この辺り、15番札所国分寺があることからもわかるように古くから開けた地。それもあってか、13番札所から17番札所までおおよそ8キロ弱の距離に5つの札所が並ぶ。「歩く五ヶ寺詣り」といった言葉もあるようだ。
鳴門市にある第一番札所霊山寺からはじめ第十番切幡寺まで、??野川北岸を進んだ遍路道は十一番札所藤井寺へと??野川南岸に渡り、そこから山深い第十二番焼山寺へと進み、焼山寺を打ち終えた後、鮎喰川の谷筋を戻り鮎喰川の扇状地に建つ徳島の札所に入って来たわけだ。
遍路歩きとしては17番井戸寺を打ち終えた後、次の札所18番恩山寺までをカバーするかと思うが、今回のメモは「歩く五ヶ寺詣り」までとする。
本日のルート;
■13番札所大日寺から14番札所常楽寺■
大日寺>石仏群>青石板碑と地蔵>分岐点に石仏と標石>茂兵衛道標(127度目)>一宮橋>百万遍供養塔>供養塔>常楽園分岐点の>第十四番札所常楽寺 常楽寺>四国千躰大師像標石>常楽寺奥の院>常楽寺奥の院>奥の院参道口の>道脇の自然石標石
■14番札所常楽寺から15番札所国分寺■
岩船地蔵>民家庭に茂兵衛道標>興禅寺>国分寺
■15番札所国分寺から16番札所観音寺■
国分寺>国分寺北の四国千躰大師標石>石造物と標石4基>道の左右に標石>地蔵と茂兵衛道標>16番札所観音寺
■16番札所観音寺から17番札所井戸寺■
観音寺>大御和神社角の標石>石仏と四国千躰大師標石>標石2基と石仏>四国千躰大師標石>石造物群>井戸寺標石>地蔵尊と標石>庚申塔と石造物>17番札所井戸寺
■13番札所大日寺から14番札所常楽寺■
13番札所大日寺を離れ次の札所常楽寺へ向かう。距離はおおよそ3キロ弱。遍路道は大日寺境内東端、県道21号から逸れて鮎喰川の土手へと向かう。
古い資料には県道21号から逸れる角に茂兵衛道標があったようだが、現在は見当たらなかった。
石仏群・青石板碑
直ぐ先、道の左に2基の石造物。1基は青石板碑のようだ。横の石造物は摩耗が激しくよくわからない。
分岐点に石仏と標石
茂兵衛道標(127度目)
右面には「周防国」の茂兵衛の在所が刻まれる。左面には「明治二十七年」。茂兵衛127度目巡礼時のもの。かつてはこの辺りから渡しがあったようだが、現在は県道207号・一宮橋を渡る。
一宮橋を渡り「常楽寺」案内箇所に
鮎喰川に架かる一宮橋をわたると、現在の遍路道は橋を渡ると右に折れ、最初のT字路を左に折れて坂を上り「常楽寺」案内標識で右に折れて進む。が、かつての遍路道は渡しで鮎喰川を渡り、現在の一宮橋の少し西から進んだようだ。
道筋ははっきりしないが、なんらかその名残でもなかろうかと成り行きで民家の間の道筋に入る。北西に進むと上述、現在の遍路道にある「常楽寺」案内のところに出る。
百万遍供養塔
その傍に地蔵座像と「四国 西国 秩父 坂東」と刻まれた供養塔も立っていた。遍路道の風情を残す。
供養塔
●瑜伽(ゆが)大権現
Wikipediaには「瑜伽大権現(ゆがだいごんげん)は備前国瑜伽山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、阿弥陀如来・薬師如来を本地仏とする。明治初期、神仏分離令が発せられたときは「相応大菩薩」と名称を変え対応していたが、現在は瑜伽大権現に名称を戻し瑜伽山蓮台寺で祀られている。
常楽園分岐点に四国千躰大師標石
左に折れると常楽園。常楽寺が経営する児童養護施設。昭和30年(1955)に戦災孤児のための社会福祉施設として設立され、現在1歳から18歳までの子供たちを支援している。何だかなあ、といった施設を経営するお寺を多く目にするにつけ、少しほっとする。
施設東端を回り込むと常楽寺は直ぐそこ。
●第十四番札所常楽寺●
●四国千躰大師標石
●流水岩の庭
●あららぎ大師
本堂右手にアララギ(イチイ)の巨木。木の股に「あららぎ大師」が祀られる。大師巡錫の折、病に苦しむ老婆に持参の霊木を削り飲ませたところ、病は癒える。地に挿した霊木がこの巨木と伝わる。●徳右衛門道標
四国霊場で本尊が弥勒菩薩はこのお寺さまだけのようだ。また、延命院の院号故か、この辺りの地名は徳島県国分寺町延命である。
奥の院慈眼寺へ
八幡神社傍に四国千躰大師標石
奥の院慈眼寺
●生木地蔵

生木地蔵堂には、ヒノキに刻まれた地蔵が祀られる。かつて刻まれていたヒノキが枯れたため幹を切り取りお堂に祀ったとのことである。境内を一夜の宿とした越中の遍路に修行大師の夢のお告げがあり、お告げに従いヒノキに地蔵を刻んだとの縁起が残る。生木に彫られた仏像といえば、八栗寺からの下り道で出合った生木観音が記憶に残る。
●四国千躰大師標石
本堂から東に下る参道があり、その下り口に照蓮の四国千躰大師標石。この標石には通常よく見る「四国中千躰大師」と刻まれるが、手印がちょっと異なっている。手印が線彫り状になっている。これもちょっと珍しい。後世手直しされたもの、とも言われる。
●道脇に自然石標石
■14番札所常楽寺から15番札所国分寺■
岩船地蔵
六地蔵と庚申塔
民家の庭に標石2基
興禅寺前の六地蔵板碑
興禅寺前にお堂。その傍に六地蔵板碑。一枚の青石に六体の地蔵が彫られる。案内には「板碑は青石の供養塔で、鎌倉時代から戦国時代にかけて建立されたものである。六地蔵を線彫し、下に宮谷講中の二十数名の氏名を記す。
本板碑は上部の二線のうち、一つは輪郭となり省略され、全体的に板状というより舟型に近いなど様式的にくずれている。天正十二年(1584)の紀年銘は本板碑が本県で最も新しいことを示すものである」とあった。
興禅寺の塗塀に沿って進むと右折国分寺の案内。正面に山門が見える。
●第十五番札所国分寺●
●山門
「聖武天皇勅願所 四国第十五番 曹洞宗国分寺」と刻まれた寺標石が立つ山門を潜り境内に。正面の本堂は国指定名勝である庭園と共に2020年3月31日完成予定での修理工事中。その間、本堂右の烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)堂が仮本堂となっている。●烏枢沙摩明王堂
烏枢沙摩明王を祀るお堂。烏枢沙摩明王は密教における明王の一尊である。真言宗・天台宗・禅宗・日蓮宗などの諸宗派で信仰される。台密では明王のなかでも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊である。
このお堂は土佐の長曾我部勢による天正の兵火の際も、大師堂と共に焼失せず残り、本堂再建まで本尊が安置されていたと言う。
天正の兵火により灰燼に帰した寺は、徳島藩主蜂須賀公の命令により寛保元年(1741年)に再建されるが、このお堂はそれ以前に建てられていて、国分寺にある建物ではいちばん古いものとされる。
●鎮守堂
烏枢沙摩明王の右に鎮守堂。瑜伽(ゆが)大権現、秋葉大権現、白山大権現、大聖歓喜天が祀られる。瑜伽(ゆが)大権現が四国霊場に祀られることは珍しいのだが、先の札所常楽寺への手前の道筋に石碑があった。何らかの関係があるのだろうか。
●大師堂
●七重塔の礎石
礎石の傍に案内があったが、そこにかつての国分寺の境内推定図もあった。現在は比較的ささやかな境内ではあるが、往昔は現在の境内の四倍ほどの広大な境内であったようだ。
●徳右衛門道標
天正年間(1573 - 1592年)土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失。長らく荒廃していたが、寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、丈六寺の吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となった。
■15番札所国分寺から16番札所観音寺■
国分寺北の四国千躰大師標石
石造物と標石4基
茂兵衛道標には手印と共に「国分寺 観音寺 明治三十年」と刻まれる茂兵衛157度目の巡礼時のもの。茂兵衛道標の右手の標石には「国分寺道 観音寺道明和二年」、照蓮標石右手の標石には「くわんおんじ道 こくぶんじ道」といった文字が刻まれるようだ。
●八倉比売神社
遍路道はここを右に折れるが、地図を見ると逆側、左に折れて西に向かうと八倉比売神社がある。何となく名前に惹かれ社に向かう。
社は標高212m気延山の南尾根南麓尾根、標高112mの杉尾山に鎮座する。杉尾山自体を神として祀る。この山麓は阿波史跡公園として整備されているように、古墳や埋蔵物が発掘され古代から開かれた地。国分寺が近くにあることからも納得。
もう少し深堀りする;阿波一宮・天石門別八倉比売神社には論社(いくつか候補があり、比定されていない社)があり、この社もそのひとつ。論社には神山町の上一宮大栗神社、一宮町の一宮神社、鳴門市の大麻比古神社などが挙げられるが、上一宮大栗神社の祭神は大宜都比売命またの名を天石門別八倉比売命あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)、一宮神社も同じ。大麻比古神社の祭神は大麻比古神(おおあさひこ)、またの名を天太玉命(あまのふとだまのみこと)とする。
天石門別は天太玉命の子とされるので、これら神々の源は天太玉命(あめのふとだまのみこと)ということになる。天太玉命は阿波忌部氏の祖先神の一柱とされる。天太玉命が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」を阿波忌部氏の祖先神とするゆえの「祖先神の一柱」との表現だろうか。
とすれば、天石門別八倉比売の神名は、阿波忌部氏が祖霊にあたる天石門別神(祖先神の一柱である天太玉命の子)を祀り、阿波の中心地である国府周辺からの穀物を収めた、多くの倉の守り神という意味であろうと妄想する。
本当のところはよくわからないが、何となく気になった八倉比売神社の由来は自分なりに納得。
道の左右に標石
道の左手の標石には「とく志ま くわんおんじ道 こくぶんじ道」といった文字が刻まれる。 遍路道はここを左に折れ北に向かう。
地蔵と茂兵衛道標
ここを右に折れるとほどなく16番札所観音寺に着く。
●遍路道
昔の遍路はそれほど札順に拘ってはいないようだ。『四国辺路日記』で知られる澄禅が承久二年(1653)に辿った遍路道は、高野山から和歌山を経て徳島に入り、一番霊山寺からでなく、17番井土寺(十七番井戸寺)から打ち始め、十三番大日寺まで逆打ち、十一番藤井寺、十二番焼山寺と打って、十八番恩山寺に飛び、十九番立江寺以降は順打ちで回り、一番から十番までは讃岐(香川県)の八十八番大窪寺を打ち終えて最後に回っている。
であるとすれば、この地に11番札所藤井寺を案内する標石があっても違和感はない。
●16番札所観音寺●
寺伝によれば、聖武天皇が国分寺建立の勅命を出した際に行基に命じて勅願道場として本寺を建立、弘仁7年(816年)に空海が巡錫した際に本尊として千手観音像、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで安置、現在の寺名に改めたとされる。
●八幡大神宮・惣社大御神
小じんまりとした境内に建つ本堂の横に「八幡大神宮・惣社大御神」と刻まれた鳥居があり、そこに小ぶりな社が祀られる。
八幡総社両神社の由緒には「阿波国の総社とし、阿波国府の所在地に設けられた神社。国司の重要な仕事の一つに、管内の官社及び国司の崇敬する神社を祭祀することがあり奈良時代、国司はこれらの神社に幣を奉りこれに詣するを例としたが、平安時代中期以降、中央政治の乱れにより、地方行政も弛緩し、祭祀も規定通り行われなくなり、従来、国司の祭祀してきた管内諸神社の神霊を国府 (国司庁)に近いところに勧請し、参拝の便をはかったのび総社の起源である。当社はその総社と、近在の八幡神社を合祀したもので、安政三年(一八五六年)再建の棟礼を存する。
主祭神(八幡神社) 応神天皇(総社)阿波国式内社五十座
阿波国の式内社は大麻比古神社を始め五十座四六社あり、国府町内では大御和神社(府中 の宮)、八倉比売神社などが式内社である」とあった。
■16番札所観音寺から17番札所井戸寺■
大御和神社角の標石
●大御和(おおみわ)神社
Wikipediaには「創祀年代は不詳である。一説に大和国三輪神社から勧請されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された式内社である。
往古は印鑰(いんやく)大明神と称し、阿波国総社であったとも言われ、一般に「府中宮(こうのみや)」と呼ばれる」とある。
印鑰(いんやく)とは国のハンコと国庫の鍵のこと。印鑰と総社は直接関係しないようだが、その故もあり阿波国総社とも称されるのだろう。
創立の事情はよくわからないが、おそらくは国司 が大和の大神神社の分霊を祀ったものであろう。本社はまた国璽の印及び国庫の鑰を守護せられし神徳により印鑰大明神と称したと伝えられる」とある。
阿波国の総社は先ほど訪れた札所観音寺の境内にもあり、その旧地は南500mのところにあったと由緒に記されていた。総社にしろ、一宮にしろ、その所在地は所説あり、定まることなし。
地蔵標石と四国千躰大師標石
標石の直ぐ傍に「四国のみち」の石標もあり、井戸寺は北を指す。
標石2基と石仏
右端の石造物の正面には「南大師遍照金剛」の文字が読めた。
●遍路道
偶然に標石に出合ったが国道192号からこの標石までの遍路道はよくわからない。実は方向指示のない「四国のみち」鉄板を北に進むと「四国のみち 十七番」の石標が立っていた。その直ぐ先にも「四国のみち 十七番」の石標があり、北を指す。
その先、小さな社の手前の角にも「四国のみち」の石標。ここから先で手がかりを失い、仕方なく国道筋へと引き換えし、上述道筋を辿ったわけだが、もう少し根気よく探せば別の遍路道がみつかったかもしれない。
四国千躰大師標石
石造物群
標石
地蔵尊と標石
庚申塔と石造物
●第十七番札所井戸寺●
●山門
境内正面に本堂。右手に大師堂。左に日限大師堂が建つ。Wikipediaには「徳島県徳島市国府町井戸にある真言宗善通寺派の寺院。四国八十八箇所第17番札所。本尊は七仏薬師如来(伝聖徳太子作)。
寺伝によれば、阿波の国司に隣接し天武天皇が勅願道場として673年に創建し、七堂伽藍、末寺12坊を誇る壮大な寺院となり「妙照寺」と称していた。本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来で聖徳太子作、また、日光菩薩、月光菩薩は行基作と伝えられる。
貞治元年(1362年)、細川頼之の兵火(細川清氏の反乱)で堂宇を焼失し、後に頼之の弟・細川詮春によって再建されたが、天正10年(1582年)に十河存保と長宗我部元親の戦い(第一次十河城の戦い)により再び堂宇を焼失、慶長年間(1596年 - 1615年)に徳島藩主蜂須賀氏によって再興に着手され、万治4年(1661年、藩主は蜂須賀光隆)にようやく本堂が再建となる。
大正5年(1916)正式名称を井戸寺にする。それまでは、納経には妙照寺が使われていたという。 その後、昭和43年(1968年)失火によりまたも本堂が主尊の中央本尊を残して焼失し、3年後に再建された」とある。
●本尊
で、主尊の中央本尊を残して焼失とあるので、薬師瑠璃光如来を残して焼失した、ということだろうか。
が、ここで疑問。何故聖徳太子作と伝わるこの焼失を免れた仏さまが重要文化財に指定されていないのだろう?チェックすると、焼失する以前、七薬師像胎内から元禄期に京都で造られた、といった古文書が見つかったといった記事もあった。それ故だろうか。因みに現在の七薬師は主尊の他は火災の後造られたブロンズ像と聞く。
本尊を祀る本堂は焼失後再建の鉄筋コンクリート造り。美しく造られそれとは見えないが、屋根中央に立つ避雷針が今風ではある。
●十一面観音菩薩

山門左手に六角堂(大悲殿)と呼ばれる観音堂がある。そこに国の重要文化財に指定された十一面観音菩薩が祀られる。この十一面観音像は上述本堂の火災から免れたもの。このお堂はその保護を目的に建てられたものと言う。実際目にしたわけではないのだが、写真をチェックすると脇に2基の仏さまが従う。Wikipediaにあった「日光・月光菩薩立像:上記の十一面観音の脇仏、昭和33.7.18指定」と徳島県の有形文化財に指定されている日光・月光菩薩立像だろうか。
●日限大師
●熊鷹大明神
六角堂脇に熊鷹大明神。名前に惹かれる。伏見稲荷にも祀られ、その他の地でも稲荷信仰との関連で登場することが多いようだ。少し先走るが、次回散歩メモで阿波狸合戦ゆかりの地に出合い、そこに狸合戦に登場する狸である大鷹、小鷹と並び熊鷹大明神として祀られていた。熊鷹は大鷹の子とされる。
ここで祀られる熊鷹大明神が稲荷社との関連だろうか、阿波の狸合戦との関連だろうか? 狸合戦の関連でいえば、熊鷹だけが登場するのも唐突だしなあ、であれば稲荷信仰との関係?妄想は膨らむがすべて不詳ではある。
今回のメモはここまで。次回は徳島市の井戸寺から小松島市の恩山寺への遍路道をメモする。
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