さてどう歩こうかと少し考える。基本単独車行であり、山裾の行けるところまで車を乗り入れ、山越えをして車道のあるところまで下りる。車道確認後はピストンで車デポ地まで戻り、山越えの車道まで車を廻した後、更に先に進むわけだが、このアプローチは焼山寺道では少々難しそう。
焼山寺道はふたつの峰を越え、三つ目の焼山寺山腹に建つ焼山寺へと進むわけだが、ふたつの峰の鞍部には東西に狭いながらも山越の車道はあるものの、結構迂回な迂回路。時間がかかりすぎる。最初の鞍部のある柳水庵まで歩きで2時間半、そこから次の鞍部である左右内の集落まで同じく2時間半の合計5時間。ピストンの時間を考えると10時間。それに車を廻す時間を考えれば12時間ほど必要になる。これでは1日で終わりそうもない。
他のアプローチを考える。あれこれチェックすると、焼山寺の麓から神山町営のコミュニティバスが走っており、神山役場から徳島バスに乗り換えれば徳島駅まで行ける。また、幸運にもスタート地点の第十一番札所藤井寺は徳島駅から出る徳島線の鴨島駅からそれほど遠くない。鴨島駅近くに宿をとれば藤井寺からピストン無しで一気に焼山寺まで辿り、バスと列車を乗り継ぎ鴨島駅までその日のうちに戻れそうだ。
問題は焼山寺山裾のバス停から出るコミュニティバスの時間。午後は4時半の一本のみ。これに乗り遅れると、数キロ歩き神山役場から午後7時過ぎに出る徳島バスに乗ることになる。焼山寺バス停発4時半のバスに乗るのがMUST案件。
藤井寺から焼山寺まで6時間、焼山寺からバス停まで余裕をみて1時間。最低7時間はみておく必要がある。とは言うものの、標高50m弱の藤井寺から標高450mほどの長戸庵(藤井寺から3.2km)をへて標高600mほどの尾根筋ピークまで上り、そこから標高500m辺りの柳水庵(藤井寺から6.4km)まで下る。これが最初の峰越え。
次いで標高750m辺りにある一本杉庵(藤井寺から8.5km)まで上り、そこから標高400mほどの左右内集落まで一気に下る。これが第二の峰越え。そして最後に焼山寺山の山腹にある標高700mほどの焼山寺(藤井寺から12.3km)まで上り、標高250mほどのバス停のある岩鍋の集落まで3.5km下る。3度のアップダウンである。
アップはなんとかなろう。が、ダウンは痛めた膝がどうなるものか予想がつかない。標準タイムは7時間ではあろうが、余裕をみれば全行程8時間。とすれば藤井寺を7時過ぎにでなければならない。結構早い時間。藤井寺までは既に歩き終えているので徳島線鴨島駅からタクシーを利用することにして当日を迎えた。
結果的には全行程8時間強。焼山寺でちょっとのんびりしたこともあり藤井寺を7時に出て岩鍋バス停に3時半に着いた。おおよそ計画どおりではあった。3度のアップダウンも、秩父から甲斐に抜ける雁坂峠越え(Ⅰ、Ⅱ)といった上り一辺倒の7時間ではなく、ルートバリエーションとして「気分転換」にもなり、それほどキツイ思いもなく焼山寺道をクリアできた。 山道も整備されており、標識も立ち道に迷うこともない。藤井寺からほぼ「成り行き」、「道なり」といったテイストで焼山寺まで進めるわけで、8時間ほどの時間だけに留意すればなんということもなく麓のバス停に着くかと思う。今回のメモは道案内というより、ポイント毎の到着時刻・所要時間を焼山寺道越えの目安として活用いただければと思う。
この焼山道のメモは2回に分ける。一回目は藤井寺から最初の峰越への柳水庵迄。藤井寺から焼山寺までのほぼ中間点。2回目は最初の峰越え鞍部から第二の峰を越え、焼山寺山山腹の焼山寺に上り、そこから焼山寺山裾の岩鍋集落のバス停までをメモする。
本日のルート;
■最初の峰越え;藤井寺から柳水庵まで■
第十一番藤井寺>奥の院>簡易舗装の道に出る>直ぐ左折し山道に>端山休憩所>標石と109丁石>標石と104丁石>中尾多七標石が2基>4基の舟形地蔵が続く>3基の標石・丁石 >102丁石と遍路墓>101丁石と遍路墓>水大師>不動明王像と94丁石>中尾多七標石が続く>長戸庵>中尾多七標石と舟形地蔵丁石>舟形地蔵丁石と中尾多七標石>自然石標石の先に吉野川流域の遠望地>86丁石・85丁石>中尾多七標石と4基の標石>83丁石と標石>二番目のへんろころがし>尾根道分岐点>送電線鉄塔と49丁石>茂兵衛道標>山道に入るところに中尾多七標石と遍路墓>63丁石・61丁石>3番目のへんろころがし>柳水庵>県道245号に下りる
焼山寺道全体 |
第十一番藤井寺;午前7時20分_標高40m
藤井寺からの遍路道は本堂左手奥より入る。そこには四国霊場第一番札所霊山寺の小祠があり、その右手に徳右衛門道標が立ち、「是より焼山寺迄三里」と刻まれる。 入口付近には「焼山寺」「是から阿波の国廿三の寺」と刻まれた石柱、また「是より西国三十三番道」手印と共に「西国道」と刻まれた標石が立つ。西国観音霊場の小祠も祀られるのだろう。
奥の院
道を進むと阿波から始まり、土佐・伊予・讃岐の四国霊場の小祠が並ぶ。コンクリート造りのものが多い。幾筋も分かれた道に並ぶようである。
道なりに進み、四国霊場三十八番を示す指導標を越え四国霊場五十番繁多寺の祠の傍に奥之院の祠(午前7時26分)があった。岩肌に食い込んだようなコンクリート造りの小祠。「大師当山開創の御時、三面山に囲まれ、清流あくまで清く澄む景勝の地なるによって御心を引かれ、護摩壇を築き御修法ののち大日如来の尊像を刻まれてこの岩窟に安置されたものである。
此の地は本坊より約五百米の山中にあり、十二番札所への最初の入口、すなわち初関である。此の奥之院にて霊験を感得された人多く、熱心な信者の参詣は絶えない」と案内する記事がWEBにある。膝に爆弾を抱えた身でもあり、当日は気がせいており、案内もまた、傍にあると記される虚空蔵菩薩立像も写真に撮り忘れた。
●八畳岩
メモをするに際し、空海が修行したとする八畳岩が遍路道途中、沢筋に有るとのこと。途中沢などなかったのだけど、ということでチェックする。藤井寺境内の遍路道スタート地点、左手に鳥居があり、そこを進むと52番から88番までの四国霊場と共に西国観音霊場があるようで、その道筋を進めば沢があり、そこに弁財天と共に八畳岩の修行の地がある。遍路道入口の「藤井寺四国88カ所霊場参道道案内図」にも記されていた。
最初の「へんろころがし」
自然石の標石など2基の標石が並ぶ先に「1/6 へんろころがし」の案内(午前7時27分)。擬木らしきものを埋めて階段状に整備してくれている。それほどキツイ坂ではなかった。地形図でチェックすると等高線の間隔が狭い箇所の比高差は80mほど。10分ほど歩くと「へんろ道」の文字の上に両端矢印のついた線が刻まれた道標。中尾多七さんたちが立てた標石群のひとつだろう。遍路道はその先で簡易舗装の道に出る。
●中尾多七
中尾多七さん達が昭和38年(1963)建てた標石は阿波だけでなく、伊予の香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道に見られる。また、阿波の23番札所までに60近い標石が立つと言う。
簡易舗装の道に出る;午前7時38分
西の鴨町島敷地と東の鴨島町飯尾を結ぶ山越えの簡易舗装道に。合流点左手には「山与 百十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石と「へんろ道」と刻まれた標石。「山与」は焼山寺よりのこと。「へんろころがし」の辺りに「百十五丁」の標石があったようだが見逃した。
合流点右手には「四国のみち」の指導標と新しい標石。「焼山寺11.8km」と案内する。
直ぐ左折し山道に
案内に従い右折。直ぐ、道の左手に「四国のみち」の指導標とその傍に「へんろ道」と刻まれた標石と舟形地蔵丁石。案内に従い道を左に折れ山道に入る(午前7時39分)。
。
林道へ
擬木の敷かれた水道を上るとすぐ「へんろ道」と刻まれた標石。吉野川により開析された広大な流域が眼下に広がるその先で再び簡易舗装の道に出る(午前7時41分)。地図には山越え道の枝道が描かれる。その道筋だろう。
端山休憩所;午前7時48分_標高208m
簡易舗装の枝道への合流点には「四国のみち」の指導標と新しい標石(午前7時41分)。焼山寺へ11.6kmとある。
7分ほど歩くと左手に休憩所。「四国のみち」の「端山休憩所」とある。道の右手には「山与 百十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が残る。
標石と109丁石
端山休憩所から5分ほど歩くと「十一ばんへ 右」と刻まれた丁石(午前7時53分)、その対面に「山与 百九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前7時54分)が立つ。
直ぐ先に「へんろ道」と刻まれた標石(午前7時54分)。
108丁石・中尾多七標石
「山与 百八丁」と刻まれた丁石(午前7時56分)。次いで「へんろ道」と刻まれた中尾多七標石(午前7時59分)。カーブを描く矢印も刻まれる。
106丁・105丁石
舟形地蔵丁石が続く。「山与 百六丁」と刻まれた丁石(午前8時)。5分ほど歩くと「山与 百五丁」と刻まれた丁石(午前8時5分)。
104丁石・供養塔標石と遍路墓
道の両側に舟形地蔵丁石と供養塔。左手の舟形地蔵長石(午前8時6分)は「山与 百四丁」と刻まれるようだ。右手は自然石の供養塔。「左 十二ばんへ」と刻まれ標石を兼ねている。
そこから7分程、地蔵が佇む(午前8時7分)。なんとなく遍路墓のようにも思える。
3基の標石・丁石
西に向かって大きく開かれたところに2基の標石と1基の丁石が並び立つ(午前8時9分)。右端の自然石標石には「右 焼山寺道」、中央の舟形地蔵丁石には「山与 百三丁」、左端は「へんろ道」と刻まれ文字の上には両端矢印のついた中尾多七標石である。
102丁石と遍路墓
3分ほど歩くと「山与 百二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時12分)。それから5分、舟形地蔵(午前8時17分)。遍路墓のようだ。
101丁石と遍路墓
遍路墓のすぐ先、「山与 百一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時17分)。その先には岩肌を穿ったスペースに舟形地蔵。これも遍路墓のようだ。
水大師:午前8時25分_標高385m
「山与 九十八」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時21分)を過ぎると道脇に「水大師」と書かれた案内と水場らしき小石で囲まれた一画にいくつか柄杓が置かれる。その先には小祠が立つ。
地形図をチェックすると、標高200mほどの端山休憩所から標高350m辺りまでは尾根筋を上り、そこからはトラバース気味に等高線に沿って緩やかに水大師まで高度を上げてきたようだ。
不動明王像と94丁石
水大師の先、山側に不動明王像(午前8時27分)などが立つ。そこから数分、「山与 九十四丁」(午前8時30分)が立つ。
92丁石
その先に「長戸庵560m」の案内(午前8時31分)。5分弱歩くと「山与 九十二丁」(午前8時35分)と刻まれた舟形地蔵丁石。
95丁石と自然石標石
「山与 九十七丁(?)」と刻まれたような舟形地蔵石(午前8時37分)を見遣り先に進むと標石と丁石。自然石の標石には「左 藤井寺道」、丁石には「山与 九十五丁」と刻まれる。丁数が前後している。「四国のみち」整備の折にでも移されたのだろうか。この辺り標高480mほど。
中尾多七標石が続く
「四国のみち」の指導標の傍に「へんろ道」と共に両端矢印の刻まれた中尾多七標石(午前8時40分)。傍に遍路墓も祀られる。その先にも中尾多七標石が立つ(午前8時42分)。
石仏群の中に99丁石
鞍部に向かって緩やかに下ると石仏が並び、その中に「山与 九十九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ(午前8時42分)。92丁石から先の丁石は増えているのは上述、後世に移されたものだろう。その先には長戸庵が見える。
長戸庵;午前8時42分_標高450m
長戸庵は弘法大師が休息した場所と伝わる。お堂には大師像が祀られる、と。名前の由来は、丁度いい塩梅>ちょうどあん>長戸庵といった記事もみかけた。
お堂横に徳右衛門道標。「是より焼山寺迄 弐里」と刻まれる。
道の左手に石仏群がありその中に舟形地蔵。「九十一丁」と刻まれているようだ。
ここまで藤井寺から3.2km。標高50m辺りから標高480m辺りまで最大比高差500mほど上り、少し下って尾根の鞍部にある長戸庵に着いた。おおよそ1時間半強歩いたことになる。予定通りではあった。少し水休憩し再び進む。
中尾多七標石と舟形地蔵丁石
直ぐ中尾多七標石(午前8時51分)。その先に舟形地蔵(午前8時54分)。八十八丁石かと。
舟形地蔵丁石と中尾多七標石
数分で舟形地蔵(午前8時57分)。八十七丁石のようだ。中尾多七標石も続く(午前8時57分)。
自然石標石の先に吉野川流域の遠望地
中尾多七標石傍に線彫りの指印が残る自然石標石(午前8時57分)。その辺りから吉野川流域が眼下に広がる。
86丁石・85丁石
3分ほど歩くと「山与 八十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時1分)。馬の背となった尾根道に「山与 八十五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時2分)。
中尾多七標石と4基の標石
中尾多七標石(午前9時3分)の傍に直進「焼山寺 柳水庵」と右折り返しで「樋山地・敷地」の案内。樋山地と敷地は西麓の集落。地図には道は記されていない。
そのすぐ先に4基の標石(午前9時3分)が集まる。「へんろ道」の上に矢印が両端に刻まれた中尾多七標石、「右 十二ばん」と刻まれた細長い角型石柱、「山与 八十四」「山与 八十一」と刻まれた舟形地蔵丁石が並ぶ。舟形地蔵丁石傍には遍路墓と思われる舟形地蔵も立つ。
83丁石と標石
「山与 八十三」と刻まれた舟形地蔵(午前9時4分)を越えると馬の背の尾根道。その先に「左焼山寺 右*道」と刻まれた標石が立つ。
2番目のへんろころがし
直ぐに二番目の「へんろころがし」の案内(午前9時10分)。擬木の敷かれた坂は整備されており、往昔の「へんろころがし」の趣は感じられない。地形図でチェックすると比高差50m程かと思える。
坂の途中に「へんろ道」と刻まれた中尾多七標石と素朴な手印が刻まれた標石が立つ(午前9時18分)。傍に直進「焼山寺」、右折「樋山地石鎚山お鎖」との案内がある。地図にはルートは記載されていない。
尾根道分岐点;午前9時24分_標高593m
尾根道分岐点に。「四国のみち」の指導標が立つ。「藤井寺4.8km(徒歩約2時間)」と記される。「へんろ道」と刻まれる中尾多七標石の傍には右折「樋山地石鎚山お鎖」とある。 右折し尾根道を進むと標高535m・樋山地石鎚山がある。掘割峠へと続くこの尾根道を「麻名尾根古道」と称するようだ。麻植(吉野川市全域と美馬市の一部)と名西(現在の石井町・神山町)を繋ぐ古道と言う。
長戸庵から1.6km、比高差150mの上りを40分ほど歩いたことになる。遍路道は案内に従い左に折れ、標高600m辺りの尾根筋を歩く。
林道が合流
「柳水庵1.5km(徒歩約30分) 藤井寺4.9km(徒歩約2時間)」と記される「四国のみち」木標(9時28分)の傍に道端に壊れた石仏群らしき一角。ふたつ続く「四国のみち」の木標。二つ目の木標傍に舟形地蔵。摩耗し文字は読めない。その先、左手から林道が合流する(午前9時35分)。地図には広石谷川筋、石堂の集落辺りからのルートが見える。
送電線鉄塔と49丁石
送電線鉄塔傍(午前9時39分)を過ぎ、柳水庵1km(約20分)の「四国のみち」指導標(午前9時41分)の先に舟形地蔵丁石(午前9時42分)。「四十九丁」と読める。これは今までの焼山寺までの丁数を示す丁石と異なり、藤井寺からの丁数を示す。
茂兵衛道標;午前9時43分
その先、開けた場所に出る。そこに茂兵衛道標(午前9時43分)。「十二番焼山寺 十一番藤井寺」「左二の宮 明治三十一」といった文字が刻まれる茂兵衛164度目巡礼時のもの。茂兵衛道標の対面には舟形地蔵が立つ。
左に折れた東麓、広石谷川が鮎喰川に合流する辺りに二の宮の集落、二の宮八幡が地図に見える。茂兵衛道標を越えると、林道を離れ山道に入る。
山道に入るところに中尾多七標石と遍路墓
林道を離れ山道に入るところに左に遍路墓、右手に中尾多七標石が立つ(午前9時44分)。その後も2基の舟形地蔵が続く。摩耗し文字は読めない。
63丁石・61丁石
「山与 六十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時53分)は文字部分が黒塗りとなっている。はっきりして分かりやすいが、実用性が無くなっている現在、あまり意味を持たないかとも。
次いで現れる舟形地蔵には「藤井寺与 六十一丁」とある。焼山寺や藤井寺までの丁数がほぼ同じになってきた。両札所の中間辺りに来た、ということだろう。
3番目のへんろころがし
61丁石を過ぎると下に建物が見えてくる。柳水庵である。柳水庵に向かって急坂を下る。下り切った辺りに「3/6へんろころがし」の案内(午前10時)。地形図でチェックすると比高差50mほどであった。
「へんろころがし」の案内傍に「山与 六十一丁」と刻まれる舟形地蔵丁石。傍に遍路墓らしき石柱が立つ。
柳水庵;午前10時_標高516m
コンクリート造りの「柳之水奥の院」にお参りし、柳水庵の境内に。大師堂とその横に庫裏というか通夜堂といった大きな建物が見える。柳水庵の由来はお大師さんの加持水から。この地にて休息の折、辺りに水がないとのことを知り、柳の枝で加持し湧出したと伝わる。 お大師さんの加持水は遍路歩きの折にしばしば出合う。柳との関連では南予の柏越えの折に「柳水大師堂」に出合った。ここでも柳の杖で清水を湧出したと言う。
このような「弘法水」の話は数限りないが、樹木つながりで言えば、四国中央市の番外札所椿堂には少々異なった物語が創られている。そこでは悪病退散にお大師さんが立てた杖が椿となったとされる。いろんなバリエーションがあるものだ。往昔の人の想像力の賜物であろう。
大師堂前に立つ香台は伊藤萬蔵寄進のものである。ここで大休止。
ここまで、標高50m弱の藤井寺から標高450mほどの長戸庵(藤井寺から3.2km)を経て尾根筋ピークまで上り、その後は尾根道を緩やかにアップダウンし標高500m辺りの柳水庵(藤井寺から6.4km)まで下ってきた。ここが藤井寺から焼山寺までのほぼ中間点。3時間で歩いてきた。ほぼ予定通りである。
県道245号に下りる;午前10時20分_標高480m
休憩の後、境内を離れ舗装された参道を下る。坂の途中道の左手、一段高いところに「十一番江 六十丁 十二番江 六十丁」と刻まれた角柱丁石が立つ(午前10時19分)。ここが藤井寺と焼山寺の丁度中間点ということになる。
参道を下ると車道に出る。吉野川市と名西郡神山町を結ぶ徳島県道245号二宮山川線である。山川は吉野川傍、徳島線山瀬駅辺りの地名である。
県道が抜けるこの鞍部が最初の峰越え地点。次いで第二の峰越えに入る。
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