そのときは、単に峠越えに惹かれただけで結果的に遍路道を辿ることになったのだが、どうせのことなら東半分、四十三番札所から内子まで歩き、遍路道を繋げようと思った。距離はおおよそ40キロ強だろうか。2回に分ければ歩けそうである。
初回は明石寺のある卯之町から大洲まで、2回目は大洲から内子まで。幸い、卯之町、大洲、内子には予讃線の駅がある。初回は大洲の駅前に車をデポし列車で卯之町に移動し、卯之町から大洲まで戻る。途中、河野氏に援軍を送った毛利勢の逸話の残る鳥坂(とさか)峠を越えて、なんとか大洲までたどり着いた。 2回目は内子駅近くに車をデポし大洲に向かい、内子まで戻り、さらに内子の市街を抜けて水戸森峠を越え、先回東半分の遍路道歩きの始点である石浦まで進むつもりであったのだが、途中二度ほど道を間違ったロスが響き、結局水戸森峠の取り付口で時間切れとなってしまった。
数キロ残すことになったのは少々残念ではあるが、次回のお楽しみとする。それにしても、車デポ地に往復するピストン不要の行程は、やはり、いい。
本日のルート;予讃線・大洲駅>予讃線・卯之町駅>高野長英ゆかりの家>明石寺への遍路道>切通を越えて明石寺に>第四十三番札所・明石寺>宇和先哲記念館脇の境界石>中町(なかんちょう)>開明学校跡>境界石>多賀神社>松葉城跡>満慶寺の徳右衛門道標>下松葉交差点の道標>下池の道標>田苗真土の道標>大江の茂兵衛道標>「飛鳥城跡(笹城)」の案内>東多田の道標>信里の常夜灯>信里庵の徳右衛門道標>境界石>ヘンロ小屋>国道から離れ遍路道に>久保の道標>鳥坂番所跡;13時8分>林道と交差;13時20分>鳥坂(とさか)峠;13時30分>日天月天社と道標;13時49分>林道に出る;13時59分>林道(大正9年の県道)へ出る;14時5分>林道(大正9年の県道)を進む>遍路案内が現れる:14時21分>林道から分岐しショートカット;14時36分>札掛大師堂;14時43分>お接待所跡>国道56号を北只に下る>金山橋;15時23分>柚木尾坂の道標>大洲駅に
予讃線・大洲駅
田舎の新居浜を出て大洲に。駅のロータリーにも駐車場があるが、駅のスタッフの方に大洲から内子まで列車を利用し、歩いて戻ってくるのだが駐車は可能かと尋ねると、本来往復切符でのみ有効な「駅レンタカー」用の駐車場使用を許可してくださった。感謝。
予讃線・卯之町駅
列車は八幡浜を経由し、卯之町に。駅前からスタート地点の四十三番札所・明石寺に向かう。
高野長英の隠家
「高野長英先生 蛮社の獄で入獄。卯之町にも潜伏
高野長英は文化元年(1804)五月五日、陸奥国水沢(岩手県水沢市)に生まれる。幼名は悦三郎。叔父高野玄斎の養子となり、高野の姓となる。杉田玄白や吉田長淑に入門した後、鳴滝塾でシーボルトに学ぶ。
田原藩家老・渡辺華山や岸和田藩医・小関三英らと尚歯会を結成。飢餓対策や西洋事情の研究などに奔走する。天保八年、浦賀沖にきた米国モリソン号を幕府が砲撃。長英は『夢物語』を、渡辺華山は『慎機論』を書き、幕府の怒りに触れ、長英は永牢の刑になり入獄する(蛮社の獄)。入獄、六年目、獄舎が火災になり一時釈放されるが、そのまま逃亡。諸国の数多い門人や学者、また宇和島や薩摩藩主などに守られ、信越、東北、江戸、上方、宇和島、鹿児島などを巡り、六年間潜行する。
四月には鹿児島に向かったが安んずることができず、再び宇和島を経由し、六月三日卯之町に到着。十日間余滞在する。八月には江戸を経由し、下総に潜伏。翌年の嘉永三年再び江戸に帰り、青山百人町に居を構え、医業を営む。十月三十日、捕吏七人に襲われ、自刃する」とあった。
◆二宮敬作
蘭学者。宇和郡磯崎浦(現八幡浜市保内町)出身。号は如山。長崎へ赴き、通詞吉雄権之助や美馬順三に師事し、やがてシー ボルトの門人となる。後に、シーボルト事件 に連座し、江戸構長崎払(江戸立入禁止、 長崎退去)となる。帰郷後、主に宇和郡卯之町(現西予市宇和町)で開業医として活躍し、シーボルトの娘イネの養育もした。宇和島藩主伊達宗城に重用されたほか、高野長英や村田蔵六(大村益次郎)とも交流があった
明石寺への遍路道
右手に愛媛県歴史文化博物館、左手に県立宇和特別支援学校を見遣りながら道を進むと舗装が切れ、明石寺への山道に入る。
切通を越えて明石寺に
第四十三番札所・明石寺
Wikipediaに拠れば、創建年は不詳。天平6年(734年)に行者が熊野より十二社権現を勧請し修験道の中心道場としたとされる。弘仁13年(822年)には荒廃した堂宇を空海(弘法大師)が再興したとも伝わる。
寺にあった案内には、「本来の名称は「あげいしじ」だが、現在は「めいせきじ」と呼ばれています。土地の古老たちは、この寺を親しみを込め「あげいしさん」または「あげしさん」と呼んでいます。
8月の縁日には、西日本の各地から多くの人々が集まり、終日賑わいを見せています」、とあった。
御詠歌は「聞くならく 千手の誓ひ 不思議には 大盤石も 軽くあげ石」。千手とは渡来仏とも伝わる千手観音菩薩。文脈から察するに、若くて美しい女神の化身ということだろうか。
●道標
宇和先哲記念館脇の境界石

「従是西驛内 卯之町」「天保14年 癸卯」と刻まれる。「西驛内」って?地名かと思ったのだが。「駅=宿(卯之町)」の西の境という事だろう。
中町(なかんちょう)
「えひめの記憶」に拠れば、「中町通りは、宇和島藩政時代になって形成され、道の両側には多くの商家が立ち並び、旅籠(はたご)もあって卯之町の中心街をなしていた。『四国遍礼名所図会』でも「鵜の町よき町なり(中略)此所にて支度」と記述しているように、ここで遍路は、物資を調達したり、宿泊したりしたものと思われる。
◆四国遍礼名所図会
五巻からなる遍路絵日記。寛政十二年(1800 )三月二十日から五月三日までの、七十三日間( 四月閏)の九皋主人の遍路記を翌享和元年(1801 )に書写した河内屋武兵衛蔵が残っている。
◆卯之町の歴史
西園寺氏は秀吉の四国征伐でその軍門に下り、慶長20年(1615)には伊達氏が10万石の領主として宇和島に入る。伊達氏は松葉町の盛んなるを見て驚いたというが、慶安4年(1651)松葉町を現在の卯之町の地に移し、名も「卯之町」と改め、宿場町、在郷町として農村経済の中核となり明治に至るまでその繁栄が続いた、と。
◆在郷町
在郷町(ざいごうまち)とは?チェックすると、中世から近世にかけて、農村部などで商品生産の発展に伴って自然発生した町や集落のこと。商工業者のほかに農民が多く在住しているのが特徴。都市と農村の機能を併せ持つ当時の「地方都市」といった性格の町のようである。寛政元年(1789)戸数140軒・住民508人、天保9年(1838)戸数149軒・住民615人との記録があるようだ。
◆「国選定・重要伝統的建造物群保存地区・西予市宇和町卯之町伝統的建造物群保存地区」の案内
この区域には、近世(江戸時代)の面影を伝える町家が軒を並べ、併せて寺(江戸期)・学校・教会等、明治・大正・昭和初期の歴史的建造物により、伝統的な町並みが形成されている。町並みの特徴は妻入りと平入りが混在していることである。
妻入りの町家は四国地方にあまり例がなく、また格子や蔀、床几、大戸などに加え、卯建、袖壁、一階軒下の持送り、二階の手摺り、飾り瓦等の意匠も特徴的である。保存地区は中町、新地、横町、大念寺、下町に分けられ、江戸時代の地割や、各時代の建造物で独自の景観を醸し出している」
◆卯之町の由来
江戸の頃、慶安4年(1651年)にいくつもの大きな火災があり、町を大念寺(現在の光教寺;開明学校の近く)山麓に移す際、火災を恐れた当時の人々が水に因んだ鵜を町の名前にし「鵜の町」とし、それが「卯之町」に変わった、と。上の卯之町の歴史で慶安4年に「卯之町」に移したとメモしたが、正確には「鵜の町」としたようだ。
「鵜の町」「卯之町」となった因は不詳。卯の日野菜や果物 雑貨などを売る市を立てていたからなど、常の如く諸説あるようだが定まることなし、ではある。
開明学校跡
旧開明学校校舎は、木造2階建、桟瓦葺きで、窓枠をアーチ状につくるなど、わずかに洋風の意匠を取り入れた擬洋風建築である。地元の大工によって建築された擬洋風建築であり、建築史上、教育史上に価値が高いとして評価され、1997年5月に国の重要文化財に指定された。
ここには何度も訪れているので今回はパス。
宇和町小学校手前の境界石
多賀神社
◆笠置峠
地図で確認すると、多賀神社の少し北、春日神社の辺りから予讃線、県道25号が左に折れ、宇和町岩木の笠置峠で共にトンネルで抜けて北西の八幡浜へと続いていた。その道筋が笠置街道ではあろう。
松葉城跡
松葉城は標高四〇九.九米、宇和町下松葉裏山にあって、典型的な山城で、平にされた山頂は三段に分かれ、面積約四〇アール余りで、土塁、井戸のほか当時の遺物も多い。山頂は、きつ立した岩をめぐらし、万兵を防ぐに足る要害の地といえる。
◆西園寺氏
前述の如く、卯之町の礎を築いた。いつだったか、河野氏ゆかりの地を辿った時、はじめて西園寺氏と愛媛の関わりを知り、ちょっと驚いたことを思い出した。
その西園寺氏であるが、伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、源平合戦期に源氏に与し多くの軍功をたて、鎌倉幕府開幕時の守護・地頭の制度により、鎌倉御家人として宇和の地の地頭に補任され橘氏からほとんど横領といった形で宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。
その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)
満慶寺の徳右衛門道標
◆西予市
Wikipediaに拠れば、愛媛県の南予地方に位置する西予市は2004年に東宇和郡4町(宇和町・野村町・城川町・明浜町)と西宇和郡1町(三瓶町)の5町が新設合併して誕生した。旧5町のうち旧宇和町は江戸時代より宇和島藩の宿場町として栄え、その中心部(卯之町)に残る歴史的景観は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。旧宇和町は現在でも西予市の中心として機能しており、卯之町には駅や松山自動車道西予宇和インターチェンジがあるなど、比較的交通の利便性が高い。
海から山まで東西に長い市域をもっている。西は宇和海に接し、東部は四国カルストを擁する山地で高知県と境を接している」とあり、続けて、「愛媛県は東予・中予・南予の3地域に分けられるが、「南予=宇和島」のイメージが強く、そのため、八幡浜市・大洲市・喜多郡・西宇和郡・旧東宇和郡(西予市成立で消滅)は、全体の地域を指す言葉として「西伊予」が発案したのだが、この一地域のみが「西予」と称することに他地区からは抵抗があったようだ」といった記述があった。
そういえば、愛媛に生まれた者としても、南予=宇和島、八幡浜、東宇和郡、西宇和郡、といったイメージを持っていた(大洲、喜多郡は「中予」と)。宇和島と一線を画したいといった気持があったのだ、とはじめて知った。
◆徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。
下松葉交差点の道標
遍路道は案内に従い現在の国道筋を北に向かうことになる。
◆八幡浜新道・八幡浜旧道
道標に刻まれる八幡浜旧道はここで左折し、県道25号・予讃線の道筋を通り笠置峠を越えて八幡浜に向かっていた。八幡浜新道は明治31年(1898)頃には開削された鳥越峠越えの道。現在の国道56号を北に進んだ瀬戸・東多田の集落から左折し鳥越峠を越えていた。
なお、道標にある「津布里」は西予市三瓶町津布里。現在の県道30号筋を三瓶トンネル、三瓶隧道辺りで山越えし谷道川の谷筋を津布里に向かったのだろうか。道筋を想像するだけで、結構幸せな気分になれる。
下池の道標

遍路道は国道を離れ、明治30年(1897)頃から開かれた県道(現在は町道;以下旧道)を下松葉、上松葉と進む。
下坂戸では自動車教習場の辺りで旧道を右にそれ少しの間一筋山手の道に入り、茶畑を見遣りながら進みほどなく旧道に合わさり、坂戸の集落を抜ける。
田苗真土の道標
道を進み、旧道が国道に合わさる少し手前、民家軒下に道標があり、「スガワ寺 十九里十丁」と刻まれていた。
大江の茂兵衛道標
◆中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
で、件(くだん)の道標であるが、中務茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標のひとつ。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。
「飛鳥城跡(笹城)」の案内
山頂は平に削られ、周囲から敵の侵入し難く加工された平場、つまり郭が三段になり、三の丸、二の丸、本丸が西から東へ順に延びる。東西80m、南北90mの城跡、数カ所の段や堀切がある。

公高卿の墓と記念碑は国道56号筋にある、とのこと。そう言えば、国道からこの旧道が分かれる手前、骨董品点を越えた先の道路脇にブロックで囲われた、それらしき場所を見かけた。
◆宇都宮氏
「えひめの記憶」に拠れば、「出自については諸説あるが、下野宇都宮郷を本貫とする地方豪族であったことは間違いない。源平争乱記に軍功は記録として見られないが、鎌倉幕府開幕後、有力御家人として重きをなし、守護・地頭の制度施行時に伊予の守護であった佐々木氏の後、13世紀前半頃に伊予の守護職となる。後鳥羽上皇の討幕挙兵である承久の乱における軍功故とも云われる。鎌倉幕府滅亡までその職にあった、と。
伊予に移ったのは14世紀の前半。伊予宇都宮氏は大洲を拠点に戦国時代まで続き、天正13年(1585)土佐の長曾我部氏によって滅ぼされることになる」とある。
東多田の道標
なんとなく単なる農村集落だけではないのでは?チェックすると、中世にこの地・宇和盆地の北端は多田宇都宮氏という領主が治め、西園寺氏とは一定の距離を持ち、この地を治めていたとのこと。館は東多田交差点の西、独立丘陵に下木城であった、とか。
◆番所跡
「えひめの記憶」には道標は番所跡手前に番所があった、という。現在は普通の民家となっているが、「道は東多田の町並みに入る。ここは、宇和町では卯之町に次いで栄えた町であり、現在も昔をしのぶ古い家々が残るが、かつては大洲藩との藩境にも当たり、宇和島藩の番所が置かれていた。
『四国遍礼名所図会』にも「東唯村、庵、番所切手を改む」とある。この番所は、通行人の取り調べが厳しいことで知られ、一般から侍番所として恐れられていたという」とある。
信里の常夜灯

常夜灯は、宇和町ではこれ以外には存在せず、この常夜灯は、宇和島街道全域の現在残る最遠の金毘羅里程道標として貴重な存在になっている。なお、この常夜灯は、「安政二年」の刻字から、旧道沿いに最初からあったかどうかは疑問である」とある。
信里庵の徳右衛門道標
境界石
ヘンロ小屋
「ヘンロ小屋」にはじめて出合ったのは下坂場峠・鶸田峠を越えて久万に向かう途中。四国四県をカバーするプロジェクトで、平成28年(2016)4月現在55のヘンロ小屋が整備されている。地元の信用金庫や篤志家、企業の寄付でできているとのことである。寝袋の宿泊とはなるだろうが、お遍路さんには大きな助けとなるかと思う。実際、現在宿を提供しているフランス人の歩き遍路は、ヘンロ小屋に寝泊まりしながら旅を続けている。
国道から離れ遍路道に
その分岐点に
「鳥坂峠 」を示す木標とともに、「この先鳥坂トンネル(1117m)トンネル内歩道狭し
⇒ここから峠道(へんろ道)5.5km 約60分
⇒56号(トンネル利用)2.1km 約」25分」とある。
はじめから鳥坂峠越えと決めている我が身は迷うことはないのだが、歩き疲れたお遍路さんは判断に悩むところ。実際、峠越えで出合ったご婦人も迷った末、トンネルを抜ける危険を避けて峠に廻ったとのことだった。
峠越えも結論を先に言えば、肝心な箇所に道案内がなく、数回道の取り方に迷うことになった。GPSをもっている者は心配ないが、そうでない方がほとんどだろうから、道案内の整備があれば、とは思う。
久保の道標
鳥坂番所跡;13時8分
大洲藩? 案内横にも「西予市指定文化財 大洲藩鳥坂口留番所跡」とある。普通行政区の境は尾根が普通だが、この地まで大洲藩の領地が出張っている? チェックすると、「えひめの記憶」に「鳥坂峠の南麓に位置するこの鳥坂番所は、面白いことに宇和島藩ではなく大洲藩によって設置された関所である。
大洲と宇和はたびたび国境紛争があったとのことで、自領地への侵入を阻む峠を麓の集落から丸ごと抑えることは、防衛上極めて重要だったに違いない」との説明があった。
林道と交差;13時20分
しかし昭和45年(1970年)峠の下に鳥坂トンネルが完成し、現在の国道56号ができると、利用者のほとんどはこの新国道を通るようになった。旧国道は、現在林道となり、また峠ごえの旧道は人通りがほとんどなくなり雑草が生い茂っている状態である(「えひめの記憶」)」とする。
●大正9年(1920)の県道
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大正9年の県道(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター)」 |
「人通りがほとんどなくなり雑草が生い茂っている」遍路道はほどなく杉林に入る。「えひめの記憶」によれば、峠の南北、道の両側には松並木が続いていたようだが、戦時中の供出や戦後のマツクイムシの被害により、今はその面影は留めない。
遍路道の案内に従い道なりに進むと、舗装された林道にあたる。北裏地区に繋がるようだ。遍路道は道越えた先から斜めに上るのだが、よくみれば遍路案内はあるのだが、ちょっと分かりにくい。
鳥坂(とさか)峠;13時30分
●鳥坂峠の合戦
「来島の恩返し」とは、毛利氏と陶氏の宮島での合戦の折、来島村上を核とする村上水軍が毛利に与し、毛利氏の勝利に多大な貢献をした、その恩をこの戦で返す、ということである。
◆合戦の経緯

そんな折、永禄9年(1566)、土佐一条氏が豊後の大友氏の支援を受けて、伊予に侵攻。宇和の西園寺氏攻略をすべく北進を開始した。その状況に宇都宮氏は土佐の一条氏に与し、伊予の河野氏と抗する構えをみせる。
この動きに対し河野氏は南予に軍を進める。その先陣を務めたのが河野氏重臣・来島通康と平岡房実である。永禄10年(1567)の秋ごろ、河野勢は鳥坂峠の西麓に鳥坂城を築く。これに対し、一条氏側は鳥坂峠東方の高島山に陣を布く。河野勢は毛利の援軍を要請するも豊後の大友氏の後方攪乱により、即時の出兵かなわず、戦線は膠着状態のまま永禄11年(1568)を迎える。
永禄11年(1568)2月、一条軍の総攻撃により、戦国期の南予における最大の合戦が喜多郡と宇和郡の境界付近の多田・鳥坂峰で行われた。これが鳥坂峠の合戦である。
河野勢は、小早川隆景を大将として派遣された三備・芸・防・長の大軍とともに迎え撃ち、西園寺氏は、宇和衆・三間衆とともに、多(現宇和町)に布陣し、一条軍を背後から包囲した。

と、メモはしたのだが、資料によっては、永禄11年(1568)春、毛利の主力部隊が上陸し、一条氏側の拠点となっていた大洲城をするも、再び大友氏の後方攪乱で毛利本隊は四国を離れることになり、鳥坂峠の合戦に、特段毛利勢が与力したわけでもなく、徐々に毛利氏側(河野氏)が優勢となり、毛利勢の本隊が伊予に入ってからは、戦況は一挙に変わり、地蔵ヶ嶽城(大洲城)を陥れたのを皮切りに、上須戒・下須戒・登議城山など一条・西園寺・宇都宮諸勢の諸城は次々と陥落、宇都宮豊綱は遂に開城・降伏することになる、といった記事もあり、よくわからない。また、この場合、永禄11年(1568)までに西園寺氏が一条氏に屈している、ともあった。
日天月天社と道標;13時49分
この社はこの尊いものを神として祭っているといわれ、「日天月天様」と呼ばれています。御神体はこの山から切り出されたと思われる半円形をした岩で、梵語(古代インド文字)が刻まれています」とある。
祠の前には拝殿なのか、遍路小屋なのか木造の建物があり、その手間の道脇に板状の石で囲われたお地蔵様が佇む。その台座は道標となっており、「是よりアゲイシサン三里 スガワサン十七里」と刻まれているとのことである。
林道に出る;13時59分
林道を右に折れ100mほど進むと左に折れる道がある。遍路道案内があったかどうか忘れてしまったが、ともあれ左に折れると舗装された道に出た。現在は林道となっている大正9年(1920)の県道のようである。
なお、この辺りには「鳥坂バス停」への木標はあるのだが、遍路道の案内が見当たらなかった。要所にはシールだけでもいいので、道案内があればと思う。
林道(大正9年の県道)へ出る;14時5分
「えひめの記憶」には、「これらの道標群は、おそらく市道開設時に付近から集められたものと考えられるが、そのうちのひときわ目立つ道標は、武田徳右衛門が願主となっている。その横の二つの舟形地蔵道標は「是より十丁常せったい所」と読み取れ、おそらく野佐来(やさらい)の札掛大師堂か「お接待場」あたりを案内しているものと思われる」とあった。
林道(大正9年の県道)を進む
一応推定場所はプロットしておいたが、それは「えひめの記憶」に「旧街道は、この辺り(道標)から尾根道を通って札掛に達していたが、現在は草木に覆われて通行不能になっている。そのため峠越えをした遍路は、国道56号と旧街道の間を並行に通る市道を歩き、やがて札掛大師堂の少し手前から旧街道に入って札掛大師堂(仏陀懸(ふだかけ)寺)をめざす」との記事より、尾根道に入る取り付き口に道標(推定)としてプロットした。
遍路案内が現れる:14時21分
本来の遍路道は、林道右手の尾根筋ではあろうが、藪で歩けそうにないとのことであるので、遍路道を辿っていることを確信し道を下る。
林道から分岐しショートカット;14時36分
実際峠道で追い越したご婦人のため、自分が迷った箇所には、折れた木を集め進行方向を示す矢印としたり、土に矢印を書いたりしたほどの「悩み所」がいくつかあった。
札掛大師堂;14時43分
大師立像はあるものの、本堂は滅茶苦茶。歩を進める気にもならなかった。 「ひめの記憶」には、「掛大師堂は、『四国遍礼名所図会』に(峠より左二伊づし観音山見ゆる。豊後日向路はるかに見ゆる。十丁程下り大師加持水左の方五間下り有リ、庵常接待有り大師安置、爰二て支度、加持水庵のわきニ有リ。」とある。ここに記された「伊づし観音山」とは、出石寺のある山を指しており、札掛大師堂を参詣した遍路の中には、ここから大洲市黒木、同平野町の平地を経由して出石寺を訪れる者もいたようである。
お接待所跡

国道56号を少し下ると、左手に製材所、右手のラーメン屋手前のドライブインの一角にはかつて「お接待所」と呼ばれ、峠越えしたお遍路さんが休息をとった、とのこと。ラーメン屋手前の屋根だけの堂宇には「国道開通の際に道筋にあった大師像や千手観音像などの石仏が集められ祀られている(「えひめの記憶」)」とのことである。
国道56号を北只に下る
ゴルフ場を横切るわけにもいかず、仕方なく長い下りの国道をトラックの風圧を受けながら、おおよそ2キロ強、30分ほど下ることになった。
金山橋;15時23分
柚木尾坂の道標
大洲駅に
ここで時間切れ。成り行きで道を進み肱川を渡り大洲駅に。駅前にデポした車をピックアップし帰途につく。次回は城下町大洲の入り口から内子に向かうことになる。
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