月曜日, 4月 20, 2020

阿波 歩き遍路:第十三番札所 大日寺から第十七番札所 井戸寺へ

13番大日寺から17番井戸寺までの遍路道を、標石を目安にトレースする。地図を見ると山間部を流れてきた鮎喰川が平地に流れ出る辺りに建つ大日寺から、鮎喰川によって形成された扇状地に建つ四つの寺を辿って行くようにも見える。
この辺り、15番札所国分寺があることからもわかるように古くから開けた地。それもあってか、13番札所から17番札所までおおよそ8キロ弱の距離に5つの札所が並ぶ。「歩く五ヶ寺詣り」といった言葉もあるようだ。
鳴門市にある第一番札所霊山寺からはじめ第十番切幡寺まで、??野川北岸を進んだ遍路道は十一番札所藤井寺へと??野川南岸に渡り、そこから山深い第十二番焼山寺へと進み、焼山寺を打ち終えた後、鮎喰川の谷筋を戻り鮎喰川の扇状地に建つ徳島の札所に入って来たわけだ。
遍路歩きとしては17番井戸寺を打ち終えた後、次の札所18番恩山寺までをカバーするかと思うが、今回のメモは「歩く五ヶ寺詣り」までとする。


本日のルート;
13番札所大日寺から14番札所常楽寺
大日寺>石仏群>青石板碑と地蔵>分岐点に石仏と標石>茂兵衛道標(127度目)>一宮橋>百万遍供養塔>供養塔>常楽園分岐点の>第十四番札所常楽寺 常楽寺>四国千躰大師像標石>常楽寺奥の院>常楽寺奥の院>奥の院参道口の>道脇の自然石標石
14番札所常楽寺から15番札所国分寺
岩船地蔵>民家庭に茂兵衛道標>興禅寺>国分寺
15番札所国分寺から16番札所観音寺■
国分寺>国分寺北の四国千躰大師標石>石造物と標石4基>道の左右に標石>地蔵と茂兵衛道標>16番札所観音寺
16番札所観音寺から17番札所井戸寺■
観音寺>大御和神社角の標石>石仏と四国千躰大師標石>標石2基と石仏>四国千躰大師標石>石造物群>井戸寺標石>地蔵尊と標石>庚申塔と石造物>17番札所井戸寺



13番札所大日寺から14番札所常楽寺

13番札所大日寺を離れ次の札所常楽寺へ向かう。距離はおおよそ3キロ弱。遍路道は大日寺境内東端、県道21号から逸れて鮎喰川の土手へと向かう。
古い資料には県道21号から逸れる角に茂兵衛道標があったようだが、現在は見当たらなかった。

石仏群・青石板碑
鮎喰川の土手に向かって遍路道を進む。道の左手に石仏群。「南阿弥陀仏」碑、台座に「回国供養」と刻まれた地蔵座像、宝篋印塔らしき石造物、遍路墓などが集められている。かつての河川敷といったところを通るこの舗装道を整備するときにでもまとめられたのだろうか。
直ぐ先、道の左に2基の石造物。1基は青石板碑のようだ。横の石造物は摩耗が激しくよくわからない。

分岐点に石仏と標石
直ぐ先で道は二つに分かれる。その分岐点に石造物群。台座に座る地蔵は弘化四年の銘。地蔵座像の前にある2基の石像物は標石。右のものにはうっすら手印が見える。左を差す。半分埋まったものは手印と共に大師座像、そして「百」の文字が読める。照蓮が立てた四国千躰大師標石だろう。四国千躰大師標石にはよく見る「四国中千躰大師」と刻まれたものと、「百**番」といった番号を刻むものがあると言う。



茂兵衛道標(127度目)
標石の指示に従い道を左にとり、土手へと向かう。土手少し手前、倉庫の角に茂兵衛道標。正面に「丹波国多紀郡」「阿波国麻植郡」の文字とその下に村名や人名が刻まれる。寄進者なのだろう。
右面には「周防国」の茂兵衛の在所が刻まれる。左面には「明治二十七年」。茂兵衛127度目巡礼時のもの。かつてはこの辺りから渡しがあったようだが、現在は県道207号・一宮橋を渡る。



一宮橋を渡り「常楽寺」案内箇所に
鮎喰川に架かる一宮橋をわたると、現在の遍路道は橋を渡ると右に折れ、最初のT字路を左に折れて坂を上り「常楽寺」案内標識で右に折れて進む。が、かつての遍路道は渡しで鮎喰川を渡り、現在の一宮橋の少し西から進んだようだ。
道筋ははっきりしないが、なんらかその名残でもなかろうかと成り行きで民家の間の道筋に入る。北西に進むと上述、現在の遍路道にある「常楽寺」案内のところに出る。

百万遍供養塔
その先、道なりに進み池の東に沿って進むと、道の右手の少し小高いところに4mほどの自然石の石碑。「光明真言百万遍供養塔 天保十二」とある。
その傍に地蔵座像と「四国 西国 秩父 坂東」と刻まれた供養塔も立っていた。遍路道の風情を残す。


供養塔
道なりに進むと墓地の前に石碑。「四国十遍供養二世安楽」と刻まれる。その先の道脇に「瑜伽(ゆが)大権現」の石碑。「常楽寺世話人会」とある。常楽寺に何らかの関係があるものだろうか?台座に「三界萬霊」と刻まれた地蔵座像から少し奥まったところに小祠があるが、情報はなし。横に日枝神社がある。阿波一宮でもあった神山町上一宮神社・神宮寺にも瑜伽(ゆが)大権現が祀られる、と。神仏習合時代の名残り?
瑜伽(ゆが)大権現
Wikipediaには「瑜伽大権現(ゆがだいごんげん)は備前国瑜伽山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、阿弥陀如来・薬師如来を本地仏とする。明治初期、神仏分離令が発せられたときは「相応大菩薩」と名称を変え対応していたが、現在は瑜伽大権現に名称を戻し瑜伽山蓮台寺で祀られている。
「此の山は無双の霊地にして、梵刹を開き、三密瑜伽の行を行い、我を瑜伽大権現として祀るべし」と夢のお告げを受けた行基が、天平5年(734)に開山したとの伝承である。行基が阿弥陀如来・薬師如来の二尊を祀ったのが瑜伽大権現信仰の始まりと伝わる」とあり、 また、瑜伽は「サンスクリット「yoga」の音写語。原義は「結びつくこと」「結びつけること」の意で、感覚器官が自らに結びつくことによって心を制御する精神集中法や、自己を絶対者に結びつけることによって瞑想的合一をはかる修行法をさし、最近の心身の健康増進法としての「ヨガ」もこれに由来する」とあった。

常楽園分岐点に四国千躰大師標石
その先、「四国のみち」の石標があり、「十四番常楽寺0.2km」左折の案内。その傍に照蓮の 四国千躰大師標石。「四国中千躰大師 文化六」といった文字が刻まれる。
左に折れると常楽園。常楽寺が経営する児童養護施設。昭和30年(1955)に戦災孤児のための社会福祉施設として設立され、現在1歳から18歳までの子供たちを支援している。何だかなあ、といった施設を経営するお寺を多く目にするにつけ、少しほっとする。
施設東端を回り込むと常楽寺は直ぐそこ。


第十四番札所常楽寺


四国千躰大師標石
常楽園から池端の道を進み常楽寺へ。池の放水路に架かる盛寿橋を渡り石段を上ると照蓮の四国千躰大師標石。大師像と共に、「四国中千躰大師」「世話人阿州徳島講 願主照蓮」の文字が読める。文化七年建立と言う。





流水岩の庭
石段を上って境内に。水の引いた巨岩川底といった風情の境内。流水岩の庭とある。正面に本堂、右側に大師堂、地蔵堂が並ぶ。
あららぎ大師
本堂右手にアララギ(イチイ)の巨木。木の股に「あららぎ大師」が祀られる。大師巡錫の折、病に苦しむ老婆に持参の霊木を削り飲ませたところ、病は癒える。地に挿した霊木がこの巨木と伝わる。



徳右衛門道標
本堂左手の手水場の脇に徳右衛門道標。「十四番常楽寺 従是国分寺 八丁」の文字の上には通常刻まれる大師座像ではなく、弥勒菩薩。常楽寺の本尊である。ちょっと珍しい。

高野山真言宗。盛寿山延命院。Wikipediaには「寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地で修行をしていた際に、弥勒菩薩が多くの菩薩を連れた姿を感得した。そこで霊木に弥勒菩薩を刻み堂宇を建立して本尊として安置したという。空海の甥に当る真然僧正が金堂を建立、祈親上人が講堂、三重塔などを建立し七堂伽藍の大寺院となったと伝える。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失。万治2年(1659年)に徳島藩主蜂須賀光隆によって、現在地より下った谷間に再興された。文化12年(1815年)に元の山上への建て替えを願い出て、3年後、低地の谷間から石段を50段ほど上った現在地に移転した」とある。
四国霊場で本尊が弥勒菩薩はこのお寺さまだけのようだ。また、延命院の院号故か、この辺りの地名は徳島県国分寺町延命である。




奥の院慈眼寺へ

常楽寺奥の院は直ぐお隣。境内入口の照蓮・四国千躰大師標石まで戻り、標石の手印に従い左折し先に進む。
八幡神社傍に四国千躰大師標石
ほどなく八幡神社前に出る。鳥居を左に見遣り進むと道の右手に照蓮の四国千躰大師標石。この標石も大師座像の下に通常よく見る「四国中千躰大師」の文字の代わりに「百五十一番」と刻まれる。上述、鮎喰川の土手道手前の分岐点で見たものと同じタイプだ(以下番号タイプとする)。



奥の院慈眼寺
標石手印に従い先に進むと慈眼寺に。本堂は十一面観音。境内には大師堂と大師堂、そして生木地蔵堂が建つ。








生木地蔵
生木地蔵堂には、ヒノキに刻まれた地蔵が祀られる。かつて刻まれていたヒノキが枯れたため幹を切り取りお堂に祀ったとのことである。境内を一夜の宿とした越中の遍路に修行大師の夢のお告げがあり、お告げに従いヒノキに地蔵を刻んだとの縁起が残る。
生木に彫られた仏像といえば、八栗寺からの下り道で出合った生木観音が記憶に残る。






四国千躰大師標石

本堂から東に下る参道があり、その下り口に照蓮の四国千躰大師標石。この標石には通常よく見る「四国中千躰大師」と刻まれるが、手印がちょっと異なっている。手印が線彫り状になっている。これもちょっと珍しい。後世手直しされたもの、とも言われる。




道脇に自然石標石
参道道は常楽寺の境内に見た流れ岩。足元に注意し下ると道の合流点に自然石の標石が立つ。手印と共に「へんろ道」の文字が読める。手印に従い次の札所国分寺に向かう。









14番札所常楽寺から15番札所国分寺

岩船地蔵
次の札所である国分寺までは700mほど山裾の舗装道を進むと道の左手に極彩色のお堂。「岩船地蔵尊」「八祖大師」と書かれた札が見える。お堂に祀られる八体の像が八祖大師であり、その奥の厨子に祀られるのが地蔵尊? お堂前に自然石・青石の石碑。「御圀四十九薬師第三拾三番 是より興禅寺江二丁 安政六 八祖大師庵」と刻まれる。


六地蔵と庚申塔
道を進むと左手、道の側に石仏群。六地蔵と庚申塔や石仏が並ぶ。なんだか、いい。









民家の庭に標石2基
その先、道がふたつに分かれる。その分岐点、民家の庭に2基の標石。1基は茂兵衛道標。127度目巡礼時のもの。もうひとつは大きな自然石標石。「左十五番国分寺」と刻まれる。 標石に従い左の道に入る。





興禅寺前の六地蔵板碑
道の左手に六地蔵と庚申塔。その先興禅寺。臨済宗妙心寺派のお寺さま。質実簡素といった趣の山門が、いい。
興禅寺前にお堂。その傍に六地蔵板碑。一枚の青石に六体の地蔵が彫られる。案内には「板碑は青石の供養塔で、鎌倉時代から戦国時代にかけて建立されたものである。六地蔵を線彫し、下に宮谷講中の二十数名の氏名を記す。
本板碑は上部の二線のうち、一つは輪郭となり省略され、全体的に板状というより舟型に近いなど様式的にくずれている。天正十二年(1584)の紀年銘は本板碑が本県で最も新しいことを示すものである」とあった。
興禅寺の塗塀に沿って進むと右折国分寺の案内。正面に山門が見える。



第十五番札所国分寺

山門
「聖武天皇勅願所 四国第十五番 曹洞宗国分寺」と刻まれた寺標石が立つ山門を潜り境内に。正面の本堂は国指定名勝である庭園と共に2020年3月31日完成予定での修理工事中。その間、本堂右の烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)堂が仮本堂となっている。
烏枢沙摩明王堂

烏枢沙摩明王を祀るお堂。烏枢沙摩明王は密教における明王の一尊である。真言宗・天台宗・禅宗・日蓮宗などの諸宗派で信仰される。台密では明王のなかでも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊である。
烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれた。 烈火をもって不浄を浄化する明王として知られ、寺院の便所に祀られることが多い。また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきた。
このお堂は土佐の長曾我部勢による天正の兵火の際も、大師堂と共に焼失せず残り、本堂再建まで本尊が安置されていたと言う。
天正の兵火により灰燼に帰した寺は、徳島藩主蜂須賀公の命令により寛保元年(1741年)に再建されるが、このお堂はそれ以前に建てられていて、国分寺にある建物ではいちばん古いものとされる。
鎮守堂
烏枢沙摩明王の右に鎮守堂。瑜伽(ゆが)大権現、秋葉大権現、白山大権現、大聖歓喜天が祀られる。瑜伽(ゆが)大権現が四国霊場に祀られることは珍しいのだが、先の札所常楽寺への手前の道筋に石碑があった。何らかの関係があるのだろうか。
大師堂
鎮守堂右手に大師堂。結構新しい。平成8年(1996年)に火災で全焼し、平成26年(2014年)に再建された、と。その間烏枢沙摩明王堂が仮大師堂となっていた、と言う。
七重塔の礎石
本堂左手、鐘楼の手前に大岩。かつて国分寺に建っていた七重塔の礎石。前述の興禅寺前の田んぼから見つかったもの。
礎石の傍に案内があったが、そこにかつての国分寺の境内推定図もあった。現在は比較的ささやかな境内ではあるが、往昔は現在の境内の四倍ほどの広大な境内であったようだ。

徳右衛門道標
境内、大師堂の右手に徳右衛門道標。常の様式とは異なり、大師坐像の横に「十五番 国分寺」と刻まれる。

薬王山金色院。宗派は曹洞宗。本尊は薬師如来。Wikipediaには「天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔により諸国に建てられた国分寺の一つ。寺伝では行基が自ら薬師如来を刻んで開基し、聖武天皇から釈迦如来像と大般若経、光明皇后の位牌厨子が納められたと伝わっている。当初は法相宗の寺院として七堂伽藍を有する大寺院であった。弘仁年間(810 - 824年)に空海(弘法大師)が巡錫した際に真言宗に改宗したとされる。 史実としては、正確な成立過程は不明であるが、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、聖武天皇の周忌に際し、阿波国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、遅くともこの頃には完成していたことがわかる。
天正年間(1573 - 1592年)土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失。長らく荒廃していたが、寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、丈六寺の吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となった。





15番札所国分寺から16番札所観音寺

国分寺北の四国千躰大師標石
国分寺を出て次の札所観音寺に向かう。この間の距離も短く2キロ弱。大師堂裏の東口から出て少し北に歩くと、道の左手、ブロック塀の前に少し傾いた標石。市正面の下部は破損し、大師座像の下は「四国」の文字だけしか読めない。「四国中千躰大師」と刻まれた照蓮の四国千躰大師標石だ。




石造物と標石4基
更に北に進むとT字路にあたる。その角に地蔵尊や石造物。その両端にそれぞれ2基標石が並ぶ。標石はどれも風化し文字は読めないが、右側には如何にも茂兵衛道標といった風情の標石と、左にはこれまた如何にも照蓮の四国千躰大師標石。
茂兵衛道標には手印と共に「国分寺 観音寺 明治三十年」と刻まれる茂兵衛157度目の巡礼時のもの。茂兵衛道標の右手の標石には「国分寺道 観音寺道明和二年」、照蓮標石右手の標石には「くわんおんじ道 こくぶんじ道」といった文字が刻まれるようだ。
八倉比売神社
遍路道はここを右に折れるが、地図を見ると逆側、左に折れて西に向かうと八倉比売神社がある。何となく名前に惹かれ社に向かう。
社は標高212m気延山の南尾根南麓尾根、標高112mの杉尾山に鎮座する。杉尾山自体を神として祀る。この山麓は阿波史跡公園として整備されているように、古墳や埋蔵物が発掘され古代から開かれた地。国分寺が近くにあることからも納得。
で、気になった八倉比売神社であるが、正式には天石門別八倉比売神社。天石門別(あまのいわとわけ)神と八倉比売神(やくらひめのかみ)を祀る。天石門別神は天孫降臨に随伴する神々の一柱で、天照大神が隠れた天岩戸神話に登場する。八倉比売神は、「八倉=多くの倉」を意味し、国府のあるこの古代の中心地でとれた作物を保管し護る神とも言われる。 これではいまひとつわからない。
もう少し深堀りする;阿波一宮・天石門別八倉比売神社には論社(いくつか候補があり、比定されていない社)があり、この社もそのひとつ。論社には神山町の上一宮大栗神社、一宮町の一宮神社、鳴門市の大麻比古神社などが挙げられるが、上一宮大栗神社の祭神は大宜都比売命またの名を天石門別八倉比売命あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)、一宮神社も同じ。大麻比古神社の祭神は大麻比古神(おおあさひこ)、またの名を天太玉命(あまのふとだまのみこと)とする。
天石門別は天太玉命の子とされるので、これら神々の源は天太玉命(あめのふとだまのみこと)ということになる。天太玉命は阿波忌部氏の祖先神の一柱とされる。天太玉命が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」を阿波忌部氏の祖先神とするゆえの「祖先神の一柱」との表現だろうか。
とすれば、天石門別八倉比売の神名は、阿波忌部氏が祖霊にあたる天石門別神(祖先神の一柱である天太玉命の子)を祀り、阿波の中心地である国府周辺からの穀物を収めた、多くの倉の守り神という意味であろうと妄想する。
本当のところはよくわからないが、何となく気になった八倉比売神社の由来は自分なりに納得。

道の左右に標石
T字路を右に折れ国道192号手前、北に向かう道の角、左右に標石が並ぶ。道の右手は四国千躰大師標石。大師座像の下に「百五十四番」と刻まれる照蓮の「番号」タイプの四国千躰大師標石。
道の左手の標石には「とく志ま くわんおんじ道 こくぶんじ道」といった文字が刻まれる。 遍路道はここを左に折れ北に向かう。



地蔵と茂兵衛道標
北に向かった道は国道192号で一旦分断され、その先更に北に延びる。国道を渡り、道を北に進むと県道123号にあたる。その角に茂兵衛道標と地蔵尊立像。茂兵衛道標は161度目のもの。「国分寺 明治三拾一」といった文字が刻まれる。2mほどもある地蔵尊立像も標石となっており、台座には「左こくぶん寺 右藤井寺 享保十三年」といった文字が刻まれるようだ。
ここを右に折れるとほどなく16番札所観音寺に着く。
遍路道
昔の遍路はそれほど札順に拘ってはいないようだ。『四国辺路日記』で知られる澄禅が承久二年(1653)に辿った遍路道は、高野山から和歌山を経て徳島に入り、一番霊山寺からでなく、17番井土寺(十七番井戸寺)から打ち始め、十三番大日寺まで逆打ち、十一番藤井寺、十二番焼山寺と打って、十八番恩山寺に飛び、十九番立江寺以降は順打ちで回り、一番から十番までは讃岐(香川県)の八十八番大窪寺を打ち終えて最後に回っている。
であるとすれば、この地に11番札所藤井寺を案内する標石があっても違和感はない。



16番札所観音寺

堂々とした山門を潜り境内に。正面に本堂、右手に大師堂が建つ。本堂と大師堂にお参り。 Wikipediaには「高野山真言宗、光耀山(こうようざん)、千手院(せんじゅいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、聖武天皇が国分寺建立の勅命を出した際に行基に命じて勅願道場として本寺を建立、弘仁7年(816年)に空海が巡錫した際に本尊として千手観音像、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで安置、現在の寺名に改めたとされる。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火に焼かれるが、万治2年(1659年)阿波藩主蜂須賀光隆の支援を受け宥応法師が再建した」とある。
八幡大神宮・惣社大御神
小じんまりとした境内に建つ本堂の横に「八幡大神宮・惣社大御神」と刻まれた鳥居があり、そこに小ぶりな社が祀られる。
八幡総社両神社の由緒には「阿波国の総社とし、阿波国府の所在地に設けられた神社。国司の重要な仕事の一つに、管内の官社及び国司の崇敬する神社を祭祀することがあり奈良時代、国司はこれらの神社に幣を奉りこれに詣するを例としたが、平安時代中期以降、中央政治の乱れにより、地方行政も弛緩し、祭祀も規定通り行われなくなり、従来、国司の祭祀してきた管内諸神社の神霊を国府 (国司庁)に近いところに勧請し、参拝の便をはかったのび総社の起源である。当社はその総社と、近在の八幡神社を合祀したもので、安政三年(一八五六年)再建の棟礼を存する。
「寛保改神社帳」には「観音寺村惣社大明神」「観音寺村 八幡宮」とある。なお、南方500メートルほどはなれた所に、面積約三十坪に及ぶと言われる当社の旧社地があったとされ、「総社が原」の呼称が現在に伝わっている。
主祭神(八幡神社) 応神天皇(総社)阿波国式内社五十座
阿波国の式内社は大麻比古神社を始め五十座四六社あり、国府町内では大御和神社(府中 の宮)、八倉比売神社などが式内社である」とあった。

〇本題とは全然関係ないのだけど、上記由緒はiphoneの無料アプリ「一太郎pad」を使い、撮った写真をテキスト化した。アプリを開き、写真を選択しシャッターを押し、完了で画像内の文字をテキスト化してくれる。それをメールで転送しPC上の本テキストにコピー&ペーストした。認識の精度が高く、ほぼ完全に読み込んでくれる。 散歩のメモで少々かなわんなあ、と思っていた由来や縁起は最近このアプリを使い結構楽している。ありがたいアプリだ。




16番札所観音寺から17番札所井戸寺

大御和神社角の標石
観音寺の次の札所は第17番井戸寺。距離は3キロ弱である。井戸寺を離れ門前を走る県道123号を東に。少し歩くと広い境内、大きな社叢をもつ社。大御和神社である。遍路道はT字路となった社の東南角を左に折れ、北へと向かう。この角に「四国のみち」の石標と共に両端矢印の線彫と「へんろ道」と刻まれた標石が立つ。 中尾多七標石の様式ではあるが、あまりに新しい風情。レプリカ?
また社境内に横倒しとなった標石があった。「十七番 いどじ道 大正三年四月吉日」と読めた。
大御和(おおみわ)神社
Wikipediaには「創祀年代は不詳である。一説に大和国三輪神社から勧請されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された式内社である。
往古は印鑰(いんやく)大明神と称し、阿波国総社であったとも言われ、一般に「府中宮(こうのみや)」と呼ばれる」とある。

印鑰(いんやく)とは国のハンコと国庫の鍵のこと。印鑰と総社は直接関係しないようだが、その故もあり阿波国総社とも称されるのだろう。
由緒には「延喜式内小社で府中の宮と親しまれている。王朝時代国司政庁が此の地におかれ阿波国古代 の祭政の中枢となったが、その国府の鎮守として、 国分寺と共に、累代国司の崇敬が厚かった社である。
創立の事情はよくわからないが、おそらくは国司 が大和の大神神社の分霊を祀ったものであろう。本社はまた国璽の印及び国庫の鑰を守護せられし神徳により印鑰大明神と称したと伝えられる」とある。
阿波国の総社は先ほど訪れた札所観音寺の境内にもあり、その旧地は南500mのところにあったと由緒に記されていた。総社にしろ、一宮にしろ、その所在地は所説あり、定まることなし。

地蔵標石と四国千躰大師標石
北に進み国道192号の一筋手前、四つ角東北角に地蔵座像と標石。地蔵座像の八角形台座正面に「右井戸寺」、右側面に「左観音寺」と刻まれた標石となっている。地蔵前の標石は摩耗し文字は読めないが、その形からして照蓮の四国千躰大師標石だ。
標石の直ぐ傍に「四国のみち」の石標もあり、井戸寺は北を指す。








標石2基と石仏
北に進むと直ぐ国道192号に出る。国道を渡るとポールに「四国のみち」と書かれた小さな鉄板が架かる。が、どちらの方向に進めばいいのか指示はない。ここで右に折れ少し東に歩き、大きな交差点を左に折れて県道29号を北に向かうと徳島線府中駅へのY字分岐点。 そこを右に折れ、しばらく東へと歩き、北に折れる。北に進めば徳島線の踏切を越える。 その左折角に3基の石造物。そのうち2基は標石。左端は摩耗し文字は読めないが。形からして照蓮の四国千躰大師標石。番号タイプのもので「第百六十一番 文化六」といった文字が刻まれるようだ。中央の石造物も標石。「左* 右*寺」がうっすら読める。
右端の石造物の正面には「南大師遍照金剛」の文字が読めた。
遍路道
偶然に標石に出合ったが国道192号からこの標石までの遍路道はよくわからない。実は方向指示のない「四国のみち」鉄板を北に進むと「四国のみち 十七番」の石標が立っていた。その直ぐ先にも「四国のみち 十七番」の石標があり、北を指す。
その先、小さな社の手前の角にも「四国のみち」の石標。ここから先で手がかりを失い、仕方なく国道筋へと引き換えし、上述道筋を辿ったわけだが、もう少し根気よく探せば別の遍路道がみつかったかもしれない。

四国千躰大師標石
徳島線の踏切を渡り県道29号を北に進む。しばらく歩くと県道は右斜めにカーブする。その分岐点に「17井戸寺600m」の石柱と「17井戸寺300m」と書かれた手書きの木札。??その脇には照蓮の四国千躰大師標石も立っていた。

石造物群
斜めにカーブした県道29号が北に向きを変える手前、県道の右手、蔵の前に石造物が3基並ぶ。右端は庚申塔。青面金剛立像刻まれる。中央は台座に「三界萬霊」と刻まれた地蔵座像、左端は「奉誦光明真言一億万万遍」と刻まれた供養塔。百万遍はよく見るが、一億万遍は初めて見た。


標石
石像物の直ぐ傍、県道29号が北に向きを変えるところ、道の右手に標石。「左井戸寺道 道観音寺道 明治十三」といった文字が刻まれる。

地蔵尊と標石
少し北に進むと道の右手に「四国のみち」の石標。右井戸寺0.3km」とある。その横に2基の石仏。1基は地蔵尊、もう1基は三界萬霊供養塔。笠型が目を惹く。「文化十三 井戸村講中」といった文字が台座に刻まれていた。



庚申塔と石造物
指示に従い右に折れると四つ辻手前に庚申塔。その角を左折れ北に向かう。道の右手に庚申塔や五輪塔などの石仏を見遣り北に進むと井戸寺の山門前に着く。









第十七番札所井戸寺

山門
朱塗の山門を潜り境内に。何となく武家風の造り。元は徳島第十二代藩主蜂須賀重喜公の別邸の門を移築したもの。平成元年(1989)に新しい山門建設が行われたとのこと。屋根瓦や梁は新しそうだが、柱には古き趣が残る。

境内正面に本堂。右手に大師堂。左に日限大師堂が建つ。Wikipediaには「徳島県徳島市国府町井戸にある真言宗善通寺派の寺院。四国八十八箇所第17番札所。本尊は七仏薬師如来(伝聖徳太子作)。
寺伝によれば、阿波の国司に隣接し天武天皇が勅願道場として673年に創建し、七堂伽藍、末寺12坊を誇る壮大な寺院となり「妙照寺」と称していた。本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来で聖徳太子作、また、日光菩薩、月光菩薩は行基作と伝えられる。
伝承ではその後、弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩を刻んで安置したという。また、その際に土地の人々が水不足で困っていることを知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼ぶようにし、寺号も「井戸寺」と改めたという。
貞治元年(1362年)、細川頼之の兵火(細川清氏の反乱)で堂宇を焼失し、後に頼之の弟・細川詮春によって再建されたが、天正10年(1582年)に十河存保と長宗我部元親の戦い(第一次十河城の戦い)により再び堂宇を焼失、慶長年間(1596年 - 1615年)に徳島藩主蜂須賀氏によって再興に着手され、万治4年(1661年、藩主は蜂須賀光隆)にようやく本堂が再建となる。
大正5年(1916)正式名称を井戸寺にする。それまでは、納経には妙照寺が使われていたという。 その後、昭和43年(1968年)失火によりまたも本堂が主尊の中央本尊を残して焼失し、3年後に再建された」とある。
本尊
「昭和43年(1968年)失火により本堂が主尊の中央本尊を残して焼失し」とある。「本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来」ともある。七仏薬師とは薬師瑠璃光如来を主体とした7体の仏からなるようだ。
で、主尊の中央本尊を残して焼失とあるので、薬師瑠璃光如来を残して焼失した、ということだろうか。
が、ここで疑問。何故聖徳太子作と伝わるこの焼失を免れた仏さまが重要文化財に指定されていないのだろう?チェックすると、焼失する以前、七薬師像胎内から元禄期に京都で造られた、といった古文書が見つかったといった記事もあった。それ故だろうか。因みに現在の七薬師は主尊の他は火災の後造られたブロンズ像と聞く。
本尊を祀る本堂は焼失後再建の鉄筋コンクリート造り。美しく造られそれとは見えないが、屋根中央に立つ避雷針が今風ではある。
十一面観音菩薩
山門左手に六角堂(大悲殿)と呼ばれる観音堂がある。そこに国の重要文化財に指定された十一面観音菩薩が祀られる。この十一面観音像は上述本堂の火災から免れたもの。このお堂はその保護を目的に建てられたものと言う。
実際目にしたわけではないのだが、写真をチェックすると脇に2基の仏さまが従う。Wikipediaにあった「日光・月光菩薩立像:上記の十一面観音の脇仏、昭和33.7.18指定」と徳島県の有形文化財に指定されている日光・月光菩薩立像だろうか。


日限大師
本堂左手に日限大師を祀る堂宇。そこに井戸寺の由来ともなった井戸がある。弘法水のひとつ。「面影の井戸」とも呼ばれる由来は、お堂前の案内に「当寺御詠歌を「おもかげを うつしてみれば 井戸の水、むすべば むねの あかやおちなむ」と大師自ら井戸におもかげをうつされた。日を限って心願をかけると直にご利益を蒙るという、依って世に日限大師といわれ霊験あらたかである」にあった。お堂に祀られるお大師さんが日限大師である。 因みにこの井戸寺、鮎喰川が形成した広い扇状地に建つ。鮎喰川の伏流水がこの地に涌くのではあろう。
熊鷹大明神
六角堂脇に熊鷹大明神。名前に惹かれる。伏見稲荷にも祀られ、その他の地でも稲荷信仰との関連で登場することが多いようだ。
少し先走るが、次回散歩メモで阿波狸合戦ゆかりの地に出合い、そこに狸合戦に登場する狸である大鷹、小鷹と並び熊鷹大明神として祀られていた。熊鷹は大鷹の子とされる。
ここで祀られる熊鷹大明神が稲荷社との関連だろうか、阿波の狸合戦との関連だろうか? 狸合戦の関連でいえば、熊鷹だけが登場するのも唐突だしなあ、であれば稲荷信仰との関係?妄想は膨らむがすべて不詳ではある。

今回のメモはここまで。次回は徳島市の井戸寺から小松島市の恩山寺への遍路道をメモする。

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