金曜日, 6月 23, 2017

伊予 歩き遍路 :四十三番札所・明石寺から四十四番札所・大宝寺へ ②:大洲から内子まで

四国霊場四十三番札所・明石寺から久万高原町にある四十四番札所・大宝寺までの80キロ以上ある遍路道。その西半分を歩き、以前歩いた東半分の遍路道と繋ぐ散歩の2回目。初回は四国霊場四十三番札所・明石寺から鳥坂峠を越えて大洲まで歩いた。
2回目は大洲から既に歩き終えた東半分、四十四番札所・大宝寺への峠越えの始点とした内子の石浦へと向かった。が、出だしの大洲で同名の永徳寺違など二度ほど道間違いで時間をロスし、最終地点の石浦と繋ぐ数キロの水戸森峠越え手前で時間切れとなってしまった。
1回目で見逃した鳥坂峠を下った林道(大正9年(1920)の県道)の道標の確認、またメモに際してわかった大洲の子安大師堂の道標と合わせ、次回もう一度訪ねることになるだろう、か。
本日のルート;予讃線・内子駅>大洲・柚木尾坂の道標>大洲神社>旧志保町の遍路道>おおず赤煉瓦館>肱川橋>大洲市内を抜け国道56号に>永徳寺間違い>霊場十夜ヶ橋脇の道標>霊場十夜ヶ橋 永徳寺の徳右衛門道標>新谷(にいや)古町の三差路>新谷に>新谷の徳右衛門道標>高柳橋>金毘羅橋>矢落橋>遍路休憩所>二軒茶屋の大師堂>黒内坊の徳右衛門道標>土径を駄馬池へ>思案堂の道標>郷之谷橋>栄橋から本町通りを進む>八日市・護国地区>清栄橋>常夜灯と道標>福岡大師堂の道標>麓橋>五城橋>水戸森峠取り付口

予讃線・内子駅
今回は大洲からの散歩開始。終点近くの内子の駅に車をデポし列車で大洲に向かうことにした。内子の駅前にロータリーがあり、駅のスタッフの方に確認すると駐車は問題なし、とのこと。有り難い。

大洲・柚木尾坂の道標
列車で大洲に向かい、駅を下りて前回の終点である大洲の町への入り口、柚木尾坂の道標地点に歩を進め2日目の散歩を開始する。






大洲神社
遍路道は道標から直進し大洲神社の参道前に出る。拝殿は長い石段を上り、肱川に突き出た尾根筋の突端にある。大洲神社は恵比寿・大黒を祭神とする商売繁盛の神。鎌倉時代の元弘元年(1331)宇都宮氏が大洲城を築いたとき、下野国の二荒神社より勧請され太郎宮として祀られる。その後も戸田・藤堂・脇坂・加藤と続いた藩主の庇護を受けた社とのことである。




旧志保町の遍路道
大洲神社の参道前を突き切って北に向かう遍路道は旧志保町(現在大洲市大洲)の古い町並みに入る。「えひめの記憶」には、「ここから遍路道は、大洲神社の参道前を通って志保町と呼ばれる町並みに入るが、その通りは古い家並みが残り、昔の繁栄ぶりを今に伝えている。
遍路道は、志保町の通りから中町三丁目の通りかまたは本町三丁目の通りかで左折するか、あるいは肱川の左岸の堤を進み、旧油屋旅館(現在、旅館にしかわ)の前に出る」とある。
中町も本町も志保町と同じく大洲市大洲となっており、また旧油屋旅館(現在、旅館にしかわ)も場所が変わり、現在はこの地にはなかった。
この志保町、中町などの家並みは江戸の頃、17世紀中頃の家並みとほとんど変わっていないようである。肱川と並行して東西に、丘陵部に向かって垂直に南北の通りが交わる。
江戸の終わりの頃の町屋の戸数は400戸弱。商家が軒を並べていたようだ。遍路道として、大洲神社参道前を南から北へと歩いた志保町(塩屋町)は、藤堂高虎が、塩売買のため城下町のうち最初に建設させた町とのことであり、木蝋屋、生糸製造元、問屋、料理屋、みやげ物屋などが道路沿いに軒を並べた、と。

おおず赤煉瓦館
赤煉瓦館と河原大師堂
油屋
街並みに張られた遍路シールの案内に従い、旧志保町から左に折れる遍路道を進み、おおず赤煉瓦館に。「えひめの記憶」には「旅館(私注;油屋旅館)の向かいには、煉瓦(れんが)造りの旧大洲商業銀行(現在、おおず赤煉瓦館)があり、その横に「河原大師堂」がある。地元の人の話では、この大師堂は、昔は肱川(ひじかわ)の河原にあったが、幾度か場所を変えて現在の場所に移されたもので、川の安全に関係を持つものであるという。
大正2年(1913)に肱川橋が開通する前から営業していた油屋は、増水のために幾日も足止めをくった人も宿泊して大変にぎわっていたとも伝えられている」とある。
おおず赤煉瓦館の北に、まことにささやかな祠とも言うべき「河原大師堂」があった。
肱川の渡し
「えひめの記憶」には「『四国邊路道指南』に(大ず城下、諸事調物よき所なり。町はずれに大川有、舟わたし。」と記されている肱川渡しは、明治以後、城下(しろした)渡し、桝形渡し、油屋下渡し、柚木下渡しの公認の四渡しがあった。 それぞれの渡しには、一隻の船と一人の船頭がいて、大洲町と中村側、大洲町と柚木村(菅田(すげた)方面の人の通路)を往来する人々を渡していた。
船が向こう岸で客待ちしている時は、こちらへ客を運んで来るまで川べりで待たねばならなかったので、急ぐ人の中には裸になって浅瀬を渡る者もいたという。
その後、肱川に橋をかける夢の実現を願う人々の中には、明治6年(1873)になると、油屋下渡しに13隻の川舟を杭でつないで横に並べ、洪水になると容易に取り外しのできるように板を並べた簡単な浮き橋を考案した。この橋は遠望すると形が亀の首をさしのべたように見えるところから一般に浮亀橋と言い、肱川橋が開通するまでの間、交通上の重要な役割を果たしていた。
しかし、大正2年(1913)に肱川橋が完成すると、遍路はこの新しい橋を渡るようになった。そのため中町三丁目から中町二丁目を通って国道56号に合流する中町一丁目の入ロに、大正4年建立の「すがわさんへ十三里 へんろ道」と刻んだ道標があったとされるが、現在は行方不明になっている」とある。

肱川橋
肱川に架かるその肱川橋を渡る。左手に大洲城が見える。私の子供の頃に大洲に城は建っていなかったのだが、数年前大洲に遊びに行ったとき天守が建っていたのを見て驚いたことがある。
城は明治維新に本丸の天守・櫓の一部を残し破却され、その天守も明治21年(1888)に老朽化により解体されたが、平成16年(2004)に復元されたようだ。天守は資料を基に当時の姿を正確に復元したとのことである。

「えひめの記憶」に拠れば、「大洲は藩政時代には加藤氏6万石の城下町として栄えていた。文化2年(1805)に土佐朝倉村の兼太郎が記した『四国中道筋日記』によると、「いろいろ売物有、宿屋・はたご(旅籠)・きちん(木賃宿)、三つニて多し」とある。
また、明治40年(1907)に遍路した小林雨峯は、『四國順禮』の中で、「此町(このまち)、肱川(ひぢかは)に臨(のぞ)みて、小繁華(せうはんくわ)の土地(とち)なり。(中略)雨合羽(あまがっぱ)の名所(めいしょ)ときヽて、鹽屋町(しほやまち)に求(もと)む。(中略)上等旅館(じゃうとうりょくわん)に泊(とま)らんとして、二三軒尋(げんたず)ね合(あは)せしも悉(ことごと)く拒絶(きよぜつ)され、合羽屋(かっぱや)の紹介(せうかい)にて、すぐ前(まへ)の北岡屋(きたおかや)と云(い)う宿屋(やどや)に陣取(じんど)る」と記している。遍路はここ大洲で諸物資を調達したり、宿泊していた模様である」とある。
大洲城
肱川を眼下に望む大洲城は、鎌倉時代末期、元弘元年(1331年)に守護として国入りした宇都宮豊房によって築城され、8代豊綱まで約200年間宇都宮氏が代々この城を継いだが、天正13年(1585)の秀吉の四国征伐で、小早川隆景により城は落ちた。
その後、小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と領主がかわり、この時期に近世城郭としての大洲城の基礎が固められとのことだが、特に築城家として名高い藤堂高虎等によって大規模に修築がなされた、と。
大坂の陣後は、加藤貞泰が大洲6万石に封ぜられて入城し、明治の廃藩まで加藤氏13代の治めるところとなり、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄した。戦国の頃には大津とも呼ばれていたこの地を大洲としたのは大洲藩2代目藩主・加藤泰興の頃と言う。

大洲市内を抜け国道56号に
渡場の弁天堂
肱川を渡ると大洲市中村になる。「えひめの意億」には「油屋の対岸には船着き場があり、上陸地点には「渡場」という地名が残っている。遍路道はこの「渡場」から弁財天の横を進み、すぐに国道と交差するが、国道を横断すると殿町(とのまち)、常盤町(ときわまち)の町並みを通って県道大洲長浜線(24号)を直進し、やがて古い町並がわ残る若宮に入る。そののち若宮を抜けると、国道に合流」 とある。

若宮の子安観音と茂兵衛道標
渡場、殿町は現在中村地区に含まれるが、常盤町は古い街並みに沿った一画だけがその名を留める。常盤町は往時の在郷町。常盤町を進み、県道43号進み、喜多小学校手前で肱川を渡る県道を離れ若宮地区をそのまま進み県道56号に合流する。
国道に合流する手前を少し肱川の堤へと向かうと子安観音があり、そこには茂兵衛道標がある。明治40年建立。茂兵衛217度目巡礼時のもの。「右 菅生山 / 左 明石山 為四十二才」「三角寺奥院 仙龍寺」といった文字が刻まれる。ということは、そこが遍路道ということだろう。それはともあれ、何故にここに「三角寺奥院 仙龍寺」が刻まれるのだろう。

永徳寺間違い
ここから国道56号を進めば、大洲市徳森に入り、十夜ヶ橋(とよがはし)に至るのだが、ここで大きな間違いをしてしまった。十夜ヶ橋と検索すると「十夜ヶ橋 永徳寺」とあり、永徳寺を検索し「大洲市徳森1296」にある永徳寺に向かった。
すぐ傍に「都谷川(とやかわ)」も流れており、ここに架かる橋下にてお大師さんが一夜を過ごしたものと思い込み、国道を逸れて永徳寺に向かったのだが、それっぽいものはなにもなく、検索をし直す。
と、国道56号の「十夜ヶ橋交差点」の東、都谷川に架かる橋に「霊場十夜ヶ橋」を確認。気を取り直し都谷川の堤に沿って霊場十夜ヶ橋に向かった。こんな初歩的な間違いをする方はいないとは思うが、ご注意あれ。念のため、

霊場十夜ヶ橋脇の道標
都谷川に沿って北に進み、国道56号と交差する橋の手前に道標が立つ。「へんろ道 すごう)山 十二里」「左 長濱道」と読める。道標から橋の下に。横たわるお大師さんに御布団をかけてある。
「えひめの記憶」には、「『四国遍礼名所図会』には、当時の十夜ヶ橋の面影を伝えている絵図が掲載されており、「十夜の橋大師此辺にて宿御借り給ひし時、此村の者邪見ニて宿かさず。大師此橋の下二て休足遊ばしし時、甚だ御苦身被遊一夜が十夜に思し召れ給ひし故にかく云、大師堂橋の側にあり」と弘法大師にまつわる伝承を紹介している。
十夜ヶ橋の由来については、一般的には、弘法大師にとって一夜の野宿が十夜にも思うほどであったということから起こったと伝えられているが、十夜ヶ橋は実は都谷橋(とやはし)であったのが、弘法大師の伝説と結びついて十夜ヶ橋の文字を当てるようになったという説もある」とあった。

霊場十夜ヶ橋 永徳寺の徳右衛門道標
都谷橋の西詰めに永徳寺がある。境内の国道脇に徳右衛門道標。「是〆菅生山迄拾弐里」と読める。境内にあった「弘法大師御野宿所十夜ヶ橋」に拠ると、「今を去ること一千二百有余年の昔、弘法大師が四国御巡錫中、この辺りにさしかかった時、日が暮れ、泊まるところもなく空腹のまま小川に架かる土橋の下で一晩野宿をされた。その晩大師は「生きることに悩んでいる人々を済いたい」「悟り(即身成仏)へと導きたい」という衆生済度のもの思いに耽られた。それはわずか一夜であったが十夜のように長く感じられ『ゆきなやむ 浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋とおもほゆ』と詠まれた。
これから十夜ヶ橋(とよがはし)と名がついたと伝えられ、弘法大師の霊跡として今に至る。またお遍路さんが橋の上を通る時には杖をつかないという風習は人々を想うお大師さまに失礼にならないようにとの思いから起こったものである」とある。

「えひめの記憶」にあった説明と少々ギャップがあるが、それはいいとして、それでは歌は一体誰が詠ったものだろう。チェックすると、これはこのお寺様のご詠歌とのこと。

「えひめの記憶」に拠れば、『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九は、「四国遍路旅案内」に於いて、「この御詠歌といふものは、何人の作意なるや、風製至て拙なく手爾於葉は一向に調はず、仮名の違ひ自他の誤謬多く、誠に俗中の俗にして、論ずるに足ざるものなり、されども遍路道中記に、御詠歌と称して記しあれば、詣人各々霊前に、これを唱へ来りしものゆゑ、此双紙にも其儘を著したれども、実に心ある人は、此の御詠歌によりて、只惜信心を失ふことあるべく、嘆かはしき事なるをや、と辛辣な御詠歌批評を記しているのは、遍路の普及による信仰の卑俗化への厳しい批判をこめたものとして、当を得ている」とある。弘法大師空海の作ではないようだ。

大師堂にお参りし先を急ぐ。「えひめの記憶」に拠れば、「十夜ヶ橋から内子に至る主な遍路道は大洲街道(以下、旧街道と記す)であった。しかし、明治37年(1904)に国道(以下、旧国道と記す)が開設されると、次第に遍路は旧国道を通るようになった」とあるが、大洲街道(旧街道)の道を進むことにする。

新谷(にいや)古町の三差路
「えひめの記憶」には「旧街道を通る遍路道はここ(私注:十夜ヶ橋)から左折して都谷川沿いに北進し、肱川の支流矢落川に出て、その川沿いに東に向かって進んでいた。この道はJR予讃線と矢落川の間あたりを曲がりくねって東に向かっていたらしいが、河川改修や圃(ほ)場整備などで今はほとんどが消滅している。ただ、新谷(にいや)古町の三差路の周辺にかけて旧街道の一部がわずかに残り、三差路には、中江藤樹(1608~48)の頌徳(しょうとく)碑、常夜灯や道標がある」とする。

今ひとつ道筋ははっきりしないが、とりあえず成り行きで進み新谷古町の三差路を目指す。橋の東詰め、都谷川の右岸に木標が見える。案内に従い、橋を渡ると直ぐに左に折れ、松山道の高架傍にある木標(矢落橋4.3km)を右に折れる。
東に進んだ道はほどなく矢落橋を示す木標箇所で左に折れ、予讃線の高架を潜り肱川支流の矢落川の土手手前に出る。T字路に矢落橋を示す木標があり、左折とあるが、多分左折し矢落川の堤防に沿って東に進むのであろうと、木標の指示とは逆方向、右に折れる。
成り行きで進むと松山道高架の南側に出て、高架に沿って東に進むと道は左右に分かれる。「えひめの記憶」にあるように、JR予讃線と矢落川の間を進んではいるのだが、これも記述にあるように「曲がりくねった道」など何処にも見当たらない。
どちらに曲がればいいものやら?畑仕事をしていた方に、新谷古町三差路の目安となる中江藤樹の頌徳碑の場所を尋ねると、運よくその方の自宅前とのこと。「道を左に曲がり、松山道に沿って東に進むと、フットサルの練習場がある。その南側の道を進むと旧国道にあたる。そこを少し先に進み、理髪店の角を右に折れ、道なりに進むと中江藤樹の頌徳碑のある三差路に出る」と御親切に地図を書いて頂いた。
地図の通りに進むと三叉路に中江藤樹頌徳碑と常夜灯、その下に道標が建っていた。地元の方の案内がなければ到底この三差路には到底行きつけなかっただろう。
中江藤樹(1608~1648)
儒学者。日本陽明学の始祖。近江国高島郡小川村(現、滋賀県)出身。通称は与右衛門(よえもん)。9歳の頃伊予国に来て、成長して大洲藩家臣となり、独学で朱子学を学んだ。27歳のとき、郷里に住む母への孝養と自身の持病とを理由に、藩士辞職を願い出るが許可されず、脱藩して近江に帰り、酒の小売業で生計を立てながら学問に専念した。
藤樹は朱子学の教える礼法を厳格に守ろうとしたが、やがて形式的な礼法の実践に疑問を抱くようになり、道徳的な形式よりも精神の方が重要であるとして、「時・処・位」の具体的な条件に応じ、その状況に適切な正しい行動をとること、またその状況に応じた正しい行動の在り方を自主的に判断する能力を持つことにこそ学問の目標があるとする、自由な道徳思想を唱えた。
これは、朱子学の道徳思想を日本社会に適応させようとした藤樹独自の思想である。後に『陽明全集』を手に入れてから「知行合一」を基とする陽明学を研究するようになり、我が国の陽明学の始祖となった。自宅に藤の木があったことから門人に「藤樹先生」と呼ばれた(「えひめの記憶」より)。
大洲とのかかわりは、9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住したことによる(「Wikipedia」)。

稲田橋を渡り新谷に
今回の散歩で最後まで場所が特定できていなかった新谷古町三差路の道標をクリアし、旧国道に出て矢落川に架かる稲田橋を渡り新谷の集落に。「えひめの記憶」に拠れば「矢落川の川岸から木製の旧稲田橋(現稲田橋の100mほど上流)を渡って新谷の町に入っていたが、この道も消滅している。
新谷の町は昔から遍路道の要所の一つであった。真念は『四国逞路道指南』に、「にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。」と記し、松浦武四郎も『四国遍路道中雑誌』で、「新屋町商戸、茶店有。止宿する二よろし。)」と紹介している。現在、県指定の文化財となっている陣屋遺構(現麟鳳閣)や武家屋敷跡があり、商家などのたたずまいに昔の面影が偲(しの)ばれる」とある。
新谷(にいや)藩
陣屋跡の石碑(新谷小学校)
陣屋遺構(現麟鳳閣);新谷小学校構内
新谷藩は元和9年(1623年)、大洲藩2代藩主・加藤泰興が弟・直泰に大洲藩6万のうち、1万石を分与したことにはじまる。初代藩主直が泰興・直泰両兄弟のどちらを跡取りにするかを決めずに死去したため一時内紛が起こったが寛永18年(1693年)に藩内分知ということで決着した。そのためもあってか、まとまった領地とはならず大洲藩内に飛地として領地を有したが、寛永19年(1642年)、この地に陣屋が完成した。藩内分知は幕府から直接領地をみとめ本来は陪臣の扱いであるが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例である。
新谷藩で記憶に残るのは明治天皇の京都から東京に行幸(遷都)の下り、大洲藩とともに行幸の前衛の大命を担ったこと。大洲藩が先頭、新谷藩が行列最後尾につき行幸を警護した。これはあまたある藩のうち、藩主自らが勤王の意思を明確に示し御所警護などに尽力したことによる。

新谷の徳右衛門道標
新谷の街を抜け、道を挟んで北に運動場、南に校舎と運動場をもつ帝京第五高校の敷地を少し超えた辺りに、お地蔵さまや常夜灯と並んで二基の道標がある。 大きな道標が徳右衛門道標である。「これより菅生山へ十里」と刻まれる。

「えひめの記憶」には「道は新谷の町を過ぎる辺りから帝京第五高等学校の敷地を斜めに横切り、矢落川に架かる高柳橋に至る。『四国遍礼名所図会』には「高柳橋町はなれ土橋(ばし)也、」とあり、かつては小さな土橋が架かっていたが、現在は歩行者用の小さな鉄の橋が架かっている。
この高柳橋の辺りは遍路の休息する場所でもあったという。その橋のたもとには、武田徳右衛門道標と道標の2基があった(現在は2基とも帝京第五高等学校前に移設されている)」とある。

高柳橋
この橋のたもとにあった二基の道標が先ほど見たものだろう。この道標も成り行きでみつかったが、案内にある「帝京第五高校の敷地を斜めに横切る」との記述が地図と合わず結構悩んだ。昔は校舎の南にあるグランド辺りを道が通っていたのだろか。斜めに突き進んだ箇所に昔の遍路道の面影を残す細路とその先に高柳橋があった。

金毘羅橋
高柳橋から土手を進む。ほどなく旧国道と合わさる地点に金毘羅橋が架かる。地図を見ると、川の南、内子線喜多山駅の南に突き出た尾根筋の上に金毘羅の社があった。




矢落橋
金毘羅橋から旧国道筋に戻り、先に進むと矢落橋。いくつかの地点での木標で案内のあった橋である。で、ここで遍路道は橋を渡るとの遍路道案内を見逃し、そのまま矢落川に沿ってしばらく進んでしまった。途中でなんとなく現在地を確認すると、あらぬ方向に向かっている。折り返し矢落橋に戻る。

遍路休憩所
矢落橋を渡り、国道56号と合流する手前に遍路案内所。お願いすればお風呂のご接待も受けることができる旨の案内があった。休憩所で少し休み、国道56号を東へと進む。


二軒茶屋の大師堂
トラックの風圧に怖い思いをしながら国道56号を進むと二軒茶茶屋の集落。国道56号から右へと集落を抜ける道がある。旧国道であろうと右に折れると、集落が切れた辺りに「弘法大師尊」の額のかかるお堂があった。大師堂であろう。


黒内坊から予讃線内子駅までの丘陵越え


黒内坊の徳右衛門道標

二軒茶屋の旧国道から元の国道56号に出て、先に進む。しばら歩くと国道は数回川を橋で渡る。「えひめの記憶」には、「新谷で一宿した澄禅は『四国遍路日記』に、「此川ヲ十一度渡テ内ノ子ト云所ノ町二至。」と記すが、蛇行して流れる矢落川を五十崎町の黒内坊(くろちぼう)に向かって何度も渡っていた様子がうかがえる。現在はこの辺りの道も河川改修などで消滅している」とある。昔の街道の様子が少し感じられる。
道を進むと黒内坊の集落に入る手前に左に入る細路があり、その角に徳右衛門道標が立つ。「是〆菅生山迄九里 左へんろちかみち」「内之子六日市大師講中」と刻まれる。「左へんろちかみち」には追加彫りされた痕跡(こんせき)がある(「えひめの記憶」)、とのことである。

土径を駄馬池へ
三差路から左の道に入り先に進み小川に架かる橋を渡る。この小川は矢落橋の辺りで矢落川に合流し、国道56号に沿って二軒茶屋、黒内坊と並走してきた川の上流域である。橋には遍路道の案内。橋を渡ると土径となる。
土径は田圃や畑地が谷奥に切れ込むちょっとした谷戸の雰囲気も感じる。緩やかな坂道をなんとなく「水気」を感じながら歩き、池を越えると簡易舗装の道に出る。
遍路道案内に従い泉ヶ峠への車道と合わさる辺りから、内子運動公園、そして駄馬池に向かっての下りとなる。
「旧街道からの眺め ここから東に広がる家々は、内子の集落発祥の地「廿日市」の町並みでこの場所は大洲からその集落に向かう旧街道の入口でした。右手には遊行上人を祀った願成寺があり、真下に見える駄馬池のかたわらには弘法大師にゆかりのある思案の堂が、その歴史を今に伝えています(後略)」を見遣りながら下ると、駄馬池の東端には二基の地蔵さんが内子の町を背に立つ。横には駄馬池災害復旧の石碑も建っていた。

思案堂の道標
駄馬池の北東端に思案堂が建つ。弘法大師が泊まるかどうか思案したと伝わるお堂の前に「右 へんろ道」「昭和十年八月」と刻まれた道標がある。金比羅道標、秩父・西国札所などへの巡礼供養塔を見遣りながら、車道の脇にある遍路道案内に従い細路を下る。目の前に内子の駅が見える。

郷之谷橋
内子駅北の高架を潜り、二十日の街並みを遍路道案内のシールに従い斜めに横切ると小川に架かる郷之橋に出る。「えひめの記憶」では遍路道は橋を渡り中町通りを直進するとあるが、遍路道シールは小川の右岸を下るようになっている。

栄橋から本町通りを進む
とりあえず遍路シールに従い一筋下り本町通りに架かる栄橋を左折する。この川を境に廿日市から六日市の街並みに入る(現在は内子町内子)。何度か訪れている内子座などを見遣りながら、古き趣の街並みを進む。下芳賀邸を越すとその先で道は左に曲がり、「国選定重要伝統的建造物群保存地区」である八日市・護国地区に入る。

八日市・護国地区
桝形
大村邸
クランク状の桝形を抜け八日市・護国地区に入ると街並みの地図とともに「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の案内。
「国選定・重要伝統的建造物群保存地区
内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区
選定年月日 昭和57年4月17日
面積 約3.5ヘクタール
内子は、江戸時代の中期から、在郷町として栄えた町である。かつての市街地は、願成寺を中心にした廿日市村、現在の商店街を核にした六日市村、八日市村、小田川の対岸の知清村の4つから成り立っていた。

中芳賀邸
本芳賀邸
肱川支流に点在する集落で生産される和紙は、六日市、八日市の商家を経て阪神へ出荷され、大洲藩の財政の一端を担っていた。江戸時代の末期から明治時代には、ハゼの実から搾出した木蝋を良質の晒蝋に精製し、広く海外にまで輸出するなど、大きい地場産業として多いに繁栄したところである。
八日市・護国の伝統的な町並みは、かつてこんぴら参詣や四国へんろの旅人が往き交ったところで、蝋商芳我家を中心に、二階建て、平入り、瓦葺きの主屋が600mにわたって連続する。伝統的な建物の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りである。正面はしとみ戸や格子の構えで、袖壁をつけ、往時の姿をよくとどめている。


内子町は、これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため、積極的に保存事業に取り組んでいる。 昭和58 年3 月 愛媛県内子町」とあった。
国の重要文化財となっている大村邸や本芳我(はが)邸・上芳我邸などを見遣り古き街並みを進むと小川に架かる橋にあたる。この内子の町は、旧街道の要衝の地また物資の集散地としても賑(にぎ)わい、遍路にとっても、「此所ハ店もよし」と記されているように、山道に入る前の要所の地であった(「えひめの記憶」)。

清栄橋
上芳賀邸
上芳賀邸で木蝋の資料などを見学した後、清栄川に架かる橋を渡ると、護国地区(現在は内子町城廻)に入る。道は直ぐY字に分岐する。




常夜灯と道標
Y字形の分岐点に文政8年(1825)建立の常夜灯と道標がある。道標には「こんぴら道 へんろ道」と刻まれる。遍路道はこの分岐を右に曲がるが、左手の道にある高昌寺にちょっと立ち寄り。




高昌寺
創建は室町の頃とされる古刹。本堂から中雀門まで回廊など、風格のあるお寺さまであった。もとは内子町松尾(現在の内子町城廻)に浄久寺として創建したのが始まりとのことだが、その後曽根城主、曽根氏の帰依深く、天文2年(1533年)現在地に移築、曽根家の菩提寺となり、弘治2年(1556年)に曽根高昌逝去の折に高昌寺と改称されたとのことである。
250年の歴史をもつ「ねはんはつり」で知られ、そのためか、平成10年(1998)に長さ20m,高さ3m,重さ約200トンといわれる巨大な涅槃仏が造られた。
◆曽根(曽祢)氏
室町期にこの地に居を構えた国人領主。曽根城は中山川と麓川に囲まれた舌状尾根筋の突端にある。現在清栄川を境に、その北は内子町城廻となるが、この地姪は曽根城所以のものだろう。
戦国時代には境目地帯として乱世を切り抜けるも、秀吉の四国征伐の折に小早川勢により廃城となり、曽根氏は毛利を頼り、江戸期には萩藩の家臣となった、とのことである。

福岡大師堂の道標
Y字形の分岐を右に進むと右手が開ける。中山川、その向こうの水戸森峠辺りを走る松山道の見える辺り、道の右手に福岡大師堂があった。
大師堂の下の道脇に道標がある。「へんろ道」らしき文字が刻まれているように見えるのだが、「えひめの記憶」には「福岡大師堂があり、かつてはそこに元禄11年(1698)建立の道標(内子町歴史民俗資料館に保管)があった」とある。はてさて。
道標から道が二手に分かれる。左は「旧松山大洲街道」とある。今回の遍路道散歩のため、大洲・内子辺りを往復するとき、松山と内子・大洲を結ぶ旧街道が結構気になっていた。そのうちに辿りたいものである。
旧松山大洲街道
分岐点にあった案内には。旧松山大洲街道はこの地を進み、麓川と中山川にはさまれ、南に突き出た舌状尾根筋の首根っこあたりで麓川を渡り千部峠に進むとある。その先は大雑把に国道56号の道筋を中山に向かい、榎峠、犬寄峠を経て伊予大平、向井原、郡中、松山へと通じていたようである。

麓橋
とまれ、今回は、右手に道をとり、道なりに坂道を下り、成り行きで先に進むと麓川に架かる麓橋に出た。麓橋を渡り国道56号にあたる左手の尾根筋突端が、曽根城跡とのことであった。

五城橋
左手に曽根城址のある尾根筋突端を見遣りながら、切通しのような道を真すぐ抜けると国56号に出る。その先に「四国のみち」の木標のあるガードレールが「欄干」の五城橋を渡る。

水戸森峠取り付口
橋を渡り松尾集会所の前に「遍路道案内板」があり、水戸森峠を経て石浦に出るルートが描かれていた。往きたしと思えど、ここで時間切れ。後数キロを次回に残し、実家に戻る。

あと数キロの峠越えを残し、四十四番札所・大宝寺へと辿った東半分の遍路道と繋ぐことができなかった。来月の月例帰省のお愉しみとする。






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