木曜日, 4月 11, 2013

吉備散歩;「後の祭り」フォローアップの旅

先回、何気に高松城水攻めの跡地を巡った。基本は、成り行き任せ、行き当たりばったりの散歩故、あそこも行けば良かった、行くべきであった、といった、「後の祭り」が常日頃から多いのだが、吉備散歩では、特にその思いを強くした。
きっかけは、秀吉の中国・毛利攻めに際しての、高松城水攻めの地を実際に見てみよう、といった程度ではあったのだが、その地は古代吉備王国の中心地。造山古墳だけば、成り行きで訪ね、全国第四位の規模を誇る前方後円墳に上り、3世紀から5世紀にかけて大和朝廷と拮抗する勢力を誇った吉備王国の一端に触れたのだが、その古代吉備王国の指導者であった、であろう、吉備津彦を祀る、吉備津彦神社も吉備津神社も、時間切れで行きそびれた。また、応神天皇が、吉備の兄媛(えひめ)恋しさの余り、大和から吉備に下り滞在したときの行宮跡、と言う、葦守八幡にもいけなかった。
ということで、今回、お盆の帰省を利用し、先回の吉備散歩の「取りこぼし」、「跡の祭り」フォローアップにでかけることに。お盆帰省、ということで、家族も一緒であり、この炎天下、さあ、歩きましょう、というわけにも行かず、今回は岡山でレンタカーを借りての旅。散歩のメモというより、家族旅行での旧跡メモといったもの、である。



本日のルート;清心町交差点>国道180号>備前三門>矢坂山を迂回し、平津橋・北向八幡宮>篠ヶ瀬川に沿って進む>幾筋もの川が合流>北西に進み、吉備津彦神社>国道180号に戻り、吉備津神社>造山古墳>庚申山の手前で足守川を渡り>国道429号を北上>足守>葦守八幡>国道429号を戻り、岡山自動車道を東総社駅>総社宮>国道180号を戻り国道429号>備中国分寺>作山古墳>県道270号>そう爪で南下>県道245号>山陽新幹線に沿って県道3242号>岡山駅

矢板山
岡山駅よりカーナビの案内に従い、吉備津彦神社へと向かう。駅前を進み、国道180号・清心町交差点を左折。清心町交差点を西へと進むと、吉備線・備前三門駅(みかど)へと。前面に見えるのは、矢坂山。標高131mの独立丘陵。吉備線は矢坂山の南に沿って進むが、国道180は左に曲がり、山の東麓から北麓へと半円を描くように迂回。北麓では笹ヶ瀬川に沿って西に進み、樽津のあたりで、山麓を離れ北西へと向かう。地図を見ると、樽津の西で笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といったいくつかの川筋が合流し、南へと下る。このあたりが先回の散歩でメモした、大安寺荘園のあったところであろう、か。
先回の散歩でメモ:大安山駅の北に矢坂山という標高131m程度の独立丘陵がある。往昔、八坂山の西側は入り江であり、「奈良の津」と呼ばれていた、とのことだが、この入り江の東側に50町歩に及ぶ大安寺の庄園があった。公地公民が律令制の基本、とはいいながら、寺社はその「公共性」故に、田畑の私有が認められていたため、9世紀から12世紀に渡る平安時代、奈良・京都の社寺、貴族たちは荘園になるべき土地を朝廷から貰い受け、開拓していった。この吉備の国には河川の扇状地や浅瀬の干潟など埋め立て・開墾に適した土地が点在している、これに目をつけた中央の大社寺は競って朝廷からこの土地を手に入れ開拓荘園を作っていった、と言う。この大安寺のあたりも、笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といった川筋が、八板山の西で合わさる。これら幾多の川によって形づくられた干潟を朝廷から貰い受け、大安寺が直接開拓し、荘園としたのであろう、か。

吉備の中山
国道180号を少し進むと、前面というか、進行方向左手に大きく拡がる独立丘陵が見える。この山稜は、吉備の中山と呼ばれ,古代、山中に巨大な天津磐座(神を祭る石)、磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきた、と。この山が、「神奈備山」である、ってことは、先回の散歩でわかったことではあるのだが、その気で見れば、B級路線、情感が圧倒的に足りない我が身にも、自ずと、有り難くも見えてくる。

吉備津彦について
道を進み、吉備津彦神社の案内を目安に左折し。吉備津彦神社に。吉備津彦を祀る神社をめぐる吉備津彦神社、そして吉備津神社巡りのはじまり、である。先回の散歩で、吉備津彦についてのメモをまとめた。リマインドのため、以下コピー&ペースト
吉備津彦について:『古事記』、『日本書記』によると、吉備津彦命は孝霊天皇と倭国香媛の子。五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)、とも呼ばれた。孝霊天皇の時代に吉備国を平定。崇神天皇のときには四道将軍のひとりとして3、山陽道を制服するため派遣された、とある。しかしながら、少々の疑問が芽生える。吉備を征服した大和の王族を、どうして吉備の人々が一宮の主祭神として祀るのであろう、か。それも、大和朝廷によって分割された備前・備中・備後・美作の一宮に主祭神として祀られる。『吉備の古代史;門脇禎治(NHKブックス)』など、あれこれ本を読んでも、いまひとつ門外漢には難しすぎて、よくわからなかった。が、ある日、何気なく立ち寄った近くの地域センターの図書ライブラリーで借りた『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』を読み、なんとなく納得できる説明があった。
『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』によると、吉備津彦は吉備王国の指導者であった、とする。5世紀頃、吉備王国は吉井川・旭川・高梁川・芦田川の流域に拡がる豊かな農業生産地帯と、中国山地の砂鉄資源に恵まれ、瀬戸内の製塩、また内海交通の制海権を掌握し、大和朝廷に拮抗する力をもつ王国であった。その中心地、吉備津、すなわち、吉備の湊の首長が吉備津彦であった。
その吉備王国を征服すべく大和朝廷から派遣されたのが五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)。吉備津彦を中心とする吉備王国は激しく抵抗するも、吉備津彦は殺害され、吉備国は大和に敗れた。吉備津彦は大和朝廷に抵抗した吉備の英雄の名前であった。五十狭芹彦命が吉備津彦と同一神となったロジックは、古代、征服者に自分の名前を与えるのが服属の証しであった、とのことから。そのことは、小碓命(おうすのみこと)と呼ばれていた日本武尊(やまとたける)が熊襲タケルを殺害した後、熊襲は服属の証しとして「タケル」を小碓命に与えたことにも顕れる、とする。かくして、『古事記』や『日本書紀』には、服属の証しとして与えられた吉備津彦の名が、大和天皇家の系譜に組み込まれ、吉備王国の征服者と記載された。一方、吉備の人々は征服者である大和朝廷に深い恨みを抱き、やがて吉備津彦は祟りの神となった。その怨霊を怖れた大和朝廷は、その怨霊を鎮めるべく吉備津彦を神として祀り、神社に高い位を与えた。吉備の人々は、吉備津彦を吉備王国の英雄として忘れることなく、吉備国が分割された後も、往昔の吉備王国の栄光の象徴として、それぞれの一宮の主祭神として祀られた。(『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』)、とのことである。

吉備津彦神社

以上のメモを思い描き、社殿に向かう。古色蒼然とした古き社を思い浮かべてはいたのだが、結構新しい。チェックすると。昭和5年(1930年)、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失。現在見られる社殿は昭和11年(1936年)に再建したもの、と。駐車場脇に「さざれ石」。さざれ石は、誠に細かい小石(細石)のこと。その細石の欠片の隙間を、炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることにより、長い年月をかけ、巌(いわお)となる、と言うのが、国歌にある「さざれ石が巌となり、苔がむす」といったくだりの意味、とか。「さざれ石が巌となった」、ある程度大きい巌を見やり、随神門をくぐり境内に。左手に大きな石灯籠。安政の大石灯籠と呼ばれ、高さ11mで日本最大、とか。随神門に至る参道の左右には池が配置され、左右に亀島神社・鶴島神社が祀られている。先に進み、拝殿にお参り。境内から眺めると、拝殿・祭文殿・渡殿、そして、その沙先に本殿が縦に並ぶ。拝殿に「一品一宮」と書かれた額があった。「一品(いっぽん)」とは、皇族の功績に対して授けられる品位こと。一品とか二品といった勲位があるので、その第一位、ということだろう。朝廷直属の宮であったことを示す。吉備津彦神社が一品の神階を受けたのは承和7年(840年)の頃、と言う。
一方、「一宮」は平安から中世にかけて行われた社格の名称、と。特段に決まった定めはないようだが、諸国において、自ずと社格が決まり、その最上位が「一宮」と呼ばれた。ちなみに、武蔵には一宮がふたつ、あった。大宮の氷川神社と多摩・聖蹟桜ヶ丘の小野神社。その経緯についての空想・妄想は、七生丘陵散歩にメモしたが、大雑把に言えば、それなりの由緒があり、それなりの人が「一宮」と主張すれば、それが、「一宮」となった、ということであった、よう。一宮制については、未だ、よくわかっていないようである。
吉備津彦神社は大化の改新後、吉備の国が、8世紀頃、備前・備中・備後に分かれた後、備前国の一宮となる、と言われる。とはいうものの。大化の改新は7世紀の事であり、一宮制度は、はっきりはわかっていないにしても、大宝律令が制定され律令制が始まって以降であり、11世紀頃、早くとも10世紀は下らない、と言う。つまりは、吉備の国が分国化された後、それぞれの国にあった神社に、なんらかのポリティックスが働き、平安時代に最終的には吉備津彦神社が備前の一宮となった、ということだろう。
実際、明神大社の社格をもつ西大寺の安仁神社が備前の一宮になるはず、であった、とも言われる。しかしながら、天慶2年(939年)の天慶の乱において、藤原純友が反乱を起こした際に、安仁神社は純友に味方し、一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社は官軍(朝廷)に味方したため、その分祠社である吉備津彦神社が備前一宮となった、とされる。ちなみに、明神大社とは律令制において、明神祭の対象となる神々を祀る社。明神祭とは、国難に際し、その解決を祈願する国家的祭祀。明神大社とは高い社格を誇る社である、とウイキペディアにあった。
吉備津彦神社を「朝日の宮」とも呼ばれる。神社の案内によれば、社殿配置が太陽信仰の形を留める、とも言う。夏至に昇る太陽光は、正面鳥居から、幣殿の鏡へ差込む、とか。そして、その直線後方に、神体山山頂がある。山中に巨大な天津磐座(神を祭る石)、磐境(神域を示す列石)を有し、自然神信仰の場であった古代からの祭祀の地であったのだろう。その地に吉備が分国され備前の国が出来たときに、本宮である吉備津神社から分祀し吉備津彦神社を祀られていた、のだろうか。古代には、気比大神宮・大社吉備津宮と称されたようである。

戦国の争乱期には社殿焼失するも、江戸時代になると姫路藩主・岡山藩主である池田公の庇護を受け社殿が再建された。境内を散策。鯉喰神社、矢喰神社、坂樹神社、祓神社などがある。そのほか、温羅神社、楽御崎神社(桃太郎の猿にたとえられた人物、を祀る)、子安神社、天満宮などがたたずむ。鯉喰神社、矢喰神社、温羅神社などは、次に訪れる本社・吉備津神社にも登場するはず、であろうから、メモは後に譲る。



吉備津神社
吉備津彦神社を離れ、吉備の中山の北西麓に北面して鎮座する吉備津神社に向かう。到着した第一印象は、吉備津彦神社とはその趣きが異なり、樹木囲まれた古き社の風情が色濃く残る。参道を進み石段を上ると赤く塗られた「北随神門」がある。室町中期の建築といわれていて、国の重要文化財である。北随神門の先にも急な石段があり、その先には「割拝殿」。誠に趣のある建屋である。割拝殿、って、中央に通路があり、下足のままで進める拝殿とのことだが、斜面や階段の途中にある場合は、楼門の代用とされる場合が多く、拝殿の役割はもたない場合も多いと、言う。



割拝殿を通り抜け、拝殿でお参り。回廊に囲まれた境内に入り、神社の構えを眺めると、社殿が縦に、それぞれの特徴を示しながら並ぶ。縦長の拝殿、その後に妻がふたつ連なる本殿。入母屋屋根を2つ繋げた形をしていて、これを比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)と言う。これに縦拝殿を接合したこの建物全体の作りを吉備津造(きびつづくり)と呼ぶ、ようだ。もっとも、吉備津造の建物はこの神社だけしか、ない。俗な表現で表すとすれば、「合体ロボ」といった、なにか、インパクトを与える構えである。拝殿、本殿とも国宝に指定されている。



吉備津神社は吉備津彦を祀るのは、言うまでもない。が、同時に、この神社は鬼と称された温羅の怨霊を鎮める神社としても知られる。温羅にまつわる伝説とは以下のようなものである:はるか昔のこと、異国より、この吉備国に飛来し来たる者がいた。一説には百済の皇子とも伝えられるが、名を温羅(うら)といい、鬼の如く凶暴であり、足守の西の山に城(鬼の城、として現在も残る)を築き人々を苦しめていた。大和の朝廷は温羅を征伐すべく五十狭芹彦命を派遣。吉備の中山に布陣し、温羅と相対した。
五十狭芹彦命は矢を放ち、温羅は石を投げて矢を防ぐ。が、結局、矢が温羅の左目に突き刺さり、温羅は雉に姿を変えて逃げる。五十狭芹彦命は鷹となって追いかける。捕まりそうになった温羅は鯉に姿を変え、左目から流れ出した血で川となった血吸川に逃げ込むも、五十狭芹彦命は鵜となり、ついに、鯉となった温羅を捉える。降参した温羅は吉備冠者の名を五十狭芹彦命に捧げ、降服の証しとした、と。
イマジネーション豊かな物語ではあるが、温羅はもともと吉備国の指導者であった「吉備津彦」であったことは言うまでもないだろう。吉備の指導者を鬼・温羅、とみなし、大和より吉備の人々を苦しめる鬼退治に五十狭芹彦命が下る。見事、鬼を討ち果たし、吉備の指導者である吉備津彦の称号を得る、といった大和朝廷の吉備制圧の正当性を描く物語ではあろう。
ちなみに、五十狭芹彦命が射た矢と温羅が投げた岩が空衝突し、落ちた処には矢喰宮があり、その脇には血吸川が流れる。現在の岡山自動車道、総社インターのすぐ東に矢喰宮が祀られる。また、血吸川を鯉となって逃げる温羅を噛み上げたところには鯉喰神社が現存する。山陽自動車道、岡山ジャンクションの南の足守川の近くに祀られる。二つの吉備津彦を祀る神社を巡り感じたことは、なんとなく元々の吉備の指導者でり、朝廷によって鬼とされた温羅と称された、吉備津彦を祀るのが吉備津神社。それに対し、元は大和朝廷から派遣された五十狭芹彦命であり、吉備征服後に「吉備津彦」と称された人物を祀るのが備前の吉備津彦神社のように思える。なんの根拠もないのだが、「一品」の称号など、備前の吉備津彦神社のほうが朝廷との結びつきが強いように感じるから、である。

足守
次の目的地は足守の町と葦守八幡。緒方洪庵生誕の地もさることながら、パンフレットで見た武家屋敷の残る落ち着いた街並みの足守の町と、応神天皇の行宮跡という葦守八幡を訪ねることに。吉備津神社を離れ、国道190号を北に進む。最上稲荷の大鳥居を右手に眺め、備中高松駅を越え、国道が足守川とクロスする手前で右手に折れ、国道420号を北に向かう。道の左手の山塊にある、という温羅の「鬼の城」を想い描きながら足守の町に。
駐車場を探し、街中を進む。道の左右には落ち着いた街並みが続く。現在足守地区にあるおよそ三百戸のうち、江戸時代の家屋の姿を今にとどめるものはおよそ百戸、と言われる。


コミュニティセンタ-・足守プラザ近くの駐車場に車をとめ、町を歩くと乗典寺。緒方洪庵の位牌と両親が眠る、と言う。生誕の地は、町を離れ、足守川の東、国道429号が洪庵トンネルに入る手前に残る。先に進むと右手に古き商家。旧足守商家・藤田千年治邸が公開されていた。醤油製造を商いとしていた堂々とした商家の造りが今に残る。
町屋地区を北に進み、町屋地区から武家屋敷地区に。旧足守藩侍屋敷の格式高い武家書院造り屋敷はなかなか、いい。水路に囲まれた小高い敷地が陣屋跡。足守は関ヶ原の合戦の後、播磨城主であった木下家定をこの地に配置換えし、足守藩主とした。木下家定は秀吉の正室・北政所(ねね)の兄。関ヶ原の合戦時、終始徳川家に味方した北政所の功績故の処遇であろう、か。以降、足守は木下家の統治ものと、明治まで続いた。
足守藩には城はなく、陣屋を置いた。陣屋町つくりは四代藩主・木下利富公が本格的に着手。現在に残る、武家屋敷地区と町屋地区により、街並みが形成された。陣屋跡の水路に沿って進むと「近水園」。江戸中期につくられた木下家の庭園。小堀遠州流の池泉回遊式庭園は、なかなか美しい。
足守の歴史は古い。5世紀につくられた『日本書紀』には「葉田葦守宮」の記述がある。平安初期に編纂された『和名抄』には「安之毛利」、「葦守」の記述がある。平安末期には「足守庄」という庄園が開発されている。葦はイネ科の植物。湿地を好む。往古より、足守川流域は低湿地で葦が茂っていたのであろうし、葦が茂るということは稲作にも適した土地、ということでもある。実際吉備の地は福岡県の板付遺跡とともに、弥生時代前期、日本で最初に稲作が始まった地、とも言われる。葦の茂る湿地を開拓し、庄園としたのであろう。戦国時代には毛利家の支配下となり、宇喜多の支配を経て、江戸の足守藩へとなった。

葦守八幡宮
]足守の町を離れて、葦守八幡宮に向かう。国道429号に戻り、ほどなく国道を離れ、小径を進むと葦守八幡宮駐車場の案内。車一台やっと通れるような急坂を上りきり駐車場に。境内には鐘楼があったり、社も、神社と言うより、なんとなくお寺の雰囲気を残す。どこかでメモしたが、八幡さまは、八幡大菩薩とも称えられるように、八幡信仰そのものが、神仏和合の結晶ともされる。とすれば、この、如何にもお寺様といった雰囲気は、あながち、間違いではないの、かも。
『日本書紀』には応神天皇の行宮として「葉田の葦守宮」との記述がある。足守町の少し南にある葦守八幡がその跡地とのこと。以下は先回の散歩メモのコピー&ペースト;「『日本書紀』には以下のような物語が描かれていた;応神天皇の妃、兄媛(えひめ)が故郷である吉備恋しさのあまり、「帰省」の許しを乞う。帰省を許したものの、兄媛に会いたいと応神天皇が吉備に下る。その行宮が葉田の葦守宮、である。応神天皇を迎えた兄媛(えひめ)の兄の御友別(みともわけ)は、一族をあげて歓待。それを徳、とした応神天皇は、御友別の支配する地域をその子らに分封し、その支配権を公に認めた、とある。この『日本書紀』に描かれる、天皇が妃を焦がれて吉備まで、といった話はあまりにナイーブであり、文言通りにはとれないが、このエピソードから読み取れる大和と吉備の関係を、我流でまとめてみる。吉備王国は3世紀から発展をはじめ5世紀頃には複数の首長を中心とした連合王国が成立。大和や出雲に匹敵する力をもつ王国となる。5世紀から6世紀はじめにかけて大和朝廷は吉備を支配下に置くべく謀略をはかり、7世紀にかけての分割支配体制により吉備国は崩壊をはじめ、8世紀には、備前・備中・備後・美作と完全に分割され、大和朝廷の支配下に入る。これが、時系列で見た吉備と大和の関係である。
で、上の応神のエピソードの解釈であるが、応神天皇は4世紀後半の天皇とされるので、可能性としては、拮抗した力関係もと姻戚関係を結んで吉備と大和が友好関係を保っている次期ともとれる。また、支配下に置くべく吉備に楔を打ち込むべく下向した、ともとれる。吉備王国は有力な首長による連合王国であった、とされる。親大和・反大和などさまざまな思惑の豪族の連合王国ではあろうが、その中で、応神天皇の后・兄媛(えひめ)の兄の御友別は、親大和朝廷系の豪族であったのかとも思う。御友別、といえば日本武尊の東征に吉備武彦命が従う、というくだりがある。吉備武彦命は『古事記』では御?友耳建日子(みすきともみみたけひこ)と呼ばれ、『日本書紀』の応神記に、吉備臣の祖先である「御友別」と同一人格か、祖先か、ともあれ、深い関係がある、とされる。その御?友耳建日子こと、吉備武彦命が日本武尊の東征に副官として従う、という神話の意味することは、吉備王国が大和朝廷によって侵略・平定された後、東国への軍事行動に吉備武彦命系列の吉備の豪族が参加・転戦した、ということであろう」、と。
先回の散歩で行きそびれた、吉備津彦ゆかりの神社、吉備津彦神社と吉備津神社、それと足守の街並みと葦守八幡をカバーした。お盆帰省でやっと予約の取れた岡山発の新幹線まで、2,3時間ほど余裕がある。ついでのことなので、総社市に廻り、総社宮と備中国分寺を訪ねることに。


備中・総社
国道429号を南に下り、吉備線・足守駅を越えたあたりで国道180号に乗り換え、西に向かい吉備線・東総社駅近くの総社宮に。現在の社は江戸時代に再建されたもの。100mにおよぶ長い回廊や社殿前の「三島式庭園」と呼ばれる景観はなかなか、いい。三島式庭園とは神池と中島で構成される古式の庭園とのことである。総社の成り立ちは行政官の「合理的」発想、から。もともと、律令政治の地方行政の長である国司は、赴任に際し、国中の神社参拝がその義務でもあった。地域の神々をお参りし、敬うことが行政の基本でもあった。が、平安末期には、国中の神社を参拝することが困難となる。お金もかかるし、治安も悪い、ということだろう、か。で、その代案として考えられたのが、国府の近くに国中の神々を一同に集めよう、合祀しよう、ということ。結果、この備中総社には備中の国中の三百四の神々が祀られた、とのことである。

備中国分寺跡
お参りを済ませ、国道180号を東に戻り、金井戸の手前で429号を南に下り、ナビの誘導のまま備中国分寺跡に。西からのアプローチの前方に五重塔の甍が現れる。誠に美しい。駐車場に車をとめ、国分寺へと。
国分寺は聖武天皇が天平13年(741)、鎮護国家を目的に全国に建てられた官寺。当時は東西160m、南北178m程、七堂伽藍の並ぶ大寺であった、とのことだが、現在の国分寺は江戸時代に再興されたもの。本堂と大師堂が残る。山門脇の境内には創建当時の礎石も残っていた。境内西にある五重塔は高さ34.32m。この五重塔はなんとなく、インパクトを感じる。その屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさであることも、その一因であろう、か。弘化元年(1844)ごろに完成したこの塔は、江戸後期の様式を今に伝える。
備中国分寺の近くには備中国分尼寺とか、こうもり塚といった古墳も残るのだが、同行の家族に、更に数百メートル歩くべし、の一言を発する勇気は、既に、なし。あれが「こうもり塚」、あのあたりが国分尼寺跡、と数百メートルを隔てた地から眺め、国分寺跡を去る。

作山古墳

駐車場を離れ、ナビの誘導で県道270号を国道429号に向かう。国道429号との交差点でいくらたっても信号が変わらない。結局後ろの車がしびれを切らし、ボタンを押す。押しボタン交差点であった。それはともあれ、その交差点に「作山古墳」の案内がある。カーナビにも、交差点のすぐ西に「作山古墳」の案内がある。全く予想もしていなかったのだが、突然の作山古墳の登場。時間もあまりないのだが、とりあえず一周でもしてみようと、交差点を越えて直進し、田圃の間の小径を進む。作山古墳の手前に集落があり、誠に狭い集落内の小径を道なりに、おそるおそる進むと、古墳の西側にある駐車場に出た。
車を下り、ヒット&ランで古墳に走る。造山古墳と同じく、独立丘陵をもとに作り上げた、この前方後円墳の古墳は全長285m、後円部174m、高さ24m、前方部110m、同幅174m。全国九位の規模を誇る。ゆっくり楽しむ余裕はなかったが、とりあえず、古墳の一端に触れ、心嬉しく岡山駅に向かい、吉備散歩第一回の、「後の祭り」フォローアップの旅を終え、一路東京へ。

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