となると、またまた、どうせのことなら88箇所をすべてカバーしてみようと、阿波に入り、一番札所から旧遍路道をカバーすることにした。
毎月田舎に戻ったときに歩くわけで、阿波から土佐の札所をカバーする、といっても眼目は標石を目安にした旧遍路道のトレースにあるわけだけれど、それはともあれ、阿波と土佐をカバーするのに、半年ほどの月日をみておけばいいのだろうか。
ともあれ、今回から阿波の旧遍路道をトレースしはじめる。札所第一番霊山寺から第十番切幡寺までは吉野川北岸に点在し、「十里十ヶ寺」と称される如く?里の間に10の札所が並ぶ。実際の距離は30キロほど。
今回のメモは第一番札所の霊山寺から第五番札所地蔵寺までをカバーする。
本日のルート
■第一番札所霊山寺■
撫養街道参道口の標石>お堂横に真念道標と標石>(坂東俘虜収容所跡>大麻比古神社)>石造冠木門と標石
■第二番札所極楽寺■
撫養街道合流点の地蔵と標石2基>金泉寺旧道分岐点の茂兵衛道標(88度目)
■第三番札所金泉寺■
撫養街道合流点に地蔵堂と道標2基>大阪越標石と標石2基>導引大師堂の標石>振袖地蔵>諏訪神社の庚申塔と標石>犬伏谷川手前のお堂に標石>大日寺旧道分岐点の茂兵衛道標と標石>山裾に2基の標石>蓮華寺>愛染院手前の標石>愛染院>愛染院仁王門前の標石>車道手前に2基の標石>標石と馬頭観音群>車道手前に標石>松谷村庚申堂の標石2基>分岐点に標石>藍染庵と標石>切通しの地蔵座像と供養石>「法乃橋」石碑>T字路の標石と舟形地蔵>車道石垣下のT字路に標石>大日寺車道合流点の標石と13丁石>14丁>15丁石
■第四番札所大日寺■
(15丁石>14丁石>13丁石)>11丁石>10丁石>遍照院跡>お堂と7丁石>羅漢堂東の標石と石仏群
■第五番札所地蔵寺■
撫養街道合流部に地蔵尊と標石2基>県道?号傍・撫養街道の標石>第二神宅橋南詰めに標石>大山寺への案内>壊れた茂兵衛道標(160度目)と石仏群>茂兵衛道標(183度目)と標石>庚申谷川を渡り安楽寺に
■第六番札所安楽寺■
第一番札所 霊山(りょうぜん)寺
その先に山門。仁王さんが両側に立つ仁王門。入母屋造楼門形式で造られている。
●多宝塔
●十三仏堂と不動堂
●本堂
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(てんじく;インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像。
室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によってようやく再興されたが明治24年(1891年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻した」とある。
●大師堂
●放生池ほうじょうち
中国や日本の仏教において,捕獲した魚介を購い,生かし放つ池を称していい,慈悲行の表れを意味する
6世紀,天台の開祖智顗(ちぎ)が漁民のとった魚の多きを憐れみ,国清寺の近くに池を作り放ったのが最初という。日本では奈良時代、持統天皇が放生池を設けたことが知られる。後世になると寺社の境内に放生池をつくることが多く行われた。
●三鈷松さんこまつ
空海が密教を広める地を探すため、天に向かって投げた法具「三鈷杵(さんこしょ)」が高野山の松の樹上で発見されたという。この伝説によれば、その松は法具と同じ三本の葉をつけるようになったという。ここ霊山寺の「三鈷の松」にも三本の葉がついでいるのだろう。
●紀州接待所山門左に並ぶ建物は紀州接待所と呼ばれる。「紀州の有田地区の接待講が1828年に建て、その後第二世界大戦中は中断し、衰退期もあったがお接待は現在まで行われている。
かつては紀州藩の藩主の許可を得て和歌山県で柴や米、沢庵などを集め、徳島から魚を運んできた漁船に乗せ徳島に渡り接待所でお遍路さんに手渡した。現在はタオルなどを渡しお遍路さんに喜ばれれているとのことである。
今は春の4日間のみ」とWikipediaにあった。なお、和歌山の接待講はこの寺だけでなく日和佐の第二十三番薬王寺でもおこなわれているようである。
関西大学現代民族学 島村恭則研究室の資料に拠れば、「紀州接待所とは、和歌山という四国から遠く離れた土地に住む弘法大師信仰者のグループ(講)が、自らは四国八十八ヶ所をまわる事が出来ないため、その想いをお遍路さんに託すという意味でお接待をおこなう場所。有田接待講とか.野上施待講が知られる。
有田接待講の始まりは1818年頃とされる。講を始めることとなる則岡新助氏は体が弱かったのだが、修行僧とともに四国霊場を行い丈夫な体を手に入れた。これをきっかけに大師を信仰をすることとなり、接待講を始めた。
当初春の接待には貰い受けた草鞋などを霊山寺の接待所で渡していたようだが、時代と共に変化し、現在では貰い受けた金銭で物品を購入し渡している、という。
盛時には漁船廿数隻に乗り切れないほどの世話人が四国に渡りこの紀州接待所に寝泊まりして接待をおこなったようだが、現在では自動車をフェリーに乗せて四国に向かう。その数も民宿に宿泊する人は2名、他に日帰りで接待をおこなうひとが7,8名とのことである。
一方、野上施待講は、かつては有田の接待船にのせてもらい四国に渡っていたが、現在は有田接待講と同じく車とフェリーで四国に渡る。
有田接待講と野上施待講は、霊山寺内で同じ接待所を設けたにも関わらず共同で接待を行うことはなかったようだが、相互関係はあったとのことである。
むや岡崎は鳴門市撫養(むや)町岡崎。淡路島と四国の間にある大毛島最南端の四国側対岸にある。淡路島の福良から岡崎に上陸し撫養街道を一番札所へと向かったと言う。
■第一番札所霊山寺から第二番札所極楽寺への道■
霊山寺を離れ第二番札所極楽寺へ向かう。旧道であるかつての撫養街道を歩くこと1.3キロほど、普通に歩けば16分ほどの距離である。
撫養は牟屋、牟夜、牟野とも表記されたようだが、その語源は不詳。
撫養街道参道口の標石
●撫養街道
江戸の頃、阿波の藩主蜂須賀家により整備された阿波五街道のひとつ。撫養町岡崎から池田町の州津渡しで伊予街道と交わる67キロほどの道のり。吉野川北岸を進むため、川北街道とも称された。8世紀初頭、大宝律令(701年)により整備された官道・南海道の一部でもある。
お堂横に真念道標と標石
●真念道標
正面には「右 いど寺のみち 左 里りょうぜん寺の** 願主 真念」、右面には梵字と共に「南無大師遍照金*」、左面には「為父母供養 阿州板野」といった文字が刻まれる、と。
「いど寺」は第17番札所。位置的には吉野川の南岸、この地のほぼ南にある。1番札所から10番札所までは吉野川北岸を辿り、11番所藤井寺には吉野川南岸に渡り、11番札所から12番札所焼山寺へと一旦山間部に入り、その後??野川筋の17番札所へと戻る。道標の「右 いど寺」は、直接17番へ、というのは少し唐突であり、右へと2番から17番を辿れ、という意味だろうか。よくわからない。
「里りょうぜん寺」は霊山寺のこと。
●標石
「奉供養光明百万遍」と刻まれた2基の石柱を挟み、東端の、同じく「奉供養光明百萬」と刻まれた石柱には正面に印があり、「是ヨリ二ばんへ八丁 嘉永元」といった文字が刻まれる標石となっている。
坂東俘虜収容所跡
坂東谷川を渡る。地図を見ると北に坂東俘虜収容所が記される。中村彰彦さんの『二つの山河』で描かれる所長松江豊寿中佐の国際法に準じた人道的エピソードを思い出しちょっと立ち寄り。
橋の西詰を右折し北上。高速道路・徳島道の手前、県道25号の西側に坂東俘虜収容所跡が残る。といっても、給水施設を除き特段の遺構らしきものは残らず、現在は公園となっている。
●坂東俘虜収容所
遍路歩きの折々に俘虜収容所に出合った。松山の俘虜収容所は日露戦争のロシア兵、丸亀の塩屋別院俘虜収容所は、第一地大戦でのドイツ兵の収容所。丸亀の収容所はこの坂東俘虜収容所が出来ると、松山・徳島の収容所の俘虜と共にこの坂東俘虜収容所に移された。 どの収容所も、国際法に準じた人道的処遇がなされており、地域住民との交流も自由に行われたようだ。松山でのロシアの将校は市内に持ち家を許された、とも。また、俘虜の使うお金により当時の松山は一種の特需景気の恩恵を受けたといった記事もあった。
大麻比古(おおあさひこ)神社
誠に広い境内。延喜式内社、阿波一宮。「大麻さん」として信仰を集める徳島の総鎮守。 社殿にお参り。
で、社名「大麻比古」の由来;Wikipediaには「社伝によれば、神武天皇の御代、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の御孫の天富命(あめのとみのみこと)が阿波忌部氏の祖を率いて阿波国に移り住み、麻・楮の種を播殖してこの地を開拓、麻布木綿を生産して殖産興業と国利民福の基礎を築いたことにより祖神の天太玉命(大麻比古神)を阿波国の守護神として祀ったのが当社の始まりだと言う。
なんとなく「大麻比古」の名前の由来はわかった。が、ちょっと疑問
●大麻比古命と阿波忌部氏
いつだったが、阿波の忌部氏を祀る忌部神社を辿ったことがある。その時のメモで「、阿波の忌部氏であるが、忌部氏の祖である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」をその祖とする。 この「天日鷲命」、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝説に言う。天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも」と書いた。
●阿波忌部氏の太祖と遠祖
この流れで言えば、阿波忌部氏の太祖が「天太玉命」、遠祖が「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」ということだろう。が、一説では大麻比古命は天日鷲命の子、ともする。こうなれば、忌部氏の太祖が天日鷲命(あめのひわしのみこと)」で、遠祖が「天太玉命」ということになる。実際、Wikipediaには「明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命とした」ともあった。
●天津神と国津神
とは言うものの、神話時代のことなど門外漢にはわからない。どちらが祖で、どちらが遠祖であっても構わないのだが、それよりなにより気になったのは、猿田彦大神が共に祀られている、ということ。天津神である天日鷲命や天太玉命と共に、国津神神系の猿田彦が祀られていること。
その因は、Wikipediaには「その因ははっきりしないが、大麻比古命は別名を津咋見命とも称されるように、経済の発展と共に、津=湊>交通の要衝>道の神:交通の神の性格を持つに至る。が、忌部氏の没落にともない、室町時代に民間流行した庚申信仰により、巷の神・交通の神である猿田彦大神の神性が付会されたのだろう」とあった。
天津神と国津神が並んで祀られるのはそれほど珍しくもないのだが、この社は由緒が古いだけにちょっと気になりチェックした。
石造冠木門と標石
●標石
冠木門東脇に小堂があり、その横に「辺路道 *寺 遍路道 極楽寺」と刻まれた標石が残る。
撫養街道を離れた遍路道は一直線に極楽寺へ向かう。遍路道が県道12号に合流する地点、県道逆側に朱塗りの極楽寺仁王門が建つ。
第二番札所極楽寺
●仁王門
●石庭と標石
堂宇への石段手前にも標石。
●長命杉
●鐘楼と観音堂
●薬師堂
●本堂
43段の石段を上ると正面に本堂。日照山(にっしょうざん)無量寿院(むりょうじゅいん)と号する。本尊は阿弥陀如来。
Wikipediaには「鳴門市大麻町桧にある高野山真言宗の寺院。寺伝によれば、奈良時代(710年 - 784年)、行基の開基という。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたといい、この阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し、魚が採れなくなったため、困った漁民たちが本堂の前に山を築いて光をさえぎったということから「日照山」と号するとされる。
●安産子安大師
本堂左手に大師堂。江戸時代初期(1659年)建立。安産大師と云われ信仰されている。
■第二番札所極楽寺から第三番札所金泉寺へ■
極楽寺を離れ第三番札所金泉寺へ向かう。距離は2.2キロほどである。
撫養街道合流点の地蔵堂と標石
合流点に地蔵堂と2基の標石。傾いた標石の表面には「四国中千躰大師」と刻まれる。遍路道で時に出合う照蓮の道標。特徴的な深く彫られた手印と大師像が残る。
もう1基には「へんろ道 是より二十三番迄 中尾多七 昭和三十八」などと刻まれる。中尾多七さん達により建立された阿波二十三番までの矢印遍路標石のひとつである。ほとんどの標石は「へんろ道」の文字だけのようであり、建立者中尾多七と刻まれた標石はこレだけと言う。
●照蓮
文化年間(1804~1816)の僧。真念の志を受け継ぎ、四国中に千体の道標を建てようとした(総数未確認)。徳島は出身地ということもあり56基と、江戸期の徳右衛門の20基(総数250基:現存数129基)、真念の11基(37基)を大きく上回る。道標で知られる中務茂兵衛の道標数は235基(比定数243基)だが、こちらは明治の人。
●中尾多七
中尾多七さん達が昭和38年(1963)建てた標石は阿波だけでなく、伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道に見られる。また、阿波の23番札所までに60近い標石が立つと言う。
金泉寺旧道分岐点の茂兵衛道標(88度目)
手印と共に正面に「八十八度為供養 行者 中司茂*」、右面に「光明真言」、左面に「阿波圀撫養村齋田村」、裏面には「 明治十九年」と刻まれた茂兵衛88度目の巡礼時のもの。
第三番札所金泉寺は茂兵衛道標を右に折れ、撫養街道を離れて土径の道を進む。距離にして100m、本堂東側から第三番札所の境内に入る。
第三番札所金泉寺
●仁王門●本堂と護摩堂
境内に入ると正面に本堂と護摩堂。Wikipediaには「徳島県板野郡板野町にある高野山真言宗の寺院。亀光山(きこうざん)釈迦院と号する。本尊は釈迦如来で、脇侍に薬師如来・阿弥陀如来を安置する。
1582年(天正10年)には長宗我部元親による兵火にて大師堂以外の大半の建物を焼失したが、建物はその後再建され現在に至る。境内からは奈良時代の瓦が出土しており、創建は寺伝 のとおり奈良時代にさかのぼると推定される」とあった。
寺の住所は徳島県板野郡板野町大寺。大寺地名はこの寺に由来する。往時は亀山天皇の勅願道場として大寺ではあったのだろう。また、板野郡は、板東と板西に分かれていたが、その境は当寺の堂の扉板をもって境としていた、と言う。
●大師堂と倶利伽羅龍王像
●阿弥陀堂
●黄金地蔵尊と閻魔堂
その横には閻魔堂があり、閻魔様が祀らえる。
●観音堂
●長慶天皇陵
五来重氏は「山伏は南北朝時代の遺跡を人為的につくりますから、金泉寺の場合も、山伏が長慶天皇や亀山天皇の話をつくった仕掛人ではなかったかと思う(『四国霊場の寺』)」と記すが、これがなんとなく納得感は高そう。
●弁慶の力石
境内、鐘楼裏に弁慶の力石がある、と。真偽のほどはともかくとして、屋島合戦へと阿波の勝浦に上陸した義経主従がこの寺で休息をとったとの話が伝わる。この地は阿波から讃岐へと抜ける大阪越(峠)えの道筋であり、それはそれで納得感は高い。
■第三番札所金泉寺から第四番札所大日寺へ■
撫養街道合流点に地蔵堂と道標2基
もう一基は照蓮の「四国中千躰大師」標石。風化が激しく文字は読めない。
大阪越標石と標石2基
さらにその横には2基の石碑。1基は「右 大阪」といった文字が読めるが、もう一基の文字は読めなかった。
●大阪越
この地を北に向かうと大阪峠がある。阿讃国境の峠であり、屋島合戦の折、阿波に上陸した義経が越えた道。また、四国88番札所である讃岐の大窪寺から阿波の一番札所霊山寺へと辿る遍路が越えた峠でもある。
●古代官道・南海道
この大阪峠越えの道は古代官道のひとつ、南海道の道筋でもある。「板野町指定史跡 郡頭(こうず)」とは南海道の置かれた駅の名前。駅馬五匹が用意されていた。
南海道のルートを大雑把にメモすると;紀州・加太の湊より淡路島の由良の湊に。そこから、淡路の国府である養宣を経て福良の湊より阿波の牟夜(現在の撫養)に上陸。そこから??野川北岸を撫養街道に沿って西進し、この地郡頭に至る。
阿波の国府へはこの地より南下し吉野川南岸へ。北進すると大阪峠を越えて讃岐国に入り、引田・田面・三谷・讃岐国府へ。そこから更に伊予国へと繋がっていた。古代、この地は交通の要衝であったのだろう。
導引大師堂の標石
「ふじ井寺」は11番札所の藤井寺だろう。吉野川南岸、まだずっと西にある。この指示は何を意図したものなのだろう。文字の上は手印を削り取ったような感がある。お遍路さんに混乱を与えないために削り取ったのだろうか。よくわからない。
振袖地蔵
天正十五年〈1582〉、中富川の合戦で信濃守が討死したとき、幼いカヨは母親と侍女とともに逃げましたが、母親は自害しカヨと侍女はこのあたりで土佐方の兵士に斬り殺されました。
命の短かったカヨ姫を哀れに思った村人たちが、振袖姿の地蔵尊を造りまつりました。後に、「振袖地蔵」「カヨ地蔵」とも呼ばれ、子供を守るお地蔵さんとして親しまれています。 平成十七年 板野町教育委員会」とあった。
●中富川の合戦
中富川の戦い(なかとみがわのたたかい)は、天正10年(1582年)、阿波国へ攻略を目指す土佐国の長宗我部元親と、これを阻もうとする勝瑞城を本陣とする十河存保以下の三好氏諸将との間で起きた戦いである。攻防戦は約20日間行われ、人的被害は阿波国史上最高のものであった、とWikipediaにある。
信長勢の先鋒として四国制覇に臨んだ三好勢であるが、主の信長は本能寺で横死。これを契機に四国制覇を目指す土佐の長曾我部の侵攻にともない起きた合戦。土佐勢2300名、阿波勢5000。土佐勢の勝利により、阿波は土佐の勢力下となった。
諏訪神社の庚申塔と標石
●庚申塔
横の案内には「寛文の庚申 寛文十三年(1673年)の刻銘がある。約三百三十七年前に建立されたものであり、地方では例のない石造文化財である。
庚申の信仰は、平安時代の中期から蜂須賀公入国後も盛んに行われ、元禄(1688年)宝永(1703年)正徳(1711年)年間に多い。住民が集まって、夜寝ずに庚申待ちという会を催し、祈りとともに諸般の協議を行った。祭神は道祖神や猿田彦命、また仏教では青面金剛という。
三猿雌雄の鶏を添加して処世訓としてあるので、村の辻や中心に常夜灯と共に設置し、集会や交通安全にも役立てた。今夜は庚申米団子、明日は半夏のハゲ団子――――の俗諺が残っている。 平成二十二年 板野町」とある。
石造物には「寛文一三年 奉供養庚申待一座為二世安楽」といった文字が読める。
●標石
社殿に上る石段下の鳥居横に標石がある。風化が激しく文字は読めないが、これも照蓮の「四国中千躰大師」とされる。
犬伏谷川手前のお堂に標石
大日寺旧道分岐点の茂兵衛道標と標石
右側の標石には大師像が刻まれる。「近道廿五丁 四国第四番 明治九」といった文字が刻まれる、と。
手印に従い土径を西進する。
山裾に2基の標石
蓮華寺
愛染院手前の標石
愛染院
境内には赤沢信濃守の廟祖が建つ。赤沢信濃守は前述袖振地蔵でも出合った武将。中富川の合戦で討死した。
●仁王門前の標石
車道手前に2基の標石
標石と馬頭観音群
●石碑
馬頭観音群の手前に石碑。藍の種の存続に貢献した岩田ツヤ子さんを顕彰したもの。戦時の食料増産のため禁止となった藍の種を6,7年に渡り官憲の目を逃れ栽培を続けた。藍は1年草のため、一度絶えると再生は困難故のため。
この努力により、戦後早々に藍作りが再開し得ることになった、と。平成13年の日付があった、
車道手前に標石
遍路道はここを右折ししばらく車道を進むことになる。
松谷村庚申堂の標石2基
遍路道は四国中千躰大師標石の手印に従い、お堂前を右に折れる。
分岐点に標石
藍染庵と標石
この庵には江戸の頃、19世紀前後に阿波の藍の栽培、製造そして子弟育成に努めた犬伏久助像が祀られる。
●四国千躰大師標石
藍染庵の北東端に標石が立つ。風化して文字は読めないが手印や大師坐像の特徴から見て、これも照蓮の四国中千躰大師標石のようだ。
●阿波の藍
阿波に藍がもたらされたのは17世紀初頭。蜂須賀家が旧地の播磨から藍を移した。吉野川流域は藍栽培に適し、阿波二十五万石、藍五十万石と称されるほど、阿波藍は全国に知られた。
最盛期は明治36年(1903)。その後インド藍や合成染料の輸入により明治後半に急速に衰えた。
切通しの地蔵座像と供養石
ともあれ、一旦車道に下りた遍路道は、車道の北に見える「遍路タグ」を目安に山道に入る。竹林に囲まれた趣のある道を少し上ると切通し。道の左右に地蔵座像と供養石が祀られる。
「法乃橋」石碑
T字路の標石と舟形地蔵
車道石垣下のT字路に標石
石垣の上は大日寺への車道。遍路道は標石に従い右折し、車道と隔てる石垣に沿って北に進む
車道合流点に標石と13丁石
また、標石の傍の車道に13丁と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。この合流点から大日寺へは車道を北に進むことになる。
14丁・15丁石
15丁を越えると第四番札所大日寺は直ぐそこ。黒谷川に架かる橋を渡り山門に向かう。
第四番札所大日寺
●鐘楼門
●本堂
境内に入ると正面に本堂。慶安2年(1649年)建立、寛政11年(1799年)修復されている。Wikipediaには「大日寺(だいにちじ)は徳島県板野郡板野町黒谷にある東寺真言宗の準別格本山。黒巌山(こくがんざん)遍照院(へんじょういん)と号する。本尊は大日如来。 寺伝によれば空海(弘法大師)がこの地での修行中に大日如来を感得、一刀三礼して1尺8寸(約55cm)の大日如来像を刻み、これを本尊として創建し、本尊より大日寺と号したという。山号の黒巌山は、この地が三方を山に囲まれ黒谷と呼ばれていたのが由来で、黒谷寺(くろたにでら)とも呼ばれていたという。
本堂前に置かれた香台は伊藤萬蔵寄進のもの。伊藤萬蔵寄進の香台、石灯籠には遍路道の途次、時に目にする。記憶に残るのは57番永福寺や74番甲山寺の香台、68番神恵院の石灯籠、また大窪寺への道筋にあった巨大な標石。
〇伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。
●大師堂・回廊
■第四番札所大日寺から第五番札所地蔵寺へ■
次の第五番札所地蔵寺までは2キロ弱。山門を出て先ほど辿った15丁石、14丁石、13丁石を標に車道を南に下る。
11丁石:10丁石
合流点から車道の東を進む道に入ると、道の左手に石仏群。その中の1基が11丁の舟形地蔵丁石。更にその先に2基の舟形地蔵。共に十丁と刻まれる舟形地蔵丁石であった。
遍照院跡
お堂と7丁石
左折し道を進むと右手にお堂。その先、道の左手に7丁の舟形地蔵丁石があった。
羅漢堂東の標石と石仏群
また、T字路の左手、民家の塀に組み込まれた標石がある。照蓮の四国中千躰大師標石と言われる。
羅漢堂は後回しとして、道を左に折れ、すぐ先で少し大きな車道を右に折れ第五番地蔵寺に入る。
第五番札所地蔵寺
●山門
山門は単層。仁王が護る仁王門
境内に入ると左手に本堂。Wikipedaiには「徳島県板野郡板野町羅漢にある。無尽山(むじんざん)荘厳院(しょうごんいん)と号する。本尊は延命地蔵菩薩で、その胎内仏は勝軍地蔵菩薩。
寺伝によれば弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅願により空海(弘法大師)が一寸8分(約5.5cm)の甲冑を身にまとい馬にまたがる姿をしていると云われる勝軍地蔵菩薩を自ら刻み、本尊として開創したと伝えられる。
本尊が勝軍地蔵というところから源義経などの武将の信仰も厚くかった。当時は伽藍の規模も壮大で26の塔頭と、阿波・讃岐・伊予の3国で300あまりの末寺を持ったという。しかし、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべて焼失。江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏の庇護を受け、歴代住職や信者の尽力により再興された」とある。
本堂に不動堂が並ぶ。不動明王立像、両脇に如意輪観音(阿波西国24番)と八臂弁財天。左側には如意輪観音堂と恵比寿堂が並ぶ。
●大師堂と淡島堂
●羅漢堂
五百羅漢とは、「仏陀に常に付き添った500人の弟子、または仏滅後の第1回の結集(けつじゅう、仏典編集)に集まった弟子を五百羅漢と称して尊崇・敬愛することも盛んにおこなわれてきた」とWikipediaにある。
■第五番札所地蔵寺から第六番札所安楽寺へ■
地蔵寺を離れ次の札所安楽寺へはおおよそ4キロ。境内を離れ石畳風の参道を南に下り、大きな石造寺柱の間を抜け撫養街道へと下る。
撫養街道合流部に地蔵尊と標石2基
茂兵衛道標は197度目巡礼時のもの。手印と共に「地蔵寺 安楽寺 明治三十六年」といった文字が刻まれる。四国中千躰大師標石は風化激しい。手印と「文化六」といった文字が刻まれると言う。
●青石板碑
地蔵座像の後ろに青石板碑が立つ。「板野町指定 史跡 観応の板碑」とある。観応と言えば14世紀中頃、南北朝時代のものである。
板碑には梵語で書かれた種子(しゅじ)が見える。種子とは密教で仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。「ア」「バン」と読める。共に「大日如来」を象徴する。
阿波は青石(緑泥片岩)の産地として知られ、板碑は数千基も建つと言う。板碑は供養塔(石造の卒塔婆)。この高さ1.6m強の板碑には「右造立意趣者相迎先考幽儀沙弥道阿敬白 第三年追善為頓証仏果故也」の銘文が刻まれ、沙弥(しゃみ)道阿なる者が、幽儀の第三回忌にあたる観応3年に、追善供養を営み、その功徳による仏果を願い建立したようである。
県道12号傍・撫養街道の標石
撫養街道の右手に標石。「へんろ道」と刻まれ、その文字の上に矢印と両サイドに五番、六番の文字が見える。前述中尾多七さん達が建てた標石だろう。
第二神宅橋南詰めに標石
大山道、一本松道はこの地の北、阿讃国境にある大山越、一本松越の峠を経て讃岐に向かう道を案内したもの。
大山寺への案内
寺伝によれば6世紀前後、武烈天皇・継体天皇の時代に西範僧都(せいはんぞうず)が開基した阿波国最初の仏法道場であると伝えられている。往時は、阿波の麓からの参拝者ばかりでなく、讃岐側からは山を越え参拝した。その数は参詣者の半数を占めた、と言う。
壊れた茂兵衛道標と石仏群
茂兵衛道標には手印と共に、「六番 五番 左藤井寺 明治三十一年」と刻まれる、と。茂兵衛160度目巡礼時のもの。藤井寺は第十一番札所。吉野川南岸で「左」には違いないが、まだまだ西である。意図は何だろう。吉野川北岸を辿る遍路道には、はるか離れたところにある吉野川南岸の札所案内が目につく。
この石造物が並ぶ一角には、往時お堂があったよう。現在はその名残りはないが、石仏や青面金剛の刻まれた庚申塔も残る。その中に自然石の大山寺の碑。「是より北二十八丁 準別格本山大山寺」と刻まれる。
これによれば大山寺まで3キロほどだが、傍にあった新しい大山寺の案内には「四国別格二十霊場 四国三十六不動霊場 大山寺 入口 是より約6キロ」とある。こちらのほうが正しそう。
●葦稲葉神社・殿宮
道の左手の社は葦稲葉(あしいなば)神社と殿宮神社。境内には本殿として二棟が並ぶ。Google mapには「鹿江比売(かえひめ)神社」とある。なんだろう?時代も事情も不明であるが延喜式内小社と伝わる鹿江比売神社が葦稲葉神社に合祀されたとあった(Wikipedia)。 葦稲葉神社の創祀時期は不詳であるが、9世紀中頃の文書にその名がある古社のようだ。鹿江比売神社の祭神である鹿江比売神は阿波忌部一族の神であり、上述大朝比古神社にもその小祠があるようだあ。
茂兵衛道標(183度目)と標石
南北に走る少し広い道との五差路で遍路道は進路を西に変える。五差路を右折、すぐ左折し松島神社前を抜け西進すると川の手前に2基の標石。1基は茂兵衛道標。手印と共に「安楽寺 地蔵寺 明治三十四年」と刻まれる茂兵衛183度目巡礼時のもの。 もう1基には「へんろ道 文政球」といった文字が刻まれる。
庚申谷川を渡り安楽寺に
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