月曜日, 2月 06, 2017

埼玉 旧利根川散歩 会の川:その① 会の川締切跡へ

先日、中川から隅田川へと抜ける古隅田川跡を歩いた。一部親水公園はあるものの、ほとんどが暗渠となって葛飾区と足立区の境を分けるこの水路跡は、かつての利根川の川筋。近世以前、利根川は江戸湾へと流れ込んでいた。
その利根の流れが現在の銚子へと流れることになったのは江戸時代に始まった利根川の東遷事業による。利根川による洪水から江戸の町を守るため、旧水路跡の湿地を利用した新田開発、また海の難所である銚子沖を避け、銚子と江戸を川で結ぶ舟運のためといった目的で、江戸に流れ込んでいたその流路を現在の銚子へと下る流路へと瀬替えした、と言う。
古隅田川を歩きながら、ふと、どうせのことなら、利根川の旧流路を歩いて見ようと思い立った。が、そもそも利根川の旧流路って?
旧利根川の流路は散歩の折に触れ、しかし気まぐれ・断片的には歩いている(権現堂川から中川に中川そして葛西用水上流部中川水系合流点:越谷から吉川に)。気まぐれ・断片的ではあるが、それはそれなりに利根川旧流路に関する「知識の蓄積」もあったはずではあるのだが、今となっては記憶の彼方。昔の散歩のメモを読み返し、大雑把ではあるが描いた東遷事業以前の利根川の水路は以下のルートである。



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旧利根川の流れ
Google Earthで作成
群馬県の水上にその源を発した利根の流れは、関東平野に入ると、現在の「一本化」された川筋とは異なり、近世以前は八百八筋と呼ばれるほど、派川が多く、乱流していたようだ。
とはいうものの、江戸に幕府が開かれる頃には、その中でも利根川の主流は二つほどであったようで、そのひとつが埼玉県羽生市と群馬県邑楽郡明和町を結ぶ昭和橋南詰あたりで、現在の利根川筋から離れ南に下る「会の川」筋と言われる。
会の川筋からの流れ
「会の川」は、羽生領上川俣(現在の国道122号に架かる昭和橋南詰)で利根川から南に分かれ、行田市と羽生市の境界線を走り、羽生市砂山あたりで東に流れを変え、加須市南篠崎と大利根町大桑の境界で葛西用水筋(私注:近世以前にはないが便宜的に)に下り、加須市川口に至る。
そこで流れはふたつに分かれ、ひとつは葛西用水筋から大落古利根川を下り松伏町下赤岩で現在の中川と合わさり、中川を下り上述葛飾区亀有で古隅田川を流れ隅田川に注ぐ。
加須市川口で二つに分かれるもうひとつの流れは、そのまま東に進み島川筋、権現堂川、庄内古川と進み、松伏町金杉で現在の江戸川に合流する。こちらの川筋を利根川の本流とする記事も多い。
浅間川筋
「会の川」とともに旧利根川のもうひとつの主流であったのが浅間川筋。上記川俣で会の川を分けた利根川は東に流れ、現在川筋は消え去っているが、埼玉県加須佐波と対岸の埼玉県加須市下川辺町をつなぐ埼玉大橋の少し上流から南に下ったようである。この流路が浅間川筋である。地形図で等高線ごとに彩色すると、なるほど当時の微高地・自然堤防の「高み」が残る。その浅間川は加須市川口で会の川と合わさり、上記南流・東流のふたつの流れに分かれ江戸に下ったようである。

現在利根川はこの浅間川が南に下った佐波から西に向かっている。近世以前には加須市佐波から江戸川が現在の利根川から分かれる辺りまで「利根川」はなく、その流路は江戸期の利根川東遷事業によって人工的に開削されたものである。
利根川を銚子に流すべく、常陸川、といっても上流部は湿地帯といったものであたようだが、ともあれ、その常陸川筋に繋ぐため佐波から権現堂川辺りまでを開削(「新川通り」と呼ぶ)、次いで、権現堂川辺りから江戸川分流点辺まで(「赤堀川」と呼ぶ)人工的に開削した。

渡良瀬川
近世以前には佐波から、江戸川が現在の利根川が分かれる辺りまで川筋はなかった。ということは、現在権現堂川辺りで利根川に合流している渡良瀬川も近世以前は利根川の支流ではなく、この河川も関東平野を南に下り江戸湾に注いでいた。
そのルートは権現堂川筋を下り、加須市川口で合わさり東に島川筋、権現堂川筋へと向かった「会の川」と「浅間川」の流れを合わせ、庄内古川筋を下り、松伏町金杉で現在の江戸川(当時の太日川)に合流したようである。
因みに、松伏町金杉付近に源頭部を持っていた太日川筋を北の関宿付近まで人工的に開削した水路(関宿~金杉間約18km)を江戸川と称したが、開通以降、その川筋全域をも江戸川と称するようになった。

近世以前は利根川も渡良瀬川もかつては江戸湾に注いでいた、ということである。大雑把ではあるが、近世以前江戸湾に注いでいた利根川と、ついでのことではあるが、渡良瀬川のルートをまとめた。

ということで、古利根川散歩はその始点である「会の川」からはじめ、次いで「会の川」に合わさった「浅間川」を辿り、葛西用水から大落古利根川を下り中川を経て上述古隅田川まで下っていこうと思う。
会の川も浅間川も利根川東遷事業で堰止められ、利根川を西へと背替えする端緒となった河川である。会の川・浅間川から始め、古利根川筋を実際に歩き、これら河川と東遷事業の関連、廃川となった川筋が現在もその流れを保つ所以、古利根川筋に合わさる幾多の用水の役割など、常の如く、なんらかフックが掛かったこと・気になったことをメモしてみようと思う。



本日のルート;東武伊勢崎線・川俣駅下車>宗龍寺>厳島神社>谷田川筋に・本郷樋門>谷田川を西に>三五詠歌碑>用水路を南に下る>教学院>邑楽用水に合わさる>利根川の堤>昭和橋>川?締切跡>史跡 川俣関所跡

東武伊勢崎線・川俣駅下車
利根川東遷事業のスタートとも言われる、「会の川締切跡」は利根川を挟む埼玉県羽生市と群馬県邑楽郡明和町を結ぶ昭和橋の南詰脇にある。東武伊勢崎線に乗り、最寄りの羽生駅に向かう。
羽生駅に到着した時、次の駅名が「川俣」とある。なんらか利根川が分流した痕跡でもあるのかと、羽生駅下車を急遽取りやめ、そのまま川俣駅まで向かうことに。
羽生駅を出た電車は利根川を渡り川俣駅に。駅を下り、辺りを見渡す。平坦な田園地帯の真ん中で「川㑨」の雰囲気はない。川㑨駅のあるのは明和町。この明和町を含め、東から大泉町、邑楽町、千代田町、板倉町の属する邑楽郡は、大雑把に言って往昔、八百八筋とも言われ、幾重にも別れた利根川、そして渡良瀬川の流れが造り出した沖積低地のようである。

邑楽
「おうら」と読む。由来は定かではないが、古くは「於波良岐(オハラギ)」と読まれた、とか。「オ(接頭語)+ハラ(原)+ギ(場所を現す接尾語)」>「オフラ」>「オウラ」と転じたとの説、野原に木が茂っていた「大原木」からとか諸説あるようだ。
邑楽郡自体は古代上野国14郡のひとつにあった地名。明治11年(1878)の町村制施行時に、古代の地名を行政区画として復活させたのだろう。

宗龍寺
「川㑨」たる所以は何処に?地図を見ると、北に谷田川が流れ、そこには更に北から幾つもの支流が合わさる。川㑨の「痕跡」を求め谷田川に向かう。 成り行きで北に進むと、四差路交点に参道入口のある曹洞宗宗龍寺。如何にも唐突な参道。かつては田圃の中の一本道であった参道が、車道建設・駐車場整備によりかくの如き姿となったのだろうか。「龍」の字が乱流する利根の流れのアナロジーかと妄想する。

厳島神社
道なりに東に進み、南大島浄水場を越えると厳島神社がある。道脇に上州佐貫荘大嶋郷厳島と刻まれた石塔と道祖神が建つ。佐貫荘とは現群馬県邑楽郡明和町大佐貫の旧地名である。 弁天池に架かる神橋を渡りお参り。社殿裏に船玉神社、八幡宮、長良神社、稲荷大明神、神明宮、天満宮、菅原神社、八坂神社と刻まれた石柱が建つが、明治40年(1907)に合祀された社を、昭和50年(1975)に建てられたもののようである。
厳島神社の祭神である宗像三女神のうち、市杵嶋姫命は神仏習合で弁天様と同一視された。で、その弁天様は本家のインドでは河の神と言う。ここでも「水」に関わる社が現れた。

谷田川筋に
ぼちぼち谷田川筋に出ようと、畑地の畦道脇に小さな用水路を見つけ、そこを川筋に向かうと谷田川の堤に出る。そこには本郷樋門(ひもん)があった。
樋門
樋門は用水の取水や内水(雨水・水田の水)の排水に使われる施設のうち、堤防の中にコンクリートの水路を通し、そこにゲート設置されているものを指す。排水を目的とする場合、大水で川の水位が高くなった場合、川の水が逆流しないよう設けられている。

地図を見ると谷田川の源流点は邑楽郡千代田町の水田地帯に見える。水田の悪水落、沖積低地の湿地・沼を源流とすると思われる谷田川には北からいくつもの川が合わさる。直ぐ東に分福茶釜で知られる館林市の茂林寺辺りの低湿地らしきところから下る水路、西には近藤沼から下る近藤川が見える。川筋に幾つもの低湿地・沼らしきものも見える。
邑楽郡は利根川・渡良瀬川の氾濫原である沖積低地と、その北に邑楽館林台地と呼ばれる内陸砂丘を基盤とした洪積台地があり、川はその台地から下る川、また流路定まらぬ利根川・渡良瀬川によって浸食された低湿地・沼を水源とするのだろう。
さらに地図を見て、なんだか興味深いのは、北から注ぐ川以上に、谷田川から南に下り利根川に繋がる水路が見られることである。気になりチェックすると、洪水時には渡良瀬川は水位が高くなり自然合流できないため、流域から谷田川に注いだ水を利根川に排水機場によって人工的に排水しているようであった(勿論渡良瀬川にも排水機場はあるだろう)。

谷田川と利根川東遷事業
上に谷田川には北からいくつもの河川が合わさり、谷田川から南に利根川へと結ばれる水路は谷田川の排水路としての機能が多いとメモした。が、これは近世以降、利根川の護岸工事が完成してからの話ではあろう。かつて八百八筋と沖積低地を乱流していた頃、利根川の主流のひとつが谷田川の下流部で合わさり、渡良瀬川に合流していた。現在では廃川となっている「合の川」がそれと言う。
合の川
川俣で会の川を南に分け、東に進んだ旧利根川は、上述浅間川筋として南に下る少し手前、邑楽郡板倉町大高嶋と加須市北川辺町飯積の辺りで北に向かい、板倉町海老瀬辺りで谷田川に合わさり渡良瀬川に合流していた。この流れを合の川と称する。
現在利根川の北に唐突な感じで埼玉県加須市域が残り、そこが埼玉県と群馬県境となっているが、この県境がおおよそ合の川の流路痕跡であろう。 近世以前のこの辺りの利根川の主流は、羽生市川俣から南に下る「会の川」、その少し下流加須市佐波で南に下る「浅間川」とメモした。その間に北に向かい渡良瀬川に合流するこの「合の川」の川筋もあったわけだが、その流れは渡良瀬川水系として「利根川」の主流から一応外しておく。

現在の利根川は「会の川」・「浅間川」筋から渡良瀬川の合流点の権現川辺りまで水路が通っているが、それは利根川東遷事業によって人工的に開削されたもの(「新川通り」)。昔の行政区画は自然の境である川を境にすることが多いが、現在の利根川の北に合の川筋に沿って行政区境があったということは、新川通りと称される川筋が人工的なものであることを物語る。

谷田川を西に
谷田川を茂林寺の湿地辺りから下る水路の合流点まで進むが、川筋と道が離れよく見えない。本来の目的は「川俣」の痕跡を探すことではあるが、それらしきものも見つからないため、そろそろ本日のスタート地点である羽生市の川俣締め切り跡に戻ることにする。
谷田川の堤に沿って西に進み、宗龍寺裏で車道に出て先に進むと東部伊勢崎線の線路で行き止まり。道を南に下る。



三五詠歌碑
道を南に進み東部伊勢崎線の踏切を渡ると進行方向にお堂が見える。とりあえずお参りしようと進むと、生垣の脇に「明和町指定文化財 三五詠歌碑」の木柱が立っていた。傍にそれらしき歌碑は見当たらない。
メモの段階でチェックすると;文政6,7,8年(1823)と、連続して起こった利根川須賀地先の堤防決壊当時の、人民苦難の状況と救済復旧に尽力した方々の威徳を記したもので、本居泰平の撰文と15首(3x5)の和歌が刻まれる、という。本居泰平は本居宣長の養子。天保4年(1883)に建てられ、と。歌碑は当時名主であった生垣のある家の敷地内にあるようで、実物を見ることはできなかった。

用水路を南に下る
三五詠歌碑の東に稲荷の社と趣のあるお堂が見える。なんとなく民家敷地のようにも思えるのだが、畑の畦道を進みお堂とお稲荷さまに御参りし東に出ると谷田川から南に下る水路に当たる。
水路は谷田川から取水されている。灌漑用水路なのか排水路なのか不明であるが、とりあえず水路に沿って南に下る。





教学院
南に下り、川俣駅の西側辺りに教学院がある。境内塀の外に青面金剛像や地蔵菩薩の石仏が祀られる。境内にちょっと立ち寄り、本堂にお参り。如意輪観音像など石仏二体が祀られるお堂もあった。
当日は知らず通り過ぎたのだが、境内には館林騒動で犠牲となった三義民の供養塔があったようだ。
館林騒動
享保3年(1718)、館林城主が困窮した財政難を賄うため領民に重税を課す。これに抗し一揆をおこした領民は江戸藩邸に強訴。結果、年貢は半減されたが中谷村(明和町)、中野村(邑楽町)、田谷村(館林市)の名主3名が翌年斬首に処せられる。当初館林市内の密蔵寺に供養塔が建てられたが、破壊されたため、このお寺さまに再建された、とのことである。

邑楽用水に合わさる
水路に沿って南に下ると水路脇に案内があり、「群馬県営排水対策特別事業」とあった。どうもこの水路は谷田川の排水路のようである。で、そのまま利根川に流れるのかと思ったのだが、その先で東西に走るしっかりした水路に合流した。この水路は何?チェックすると「邑楽用水」とあった。
邑楽用水
利根大堰から取水し、大分水工で180度向きを変え、北に流れながら利根川を伏越で交差し、利根川左岸を平行するように東へ向きを流れ、流域の周囲を灌漑する。
邑楽用水はいくつかの用水路を分岐し、随所に設けられた調節堰を通過しつつ利根川の左岸を並行して流れ、千代田町、明和町、板倉町を経て埼玉県加須市(北川辺地区)に至り終点となる。 途中新堀川を掛樋(河川の上を通す水路の橋)で、谷田川放水路を伏越で交差する。流路幅は1.7 m - 3.1 mほどある(Wikipediaより)。

利根川の堤
邑楽用水を越え成り行きで利根川の堤に出る。昔の利根の川幅は不明だが、流路を一本化した現在の利根川は堂々とした川である。埼玉側に戻るべく昭和橋へと向かう。





川俣宿
と、堤下に結構な構えの御屋敷が見える。その時は、なんだろうとは思いながらも昭和橋へと急いだのだが、メモの段階でチェックすると、そのお屋敷は日光街道脇往還・川俣宿の旧本陣塩谷家の屋敷であった。
川俣事件記念碑
現在古き趣の宿場町の雰囲気は残らないようだが、川俣宿の邑楽用水とクロスする辺りに川俣事件記念碑、川俣事件衝突の地記念碑があるようだ。足尾鉱毒事件で被害を受けた農民が、政府に請願するため東京に向かう途中。この地で前進を阻止する警官隊と衝突した事件であるが、常の如く、後の祭りではあった。

川俣?
川俣という駅名に惹かれ、思わず一駅乗り越し川俣駅周辺を辿ったが、最後の最後、それもメモの段階で「川?」にゆかりの「川?宿」にたどり着いた。
それはそれでいいのだが、利根川を隔てた埼玉県羽生市にも「川?」と言う地名がある。川を挟んで「泣き別れ」ってなんとなく不自然。今は利根川の流れで埼玉県と群馬県に分断されているが、その昔、利根川の流れが群馬側川?地区の北を流れていたといった記録があれば収まりがいいのだが?
あれこれチェックすると、かつて利根川は川俣辺りで明和町の北を流れていたとか、十字の流路となっていたとの記事もあったが確たるエビデンスをみつけることはできなかった。
昔の行政区域は、川など自然の区切りをその境とすることが多いわけだから、その昔利根川は川俣宿の北を流れ、群馬側も埼玉側の川?は同じ地域であったが、江戸の頃にはその流路が変わり群馬と埼玉の川?地区を分断する流れとなった、と思い込むことに。
ちなみに、「川?」を辿るきっかけとなった川俣駅であるが、当初利根川の南堤防下に駅があったものが、利根川橋梁の開通にともない、群馬側に移されたとのことであった。

思わず辿った「川俣」探索の散歩ではあったが、「川俣」の確たるエビデンスはわからなかったにしても、谷田川と利根の旧流路である合の川(谷田川自体が旧利根川流路の時期もあったかも)、足尾鉱毒事件の川?宿などを知ることができたことをもって、良しとする。

昭和橋
堤を進み国道122号に架かる昭和橋を埼玉へと渡る。Wikipediaに拠ると、この橋は最初昭和4年(1929)に架けられた。昭和橋の名の所以であろうか、橋長574.5メートル、幅員は4.5メートルの木橋、だったとか。
その後昭和37年(1962)に幅7m、平成18年(2006)に2車線の橋とし暫定開通、平成26年(2014)に現在の4車線の橋として完成した。

川俣締切跡
昭和橋を渡ると南詰めに「道の駅 羽生」がある。広い駐車場の東にある情報コーナー兼休憩所の建物と堤上を走る道路の間の広場に「川?締切跡」の石碑が建っていた。戯れに川俣駅まで進んだため、本来のスタート地点である会の川締切跡に戻るまで、おおよそ2時間かかってしまった。
それはそれとして、石碑傍にあった案内には、

「県指定旧跡 川俣締切跡(昭和38年8月27日);
川俣締切跡は、それまで分流していた利根川流路のうち会の川筋を文禄3年(1594)に締め切った跡である。
近世以前の利根川は、武蔵・下総両国の国境を南へ流れ、現在の東京湾に注いでいた。千葉・茨城両県境を東流し、千葉県銚子市から太平洋に注ぐ現在の流路は、利根川東遷事業と呼ばれる近世前期の大規模な流路変更と河川改修によって付け替えられたものである。この東遷事業は、水害からの江戸の防備、関東平野の開発、物資輸送のための船運水路の整備などを目的としたといわれ、徳川氏・江戸幕府によって、半世紀以上にわたって段階的に行なわれた。羽生領新郷川俣付近における会の川筋の締切は、江戸開府前に行われ。その最初の工事であった。
当時、利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して現在の加須市志多見、加須を経て川口へ向かう会の川筋と、現在の河道を東流する一流とに分かれていた。文禄元年(1592)忍城主となった松平定吉の命を受け、付家老の小笠原三郎左衛門吉次が指揮して、新郷に堤を築いて会の川筋を締切り、同三年に利根川本流を東流させたと伝えられている。この工事は困難をきわめ、僧侶が人身御供として入水したという伝説も残されている。この締切工事により、会の川や古利根川が利根川から切り離され、以後、江戸や流域の治水がはかられるとともに、利根川流域の広大な新田開発が進められていった。(石碑には史跡とあるが、場所の移動に伴い旧跡に指定替えとなった。)
平成十六年四月一日 羽生市教育委員会 埼玉県教育委員会」とあった。

徳川家康が征夷大将軍となり徳川幕府を開いたのが慶長8年(1603)。案内にあるように、会の川の締切は開幕府の前、天正18年(1590)に江戸に入城して4年後のことである。
忍藩主松平忠吉の命によりと記述があるが、1594年とすれば忠吉は未だ11歳。そんな子供が下知したとも思えない。付家老小笠原三郎左衛門が指揮し翌年には工事は完成し、その主たる目的は締切後の湿地を利用した新田開発にあったとされるが、それも家康の下知のもと関東代官頭である伊奈忠次の策定した利根川治水構想の枠組みの中で実施されたものではなかろうか。
二ケ領用水
家康が治水事業を重視したケースは、昨年歩いたニケ領用水でも見られた。二ヶ領用水は、徳川幕府直轄の天領である稲毛領と川崎領を流れた全長32キロ(支線まで含まれているかどうか不明)の灌漑用水であるが、用水奉行の小泉次太夫が家康より六郷領、稲毛領、川崎領の治水事業普請を下命されたのは天正18年(1590)。未だ秀吉の小田原攻めの真っ最中のことである。
その陣中にて秀吉より三河・遠州・駿河・甲斐・信濃の150万石から、関東6国・240万石へ移封を伝えられた家康は、新封地の状況を把握し、多摩川両岸の開発が焦眉の急として、今川・武田そして徳川へと仕え治水に実績のある家系の次太夫にこの任務をアサインしている。
小泉次太夫と同じく、家康の命により開幕以前より、洪水から江戸を守り、締切跡の河道湿地の新田開発を行い、銚子と江戸との河川による舟運開発を目した利根川の治水構想を策定し実施したのが伊奈忠次ということだろう。
散歩の折々、伊奈氏ゆかりの事績に出合うことが多い。伊奈氏の赤山陣屋を訪ねた散歩が思い起こされる。

〆切神社
川?締切跡の石碑と並んで「〆切神社」の石碑がある。川俣締切跡の案内に「この工事は困難をきわめ、僧侶が人身御供として入水したという伝説も残されている」との既述があったが、〆切神社はこの伝説とかかわりがあるようだ。 難工事を成功されるには「人柱」が必要と、自ら濁流に身を投げた行者を供養し建てた祠が朽ち果て、明治2年(1869)に(異説もある)、祠の代わりに石標を建てたとのこと。
本来は利根川の100mほど下流の土手の麓にあったものが昭和橋工事の際にこの地に移され、その石碑の脇に川俣締切跡の石碑も建てられたとのこと。ということは、会の川締切口はこの道の駅の少し東ということになる。

作詞家関口義明氏の顕彰碑
石碑のある建物前の広場東側に「羽生の作詞家関口義明氏の顕彰碑」があった。「どこかに故郷の香りを乗せて・・・」との聞きなれた曲が流れる。「あゝ上野駅」である。井沢八郎さんが唄っていたように覚えている。
昭和29年(1954)から50年(1975)にかけて集団就職列車が運行されていたが、数多くの中学卒業者(高校卒業者も)が東北方面からは上野駅に降り立った。当時銀行員であった関口義明氏がその情景を詞にしたものである。集就職列車の情景を思い浮かべ得る年代はどの頃まであろう。

道の駅 羽生
太陽光発電で流れる「あゝ上野駅」の唄を聞きながら「道の駅 羽生」の情報コーナー兼休憩所に立ち寄り。利根川の堤を走ってきたサイクリストが多数休憩している。館内の展示には「新郷川俣関所」とその「高札文」そして「日光脇往還」の案内があった。
新郷川㑨関所
「新郷 川㑨関所は慶長15年(1610)、中山道鴻巣から忍(元行田市)を通り、新郷宿、館林、日光などに行く日光裏街道の新郷川?の利根川渡船場に造られた関所です。その場所は現在水害のため河川改修が行われ川底になってしまいました。
この関所は、忍藩士4名の番士が世襲制で勤めていたといわれています。周りに土手を築き、木戸門が二か所、その奥に本番所、見張り番所、高札場、道具立てなどの施設がありました。
この街道は、元和元年(1617)、徳川家康の遺体が久能山から日光山に移されるとき用いられた道として知られています。また、徳川四代将軍家綱、十代将軍家治、十二代将軍家慶など多数の有名武将も利用しました。当地の本陣や、番士の家には県指定の文化財として多数の関所関係資料が保存されています。
高札
「高札 掟・条目・禁令などを板に書き、高札場に提示したもの」の説明とともに、
「定
一、此関所を通る輩 番所の前にて笠 頭巾をぬぐべき事
一、乗物にて通る面々は 乗物の戸をひらくべし 但、女乗物は番の輩(やからの) 差図にて女に見せ可通之事(これをとおるべきこと)
一、公家・門跡衆・諸大名 参向の節は 前かどより 其沙汰可有之間不及改之
(そのさたあるべくのあいだ これをあらたむるにおよばず) 自然不審の儀 あらば可為各別事(かくべつたるべきこと) 右可相守此旨者也(みぎ このむね あいまもるべきものなり) 仍執達如件(よって しったつ くだんのごとし)
貞享三年四月 奉行」と書かれた高札が記されていた。

日光脇往還
「中山道鴻巣宿から別れて忍(元行田市)を通り、上新郷、新川?関所を経て館林、佐野方面に至る道路をいいました。
この街道は日光の警備に当たっていた八王子同心が八王子から川越に出て忍城に入り、川俣で利根川を渡っていたので、八王子同心道とも言われておりました。館林、佐野方面に向かう重要な道でありました」と案内にある。
◇新郷宿
利根川の北に川俣宿があったが、南には新郷宿があった。この新郷宿は館林宿から忍宿に向かう場合だけの変則的な宿場であったようである。新郷という地名はこの地を舞台とした田山花袋の『田舎教師』にも登場する。関係ないけど田山花袋の紀行作品『東京近郊 一日の行楽』は、散歩を楽しみとする方にはお勧めの書である。
◇八王子千人同心
八王子千人同心とは、徳川家康の江戸入府に伴い、甲斐と武蔵の国境警備のため、武田家・北条家に遺臣を核に農民・浪人を加えて編成された、100名一組を十組、計1000名の部隊のこと。その後、世が治まり、その役割も家康が眠る日光の「火の番」に変わり、八王子から日光へと赴くことになる。 人数は100名から始まり、50名になり、勤番日数も50日から半年など変化はあるものの、217年の間に、1,030回日光に向かった、と。40里(160㎞)を3泊4日で向かう日光勤番のために整備したのがこの日光脇往還である。日光火の番街道、八王子街道、館林道、日光脇街道などとも呼ばれたようである。
八王子湧水散歩の折に出合った八王子同心屋敷跡などが想い起こされる。

史跡 川俣関所跡
「道の駅 羽生」の情報コーナー兼休憩所にあった川俣関所跡にちょっと立ち寄り。昭和橋南詰めの少し上流に石碑が建つ。案内には
「史跡 川俣関所跡 川俣関所跡は慶長年間(1596~1615)に設けられ、明治二年(1869)に廃止されるまでの約二百六十年間続いた。この関所は江戸城警備のため設けられ、一般に「出女に入鉄砲」といわれるが、江戸に人質になっている諸大名の婦人の脱出を防ぎ、また江戸の安全をはかるため鉄砲のはいるのを厳しく取り締まった。日の出に開門、日の入りに閉門し、夜中は一般人の通交を禁じた。
関所は利根川沿岸に設けられたものであるが、河川改修のため今ではその跡は川底になってしまった。
関所跡は、はじめ史跡として県の指定をうけその後昭和三十二年の改修工事により現在の地に碑が移転され、昭和三十六年九月一日集積と指定変更された。 昭和三十六年九月一日 羽生市教育委員会」とあり、その脇には「道の駅 羽生」の情報コーナー兼休憩所にあった「高札」もあった。
当日は国道122号が会の川とクロスする手前まで進んだのだが、あれこれメモが長くなった。今回はここまでとし、会の川を下るメモは次回に廻すことにする。


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