火曜日, 6月 02, 2020

阿波 歩き遍路:第二十三番薬王寺から阿波・土佐の国境まで

阿波最後の札所・薬王寺の次は土佐の最御崎寺(ほつみさき)。薬王寺のある日和佐から最御崎寺のある室戸岬突端部まではその距離おおよそ80キロ。今回のメモは日和佐の薬王寺から阿波と土佐の国境まで、おおよそ50キロの遍路道をメモする。当日、実際にこの距離を歩いたということではない。メモの区切りとして国境という響きがよかろうというだけの理由である。
ルートは薬王寺を離れ、日和佐川に沿って県道36号を進む奥の院泰仙寺道を選んだ。薬王寺門前の自然石標石が「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」と刻み、茂平道標が「東寺へ二十一里」と北を指すその道筋が奥の院道である。
茂兵衛道標の手印に従い国道55号を少し北に戻り、日和佐川手前で県道36号に乗り換え、西河内集落を越え奥の院泰仙寺との道を分ける落合に。奥の院道を選びながら、時間の都合もあり奥の院泰仙寺をパスするという為体(ていたらく)ではあったが、落合から南に下り、日和佐川支流の山河内谷川を上流へと進み、山河内集落で国道55号筋に合流。
山河内からは国道55号に沿って山河内谷川の源流域まで詰め寒葉峠を越える。峠は分水界となっており、峠を越えると牟岐川水系の橘川に沿って国道55号を進み、川又で牟岐川に合流。海岸部に開けた牟岐の町へと牟岐川を下る。
牟岐から浅川までの12キロほどは、「土佐街道」の標識を目安に国道55号と「土佐街道」を出入りしながら進む。この区間はその昔、八坂八浜と称され八つの丘陵と浜を上り下りした遍路泣かせの難路であったとのことだが、それは今は昔のお話。いくつかはそれらしき風情の土径旧道が残るものの、現在は道路整備されており、どこが難所の八坂八浜かメモの段階で特定するのに苦労したほどではあった。
それはともあれ、浅川からは丘陵を越えて海部に入り、那佐、宍喰を経て甲浦手前の阿波と土佐の国境に着いた。

常のことながら、メモの段階でわかったことだが、今回も「後の祭り」が多くあった。薬王寺からの山河内集落に出る遍路道も、今回歩いた奥の院道のほか、現在の国道55号筋を進む「横子峠」越、丹前峠越のふたつのルートがあった。
また山河内から牟岐に出る遍路道も、丘陵を越えて海岸の集落である水落に下り、海岸線を牟岐に向かうルートもあった。『四国遍路日記』の澄禅の辿ったルートとも推定されている。
海部から宍喰への遍路道も今回歩いたルート以外に、馬路越、居敷越といった峠越えのルートがあった。
宍喰から土佐の甲浦への道も今回歩いた岬寄の道の他、宍喰峠越えのルートもあった。

歩く前は、今回は国道沿いの遍路道で少々味気ないなあ、なとど思っていたのだが、ちょっと調べれば「峠萌え」にはフックのかかるルートがいくつもあった。阿波の南東部は四国遍路を一巡した後、「後の祭り」フォローアップに出かけてもよさそう、なとど思っている。 ともあれ、メモを始める。

本日のルート;23番薬王寺>落合橋南に標石>国道55号交差箇所に茂兵衛道標(210度目)>打越寺>辺川集落の標石2基>小松大師>東川又地蔵堂の標石>山頭火歌碑>牟岐>大坂峠取り付き口( 八坂八浜:最初の坂 )>大坂峠>標石>草履大師>内妻の浜(八坂八浜:最初の浜)>内妻トンネル手前左に逸れ松坂峠取り付き口に(松坂;八坂八浜2番目の坂)>松坂峠>古江浜(八坂八浜;2番目の浜)>福良坂(八坂八浜;3番目の坂)>福良浜(八坂八浜;3番目の浜)>鯖江坂(八坂八浜;4番目の坂)>鯖大師>鯖瀬浜(八坂八浜;4番目の浜)>萩坂(八坂八浜;5番目の坂)>大綱浜( 八坂八浜;5番目の浜 )>鍛冶屋坂( 八坂八浜;6番目の坂 )>鍛冶屋浜( 八坂八浜;6番目の浜)>栗浦坂( 八坂八浜;7番目の坂 ) >栗ノ浜( 八坂八浜;7番目の浜 ) >仮戸坂( 八坂八浜;8番目の坂 ) >三浦浜(八坂八浜:8番目の浜 )>大郷の標石>海部の町に入る>那佐湾>宍喰(ししくい)>古目大師>宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)>金目番所跡


●第二十三番札所・薬王寺●

門前町である桜町通りを直進し、国道55号の交差点を渡ると正面に第二十三番札所薬王寺の山門が見える。
茂兵衛道標・自然石標石
山門手前、短い厄除橋の右側に茂兵衛道標。主面に「東寺へ二十一里 伊予国三角寺奥の院」、左面に「平等寺 五里余」 、右面には「明治山十六年」のも文字と共に添歌「鶯や法 ゝ 希経の乃りの聲」(うぐいすや ほうほけきょの 乃りのこえ)が刻まれる。
東寺とは次の24番札所最御碕寺のこと。26番札所金剛頂寺を西寺と呼ばれることと対をなす。手印は東寺へと北を指す。それはそれでいいのだが、ここに伊予の最後の札所三角寺奥の院()の案内がある理由はなんだろう?

厄除橋の左側には自然石の標石。「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」とある。玉厨子山とは薬王寺奥の院泰仙寺のことである。
山門
厄除橋を渡り石段を上ると山門。山門を潜り順路は左に折れ厄坂の石段を上る。最初は三十三段の女厄坂。
石段を上ると屋根のついた拝殿。中に臼と杵が置かれる。抹香臼、厄除杵と称される。臼の中には抹香が入っており、厄除杵で厄年の数だけ搗き厄を落としたとの話が残る。
本堂・大師堂
男厄坂四十二段を上ると境内。正面に本堂。本堂左に大師堂。大師堂から鍵型に曲がって繋がる地蔵堂、そして十王堂。十王堂には冥土で亡者の罪を判断する裁判官といった十王が祀られる。


十王
秦広王(初七日 不動明王)、初江王(二七日 釈迦如来)、宋帝王(三七日 文殊菩薩)、五官王 (四七日 普賢菩薩)、閻魔王(五七日 地蔵菩薩)、 変成王(六七日 弥勒菩薩)、泰山王(七七日 薬師如来)、平等王(百 ヶ日 観世音菩薩)、都市王(一周忌 勢至菩薩)、五道転輪王(三回忌 阿弥陀如来)。十尊に対応する不動明王などは、十尊の本地仏とするが、それは鎌倉時代に考えだされたもの。
生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰ゆえの十王堂であろう。
肺大師
と大師堂の間には鎮守堂と肺大師の小祠。肺大師に祀られる弘法大師石像台座からは瑠璃の水と称される霊水が湧き出す。ラジウムを含んだ水であり、肺疾患に霊験あらたかと伝わる。そういえば、国道55号脇の薬王寺駐車場横に薬師の湯という温泉施設があった。このお山一帯からラジウム含有の水が涌くとのことである。
瑜祇塔
本堂右手、男女坂と称される厄坂であり61段の石段を上ると瑜祇塔。昭和39年(1964)の建立。弘法大師四国八十八ヶ所の霊場を開創1150年、また、翌40年(1965)は高野山開創1150年に当たることからこれを記念して建立されたもの、とあった。
瑜祇塔は高野山以外に例を見ないと言う。屋根の中央と四隅に立つ相輪を瑜祇五峰と称し、五智の象徴として金剛智を示し、周囲8柱が胎蔵の理論を表すようだ。そして屋根の下の円筒形と四角の一重の塔をして金剛・胎蔵両部不二を象徴すると、する。ふたつの相対するものが一つになることを建物で示している。門外漢にはよくわからないが、この両部不二という、真言密教の経典である瑜祇経を建物の姿で象徴しているの、かも。

瑜祇塔は正式名、「金剛峰楼閣瑜祇塔」。高野山の寺名金剛峰寺の由来となるものであり、弘法大師が重要視した瑜祇経を後世お堂の形で建立されたもののようである。


23番札所薬王寺から奥の院道を辿る

山門を出て次の札所へのルートを想う。薬王寺の門前の自然石標石が「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」と刻み、茂平道標が「東寺へ二十一里」と北を指す。
当日はこの薬王寺奥の院道を歩くことにした。薬王寺から奥の院泰仙寺を経て東寺(第24番最御崎寺へと向かう遍路道は、門前より国道55号を北に向かい日和佐川手前で左折し。日和佐川に沿って県道36号を進み、西河内の集落を経て山河内谷川合流点から県道を離れ、山河内集落に出る。
このルートは澄禅が辿った道と言う。薬王寺から先の記述は「右ノ道ヲ一里斗往テ貧シキ在家二宿ス」とあるだけであるが、この短文から泊まったのは日和佐川筋の西河内集落と推定してのことと言う。
その他の遍路道
当日は迷うことなく奥の院道を辿ったのだが、メモの段階で地図を見ていると、山河内集落への往還としては、どう見ても現在の国道55号筋が自然では?チェックするとそのルートは往昔の土佐街道・横子越えの往還であった。奥の院泰仙寺参詣を目することがなければ当然のこととしてこのルートを辿ったお遍路もいただろう。
横子峠越え・土佐街道の遍路道
現在の国道55号に沿って奥潟川の谷筋を進み、日和佐トンネル(昭和45年;1970年開通)を抜け山河内谷川筋に下ると山河内集落に出る。日和佐トンネルが出来る前は日和佐トンネル傍の横子峠を抜けていた。峠には弘法大師像とへんろ標石があtったようであり、へんろ道として利用されていた。標石には「是より東寺迄」と刻まれる、と。昭和7、8年(1932、1933)ごろまで横子越えの土佐街道は利用されていたようである。
昭和7、8年以降利用されなかった理由は?日和佐川に沿って西河内、山河内へと繋がる道路が整備されたということだろうか。単なる妄想。根拠なし。
奥潟川筋の真念道標
この道が遍路道であるとのエビデンスはないかとチェック。薬王寺から国道55号を南に進み、JR牟岐線と交差する傍の旧路に真念道標が立つ。真念が歩いた遍路道ということかと推測できる。
土佐街道・丹前峠越
チェックの過程で更にもうひとつの遍路道・土佐街道が見つかった。藩政時代の土佐街道は薬王寺から日和佐川を上り、丹前から山入りし丹前峠を越えて山河内谷側筋の府内におりてきたようである。上述横子越えの土佐街道が開かれる前の土佐街道である。
奥潟川筋ではなく尾根筋を進む道に街道が開かれた理由は不詳であるが、思うに往昔の街道道の定石を踏まえたものであろうか。土木建設技術が確立する以前の街道は、土砂崩れ・崖崩れの多い谷筋を避けて道の安定した尾根を通るのを基本とするケースが多い。
丹前峠の道筋には特段遍路標石は残らないようだが、土佐街道を歩いたお遍路もいたのでは、と選択肢に入れる。

落合橋南に標石
北河内谷川と日和佐川が合わさる辺りで国道55号を左に折れ、県道36号を日和佐川に沿って上流に向かう。左手に上述藩政時代の土佐街道への取り付口である丹前、澄禅が一夜の宿を借りたとされる西河内の集落と蛇行する川筋に沿って進む。
西河内からほどなく日和佐川と山河内谷川が合流する少し南に落合橋。落合橋を渡り県道を進むと薬王寺の奥の院。遍路道は山河内谷川にそって南に進む。
奥の院を訪ねようかどうしようかと思案。奥の院道を辿りながら奥の院にお参りしないって、それはないよな、などと少々悩みながらも、どうしても段取り上時間が足りず今回はパスする。

落合橋を少し南に進むと集落。道端、道路開通の石碑の横に2基の標石。1基は自然石の標石。手印だけが刻まれる。その横の標石には「二十三番薬王寺  玉厨子山 泰仙寺」と刻まれていた。
奥の院泰仙寺
本尊は如意輪観世音菩薩である。玉厨子山(標高540m)の中腹にあり、1188年薬王寺が焼失したとき本尊の薬師如来が飛び出し、この地にとどまり輝いたという。さらに約50mほど上ると大岩があり小さい祠が祀られていて、ここの奥之院がある。駐車場はあるが寺まで徒歩で約40分かかる(Wikipedia)。

国道55号交差箇所に茂兵衛道標(210度目)
山河内谷川上流に向かって南に進む。途中、藩政時代の丹前峠越えの土佐街道が下りてきたであろう府内の集落を越え、道は国道55号とクロスする。その角、南側に2基の標石。上述横子峠越えの遍路道はこの辺りに出てきたのだろう。
1基は茂兵衛道標。「薬王寺 左 東でら 左新道 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛210度目巡礼時のもの。道標の手印の指す方向は間尺に合わない。手印と札所を合わすとすれば、180度回転させなければならない。道路建設に際し、どこかから移されたものだろう。それに合わせて道標にある「新道」の方向は傍の国道に抜いたトンネル方向を示す。グルリと丘陵を迂回する旧道をショートカットする道でもあったのだろうか。「東でら」は最御崎寺のこと。
もう1基は「是ヨリ三十丁 明和二年 左奥之院玉厨*」といった文字が刻まれる。

打越寺
国道トンネル南ををグルリと廻る旧道を進む。牟岐線山河内駅の傍、道の右手に「駅路山打越寺」の寺標石。三十段の石段を上ると庫裏というか、民家といった風情の建屋。境内(?)を歩くのはちょっと躊躇われ、すぐに石段を下りる。なんとなく狐につままれたように思いながらも、当日は旧道を進み打越寺の裏山を抜けるトンネル西口に出た。
打越寺大師堂
メモの段階で地図を眺めていると、国道55号傍に立派なお寺が建ち、打越寺とある。広い境内には堂宇が建つ。案内には「当山縁起 当山は約四百年の昔、慶長三年(1598)初代藩主蜂須賀家政公が藩内の重要な街道に沿った真言宗の八ヶ寺を当時困難を極めた遍路・旅人を助けることを願して、専ら慈悲を肝要とする駅路寺を制定され、それより駅路山打越寺を号しました、
当山では同行二人のご誓願を具現すべく弘法大師をご本尊としておまつりしています。
此所は、日和佐川上流、山河内字なかに所在し、川をはさんで山が両岸に迫り、左岸に一条の土佐街道が通じており、寺は街道を見下ろす高台に位置し交通の要衝関所でありました(江戸初期の澄禅遍路日記より)。
現在は土佐街道も国道55号線となり、寺の裏山を通ることになり、ここに駅路寺開創四百年を記念し檀信徒の協力を得て、大師の誓願、蜂須賀公の遺願に元く大師堂を建立、脇侍に不動・愛染の二大明王をまつり興王利生とこの街道を往来する人々の心身の安穏を日々護摩法を修し祈願するものであります(後略)」とあった。
堂宇は国道建設に伴い新築された大師堂のようである。当日訪れた民家風の建屋は本堂とのことではあるが、なんとなく駅路寺打越寺旧跡といった「立ち位置」のように思える。
澄禅
案内に澄禅の日記に打越寺の記述がある、とするが澄禅の『四国遍路日記』には打越寺の記述は全くない。真念の『四国遍路道指南』には「ここにうちこし寺、真言道場 遍路いたはりとして国主より御建立」とある。また、『四国遍礼名所図絵』には「打越寺(往還の右の山ノ側有 遍路人為大守様御建立)」とある。記載内容からすれば『四国遍礼名所図絵』の記事が最も近い。

辺川集落の標石2基
遍路道は国道55号を西に進む。山河内谷川の上流部に沿って国道を時に旧道に逸れながら源流部に。その先に寒葉坂。この坂は日和佐川水系と牟岐川水系の分水界となっており、坂を越えると牟岐川水系の支流・橋川が西に下る。峠は海部郡日和佐町と海部郡牟岐町の境となる。 遍路道は牟岐線返川駅の手前で国道55号から右に逸れ、段丘下の平地に下りる。その分岐点の傍に標石2基。右手の標石には「右 二十四」と読める。方角が真逆であり、道路工事の際にでも移されたものだろう。左手の標石らしき石柱の文字は読めなかった。
国道を逸れ段丘崖下の耕作地を進む、橋川に架かる返川橋を渡り道を進むと、民家石垣にも標石があった。

小松大師
段丘崖下の道が国道55号に合流する手前、右手の一段高いところに小松大師がある。小松はこの辺りの地名である。
境内にお堂。大師坐像が祀られる、と。縁起では、17世紀中頃大阪難波の石工が三尺の大師坐像の注文を受ける。と、夢枕に弘法大師が現れ、阿波の小松の里に送るようにと伝えた、とのこと。 境内には自然石、地蔵尊像が刻まれた六部供養碑。「六十六部回国供養塚 慶応二」といった文字が刻まれていた。

東川又地蔵堂の標石
国道55号を進み、橋川が牟岐川に合流する地点、現国道に架かる牟岐橋手前から左に逸れる旧道があり牟岐川に橋が架かる。人道橋であるその橋の手前にコンクリート造の祠。2基の地蔵が祀られたこの東川俣地蔵堂傍に標石。「右四国二十四番 東* 左牟岐町」と刻まれる。「東」は何度か登場した東寺と称される24番最御崎寺のこと。

山頭火歌碑
人道橋を渡り国道55号を進む。牟岐町川長関に入ると道の右手に石碑があり、「山頭火 宿泊の宿長尾屋」とある。石碑には、「山頭火 宿泊の宿長尾屋 「しぐれてぬれてまつかな柿もろた」 途中、すこし行乞、いそいだけれど牟岐へ辿り着いたのは夕方だった。よい宿が見つかってうれしかった、おじいさんは好々爺、おばあさんはしんせつでこまめで、好きな人柄で、夜具も賄もよかった、部屋は古びてむさくるしかったが、風呂に入れて貰ったのもうれしかった、三日ぶりのつかれを流すことが出来た。
御飯前、一杯ひっかけずにはいられないので、数町も遠い酒店まで出かけた、酒好き酒飲みの心裡は酒好き酒飲みでないと、とうてい解るまい、 昭和十四年十一月三日山頭火日記抄」と刻まれていた。
山頭火は自由律の俳句で知られる旅に生きた歌人。山頭火は2度四国遍路の旅に出ているが、この句は2度目のもの。歌碑に彫られた句は当日の日記にある16の句のひとつ。宿の夫婦の何気ない心配りが、いい。
山頭火2度目の遍路
昭和14年(1939)10月5日に松山を出て遍路するも、旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断。松山に戻り松山在住の句人高橋一洵の奔走でみつけた「一草庵」を終の住処とした。「落ち着いて死ねさうな草枯れる」は一草庵で詠んだもの。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」などの句が、情感乏しきわが身にさえ、なんだか刺さる。

牟岐
国道55号を進み、牟岐線牟岐駅を越えた先で右にカーブする国道と分かれ直進し牟岐の町に入る。牟岐中央商店街とかかれた道筋が遍路道。時に往時の商家の風情を残す建屋を見遣りながら道を直進し、牟岐浦神社で右折し瀬戸川に架かる八坂橋を渡り、牟岐の街を出る。
牟岐川の左岸である牟岐浦は古くからの漁港・港町、一方牟岐川右岸の中村を中心とした地区は商業の町と性格を異にした。中世には牟岐川筋の木材を集めた積出港として賑わい、藩政期には公用船への水や薪を供給したり、加子役(船をこぐ者)を勤める、労役を課された浦、「加子浦」に指定され、藩営の水揚場が設けらえるなど、往時の陸海交通の要衝であったよう。
水落廻りの遍路道
メモの段階で澄禅の遍路日記を見ていると、澄禅は打越寺のある山河内から先は、今回歩いた寒葉峠越えの道ではなく海岸ルートをとったと推測する記事があった。ルートは山河内から南へ白沢(はくざわ)川筋を遡上し、白沢集落から山入。標高400mピークを越え海岸線に出て、海岸沿いの水落の集落を経て牟岐に向かったとする。「山河内から海にかかる」といった記述からの推定ルートではある。参考の為推定ルートを載せておく。


八坂八浜

大坂峠取り付き口(八坂八浜:最初の坂)
橋を渡った遍路道はそのまま直進し、右手下に国道55号を見遣りながら丘陵の坂を上る。ほどなく道の右手に「旧へんろ道 八坂八浜の大阪峠 草履大師へ」の案内と大阪峠から草鞋大師へのルート図があった。
傍にあった案内には「八坂八浜とへんろ道(旧土佐街道):牟岐町から浅川(海陽町)に至る「八坂八浜(やさかやはま)は、12kmの間に、八つの坂と八つの浜があり、駄馬も通れない「親不知子不知(おやしらずこしらず)」と言われ、波の荒い時は、道を洗い交通不便な難所であった。「草鞋大師」から内妻の浜に下る小道が昔の土佐街道である」といった記述があった。
八坂八浜(やさかやはま)
散歩当日はこの大坂での案内の他、時に現れる旧土佐街道の峠越えの標識を見る以外、特段八坂八浜と明記した標識はなかったように思う。地図には、後程訪ねる鯖江の手前の浜に「八坂八浜」と記されており、その辺りが八坂八浜かとも思いながら道を歩いたわけで、道路整備ゆえか難路・険路の風情は消え、当日は知らず八坂八浜を歩いていた。で、メモの段階で改めて八坂八浜って何処?とチェックした。
真念
真念は『四国遍路道指南』に「右、八坂々中、八浜々中の次第。○逢(大)坂。○うちすま(内妻)。○松坂。○古江。○しだ坂。○福良村。○福良坂。○鯖瀬村。○はぎの坂。○坂中大砂という浜。○かぢや坂。○粟ノ浦坂過ぎ、天神宮有り。伊勢田川、潮満ち来れば、河上へ廻りて良し。○伊勢田村。○浅川浦、大道より左に町有り。○いな村観音堂あり。この村市兵衛、宿を施す。○からうと坂。これまで八坂々中八浜々中」と書く。
高群逸枝
詩人で女性史学の創設者として知られ、大正7年(1918)に遍路に出た高群逸枝は、その著 『お遍路』に、「北から順に坂は、大坂、松坂、福良(ふくら)坂、 鯖瀬(さばせ)坂、萩(はぎ)坂、 鍛冶屋(かじや)坂、栗浦(くりうら)坂、 借戸(かりと)坂、であり、浜は、内妻(うちづま)浜、古江(ふるえ)浜、 福良浜、鯖瀬浜、大網(おおあみ)浜、鍛冶屋浜、 走(はしり)浜、三浦浜である」とする。 〇司馬遼太郎 また、司馬遼太郎は『空海の風景』に、「牟岐からむこうで、頻繁に小入江が連続している。海浜の崖や山をよじ登っては、小さな入江に すべり落ちてゆく。坂の名と浜の名とを挙げると、大坂を降りると内妻(うちづま) の浜である。松坂を降りれば古江の浜であり、歯朶(しだ)坂の急峻をおりれば 丸島の浜である。福良坂をおりれば福良浜があり、萩坂をおりればしろぼの浜になる。 鍛冶屋坂につづくのが苧綱(おつな)浜であり、楠坂のつぎが桶島浜、 借戸坂のつぎが三浦浜である。この連鎖してゆく小さな入り江ごとに何人かの人間が住んでいたかもしれないが、 しかしこんにちでも浜におりるとなお無人にちかい。この入り江群の沖はすでに外洋であり、その風濤の たけだけしさが、人の住まうことを拒絶しているのであろう。空海はときに無人の浜に出て海藻や貝を ひろったにちがいない」と書く。
Wikipedia
Wikipediaは、「牟岐浦から南へ、大坂・松坂・福良坂・鯖瀬坂・萩坂・鍛冶屋坂・粟浦坂・借戸坂の8つの坂と、内妻浜・古江浜・福良浜・鯖瀬浜・大綱浜・鍛冶屋浜・栗ノ浜・三浦浜の8つの浜からなる」とする。
それぞれ微妙に地名が異なるが、これらの地名を頭に入れ、少々後付けの感は否めないが、以下知らず当日歩いた道を八坂八浜と合わせながらメモすることにする。

大坂峠
取り付き口から道を上る。尾根筋に乗った辺りで左手に浜が見えてくる。上り始めて20分強で大坂峠に。案内に、「大坂峠は、八坂八浜の最初の峠で、街道がそのまま残っている。峠の高さは97mで、そこには内妻の一里松があり草鞋地蔵尊が祀られていたが、一里松は枯れ地蔵尊は移設されてしまった。峠から旧国道への下り坂は急で、さらに土地造成で急になっている」といったことが書かれていた。

標石
峠からほどなく「九拾」と刻まれた標石らしき石柱。その先で今から下る内妻浜が見える。八坂八浜で第一の坂である大坂に続く第一の浜である。「九拾」の指すことは不詳だが、九拾丁であれば牟岐の町なら距離が合う。妄想。
内妻の浜が近づいてくる。

草履大師
峠から下ること7分ほどで旧街道は大坂峠取り付き口で分かれた車道とクロスする。その角に草履大師。大坂峠にあった案内に拠れば、峠よりこの地に移したものである。台座には「草履供養」と刻まれる。これから始まる難路・険路を控えての草履供養であろうか。またこのお大師さんは盲目の相を呈する。眼疾に霊験あると伝わる。
道路をクロスした遍路道は草履大師脇の急坂を下る。坂はすぐ内妻の浜に続く舗装道に下りる。

内妻の浜(八坂八浜最初の浜)
道なりに進み浜の堤防に出る。堤防に沿って成り行きで先に進むと行き止まり。それらしき旧道は無いかと探す。少し離れた旧国道に松阪隧道が地図にあるが、そこに続く道は見当たらない。で、結局、行き止まり地点にある鉄製のステップを上り国道55号に出る。


内妻トンネル手前左に逸れ松坂峠取り付き口に(松坂;八坂八浜2番目の坂)
どうしたものかと思いながら国道を進むと内妻トンネル手前、左手に逸れる道。左折すると直ぐ「旧へんろ道 松2阪峠入口」の案内。メモの段階でわかったことがが、ここが八坂八浜2番目の坂ということだ。
取り付き口にはルート図と案内。松坂峠への峠道は約500メートル、標高は60mほどだろうか。頂上に「地蔵尊(」かずら地蔵)が祀られていたが、大正十一年、旧・国道の完成によりこの峠を通る人も耐え、旧国道松坂トンネル東口に移された。

松坂峠
案内から右に取り着き、上り口から7分ほど、比高差60m上ると峠。「松坂峠 これより古江浜」の案内がある。
峠からは切通し、ちょっとした急坂を10分ほど下り砂浜に出る。古江浜だ。八坂八浜第二の浜に出る。






古江浜(八坂八浜2番目の浜)
砂浜や海に突き出た丘陵突端、波を受ける岩礁を越えて先に進む。成り行きで進むと浜辺に道路下を潜る水路があり、その坂に遍路タグがあり、国道に戻る。
明治の頃に県道が整備され、昭和43年(1968)に国道55号に編入される以前、満潮時には海に入らないと通行できないといった八坂八浜の難所の一端を垣間見た。
岩礁部の遍路タグ
「歩く四国八十八カ所」より
当日は見落としたのだが、メモの段階で丘陵が海に突き出た突端の岩礁部に、岩場を上れ、といった遍路案内があるとの記事を見た。現在の古江トンネルの辺りだろうとは思うのだが、司馬遼太郎が『空海の風景』に言う「歯朶(しだ)坂」であり、急峻をおりたところ、古江トンネル東の浜が「丸島の浜」であったのだろうか。「 松坂を降りれば古江の浜であり、歯朶(しだ)坂の急峻をおりれば 丸島の浜である。福良坂をおりれば福良浜があり」との記述からすれば、ここしか既述に該当する丘陵地が見当たらない。


福良坂(八坂八浜3番目の坂)
国道を進むと、道の右手に「鯖大師本坊800m先右折」の大看板。そこに国道55号を逸れて右に逸れる舗装道がある。曲がり具合からして国道整備以前の旧道のよう。それほど急な坂でもないが、道は海岸線に突き出た丘陵部を越えた入り江の辺りで国道55号に合流する。この海に突き出た丘陵部に福良坂があったのだろうか。

福良浜(八坂八浜3番目の浜)
国道からちょっと浜に下りる。特に遍路道らしきものもなく、国道に戻る。
地図にはこの浜と岬を越えた南の浜に八坂八浜と載る。入り江の南北を囲む丘陵部が海に海に落ちるところがいくつもの入り江となり、その岩礁部に白浪が立つ。幾つもの尾根が海に沈み岬(坂)となり、谷が入り江(浜)となった、「沈水性」地形を呈す。
散歩当日は、これらの岩礁部をもって八坂八浜と称するのだろうと思っていた。特段の標識はないが、位置関係からしてこの浜が八坂八浜の福良浜であろう。

鯖江坂(八坂八浜第4番目の坂)
国道を進み福良トンネルの手前、道の右手に標識が見える。「いやしの古道 土佐浜街道 鯖大師から鯖瀬浜に至る」とある。道の左手、福良トンネルの海側を走るのが旧国道。道を右に逸れ土佐街道に入る。
牟岐線のトンネル入口を見遣り先に進むと道の途中に案内があり、「土佐浜街道〈馬ひき坂」とあった。幾度か引用させて頂いた奈佐和彦さんの「かいふのほそみち」の「馬曳坂」には、その由来として「弘法大師が鯖瀬に来たとき、馬子が馬の背に乗せてあった鯖を所望した。馬子はこれを断り、大師は歌を詠んだ。
大坂や八坂坂中 鯖一つ 大師にくれで 馬の腹痛む。
やがて坂道にさしかかると馬は急に腹痛を起こした。馬子はあの僧が大師と気づき、詫びて一尾の鯖を差し上げた。大師は
大坂や 八坂坂中 鯖一つ 大師にくれて馬の腹止むと詠むと馬は元気になった。
馬が腹痛を引き起こした坂は、今も「馬曳き坂」と呼んでいる(『海南町史』)とあった。
峠は海部郡牟岐町と海部郡海陽町の境。坂を下ると鯖大師に出る。


鯖大師
「四国霊場別格札所 鯖大師本坊」の寺柱から境内に入る。正面に本堂。鯖を右手にさげた大師立像が本尊。左手大師堂にも石造の鯖。絵馬に開運、子宝成就、病気平癒などの願い事を書いて奉納し3年間鯖を口にしないことを誓う、鯖断ちの祈願を行うと願いが成就すると伝わる。
Wikipediaには「八坂寺(やさかでら)は徳島県海部郡海陽町に所在する高野山真言宗の寺院。山号は八坂山。本尊は弘法大師。通称は鯖大師本坊または鯖大師。
空海の鯖伝説
鯖大師と呼ばれる由縁は、この地を訪れた空海(弘法大師)の伝説によるとする。その霊験は上述馬曳坂でメモしたとおりであるが、そのエピソードに続き、「空海が法生島(ほけじま)で先ほどの塩鯖に加持祈祷を行い、海に放ったところ塩鯖は生き返り泳いで行った。これに感服した馬子は空海の弟子となり、この地に小堂を建て行基の像を祀り「行基庵」と名付けた。また「鯖瀬庵」とも呼ばれた。空海が加持祈祷を行った海岸は鯖瀬(さばせ)と呼ばれている」とある。
行基の鯖伝説
大師堂
更にそれに続けて「行基にまつわる鯖伝説も残されている。これは、江戸時代前期の貞享4年(1687年)に真念という僧によって書かれた四国遍路の現存する最古のガイドブックである『四国遍路道指南』(しこくへんろみちしるべ)に記載されている伝説である。
これに拠れば、行基が四国を巡錫している時にこの地を訪れた際、鯖を馬に背負わせた馬追が通りがかった。行基が鯖を所望したところ、馬追はこれを断った。行基はこれに対し「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれで馬の腹や(病)む」と歌を詠んだ。すると、馬は急に腹痛で動かなくなった。困った馬追は行基に鯖を差し出した。行基は今度は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれて馬の腹や(止)む」と、「くれで」を「くれて」と1文字変えて詠むだけで、馬の苦しみは治まった。 この行基の話は、江戸時代初期の寛永18年(1638年)賢明によって書かれた四国巡拝の記録誌『空性法親王四国霊場御巡行記』にも記載が見られる。また、江戸時代後期の寛政12年(1800年)に作製された四国巡礼ガイドブック『四国遍礼名所図会』にも記載がある。
行基が詠んだとされる歌は、弘法大師伝説では空海が「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれで馬の腹や(病)む」、「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれて馬の腹や(止)む」と詠んだとされている」とある。
行基から空海伝説へ
八角の護摩堂
なんだか縁起成立のプロセスが垣間見えて面白い。真念さんたちの記述に拠れば、行基菩薩と鯖の伝説は江戸初期には成立していた、ということである。元は行基庵と呼ばれていた、とも言う。 行基伝説が弘法大師伝説に変わったのは何時、何がきっかけであったのだろう。
江戸の頃、この寺は海部郡にある真言宗誓願寺の末であった。それが同じく海部郡の曹洞宗正福寺の末に変わる。それが昭和16年(1941)になって「鯖大師協会」に改めたという。
最後にWikipediaは「鯖伝説について 民俗学者の五来重は鯖大師伝説について、山姥が牛方や馬方の塩鯖を求めるという民話との関連を指摘している。これは山中や峠にさまよう荒ぶる祖霊に供物を捧げて道中の無事を祈る風習に基づくものと解釈し、またサバは仏教語で鬼神等への供物を意味する「生飯(さば・さんばん)」が同音である鯖へと変化したものではないかと考察している。 鯖大師伝説もこのような祖霊信仰が行基伝説へと変化し、大師信仰の隆盛と共に旅の僧が行基から弘法大師へと移り変わったものと指摘している」として締める。
本坊から八角の護摩堂にお参りし境内を離れる。

鯖瀬浜(八坂八浜;4番目の浜)
鯖瀬浜;Google mapで作成
境内を離れ、鯖瀬川に架かる鯖瀬大師橋を渡り先に進む。牟岐線の高架を潜り国道55号に。その前の浜が鯖瀬浜ということだろうか。







萩坂(八坂八浜5番目の坂)
萩坂;google mapで作成
浜を離れ丘陵部に上る。鯖江トンネルの手前に左手、海側に逸れる道がある。この旧道が萩坂のようだ。道は整備された故か険路・難路の名残はない。土佐街道の案内もないため、成り行きで道を進む。





大綱浜( 八坂八浜5番目の浜 )
放生島

道は鯖江トンネル出口で国道にあたる。理由は不明だが合流点は車止めとなっている。左手には大浜海岸が広がる。大砂は大綱の転化と言う。
大浜海岸の南端の岩礁部に立つ大岩は、鯖江大師でメモした塩鯖縁起の放生島ではないだろうか。


鍛冶屋坂( 八坂八浜6番目の坂 )
鍛冶屋坂・鍛冶屋浜;GoogleMapで作成
大浜海岸が切れる辺りから国道は、海に突き出た丘陵部突端を切り開き進む。この辺りが往昔の鍛冶屋ではないだろうか。地図にこの丘陵部越えた浜に「鍛冶屋」とあったことだけが、ここを鍛冶屋坂と推定した唯一の理由ではある。




鍛冶屋浜( 八坂八浜6番目の浜)
丘陵を抜けた所、海辺に「鍛冶屋」の地名が地図にある。往昔の八坂八浜の鍛冶屋浜と推定ではあろうが、現在は如 まpde何にも埋め立られた風情を呈す。
その浜の先に加島城跡が地図に載る。案内には「加島城跡 加島の山上に築城された浅川城は別名加島城ともいう。築上されたのは元亀の頃で今から約四百年前のことである。風雲急をつげる戦国の世においては自分の土地を外敵から守るために最大のエネルギーがつかわれた浅川においても加島の豪族浅川兵庫頭が城主となり加島のとりでを守った。しかし天正三年(一五七五年)土佐の長曾我部の大軍が侵入衆寡敵せずに落城した。
藩政時代に至り、加島の山に遠見番所がおかれた、これは異国船を監視するところで。今もなお遠見の松が昔の面影をとどめている。また山上に石火矢床という地名があるがこれは黒船来襲に備え砲台所が設けられていたところである。
城下の御屋敷の一角に現住している吉田利夫氏は加島の豪族の子孫でありこの家の墓地には戦国時代の五輪塔が数基みられる。
加島城(浅川城)は鞆城 海部城と共に大海を背景に築造された海部の名城であった」とある。

栗浦坂( 八坂八浜;7番目の坂 ) 
栗浦坂・栗ノ浜(Google mapで作
鍛冶屋浜の先で国道は丘陵切通しを抜ける。切通の先の集落が栗の浦とあるので、この辺りが栗浦坂があった丘陵越えの地ではないだろうか。

 栗ノ浜( 八坂八浜;7番目の浜
川が海に注ぎ、少し開けてた平地となっている栗ノ浦の集落の前の海岸が栗の浜ではないだろうか。栗之浦神社も建つ。



仮戸坂( 八坂八浜;8番目の坂 )
弥勒像脇の切通し
国道を進み伊勢田川を渡り、天神社を越すと山裾に弥勒菩薩など多くの石仏が並ぶ。台座には「弘法大師千季供養」。天保五年(1834)、地元の庄屋と淡路、堺、大阪、兵庫の商人、僧侶の寄進により立てられた。御影石の石仏の高さは3m強。県下最大の弥勒石仏」といった説明と共にこの石仏が「浅川湾に臨む三浦浜に造立された、との文字が読めた。
ということは、この石仏群の建つ丘陵がかつての「仮戸坂」があったこころだろうと推測できる。国道55号から分かれた丘陵部を切通して抜いた県道196号辺りを往昔の仮戸坂がくだってきたのだろうか。

三浦浜(八坂八浜;8番目の浜 )
借戸坂切通と三浦浜(Google map)
三浦浜浜は現在埋め立てられ、浜の名残はなにもない。

これで八坂八浜を全てカバーした。といっても、土佐街道の案内などしっかりした案内にあるところ以外は、浜と坂の順、その間の地名を勘案しての全くの推定ではある。 で、歩いた結論として、往昔の八坂八浜の風情を楽しめるのは、第一の大阪峠から第一の内妻の浜に下り、第二の松坂を越え第二の古江浜に下りて国道に戻るまでと、第四の坂である鯖江坂から鯖大師への旧遍路道だろう。そのほかの坂と浜は美しい景観は楽しめるが、道路整備のため往昔の難路・険路の名残はない。

大里の標石
浅川漁港に入る県道196号を進む。ほどなく分岐。漁港堤防を進む県道から分かれ右に逸れる道を進む。直ぐ先に遍路道案内があり、右折の指示。そのまま進むと国道55号に出てしまった。 なんとなく県道196号筋が旧道ではと、成り行きで県道196号に戻り、浅川橋を渡り丘陵を上る。 県道196号は浅川港で切れるため、この坂道のこと正式に何と呼ぶのか不明だが通称、スベリ坂とも称するようだ。が、整備され滑る余地はない。
分水界となる丘陵ピークを越え、南阿波ピクニック公園への分岐点、道の右手に標石が残る。正面に「左ともうら 右おくうら 不つ 天保十二」といった文字が刻まれる、と。 奥浦、鞆甫共に南の海部の町に見えるが、標石の指す「右」は道の左手の丘陵部を指す。道があるとも思えない。どこかから移されたのではあろう。

海部
丘陵をくだり大里を抜け善蔵川を渡る。川の手前、右手に大里古墳。5世紀から6世紀の頃、古代豪族海部氏の建造の横穴古墳とのことだが、いまひとつ「古墳萌え」感が乏しくパス。
道は県道299号に合流し左折し海部川に架かる海部川橋を渡り旧海部町域に入る。橋を渡った本町商店街は旧土佐街道。土佐街道は商店街を南進し、突き当りの江川橋の手前を右折し国道55号に出る。
海部城
南北を川に挟まれ、東に鞆奥漁港を臨む標高50mの独立丘陵に建つ。元亀2年(1571)海部友光の築城。天正5年(1577)土佐の長曾我部元親の侵攻により落城。長曾我部氏の四国制覇のはじまり、という。
天正13年(1585)羽柴秀吉の四国攻めにより元親が降伏。阿波は秀吉家臣の蜂須賀家政の所領となり、家政重臣の益田氏を城番とするもその子の分藩の動きの科ににより廃城となり、陣屋が置かれることとなる。
その後は国境警備を主目的に半形人と鉄砲衆が配置され、文化四年(1807)に郡代役所が日和佐に移されるまでは海部郡の中心地として栄えた。城跡には虎口、曲輪、主郭跡、石垣などが残る。
〇半形人
半形人とは阿波水軍の大将、森村春の家臣。朝鮮の役、大阪の陣にも出陣している。 陣屋には36名の半形人が配置された。

那佐湾
海部の街を離れ国道55号を進む。と、眼前に深い湾入の姿を見せる那佐湾が目に入る。何だか印象的な湾だ。どのようにして形成されたのかチェックすると断層破砕帯に沿って形成された、とある。
地質図を見ると東西に那佐断層破砕帯が走る。断層破砕帯はずれの生じた断層面に沿ってできた岩石破砕部のことのようで、 破砕帯は一般に軟弱で,浸食,崩壊が速く進む、とある。門外漢のためよくはわからないが、東西に長く延びる断層面が侵食・崩壊によりこの形を成した、ということであろうか。海に突き出た岬には国土交通省が「地すべり防止区域」と指定している。
それはともあれ、この那佐湾は古くからの天然の良港として知られ、伝説では三韓征伐の折り、神功皇后が風待ちでこの湊にはいったとの伝説、また『播磨風土記』には履中天皇が、和那散(わなさ;当時この那佐湾一帯を「和那佐」と称した)でシジミを食したとの記述もある。
藩政時代は塩の製造をこの湾でおこなっていたようである。
乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡
国道55号が那佐湾に入ってほどなく、道の左手に「乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡」の案内。その対面、切通で残された海側の小丘に沿って国道から左に逸れる道がある。そこを進むと。「乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡」の案内がある。
「乳の崎狼煙台 今から200年前、江戸時代後期になると、異国船が日本近海に出没するようになり、また異国船の漂流もあって徳島藩は主に海上警備のため県南海岸に10ヶ丘の狼煙台を設置した。竹ヶ島煙台を起点にこの乳ノ崎煙台に継がれ、次に牟岐大島へと順次狼煙をあげ、御城下へとつたえられた。この乳ノ崎煙台は那佐湾の対岸山頂にありほぼ全景が残っている。 海陽町教育委員会」
「島弥九郎事件跡 元亀二年(1571)春、長曽我部元親の末弟島弥九郎は、病気治療に有馬に出かける途中、風浪を避けて那佐湾に停泊していたが海部城主越前守の率いる軍勢の急襲を受け、土佐勢の奮戦も空しく弥九郎は家臣三名(三島小島)に上り自害して果てた。このことは元親阿波侵攻の口火となった。弥九郎の非業の最後を哀れみ、村人は島の上に小塚を建てて霊を弔った。後年、元親もこの地に三島神社を建立して、弥九郎の霊を祭った」

乳ノ崎煙台はさすがに遠すぎる。パス。島弥九郎事件は前述海部城のところでメモした。ここにある三島小島は湾に浮かぶ二子島?三島神社は那佐湾の少し西、地図には那佐神社ときされている、那佐三島神社がそれ。

馬路越・居敷越
那佐湾についてチェックしていると、馬路越の記事に出合った(何度も引用させて頂いている、奈佐和彦さんの「かいふのほそみち」)。それによると。「中世の初期から発達し始めた四国霊場巡拝の遍路道として馬路越土佐本道が開発されて海部郷-那佐-宍喰」が結ばれた、とあった。
さらに古い時代には、馬路越道より西の丘陵を跨ぐ居敷越の道があったよう。馬路越えのルートでなくこの居敷ルートが造られたのは単に道を開く技術上の問題なのか、経済的理由も含め単に那佐湾辺りに下りる強い理由がなかったためか、結構面白そうなトピックではあるが、あまりに本題からはなれてしまいそうであり、思考停止とする。
土佐街道
居敷下り口辺りをGoogle Street Viewでチェックしていると、下り口(推定)から少し西に進んだ道の左手に「古道旧土佐街道」の案内があった。あれこれチェックすると、結構危険なルートのようだ。特にルート案内もないようだ。
道を入ると直ぐに浜に出るが、ルートは浜の手前で右折する。牟岐線高架を潜る辺りまでは荒れてはいるが、なんとなく踏み跡らしきものもあるようだが、そこで行き止まり。あとは道なき道や崖を力任せで進むようだ。浜に出て進む方もいたが、こちらも結構危険なルート。
国道55号への出口は国道が海岸線に出る辺りに這い出る記事がほとんどだった。ともあれ、このルートには足を踏み入れないほうがいい、との記事が大半だった。

宍喰(ししくい)
国道55号を進み宍喰(ししくい)の街に入ると、遍路道は国道を右に折れ県道301号に入る。徳島最南端の町。現在は海部郡2町(海部町・海南町)と合併し海陽町となっている。
県道は藩政時代の土佐街道往還筋。阿波と土佐の国境の宿場として発展したと言う。
往還筋には藩政時代、慶長三年(1598)阿波藩主蜂須賀家政に駅路寺として指定された円頓寺があったようだが、現在は往還筋右の大日時に合併されている。寺町の往還筋左には願行寺も建つ。
今は静かな町ではあるその歴史は古い。Wikipediaの記事をまとめると「古墳時代の5世紀には大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)が脚咋(あしくい)に派遣され近隣を治めたと伝わる。中世期には脚咋の地はを宍喰庄、海部郷に別れ、宍喰庄は1135年以降は鳥羽院の御領をへて1216年に高野山の蓮華乗院に寄進され寺領荘園になる。 本土への年貢や堺地方への木材の出荷を通じて、貨幣経済が発展した。また、海部刀などの刀鍛冶が発展していき、鎌倉時代には宋及び高麗との交易を行った。
戦国時代になると国司や郡司、荘園を治める荘官やその下で名田を治める名主が勢力を強めるが、宍喰地方においも鷲住王を祖とし、藤原姓を名乗る一族が宍喰城・愛宕山城・祇園山城などを築き、この地方を治めた。また、近隣の牟岐城・浅川城・野根城主とは同族で、高知県の安芸氏とも姻戚関係を結んで地盤を固めていた。 1578年土佐国を平定した長宗我部氏に侵攻され、城はことごとく落城する。秀吉の四国征伐後は、部将である蜂須賀氏が阿波国を治めるようになりその統治下に入る。
徳島藩政下では日和佐、後に海部に郡代官所が置かれ、宍喰では各村の庄屋と役人が年貢の徴収や政に当たった。 本町は土佐国との国境にあるため、国境警備目的の関所や鉄砲役を置いた鉄砲小屋、狼煙台、街道沿いの治安維持と旅人の宿泊施設として駅路地が置かれた。
「宍喰」の由来
「宍喰」の由来として、「宍喰(ししくい)は脚咋(あしくい)の転訛とされる。脚咋は「葦(イネ化の植物)をつくって主食とした住民」。履中天皇の時代に大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)がこの地に遣わされ、宍喰川下流の平野部を利用した農耕が近隣地域に先立って発達した事による。時代とともに狩猟に纏わる宍(カン、しし、にく)が使われるようになり、鎌倉時代以降は宍喰と呼ばれるようになった」とあった。

古目大師
宍喰川を渡ると山際に古目大師堂。県道はここを左に折れ海に突き出た半島部を上り阿波と土佐の国境へと向かう。
古目番所跡
古目大師のある古目の地は藩政時代、国境の関所(古目番所)のあったところと言われる。阿波から土佐の甲浦への山越えの道の上り口。古目の由来も「古い目付」との説もある。番所後は古目大師堂から直ぐ先の四つ辻を右折し、少し南に進んだ先の三差路を右に折れた道の左手に標識だけが立っていた。

宍喰越の土佐街道
メモの段階でわかたことだが、古目から土佐の甲浦に抜ける山越えの土佐街道があった。あれこれチェックすると、古目番所跡から少し西に峠への取り付き口があるとのこと。Google Street Viewでチェックすると、道の左手に木標が立ち「旧土佐街道 へんろ道 古道」と書かれていた。「へんろ道」ともあるので、わかっておれば峠を越えて土佐に入ったのだが、今となっては後の祭りである。
























宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)
県道を進むと直ぐ道の左に案内ボード。「宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)」とある。案内はふたつあり、「約4500年頃前、この地域は深海にあった。地震などが発生したときに、土砂が一気に海底に引き込まれ、海底の表面に凹凸の模様を作って土砂がたまり、それが積み重なり地層となった。
その後、隆起して陸地となり、今のような状態になった。規模も大きく、わかりやすい状態で残されていることから学術上貴重である」とあり、もうひとつの案内には「宍喰浦の化石漣痕」は、約4500万年前、新世代第三紀の始新世中期に生成にされた水流漣痕で、露頭面積も広く、彫刻も深く、かつ数種の異型のものが別々の層をなしている。地層は四万十帯、室戸半島層群の奈半利川層に属し、泥岩と互層する細粒砂岩層に上面には、水流漣痕を見ることができます。
代表的なものは、波長数10cmの舌状漣痕です。水流漣痕は、断面の形態が非対称で、一定方向の流れによって形成され、当時の水流が海溝軸に沿って、東北東から西南西に向かっていたことが伺われます。下面には底生生物に生痕化石が見られ、日本海溝の水深4000mを超える陸側斜面で見られる生物の這い跡に比類されます。当時の海溝に至る陸側斜面深部の海底の様子を物語るものです 地層面は東西に延び、北側に高角度で傾いており、海洋プレートの大陸下への沈み込み伴い、大陸側に傾きながら押し上げられた付加運動によるものです」とあった。
いまひとつ「萌える」こともなく、説明と共にあった写真の粒粒の岩(土砂の固まり)が並ぶ地層がそれなのだろうと即場所を離れる。

金目番所跡を越え阿波・土佐国境へ
県道309号を進み半島を抜け入り江へと出る辺りに左の竹ヶ島方面へと向かう道が分かれる角に「金目番所跡」と刻まれた石柱が立つ。この番所は主に船の航行の警戒と海上警備の任にあった番所とのことである。
この先、県道は水床トンネルを出て来た国道55号に合流。そこが阿波と土佐の国境である。

 今回のメモはここまで。次回は阿波と土佐の国境から室戸岬突端に建つ第二十四番札所最御崎寺までをメモする。

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