火曜日, 4月 21, 2020

阿波 歩き遍路:第十七番札所 井戸寺から第十八番札所 恩山寺へ

今回のメモは徳島市郊外の17番札所井戸寺から徳島市街を抜け、小松島市の恩山寺までの遍路道。歩いて印象に残ったのは徳島市街にほとんど標石が残らないこと。井戸寺から徳島市街に入る田宮川・藪ノ木橋まではそれなりに標石は残る(記録に残るも含め)のだが、市街地でみつけたのは眉山東北端部、臨江寺傍に1基のみ。その先も市街地、かつての城下町を離れ、園瀬川を越えるまで標石はひとつも見付けることができなかった。
これって何だろう?徳島藩の遍路政策が厳しかったため?これはあたらないようである。むしろ遍路に対しては寛大で、町役人がその方針に困惑しているほどである。
徳島藩の遍路政策
「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター)」には永宝5年(1708)の資料にそのエビデンスがある。井戸寺から恩山寺への遍路が徳島城下を通過する場合の処置に対する二軒屋(徳島城下の南端、城下と郷村の境)の町役人の問い合わせに対する藩の回答がそれである。遍路手形をもつ遍路には民家を善根宿として提供すべし、とある。遍路に厳しかった土佐藩とは趣が大きく異なる。
徳島城下の地形
では、標石が残らない因は地形?徳島大学の資料を参考に地形で考えてみる;徳島市は天正15年(1587)、徳島藩初代藩主蜂須賀家政がこの地に城を築いたことに始まる。この地が選ばれたのは、吉野川地域(当時の𠮷野川は徳島市に流れていない。広義の吉野川筋)の、いわゆる「北方(きたがた)」地方と、勝浦川・那賀川流域の「南方(みなみがた)」地方の接点にあたり、 海上交通の便にも優れていたためと考えられている。
城下町は助任川や新町川、寺島川(現在はJR線敷設のため埋め立てられている)などの吉野川の分流をそのまま水濠として利用した「島普請」であり、城は標高約60mの渭ノ山に築かれ、中州であった徳島・福島・寺島・出来島・常三島などに侍屋敷が置かれた。氾濫原に造られた城下町と言えるだろう。
氾濫原であれば洪水被害も多いだろう。築城当時現在の𠮷野川は第十堰(名西郡石井町藍畑)から北に流れており、大きな川は城下に流れてはいなかったようだが、築城に際しお濠の水を求めて開削された人工水路(別宮川)が次第に大きな流れになって変わっていった。始まりは幅11mほどであった水路は、その傾斜もあり元の𠮷野川の水を奪い、明治の頃には河口部では幅1kmほどの別宮川(吉野川と名を変えるのは昭和になってから)として地図に見える。
次第に大きくなる流れになる川筋は藩の政策のより「無堤」であったよう。徳島藩の財政を潤す阿波藍の畑を、洪水による自然客土で肥やすため、といった説もあるようだが、土手がなければ洪水被害も多かったであろう。
地蔵越の遍路道
洪水で標石は流された?何の目安もない野道ではなく、そもそも城下であれば標石が無くても成り行きで進めるのでは?などと、あれこれ妄想だけを膨らませ、そのエビデンスはないものかと、井戸寺から恩山寺への遍路の記事をみていると、多くの方が地蔵越えという遍路道を歩いている。徳島市街に入ることなく、眉山(標高290m)の峠(地蔵越)を越えて恩山寺へ向かっている。
その遍路道をチェックすると、眉山を越え園瀬川筋に出た遍路道は、南に下り「あずり越」を経て地蔵寺駅の西を勝浦川に向かうもの、また、園瀬川筋を県道136号、往昔の土佐街道筋あたりまで下り、県道136号を県道209号分岐点まで南下(この区間は今回歩いた遍路道と重なる)、そこで県道136号・土佐街道を離れそのまま県道209号を南下し地蔵寺駅西から勝浦川へと向かうものなど、いくつかバリエーションがあるようだ。
記事の多さからすれば、この地蔵越えが井戸寺から恩山寺へのメーンルートであったのかもしれない。であれば、徳島市街の標石の無さの一因はこの遍路道にあるのではと、真偽のほどは別にして自分なりに少し納得。
小松島の港からの遍路道
標石の件はそれでよしとして、その遍路道を眺めながら新たな疑問。今回歩いたルートは 遍路道資料でみた、「城下を抜け徳島市の地蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」遍路道である。
地蔵橋駅近くで県道136号・土佐街道(県道136号が土佐街道の道筋であることはメモの段階でわかったのだが)を直進することなく、何故に東へ大きく廻るのだろう。道筋に特段大師ゆかりのお寺もなかった。普通に考えれば県道136号・土佐街道筋を進むのだろうが、土佐街道から分かれ、勝浦川を江田の渡しから中田駅方面へと東へと大廻りしている。
これもあれこれチェックすると、これはどうも旧小松島港で四国に渡ったお遍路さんが徳島の城下へと向かう遍路道筋であったようだ。因みに、小松島港から恩山寺へ向かう遍路道もあった。
土佐街道
ここでまたまた疑問。地蔵橋駅近くで県道136号・土佐街道筋を東に江田の渡しに向かうことなく何故土佐街道筋を進まないのだろう。勝浦川を渡る渡しがなかった?チェックすると現在の勝浦川橋の少し、県道136号・土佐街道筋には前原の渡しがあった。??
それではと眉山の地蔵越えで歩かれた方のルートを見ると、園瀬川を東に向かった遍路道は県道136号・土佐街道に入り南下、その先で県道136号・土佐街道から離れ県道209号を南に下る。これが遍路道なのか、途中にある日本一低い標高(62m)の弁天山に寄るためのものか不詳であるが、この道筋は「あずり越え」を下った後のルートでもあり遍路道のひとつではあったのだろう。
そして眉山の地蔵越えの方のルートは、県道209号を南下し勝浦川を勝浦橋で渡った後(昔は勝浦橋の少し西、前原の渡で川を越えた)、県道136号・土佐街道に入り国道55号傍、小松川中学の南に立つ標石で、今回私が辿った遍路道に合流。その後県道136号・土佐街道を恩山寺に向かっている。結局、県道136号・土佐街道を下り前原の渡しで勝浦川を越えた遍路道のエビデンスはみつからなかったが、普通に考えればこのルートもあったのでは、と妄想する。
なんだか長々とメモしたが、これは自分の妄想の履歴。が、自分なりに実際歩いたルートと地蔵越のルートなど、井戸寺から恩山寺までの遍路道の全体像が何となく繋がった。
今回のメモは徳島市街地を抜ける遍路道を辿るが、地蔵越えルートも峠越フリークには魅力的である。ルート図だけ掲載しておく。実際自分で歩き、標石を目安とした旧遍路道トレースではないので、あくまで参考ルートではある。



本日のルート;17番札所井戸寺>標石2基>地蔵尊座像>鮎喰川左岸手前にお堂と標石>鮎喰川右岸土手に7丁石>庚申堂と大師堂>田宮川・藪ノ木橋>佐古橋北詰に遍路休憩所>臨江寺東の標石>忌部神社>県道209・136号分岐点傍の標石>県道136号から分岐>地蔵橋東詰めの地蔵と標石>勝浦川(江田の渡し)への分岐点>勝浦川左岸手前に石仏>四国千躰大師標石>県道120号右折直ぐお堂>青石板状標石>藤樹寺参道手前に標石>小松川中学南:県道136号(土佐街道)合流点の標石>お杖の水>茂兵衛道標と石仏群>青石自然石標石>千羽ヶ嶽>義経上陸の碑>寺標石>参道口の茂兵衛道標>18番札所恩山寺


第十七番札所 井戸寺から第十八番札所 恩山寺へ

恩山寺の標石
井戸寺を離れ徳島市街を抜け、小松島市の恩山寺に向かう。距離はおおよそ20キロ弱である。山門前に立つ青石自然石標石「四国十七番井戸寺霊場 これよりおんざんじ」の手印に従い東に向かう。

井戸寺の東に標石2基
ほどなく四つ辻。その北東角に2基の標石。1基は舟形地蔵標石。「右五ひゃくらかん道 廿五丁」、もう1基の標石には大師座像の上に「第百六十四番 右おんざんじ」の文字が読める。
五百羅漢と言えば第5番札所地蔵寺の羅漢堂を思い起すが、そこまでは11キロもあり25丁では距離が合わない。それに指の指す方向も違う。舟形丁石の指す、ここから3キロほどのところにある五百羅漢ゆかりの地はどこだろう。
地蔵越えルート?
と、当日は思ったのだが、メモの段階で17番井戸寺から18番恩山寺に向かう遍路道には徳島市街を抜けるルートと、眉山の地蔵越えを経て恩山寺へ向かうルートがあることを知った。その地蔵越えのルートがこの角を右に曲がるとする記事もある。
実際に辿ったわけではないため確証はないが、眉山地蔵越えルートの目安なのだろうか。とはいえ、五百羅漢にまつわるお寺さまは眉山山裾の地蔵院まで、その距離5キロ弱の区間に特に見当たらなかった。

地蔵尊座像
東に少し進むと道の左手に大きな地蔵尊座像。台座には「宝暦三 念仏講」といった文字が刻まれていた。舟形地蔵や標石らしき石柱もあるが、特にそれらしき文字は刻まれえていなかった。





鮎喰川左岸手前にお堂と標石
ほどなく道は交差する県道30号を横切り、更に東へと向かい鮎喰川左岸に達する。土手手前にお堂があり、常夜灯と4mほどの板状青石供養塔。「奉供養光明真言五億一百万遍」と刻まれる。
お堂の道を隔てた向かい側に石仏や石碑が並ぶ。左橋は照蓮の四国千躰大師標石。大師像と共に、「四国中千* 文化六 真念再建」といった文字が刻まれる。
その横に並ぶ6基の石仏のうち、1基は遍路墓、それ以外の5基は舟形地蔵丁石。「十丁、十*丁、十二丁、十七丁」といった文字が刻まれるようである。
真念再建
四国千躰大師標石に刻まれた「真念再建」とは真念道標や、日本最初の遍路ガイドブック『四国遍路道指南』を著した真念の威徳を継がんとした照蓮の意を示したもの。
四国中千躰とは四国遍路道に千躰の標石なのか、多くのと言う意味での「千」なのか不詳だが、ともあれ真念に心酔した照蓮が真念道標の後を継ぐべく道標建立を発願したわけだ。が、文化六年(1809)からはじめ数年で挫折した、と言う。
なお真念が立てた標石は200基を越えるとされるが、現存するのは20数基。照蓮の立てた標石は70基ほどと言われるが、ほとんどが阿波であり確認されたものとして50基残る。その他は土佐6基、讃岐3基で伊予は未だ発見されていない。
照蓮に先立つ道標建立の先駆者として武田徳右衛門がいるが、その出身は伊予の今治。武田徳右衛門道標は確認された110基ほどの大半が伊予に立つ。照蓮標石が伊予にないのはそれ故か、また照蓮は徳島講中をパートナーとして建立した故か薄学のわが身には不詳である。

鮎喰川右岸土手に7丁石
往昔の遍路道は土手に上り、鮎喰川に架けられた潜水橋を渡り対岸に出たようだ。鮎喰川の中流から下は雨の少ない時期は伏流水になっていたようで、当日も水はなく渡河できそうでもあるが、とりあえず少し上流に架かる中鮎喰橋を渡り、遍路道の対岸辺りに向かう。そその土手には舟形地蔵が立つ。七丁石のようだ。

庚申堂と大師堂
舟形地蔵のある土手を下りると秋葉神社がある。いかにも昔の道筋といった趣の街並み。道を東に進むとお堂がふたつ並ぶ。右には真言が書かれた木札。大師堂だろう。左のお堂には「庚申」の木札。庚申塔を祀るお堂。
庚申堂の左に大きな板状青石碑。「大峰山上四十五度 伊勢六神宮三十 石鎚山剣山四国霊場」といった文字が読めた。周りには石仏なども並ぶ。



田宮川に架かる藪ノ木橋の北詰めに進む
道なりに東に進む。道筋には丁石が残る、といった記事もあったが見ることはなかった。県道1号の交差点を直進、更に東に向かう。道は緩やかに南東に曲がりその先で県道30号を横切る。
県道30号を横切った道の右手に地蔵堂が建つ。この間も古い資料にある丁石を見ることはできなかった。
その先、遍路道は田宮川に架かる藪ノ木橋の北詰めの交差点に出る。
この辺りまでの遍路道は丁石や大師堂などによりほぼ確定しているようだが、この先徳島市街を進む遍路道は、眉山の東北端に建つ臨江寺傍まで標石もなく道筋ははっきりしない。成り行きで臨江寺辺りまで進むことにする。





徳島市街に

臨江寺の東に標石
藪ノ木橋を渡り成り行きで徳島市街を蔵元元町、蔵元を通り佐古八番から南佐古七番、南佐古五番、南佐古三番を抜け、諏訪神社を見遣り運河のごとき佐古川に沿って佐古三番、佐古二番、佐古一番へと眉山北側の山裾を進む。

眉山東北端近くに標石の目安となる臨江寺がある。寺は道筋から少し奥まりちょっと分かり難いが、その直ぐ東、眉山の東側に廻り込む道の左手に標石が立っていた。
正面に「いどじミち」の文字が読める。手印も井戸寺方向を指す。逆打ち遍路さんへの標石だが、往昔のお遍路は特段札巡に拘っていなかったようである。また側面には「おんざんじ道」と刻まれる。文化十三年の銘もある。
田宮川に架かる藪ノ木橋からこの地までは標石もなく旧遍路道は特定できないが、少なくともこの標石の地には続いていたのだろう。
佐古橋北詰に遍路休憩所
標石の北、佐古橋の北詰に「遍路休憩所」があった。そこに石碑があり「笹山とおれば笹ばかり 大谷とおれば石ばかり いのしし豆喰うて ホーイホイホイ 一丁目の橋まで行かんか来いこい」とある。これは何?
「アーラ偉い奴ちゃ エライヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ 踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らにゃ 損々」に続く阿波踊りの踊りばやしのようだ。「一丁目の橋」とは佐古橋のこと。
佐古川
運河のような水路に佐古川とある。川というにはちょっと不自然。チェックする;Wikipediaには「徳島県徳島市の市街地西部に水源があり、東へ流れ、徳島市中心街を流れる新町川中流部に合流する。
佐古と南佐古の境を流れており、水源は佐古と南佐古の西端にある。ただしさらに西の南蔵本町や蔵本町にはかつての佐古川上流部である水路が散見され、地下で佐古川とつながっている。
下流部は大谷(諏訪神社付近の眉山山麓)で切り出された青石の石垣で護岸が整備されているが、諏訪神社付近より上流ではコンクリートの護岸が増える。
新町川合流点近くでは、佐古と西新町・西船場町の境を流れる。合流点には水門があり新町川と区切られている。
元は鮎喰川の最も南寄りの流路であり、中世まではしばしば鮎喰川が流れ込んでいた。しかし蜂須賀家政が徳島城下町を建設するとき、徳島城築城時に鮎喰川右岸(南東岸)に築堤され、鮎喰川が流れてくることはなくなった。
江戸時代の佐古は布屋や染色業者など新興商人が軒を並べており、その中心は佐古川の堤防沿いの道である通称「往環」と呼ばれる伊予街道だった。商人たちは佐古川に物資を運ぶための船が通る川にするべく徳島藩に河川の整備をするように要請した。
明治時代から大正時代にかけて佐古が繁栄した頃に造られた青石の石積み護岸が現在でも所々に残っている」とあった。
築堤云々は前述徳島藩の無堤政策と矛盾するが、この地の商人の「力」故だろうか。それはともあれ、運河といった人工的な造作の所以がわかった。またこの地に阿波踊りの碑が立つのは、かつて栄えた佐古の町で阿波踊りも盛んに行われたといことだろう。
踊りばやし
石碑にあった、大谷はWikipediaにあるように諏訪神社山麓であることはわかった。では笹山って?どうもこれは南佐古三番町にあった佐古山のようだ。佐古山には笹が茂っていた、と。
ではでは「いのしし豆喰うて」って何?どうも豊作を祈る農耕儀礼である「猪追い」の囃子ことばのよう。つまりは、この踊りばやしは南佐古の農耕儀礼の囃ことばが由来のようである。藩政時代、この佐古が阿波踊りの盛んな地であったとのエビデンスと言えるだろう。
臨江寺のお松大明神
標石を探して臨江寺辺りを彷徨っていると、「お松大明神」の小社があった。由来に「狸合戦で有名なお松さんは、南佐古一番町臨江寺境内に祀ってある。椿さんの長女で庚申新八の女房であるお竹さんの姉に当たり、津田の六右衛門の娘小芝姫の乳母であったが、狸合戦では金長方に味方して義弟の新八と力を合わせて奮闘した。
明治の始め頃、佐古の大安寺に住んでいた幸兵衛と言ふ人か、夜中に富田の方から帰るとき、丁度お松さんの祠の前を通りかかると、橋下で狸が頭から藻をかぶって美人に化けているので、幸兵衛さんはお松の奴今時分美人に化けて何をするのかと暫く見ていると、美人に化けたお松ほトボトボと近所の家へ入ったので、その跡をつけて行って、戸の隙間から家の中を覗いていると、背後から「モシモシあなたは妙な格好をして一体何をしているのですか」と背中を叩かれて、気がつくと化かされていたので、戸の隙間と思って、一生懸命に石垣の穴をのぞいていたという」とある。
狸合戦って何?Wikipediaにある説明をもとにまとめる;
阿波狸合戦(あわたぬきがっせん)は、江戸時代末期に阿波国(後の徳島県)で起きたというタヌキたちの大戦争の伝説。
物語の成立時期は江戸末期と見られており、文献としての記録は1910年(明治43年)に刊行された『四国奇談実説古狸合戦』が初出とされる。明治時代から戦中にかけては講談で、昭和初期には映画化されて人気を博す。
そのお話は;天保年間(1830年から1844年まで)、小松島の日開野(後の小松島市日開野町)で大和屋(やまとや)という染物屋を営む茂右衛門(もえもん)が助けた狸から物語がはじまる。
狸を助けた善行故か、大和屋の商売が繁盛。やがて、その狸は店の万吉に憑き、「自分は金長という狸。この付近の頭株で歳は206歳」と素性を語る。その後も万吉に憑いた金長は、店を訪れる人々の病気を治したり易を見たりと大活躍し、大評判となった。
しばらく後、まだタヌキとしての位を持たない金長は、津田(後の名東郡斎津村津田浦、現・徳島市津田町)にいるタヌキの総大将「六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出た。金長は修行で抜群の成績を収め、念願の正一位を得る寸前まで至った。
六右衛門は金長を手放すことを惜しみ、娘の婿養子として手元に留めようとした。しかし金長は茂右衛門への義理に加え、残虐な性格の六右衛門を嫌い、これを拒んだ。
これにより六右衛門は、金長がいずれ自分の敵になると考え、金長に夜襲を加えた。金長は一旦日開野へ逃れるも、その後反撃に転じ六右衛門たちとの戦いが繰り広げられた。この戦いは金長軍が勝り、六右衛門は金長に食い殺された。しかし金長も戦いで傷を負い、まもなく命を落とした。
茂右衛門は正一位を得る前に命を落とした金長を憐み、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向き、正一位を授かって来たという。

これがおおまかなお話。とはいうものの、何を言いたいの?よくわからない。Wikipediaをもとに、もう少し深堀り;「天保年間には、大和屋に助けられたタヌキが恩返しをしたという動物報恩譚があり、これを由来とする説がある」、と。だがこれだけでは狸合戦という物語全体からみて説得力に欠ける。
続いて、「この合戦における争い、悲恋、葛藤などは人間社会でも珍しくなかったため、阿波狸合戦の実態は、人間社会での出来事をタヌキに置き換えたものとも考えられている」とする。物語としてはこの説は説得力があるが、何か足りない。
更に続けて「徳島の修験道の霊山では別派同士の争いがあったこと、伝説を綴った古書『古狸金長義勇珍説席』で投石の場面があり、投石は中世以来の戦闘手段であったことから、太竜寺山と剣山との間で生じた修験道の争いがタヌキの伝説に仕立て上げられたのではないか、という説もある。この説においては、太龍寺の修験者が金長、剣山の修験者が六右衛門のモデルになったと考えられ、太竜寺山から北上しようとする勢力と剣山から南下しようとする勢力が衝突し、流派や拠点の異なる者同士の紛争に繋がった可能性が示唆されている」とする。
また、「徳島県では藍染めが盛んであり、その工程で砂を用いる。そして津田浦で採れる砂は藍染めに最適であった。よって、勝浦川の両岸地域で砂を巡る争いが起き、これが狸合戦の題材になったという説」がある。
さらに、「津田地区と小松島の間の漁業権の争いがモデルになったとの説もある。これらのように人間をモデルとする説が事実なら、どこか憎めないタヌキたちの姿は、実は愚かな人間たちの振る舞いの投影ということになる」とする。
そして最後に「なおタヌキの話の真偽はともかく、茂右衛門は実在の人物であり、映画『阿波狸合戦』も、講談本とともに茂右衛門の直系の子孫の家の口承をもとに制作されている。また万吉にタヌキが憑いた事件は、狸合戦とは別に実際に起きた事実であり、後の講談師がこの万吉の事件と狸合戦を結び付け、「阿波狸合戦」を創作したとする説もある」とWikipediaは締める。何となく由来の背景がわかった。

臨江寺東の標石で、遍路道トレースの本筋から離れたトピックで結構メモが多くなった。先に進む

寺町を進む
眉山東麓に廻ると寺が並ぶ寺町。Wikipediaには「蜂須賀家政は徳島城の建設に際し、寺院を勝瑞(現板野郡藍住町勝瑞)や旧地の尾張から移し、最初は寺島に集め、後に眉山山麓の当地に移転させた。その移転年代は不詳」とある。寺島は現在の徳島駅前辺り。徳島城は徳島駅の裏にある。
標高62mの徳島城の前面にあたる寺島から現在地寺町に移したのは、眉山が敵の手に落ちた場合に備えたもの、と言う。標高280mの眉山の山裾の寺に集結し防衛拠点とするとともに、攻撃の拠点ともしたのだろう。
このあたりも遍路道の目安となる標石は残らない。

大道
山裾を成り行きで南に進む。眉山ロープウエイ乗り場前を過ぎ、大道を進む。徳島市つくった遍路道の記事に、佐古から大道を進むとあるので、この辺りを遍路は抜けて行ったのだろう。
大道の地名は昭和15年(1940)になって出来たもの。戦前は徳島市内と神山方面を結ぶ大きな街道があったのが地名の由来だろうが、大道の地名は江戸の頃にも既にあったようだ。 現在も徳島市内から大道を抜け神山町に至る国道438号が走る。
大道の眉山寄りに伊賀町。伊賀者ゆかりの地であろうと推測。徳島市の資料には、出雲の堀尾家に仕えるもお家断絶、更に頼った讃岐の生駒家も改易、ために徳島藩に仕官を求めた伊賀者に由来すると。徒歩侍からはじめ、士分取り立てられ藩主のSPとしての御役目にもついた伊賀士の屋敷が置かれた地であった。元は伊賀士丁と呼ばれたが、昭和15年(1940)伊賀町となった。

忌部神社
大道・伊賀町を南に進むと眉山最東端、標高109mの勢見山に当たる。そこに忌部神社が建つ。
阿波の遍路歩きの道すがら忌部神社や忌部族にまつわる話に幾度か出合った。阿波の国が開かれるはるか昔にその歴史を遡る忌部神社。とは言うものの、この徳島市内にある忌部神社は明治の頃に建てられたもの。
何時だったか阿波の忌部市ゆかりの社を辿ったのだが、この徳島市内の忌部神社はパスした。その理由は、江戸から明治にかけて阿波の忌部神社の本家争いがあり、その妥協の産物として明治の頃、この地に忌部神社を建てたとの経緯故。
明治の頃に建てたものであれば往昔お遍路さんが訪ねたとも思えないが、とりあえず立ち寄ることに。長い石段を上り社殿にお参り。
忌部氏と忌部神社
遍路道を歩くと阿波の忌部氏ゆかりの地に出合う。頭の整理も兼ね、以下阿波忌部ゆかりの社を巡ったときのメモを再掲;忌部氏は天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」をその祖とする。
天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始したと伝わる。で、何故に、穀木(かじ)麻を植えることが製紙・製麻・紡織の諸業を創始であるのか?チェックすると、麻や穀(楮)は、木綿(もめん)が日本に伝わる以前の糸・布・紙の原料。そこからつくられた原料のことを「木綿(ゆう)」と呼ばれ、布を織り、神事の幣帛や紙垂などに使われたようである。
この「天日鷲命」、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝わる。天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも。
斯くの如き、当時の民の世界においてもその生活基盤技術の創始者であり、また神々の世界にあっても赫々たる実績を挙げた神故か、阿波の忌部氏の祖神である天日鷲命は、上述の如く天太玉命の率いる五柱のうちの第一の随神に挙げられる。そしてまた、その「第一に挙げられる神」の子孫故のことであろうか、阿波の麻殖(植)郡(おえ)郡に拠点を置く忌部氏については、単に地方の有力氏族というだけでなく、古代世界におけるその位置づけについて、諸説あるようだ。
通説では、忌部氏の本宮は奈良県樫原町忌部町にある天太玉神社(あめのふとたま)とされ、そこから各地方へ忌部氏が下って行ったとされる。それに対し、中央・地方の忌部は阿波忌部がその母体となっており、阿波忌部の全国進出とあわせて技術と文化の伝播をもたらした。つまりはヤマト王権も阿波忌部がその成立を支えた。こうした阿波忌部の起点となるのは麻植郡であるとするから、いうなれば麻植郡は日本そのものの発祥の地である、といったものである。
『古語拾遺』には、下総の地の名前の由来について「天富命、さらに沃壌を求め、阿波の斎部(いつきべ)を分かち。東国に率い行き、麻穀を播殖す。好麻の生ずるところ、故にこれを総国という。穀木(かじき;ゆうのき)の生ずるところ、故にこれを結城郡という。故語に麻を総というなり、今の上総下総の二国これなり」と言う。これをもって忌部氏の全国進出の一例とする。
阿波忌部氏が大和から下った一派なのか、阿波忌部氏がヤマトを支え日本をつくりあげた氏族なのか私のような門外漢にはわからない
斯くの如き論争はさておき、古代日本で重要な役割を果たした阿波忌部氏が祀る社が如何なるものかと社をチェック。と、徳島市内と吉野川市、そして美馬郡つるぎ町にそれらしき社が見つかった。
名称は忌部神社であったり、種穂神社であったり、御所(五所)神社であったりと、さまざまだがこれらの社の内、徳島市内の社は除外することにした。その理由は、明治になり、忌部神社の本家本元(延喜式内社)を巡る争いが激しく、その妥協の産物として造られた社が徳島市内の社である、ということから。ということで、阿波の忌部神社は吉野川市にある忌部神社(山川町忌部山)と種穂神社山川町川田忌部山)の2社と美馬郡つるぎ町の忌部(御所)神社の合計3社を辿ることにした。
これら3社、明治に本家本元(延喜式内社)を争った社と言うだけでなく、江戸の頃にも結構激しい本家本元争いを展開している。その主因は由緒正しきと言った正当性だけでなく、その正当性故に明治は国家から「補助金」を、江戸は藩から「社地」を得られるといった経済的メリットもあった、と言う。

意図したわけではないのだけれど、行かず仕舞いであった忌部神社にも偶々出合い、かつての城下町を後にして二軒屋を南に下る。

二軒屋の国道438・県道136号重複区間を南に下る
忌部神社から先は国道438・県道136号重複区間となっている二軒屋を進む。ほどなく国道438号は眉山の南側にと分かれ、園瀬川に沿って神山町へと向かう。
遍路道はそのまま県道136号を南下する。この県道136号は往昔の土佐街道筋であることを、メモの段階で知った。
二軒屋
本メモのイントロのところで、二軒屋を徳島城下の南端、城下と郷村の境とメモした。徳島市の資料に拠れば、「城下町徳島の南の玄関口にあったのが二軒屋町。阿波五街道と呼ばれた官道の一つ、土佐街道沿いに、江戸時代中期に成立した新興の町人地だ。
江戸時代中期以降、城下町は拡大の一途を辿り、そこで生まれたのが、「郷町」と呼ばれた新興の町人地。郷町(ごうまち)とは、郡(こおり)町とも呼ばれ、城下の本町(ほんまち)に対して郡奉行(のち郡代)管轄下で店舗を構え商業を許され町を形成した場所だった。
二軒屋町の町名は、その名のとおり、古くは人家が2軒しかなかったからという。しかし、江戸時代前期こそ人家が少なかったが、時代が下るにつれて家数が飛躍的に増え、江戸時代後期には230軒ほどになった。
町場化の進展に伴い、元禄6年(1693)には町方に編入され町奉行支配となっている。堂々たる町になっていた二軒屋は、元禄10年には再び村方に戻されるも、その後も順調に発展を遂げ、内町や新町、福島町、助任町、佐古町といった本町を衰微させるほどであったという。そして寛政元年(1789)以降は町奉行支配下に置かれることになる。
とはいえ、郷町は本町とは異なり、もとは村であったので、土地は郡代支配で依然として「村」、家屋と住民は町奉行支配の「町」となっている。如何にも城下町と郷村の境、その名も両者を足して二で割った「郷町」という二軒屋の歴史が面白く、遍路トレースの本筋からは離れるがメモを残した。
因みに「郷町」は城下町徳島近辺では、二軒屋の他、淡路街道沿いの助任郷町、伊予街道沿いの佐古郷町、福島築地(徳島城の東に福島の名がある)にできた福島郷町があったとのことである。

県道136・209号分岐点に標石
忌部神社から先は県道136号を進む。冷田(つめた)川に架かる冷田橋、園瀬川に架かる法花大橋を渡るとその先で県道136号・土佐街道はふたつに分かれ、直進は県道206号となるが遍路道は県道136号に沿って南東に方向を変える。
この県道の分岐点の直ぐ南、県道209号から県道136号に抜ける道角に標石が立つ。手印と共に「扁ん路道 森神社」と刻まれる。扁ん路道は県道136号・土佐街道方向を指す。

森神社
この分岐点から南西、徳島市方上町森谷にある。Wikipediaには「平安時代、覚鑁が創建したものと思われる。江戸時代に勧進され、明治年間に太発行して「方上の権現さん」と親しまれ、その名は県内はもちろん紀州にまで轟いたという。
境内には名水と評価される湧水があり、とくしま市民遺産に選定されている」とあった。

県道136号からの分岐点にお堂と標石
南東に向かう県道136号・土佐街道筋は犬山踏切で牟岐線を越え、西須賀で南に向きを変える。その先、牟岐線地蔵橋駅の東で遍路道は県道136号・土佐街道を離れ勝浦川方向へ向かう。
その分岐点角に小さなお堂と標石。標石は照蓮の四国千躰大師標石だ。大師坐像と「四国中千躰大師」の文字が読める。
土佐街道から離れる
今回歩いた遍路道は、ここで県道136号・土佐街道筋を離れ、徳島市の遍路資料にある「蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」ルートに入る。
散歩当日は県道136号が往昔の土佐街道であったことも知らなかったため、何も考えず土佐街道からわかれたのだが、土佐街道を進み、勝浦川を前原の渡し(これもメモの段階でわかったこと)で越え、その先も県道136号・土佐街道を恩山寺に進む遍路道もあったのだろうか。
分岐点の標石が照蓮の四国千躰大師標石であり、遍路道の方向を示すことがないため、ちょっとモヤモヤが残る。

地蔵橋東詰めにお堂と標石
その先、多々羅川(大松川?)に架かる地蔵橋の東詰めにふたつの祠。お堂傍に「三圀伝来阿弥陀」と刻まれる石碑。右の石造りの祠には坐像仏。左手、橋側のセメント造りの祠には「右 遍路道」と刻まれた舟形地蔵丁石が祀られる。
またその道の反対側にも3基の標石。下半分が埋まった照蓮の四国千躰大師標石、青石の自然石の標石、上部が破損した比較的大きな標石がある。崩し文字は読めない。 分岐点の土佐街道分岐点の遍路道云々は別にして、このルートが往昔の遍路道であったことはこれら標石をそのエビデンスとする。

勝浦川左岸手前に石仏
道なりに進み国道55号を交差し、更に南東に歩くと比較的大きな車道に合流。右折し車道を少し南に進むと左に分岐する道があり、その分岐点に小さなお堂が建つ。遍路道は左に分岐する道であろうと、南東へと進むと勝浦川の土手にあたる。
勝浦川土手の手前、道の右手にコンクリートブロック造りの祠があり、そこに2基の石仏と舟形地蔵が並ぶ。
小松島市江田町
この土手手前の左岸一帯は徳島市を離れ小松島市江田町になっている。基本小松島市は勝浦川右岸であり、その右岸にも江田町がある。町域が勝浦川によって分断されている。
なんとなく不自然。通常行政域は川など自然の地形で区切られる。チェックする;勝浦川の西を流れる大松川、多々羅川はかつての勝浦川の流路とも言う。自由蛇行した勝浦川はこの辺り一帯に大きな三角州を形成し湿地帯となっていたようだ。であるとすれば、護岸整備が実施される以前の勝浦川旧流路による行政区分の名残だろうか。単なる妄想。根拠なし。 因みに前述地蔵橋が架かる川が大松川か多々羅川か流路だけでははっきりしなかった。実際多々羅川と大松川は合流、分流を重ねているようだ。

潜水橋で勝浦川を渡る
土手に上り勝浦川を見る。と、土手下から対岸に潜水橋(江田橋)がある。かつて「江田の渡し」を遍路が渡ったとするが、お遍路さんはこの辺りで勝浦川を渡ったのだろう。






四国千躰大師標石
勝浦川右岸の江田町を進む。道の右手、民家前に標石。大師坐像と「四国中千躰大師」の文字が読める。照蓮の四国千躰大師標石。この道筋が遍路道であったことを確認。 道なりに進み県道120号に出る。合流点は道路整備のためか五差路となり少々ややこしいが、遍路道は県道120号を進む。



県道120号を右折し南下
県道120号を進み、道が東へと向かって程なく、牟岐線中田駅の一筋東の道を右折し南に下る。遍路道との確証はないのだが、「江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」とあるため、成り行きで右折した。 直ぐ水路があり、左手に小さなお堂。その先道の左手に自然石の青石板状標石。手印と共に「十八番是ヨリ三十丁」と刻まれる。このルートが遍路道のオンコースであった。

「江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」遍路道
これもメモの段階で気づいたことだが、何故に地蔵橋の傍で県道136号・土佐街道筋を離れ、東へと大きく廻り込むのだろう。チェックすると、この中田から江田の渡しへと続く遍路道は、小松島の湊で四国に上陸したお遍路さんが徳島城下へと辿る遍路道であったよう。何故土佐街道を南下しなかったのか依然不明だが、遍路道を歩いたことは間違いなかった。

藤樹寺参道口に標石
南に進み長手踏切で牟岐線を渡る。その先に神田瀬川。この小さな流れも往昔の勝浦川の流路跡とのこと。勝浦川の形成する三角州の低地に水路が見え、源流点は芝生川(後述)と同じく田浦の清浄ヶ淵とあるが、なんとなく勝浦川伏流水の湧水地といったところにある。如何にも乱流した川の流路跡といった趣の川である。
この乱流の川筋を見るにつけ、県道136号・土佐街道筋のほうが地形としては安定しているように思えるのだが、土佐街道の西にはかつての勝浦川の流路であった多々羅川、大松川が流れているわけで、どうしたところでこの辺りは勝浦川水系のデルタ、低湿地ではあったのだろうから、その時その時の状況に応じ、お遍路さんもルートを変えて歩いたということかもしれない。

神田瀬川を越え先に進むと、道の左手に倒れた標石。「左*」といった文字が読める。 遍路道は先に進むが、ここを右折すると藤樹寺参道。参道といっても普通の野道だが、何気なく右に折れちょっと立ち寄り。
藤樹寺
古き趣のある山門を潜り境内に。本堂にお参り。本堂横に「大鷹、小鷹、熊鷹大明神」と書かれたお堂。案内には「藤樹寺境内にいづれも鎮座している。大鷹狸は金長狸の身代わりとなって戦死し、小鷹狸は阿波の狸合戦で晴れて父の仇を討ち二代目金長狸となり小松島浦に善政を施したという。
農家魚家を守護し、交通安全厄除に霊験あらたかといわれている 阿波狸奉賛会」とあった。 当日は何のことやらと思いながら呼んだのだが、メモに段階で上述臨江寺のお松大明神で阿波狸合戦のことを整理したので、理解できた。
説明にはない「熊鷹」は大鷹の子、といった記事もあるが、既に訪れた井戸寺にも「熊鷹大明神」が祀られていた。そのメモには、熊鷹大明神は伏見稲荷などにも祀られ、稲荷信仰のコンテキストの中に見られる。この熊鷹が狸の子か、狐を眷属とする稲荷社との関連なのか不詳である、とメモしたが、それ以上の深堀は未だできない。
この辺り小松島市日開野。上述阿波狸合戦の舞台であった。




小松川中学南・県道136号合流点の標石
左手に小松島中学校を見て先に進むと、右手から県道136号・土佐街道が合わさる。その角に少し横広の標石。「四国第十八番 是ヨリ十三丁 大正十三年」といった文字が刻まれる。
土佐街道との合流点
ここが土佐街道との合流点であることはメモの段階で分かったこと。県道136号が往昔の意土佐街道であることがわかったため、上述イントロ部でのあれこれの疑問が起きた地でもある。

茂兵衛道標(215度目)と石造物群
県道136号が国道55号と交差する少し手前に大きな石造物。「大乗妙典」と刻まれる。その前に茂兵衛道標。「井戸寺 恩山寺 小松島 明治四十年」などの文字が刻まれた茂兵衛215度目の巡礼時のものである。
その茂兵衛道標脇に案内があり、「宝剣塔 ここは昔の接待場 藤のお薬師」の「文字と矢印で弘法大師お杖の水」とあった。
「宝剣塔 ここは昔の接待場 藤のお薬師」とはこの場のことだろう。小松島市の遍路資料にある「加々ませの接待所」ではないだろうか。「加々ませ」はこの辺りの地名。由来は不詳。
弘法大師お杖の水は北を指す。ちょっと立ち寄る。
弘法大師お杖の水
少し道を少し引き返し、東への道に折れるとほどなくお杖の水。弘法大師御杖の水と刻まれた大師像が祀られる。横にあった案内には、お大師さんが塩気の多い水に地元人の難渋を想い御杖をもって真水の湧き出る泉源を開かれた、と。続けて、この地を「接待場」と呼びお遍路さんの乾きを潤した、といったことが刻まれていた。
大師像の裏手には如何にもポンプ施設といったものがある。現在はポップアップしているのだろうか。
小松島の湊から恩山寺への遍路道
これもメモの段階でわかったことだが、四国遍路へと小松島の湊に上陸し恩山寺に向かう遍路道はこの地で県道136号・土佐街道筋に合流したようである。
地蔵越の遍路道
眉山の地蔵越からの遍路道は、あずり越・県道209号ルートや園瀬川・県道136・県道209号経由ルートなどバリエーションはあるものの、勝浦川を前原の渡し(現在は勝浦川橋)越えた後は県道136号・土佐街道を下り、この地で今回私が辿った江田・中田経由の遍路道に合流し県道136号・土佐街道を進むことになる。これもメモの段階でわかったこと。

県道136号・土佐街道に青石自然石標石
国道55号を斜めに横切った県道136号・土佐街道は直ぐ芝生川(しぼうかわ)を渡る。県道をしばらく進むと道の右手に青石の自然石標石。
手印と共に、「四国第十八番恩山寺江八丁 明治十」といった文字が読める。
芝生川
芝生川も上述神田瀬川と同じく勝浦川の旧流路。源流も神田瀬川と同じく田浦の清浄ヶ淵と言う。

千羽ヶ嶽
県道135号・土佐街道は山裾に向かう。バス道ではあるが結構狭い。山裾に沿って進むと道の右手の岩壁に「千羽ヶ嶽のお豊とお君の墓」とある。崖の下部の窪みにお供えの花の番台、その傍に石仏が並ぶ。お豊とお君を供養するものだろうか。

お豊とお君
お豊とお君って?チェックする;お豊六歳、お君三歳。貧しい家の母はお豊の継母。生活苦のため母親はお豊をこの岩壁から落とし亡きなきものとせんと図る。が、ひとりだけでは不自然と、実子のお君は布団にくるんで助かるようにして落とすことに。
お豊を突き落とすが崖の途中に引っかかり一命をとりとめる。一方、お君を落とすことを躊躇する。と、鬼のようなものが現れ、母親からお君を奪い取り崖から落とす。打ちどころが悪くお君は亡くなる。
非を悔いた母はその後お豊かを大切に育てたが、そのお豊も他界。ふたりをあわれんだ村人が、お豊が引っ掛かった崖の途中に地蔵を祀り、ふたりを供養した。
いつものことだが言い伝えは、考えれば考えるほど、何を言いたいことは分かり難い。それとも肝心なところが抜けているのだろうか。

「義経上陸の地」碑
千羽ヶ嶽と呼ばれる岸壁の直ぐ先、崖面前に「義経上陸の地」の碑。碑文には「源平合戦の元暦二年(1185)二月十八日、義経の軍勢は讃岐(香川)の屋島に逃れた平家を討つため、折からの暴風雨に乗じて摂津(大阪)の渡辺の浦より船を進めこの地に上陸した」とある。 『平家物語』には、「十六日、渡辺、福島を出でて、十七日に阿波の勝浦に着きにけり」とある。上陸地や進軍路にはあれこれあるようだ。



恩山寺標石と参道口の茂兵衛道標(181度目)
義経上陸の地の碑の直ぐ先に古い「恩山寺」の寺標石が立つ。その直ぐ先が恩山寺の車道参道。参道口に茂兵衛道標。「井戸寺 恩山寺 徳島 すぐ立江 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛181度目巡礼時のもの。





第十八番札所恩山寺

旧参道を山門へ
舗装された参道を進むと右に逸れる道がある。旧参道はこちら。土径の道を進み第十八番札所恩山寺の山門に至る。古い趣の山門。結構、いい。




恩山寺山門
山門左手には車道参道が走る。山門を潜ると車道参道の右手に法面上を進む土径がある。石仏も見える。そこが元の参道であろうと土径に入る。




寺標石
不動明王像や舟形石仏を見遣りながら歩く。舟形石仏に刻まれる像も不動明王のように思える。ほどなく石段。その前に「本堂江二丁 嘉永」の文字が刻まれる標石。



お堂と標石
石段を上ると右手にお堂と標石。お堂右手に立つ標石には「二丁 文政」といった文字が刻まれる。道の右手に標石。円形の窪みに大師坐像。「四国十八番恩山寺 向江立江寺道 従是三十一丁 左井戸寺道 是ヨリ五里 寛政十二」といった文字が読める。

石仏群の中に丁石・四国千躰大師標石
その先、右手に石造仏群。中に「一丁」と刻まれる丁石も立つ。
更に照蓮の四国千躰大師標石。手印は左を指す。立江寺道方向を指すのかと思うが、左手は高い法面。左に進む道はない。場所が移された?標石の直ぐ先で堂宇前の広いスペースに出る。そこに「弘法大師御母公 玉依御前ゆかりの寺」の石碑が立っていた。


石段を上ると正面に本堂。本堂前には伊藤萬蔵寄進の香台があった。左手に大師堂。大師堂横に御母公堂。「大師御母公剃髪所」の石碑が立つ。境内には釈迦の十大弟子像、地蔵菩薩坐像と千体地蔵立像が祀られる地蔵堂も建っていた。
Wikipediaには「徳島県小松島市田野町にある高野山真言宗の寺院。母養山(ぼようざん)宝樹院(ほうじゅいん)と号する。本尊は薬師如来。
寺伝によれば聖武天皇の勅願により行基が開基し、当初は「大日山福生院密厳寺」と号する女人禁制の道場で、「花折り坂」より上は女性の立ち入りが許されなかった。
弘仁5年(814年)、空海(弘法大師)が本寺で修行していた際、訪問してきた母(玉依御前)のために、仁王門の辺りに護摩壇を築き17日間の修法を行い女人解禁を成就し、母を迎え入れた。玉依御前は本寺で出家・剃髪しその髪を奉納したことから、「玉依御前の剃髪所」と云われていて空海が自身の像を刻み現在の寺名に改めたとされる(母養山 恩山寺)」。 「弘法大師御母公 玉依御前ゆかりの寺」の石碑、御母公堂の建つ所以はこういうことであった。
「天正年間(1573年‐1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失したが、江戸時代に入って徳島藩主蜂須賀氏の支援を受けて復興、文政年間(1804年‐1830年)に現在の諸堂が建立された」とある。

これで今回の遍路道のメモを終える。




小松島市の遍路道ページに「恩山寺道は、17番井戸寺(徳島県国府町)から18番恩山寺(小松島市田野町)を結ぶ遍路道です。総距離は18km。井戸寺から八幡街道、伊予街道を通り、徳島城下町経由で土佐街道に入るルートと眉山を左手に見ながら地蔵越えやあずり越えなどの峠を経由するルートに分かれていました。徳島市の地蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由するルートも存在するなど、その時代や条件に応じて遍路道として利用されていたようです」とある。
今回のルートは「井戸寺から八幡街道、伊予街道を通り、徳島城下町経由で土佐街道に入り」、「徳島市の地蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由するルートを辿ったようだ。 イントロの如く「眉山を左手に見ながら地蔵越えやあずり越えなどの峠を経由する」ルート はメモの段階ではじめてわかった。歩く前にわかっておれば峠道大好きな我が身は迷うことなく地蔵越・あずり越を辿ったであろうが、今となっては後の祭り。いつかこのルートを居歩いてみたいとの思いもあり地蔵越・あずり越のルートも掲載する。実際に辿ったわけではないので確証はないが、参考にして頂ければと思う。

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