きっかけは、秀吉の中国・毛利攻めに際しての、高松城水攻めの地を実際に見てみよう、といった程度ではあったのだが、その地は古代吉備王国の中心地。造山古墳だけば、成り行きで訪ね、全国第四位の規模を誇る前方後円墳に上り、3世紀から5世紀にかけて大和朝廷と拮抗する勢力を誇った吉備王国の一端に触れたのだが、その古代吉備王国の指導者であった、であろう、吉備津彦を祀る、吉備津彦神社も吉備津神社も、時間切れで行きそびれた。また、応神天皇が、吉備の兄媛(えひめ)恋しさの余り、大和から吉備に下り滞在したときの行宮跡、と言う、葦守八幡にもいけなかった。
ということで、今回、お盆の帰省を利用し、先回の吉備散歩の「取りこぼし」、「跡の祭り」フォローアップにでかけることに。お盆帰省、ということで、家族も一緒であり、この炎天下、さあ、歩きましょう、というわけにも行かず、今回は岡山でレンタカーを借りての旅。散歩のメモというより、家族旅行での旧跡メモといったもの、である。
本日のルート;清心町交差点>国道180号>備前三門>矢坂山を迂回し、平津橋・北向八幡宮>篠ヶ瀬川に沿って進む>幾筋もの川が合流>北西に進み、吉備津彦神社>国道180号に戻り、吉備津神社>造山古墳>庚申山の手前で足守川を渡り>国道429号を北上>足守>葦守八幡>国道429号を戻り、岡山自動車道を東総社駅>総社宮>国道180号を戻り国道429号>備中国分寺>作山古墳>県道270号>そう爪で南下>県道245号>山陽新幹線に沿って県道3242号>岡山駅
矢板山
岡山駅よりカーナビの案内に従い、吉備津彦神社へと向かう。駅前を進み、国道180号・清心町交差点を左折。清心町交差点を西へと進むと、吉備線・備前三門駅(みかど)へと。前面に見えるのは、矢坂山。標高131mの独立丘陵。吉備線は矢坂山の南に沿って進むが、国道180は左に曲がり、山の東麓から北麓へと半円を描くように迂回。北麓では笹ヶ瀬川に沿って西に進み、樽津のあたりで、山麓を離れ北西へと向かう。地図を見ると、樽津の西で笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といったいくつかの川筋が合流し、南へと下る。このあたりが先回の散歩でメモした、大安寺荘園のあったところであろう、か。
先回の散歩でメモ:大安山駅の北に矢坂山という標高131m程度の独立丘陵がある。往昔、八坂山の西側は入り江であり、「奈良の津」と呼ばれていた、とのことだが、この入り江の東側に50町歩に及ぶ大安寺の庄園があった。公地公民が律令制の基本、とはいいながら、寺社はその「公共性」故に、田畑の私有が認められていたため、9世紀から12世紀に渡る平安時代、奈良・京都の社寺、貴族たちは荘園になるべき土地を朝廷から貰い受け、開拓していった。この吉備の国には河川の扇状地や浅瀬の干潟など埋め立て・開墾に適した土地が点在している、これに目をつけた中央の大社寺は競って朝廷からこの土地を手に入れ開拓荘園を作っていった、と言う。この大安寺のあたりも、笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といった川筋が、八板山の西で合わさる。これら幾多の川によって形づくられた干潟を朝廷から貰い受け、大安寺が直接開拓し、荘園としたのであろう、か。
吉備の中山
吉備津彦について
道を進み、吉備津彦神社の案内を目安に左折し。吉備津彦神社に。吉備津彦を祀る神社をめぐる吉備津彦神社、そして吉備津神社巡りのはじまり、である。先回の散歩で、吉備津彦についてのメモをまとめた。リマインドのため、以下コピー&ペースト
吉備津彦について:『古事記』、『日本書記』によると、吉備津彦命は孝霊天皇と倭国香媛の子。五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)、とも呼ばれた。孝霊天皇の時代に吉備国を平定。崇神天皇のときには四道将軍のひとりとして3、山陽道を制服するため派遣された、とある。しかしながら、少々の疑問が芽生える。吉備を征服した大和の王族を、どうして吉備の人々が一宮の主祭神として祀るのであろう、か。それも、大和朝廷によって分割された備前・備中・備後・美作の一宮に主祭神として祀られる。『吉備の古代史;門脇禎治(NHKブックス)』など、あれこれ本を読んでも、いまひとつ門外漢には難しすぎて、よくわからなかった。が、ある日、何気なく立ち寄った近くの地域センターの図書ライブラリーで借りた『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』を読み、なんとなく納得できる説明があった。
『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』によると、吉備津彦は吉備王国の指導者であった、とする。5世紀頃、吉備王国は吉井川・旭川・高梁川・芦田川の流域に拡がる豊かな農業生産地帯と、中国山地の砂鉄資源に恵まれ、瀬戸内の製塩、また内海交通の制海権を掌握し、大和朝廷に拮抗する力をもつ王国であった。その中心地、吉備津、すなわち、吉備の湊の首長が吉備津彦であった。
その吉備王国を征服すべく大和朝廷から派遣されたのが五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)。吉備津彦を中心とする吉備王国は激しく抵抗するも、吉備津彦は殺害され、吉備国は大和に敗れた。吉備津彦は大和朝廷に抵抗した吉備の英雄の名前であった。五十狭芹彦命が吉備津彦と同一神となったロジックは、古代、征服者に自分の名前を与えるのが服属の証しであった、とのことから。そのことは、小碓命(おうすのみこと)と呼ばれていた日本武尊(やまとたける)が熊襲タケルを殺害した後、熊襲は服属の証しとして「タケル」を小碓命に与えたことにも顕れる、とする。かくして、『古事記』や『日本書紀』には、服属の証しとして与えられた吉備津彦の名が、大和天皇家の系譜に組み込まれ、吉備王国の征服者と記載された。一方、吉備の人々は征服者である大和朝廷に深い恨みを抱き、やがて吉備津彦は祟りの神となった。その怨霊を怖れた大和朝廷は、その怨霊を鎮めるべく吉備津彦を神として祀り、神社に高い位を与えた。吉備の人々は、吉備津彦を吉備王国の英雄として忘れることなく、吉備国が分割された後も、往昔の吉備王国の栄光の象徴として、それぞれの一宮の主祭神として祀られた。(『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』)、とのことである。
吉備津彦神社
一方、「一宮」は平安から中世にかけて行われた社格の名称、と。特段に決まった定めはないようだが、諸国において、自ずと社格が決まり、その最上位が「一宮」と呼ばれた。ちなみに、武蔵には一宮がふたつ、あった。大宮の氷川神社と多摩・聖蹟桜ヶ丘の小野神社。その経緯についての空想・妄想は、七生丘陵散歩にメモしたが、大雑把に言えば、それなりの由緒があり、それなりの人が「一宮」と主張すれば、それが、「一宮」となった、ということであった、よう。一宮制については、未だ、よくわかっていないようである。
吉備津彦神社は大化の改新後、吉備の国が、8世紀頃、備前・備中・備後に分かれた後、備前国の一宮となる、と言われる。とはいうものの。大化の改新は7世紀の事であり、一宮制度は、はっきりはわかっていないにしても、大宝律令が制定され律令制が始まって以降であり、11世紀頃、早くとも10世紀は下らない、と言う。つまりは、吉備の国が分国化された後、それぞれの国にあった神社に、なんらかのポリティックスが働き、平安時代に最終的には吉備津彦神社が備前の一宮となった、ということだろう。
吉備津彦神社を「朝日の宮」とも呼ばれる。神社の案内によれば、社殿配置が太陽信仰の形を留める、とも言う。夏至に昇る太陽光は、正面鳥居から、幣殿の鏡へ差込む、とか。そして、その直線後方に、神体山山頂がある。山中に巨大な天津磐座(神を祭る石)、磐境(神域を示す列石)を有し、自然神信仰の場であった古代からの祭祀の地であったのだろう。その地に吉備が分国され備前の国が出来たときに、本宮である吉備津神社から分祀し吉備津彦神社を祀られていた、のだろうか。古代には、気比大神宮・大社吉備津宮と称されたようである。
吉備津神社
吉備津彦神社を離れ、吉備の中山の北西麓に北面して鎮座する吉備津神社に向かう。到着した第一印象は、吉備津彦神社とはその趣きが異なり、樹木囲まれた古き社の風情が色濃く残る。参道を進み石段を上ると赤く塗られた「北随神門」がある。室町中期の建築といわれていて、国の重要文化財である。北随神門の先にも急な石段があり、その先には「割拝殿」。誠に趣のある建屋である。割拝殿、って、中央に通路があり、下足のままで進める拝殿とのことだが、斜面や階段の途中にある場合は、楼門の代用とされる場合が多く、拝殿の役割はもたない場合も多いと、言う。
五十狭芹彦命は矢を放ち、温羅は石を投げて矢を防ぐ。が、結局、矢が温羅の左目に突き刺さり、温羅は雉に姿を変えて逃げる。五十狭芹彦命は鷹となって追いかける。捕まりそうになった温羅は鯉に姿を変え、左目から流れ出した血で川となった血吸川に逃げ込むも、五十狭芹彦命は鵜となり、ついに、鯉となった温羅を捉える。降参した温羅は吉備冠者の名を五十狭芹彦命に捧げ、降服の証しとした、と。
イマジネーション豊かな物語ではあるが、温羅はもともと吉備国の指導者であった「吉備津彦」であったことは言うまでもないだろう。吉備の指導者を鬼・温羅、とみなし、大和より吉備の人々を苦しめる鬼退治に五十狭芹彦命が下る。見事、鬼を討ち果たし、吉備の指導者である吉備津彦の称号を得る、といった大和朝廷の吉備制圧の正当性を描く物語ではあろう。
ちなみに、五十狭芹彦命が射た矢と温羅が投げた岩が空衝突し、落ちた処には矢喰宮があり、その脇には血吸川が流れる。現在の岡山自動車道、総社インターのすぐ東に矢喰宮が祀られる。また、血吸川を鯉となって逃げる温羅を噛み上げたところには鯉喰神社が現存する。山陽自動車道、岡山ジャンクションの南の足守川の近くに祀られる。二つの吉備津彦を祀る神社を巡り感じたことは、なんとなく元々の吉備の指導者でり、朝廷によって鬼とされた温羅と称された、吉備津彦を祀るのが吉備津神社。それに対し、元は大和朝廷から派遣された五十狭芹彦命であり、吉備征服後に「吉備津彦」と称された人物を祀るのが備前の吉備津彦神社のように思える。なんの根拠もないのだが、「一品」の称号など、備前の吉備津彦神社のほうが朝廷との結びつきが強いように感じるから、である。
足守
次の目的地は足守の町と葦守八幡。緒方洪庵生誕の地もさることながら、パンフレットで見た武家屋敷の残る落ち着いた街並みの足守の町と、応神天皇の行宮跡という葦守八幡を訪ねることに。吉備津神社を離れ、国道190号を北に進む。最上稲荷の大鳥居を右手に眺め、備中高松駅を越え、国道が足守川とクロスする手前で右手に折れ、国道420号を北に向かう。道の左手の山塊にある、という温羅の「鬼の城」を想い描きながら足守の町に。
駐車場を探し、街中を進む。道の左右には落ち着いた街並みが続く。現在足守地区にあるおよそ三百戸のうち、江戸時代の家屋の姿を今にとどめるものはおよそ百戸、と言われる。
町屋地区を北に進み、町屋地区から武家屋敷地区に。旧足守藩侍屋敷の格式高い武家書院造り屋敷はなかなか、いい。水路に囲まれた小高い敷地が陣屋跡。足守は関ヶ原の合戦の後、播磨城主であった木下家定をこの地に配置換えし、足守藩主とした。木下家定は秀吉の正室・北政所(ねね)の兄。関ヶ原の合戦時、終始徳川家に味方した北政所の功績故の処遇であろう、か。以降、足守は木下家の統治ものと、明治まで続いた。
足守の歴史は古い。5世紀につくられた『日本書紀』には「葉田葦守宮」の記述がある。平安初期に編纂された『和名抄』には「安之毛利」、「葦守」の記述がある。平安末期には「足守庄」という庄園が開発されている。葦はイネ科の植物。湿地を好む。往古より、足守川流域は低湿地で葦が茂っていたのであろうし、葦が茂るということは稲作にも適した土地、ということでもある。実際吉備の地は福岡県の板付遺跡とともに、弥生時代前期、日本で最初に稲作が始まった地、とも言われる。葦の茂る湿地を開拓し、庄園としたのであろう。戦国時代には毛利家の支配下となり、宇喜多の支配を経て、江戸の足守藩へとなった。
葦守八幡宮
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『日本書紀』には応神天皇の行宮として「葉田の葦守宮」との記述がある。足守町の少し南にある葦守八幡がその跡地とのこと。以下は先回の散歩メモのコピー&ペースト;「『日本書紀』には以下のような物語が描かれていた;応神天皇の妃、兄媛(えひめ)が故郷である吉備恋しさのあまり、「帰省」の許しを乞う。帰省を許したものの、兄媛に会いたいと応神天皇が吉備に下る。その行宮が葉田の葦守宮、である。応神天皇を迎えた兄媛(えひめ)の兄の御友別(みともわけ)は、一族をあげて歓待。それを徳、とした応神天皇は、御友別の支配する地域をその子らに分封し、その支配権を公に認めた、とある。この『日本書紀』に描かれる、天皇が妃を焦がれて吉備まで、といった話はあまりにナイーブであり、文言通りにはとれないが、このエピソードから読み取れる大和と吉備の関係を、我流でまとめてみる。吉備王国は3世紀から発展をはじめ5世紀頃には複数の首長を中心とした連合王国が成立。大和や出雲に匹敵する力をもつ王国となる。5世紀から6世紀はじめにかけて大和朝廷は吉備を支配下に置くべく謀略をはかり、7世紀にかけての分割支配体制により吉備国は崩壊をはじめ、8世紀には、備前・備中・備後・美作と完全に分割され、大和朝廷の支配下に入る。これが、時系列で見た吉備と大和の関係である。
先回の散歩で行きそびれた、吉備津彦ゆかりの神社、吉備津彦神社と吉備津神社、それと足守の街並みと葦守八幡をカバーした。お盆帰省でやっと予約の取れた岡山発の新幹線まで、2,3時間ほど余裕がある。ついでのことなので、総社市に廻り、総社宮と備中国分寺を訪ねることに。
備中・総社
宮
備中国分寺跡
お参りを済ませ、国道180号を東に戻り、金井戸の手前で429号を南に下り、ナビの誘導のまま備中国分寺跡に。西からのアプローチの前方に五重塔の甍が現れる。誠に美しい。駐車場に車をとめ、国分寺へと。
国分寺は聖武天皇が天平13年(741)、鎮護国家を目的に全国に建てられた官寺。当時は東西160m、南北178m程、七堂伽藍の並ぶ大寺であった、とのことだが、現在の国分寺は江戸時代に再興されたもの。本堂と大師堂が残る。山門脇の境内には創建当時の礎石も残っていた。境内西にある五重塔は高さ34.32m。この五重塔はなんとなく、インパクトを感じる。その屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさであることも、その一因であろう、か。弘化元年(1844)ごろに完成したこの塔は、江戸後期の様式を今に伝える。
備中国分寺の近くには備中国分尼寺とか、こうもり塚といった古墳も残るのだが、同行の家族に、更に数百メートル歩くべし、の一言を発する勇気は、既に、なし。あれが「こうもり塚」、あのあたりが国分尼寺跡、と数百メートルを隔てた地から眺め、国分寺跡を去る。
作山古墳
車を下り、ヒット&ランで古墳に走る。造山古墳と同じく、独立丘陵をもとに作り上げた、この前方後円墳の古墳は全長285m、後円部174m、高さ24m、前方部110m、同幅174m。全国九位の規模を誇る。ゆっくり楽しむ余裕はなかったが、とりあえず、古墳の一端に触れ、心嬉しく岡山駅に向かい、吉備散歩第一回の、「後の祭り」フォローアップの旅を終え、一路東京へ。
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