土曜日, 5月 05, 2018

伊予から讃岐へ 歩き遍路;六十五番札所・三角寺から六十六番札所・雲辺寺へ その①三角寺から佐野の雲辺寺口へ

法皇山麓・平山を経て伊予と阿波の国境・境目峠を越え,徳島県池田町佐野の雲辺寺口へ

先回の散歩で旧三島市(現、四国中央市)の遍路わかれから三角寺を繋いだ。三角寺から奥の院・仙龍寺経由の遍路道は、法皇山脈を越えて銅山川の谷筋まで下り、奥の院を打った後、遍路道を堀切峠近くの峰の地蔵へと上り直し、土佐北街道に合流し旧川之江市の平山まで辿ることになる。
この遍路道は、三角寺から奥の院への散歩で峰の地蔵まで上り返し、そこから三角寺へと戻った散歩()、また土佐北街道・横峰越えの際、知らず奥の院からの遍路道に出合い、平山から峰の地蔵までトレースしたことがあり、合わせ技ではあるが奥の院経由の遍路道を平山まで踏み歩いている。
平山は三角寺から直接であろうと奥の院経由であろうと、次の札所である讃岐の雲辺寺に向かう遍路道が経由する遍路道の「要衝」の地である。三角寺から佐礼を経由して平山へ向かう山麓の遍路道幾度となく通っているのだが、道標なども残らない単調な車道であり、メモするのもなんだかなあとこれで伊予の遍路道を繋ぐ散歩は完結と思っていた。

が、今となっては何となく収まりがよくない。その因は、今回三角寺へと辿る遍路道をチェックする過程で、遍路道指南である「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」に、三角寺から平山への遍路道は、「北東へと谷筋を標高150m付近の西金川、東金川へ一度下り、そこから東に平山まで上り返す道」との記述である。
三角寺から平山への遍路道が佐礼を経由する山麓の道以外に登場した。それも、その道の方が「本筋」のようにも思える。少々思惑が違ってしまった。

画龍点睛を欠く、というわけでもないのだが、伊予の遍路道をつなぐとした以上、最後の詰めをしておこうと三角寺から金山を経由し平山までの遍路道をチェック。また、どうせのことなら少し足を延ばし予讃国境までカバーしようとルートを見ると、遍路道は境目峠(香川ではなく徳島県)という峠越えフリークには少々惹かれ名前の峠を越えて雲辺寺に向かう。
ついでのことながらと雲辺寺までのルートをチェックする。と、そのルートも境目峠の手前から山に入り曼陀峠という、これも少々惹かれる名前の峠を経て尾根筋を雲辺寺に向かう道、境目峠から曼陀峠へと尾根筋を進む道、さらには徳島の佐野の雲辺寺口から阿讃の山に入り、尾根筋に上り雲辺寺へと向かう道がある、と言う。何となく面白そう。

ということで、三角寺までを繋ぐことで大団円としようとした当初の予定を変更し、伊予と阿波の国境・境目峠を越え雲辺寺までの遍路道辿ることにした。 ルートは徳島県池田町佐野の雲辺寺口まで進み多くの地蔵丁石も残り、如何にも遍路道の風情を感じる雲辺寺口から雲辺寺へ辿ることで良し、としたのだが、途中その標識と出合った七田からの山入りルート、境目峠から曼陀峠を経て雲辺寺に向かうルートも気になり、結局はをすべてのルートを辿ることになった。 ともあれ、今回はは伊予と阿波の国境・境目峠を越え、佐野の雲辺寺口から阿讃の尾根に上り雲辺寺に向かう遍路道をメモする。

本日のルート;
三角寺から平山へ□
谷筋の旧遍路道◆
遍路標識を左折>竹藪を左折>道と交差>道との交差箇所に道標>車道に合流
西金川・東金川から平山へ
西金川三差路の道標>三角寺口バス停>東金川バス停傍の道標>大西神社南の道標>東金川集会所西の道標>新土佐北街道分岐点の道標>土佐北街道が県道5号に合流>県道5号から土佐北街道を嶋屋跡へ>土佐北街道と遍路道分岐点
平山から椿堂へ
横川川の谷筋に下りる>横川の常夜灯>高知自動車道を越えて領家に>椿堂
椿堂から境目峠へ
三差路に茂兵衛道標>金生川に沿って国道192号を東に進む>七田で遍路道はふたつに分かれる>阿波街道の遍路道を境目峠へと向かう>境目峠旧道上り口の道標>道標の先で土径に入る>旧国道に出る>境目峠:切通しに境界石
境目峠から佐野の雲辺寺口へ
遍路道がふたつに分かれる>中津山道の道標>国道192号に合流し佐野へ >雲辺寺口


三角寺から平山へ□
谷筋の旧遍路道◆
三角寺の奥の院・仙龍寺を打つことなく、三角寺から金田を経由して平山へ向かう道について「えひめの記憶」には、「三角寺門前の商店(旧遍路宿)左脇の小道を下りた後、三角寺川の谷と並行して北に向かって下って行く。雨水の流路となっているようで道は深くえぐられ、山石が転がり小さな雑木が覆いかぶさって歩きにくい」とある。
記事にある商店(駐車場のオーナー)の下手に右に折れる道がある。商店前で駐車場の管理もかねて座ってらっしゃるおばーさんに、谷筋を下りる遍路道はありますか?と尋ねる。嫁に来て70年になるが、そんな道は歩いたこともない、と。

遍路標識を左折
初っ端から少々戸惑ったが、取りあえず様子を見に道を下る。坂を下り集落が切れるあたりに遍路標識。案内に従い左に折れるが、竹で通行止めの表示。どの程度の荒れ具合か確認のため先に進む。道端に猪捕獲用の罠が置かれている。

竹藪を左折
少し進むと左手に竹藪がある。わかりにくいのだが、竹藪の中へと左折の遍路シールが竹に貼ってある。見逃しやすい。実際、当日はこの案内を見逃し、直進し藪に入り込む。遍路道を示すシールも見当たらず、あれこれ彷徨った末に、突然遍路シールが無くなるのも不自然であり、シールを見逃したに違いないと藪から撤退。気を付けて戻る途中に竹に張り付けられた遍路シールを見付けたわけである。


道と交差
少し下り沢を左岸に渡る。沢といっても、「えひめの記憶」にあるように雨水の流路といったものである。遍路道は要所に遍路道案内シールがあり迷うことはない。
竹藪の左折点から5分ほどで比較的広い土径に出る。舗装はされていない。交差箇所の東側には家畜サイロだろう建屋が建っている。地図にはないが、このサイロに続く道が作業道から続いているのだろう。

道との交差箇所に道標
作業道を越え沢に沿って下る。道は結構荒れてくるが、遍路道案内シールがあり安心。水に深くえぐられた道を5分ほど下ると水路が脇を流れる舗装された道にあたる。交差箇所に立派な道標が立つ。「此方 遍んろ道」と読める。 谷筋の沢も、このあたりから三角寺川として地図に水路が描かれている。

車道に合流
道標箇所から先、比較的歩きやすくなった道を進み、用水タンクのような水槽あたりから舗装された道を下ると車道に出る。道標箇所から7分ほど。旧遍路道案内のある、通行止め地点からおおよそ30分強といった旧遍路道下りであった。

西金川・東金川から平山へ
西金川三差路の道標
谷筋を離れ前面が開ける道を下り、西金川集落の三差路少し手前に道標が立つ。摩耗も激しく、下部が埋もれている。
金川
金川の由来は近くの淵から金の仏像が彫り出された故とのこと。もっとも、この辺り、後程出合う金生川とか銅山川筋の金砂とか、金を冠する地名が多いが、これら川筋で砂金が採れた故との話はよく聞く。この川から金の仏像云々も、砂金故?といった妄想も膨らむ。

三角寺口バス停
三角寺川左岸を下り三角寺口バス停に。「えひめの記憶」には「バス停留所のある三角寺橋のたもとは、かつては春の季節になるとさかんに団子や白米の接待が行われた場所である。遍路宿が1軒あったほか、弘法大師の命日には善根宿を行う家もあったという」とある。遍路道オンコースを進んでいるようだ。

東金川バス停傍の道標
三角寺川を東金川バス停まで下ると、東金川橋へと右折する角に道標がある。大正の銘が刻まれる道標は「左 奥の院 「右 立川街道」と読める。遍路道はここを右折する。
立川(たじかわ)街道
立川街道とは土佐北街道の別名。土佐北街道のルート上、高知県長岡郡大豊町立川下名に立川口番所がある。藩政時代は土佐藩主参勤交代の際の本陣であり、遥か古代に遡れば古代官道の立川駅のあった地でもある。土佐北街道を立川街道とも称する所以である。

大西神社南の道標
東金川橋を渡り、大西神社の鎮座する小高い丘の裾を進む。白石川に神社の丘が突き出た東南端、車道右手に道標がある。文久(1861-1864)と記された道標には「右 金毘羅道 此方 へんろ道」の文字が刻まれる。
「此方」の面の手印は南を示す。「右 金毘羅道」は境目峠をトンネルで抜け徳島に向かう国道192号沿いの金比羅さんの奥の院である箸蔵寺への道を指すのかもしれない。
尚「えひめの記憶」には、江戸時代の遍路道は上述の東金川橋袂の道標までは行かず、三角寺川の北傍にある正善寺を過ぎたあたりで三角寺川・白石川を渡って現在の大西神社南麓に出て、北から来る土佐街道(笹ケ峰越えルート)と合流していたようである。その合流地点のあたりに道標が立っている、とする。この道標が江戸時代の遍路道との合流地点ということだろう。

東金川集会所西の道標2基
遍路道はここからしばらく土佐街道(土佐北街道・立川街道)を進む。東金川集会所の200mほど西に道標がある。天保(1831‐1845)と記された道標には、手印と共に「遍んろみち」と刻まれる。
更に道標がもうひとつ。東金川集会所の直ぐ西のT字路に茂兵衛道標が立つ。南に向かう面には「奥の院 土佐高知」の文字が刻まれる。


新土佐街道
「えひめの記憶」には「茂兵衛道標から右折すると、いわゆる新土佐街道である。新土佐街道は、主として四国山地の楮(こうぞ)・三椏(みつまた)などの運搬道として明治時代を中心に使われた道である。遍路が利用することもあったらしく、街道沿いにあたる西方(さいほう)のバス停留所前にも道標が立てられているが、現在はその大部分が廃道の状態である」とする。新土佐街道のルート詳細は不詳。

土佐北街道分岐点
東金川集会所から先、平山までの遍路道について「えひめの記憶」は、「茂兵衛道標の前を右折せずにまっすぐ通り過ぎた遍路道は、徐々に法皇山脈を上っていったん県道川之江大豊線と合流した後、すぐ県道と分岐して平山に向かって上がる。(中略)その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だったが、現在その跡地は畑になっている。遍路道と土佐街道は嶋屋の跡地前で分岐する。ここを過ぎてそのまま東に向かうのが遍路道であり、土佐街道はここで南に方向を変え、急峻な平山坂を上って水ヶ峰に達し、さらに新宮村を経て土佐へ達する」とする。

少々漠とし、ルートがはっきりしない。道なりに進み県道5号と合流しても、すぐに分岐し平山に向かう道は地図にない。さてどうしたものか。で、唯一の手掛かりは嶋屋跡。ここは土佐北街道・横峰越えの際に特定しており、そこを平山集落への遍路道の目安として、基本成り行きで進むことにした。 東金川集落から平山へと上り返す。東へと進み急坂を20mほど上り切った等高線突端部に「土佐北街道」右折の案内。小さく「遍路道」の案内もある。地図をチェックすると南東に破線が描かれている。

土佐北街道が県道5号に合流
右折するとしばらくは簡易舗装。進むにつれ土径となる。少し荒れているが、どうとうことはない。杉林の中を進むと前方にトンネルが見える。県道下を抜いている。県道5号筋の改修工事の折、道が付け替えれらたのだろう。トンネルを潜り右折し県道5号に出る。合流点には次の目標となる椿堂への案内木標があった。
実のところこの土佐北街道をに入る前にGoogle Street Viewで破線の県道合流点をチェックしたのだが、道の西側はガードレールがあり出口らしき箇所が見つからず、果たして県道に合流できるのだろうか、「土佐北街道」と道案内がある以上、突然道が切れることはないよな、などと少々気にしながら歩いたのだが、トンネルで逆側に出るとは予想できなかった。

県道5号から土佐北街道を嶋屋跡へ
県道5号に出て地図をチェック。少し県道を進むと嶋屋跡のある場所へと破線が描かれている。道の右手を注意しながら進むと、民家右手に「土佐北街道」の案内石碑が立つ。民家脇の径を数分上ると嶋屋跡の石碑がある箇所に出た。眼下一望の場所である。
比較的新しい石碑南面には「お小屋倉跡」、西面には「旅籠屋・嶋屋跡」の案内が刻まれる。
お小屋倉跡
「土佐の国主が参勤交代の時、休み場が此処より1400米登ったところにあり、お茶屋と呼ばれここで休息される時、倉に格納してある組立式の材料を運びあげて臨時の休息所とされた」と書かれていた。
土佐街道横峰越えの折、このお小屋倉跡を訪ねたことがある。その場所の案内には「この場所に泉があり土佐藩主山内公の参勤交代中の休み場であった。延べ50余mの石垣で三方を囲み、上段に70平方メートル余りの屋敷を構えた。先触があると1400メートル下の平山のお小屋倉から組立式の材料を運び上げて休息所を建てた」とあり、その傍ブッシュの中の泉の跡には「お茶屋跡」との案内があり、「一般に「お茶屋」と呼ばれたこの地には、泉があり、すぐそばに大きな松の木があった。そのため、古くから旅人たちの休み場となっていた」とあった。
旅籠屋・嶋屋跡
案内には「薦田の家譜で約5アール(150坪余)の土地に広壮な建物があり、街道は屋敷の東(現在の谷)を下り隅で西に曲がり石垣の下を通っていた。石垣は土佐の石工が宿賃の代わりに積んだと言われ、兼山の鼠面積(長い石を奥行き深く使い太平洋の荒波にも強い)として有名である」とある。
兼山とは港湾整備など土木工事の実績で名高い土佐藩家老の野中兼山のこと。手結港や津呂港などの普請で知られるが、これも太平洋の荒波に耐える鼠面積で造られたのだろうか。
で、その石垣は何処に、と周辺を下り探したのだが、特に案内もなく、それらしき石垣も見当たらない。実際は、今は無いとのこと。石碑下の今は畑となっている北側に石垣があったようで、往昔の土佐街道・遍路道はその石垣下を廻り上ってきたようだ。なお、嶋屋に土佐のお殿様は泊まることはなく、川之江の本陣に滞在したとのことである。
平山
「えひめの記憶」には、「この集落は法皇山脈の標高200mを超す山腹に形成され、交通の要所として、かつては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だったが、現在その跡地は畑になっている」とある。

土佐北街道と遍路道分岐点
嶋屋跡石碑から僅かに東、道脇に土佐街道の石碑、それと並んで地蔵丁石と茂兵衛道標がある。ここで雲辺寺への遍路道は南に向かう土佐北街道と分かれ東に向かうことになる。
土佐街道
石碑には「是より 南 水ケ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る」と刻まれている。石碑脇の南に向かう坂を上り法皇山脈を越える。
茂兵衛道標と地蔵丁石
地蔵丁石には「奥の院まで四十八丁」と刻まれ、茂兵衛道標は手印で雲辺寺を示す
三角寺奥の院・仙龍寺からの遍路道
これら道標が示すのは、この地が三角寺奥の院から平山に出る遍路道ということである。三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて、銅山川の谷筋に下り奥の院・仙龍寺を打ち終え、一部往路を戻った後、北東へと法皇山脈を上る。峰の地蔵尊で法皇山脈の尾根を越えた遍路道は北東に少し下った後、土佐北街道に合流し、平山のこの地へと下りてくる。


三角寺からの遍路道と奥の院からの遍路道の合流点
今回は三角寺から奥の院を打つことなく直接雲辺寺へと向かう道をトレースしているが、既述の如く一度金川地区まで下り平山へと上り返す遍路道も、三角寺から佐礼を経て山麓の車道を平山まで緩やかに下る道も、奥の院からの遍路道もこの地で合流し雲辺寺へとっ住むことになる。









平山から椿堂へ
平山で合流した三角寺から直接、また奥の院・仙龍寺からの遍路道は、雲辺寺への次にランドマークである椿堂へと、金生川支流の横川川の谷筋に沿って東北に下る。道が金生川に突き当たるところに椿堂がある。

横川川の谷筋に下りる
嶋屋跡から県道5号の平山バス停に下り、バス停東側の道を下りT字路を左折、少し東に進むと遍路休憩所がある。傍の地図には「椿堂 常福寺3㎞ 雲辺寺 29㎞」とある。
その前の車道を進むと金生川支流・横川川が刻む谷筋の崖端に出る。車道はその崖面を大きく迂回し、ヘアピン状に下るが、遍路道は崖端から右に折れて崖を下り、横川川に沿ってショートカットし車道に合流する。崖上端から前面に開ける谷筋の眺めは、いい。
なお、車道とショートカット土径の合流点に小さな道標があるとの記事があるが、それらしき道標は見当たらなかった。

横川の金毘羅常夜灯
道を進むと横川の集落に金毘羅常夜灯が立つ。この常夜灯には手印と「へんろ道」の文字が刻まれる。「えひめの記憶」には、横川地区に道標があと1基あるとするが。見つけることはできなかった。
横川川
横川川は横川の地名からのものだろう。この「川川」については四万十川散歩の折り、その道すがら上八川川、枝川川、小川川、北川川、四万川川など「川川」と重なる川名が目についた。今まで結構川筋を歩いているのだが、このようなケースに出合ったことがない。
この辺り特有の命名法なのだろうか。なんとなく気になりチェックすると、特に高知に限ったものではなく、5万分の一の地図で見るだけでも全国に100ほどある、という(「地名を解く6;今井欣一」)。
その記事に拠れば、この場合の「小川」とか「北川」は、川の名前ではなく、地名とのこと。地名に偶々「川」があり、そこを流れる川故の「川」の重複と見えているようだ。また、「小川」など「川」がつく地名も、もともとは「岡端・岡側」であった「端・側」に川の字をあてたものが多いとある。岡の端の崖下には「川」が流れているから、「川」をあてたのでは、と。
なんの根拠もないが、横川も横端・横側であったのかもしれない。関係ないけど、ナイル川やガンジス川も、ナイルもガンジスも川の意であり、「川川」ではある

高知自動車道を越えて領家に
高知自動車道の高架下をくぐって川滝町領家(りょうけ)に入る。「えひめの記憶」には、「土地の古老の話によると、領家の古下田(こげた)から原中にかけての集落には何軒かの遍路宿があり、戦前までは、地元の青年たちによって白米などの接待も盛んに行われていたという。またこのあたりの農家では、内職で作った草鞋(わらじ)を軒先に吊り下げて遍路に売っていたこともあり、結構よい小遣い稼ぎになったということである」とある。
古下田には2基の道標がある(「えひめの記憶」)とするが、見つけることはできなかった。
領家の由来
Wikipediaには「領家(りょうけ)は、日本の荘園制において、荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)から寄進を受けた荘園領主である。中央の有力貴族や有力寺社が荘園寄進を受けて領家となっていた」とあり、続けて「寄進は開発領主が開発田地の支配権・管理権を確実なものとするためのものである。また、所有権を更に確実なものとするため、領家は皇族や摂関家といった最上位の荘園領主(本家)に寄進することもあった。これら領家・本家のうち、荘園の実質的支配権をもつものを「本所」と称し、本所が荘園権利の一部を付与した貴族も領家と称する」とする。転じて領家の所有する土地のことも「領家」と称したようだ。

椿堂
横川川は山裾に沿って進む遍路道とは結構な比高差となって金生川に合流する。その横川川の流れを左手に見遣りながら進み椿堂秋葉神社を越えると椿堂に。 別格13番札所 邦治山常福寺。案内によれば、「其の昔、大同2年(807)邦治居士(ほうじきょし)なる人この地に庵を結び、地蔵尊を祀る。弘仁6年(815)?月?日未明巡錫中の弘法大師がこの庵を訪れ、当時この地に熱病流行し住民の苦しめるのを知り、住民をこの庵に集めて手にせる杖を土にさして祈祷し、病を杖とともに土に封じて去る。後にこの杖より逆さなるも椿が芽を出し成長す。住民はこの椿大師お杖椿として信仰しこの庵を「椿堂」と呼び当地の地名ともなる」と。
茂兵衛道標
傾斜地の山側に大師堂、谷川に本堂と納経所。境内入口には下半分が埋もれた徳右衛門道標が残る。納経所前に寺名の由来ともなった椿の木。頃は開花の時期。美しく咲いていた。見逃したが境内には正岡子規など著名な俳人の句碑が数多く並んでいる、とのことである。
阿波街道・通り抜け道標
本堂と大師堂の間を国道192号から上る坂道は阿波街道。遍路道はこの地で阿波街道と合流する。坂道の上り際、国道192号脇には「椿堂遍んろ道通りぬけ」の道標が立つ。
椿堂を離れる前に、椿堂地区を彷徨う。「えひめの記憶」には、「川滝町下山の椿(つばき)堂地区まで進んで道が庄田川に突き当たる所にも2基の道標を見ることができる」とあるのだが、それらしきものは見あたらなかった。
また、そもそが「庄田川」を地元の方に尋ねてもご存じないよう。それらしき川には斧折川とある。結局、川も道標も見つけることができなかった。




椿堂から境目峠へ
椿堂を離れ雲辺寺への次のランドマークである伊予と阿波の国境である境目峠に向かう。

三差路に茂兵衛道標
椿棟から北にゆるやかにカーブする坂道を下ると、国道192号の一筋手前、国道に沿って通る道筋にあたる。このT字路角に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「雲邊寺 箸蔵寺」、また別面には「奥の院」と言った文字が読める。
「雲邊寺 箸蔵寺」の文字の下に刻まれる文字が気になってチェックすると、「三つの角うれしき毛乃者道越しへ(みつのかど うれしきものは みちおしえ)」と和歌が刻まれているようだ。誠にその通り。

金生川に沿って国道192号を東に進む
金生川の谷筋を抜ける国道192号を境目峠へと進む。「えひめの記憶」には「この道は阿波に向かう古くからの主要道であり、明治30年代以降、何度も大規模な改修が加えられてきた。一般国道の指定を受けた後の昭和47年(1972)には、全長850mの境目トンネルが開通して距離が短縮された」とある。国道から時に分岐する道が旧国道跡だろう。
国道192号
国道192号は愛媛県西条市と徳島県徳島市を結ぶ。通称伊予街道と称される。椿堂で遍路道は阿波街道と合流するとメモしたが、伊予街道は徳島側からの呼び名。伊予側からは通常、阿波街道と呼ばれることになる。
この道は「明治30年代以降、何度も大規模な改修が加えられてきた」とあるが、その歴史をチェック。伊予街道(阿波街道)は阿波五街道のひとつ。徳島城下から伊予国境に延びる。明治6年(1837)、伊予街道は二等道路に指定。明治35年(1902)、車道への改修工事開始。大正9年(1920)、徳島県道池田川之江線。昭和28年(1953)、二級国道西条徳島線、昭和40年(1965)、一般国道192号。境目峠にトンネルを抜いたのは昭和47年(1972)。子供の頃、トンネルが抜ける前の九十九折りの道を走った記憶がある。
金生川
金生川はこれから訪れる伊予と阿波の国境、境目峠辺りを源流点とし、旧川之江市(現四国中央市)川滝・金田・上分と下分の境(上分は左岸・下分は右岸 )・金生を抜けて瀬戸の海に注ぐ。川之江は金生川とその支流の流れによる堆積作用により形成された沖積平野にあり、(金生)川の畔故の地名である。室町の頃から「かわのえ」と呼ばれたようだ。
金生川は暴れ川で洪水被害に見舞われ、河川改修が行われているが、その暴れ川故、地味が豊かであり古代より開け、本川・支川流域には有力豪族の古墳が点在する。
その古墳石室に使用される巨石は、金生川の流れを利用して運ばれた、とされる。流域には金川、金生などの地名が残るが、これは、かつて流域で砂金が採れたことに由来する、とも。7世紀初め、渡来人である金集史挨麻呂(かねあつめのふひとやからま ろ)の存在も認められ、古来より砂金等が採取されていたようである。

七田で遍路道はふたつに分かれる
道の左手に常夜灯を見遣り、時に現れる旧道を辿りながら金生川の谷筋を上り七田の集落へと旧道に入る。
金毘羅道の道標
七田集会所手前の倉庫脇に道標が立ち、「奥院箸蔵 金毘羅道」の手印が境目峠方面を示す。側面に「奥院箸蔵ヨリ雲辺寺江行クノガ坂ナシ順路」とある。箸蔵寺が金毘羅さんの奥の院であるから金毘羅道とあるのだろうが、側面に刻まれた文字の意図するところがよくわからない。
いそもそもが雲辺寺から箸蔵寺まで14キロほども離れているし、箸蔵寺は一度歩いたことがあるのだが()結構な坂道を登らなければならなかった。箸蔵寺を打った後、雲辺寺へというお遍路さんがいることはわかるのだが、「(急)坂」無しで済むとは思えないのだが。どういう意味だろう?
うんへんじ道の道標・曼陀道
金毘羅道の道標脇に山に入る道があり、そこに道標が見える。「うんへんじ道」と読める。天保十四年(1843)の銘と共に「左 山道」と刻まれている、という。ここが七田から直接尾根に上り曼陀峠を経て雲辺寺を目指す遍路みち(曼陀道)。遍路道がふたつに分かれる分岐点である。

本日の予定は、阿波街道(伊予街道)を進み、伊予と阿波の国境である境目峠を越えて徳島県池田町佐野にある雲辺寺口から尾根に上る予定。このまま道標に従い尾根道に入りたい気持ちを抑え先に進む。

阿波街道の遍路道を境目峠へと向かう
七田の集落を進む。「えひめの記憶」には、七田は「道はここから急峻な山地に入って行くため、交通の要地として往時は何軒もの宿屋が建ち並んでいた。現在でも、道沿いの家々は昔の面影をよく残している」とある。 道端に下半分が埋もれた道標を見遣りながら旧道を抜け、国道192号に出る。





境目峠旧道上り口
国道の対面に補修された痕跡の残る道標が立ち、「箸蔵寺 弐百十丁 雲邊寺 弐里七丁」「三角寺 弐三十丁 奥之院 三里」と刻まれる。遍路案内に沿って遍路道に入る。
この道標の直ぐ先から旧国道道が九十九折りで境目峠へと上っている。遍路道はショートカットルートでもある。旧道を進む五分の一程度の距離に見える。

道標の先で土径に入る
廃屋の残る舗装された道を上って行くと道標が立ち、手印と共に「右 うんへんじ はしくら」の文字が刻まれる。道標から先に進むと遍路案内があり、ヘアピンで土径に入る。


旧国道に出る
10分ほどかけて標高を50mほど上げると遍路道は旧国道に出る。結構なショートカットルート。国道に出ると、遍路案内に従い愛媛県最東端の集落である泉中尾に入る。



境目峠:切通しに境界石
集落の先に切通が見える。その中程に境界石が建つ。「従是東 徳島縣三好郡 至愛媛懸川之江町四里 三好郡役所三里三拾丁」「大正六年」といった文字が刻まれる。境界石の脇にも半ば埋もれた境界石。「愛媛縣境」と読める。伊予と阿波の国境である。
境目
境目には荘園の境界と言った意味もあるようだ。この地の境目がいつの頃から使われたのか不明だが、原義は阿波と伊予の境目といった意味以上のものがあるのかもしれない。因みに境目を「境」に石垣の石組み、道の舗装も異なっているように思える。

境目峠から佐野の雲辺寺口へ
境目峠を越え、馬路川の谷筋を雲辺寺への遍路道のある徳島県三好郡佐野の雲辺寺口へと向かう

遍路道がふたつに分かれる
阿波に入ってすぐ、道の右手に道標がある。手印と共に「左 へんろ」と刻まれる。「左」? と、その先に遍路案内があり、左と直進の二つの遍路道の案内。左方向は「雲辺寺」、直進は「佐野経由雲辺寺」とある。
境目峠から曼陀峠を経て雲辺寺に向かう遍路道・境目道
地図をチェックすると、境目峠から実線で曼陀トンネル方向へ向かうルートが描かれている。境目峠から曼陀峠へと進み、阿讃の尾根道に入り雲辺寺へと向かう遍路道のようである。この道は曼陀峠辺りで、先ほど出合った七田から尾根に上る遍路道(曼陀道)と合流し雲辺寺へと向かうようである。
尚、上述曼陀峠は正式な地名ではなく、説明の都合上曼陀トンネル真上の鞍部を曼陀峠とした。また正式な曼陀峠は旧曼陀峠とする。

中津山道の道標
馬路川の谷筋を緩やかに下って行くと、道の右手に自然石の道標があり、「中津山道」と刻まれる。中津山?なんとなく気になりチェック。かずら橋で知られる祖谷渓の東に海抜1446mの中津山がある。お山は中津富士と称される霊山のようだ。この山には中世以前から土佐街道も抜けている、とか。
お山には真言宗の光明寺があり、この山岳修験のお寺さまには、かつて阿波だけでなく伊予、讃岐、中国地方からも信者が夏の祭礼に集まった、とのこと。確証はないが、このお山への案内なのだろう。
馬路
馬路(まじ)という地名はここだけではないが、その地形の特徴は狭隘な地を示す。馬路はこの「せまじ」「間地(まじ)」に由来するようだ。

国道192号に合流し佐野へ
旧国道を下り国道192号に合流。国道を進み、香川の観音寺へと抜ける県道8号手前で国道から左に折れ、旧道を進む。
因みに、県道8号を進み曼陀トンネル(隧道)の上辺りで七田からの遍路道(曼陀道)、境目峠からの遍路道(境目道)が合わさり、阿讃山脈の尾根道を進み、途中で佐野の雲辺寺口から上った遍路道(佐野道)と合わさり雲辺寺へと向かうようだ。

雲辺寺口
旧道を馬路川の左岸に沿って進み、県道8号を越えてほどなく、遍路道案内があり、遍路道は左に折れる。少し先に徳右衛門道標が立ち、「是より雲辺寺迄一里」と刻まれる。
徳右衛門道標から少し先、徳島自動車道の高架手前に雲辺寺登山口がある、ここが佐野の雲辺寺口。遍路道(佐野道)はここから阿讃山脈の尾根道に上り、雲辺寺を目指すことになる。この道は承応の頃、高野山の澄禅も三角寺の奥の院経由で雲辺寺へと辿った遍路道である。
当日はこの雲辺寺口から阿讃山脈の尾根道へと遍路道を辿り雲辺寺へと向かったのだが、今回のメモはここまでとし、次回、この遍路道の途中で出合った七田集落から山入りし曼陀峠をへて雲辺寺に向かう遍路道(曼陀道)、境目峠から曼陀峠を経て雲辺寺に向かう遍路道(境目道)と合わせてメモすることにする。

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