかがめながらではあるが、橋下を通り抜けできた。





旧花見橋
行田バイパスの南、県道32号を越えて土手に沿って進むとちょっと目を惹くデザインの橋に出合う。県道32号に架けられた橋を花見橋と呼ぶため、こちらは旧花見橋と呼ぶようだ。なんとなく主客逆転していると思うのだが、それはそれとして石塔を想わせる親柱、アーチ型の欄干と、誠に美しい。
この橋も昭和10年(1935)頃の会の川河川改修に合わせて架けられた橋だが、橋の歴史は古く、嘉永年間(1850年頃)に石橋として再建されたとの。ということは、更に古い木橋が渡されていたのだろう。何故に?チェックすると、この道筋は羽生道とも騎西領道とも呼ばれる旧道であったようだ。
砂山
鷹橋辺りで会の川と離れて行った南方用水は砂山地区南端を進む。「砂山」とは言い得て妙である。かつて利根川の主流のひとつであった会の川が押し流した砂が堆積し形成した自然堤防の名残を感じる地名である。また、会の川の自然堤防の形成には浅間山の噴火にもその因があるとする。平安後期、12世紀初頭に起きた2度の浅間山大噴火により利根川に大量の火山灰が流れ込み、その流砂により自然堤防が発達したとする。
南方用水が埼玉用水から別れる羽生市桑瀬、上岩瀬、下岩瀬、そして砂山と2mほどの自然堤防痕跡も残るとのことである。

羽生道
幸手市南、日光御成道が合流し幸手宿へと向かう日光街道と分かれ、旧騎西町(現在の加須市)をへて羽生に向かう道のようである。詳細不詳。

島山寺
旧花見橋の下流左岸に社のマーク。ちょっと立ち寄り。自動車教習場脇を進むと、平坦地に左右に石群が並ぶお堂があり、その先に鳥居があった。お堂は島山寺。社は愛宕神社とのこと。
愛宕神社はほとんど集会所といったもの。島山寺には砂山出身の剣豪・岡田十松建立墓碑の案内があった。18世紀中頃から19世紀前半の人。22歳で神道無念流の免許皆伝を受け、神田猿楽町に道場・撃剣館を開き門弟三千人を越えた、と言う。門弟に藤田東湖、江川英龍といった知った人物の名もあった。
境内、といっても区切りもなく、フラットな平坦地ではあるが、そこの左右に立つ石仏群の中に、正面と側面に二体のお地蔵さまが彫られたものがある。女人講の寄進とのことである。

加須市境が唐突・不自然〈自然?〉に羽生市に入り込む
会の川筋に戻る。当日はなんということもなく川筋に沿って進んだのだが、メモの段階で地図を見ると、旧花見橋の少し下流で加須市境が「錐」状に羽入市域に貫入している。貫入している地名が行田市串作。上で「錐」と記したが、「串」状と言ってもいいかもしれない。この貫入は如何にも不自然、というか人工的とは思われないという意味では「自然」と言ってもいいだろう。
この不自然さ、と言うか「自然さ」には何らかの理由があるのでは?チェックすると、砂山から南に下る水路が見え、国道125号辺りまでは、水路の右岸が加須市、左岸が羽生市、国道125号の南は加須市と行田市の境に沿って下っている。
かつて会の川は砂山でふたつに分かれ、ひとつは東に向かう会の川、南に下る流れは日川(にっかわ)と呼ばれたようである。貫入部は会の川と日川によって羽生市と加須市が区切られたものであった。
日川
砂山で会の川と分かれた日川は加須市、久喜市、白岡市と下り蓮田市とさいたま市岩槻区の境界の蓮田市笹山で元荒川に合流していたようである。結構長い流路だが、現在は明瞭な水路跡は残っておらず、その大雑把な流路は、後世開削された古川落、見沼代用水、新川用水(騎西領用水)と進み白岡市の中心を南に下り、元荒川に合流したようだ。
白岡市内の流路ははっきりしないが、現在白岡市内を流れる一級河川の備前堀川・姫宮落川・庄兵衛堀川・隼人堀川・野通川、普通河川の高岩落川・三ケ村落堀などは東遷事業により低湿地化した日川跡を新田とするため開削された排水路とのことである。
串作(くしつくり)
「串」は細長く連なったもの、「作」はその状態の意とすれば、細長い自然堤防となったところ、と言った意味だろう。

志多見堰
川筋を下ると堰がある。右岸に用水を分けている。堰に併設されている橋は溜井橋とある。溜井とは川を土手で堰き止めた灌漑用水の池のこと。ちょっと気になりチェックすると、かつて堰の上流は溜井であったよう。国土交通省のHPには、「志多見・礼羽地区に水の便をはかるために、大河内金兵衛は元和7年(1621)に羽生地域の水を集め、沼を利用し志多見に溜井をつくり集水して灌漑に利用した。そして寛永2年(1625)に志多見の溜井から分水して志多見・馬内・礼羽・加須にわたる約3,800メートルの灌漑用水を開さくした。この用水を後の人々は金兵衛堀と称するようになった。
現在、溜井は埋め立てられ消滅し、また金兵衛堀も三面舗装となり当時の様相は、あまりうかがえなくなってしまった。金兵衛堀の当時の様相は礼羽地区においてよくうかがえるところが残っている」とあった。
昭和初期の会の川の河川改修時に溜井は埋められたのだろう。堰は金兵衛堀を分ける。堰の近くには河川改修の碑も建っていた。
志田見(しだみ)
地名の由来は低湿地であったことから「浸水(しだみ)」、逆に自然堤防から集落を見下せたから「下見」、名主の旧地の三村から一字を取ったなど、例によって諸説あり定まることなし。
大河内金兵衛
河内金兵衛久綱は寛永年間の羽生領の代官。忍城の城代も務めた人物で幕府老中・川越藩主松平信綱の父親である。

国道125号・自然堤防
志多見堰辺りで南に国道125号が接近し、東西に進む。この国道の道筋はかつての会の川自然堤防とのこと。南方用水が北端土手とすれば、国道筋が南端の土手であったのだろう。その幅は結構広い。現在は6m程度の「悪水落」ではあるが、かつては大きな流れであったと推察できる。

上で浅間山の噴火の火山灰が利根川を下り、その流砂により自然堤防を形成したとメモした。更にこの辺りでは赤城下しなどによる風砂などが、自然堤防を丘陵に拡大し内陸砂丘を形成したとも言われる。その比高差5mほどもある箇所もあるようだ。
南の国道125号を見遣りながら会の川に沿って進む。言われてみれば、といった「高み」ではあるが、言われなければわからないといった程度の、普通か、それより少し高い自然堤防もあるが、まったくの平坦地となっているところもある。土手が切り崩されたのかもしれない。

御河渡橋
羽生市と加須市の境をなす会の川の土手左岸を進み、右手に松林が見える如何にも自然堤防跡らしき箇所に。ちょっと寄ってみたいのだが、日も暮れてきた。丁度区切りのいいところに橋があり、松林の自然堤防には次回訪れることにして橋を左に折れ南羽生駅に戻ることに。
御河渡(ごかと)橋
この橋は御河渡橋。欄干や親柱などは古そうに見える。架橋時期は不明。

南羽生駅
御河渡橋を北に進み、南方用水を交差し、成り行きで東武伊勢崎線・南羽生駅に向かい、一路家路へと。 戯れに、川俣駅の名にフックがかかり、群馬県邑楽郡を歩き、会の川の源頭部に復帰するまで2時間ほどかかり、結局当初の予定していた会の川と浅間川の合流点までは辿りつけなかった。

次回は、御河渡橋の南に見えた、如何にも自然堤防跡らしき松林を訪ねた後、会の川と浅間川の合流点である加須市川口辺りまで進もうと思う。

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