今回から土佐の遍路道を歩く。本日のルートは甲浦から室戸岬突端部にある第二十四番札所最御崎寺まで、その距離おおよそ30キロというところだろうか。
現在は山地が海に落ち込むような海岸線を国道が走る。江戸の頃、道もなく波しぶきを浴びながら、荒磯の岩を飛び跳ねて進んだであろう難路の名残は既になく、単調ではあるが雄大な大洋を見遣りながらの快適な遍路道であった。
遍路道には標石がほとんど見当たらない。道がないわけであるから、当然といえば当然であるが、そもそも山地と海に挟まれた荒磯・浜を進むわけで、標石の必要もないだろう。というわけで今回は標石を目安の旧遍路道トレースの要はない。その替わりといってはなんだが、山地が海にストンと落ち込むような室戸岬東海岸や室戸岬の乱礁部の地形・地質の成り立ちにフックが掛る。とはいうものの、この領域は全くの門外漢。好奇心旺盛のリタイア・ビジネスマンの戯言メモとお許しいただければと思う。
本日のルート;甲浦>東俣番所跡> 熊野神社 >江藤新平の遭厄記念碑>甲浦坂トンネル>野根大師〈明徳寺)>白小石の六部堂と里神社>野根の標石>国道493号に合流>地蔵堂(庚申堂)>伏越の鼻>ゴロゴロ休憩所>法海上人堂>飛び石地蔵(水尻仏海標石)>入木(いるき)の仏海庵>佐喜浜>鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩>椎名>日沖の大礁・大碆(おおばえ)>厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)>三津漁港>青年大師像>御蔵洞>乱礁遊歩道>(ビシャゴ岩>弘法大師行水の池>エボシ岩>土佐日記御崎の泊碑>弘法大師目洗いの池)>国道55号に戻る>最御崎寺への旧遍路道>大師一夜建立の岩屋>捻岩>最御崎寺・室戸スカイライン分岐>第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)
甲浦
宍喰の町より海に突き出た半島丘陵部を抜けてきた県道309号は、丘陵部を穿つ水床トンネルを抜けて来た国道合流と合流。その直ぐ先が徳島と高知の県境となる。
遍路道は県境から右に逸れる道に入り甲浦の町へと進む。
丘陵部を抜けると甲浦の内港。内港はふたつにわかれ、北に入り込んだ内港を東俣と呼ぶ。藩政時代は土佐藩の船蔵や船大工小屋があったようだ。東俣を跨ぐ橋を渡り、港の最奥部に東俣番所跡があるとのこと、ちょっと立ち寄り。
●東俣番所跡
●熊野神社

〇甲浦の由来
この社の森は沖からの目安となったのか、「甲ヶ山」と呼ばれる。甲ヶ山のある浦ゆえだろうか、この地は昔より甲ヶ浦(かぶとがうら)と呼ばれていたようだ。甲のカタチに似た甲貝が採れた浦との設もある。
「かぶとがうら」が「こうのうら」となったのは、甲ヶ浦(かぶとがうら)>甲の浦(こうのうら)>甲浦(かんのうら)と転化した説、熊野神社に那智の熊野権現十二社のひとつが飛来したとの縁起より、「神が来た浦」>かみのうら>かんのうら、となったとの説などあるようだ。
●西股

西股南の丘陵には藩政以前、この地に割拠した豪族の城跡が残るとのことである。甲浦の湊口には葛島、二子島、竹ヶ島(徳島県)が並び、沖の波浪を遮り、古くからの天然の良港。土佐と上方を結ぶ船運の要衝の地であったようだ。
〇参勤交代の道
藩政時代、土佐藩の参勤交代の道は土佐湾に面する奈半利から室戸岬への海岸沿いの野根に抜ける35㎞の野根山街道を進み甲浦から海路を利用した。が、そのルートは海任せ・天候任せ。順調に進めば20日ほどで江戸に着いたというが、潮待ちなどにより50日ほどかかることもあった、と言う。
江戸到着予定日の遅参は「一大事」であり、遅参により改易の沙汰もあり得るといったものであり、遅参の怖れある場合は逐次幕府に報告をしなければならない。そんな面倒なことをやってられない、と思ったのか、海路の安定した瀬戸内の湊への道が拓かれた。その道は土佐北街道と呼ばれる。
高知の南国市から愛媛県の四国中央市に抜ける山越えの道である。享保3年(1718)の頃、古代の官道である南海道跡を基本に整備された道その道を5回に分けて歩いた(ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ)。そういえば、一部抜けている箇所があることを想いだした。そのうちに歩かなけらば。
●江藤新平の遭厄記念碑
佐賀の乱(明治7年)により政敵とみなされ、高知県に入り逃避行を続けたが、明治7年3月29日ここ甲浦の地で捕縛された。大正6年、「江藤新平君遭厄之地」石碑が甲浦青年団により建立されている」と記される。
明治政府に対する不平士族の乱に与し逆賊となった江藤新平であるが、大正5年(1916)には西郷隆盛らとともに名誉が回復され、正四位が贈位されている。記念碑建立はその状況を踏まえてのものだろう。江藤新平のあれこれは司馬遼太郎さんの『歳月』に詳しい。
元越番所跡
国道と逆方向、小池川橋を渡り右折し甲浦駅の高架を抜け三差路を右に。元越番所跡は耕地が広がるだけで特に案内もない。その先、道が山裾に当たるところに「元越番所跡」の碑が立っていた。

番所跡とその記念碑が異なる場所に立つ理由は不明。
◎土佐藩の遍路政策
藩政時代、土佐藩の遍路政策は他国に比して厳しいものであったよう。遍路はこの甲浦で土佐に入り宿毛で土佐を出るか、その逆だけが入出国箇所として認められた。更に在所で発行された往来手形(身分証明書)は必携MUST。入国に際しては甲浦〈宿毛)で添手形(通行許可書)を受け取り、出国の際に返却する必要があった。
真念も『四国遍路路道指南』に、「かんの浦 これより土佐領。入口に番所有、土佐一こくの御かきかえ出る」と記し、宿毛の番所のある大ふか原村で「大ふか原村 番所有、土佐通路の切手ハこれへわたす」と書く。
この通行許可書の発行には厳しい制限があり、往来手形と共に、渡船証、所持金が求められ、老人や子供は入国を許されなかった。
通行証明書が発行されても、多くの制限があり、定められた遍路道だけを歩くこと、遅滞なく歩くこと、脇道に入り込む者を取り締まるといった政策がとられていたようである。
甲浦坂トンネル
国道55号を下ると甲浦トンネル。長さ150m、昭和43年(1968)完成。旧道はトンネル手前の道を右に逸れ、大阪と呼ばれた坂を上り、トンネルの上辺りから道を左に逸れて細い土径を進みトンネル南口辺りに下りるといった古い記事がある。真念さんも「四国遍路道指南」に「甲浦坂:という大阪を越え生見へと坂を下ったと書く。
記事に従い坂を上る。特段の遍路道案内もなく、トンネル真上辺りのミカン畑の境を少し下ってみたのだが行き止まり。国道へと下る土径が見つからず、結局甲浦トンネルを抜けて生見に入る。
野根大師〈明徳寺)
山門を上がると正面に本堂、横に通夜堂。本堂右横を抜けると「弘法の滝」がある。こじんまりとしたお寺さまである。
Wikipediaには、「明徳寺(みょうとくじ)は高知県安芸郡東洋町に所在する真言宗豊山派の寺院。山号は金剛山。本尊は弘法大師。別名、東洋大師。四国八十八箇所霊場番外札所。
この寺院には通夜堂があり巡礼者は宿泊が可能である。今では寺院の前を国道55号が室戸岬まで延びている。しかし、国道が開通するまでは道なき海岸を通って室戸に向かうしかなかった。そこで、満潮時はこの寺院で一休みして室戸へと向かったといわれる。このため、この寺院で休憩することを「野根の昼寝」と呼んだ」とあった。

貞享4年(1687)の真念の『四国遍路道指南』には「のねうら 入口宮立有 并大師堂」(野根浦の入り口宮(野根八幡)が建ち、大師堂が並び合わさる(并)、とある。寛永18年(1641年)には既に番外札所としてあったとの記録もあり、その頃にはお遍路さんが立ち寄ったお寺となっていたのだろう。ということは観音寺が大師堂とみなされていた、ということか。
●東洋大師
因みに、野根への国道に「東洋大師」の案内がいくつも立っていた。看板を見ながら、「なんのこと?」と思いながら道を辿ったのだが、この案内でやっとわかった。昭和34年(1959)甲t浦町と野根町が合併してできたのが東洋町ということであり、「東洋」という名には歴史的意味はなく、対等合併ゆえの妥協の産物であるとすれば、「東洋大師」と称するようになったのは、それ以降ということだろう。
白小石の六部堂と里神社

その斜め前、道の左手に六部堂があった。興味を惹かれあれこれチェックすると、この六部堂は白小石の六部堂と称される。
寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会(九皋主人写 河内屋武兵衛蔵本)』には「観音寺(松原に有) 六十六部廻国修行者石塔(武州深川人宝暦十年此所二て病死 観音寺の前 松原二有 人々此墓に願望をかけれバ成就致スといゝ 日々参詣不絶」とある。
それはそれでいいのだが、白小石は「城恋し」から、と東洋町の記事にあった。 「天正3年7月、長宗我部兵の野根城館奇襲により野根一族は阿波国へ落ちのびていった。その途中、野根国長は燃上する城を振り返って「ああ、城恋し」と嘆いたという。それで白小石(城恋し>白小石)という地名になった」と。ブロック塀に囲まれた六部堂の左の広場奥に誠に小さな祠が祀られる。里神社というこの小祠は「野根氏や安芸氏をはじめ、安芸郡下惟宗一族の始祖とされる曽我赤兄を祭っている(東洋町の記事)」と。
野根の標石
●野根
野根は戦国時代、天正3年(1575)長宗我部元親に滅ぼされるまで野根・甲浦を支配した野根氏の本貫地。元は野根川を少し上った内田の地に城郭を築いたが、天文年間に野根川下流域の中村地に「野根城館」を築き、そこを本拠とした。上述「城恋し」は長宗我部元親軍の奇襲攻撃をうけ戦わずして甲浦へ逃げ、さらに阿波国へと落ちのびていった野根一族が野根城館を想ってのことではあろう。
国道493号に合流
遍路道は直進し野根川に架かる「みなとくぼ橋」を渡る。昭和6年(1931)建設の橋は現在人道橋となっている。
●野根山街道
Wikipediaには「野根山街道は奈良時代養老年間に整備された官道で、奈良と土佐国府を結ぶ街道「南海道」の一部である。高知県安芸郡奈半利町と東洋町野根を尾根伝いに結ぶ行程約36 km、高低差約1,000 m の街道で、古くは『土佐日記』の著者紀貫之の入国の道として、また、藩政時代には参勤交代の通行路として使用された。現在は「四国のみち」環境省ルートとして整備されている」とあった。
地蔵堂(庚申堂)
●仏海上人
伊予北条の生まれ。全国の霊場を巡り木食の境地に入る。四国霊場巡礼二十四度。三千体の地蔵尊を刻したと伝わる。
●渡し場
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野根浦の船場跡 |
〇徳右衛門道標
徳右衛門道標?今となっては再度のことながら後の祭りではあるが、チェック。東洋町の写真にも、徳右衛門道標の一覧表にも確かに徳右衛門道標が掲載されているのだが、GOOGLE Street VIEWで渡し場後をチェックしてもあるはずの道標が写っていない。どこかに移されたのだろか。
伏越の鼻


意味は文字通り読めば「伏越を通って行けばよかったのだけど(行かましものを)、様子を窺っているうちに、波の間合いが計れず(まもらふ)濡らされてしまった」ということだが、恋の告白との意とする記事もあった。磯に打ち寄せる波が激しければ激しいほど浪への畏れはいや増す。それはちょうど自分の恋人に対する恋しさと恐れとの混じり合った心と同じであり、『恋の告白をためらっているいる間に周囲の事情が悪くなり、結局はその恋に破れてしまった嘆きを全体として表している』とする(私の万葉集ノート NO7 著名人それぞれの万葉集談義(日本の名随筆、万葉二より))。 石碑の裏には東洋町が万葉集に詠われることを誇りとする、とも刻まれるが、この伏越が東洋町のこの地と比定はされていないようではあるが、文字通りの解釈からすればこの先に待ち受ける道なき荒磯の難所を想起させ、此の地にぴったりの歌のようには思える。
●伏越番所跡
歌碑の国道を隔てた山側、すぐ上に伏越番所があったようだ。東洋町の記事には「伏越ノ鼻、国道のすぐ上にある。江戸時代、甲浦東股番所で旅人は通行手形(自国発行の身分証明書)の確認を受け、土佐一国の通行許可証を発行してもらい、土佐路に入る。野根からは、一般の旅人は野根山街道を通るが、四国遍路は海岸線を通り、24番札所室戸最御崎寺をめざす。このとき伏越番所で通行許可証に裏書きをしてもらう。淀ケ磯はまともな道路もなく、波が荒いと通れない。そんな時、この番所役人が門を閉じて旅人の通行を禁止する」とある。
真念は『四国遍路道指南』に「こゝにてかんの浦切手は裏書いつる。ふしごえ坂、是より一里よは、とびいしとて、なん所海辺也」と書く。
あれこれチェックしたが伏越番所の写真は確認できなかった。
〇伏越
「フシ」は柴の古語であり、柴山(フシヤマ)・伏原(フシハラ)といわれるように、柴は山野に生える雑木の総称である(民俗地名語彙辞典)。ここ野根は紀州、日向とともに日本三大備長炭の産地である。土佐備長炭の原木はウバメガシであることから、柴山はまさにウバメガシの生い茂る山と云えよう。 「フシ」は「伏」でなく「柴(フシ=ウバメガシ)」と理解したい;との記事があった。
ゴロゴロ休憩所
多用させて頂く東洋町の記事には「ゴロゴロの浜(とび石はね石ごろごろ石) 丸い石ばかりのゴロゴロ浜は「土佐の音100選」の一つ。波が打ち寄せ引き返すたびに丸石が転がってゴロゴロと鳴る。四国遍路がゴロゴロ石を懐に入れると弘法大師のご利益を受けるとされる。淀ケ磯は俗に「とび石はね石ごろごろ石」という。岩から岩へ飛び移り、石から石へ跳ねながら、ゴロゴロ石で転ばぬよう、荒波よせる遍路道を通ったのであった」とある。
●室戸岬東岸の地質
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国土地理院・地質図 |
高岡漁港から室戸岬にかけては付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)、火成岩斑レイ岩(後述;地質図の赤紫部)、付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)となっている。
基本的には海底に堆積した砂岩・泥岩がプレートの沈み込み時などに生じた地震活動によって隆起した砂岩・泥岩層にマグマ貫入により生じた斑レイ岩や玄武岩によって海岸線が構成されているようだ。
〇山地が崖となって海に落ちる
で、何故に山がすとんと海に落ち込むような姿になっているのだろう?以下は地質についての素養がないため妄想。通常大地が形成されるときは地震などにより隆起と沈降を繰り返す。東海岸は海底活断層が海岸に沿って延びており、この断層の運動によって陸側が隆起し、断層崖が形成されている、とする。
それはそれでいいのだけれど、河岸段丘ではないけれど、隆起した大地には海成段丘が形成されることも多い。室戸岬西岸の土佐湾側は東岸と一変した発達した海成段丘が見られる。 この違いって?室戸ジオパークの記事に「室戸岬東海岸には沖合2,3キロのところに1000mまで落ち込む崖がある。一方、西海岸の土佐湾では沖合7キロまで100mより浅い海が続く」とあった。 浅い海であれば隆起した大地が台地として残る余地はあるけれど、一気に1000mまで落ち込むような崖に台地ができる余地はないように思える。隆起が繰り返されたとしても、台地ができることなく海底崖にスベリ落ちてしまうように思う。再度繰り返すが、まったくの妄想。なんら根拠なし。
法海上人堂
「淀ケ磯橋と御崎(オンサキ)との真中あたり、昔ここに木賃宿があった。この木賃宿に法海上人という廻国行者が泊まった。ちょうどその夜は野根の神祭りで、宿の家族達は野根へ招かれて法海だけが宿に残った。翌朝、家族が帰ると米ビツの中がカラッポになっていた。疑いは法海にかかったが、彼は知らぬ存ぜぬで水掛け論になった。ついに法海は「無実の証しに亭に入る」と言って裏山に穴を掘り、生きながら墓に入り即身仏になってしまった。
法海さんは大漁の神様で、昔は室戸岬、佐喜浜、野根方面の漁師や漁協がお参りにきて、たまにはブリ一本が奉納される時もあったという。法海上人のような廻国行者を六部様とか六十六部とも言う。それで、ここの浜を「六部の浜」と呼んでいる(「東洋町の記事」より)」」 とある。
お堂の宝篋印塔は法海上人の墓石とのこと。
飛び石地蔵(水尻仏海標石)
国道はその先で少し開けてた平地となっている入木に入る。
●江戸期の遍路道
現在は快適な海沿いの道を遍路するが、道路整備される以前の遍路道は道なき荒磯を辿る難路であったよう。波打ち際を荒磯の岩伝いに歩く危険な難路であった。『梁塵秘抄』には「衣は何時となし潮垂れて、四国の辺道をぞ常に踏む」とある。
伏越ノ鼻より入木までの四里を「淀ヶ磯」と呼ぶが、その間の遍路道を「ゴロゴロ休憩所」とあったように、「ゴロゴ石」と波打つ岩音を行きながら岩を飛び、跳ねて先に進む遍路第一の難所とする。「飛び石、跳ね石」の中を進む四国第一の難所としている。
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淀ヶ磯;伏越ノ鼻より入木までの四里はかつての難所(Google Mapで作成) |
因みに、「仏崎トテ奇襲妙石ヲ積重タル所在リ 爰二札ヲ納」と「奇岩積み重なる仏碕。ここに(爰)札を納める」とするのは上述地蔵ヶ鼻の飛び石地蔵のことと思う。
伊能忠敬も、『伊能測量隊旅中日記』の文化5年4月21日に「一今六時頃過出立野根海辺より測量始。海岸即四国八十八ヶ所遍路道に而飛石筑(跳)石ころころ石といふ岩石上を歩行道あり。夫より佐喜浜浦に至る」と「ころころ石」を飛び跳ねながらの測量を伝える。
入木(いるき)の仏海庵
庵に入ると祭壇、そのまま庵を裏に抜けると宝篋印塔。即身成仏した仏海を弔う。
生前全国霊場を巡り修行して木食の境界に入り、四国八十八ヶ所巡拝二十四回に及び、地蔵尊像彫刻三〇〇〇躰に達したという」とあった。
徳右衛門道標を立てた武田徳衛門も伊予今治の朝倉村の生まれ。仏海の生まれた伊予北条猿川村とそれほど遠くない。遠く離れた土佐の地に同郷のふたりの事績が並ぶ。
佐喜浜
仏海庵からの旧道を進み国道55号に出る。少し国道を進み佐喜浜の町に入る手前で国道を左に逸れ旧道に入る。佐喜浜八幡、浜宮神社を見遣り佐喜浜川に架かる佐喜浜橋(昭和4年架橋)に。通行止めのため一度国道に迂回し旧道に戻り、佐喜浜の町を抜け佐喜浜漁港の先で旧道は国道に出。佐喜浜は崎浜とも書く。
●「佐喜浜城主大野家源内奮戦跡」の石碑

石碑の脇に「源内槍掛けの松」の案内。「佐喜浜城主の大野家源内左衛門貞義が長宗我部元親の阿波侵攻の道を開くのをはばむため戦った佐喜浜合戦は有名である。寄手300人、佐喜浜方200人がこの戦で討死したと言われる。
源内は縦横無尽に戦い、えびす堂前、本陣の前の松の木に槍を打ち掛け、一息入れ寄せ手の沢田太郎右衛門と対決したが源内左衛門は突き伏せられ、佐喜浜勢は総崩れとなり、老人、子供までも殺されて、生き残りは20~24人であったと言われる。 松は昭和6年(1931年)3月20日に倒れて今は無い」とあった。
鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩
夫婦岩は岩礁部に並ぶふたつの大岩。波触・風蝕により蜂の巣構造と風紋の表面が見える。 夫婦岩碑には、「南路志に云う往古より大晦日の晩夫婦岩の間鵜の碆に「竜燈」がともるとこの神火を地元では「かしょうさま」と云い立岩の峯々を超えて大滝の上に舞い上がり四方山麓の家々に請じ入れられて六年を迎える浄火となったと云う」とある。
鵜の碆の「碆」はやじりの石の意と言うが、海水により見え隠れする岩の意とする記事もあった。「波」と「岩」の組み合わせでできる文字。言い得て妙である。
椎名
鹿岡、清水の集落を越え椎名の湊に。椎名はかつて捕鯨で栄えた漁港と言う。椎名に漁がはじまったのは藩政期。室戸岬西岸の室津、呂津に野中兼山により港が開かれてから。この椎名で鯨漁がはじまるのは、寛永初年(1624)津呂で突取捕鯨が始まり次いで津呂、室津両港が修築され捕鯨が始まり、漁労技術がこの地に伝えられたようである。
室戸には津呂組と、浮津組の二つの鯨組があり、江戸時代のはじめから明治の終わり頃まで網と銛で鯨を捕ってた。椎名は津呂組捕鯨が進出して冬漁の基地となった。

●椎名捕鯨山見跡
椎名には捕鯨山見跡があり、明治末期の古式捕鯨終焉まで営々とその役割を果たしてきた、とのことである。
日沖の大礁・大碆(おおばえ)

その岩礁部に巨大な岩が重なる。これってなんだろう?「日沖の大礁」という記事がみつかった。「三津の岩屋から日沖港北にかけて、いわゆる日沖海岸は海底火山の活動を示す溶岩や、玄武岩質集塊岩がある。枕状溶岩は、海底火山の噴出物が水によって急激に冷却され、枕状に水中で形成されたものである。上部は丸く膨らみ下部は凹んで固まるものであるから、この大礁は上下が反転している。これは陸上部の岩が転がり落ち反転したものと考えられる」とある。
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国土地理院・地質図 |
因みに、地質図の下部の紫部は玄武岩貫入岩ではあるが付加体ではなくマグマが冷え固まってできた火成層とある。
●志賀丸遭難者慰霊碑

当時は報道を禁止され、詳細は不明のまま三十年が過ぎた。室戸ライオンズクラブはこの痛ましい霊を慰めるべく、極力調査の結果、幼児を含む三十七名の遭難者を確認、その御霊を祭って昭和四十九年五月三十日、眼下の波打ち際に慰霊の碑を建立した。以来毎年この命日には遺族と共に慰霊祭を行っている。平成十四年五月三十日 室戸ライオンズクラブ」とあった。
石碑は案内板の国道を隔てた岩礁部に立つ。
厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)
海の美しさに気をとられていると見過してしまいそうな場所である。
三津漁港
山地が直接海に落ちたような地形の地を進んで来た国道が、山地と岩礁の間に少し平地が開けたところに三津の漁港がある。この漁港も藩政期享保3年(1718)港の改修が行われてから捕鯨漁が行われた。漁場は日沖の大礁から室戸岬一帯の海域であった、とのことである。
国土地理院の地質図を見ると、周囲が玄武岩・貫入岩、付加体・海成層泥岩であるが、この三津の辺りが東西に付加体・海成層砂岩とある。山地と海の間に開けた平地と関係あるのだろうか。
青年大師像
御蔵洞
御厨人窟と神明窟をあわせて「みくろどう」と称するようだ。左の洞窟が大師が修行された御厨人窟。「西の窟(くつ)」とも称されるようだ。洞窟は奥行6メートルくらいだろうか、広々としたスペースの奥に御所神社が祀られている。右側は神明窟。「東の窟」と呼ばれ祭神は大日愛貴(オホヒメノムチ=天照皇大神の別名を祀る。
洞窟の入口には海蝕による落石を防ぐため鉄製の防護屋根が設置されていた。
●大師の虚空蔵求聞持法の修行成就の地
●虚空蔵求聞持法の修行

虚空蔵求聞持法の修行のことだが、虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を百万遍唱えることにより、一切の教法を暗記できるとする難行苦行。大師も幾度か挫折したとある。
大師自らの『御遺告』には「名山絶瞼のところ、嵯峨たる孤岸の原、遠然として独り向い淹留(おんりゅう)して苦行す。或は阿波の大滝の嶽に上って修行し、或は土佐の室生門の崎に於て寂暫して心観すれば明星口に入り、虚空蔵光明考し来て菩薩の威を顕わし、仏法の不二を現す」とあり、 虚空蔵求聞持法の修行は太龍寺、舎心嶽での苦行の末、土佐の室戸において大願成就したようである。
●空海の名
青年真魚が大学を中退し入唐までの足跡は不明なことが多い。優婆塞としての修行の時代というが定説はないようだ。名も「無空」。「教海」、「如空」と改名し、空海と改名したのはこの室戸の海と空に接したこの洞窟修行での大願成就との説もあるが、延暦23年(804)、東大寺戒壇院での得度受戒の時との説が有力視されている。31歳のときである。
「法性の室戸といえど われすめば 有為のなみかぜ たたぬ日ぞなし」。勅撰和歌集に載る弘法大師作として唯一残る和歌に室戸を詠んでいる。
●海蝕崖
Wikipediaにはこの洞窟を「隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車スペースとなっている場所は波食台であり洞窟上部の崖は海食崖である」とする。室戸ジオパークの記事には「御厨人窟」と「神明窟」は、共に約1500万年前~700万年前、マグマが地下の深いところで冷えて固まった「斑れい岩」が、プレートテクトニクスによる隆起運動によって地上に持ち上げられ、太平洋の荒波に曝された断崖に発生した「海蝕洞」である。
斑れい岩そのものは緻密であるが、隆起運動による複雑な営力を受けた結果、亀裂には数多くの亀裂が発達している。その結果、岩壁はもろくなっており、随所に岩盤崩壊の跡を見ることができる。

看板の左にある三角形の岩塊とは天狗岩のことだろうか。言われてよく見ると、天狗に見えて来た。
乱礁遊歩道
御蔵洞(みくろどう)に眼前に広がる岩礁部の見どころ案内があった。地形には興味あるものの、地質は門外漢には少々荷が重く、さてどうしたものかと思いながらも、歩けば奇岩・巨岩が並ぶ岩礁の成り立ちなどに少しはフックがかかるものかと、ちょっと立ち寄ることに。
●ビシャゴ岩

「ビシャゴ岩は斑レイ岩からできている。約1400万年前、マグマが地層に貫入(入り込むこと)して固まったとされる岩で、水平に貫入したものが、その後の地殻変動により、ほぼ垂直に回転したものである。左から順に駒細かい粒ー粗い粒とマグマが冷やされたマグマの時間の長さにより模様が変わる。この岩には「おさご」という絶世の美女にまつわる伝説がある」との案内があった。
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国土地理院・地質図 |
室戸岬は、南海トラフからユーラシアプレートの下に沈み込むフィリピンプレート帯の沿って起こる巨大地震によって引き起こされた大地の隆起により形成されたとするが、上述 「約1400万年前、マグマが地層に貫入して固まった」とは海底下で起きた活動であり、その後隆起により眼前の姿を呈したということだろう。
なおまた、「地殻変動により垂直に反転した」とはビシャゴ岩のことであり、岩礁部の斑レイ岩層は反転することもなく、「水平」なままの姿を呈している、ということかと「読む」。
〇おさごの伝説
津呂の町におさごという漁師がいました。おさごは、このあたり一体で、比べもののない美人だったそうですその美しさはめっそうな評判になり、毎日あっちの村、こっちの村から若衆たちがおしかけてきたそうな。
おさご見物にあんまりたくさんの人たちがやってくるので、おさごは何をするにしても人の目を意識せずにはおられなかった。それでとうとう身も心も疲れ果ててしまった。(こんなに私がつらい目にあうのもみんな美しく生まれたせいだから、そうだ汚くしよう)
こう思いついたおさごは、顔になべずみをぬり、わざと縞目もわからぬようなぼろの着物を身にまとうた。でも、こうしたおさごの苦心の変身も、おさごの美しさに魅せられた若衆達の心をそらす事はできなかった。あまりのうとましさに、おさごは、ある夜こっそり家をぬけだし岬へむかった。ここにはたくさんの大きな岩が海に向かってそそりたっているが、その一つ「びしゃご礁にあがると「これからは、私のように、つらい娘ができませんように」こう祈ると海の中に身をなげて死んだということである。(室戸市史 下巻より)
●弘法大師行水の池
○室戸岬の山頭火
夫山頭火はその日記に、「室戸岬の突端に立ったのは三時頃であったろう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果しなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽かない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる、……ここにも大師の行水池、苦行窟などがある、草刈婆さんがわざわざ亀の池まで連れて行ってくれたが亀はあらわれなかった、婆さん御苦労さま有難う」と書く。
行水池はこの地、苦行窟は御蔵窟。亀の池はどこだろう。 「波音しぐれて晴れた」、「かくれたりあらはれたり岩と波と岩とのあそび」、「海鳴そぞろ別れて遠い人をおもふ」などを詠む。
●ウバメガシ・アコウ
●エボシ岩
●火成岩・斑レイ岩の岩質帯から付加体・砂岩泥岩の岩質層に
タービダイト層が折れ曲がり、一部バラバラになっているのは、大陸プレートに押し付けられた際に変形したた、と言う。
〇タービダイト
〇付加体
深海に降り積もったタービダイト層は、どのようにして地上に現れるのでしょう。 日本列島に沿うように走る海溝やトラフは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所にあたります。海洋プレートの上には、プランクトンやサンゴの死骸、大気中を漂う塵や火山灰などが堆積しています。さらにそこにタービダイト層が加わります。これら堆積物は、海洋プレートと一緒に大陸の下に潜ることはできず、リンゴの皮を剥くように、大陸のヘリによって海洋プレートからはがされてしまいます。
行き場のないこの堆積物は、そのまま大陸のヘリに次々と押し付けられていき、新たな陸地へと生まれ変わります。これを「付加体」と呼んでいます。海洋プレートが沈み込む場所にだけ見られる陸地化の現象です(「室戸ジオパーク」の記事より)。
●ホルンフェルス

班レイ岩(一部は玄武岩)とホルンフェルスの境界には、泥が溶けて固まった花崗岩が見られる、と。
●土佐日記御崎の泊碑

土佐日記には室津の港を出た船は、雲行き怪しきため引き返したが、その港が室津との説とこの浜との説があるようだ。
この辺りの浜は岩礁がなく、土佐日記の掛れた頃はもっと土地と海が近く、自然の港のようになっていたのでは、と言う。
「都にて やまのはに見し 月なれど なみより出でて なみにこそ入れ」と紀貫之が詠った句に月が海から出るとあるが、それは室戸の東側でなけらば見えないでしょうと、此の地に泊まったことのエビデンスとする説もあるようだ。
なお、この場所では南海地震によって土地が隆起した跡が見られる。
●弘法大師目洗いの池
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●中岡慎太郎象
中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。この時慎太郎は30才。 この像は昭和10年安芸郡青年団が主体となって建てられた。
最御崎寺への旧遍路道
旧遍路道取り付口
大師一夜建立の岩屋
案内には「空海(弘法大師)が一夜で建立したと伝えられる岩屋で、現在、最御崎寺の奥の院。
寺伝では、空海が唐からお持ち帰りになった石像が安置されていた場所。
明治初年までは、女性の納経所はここにあって、本堂には登らず女道を通って25番行ったところです」とある。
最御崎寺は明治初年まで女人禁制であり、ここで札を納め室戸の岬を廻り次の札所に向かった。 尚、この地に求聞持堂があるとの記事が多いが、現在はお堂はなくかっていた。
寂本は「四国遍礼霊場記」 に「山下の岩窟口の広さ六七尺、奥へ入事六七間、内に如意輪観音の石像長二尺ばかり也。竜宮よりあがり玉ふとも云。人間のわざとは見えず、あやしむべしとなり。巨石にて厨子あり、内に二金剛を置。両とびらに天人あり、皆うけぼりにしたり。心目をまじゆるにあらずば、言語ののぶる所をもて察すべきに非ときこゆ。
東の大窟、奥へ入事十七八間、高さ1丈或は二丈三丈の所もあり。広さ二間三間或は五間十間の所もあり。太守巨石を以、五社を建立せられ、愛満権現と号す。是はむかし此窟中に毒竜ありて人民を傷害しけるを大師駆逐して、其迹に此神を鎮祠し玉ふとなり。
又其東に窟あり、天照大神の社あり、坂半に聞持堂あり。坂より上は女人禁制なり」と記す。
捻岩

コンクリートで固められた石段を数分のぼると「捻石」の案内。大師の母である玉依御前が、修行中の大師の身を案じてここを訪れた際ににわかに暴風雨となったため、大師がこの岩を捻じってその中に避難させた と伝えられる。
最御崎寺・室戸スカイライン分岐
■第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)■
●岩見重太郎・薄田隼人の塚
薄田隼人は講談で名高い岩見重太郎のモデルと言わる武将。豊臣秀頼に仕え大阪冬・夏の陣に参戦した。岩見重太郎は薄田隼人をモデルに、各地に残る狒々や大蛇退治といって豪傑伝説を取り入れ、講談家の手により創り上げられた人物のようである。
お堂の中には宝篋印塔の石を活用した五輪塔が祀られている。
●本堂・大師堂
左に大師堂。大師堂右側に徳右衛門道標が立つ。「是ヨリ津寺迄一里」と刻まれる。この先左手に手水場、納経所があり正面に本堂が建つ。
本堂裏には霊宝殿、聖天堂、護摩堂などが並び、最奥の宿坊である遍路センターの建物内には遍路休憩所がある。
室戸岬では東西に対峙している第二十六番札所の金剛頂寺を西寺(にしでら)と呼ぶのに対し、東寺(ひがしでら)と呼ばれる。寺号は「火つ岬」(火の岬)の意。
空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。空海の『三教指帰』には「土州室戸崎に勤念す」(原文は漢文)とあり、室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。
寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。当初は奥の院四十寺のある四十寺山頂にあり、現在地に移ったのは寛徳年間(1044年 - 1055年)頃といわれている。
暦応4年(1341年)、足利尊氏によって土佐の安国寺とされる。その後火災により焼失したが、元和年間(1615年 - 1624年)には土佐藩主山内忠義の援助を受け僧の最勝が再興する。堂塔を建立、七堂伽藍を有したという。明治に入って神仏分離令によって荒廃するが、大正3年(1914年)には再建された。また、女人禁制の寺で岬からの登山口脇にあった女人堂から拝んでいたが、明治5年に解禁された。阿南室戸歴史文化道の指定を受けている」とあった。
〇ほつみさき
Wikipediaに「寺号は「火つ岬」(火の岬)の意」とある。「火つ岬」>ほつみさき>最御崎ということだろうが、「ほつ」に「最」をあてる?あれこれチェックするが「最」を「ほつ」と読むのは「最手:ほて、ほって(優れた腕・技;横綱)」の一例しか見つからなかった。それも、何故「ほて、ほって」と読むかわからない。何故だろう。
●クワズイモ畑
●鏡岩

〇空海の七不思議
空海の七不思議としてつたわるのは上、くわずいも、 鐘石。既述の観音窟、行水の池、目洗いの池、 ねじれ岩。そして 明星石。
明星石には出合っていない。寂本の「四国遍礼霊場記」には、「大師修行の時、来影せる明星はき出し玉へば五色の石となり、いまにあり、今明星石といふ是也とかや。山下に光明石と云有、大師勧修の時竜
鬼障碍をなしける時、呪伏して涕唾し給ふに、傍の石に付て光明ありしかばいふとなん」と、星のように光を放ち、毒龍の妨げを防いだという伝説の石と記す。
あれこれチェックすると、特定の石ではなく、室戸岬に分布する斑レイ岩のことのようだ。別名は明星石と呼ばれるが、これは、空海が金星(明星)を見ながら修行をしたことと、斑レイ岩がキラキラと光って星のようだからということから名付けられた、と室戸ジオパークの記事にあった。
室戸岬灯台
鉄造りの灯塔はほとんど被害はなく、建設当時の姿を残しています。光源は、最初石油を使用しておりましたが、大正6年(1917年)12月に電化されました」とあり、光の届く距離は約49キロメートルで日本一の光達距離。日本一第1等レンズの「日本一」はこの光達距離を指すのだろう。
●一等レンズ
レンズの大きさには第一等から第六等まで(第三等は大・小二種)の計7種類に分けられる。
今回のメモはこれでお終い。次回は最御崎寺から室戸岬西海岸の土佐湾に面した札所を辿る。