弟の石鎚三十六王子社巡りの記事を参考に各王子社を訪ねるにしても、山中の王子社がうまく見つかるか、少々心もとなかったのだが、幸運なことに弟も一緒に行けるという。しかも、弟の山仲間3名(ご夫妻とご婦人)も同行するとのことである。
同行の皆さんは河口から成就社への参詣道である今宮道を歩いてはいるのだが、王子社登拝道は初めてであり、そのルートへの興味もさることながら、弟のサービス精神故か、下山は今宮道と同じく河口から成就社への参詣道である黒川道を下るというルーティングに惹かれたようである。
登りはともあれ、膝の故障を抱えるわが身には比高差1,200mほどの下りは少々厳しくはあるが、王子社の登拝道を登り、返す刀で参詣道を下る、ってイメージもなかなか、いい、ということで、皆さんと行動を共にすることにした。br>
本日のルート:河口(こうぐち)へ>今宮道参道:6時50分>三光坊不動堂跡:7時15分>第七四手坂黒川王子;7時16分>第八黒川王子社;7時17分>藁葺のお堂・今宮道から離れる;7時28分>第九四手坂王子社;7時33分>尾根筋に;7時40分>第十二之王子社;7時52分>第十一小豆禅定王子社;8時12分>第十二今王子社;8時24分>第十三雨乞王子社;8時59分>今宮道に出る;9時9分>第十四花取王子社;9時32分>水場:9時39分>第十五矢倉王子社;9時49分>第十六山伏王子社;10時22分>第十七女人返王子社;10時28分>スキー場に出る;10時40分>奥前神寺;10時50分>西之川道分岐;10時58分>第十八杖立王子社;11時1分>第十九鳥居坂王子社;11時9分>第二十稚児宮鈴之巫子王子社;11時16分
河口(こうぐち)へ
第七王子社から第十三王子社まで |
石鎚のお山への登拝道はいくつもあったが、最後の上りは、この河口からの今宮道、今宮道に一部重なる三十六王子社登拝道、また、河口から少し西の虎杖からの黒川道を辿り、いずれのルートもお山中腹の「常住」、現在の石鎚神社中宮・成就社に向かうことになる。今宮道は西条藩領であり前神寺・極楽寺の信徒が、黒川道は小松藩領であり横峰寺信徒が利用したようである。
今は静かな河口集落であるが、かつては宿も3軒あったようで、登拝者で賑わっていたのだろう。大正末に開削が始まった県道も大正?年(1926)には、この河口まで伸びた。バスも昭和6年(1931)には河口までの運行をはじめたという(大正?年とか昭和4年との記事もあり、はっきりしない)。
バスの運行とはいうものの、昭和4年(1929)小松から河口まで走ったバスは6人乗りという。それもあってか、戦前は歩きが主流であったようだが、戦後昭和28年(1953)西条から西之川への定期便が開始されるようになると、昭和30年頃には歩く人はほとんどいなくなった(「えひめの記憶」)とのことである。 歩きがバス利用に替わっても、成就社への登拝道の取り付口が河口であることに変わりはなかったが、それが変わったのは昭和43年(1968)西之川の下谷から成就社間に開始された石鎚登山ロープウエイの運行。成就社の少し下、標高1300mまで7分32秒で行けることになった。こうなれば、よほど信仰深き人でなければ、河口から登拝道を4時間ほどかけて成就社まで登ることもなく、河口はお山への登拝道の取り付口としてのその役割を終えた。
今宮道参道:6時50分(標高199m)
河口からの石鎚三十六王子社の登拝道は、今宮道からはじめ、途中で三十六王子社道は尾根筋の険路に分かれ、標高950m辺りで再び今宮道に合流し成就社に向かう。
今宮道の取り付口は三碧橋を西之川方面にちょっと入ったところにある。県道に沿って斜めに登る参道には鳥居が建つ。県道の広いスペースに車をデポし散歩を開始する。
●今宮道
今宮道がいつの頃開かれたのかはっきりとした資料は見つけられなかった。ただ、庶民がお山に登るようになったのは江戸の頃であろうから、その頃整備されていったのではないだろうか。
で、この今宮道は西条藩の領地であり、登拝者も前神寺、極楽寺の信者が登っていった道と言う。現在は住む人もなく廃墟となっているが、山中の今宮集落には昭和33年(1958)には32世帯が住み、そのうち12軒が宿を供していた(「えひめの記憶」)とのことである。集落の最盛期は大正の中頃とも言われるが、それでも石鎚ローウエイが開設される昭和43年(1968)までは宿の機能を果たしていたのだろう。
◆黒川道
今宮道と対をなす、もうひとつの登拝道である黒川道は小松藩領。横峰寺の信者が上って行った道と言う。昭和37年(1962)で24世帯、うち七軒が宿を供していたとのこと(「えひめの記憶」)。
◆丸八地蔵
鳥居のある参道に入ると道脇にお地蔵様。弟のHPに拠ると、今宮集落の守り神とある。今宮集落での最後の旅館が「丸八旅館」。その祖である長曽我部氏の家臣伊藤八兵衛が今宮の集落を開いた、とあった。
三光坊不動堂跡:7時15分(標高367m)
県道に沿って登る今宮道を進み、ほどなく右に大きく振れた道を進んだ後、尾根筋を少し外し気味に、高度を150mほど上げた辺りで再び道は右に大きく振れる。その道が再び尾根筋を巻き気味に左に曲がる辺りに倒壊した建物が見える。三光坊不動堂跡である。
三光坊は元讃岐のお武家さん。石鎚大神の信心故か、地元の人に尽くし、その後石鎚のお山に籠って修行三昧。修行の成果にと天狗嶽からダイブ。が、フライングハイとはならず、落下死とはなるが、不思議なことに外傷はなかった、とか。地元民はこれを嘆き、修行の地にお堂を建てて祀った、と。
第七四手坂黒川王子;7時16分(標高367m)
崩れたお堂の裏手は平坦な地となっており、王子社の幟(のぼり)が見える。第七四手坂黒川王子である。積まれた石板の上に石殿が置かれ、その後ろに赤い前掛けの王子石柱が立つ。
第八黒川王子社;7時17分(標高367m)
第七王子社の直ぐ裏手、崖手前に第八黒川王子社。積まれた石板の上に石殿が置かれ、その後ろに王子石柱が立つ。赤い前掛けはないが、第七王子社と同じ並びの王子社である。場所からみて、覗きの行場のようである。
それにしても、同じ場所に二つの王子社が並ぶ?『石鎚 旧跡三十六王子社』には第七王子社が第七四手坂黒川王とも黒川王子社(覗き行場)とも、第八王子社が第八黒川王子社とも今宮王子社とも記され、少々混乱している。
王子社の解説にも、ふたつまとめ「(前略)河口より今宮道を登ること八百米、曲がり角に椎の大木がある道の傍に木造の小さい祠が四手坂王子である。大きい祠が三光坊不動堂と云い、香川県坂出の行者三光坊(常盤下勝次郎)の霊を祀ってある。
その裏を少し行くと峙(そばだ)った岩があり、真向かいに黒川宿所を手に取る様に眺め、眼下に断崖幾十丈もあろうか雑木が生い茂り、黒川谷の水音が爽やかに聞こえる。この王子も覗の行場である。この二つの王子を昔から黒川今宮両社の王子と云い伝えられているが、更に次の第九番目を又四手坂王子と唱えている処に、今後尚研究の余地がある」とあった。
更に言えば同書には「今宮四手坂にあり、子安場王子実は第七四手坂王子、第八黒川王子と云い、細道を下るとすぐ県道河口線に出る。。。」ともあり、なにがなにやらさっぱりわからず、といった解説となっている。はてさて。
藁葺のお堂・今宮道から離れる;7時28分(標高397m)
7時20分過ぎ、王子社から今宮道に戻り、尾根から少し外れた道を歩き高度を50mほど上げたところの石垣に黄色と赤の王子社道標がある。道標の先には倒壊した建物と、その奥に藁葺のお堂が見える。この辺りから王子社の登拝道は今宮道から離れ尾根筋に向かうことになる。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮字四手坂にある黒川今宮両社の王子社から登山道を登る事約二百米に四手坂行場がある。お山開き大祭の頃はこの休場で一休して登る。お山名物のトコロテンやアメユ等を売る掛茶屋である。一軒残った家も今は空家になっている。
この家は代々多郎左衛門を襲名する旧家で、当主も藤原多郎左衛門氏で現在は西条市に転居している。この家のすぐ上に地蔵堂があり、旧盆には今宮の部落民が盆踊りを夜を徹して踊ったものだが、今はほとんど絶えてしまったようである。
昔はこの地蔵堂が百米ほど上の森の中にあって権現堂と云い女人禁制であった。明治維新まで(神仏分離以前)は別当前神寺の上人が石鎚大権現門開祭を毎年三月三日この所に来て執行し、この祭りの常宿は藤原多郎左衛門宅であった。前神寺の上人が此の所に来るにも又お山に登るにも迎え送りは多郎左衛門が刀持ちとしていつも奉仕したと伝えられている」とある。
石垣の辺りには藤原多郎左衛門氏の屋敷があったのだろうか。また、倒壊した建物は掛茶屋?藁葺のお堂は地蔵堂跡であろう。
第九四手坂王子社;7時33分(標高420m)
お堂脇を等高線に平行に少し進んだ後、尾根に向かって10mほど上ったところに、まことにひっそりと王子社が佇む。石仏はなく、石殿と石柱、それと石殿左前に鉄の蝋燭立てのようなものが見える。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「地蔵堂(私注;前述地蔵堂の百メートルほどの森の中の権現堂のこと?)の屋敷跡に、高さ一尺位の円筒様の鉄の祠が祀ってある。四手坂王子第九(私注:「第九四手坂王子」の誤植?)であると云われるが、一説では移転した地蔵堂ではないかともいわれている」とある。
鉄の蝋燭立てらしきものが、説明にある鉄の祠であろうか。また、当日は見逃したが、弟の記事には王子社を廻り込んだ右手上に、石灯籠など、神社跡らしき場所があったようだ。
尾根筋に;7時40分(標高436m)
第九四手坂王子社から20mほど高度を上げると尾根筋に出る。道は急登ではあるが「四手:四つん這い」になるほどのことはなかった。細尾根を進み高度を100mほど上げると王子社の幟が見えてきた。
第十二之王子社;7時52分(標高544m)
きちんと積まれた石板の上に王子社石殿、その後ろに石柱、石板の前には誠に小さな鉄の鳥居と、先ほど見た鉄の祠が置かれる。またお札を入れる真新しいステンレスの箱も置かれている。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮字四手坂王子から約三百米ほど上に楢、椎樫の大木が繁茂し、眼下に黒川宿所を又目を転じると河口三碧峡あたりを眺め、実に風景絶佳日の暮れるのを知らぬほどである。
小さい鉄の鳥居と鉄の桐が祀ってある。昔は河口より今宮へ峰伝ひに登山道があり至って急坂でこの附近一帯を四手坂と名付けられた訳は、急坂を両手両足で四つんばいになって登ったことから、四手坂と呼ぶ様になったものと考えられる。今は四手坂の休場から斜めに今宮へ道が改修されているので二の王子へは細道はあるけれど人通りもなく、置き去りとなり今宮の人でさえ知らぬ人が多い様である」とある。
右手の黒川谷側は崖。木々が茂りそれほど見通しはよくない。また、説明にある「目を転じると河口三碧峡あたりを眺め、実に風景絶佳日の暮れるのを知らぬほどである」は、植林のためか、まったく見晴らしはきかなかった。
第十一小豆禅定王子社;8時12分(標高656m)
左手に植林、右手崖に自然林の間の岩場の多い尾根筋を20分ほど歩き、高度を120mほど上げると王子社の幟が見える。途中鎖場もあった。
尾根筋からの黒川谷の眺めは木々の間から、というものであったが、この王子社辺りは右手が開け、いい眺めが楽しめる。
王子社石殿は尾根筋下に向かって立つ。また、王子社石柱は、いままでの石柱のように柱に像が刻まれたものではなく、頭部が像の形に彫られていた。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮にある、二之王子から矢張り、峰伝いに約二百米位登ると、老松の大木が枝を張りその周囲に小松や雑木が密生し、一つの森を形成しているが祠のようなものは一物も見当たらない。神厳な森そのものが小豆(おまめ)禅定王子である。
ものもらい(目いぼ)が出来ると、この王子へ来て小豆を供へ石鎚大神に願をかけ、その小豆一粒を目いぼにあてて落とし「小豆かと思ったら目いぼが落ちた」と唱えて後を見ず帰ると必ず目いぼが治ると伝へられている」とある。
「祠のようなものは一物も見当たらない」この地を王子社としてどのようにして比定?同じく『石鎚 旧跡三十六王子社』の真鍋充親氏の紀行文には「(前略)磐場がある。ここに第十一小豆禅定王子社のあととみられる岩場に絶好の社あとをみつけて一行はここだと声をあげる。そして祭りをはじめる。だれいうとなしにこの王子社のあとを確定し、はっきりしたまつり場所を設けておこうということになり、各人二ヶ三ヶと石を運んでくる。そして小さな岩場ができあがった」と記されている。斯くして王子社を比定したということだろう。
第十二今王子社;8時24分(標高705m)
この王子社は主尾根筋から離れた支尾根にあった。第十一王子社を離れると大岩が現れ、道標に従い岩を左に迂回し、そのまま支尾根に向かって少々荒れた植林の中を横懸けに50mほど登る。第十二今王子社は支尾根乗越しの平場にあった。石組の上に王子社石殿とその後ろに石柱。ステンレスのお札奉納箱の組み合わせの王子社であった。
『石鎚 旧跡三十五六王子社』には「今宮にある、小豆禅定王子から四百米ほど登ると、楢、しでの大木が2畝位に茂っている。今宮部落の西方の屋根を廻り五百米位の所である。この王子も祠も何もないが、展望台のようである。今は薪取りや山の手入れをする人の外は人足も少なく、狸が住んでいると云う。土地の人は(いまおやじ)と呼んでいる」とある。
ここも如何にして王子社と比定したのか?第十一王子社と同じく『石鎚 旧跡三十五六王子社』の真鍋充親氏の紀行文には「今王子社と書かれた石標を見つけた」とあった。祠はなけれど石柱があった。ということだろうか。 それはともあれ、続いて「大きな自然林が四囲をはばんでいたが、この高い嶺は凡くもっと往古もっといろんな祭祀、祈祷の行場として登場したのではなかったかと思われた。(中略)相当にひろい敷地はいろんな修験行事をおこなうに適当だったと考えられる」と、行場の可能性を記していた。
第十三雨乞王子社;8時59分(標高834m)
第十二王子社は再び主尾根筋に戻る。支尾根から少々荒れた植林地帯の中、岩や倒木の間を縫って稜線を巻き気味に100mほど高度を上げると、一転穏やかな尾根筋の平場の道となる。
第十二王子社から30分程度で第十三雨乞王子社に。王子社石殿、石柱、ステンレスのお札奉納箱の王子社であった。『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮にある。今王子から尾根を登る事五百米、坂はけわしく、たどれば細い道はあるが雑木雑草が生い茂り通れない。
一旦今宮部落に出て登山道乳杉の林を抜けて曲がり角の附近から山道を登り尾根に至ると、廻り丈令の栂の大木数本あり、境内もよろしく見晴らしも良い。元金比羅社を祀ってあったが明治四十二年神社合併の時、今宮の氏神三倍神社へ合祀され、今はお社の跡のみ残っている。この王子は昔旱天の時土地の人々が集まり、石鎚大神に雨乞いすると雨が降ったと云う。今宮部落の人はこの雨乞王子を雨降(あまもり)と云っている」とあった。
同書では一旦今宮部落に下りた後、この王子社に向かっているが、王子道標は直接尾根筋に向かっていたため、我々は直接尾根筋に向かった。金毘羅さんを祀っていたとのことだが、特段それらしき痕跡を見ることはなかった。
今宮道に出る;9時9分(標高867m)
第十三雨乞王子社からしばらく標高840mに沿った平坦な植林の道を進む。その後30mほど等高線に垂直に上り、標高870m沿って進むと今宮道に出る。今まで辿った王子社道とは異なり、よく踏まれてあり、快適な登山道となっていた。
第十四花取王子社;9時32分(標高981m)
踏み込まれ掘れ込んだ今宮道は尾根筋を巻くように緩やかに登る。「河口(今宮登山道) 成就」などと書かれた道標を見遣りながら20分強進み、笹が現れる左手に王子社が見えてくる。第十四花取王子社である。
王子社石殿とお顔が彫られた石柱とお札奉納箱。石柱の少々いかついお顔が印象的。王子社の後ろは細尾根が下っている。『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「今宮登山道にある。雨乞王子から再び乳杉上の参道に出て、登ること約八百米、ちょっとした尾根の曲がり角がり、そこ5花取場王子である。森らしいものも石像もない。仏者が管理していた頃、石鎚山の祭典に捧げる華(しきび)取った所と伝へられている。今に香華の木がある。十年ほど前に或る行者が占いたるところ、この王子の付近に往時、仏者がお山参りには不要といって小判を埋めてあると云うので、人夫十数人を雇い掘ったが何一物も見つからなかった。察するに高山では香華が育たないのでお金の様に、貴重なものと云う意味ではなかろうか」とある。
また同書の真鍋充親氏の紀行文には、「石標はあるが祭祀の場は見つからない」に続いて、「一行は石標のある一帯を探る。(中略)「かくされた黄金」を求めて、大規模な発掘をしたという崖を求めて歩きまはる。埋蔵金のありかなど勿論みつからなかった」と記されていた。
水場:9時39分(標高1,022m)
道を進むと大きな木の下、岩の間から水が浸みだす。『石鎚 旧跡三十六王子社』には「花取王子社から登る途中に岩の間から清水が流れている。今宮登山道では唯一の水飲場である」とある箇所ではあろうが、水量は少々乏しかった。
第十五矢倉王子社;9時49分(標高1,065m)
第十四王子社から尾根筋を巻き気味に高度を100mほど上げる。木々の間から瓶ヶ森方面だろう山々が顔を出す。少し先に進むと崩壊した建物があり、その先に王子社がある。第十五矢倉王子社である。
石殿、石柱と共に、この王子社にはお地蔵さまが佇む。また、石殿の右手には神社の手水場のような石造りの遺構が残る。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「そこ(私注:水飲場)を過ぎて凡そ三百米位にして矢倉王子に至る。大杉の元に石像が安置されている。石鎚山開祖石仙上人が初めて石鎚山に登り神在りますことを明らかにせんと、久しくこの処に参籠し祈念したと云う。それは四手坂の藤原多郎左衛門氏方に、石仙菩薩尊像記の古記録として残っている。ここからは南に瓶ヶ森の高原を、その下方に西之川部落を眺め、北は連なる山々を越えて瀬戸の内海が見える。至って眺望のよい処である。夏山の季節には茶店が出された。吹き上げて来るは涼風は夏知らずと云う」とある。
同書、真鍋充親氏の紀行文には「大きな杉のもとに地蔵尊が赤ちゃけた前掛けをかけて坐しておられる。その温顔は遥か西之渓谷の真上に雪をいだく瓶が森にむけられていた。瓶が森に今も石土信仰を奉拝する人々があることとのかか わりが偲ばれる」とあった。倒壊した建物は茶屋のようである。
矢倉王子社はなんとなく、王子社の中でも「特別感」のある場所であったように思えるが、瓶ヶ森にしろ、何にしろ、植林のため同書に記載の如き眺望は全く、ない。
◆石仙上人
第十四王子社から第二十王子社まで |
石仙高僧とは前神寺、そして横峰寺の開基とされる高僧である。「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「石鎚山のことが最初に見えた文献は『日本霊異記』(年間成立弘仁八一〇~八二四)である。それによると寂仙という浄行の禅師がいて石鎚山で修行し、人々から菩薩とあがめられていた。寂仙は天平宝字二年(七五八)自分は死後二八年後に国王の子に生まれかおり、神野と名づけられるであろうとの言葉を残して死亡した。その予言通り桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名づけられたので人々は寂仙の生まれかわりと信じた。
この転生説話は当時広く信じられていたらしく、『霊異記』より約六〇年後の元慶二年(八七八)に撰せられた『文徳実録』にも類似話を載せている。しかし、ここでは転生したのは灼然という高僧の弟子上仙ということになっている。彼は高山の頂に住み、精進して師の灼然に勝って諸の鬼神を自由に使役した。彼は常に天子に生まれたいと願っていたが、その臨終に及んで人々に告げ「われもし天子に生まれたら郡名をもって名字にする」と予言して死んだ。ところが同郡橘の里にあって上仙を供養した橘の躯というのがあったが、上仙の跡を追い、来世での転生を希望して死んだ。神野親王(嵯峨天皇)とその妃橘夫人(檀林皇后)はそれぞれの後身である」といった記事がある。
『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」とあり、また寂仙に音の似通った「灼然」が登場するなど少々混み入ってはいるが、第一福王子に登場する「石仙」とは、「寂仙」とも「上仙」とも比定される。名前はともあれ、石仙とは役小角が開いたお山を修験の地となした奈良中期の修験僧のようだ。石鎚のお山に熊野権現を勧請した芳元と同時代の僧とのことである。
石仙はお山に籠もって修行に努め「菩薩」とまで称えられた。登拝路を開き、横峰寺(四国八十八番札所六十番)、前神寺(四国八十八番札所六十四番)を開き、石鎚のお山を神と仏が渾然一体となった神仏習合の霊地として、明治の神仏分離令まで続く石鎚信仰のベースをつくりあげた高僧のようである。石鎚のお山を深く信仰した人々は桓武天皇、文徳天皇といった天皇から、源頼朝、河野一族、豊臣家といった武家など数多い。
なお、前神寺や横峯寺の開基縁起に登場する石仙(寂仙・上仙)が所属していた寺院は、小松の法安寺とされる。聖徳太子の伊予行啓の際に創建された寺院の境内に残る遺構・礎石跡は国指定史跡となっている。
第十六山伏王子社;10時22分(標高1,209m)
第十五矢倉王子社から尾根筋を巻き気味に30mほど登ると、ほとんどフラットな尾根筋に入る。その尾根道もほどなく次第に急な上りとなり、ジグザグに60mほど高度を上げると再びフラットな尾根筋となる。
その道脇に王子社への入り口の鉄柱があり、それを目安に尾根道を離れ少し下り気味に、西に突き出た細い支尾根突端部に向かうと、そこに王子社があった。 松の大木を後ろに、石殿と石柱が並ぶ。第十六山伏王子社である。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「矢倉王子から参道を約一粁(キロ)登ると、栂の大きな自然木が枝を張っている。ここから小道を右に向って、尾根を約二百米ほど行くと、岩山に森があり中に五葉松の大木がある。眼下は幾十丈の断涯(だんがい)で遥かに右下方に黒川宿所が絵図の様に見え、真下に黒川登山道の行者堂を見下ろす。別当寺管理の頃、天台宗の各坊が石鎚登山に際し山伏等此の行場で一夜籠もって、心を改め身を清めて登山したと言うが社殿の形跡はない。即ち(山に伏す)野宿の行場であろう」とある。
高所恐怖症の我が身は、断崖端に行き黒川の谷筋を見下す気にはなれないが、五葉の松を配したこの王子社のロケーションは、いい。
第十七女人返王子社;10時28分(標高1,217m)
山伏王子社から今宮道に戻るとすぐ先に女人返王子社がある。王子社石殿と石柱、お札奉納箱、そしてお賽銭箱らしきものも供えられていた。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には、今宮登山道にある。山伏王子から元の道へ引返すと、前記の栂の大木の処が十米位横道になっている。そのすぐ上が女人返しの王子である。此処にも祠らしきものは見当たらない。明治初年迄、女人はこの王子まで登り遥拝し之より上は登山を禁じた所と云う」との説明に続けて、 女人返しの由来が語られている。
少々長いので、大雑把にまとめると、「その伝説に、太古、石鎚大神がお山山頂に上る時、伊曽乃神(女神)が、いつまでも後を慕ってくる。霊山にて修行する石鎚大神は少々困惑し、再び会う日(12月9日)を約束し、修行のお山に登って投げる石の落ちた所で待ってほしいと願う。が、約束の日はあいにくの大雪で会うことができなかった、と。
石鎚大神が投げた石が落ちたところは加茂川橋の北の岡。伊曽乃神社表参道入り口大鳥居の処には、その大石が保存されている、とのことである。
ふたりの神のお話、地元に伝わるお話ではあろうが、投げ石の話はそれはそれなりにわかるのだが、「大雪で会う事ができなかった」の件(くだり)は何を 言いたいのかさっぱりわからない。だからどうなの?が抜けており、なんとなく「坐り」がよくない。
あれこれチェックするとこの話にはバリエーションがあり、石鎚大神が訪ねて行くと約束しながら、その約束を守らなかった、といったものもある。右足を上げた石鎚蔵王大権現の像もあるというが、それは約束を破られ怒った伊曽乃神が現れたとき、天に逃げあがろうとする姿といったお話もあるようだ。少々「出来過ぎ」の感はあるが、それであれば、それなりに「坐り」は、いい。
スキー場に出る;10時40分(標高1,275m)
第十七女人返王子社から緩やかな上りを10分ほど、高度を40mほど上げると平場の道になりスキー場リフトが目の前に現れる。その脇を抜けるとスキー場のゲレンデが広がる。
土径がゲレンデに出る辺りに「今宮登山道 河口まで6,0km」と書かれた道標が立つ。ゲレンデの遙か彼方に見える瓶ヶ森から笹ヶ峰への稜線が美しい(注;山は詳しくないので、カシミールの「カシバード」で確認)。
スキー場に出たといっても、道は木々の間を進む。上下2箇所あるゲレンデの間の道を進んでいるようである。道脇には「今宮道 成就まで1km」の道標も出てきた。目的地まで指呼の間である。
奥前神寺;10時50分(標高1,033m)
道を進み奥前神寺に。石鎚ロープウエイから成就社に向かう道の途中に建つ。少々簡素な造りではある。明治の神仏分離令により、現在の石鎚神社中宮・成就社となっている山岳修験の拠点「常住」を含め、寺所管の土地建物など一切が没収された石鎚大神の別当寺前神寺が、寺に復した後に建てたもの。一時河口集落に造られたが、ロープウエイの開通にともなう人の流れの変化に対応し、この地に移したようである。
7月1日から10日までの石鎚お山開きは、現在前神寺所管の土地建物を引き継いだ石鎚神社がその主体となり三種のご神像(仁・智・勇)を本社から成就社を経て頂上社へお祀りする神事が行われているが、前神寺でもこの期間「石鎚蔵王権現」三体を里前神寺からこの奥前神寺まで持ち上げる盛大な仏事が行われる、と。
西之川道分岐;10時58分(標高1,352m)
緩やかな道を高度を50mほど上げると、左下から西之川道が合流する。石鎚ロープウエイのある下谷から少し上流から上ってくる。「次回は西之川道ですね」などと話し合っているのを他人事として聞いていたのだが、メモする段になって、王子社の第二十一番は、一旦西之川の谷筋まで下りて再びお山へ登ることがわかった。尾根筋を石鎚山の弥山へと登って行くのだろうと思い込んでいたのだが、結構ショック。
第十八杖立王子社;11時1分(標高1,365m)
西之川道分岐からほどなく第十八杖立王子社。王子社石殿、石柱とお札入れのセットである。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮参道上にある。成就社下の西之川へ下る三叉路の上の森にあって明治初年まで参詣者はお山杖をこの王子に立ておき、勇気を振って無杖で登山するのを例としていた。沢山の杖がまちがわず一本として紛失する事がなかったと云う」とあった。
第十九鳥居坂王子社;11時9分(標高1,413m)
第十九鳥居坂王子社は成就社へ向かう道からはずれる。『石鎚 旧跡三十六王子社』の真鍋充親氏の紀行文には「成就社東遊歩道は近年つくられたものである。原生林の中に古い登山道が残っていた。その古い登山道をゆくと成就の東の山頂に至る、そこを鳥居坂と称し、王子社が祀られている。第十九鳥居坂王子社である」と記される。
杖立王子社から2分程度で「第二園地入口」の道標があり、そこを左に折れると自然林と笹の美しい景観の中に入る。この道が真鍋氏の記す「古い登山道」だろう。鳥居坂王子社は巨木を背に、王子社石殿、石柱、お札入れのセットで並んでいた。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「成就社東の山頂にある。明治の末期まで杖立王子から上へ登りついた山頂(現在の白石別館の上の方)鳥居があった所である。今の成就社の神門はここより現在地に移転したがこの神門は文政天保の頃、別当前神寺と横峰寺が成就社の境内争いをした時に、前神寺が建立したものと云う」とある。
前神寺と横峰寺の争いは既にメモしたので、ここでは簡単にまとめると;共に石鎚のお山信仰の別当寺ではあるが、前神寺の山号は「石鉄山」、「仏光山」を山号とせよとの裁定に不服の横峰寺が「石鉄山」山号を冠することを求め続けたことが争いの根にあるように思う。
上のメモに「文政天保の頃、別当前神寺と横峰寺が成就社の境内争いをした時」とあるが、これは上記紛争の延長戦上の事件。小松藩領千足山村の者による常住社(現在の成就社)打ちこわし事件が起こっている。この地は小松藩と西条藩の境界であり、千足山村の言い分は、常住(奥前神寺)は小松領であり、西条藩の前神寺は不当、ということでの打ち壊し事件である。お山信仰の正当性を主張する「山号」紛争から、小松藩・西条藩の領地争いへとなっている。で、幕府の裁定は、成就社の地所は千足村、別当職は前神寺と。単なる問題先送りといった裁定のように見える。
この鳥居坂王子の辺りに前神寺が鳥居を建立したのは、こういった事情も踏まえたものだろう。この山頂はは西条藩の領地ではあったのだろう。
第二十稚児宮鈴之巫子王子社;11時16分(標高1,402m)
鳥居坂王子社のあるピークから20mほど下り、成就社の大きな鳥居、さらには境内にある小振りな鳥居(これが二の鳥居?)を抜けて拝殿に御参り。拝殿左手にある弥山遥拝殿の右手、八大龍王の祠の傍に第二十稚児宮鈴之巫子王子社があった。王子社石殿、石柱、お札奉納箱のセットではあるが、なんとなくとってつけたような雰囲気ではある。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「海抜1450米の中宮成就社にある。本殿と並ぶ石標が王子である」と記されるが、その由来は記されてはいない。また、王子社の写真も、木の切り株と石柱が写るだけである。
同書の真鍋充親氏の紀行文にも「成就社神殿裏の(中略)この王子社の尊称と、その出緒に就いては詳しいことは三十六王子調べ(私注;亀宮司の王子社解説)にもかかれていない。しかし(中略)石碑はいたく凍りついて(中略)怪しく輝いて拝された」とある。
この王子社はわからないことが多い。まず、場所も十亀宮司は「本殿と並ぶ石標」とあるが、真鍋氏は「神殿裏」とある。これは単なる表現の違いなのだろうか。
次いで、十亀宮司解説の稚児宮鈴之巫子王子社の写真には、他の王子社にある王子社石殿が写っていない。各王子社の石殿は、昭和51年(1976)に王子社石殿奉納事業として信者の奉参により建立されたものであり、昭和46年(1971)、十亀宮司一行の踏査行の時にはなかったのだろうが、この小冊子が昭和62年(1987)に第三版が発行されるときに、他の王子社は石殿も配した写真に取り換えているようだが、この王子社にはそれがない。同書の石殿奉賛事業のページには石殿が写っているので、単なる凡ミス?
また、石柱もそうである。切株とともに写る石柱は他の王子社のそれに感じる古き趣がない。昭和6年(1931)第十代武智通定宮司の時代に建てた石標とは思われない。昭和55年(1980)に成就社が大火焼失したとのことであるが、その時に古き石柱、そして昭和51年奉納された石殿も一時行方不明となったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
いろいろわからないことが多いこの王子社であるが、上記真鍋充親氏の紀行文では、そもそも、この王子社の尊称も不明の様にも読める。「稚児宮鈴之巫子王子」って、いかにも熊野権現の分身として出現する「王子」の由来である御子神のイメージ、それに鈴とか巫といった「神社」のイメージを重ね合わせたネーミングのように見える。この名称は十亀宮司が比定した場所と名称であるが、その他の説には、成就社に「八大龍王王子社」といった名称もある。よくわからない。
あれこれの考察は必要とは思うのだが、今回のメモはわからないことばかりの第二十王子社でメモを終える。成就社から黒川道を下るメモは次回に廻す。
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