火曜日, 6月 25, 2019

讃岐 歩き遍路:七十五番札所 善通寺から七十六番 金倉寺を打ち七十七番札所 道隆寺へ ①

先回のメモでは七十二番札所 曼荼羅寺からはじめ、七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺を打ち七十五番札所 善通寺までの道筋を辿った。
今回は善通寺参拝からはじめ、七十六番 金倉寺を打ち七十七番札所 道隆寺へ と旧遍路道を辿る。おおよそ7キロほどだろう。
メモは2回に分ける。ついでのことではあるので、2回目には善通寺から金毘羅宮までの金毘羅道もメモした。善通寺から金毘羅さんはすぐお隣。これまた7キロほどである。善通寺から金毘羅宮を参詣し、七十六番 金倉寺への遍路道に戻る方も多いのでは、との想いではある。
本日のルート;第七十五番札所善通寺>赤門>乳薬師>神櫛神社で左折>県道25号を越える>金毘羅石灯籠の標石>村上池西の標石>旅姿大師の標石>民家脇の標石>茂兵衛道標(121度目)>第七十六番札所 金倉寺



第七十五番札所・善通寺

先回は七十四番札所・甲山寺から南に下り、善通寺の境内を二分する道に入り、西の本坊境内脇の水路に架かる廿日橋までメモした。今回は善通寺のメモから始める。

五岳山屏風ヶ浦誕生院善通寺。真言宗善通寺派総本山。真言宗では高野山金剛峰寺、京都の東寺と共に大師三大遺跡のひとつとされる。西の本坊境内、東の伽藍境内からなり、共に結構大きい。四国で最大の寺域と言う。それでも往時の半分のスケールとのこと。
空海誕生の地ともされる。誕生院の所以である。ちなみに屏風浦とは善通寺の西に連なる五岳山(香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山)の峰々が海に向かって屏風の如く屹立する故。かつてはこのあたりまで海が迫っていた、と言う。

空海生誕の地ともれえるこの地であるが、空海の生家である佐伯氏は、代々讃岐の国造の家系。善通寺域一帯が空海の父である佐伯善通卿の邸宅であったとも、佐伯氏の氏寺であったとも言う。

弘法大師生誕の地は、以前歩いた海岸寺も、そう呼ばれる。どちらが生誕の地であるか門外漢には分からないが、どちらも共に空海ゆかりの地ではあるのことに変わりはないだろう。

寺伝によれば、唐より帰朝した空海は大同2年(807)、この誕生の地に唐の都長安の青竜寺を模した寺院建立を計画。空海の父である佐伯善通卿よりこの地の寄進を受け竣工。父の名をとり善通寺とした。敷地は現在の凡そ倍。15の堂塔、49の僧坊よりなる大寺院であった、と。

その後一時荒廃した時期もあったようだが、その都度朝廷や時の権力者の助けにより寺威は続くも、永禄の大火により伽藍は悉く灰燼に帰す。現在の伽藍はその後再建されたものである。
永禄の大火
戦国時代、主の細川氏を倒し阿波をその手におさめた三好氏は讃岐に侵攻。東讃を抑え、次いで西讃を窺うが、西讃に覇を唱える香川氏が天霧城を拠点にそれに抗する。
戦は膠着状態となり三好氏は善通寺をその本陣とし相対する。結局は天霧城を攻略できず和議を結び阿波に戻ることになるが、退陣の折の残り火が燃え広がり善通寺は焼失した。これを永禄の大火と言う。永禄元年(1558)のことである。

さてと、かつては誕生院と善通寺という二つの寺でもあったと言われる本坊境内と伽藍境内、どちらからお参りしようか?
と、小学校の修学旅行での思い出、漆黒の通路を歩いたお堂からはじめようと思い立った。チェックするとそのお堂は本坊境内の御影堂、所謂大師堂の地下の戒壇巡りと言う。ということでまずは西の本坊境内、誕生院からお参りをはじめる。


■本坊境内■

廿日橋
廿日橋、といっても用水路に架かる石橋ではあるが、橋を渡る。勅願寺であった当寺は、一般の参拝は二十日だけと限られていたその歴史が橋名の由来、とか。橋の少し南には勅使門がある。

仁王門
金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370)の作と言う。運慶につながる運長の作との記事もあるが門外漢にはわからない。わからないが、運長といえば江戸時代の京都の仏師である北川運慶だろうし、であれば時代は大きく変わる。 運長は、西大寺(奈良県)の愛染明王(あいせんみょうおう)坐像(重文)や、高野山真言宗総本山金剛峯寺(和歌山県)の金剛力士立像(吽形(うんぎょう)像、重文)などの作者として知られる。

御影堂回廊
仁王堂を潜ると屋根付き回廊が御影堂へと続く。大正4年(1915)に建てられたというから、それほど古いものではない。が、なかなか、いい。






御影堂
大師堂のことを当寺は御影堂と称する。御影堂は札堂・中殿供養殿・奥殿と分かれ、奥殿には大師直筆の「目引き大師」の絵像が祀られるとのことだが、興味関心は何十年ぶりの漆黒の通路歩き。
戒壇めぐり
お堂に入り右手より階段を下りる。すぐに真っ暗。漆黒とはこういうことを指すのだろう。空間感覚もマヒ。
通路の壁に手を付け、それを頼りに進むしかない。通路には曼陀羅の諸仏が描かれているとのことだが、見えるはずもない。恐る恐るすり足で歩を進めると薄明りに地蔵尊が浮かぶ。ここが凸となっている地下通路の先端部。センサーで感じるのか、突然流れる空海のお話をしばし聞き、そこからまた漆黒の通路を戻りお堂に出る。
うっすらとした記憶ではコンクリートの通路ではなく木であったようにも思うのだが、はっきりしない。ともあれおおよそ100mほどの距離だが結構懐かしい思い出を追体験できた。

親鸞上人堂
御影堂に向かって右手、親鸞上人堂がある。親鸞上人自作の親鸞上人尊像が祀られる。案内に拠ると、「鎌田の御影」と称されるこの尊像は、上人が下総国鎌田庄(現在の千葉県市川市)の信者宅に滞在し法談。帰洛を惜しむ信者のため上人自ら木像を彫ったもの。
その背に残された「讃岐善通寺は弘法大師生誕の霊地にてわが師法然上人は彼の地に詣でて自ら逆修の塔を建てたまえ、我も彼の寺へ詣でなんと思えど、その願いを果たさず。願わくはこの像を彼の地に送り、今生の願望を遂げしめよ」との遺命によりこの地に送られたものとある。


■伽藍境内■



中門
廿日橋に戻り、中門を潜り伽藍境内に入る中門を潜る。五重塔、楠の巨木が印象的。

金堂
中門から境内を直進すると左手に金堂。所謂本堂である。七間四面、二層のどっしりした建物。本尊は薬師如来。空海の作とされる永禄の戦火で破損した元の薬師如来をその胸に納める、と。3メートル弱の仏さま。上述運長の作との記録が残る。
戦国時代に金堂が消失して以後、善通寺には金堂も五重塔もない状態が続くが、江戸期の入り元禄年間に再建の動きが本格化する。
元禄7年(1694)に、仁和寺門跡が大師誕生之霊地として善通寺伽藍再興をうながす令旨を出し、元禄?年(1699)金堂が棟上され、翌13年本尊薬師如来坐像が、上述京都御室の大仏師北川運長の手によって完成した、とのことである。




五重塔
境内に三間半四方、およそ45mの五重塔が聳える。現在のものは四代目。弘化2年(1846)着工、明治17年(1884)完成、総けやき造りの塔と言う。
「はあ、大師慕って霞に中を 娘遍路の鈴が鳴る 夢を誘うような五重の塔に  偲ぶ想いに花が咲く(?;このあたりうろ覚え) 来なよ 寄りなよ おいでなよ ほんまに ええとこ 善通寺 善通寺」。
小学校での修学旅行の時バスガイドさんに教えてもらい、いまだに忘れずにいる善通寺の歌を思わず小声で歌う。



楠の巨木
南大門を潜って左、楠の巨木が残る。幹の周囲12m、高さ40m。香川県の天然記念物に指定されている。その西側、善通寺領の氏神である五社明神社を覆うように、さらに巨大と思える楠の巨木が残る。案内に拠れば、空海はその著『三教指帰』に「楠が日を遮る浦に住まう」といったことを書いている。また、『全讃史』にも「楠の巨木があり大師誕生の時よりある」といったことを記していた。
楠の巨木と言えば、田舎である愛媛県新居浜市の家の周りにもいくつもあった。今はすべて伐採されてしまっている。この歳になってそれを惜しむ。

佐伯祖廟
五社明神社を覆う楠の巨木の近くにこじんまりとした社が建つ。案内には「弘法大師は宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(善通寺)にお生まれになりました。
この地方の豪族、佐伯直田公(さえきあたいたきみ)・善通卿と玉寄御前(たまよりごぜん)の三男です。
この佐伯祖廟堂には父君善通卿と母君玉寄御前の御尊像を泰安してあり、「佐伯明神」、「玉寄明神」と称しております。なお五色山の頂上には佐伯家代々の霊廟がございます」とあった。
香色山
案内にある五色山とは、善通寺の西隣、標高157mほどの香色山(こうしきやま)のことだろう。山頂には「佐伯直遠祖神」と刻まれた石碑が立つ。

三帝御廟
伽藍境内西南隅に三帝御廟がある。「総本山善通寺に綸旨院宣を賜い御信心深い後嵯峨・亀山・後宇多三天皇の御遺言により御爪髪を納め、宝塔を三基建立したる三帝の御廟であります」とあった。





南大門
かつての正面。日露戦争の戦勝を記念して明治41年(1908)に再建された。屋根の四隅に四天王像を配する。

法然上人 逆修の塔
本坊境内の親鸞上人堂でメモした「法然上人逆修の塔」がこれである。五重塔のすぐ南にある。
逆修塔とは、死後の往生をねがって生前に自らが建立するもの。塔は高さ4尺(約130cm)の石造の五輪塔。四国に流された浄土宗の開祖・法然上人が自身の爪髪を埋めて立てたと伝わる。
が、五輪塔の部材は法然が活躍した鎌倉期より後の室町から戦国時代にかけてのもとと言う。現存する五輪塔は法然が建立したものではない、ということか。
法然上人と善通寺
法然上人は所謂「承元の法難」により土佐配流に処される。時に75歳であった、と。
京を離れ土佐へと、丸亀の塩屋の津に上陸した法然上人は、法然に帰依していた関白藤原兼実公の計らいもあり、讃岐に留まることに。その折に空海ゆかりの善通寺に訪れたとのことである。
先般、曼陀羅道を歩き、曼陀羅寺へ向かう途中、法然上人ゆかりの蛇岩に出合った。
□承元の法難
Wikipediaには「承元の法難(じょうげんのほうなん)は、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然と親鸞ら7人が流罪にされた事件。法然は土佐だが、その弟子親鸞は越後に流されることとなる。
「南無阿弥陀仏を認めるか認めないか」という純粋な宗教的対立がきっかけとなった事件ではない。法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れたという話で、密通事件さえ起きなければ、宗教がもとで人が死ぬことはなかったと言える」とあった。

利生塔
五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔。元は暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念すべく足利尊氏・直義が命じた、「国ごとに一寺・一塔の建立」の内、讃岐の一塔として建てられた五重塔であった。が、上述、永禄の大火より焼失したため、後に石造の利生塔がその替わりとして建てられたと伝わる。高さ2.8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔である。
一寺一塔
暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じた。
寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺に、利生塔は善通寺の五重塔があてられた。
利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の中興の祖とも称される宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられた。



善通寺から七十六番札所・金蔵寺への遍路道

赤門
善通寺参拝を終え次の札所・金倉寺への遍路道に向かう。遍路道は伽藍境内の東門、朱に塗らえる通称赤門口から進むことになる。







赤門七仏薬師(乳薬師)
善通寺の巡拝を終え、伽藍境内の東側にある赤門を離れ赤門筋に出る。美しく整備された道を直進すると、道の左手、善通寺郷土館の隣にお地蔵さま。赤門七仏薬師とも乳薬師とも称される。

案内によれば、「西に3キロ、??原大池のほとりに赤門七仏薬師(別名乳薬師)の本尊がある。弘法大師がお堂を建て、自ら薬師七体の石像を刻み、五穀豊穣と衆生の疫病退散を願う。
その後中世の戦乱で焼失するが、承応元年(1652)年、大池の工事中に石像が見つかり、現在の地にお祀りされ、安永八年(1779)には七仏薬師として再興された。
この七仏薬師にお参りするとお乳の出がよくなることから、乳薬師とも呼ばれ、昭和50年頃までは県外からのお参りもあったが、その後は訪れる人も減り、現在はその面影はない。
この赤門商店街の「赤門七仏薬師」は善通寺創建1200年を記念し、吉原七仏薬師寺より勧請された」とあった。

𠮷原の七仏薬師堂には、曼陀羅寺道を曼陀羅寺へと辿る途中で出合った。お堂はそれほど整備されているようには思えないが、案内に旧暦6月17日(十七夜)には本尊が公開されるとのことである。

神櫛神社で左折、細路に入る
赤門筋を進み県道48号を越えると、道は県道24号・本郷通りとなる。本郷通りを直進し神櫛神社まで進む。
神櫛神社の境内西端、本郷通りの左手に「76 金倉寺 2.7km」と刻まれた比較的新しそうな遍路標石がある。標石に従い左折し本郷通りを離れ細路に入る。
神櫛神社
社伝に拠れば、空海が勧請・創建。この地の産土神とする。祭神は神櫛王命、或は神櫛王の御子神、或は武國凝別皇子を祀るとも言われ、江戸時代までは皇子権現社と称された。
神櫛王
記紀に伝わる古代皇族。第十二代景行天皇の子とされる。『日本書記』では讃岐国造の祖とされる。讃岐の有力氏族がその祖とする所以だろう。墓は香川県高松市牟礼にある。

遍路道と金毘羅道分岐点
この地は金倉寺への遍路道と金毘羅宮への参拝道の分岐点でもあった。遍路道の逆、境内に沿って右に折れる道は金毘羅参拝道のひとつである「魚道」へとつながっていた。魚道を含めた金毘羅参拝道は次回のメモに廻す。

県道25号を越える
遍路道は北東へと進む。随所に遍路札の案内があり道を間違うことはないだろう。道なりに工場裏の細路を少し進むと右に折れて土讃線を越える。この右折点だけがちょっと注意必要。
土讃線を潜り県道25号に出る。県道対面に比較的新しい遍路標石があり、県道を渡り先に進む。

金毘羅石灯籠の標石
標石に従い軽自動車なら通れそうな細路を進むと、道は弧を描き先ほど分かれら県道24号に再びあたる。県道24号は県道25号に一時相乗りし東へとむかっているようだ。道の北側にも新しい遍路標石が整備されている。
ほどなく「四国のみち」の標石。遍路道を案内する。「七十六番 金倉寺 1.4km」とある。
その標石の対面、水路傍に金毘羅石灯籠。「左 こんぴら道五十丁 右せんつじ道 十八丁 安政六」と刻まれる。

こんぴら道
前述、金毘羅参拝道である「魚道」はこのあたりから琴平まで県道25号と金倉川の間を進んだという。今はその道筋は残っていないようだが、この金毘羅灯籠が記す「こんぴら道」は「魚道」のことだろう。
この道筋が多度津と琴平を結ぶ最短コースであり、金毘羅参りで賑わう琴平へと、多度津で水揚げされた魚が毎朝走ったのが、その名の由来とのこと。

村上池西の標石
金毘羅石灯籠からほどなく、右手に村上池の堤が見える道端、畑の角に標石がある。よく見ると彫られた僧の手が左を示す。注意深く見ると標石に刻まれた僧の姿もあれこれバリエーションがあるようだ。「右 まるかめ**」とも刻まれている、と。




旅姿大師の標石
遍路道はこの先で高松自動車道を潜る。道の左に山王地主権現の小石祠を認め、その先にある民家のブロック塀に張り付くように標石が立つ。笠を手にした、如何にも巡礼途中といった大師像が刻まれる。このような旅姿の大師像ははじめて見た。「是ヨリ金倉寺札所江三** 天保十五年」と刻まれる。



民家脇の標石
県道18号を越え先に進むと、道の左側、これも民家塀に張り付くように標石がある。「左 こんぞうじ道 四丁 右 ぜんつうじ道 廿五丁」と刻まれる。金倉寺まで400mほどになってきた。

集落の間の道を進むと、金倉寺の山門前に出る。門前前の名残を感じる昔風の家並も残る。

茂兵衛道標(121度目)
山門前T字路の道角に少し傾いた茂兵衛道標が立つ。手印と共に「善通寺 金毘羅 明治二十四年」の文字が刻まれる。
この道標には添句「真如乃月かゝや久や法の道 冷善」が刻まれる。茂兵衛121度目の巡礼時のものである。







第七十六番札所 金倉寺

鶏足山宝幢院(けいそくさんほうどういん)金倉寺。天台宗寺門派。本尊は薬師如来。

寺名石碑
山門前の左右に大きな石柱。右手の石柱には「四国第七十六番霊場 智証大師御誕生所 詞利帝母御出現之地 明治二十三年」、左手には「当山本尊薬師如来」と刻まれる。共に茂兵衛道標で知られる中務茂兵衛の周旋による。左手の石柱には「壱百拾五度目」と茂兵衛の巡礼時も刻まれる。

この寺は茂兵衛が得度を受け、法名義教をいただいた寺である。明治十年(1877)、茂兵衛30度目の巡礼の折、33歳のときのこと。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。

鐘楼
仁王門を潜り境内へ。左手には高いところに鐘が吊られた鐘楼が建つ。高く延びた長い支柱が印象的。なんだか面白い。









本堂
境内を進むと正面に本堂。Wikipediaに拠れば、「774年(宝亀5年)景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王堂と呼ばれていた。 851年(仁寿元年)道善の子である和気宅成の上奏により、自在王堂を官寺とし道善寺と名付けた。
その後、宅成の子である円珍が846年(承和13年)に入唐、858年(天安2年)帰朝した後、故郷の当寺に訪れて長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像して本尊とした。
貞観3年(861)伽藍の造営を終え、落慶の斎会に円珍が再訪する。928年(延長6年)醍醐天皇の勅命により金倉郷(かなくらごう)から名前をとり現在の「金倉寺」、山号は釈迦十大弟子の迦葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改め隆盛をきわめた。
その後、幾多の兵火により重要文化財の自画像と本尊などの宝物以外は焼失、慶長11年(1606)それまで無住寺になっていたが、近くの真言寺院に後見してもらい一時期真言宗になるが、窮状を知った高松藩主の松平頼重により、天台宗に戻り再興、慶安4年(1651)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏にいたるまで再建し現在に至る」とある。
智証大師円珍
山門前の石柱にあったように、この寺は智証大師円珍生誕の地。弘仁五年(814)のことである。母は空海の妹とも言われ、空海にとっては甥ということになる。空海の姪の子との説もあるが、ともあれ空海とは近しい縁者ではある。
十五歳で最長の弟子に師事。厳しい修行の後に入唐し在唐六年、帰朝後、天台宗第五代座主となる。

詞利帝堂
本堂左手に詞利帝堂。詞利帝母(かりていも)、所謂鬼子母神を祀る堂。円珍五歳の時現れたと伝わる。
詞利帝母
詞利帝母は夜叉を意味するサンスクリット語(ハーリーティー)の音写。500とも1000とも一万とも言われる子を持ち、その子たちを育てるため人の子供を食べていた。それをみかねた釈迦は詞利帝母の最愛の末子を隠す。半狂乱となり探すも見つからず、詞利帝母は釈迦に縋る。
釈迦は最愛の子を失う悲しみを説き、悔い改めた詞利帝母は仏法の守護神となった。子供の守り神との所以である。地元では「おかるてんさん」の愛称で呼ばれているとのこと。

大師堂
祖師堂とも呼ばれるこのお堂の扁額には中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩とある。本堂に祀られるお像も、中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩(役行者)と並ぶようだ。四国88箇所札所の中で、中央に弘法大師ではない像が祀られるのはこの寺だけとのことである。
大師号
「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」とのことばがある。大師=弘法大師と思い込んでしまいそうだが、大師は弘法大師だけでなく他にもたくさんいる。大師号は高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、多くは死後に賜る諡号である。
最初に大師号を賜ったのが最澄こと伝教大師であり、弘法大師がはじめてというわけでもなく、20名以上いる大師のひとりであるではあるのだが、お大師さんといえば弘法大師。空海の人気のほどが分かる。
茂兵衛道標
大師堂の右手に茂兵衛道標が立つ。明治廿一年の文字と共に、手印が大師堂を指す。また大師堂石段も茂兵衛の周旋による、と言う。









乃木将軍の銅像
大師堂左手前に羽織、袴姿の乃木希典将軍の像が立つ。元は軍服姿であったようだが、第二次世界大戦時に供出された。この銅像と軍馬の供出により、鐘楼の鐘が供出から免れた、とも。
●乃木将軍妻返しの松
このお寺様は乃木将軍の寓居であったとも言われ、境内には「乃木将軍妻返しの松」もあった。明治31年(1898)、善通寺第十一師団の師団長として着任。以来3年ほどこの寺を寓居としたが、訪れた婦人を玄関払いしたとのことである。寺に泊めるのを憚ってのこと、とも。

一太郎母子の松
戦前の軍国美談として小学校の国語読本にも載った、「一太郎やーい」の主人公岡田梶太郎とその母がこの寺に植えたものと言う。
日露戦争出征のため、多度津から軍船に乗る息子梶太郎の名を大群衆の中で叫び注目を浴びたため、照れ隠しで「天子さまに御奉公」と言ったことが、「一太郎」となって天皇への御奉公の美談として創られた。当の本人は長いことこの美談の主人公であったことを知らなかったようである。
明治生まれの祖父に連れられ、芝居小屋といった映画館に10円を払い、嵐寛寿郎主演の『明治天皇と日露大戦争』を見に行った世代にはわかるだろうが、今の世代に一太郎と言われても、なんこと、と思うだろうなあ。

金倉寺常接待処
境内を彷徨っていると奉納石に支えられた木造小屋の傍に何となく気になる石碑がある。見ると「金倉寺常接待処」と刻まれていた。かつて接待処として使われていたのだろうか。
結構札所を巡ったが、接待処の石碑ははじめて目にした。




神仏混淆の名残
境内には天満宮など神道の祠が残る。明治の神仏分離令以前の神仏混淆時代の名残だろう。境内の楠の巨木も印象的であった。






新羅神社
境内に接して新羅神社がある。境内はさっぱりとしたもの。渡来氏族である秦氏と関係深和気氏とのかかわりであろうか。チェックすると、和気氏ではなく智証大師との関りの社のようである。
唐より帰朝した智証大師こと円珍は、叡山に現れた老翁に導かれるまま山を下り、園城寺に。円珍は園城寺を再建し、そこにお堂を建て唐より持ち帰った経典を納めた。この老翁は園城寺の守護神である新羅明神であった。
かつての日本の朝廷は百済系、新羅系といった渡来系王族よりなる。壬申の乱の大友の皇子が百済系、大海皇子が新羅系とはよく聞く話である。
が、園城寺は百済系の大友皇子を弔うための寺。そこに新羅の神?これ以上はきちんと調べなければわからないが、円城寺のあるあたりには新羅系の渡来人が多く住んでいたようであり、園城寺建立以前からこの地の守護神として祀られていたのかもしれない。単なる妄想だが、道隆寺と新羅神社の繋がりを自分なりに納得。

善通寺のあれこれでメモが長くなった。今回はここまで。次回は金倉寺から道隆寺への遍路道をメモする。

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