本日のルート
■第六番札所安楽寺■
県道139号南の地蔵堂に茂兵衛道標(169度目)>真念道標と地蔵台座標石>十楽寺四つ辻手前の3基の標石
■第七番札所十楽寺■
旧街道合流点の真念再建道標>四国中千躰大師標石が続く>林観音庵に石仏群と四国千躰大師標石>御所小学校傍の標石>県道235号合流点の2基の標石>目引大師堂>延命地蔵尊に2基の標石>集会所対面に巨大供養塔>国道318号交差部に標石2基>御所神社参道鳥居前の標石>県道139号手前を右折し熊谷寺山門に
■第八番札所熊谷寺■
県道139号合流点に2基の標石>毘沙門堂>茂兵衛道標(167度目)>鳥居の先に2基の標石>舟形地蔵標石と四国中千躰大師標石>四つ辻に茂兵衛道標(88度目)と標石>道路標識に従い左折し法輪寺へ
■第九番札所法輪寺■
寺の東南角に標石>九龍宇谷川手前の茂兵衛道標(173度目)>青石自然標石>T字路角に地蔵座像と標石3基>小豆洗い大師>水田集会所手前の自然石標石と舟形地蔵標石>秋月大師堂と自然石標石>県道139号とのT字路に自然石標石>切幡寺の寺標石を右折し境内に
■第十番札所切幡寺■
県道237号手前と合流点の標石>地蔵堂の少し南に標石>県道12号合流点手前のへんろ休憩所>八幡小学校傍の標石2基>農協対面に標石>御所の原地蔵尊の茂平兵衛道標(137度目)と標石2基>吉野川堤防に茂兵衛道標>大野島橋>旧渡船場分岐点の標石>川島橋 >国道192号・県道240号分岐点に茂兵衛道標(157度目)>旧路分岐点に3基の標石 >旧路の自然石標石と地蔵尊>県道238号交差部に自然石標石>お屋敷前に2基の標石>旧遍路道分岐点に標石
■第十一番札所藤井寺■
第六番札所安楽寺
●山門
●多宝塔
●本堂
正面に本堂。コンクリート造りのお堂に木に銅葺きの屋根。結構落ち着いた造り。Wikipediaには「徳島県板野郡上板町にある高野山真言宗の寺院。温泉山(おんせんざん)瑠璃光院(るりこういん)と号する。本尊は薬師如来。大師堂前から湧き出る宿坊の温泉とラジウム鉱泉入りの薬湯も有名である。
寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたという。往時は温泉湯治の利益で、山麓から広大な寺域を誇り十二宇門甍を接し鈴鐘の響きが絶えることがなかったが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失し荒廃した。 万治年間(1658年 - 1661年)に現在地に駅路寺であった瑞運寺を併合して再建される。
本尊薬師如来坐像は、昭和37年(1962年)当寺の住職にすすめられて、妻の難病平癒祈願のため四国遍路を続けていた夫婦が、遍路途中に病気平癒をした報恩のために奉納したもので、43cm程の古来の本尊を胎内仏として納められている」とある。
境内にあった案内には「平安時代前期弘仁六年(815)弘法大師四国霊場御開創のみぎり、大師当地において四十二才の大厄をのがれられ(さかまつの由来)自ら薬師如来の尊像を刻み、請藍を建立、安楽寺と命名された。
山号を温泉山と号し、弘法大師が我が国に温泉湯治の利益を伝えた全国でも珍しい旧跡である。「四国遍礼霊場記」元禄二年(1689寂本著)には「相逐来て医王の神化をひとみな仰ぎ、寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し、鈴鐘のひびき耐える時なし」と記され、安楽寺谷川の滝の行場や瓦が出土する古代寺院跡、雨宝堂とよばれている庵、神社、平安時代の線刻仏等、周辺に史跡が点在し、当時の広大な寺域が想像できる。
この地は安楽寺谷川の水源と辺りの森を神とし、早くから開けた土地で「日置の荘」(引野)と呼ばれる広大な荘園であった。南北朝時代天授五年(1379)熊野新宮に寄進され、熊野の山伏(六坊)が熊野権現を祀った。近世となり、仏式の葬式等丁寧に先祖を祀る習慣が定着すると安楽寺はこの荘域に檀家を持つようになる。安土桃山時代慶長三年(1598)蜂須賀家正公の御信仰篤く、阿波の国主として入国するや、当山を駅路寺(管寺)と定め庇護された。茅葺の方丈(登録有形文化財)が当時を物語っている。
神仏分離、廃仏毀釈の歴史を経ても信徒の恩願深く四国霊場六番札所、温泉のある宿坊として現在に至っている。当寺は灌頂窟という道場を有す。願わくば参籠し、くす供養を以て先祖を廻向し自らも仏道を成ぜんことを」とあった。
●大師堂
〇さか松
お大師樣42才のお年に四国を巡錫され、当地に薬師如来の影現を拝して、心に薬師法を修して、国家安穏、諸人快楽を祈られました。その折り、病の父親に猪の肝を飲ませようと狩りをしていた青年が、お大師様を獲物と間違えて弓を放ってしまいました。すると、1本の松の枝が風もないのにその矢を受け、身代わりとなりました。
謝る青年に話を聞くと、お大師様は青年の父親をお加持し、私利私欲を離れて懺悔せよ、供養の心を起こし、人の為、世の為に自分を惜しむこと無く提供するよう説法されました。不思議、翌朝青年の父親は足腰が立ったのでした。ご利益を受けた一家は労力と資金を惜しみなく投じて本堂を建立しました。
お大師様は身代わりになった松の枝を青年にさかさまに植えさせ、この松が芽を出し栄えることがあれば末世の者、この地を踏むことによって悪事災難を免れると言い残されました。後にこの松は芽を出し栄え「六番のさかまつ」と言い伝えられるようになりました」と。
●方丈
〇聖徳太子の駒繋石と一本木大楠不動明王の由来
●駅路寺
案内に登場する「駅路寺」とは阿波藩独自のもの。藩主蜂須賀家政慶長3年(1598)、領地から城下町徳島を結ぶ5街道を整備し、その街道に往来の便を図るべく寺に宿坊を設けた。官用を優先しながらも、往還の旅人、遍路や出家も宿泊も利用できた、とのことである。
このお寺さまの宿坊は結構大規模。収容人数250名とあった。
■第六番札所安楽寺から第七番札所十楽寺へ■
安楽寺を離れ次の札所十樂寺へ。距離は1キロほどである。
県道139号南の地蔵堂に茂兵衛道標
真念道標と地蔵台座標石
地蔵堂に祀られる地蔵座像の台座に手印。標石を兼ねている。「文化七 八百七」の文字も読める。
その前に真念道標。正面に「左 遍ん路みち 願主 真念」の文字が読める。右面には「(梵字)大師遍照金剛」、左面には「為父母六親」といった真念道標の特徴となるサインがはっきり読めた。
十楽寺四つ辻手前の3基の標石
「へんろ道」の文字の上に、矢印の左右に六番、七番と刻まれた標石は前述中尾多七さん達が建立した標石だろう。手印と大師像が刻まれ半ば埋まったような標石は照蓮の四国中千躰大師標石。
この2基の標製の一段高いところに舟形地蔵。「右 十楽寺 寛政九」といった文字が刻まれた標石となっている。「右」では間尺に合わない。どこからか移されたものだろう。 標石の先の四つ辻を右折すると第七番札所十楽寺の山門前に出る。
第七番札所十楽寺
●鐘楼門と中門
●本堂
正面に本堂。Wikipediaには「徳島県阿波市(もと板野郡)土成町高尾字法教田にある真言宗の寺院。光明山蓮華院と号する。本尊は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音菩薩立像と勢至菩薩立像で3躰とも鎌倉期の作と云われている。
寛永12年(1635年)に現在地で再建された頃は草葺のお堂であったよう。現在の堂宇が再建されたのは明治になってからのこと。
●大師堂
石段を上に大師堂が建つ。
●山門左に茂兵衛道標
それにしても標石、寺柱がここに立つのはちょっと違和感がある。お寺さま手前、標石3基を左に折れたあたりの道は整備中といった状態。古い道はこの茂兵衛道標のところに続いていたのか、道標などが移されたのか、どちらだろう。
■第七番札所十楽寺から第八番札所熊谷寺へ■
次の札所、第八番熊谷寺はここから西へ4キロほど歩くことになる。
旧街道合流点の真念再建道標
この標石には「文化六」の文字と共に、「真念再建願主照蓮 世話人阿州徳嶋講中」の文字も刻まれる、とか。真念没後100年以上たった文化6年(1809)、願主とある照蓮が真念の標石建立を徳とし、その意思を継ぐべく四国中千躰大師標石建立を意図した、その「決意表明」と言った意味合いの文言であろう。「願主照蓮 世話人阿州徳嶋講中」のペアで四国千躰大師標石が建てられている。
四国中千躰大師標石が続く
その先、道の右手、民家のブロック塀に組み込まれたような標石。これも四国千躰大師標石。
林観音庵に石仏群と四国千躰大師標石
この観音庵の南西端、道の右手のブロック塀端にも四国中千躰大師標石。手印は十楽寺方向を指す。今までの流れから言えば、次の熊谷寺を指すのが普通。道の反対側から移されたのだろうか。3基続いた四国中千躰大師標石はすべて文化六年と刻まれている、と言う。
御所小学校傍の標石
県道235号合流点の2基の標石
目引大師堂
延命地蔵尊に2基の標石
延命地蔵の裏表に2基の標石。表には手印と共に「四国道 七番 八番」と刻まれる。裏には大師坐像と共に「是より八ばん十八丁」と刻まれる。
集会所対面に巨大供養塔
また、集会所傍には大師像が刻まれた石碑、石灯籠も立ち、線香を手向ける台もある。弘法大師茶堂として御接待の場所であった、よう。
国道318号交差部に標石2基

御所神社鳥居前の標石
道の右手、御所神社の鳥居の立つところ、道の右手に2基の標石。少し土に埋もれた標石には「へんろ道」の文字と矢印が刻まれる中尾多七標石。その裏の大きな標石の側面には「是与十らく寺 三十丁」「是与久またに寺 十丁」と刻まれる。
●御所神社
昭和32年(1957)、この地の北にあった吹越神社に合祀され、現在ではそこが吉田の御所神社と称される。
県道139号手前を右折し熊谷寺山門に
第八番札所熊谷寺
●山門山門の先に車道が走る。車道をクロスし右手に弁天池を見遣り先に進む。
●熊谷寺板碑
文面によると、亡父母の供養のため、その子息が建てたものと考えられる。建立年月は歴応二年(1339)秋の中日である。歴応は南北朝時代の北朝の年号で、当時北朝方の重臣細川和氏が秋月城に拠って勢力を誇っていたので、此の地方では北朝の年号が使用されていたと推定される 平成元年」とあった。
板碑は左端、2mほどの細長い石造物である。
●多宝塔
●中門
●鐘楼
●本堂
1927年(昭和2年)火災により本堂とともに空海作と伝えられていた本尊も焼失した。本堂は1940年(昭和15年)に再建が開始されたが戦争により中断、1971年(昭和46年)に全容が完成し、新造された本尊が開眼した」とある。
●大師堂
前述蜂須賀公の月見の宴の話の如く、江戸の頃は蜂須賀公の庇護を受け境内の堂宇は百を越えたという。なお、寺名の由来ともなった熊野飛瀧権現社跡は本堂と谷を挟んで右手上方の台地にある、とのこと。
■第八番熊谷寺から第九番法綸寺へ■
県道139号合流点に2基の標石
合流点の少し南、県道139号の右手に石仏と2基の標石。1基には「へんろ道」と刻まれる。文字の上には矢印らしきものも見える。中尾多七標石だろう。 その横の自然石も標石。風化が激しく文字は読めないが、「八ばん五丁 白鳥」といった文字が刻まれるようだ。
毘沙門堂
茂兵衛道標(167度目)
遍路道はここを左折し県道を離れ南に下る。旧路をのみ込むように新しい車道の整備中。
鳥居の先に2基の標石
鳥居の先、道の右手に2基の標石。1基は「へんろ道」と矢印。中尾多七標石だろう。その横の自然石には手印が見える。
舟形地蔵標石と四国中千躰大師標石
四つ辻に茂兵衛道標(88度目)と標石
また、茂兵衛道標の道を隔てた対面にも標石。上部が破損し「ろ道」の文字が読める。形状からすれば既述中尾多七標石のようにも見える。
道路標識に従い左折し法輪寺へ
山門前に標石。手印と共に「右十ばんきりはた寺 二十五丁
左八ばんく満だに寺 十八丁 大正五年」といった文字が刻まれる。
第九番札所法輪寺
●山門
●本堂
巡錫中の空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺と号した。
釈迦涅槃像を本尊とするのは四国霊場ではこのお寺さまだけ。幾多の火災にもその難を避け、現在に伝わるとのことである。
●大師堂
本堂右手に大師堂。
■第九番札所法輪寺から第十番札所切幡寺へ■
次は吉野川北岸、十里十寺と称される四国霊場最後の霊場である第十番切幡寺。おおよそ4キロ歩くことになる。
寺の東南角に標石
九龍宇谷川手前の茂兵衛道標(173度目)
青石自然標石
T字路角に地蔵座像と標石3基
また、このT字路の北東角にも自然石がある。よくみると「九番」といった文字が読める。これも標石となっている。
小豆洗い大師
水田集会所手前の自然石標石と舟形地蔵標石
秋月大師堂と自然石標石
県道139号とのT字路に自然石標石
遍路道はこれからしばらく県道139号を進むことになる。
切幡寺の寺標石を右折し境内に
●輪蔵庵
足利尊氏が元寇以来の国難に準じた戦没者の霊を弔うべく安圀寺と利生塔を各国に建立。輪蔵寺はその安圀寺跡とされる。
足利尊氏の四国経営の拠点とし、この秋月庄を領した秋月城の城主である細川和氏の手により建立した補陀寺をその前身とし、夢窓国師により開山した。
●秋月城
文永三年(1266)に守護小笠原直長の居城として築城。その後、建武三年(1334)上述の細川和氏が阿波守としてこの城を居城とする。三代目の細川詮春が居城を勝瑞城に移った後は、秋月氏が護った。
第十番札所切幡寺
●仁王門
●経木場
●本堂
三百三十四段の石段を上ると正面に本堂。Wikipediaには「徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。得度山(とくどざん)灌頂院(かんじょういん)と号する。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になったという。
山号、院号、寺名ともに上述機織り娘に由来するとあるが、異説もある。元禄2〈1689〉の寂本著『四国遍礼霊場記』には「大師初じめてここに至り給うとき、天より五色の幡一流降り、山の半腹にして其幡ふたつにちぎれて、上は西の方へ飛ゆき、下は此山に落ける、怪異の事なれば、是を伝んとて、大師寺を立切幡寺と名け玉ふとなん」とあり、真念や澄禅の著にも機織娘の即身成仏の記事はなく、江戸の中期の頃には未だ機織娘の故事の話はできていなかった、との記事もある。縁起って、所詮縁起ではあるが、何時、誰が、どのような意図で創作するのか、結構気になる。
●大師堂
●不動堂
●大塔
境内には機織の乙女が即身成仏した伝説の観音像・はたきり観音が立つ。右手にはさみを左手に布を持つ姿である。
●奥の院
八祖大師とは龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう ) 一行禅師(いちぎょうぜんじ)、恵果阿闍梨、弘法大師。インドで生まれた真言密教の教えが中国をへて弘法大師に伝えられるまでに現れた偉大な阿闍梨を言う。
〇讃岐から阿波への遍路道
切幡寺は88番札所大窪寺を打ち終えた後、阿波の札所へと辿るふたつの主要ルートのひとつ。大窪寺の標石に「切幡寺」を指していたように、大窪寺を打ち終えた遍路は、日開川筋(現在の国道377号)に沿って西に向かい、長野集落からは流路を南に変えた日開川の谷筋を下りこの切幡寺へと至る。
因みにもうひとつのルートは、上述長野から東へと中尾峠を越え、湊川の谷筋を白鳥の社のある海辺まで進み、前述大阪峠を越えて第一番札所の霊山寺へ向かう。 昔のお遍路は第一番からスタート、といったことにこだわることなく、自由に霊場を廻っていたようである。
■第十番切幡寺から第十一番札所藤井寺へ■
十里十寺と吉野川北岸を辿った遍路道も、次の札所十一番藤井寺に向け??野川を渡り南岸に向かう。その距離おおよそ10キロである。
県道237号手前と合流点の標石
先に進み県道237号との合流点にも標石。手印と供に「十一ばん」の文字が刻まれる。この標石には「(梵語)南無大師遍照金剛」の名号、「父母六親」と言った真念道標の特徴を備えるため、真念道標とされる。「十一ばん」といった文字は真念道標になじまないが、後世添刻されたと言う。
地蔵堂の少し南に標石
県道12号交差部手前にへんろ小屋
八幡小学校傍の標石2基
合流点の東北角にも標石。「へんろ道」、矢印の両端に「十番、十一番」と刻まれた典型的な中尾多七標石。
農協対面に標石
裏に大師像も刻まれ、形状は四国中千躰大師標石のように見える。チェックすると、文化八の文字が刻まれた照連の四国中千躰大師標石との記事もあった。
既に見てきたように、四国中千躰大師標石は文化六年の銘が多く、文化八は珍しいとのこと。文化六年に始めた道標建立も余り長くは続かなかった、といった記事をどこかで見た記憶があるが、そのことと関係があるのだろうか。
御所の原地蔵尊の茂平兵衛道標(137度目)と標石2基
お堂の東には茂兵衛道標。折れた真ん中を補修しているが、裏面上部も破損している。正面に「阿波国阿波郡林村」、右面に「明治二十七年」、左面に「百三拾七度目為供養」などの文字が刻まれる茂兵衛137度目巡礼時のもの。
お堂の西に2基の自然標石。「是よりふしい寺五十五丁 天保九」、「十一ばん」といった文字が手印と共に刻まれる。
吉野川堤防に茂兵衛道標
常の標石には茂兵衛の出身地は長州ではなく周防圀の表示が多いようだ。裏面は施主の住所だろう。オリジナルは市場町にある歴史民俗資料館に置かれているようだ。
茂兵衛道標の傍、堤防下にはへんろ小屋もあった。
大野島橋
面積は東西約6キロ、南北約1.2キロ、約500ヘクタール。周囲は真竹が取り囲み、その中に約350ヘクタールの農地が広がる日本最大の川中島。
この島の西端で最上流周辺を「剣先」と呼び、ここから??野川は南北に分かれ、北は阿波市側を市場町から??野町にかけて、もう一方は吉野川市域を流れた後、再びひとつになる。 嶋への出入りは、阿波市側からはこの「大野島橋」のほか「千田橋」「香美橋」の三つの潜水橋(増水時に川の流れを妨げないよう水面下に沈下する橋)、吉野川市からは「川島橋」「学島橋」の二カ所の潜水橋のいずれかを自由に通行する。
現在地点の「大野島橋」から「川島橋」へと続く道路は、第十番札所切幡寺から第十一番札所藤井寺を結ぶへんろ道として現在まで続く。
この島には大正4年(1915)までは506戸約3000名の住人が住み、学校や神社もあった。??野川の水で豊かな稔をもたらる反面、洪水時による島の冠水により農作物だけでなく人的被害などの惨事が繰り返されてきた。
島外に移住した住民は、現在の国土交通省の管轄下、その後も占有許可を受け農地として残した。平坦は台地は農地整理、土地改良、道路整備を重ね、現在ではほとんどが?アール規模に整理され、利水も約50キロ上流の池田ダムより吉野川北岸農業用水のパイプ配管による導水設備が整備され、農業地帯として成長してきた。
占用耕作者は約550戸、阿波市が約8割、吉野川市が約2割。両市の地域農業を支え、かつ関西の台所と称される野菜の一大産地となっている。カボチャ、キュウリ、ナス、ダイコン、ニンジン、ハクサイ、キャベツ、ブロコリー、水稲などを栽培する」とある。
河川敷の車道を少し進むと「大野島橋」。前述、巨大な中州・善入寺島に架かる潜水橋である。橋桁は低い。幅は3メートルほどのコンクリート造り。車はすれ違い不可能で、対向車の有無を確認しながら渡っている。
旧渡船場分岐点の標石
川島橋
川島橋南の堤防下に標石
●粟島の渡しの標石
現在は川島橋を渡り、この標石から先に進むが、往昔の遍路道である粟島の渡し辺りに標石があるものかと、好奇心で確認に向かう。
なお、「にしをゑ」はこの辺りの旧地名である「西麻植(にしおえ)」のことだろう。
国道192号・県道240号分岐点に茂兵衛道標(157度目)
少し進むと左から径が合わさる箇所に茂兵衛道標が立つ。「藤井寺 切幡寺 左箸蔵寺 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛157度目巡礼時のもの。
切幡寺の手印が北を指す。ということは、かつて粟島の渡しを渡ったお遍路さんは、前述堤防下の2基の標石辺りから、この地へと辿ってきたのだろう。道筋としてはほぼ直線といったものである。
なお、箸蔵寺は吉野川を上流に60キロ弱のぼったところにある金毘羅さんの奥の院。箸蔵寺へ辿る箸蔵道(Ⅰ、Ⅱ)の記憶が蘇る。
旧路分岐点に3基の標石
次いで茂兵衛道標。手印と「切幡寺 箸蔵寺 藤井寺 左徳島 百九十二度目供養」といった文字が刻まれる。明治35年、茂兵衛192度目巡礼時のもの。
左端の標石には「ん」といった文字が刻まれるが、その他は読めない。
旧路の標石と地蔵尊
県道238号交差部に自然石標石
県道240号を南に離れる角に標石
その先四つ辻にお堂があり、傍に標石が残る。「是ヨリ藤井寺江六丁 文政」といった文字が刻まれているようだ。 お堂の前に藤井寺を案内する新しい標石。指示に従い左折する。
お屋敷前に2基の標石
道を進むとT字路で県道242号にあたる。その角、お屋敷の前に標石が立つ。手印と共に、「ふじい寺 志ようさん寺道 きりはた寺道 明治廿年 施主須見徳平」とあり。施主の須見氏はこの屋敷の主である。「志ようさん寺」は第十二番札所焼山寺。
標石から旧遍路道に入り藤井寺へ
指示に従い直進し、休憩所を越えた辺りから趣のある径を進み、藤井寺に至る。
第十一番札所 藤井寺
●山門藤棚に沿って歩き、納経所を越えると直角に曲がる。
●本堂
正面に本堂。Wikipediaには「徳島県吉野川市鴨島町飯尾にある臨済宗妙心寺派の寺院。金剛山(こんごうざん)と号する。本尊は薬師如来。なお、四国八十八箇所霊場のうち、寺号の「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは本寺だけである。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失した。澄禅の『四国辺路日記』(1653年巡拝)には、「三間四面の草堂也、仏像は朽ちる堂の隅に山の如くに積置きたる・・」の状態であったが、 延宝2年(1674年)に臨済宗慈光寺の南山祖団禅師が再興し、それゆえ臨済宗に改められたが、天保3年(1832年)に再び火災によって本尊以外は全焼、その後万延元年(1860年)に再建されたのが現在の伽藍である」とある。
「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは本寺だけである、とある。結構珍しい。同じくこのお寺さまには院号がない。院号がないのはそれほど珍しいことではないようだが、結構遍路歩きをしてきたが、院号がない寺はあまり記憶にない。
〇本尊薬師如来
「薬師如来坐像(本尊) - 榧の一木造り、素地、像高86.7cm。本堂裏にある収蔵庫に収められている秘仏であり通常は公開されていない。像内部の墨書銘に、「仏師経尋、尺迦仏、久安4年(1148年)」などが読み取れ、元来釈迦如来像として造立されたことがわかる。重要文化財指定の正式名称も「木造釈迦如来坐像」である。また、膝裏の墨書きから天文18年(1549年)に現在の形に改変されたことがわかる。平安時代末期の、制作年・作者が明らかな基準作として貴重である。明治44.8.9」とある。
釈迦如来も薬師如来も左手は与願印、右手は施無印を結ぶ。与願印は「願いを与える」、施無印は「畏れを無くする」を象徴する印である。で、釈迦如来と薬師如来の違いは、与願印に「薬壷」を持つか否か、ということ。天文18年(1549年)の修理に際し、薬壷を付け加えたということかと。
●大師堂
〇大師堂横の延命地蔵尊。
阿波を焼土と化した土佐の侍大将の子孫がその滅罪を願い建てたもの。その惨禍は伊予、差讃岐にも及ぶが、阿波は23霊場のうち15のお寺様が焼失している。
寺は城砦としても機能したであろうから、戦の理ではあろうが、その滅罪を願う尊像を祀るのはここではじめて目にした。
次の札所十二番焼山寺へは本堂左側より入っていく。