月曜日, 6月 01, 2020

阿波 歩き遍路:第二十二番札所 平等寺から第二十三番札所薬王寺へ

四国遍路の難路と世に言う第に十番札所鶴林寺道、第二十一番札所太龍寺道をクリアし第二十二番 平等寺まで進んだ。
今回は平等寺からはじめ、阿波の最後の札所である第二十三番札所薬王寺へと向かう。 平等寺のある阿南市新野から薬王寺のある海部郡美波町奥河内までの距離はおおよそ25キロほどだろうか。那賀川水系の桑野川支流を上流部まで進み東西に延びる丘陵部に取り付く。桑野川水系の分水界となる標高80mほどの丘陵部ピーク越え福井川筋に。
福井川筋に下った往昔の遍路道は洪水対策のために建設された福井ダム底に沈む。ために、ダム湖に沿った国道を南に進み、ダム湖を越えて福井川上流部へと進み、由岐山地に入る。由岐山地、と言ってもそのピーク由岐峠は標高130mであり、ちょっとした丘陵といったものだが、峠を越えると海岸線にちょっと開けた由岐の街に出る。
由岐の町からは田井川により開かれた田井、苫越の岬、木岐の町を抜け山座峠(標高115m)を越えて日和佐の町に建つ第二十三番札所薬王寺に着いた。
メモの段階でわかったことだが、日和佐に抜けるには由岐峠経由ではなく、貝谷・松坂峠越えのほうがよさげ、であった。旧遍路道として整備もされているようだ。
常の如く後の祭り。ちょっと残念ではあった。アスファルト舗装の由岐峠ではなく貝谷・松坂峠道を歩くのもいいかと思う。
ともあれ、阿波最後の札所への遍路道メモを始める。



本日のルート;平等寺>茂兵衛道標〈159度目)>広重口の標石>月夜橋北詰の破損標石>手印標石>池手前に標石>月夜御水大師>破損標石>鉦打坂薬師堂>弥谷観音>茂兵衛道標〈153度目)>由岐坂峠(郡界標)>由岐町の「四国のみち」指導標>田井浜の遍路休憩所>木岐>白浜の安政地震津波石灯籠>山座越入り口のお堂と丁石>山座峠>えびす洞>24番薬王寺


●第二十三番札所平等寺●

石段を上ると山門。境内の左手に鐘楼、閻魔堂、大師堂と並ぶ。正面にふたつに分かれた石段。下段十三段の石段は女性の三十三歳、上段四十一段の石段は男性四十二歳の厄除坂と呼ばれる。歳数に足らない分は足踏みを歳数とみなし数を合わせていたようだ。
石段左手に御加持水。白水の井戸。弘法の霊水とも開運鏡の井戸とも呼ばれ、この水は万病に効くと伝わる。
石段を上ると本堂。本堂の左手に不動堂が建つ。本堂前の生垣に新聞記事のコピー。本堂の壇から遠くを見ると大師が寝ているような風景が見られる、と。言われてみれば、前面の丘陵がそのようにも見える。
本堂左手に「女厄除坂」。こちらは三十三段と歳と厄歳と合う。後年、平成3年(199)頃には既にできてたようで、さすがに足踏みでの調整は如何なものかと新しく造作されたのだろうか。
Wikipediaには「平等寺(びょうどうじ)は、徳島県阿南市新野町にある高野山真言宗の寺院。白水山(はくすいざん)、医王院(いおういん)と号する。本尊は薬師如来。
寺伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。
寺名は、この霊水により、人々の平等な幸せを願い、また、一切の衆生を平等に救済する祈りを込めて「平等寺」と称されたという。
七堂伽藍や12の末寺を持つまでに栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716年 ? 1736年)になって照俊阿闍梨によって再興される」とある。 山号は御加持水である「白水」からのものであった。
茂兵衛道標
境内にちょっと唐突に標石が立つ。文字を読むと「平等寺  右立江寺 徳島 明治三十一年」といった文字と共に周防大島といった中努茂兵衛の在所が刻まれる。茂兵衛道標であった。施主は伊藤萬蔵。
この道標、茂兵衛道標の記録に見当たらない。チェックすると、阿南市福井町の鉦打トンネル付近の国道三差路に立っていたもの。昭和45年(1970)頃、道路整備の際に撤去され、近くの喫茶店に保管されていたものを譲り受け、この地に移設したとのこと。
平成27年(2015)8月16日付けの徳島新聞の記事にあるので、その頃に移されたのだろう。




第二十二番 平等寺から第二十三番札所薬王寺へ

平等寺から薬王寺までおおよそ20キロ。大洋に面した日和佐へと向かう。

平等寺新橋南詰に茂兵衛道標〈159度目)
門前、石段の左手に「これより薬王寺迄 五り」の標石。山門前より南に向かう道に入り桑野川に架かる平等寺新橋を渡る。
橋の南詰めに道標と石碑。左手のものは茂兵衛道標。「弐拾三番薬王寺へ五里 平等寺 明治三十一」と刻まれる茂兵衛159度目の巡礼時のもの。右手の大きな石碑は摩耗が激しく文字は読めなかった。


広重口バス停傍の標石
丘陵に挟まれた平地を進む。道は県道284号山口鉦打線。丘陵裾を進み桑野川支流が開く生谷を抜け、次いで現れる丘陵裾に入ると東から道が合流。「広重口」バス停のあるこの道の合流点の少し北、台座に三界萬霊と刻まれた片足を下した地蔵坐像の左手に標石。「左日和佐薬王寺 四 廣重」といった文字が読める。
新野の地形
平等寺からのルートを衛星写真でみていると、平等寺のある新野(あらたの)を取り巻く地域の奇妙な地形が気になった。桑野川本流が流れる平等寺辺りは谷底平野、というか山間盆地といった風情であるのはいいのだが、その周辺の丘陵が複雑に刻まれ、その間に谷底平野といった地が挟まれる。
Google Mapで作成
以前、櫛淵の地でみた三方を丘陵で囲まれたくさび型の平地、 櫛目状に連なった地形も見える。海岸近くの陸地には、はるか昔、隆起や沈降によりおぼれ谷状にできた入江とも思えるギザギザに入り込んだ多くの丘陵が見える。陸上にあった谷が、その地形を保ったまま何らかの理由で水面下に没し、またなんらかの事情陸地化して残った地形だろうか。
国土地理院の地質図には平地は堆積岩。形成時代は新世代。岩質は谷底平野・山間盆地・河川・海岸平野堆積物。丘陵地は付加体。形成時代は中生代。岩質は海成層、砂岩泥岩互層、とある。何となく惹かれる地形である。参考にGoogle Earthで作成した写真を掲載しておく。
付加体
付加体とは海洋プレートが海溝で大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の物がはぎ取られ、陸側に付加したもの。平地・平野部の堆積岩は付加体・砂岩泥岩曹が川の開析・風化・侵食などにより礫・砂・泥として堆積したものかと思う。門外漢のため素人推量。

月夜橋北詰の破損標石
丘陵の間を流れる南川に沿って県道284号を進み、丘陵裾を抜け、西から流れてきた南川が北へと向きを変える辺りに架かる月夜橋を渡る。橋の北詰に上部の破損した標石。「*んろ道」と読める。





月夜御水大師傍、県道脇に手印標石
南川が流れる小振りの山間盆地といった平地の南には東西に連なる丘陵があり行く手を阻む。県道284号が丘陵に辺り、左に折れて丘陵越えの道となる箇所では大規模な道路工事が行われていた。丘陵を南北に切り開こうとしている。丘陵取り付き口部の県道が細く蛇行しており、その箇所の直線化工事なのだろうか。
で、その道路工事始点に遍路道の案内。歩き遍路は直進とあるのだが、どこをどう進めばいいのかよくわからない。結局、県道を進むことにした。
左に折れ大きく曲がった先に思いがけなく手印だけの標石に出合った。

池手前に標石
道を進むと右手の崖下に小堂が見える。チェックすると月夜御水大師とあった。お堂へと下る道を探しながら進むと池があり、県道から池に逸れる道の分岐点に、真ん中から折れた標石。「右」といった文字が読める。





月夜御水大師
その対面に一箇所ガードレールの切れ目。そこから大師堂に下る道がある。 坂を下ると月夜御水庵 (月夜のお水大師)。1間四方の古いお堂。境内には樹齢1000年と伝わる杉の巨木。
伝わるところに拠ると、この地で泊まった空海(弘法大師)が、水がない衆生の不便を感じて加持し清水を湧かせた。と、水底に光を放つ石。その石で仏をつくり祈願をこめると闇夜に光明現れ月夜となった。その光で薬師如来と地蔵菩薩石仏を刻み薬師如来を祀った一宇の庵が月夜御水大師と言う。道から見えた小堂は伝説にある加持水のお堂であった。
今回は道路工事のため、歩き遍路の道がはっきりせず県道を上り、結果お堂の裏側からお参りすることになったが、表からお堂に向かう道がどこかにあったのだろう。

桑野川と福井川の分水界丘陵を越える
月夜御水大師から先の県道284号は、東西に延びる丘陵を越える。地図で見るとこの丘陵は北の桑野川水系と南の福井川水系の分水界となっている。曲がりくねった道を進み丘陵を下りて福井川筋に下りる。

月夜坂
月夜坂取り付口
県道建設以前の往昔のこの丘陵越えは「月夜坂」越と呼ばれていたようだ。ルートは池の南西端あたりに法面を上るステップがあり、そこから南の尾根筋を通り現在の福井ダム手前の谷、その名も裂股と呼ばれるとろこに出てきたよう。道筋には遍路墓や標石も残ると言うが、道は荒れ通行はできないようである。



鉦打橋を渡り県道55号に
福井川に架かる鉦打橋を渡ると右折。国道55号と並行して少し西に進むと県道284号は左に折れて国道55号に合流する。
遍路道はそのまま西に進み法面とガードレールに挟まれた道を進み、右に折れて水路を渡り耕地の中の道を進み、竹林を上ると県道55号東鉦打橋の西詰に出る。橋の下にささやかな水路はあるが、橋と言うより丘陵と丘陵の間の平地を跨ぐための高架橋のようにも思える。

福井川の河川争奪
地図を見ていると牟岐線新野駅から阿波福井駅へと通る平地がなんとなく気になった。桑野川水系の支流上流域と福井川支流の上流域が平地で接近している。地形からみて河川争奪が起こりそうな風情。チェックすると往昔、福井川はこの牟岐線の走る平地を桑野川へと流れていたよう。福井川は桑野川の上流域であった、ということだ。
その後この流れは動々原(牟岐線阿波福井駅の北東)辺りで福井川に争奪され現在の流れとなったようである。動々原辺りに福井川に注ぐ支流が残るが、これは往昔の川筋跡でろうか。

鉦打坂薬師堂
遍路道は東鉦打橋の西詰で国道55号に出る。国道対面にお堂。右側の覆屋には3基の石仏。左はコンクリート造りのお堂。その間に案内があり、『 鉦打坂 薬師堂由来』とあり、「右側に安置する薬師堂は新国道北側の旧土佐街道沿いに鎮座されていたもので、平成二年福井治水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成七年三月十七日現在地に遷座されたものであります。
お堂の裏の山道は過去の歴史に名高い「土佐街道」で、街道随一の難所鉦打坂が延々と続いており、その昔これを越える旅人(特に四国八十八ヶ所巡礼)が険しい山道に行き暮れて病に倒れるもの少なからず、里人講中の人々甚しく哀れに思い、相計って養生所を建て手当をつくし、不幸病没後はねんごろに弔い供養塔を建立、のち享保四年(一七一七)、衆生の病苦を救い無明の病疾を癒すという「薬師瑠璃光如来」を灌頂祈願したのがはじまりと伝えられております。
宿借ら ん 行方も見えず久方の 天の河原の 行き暮れの空
時は移り明治となって新しい国道が敷設され、嘗ての土佐街道は通行人も絶え、従って講中以外の参詣者もなく寂しい佇まいとなっておりましたが、霊験灼かな如来の衆生済度の念の然らしめるものか、この度参詣至便、而も往時の由緒深き現在地に遷座、再び衆生の前に御影を現わし給う。 「願わくば無辺の慈悲により、除病厄難を消除し、息災延命の御加護を成し給え」
「オンコロコロセンダリマトオギソワカ」 平成七年三月吉日 鉦打講中」とあり。

鉦打大師堂
鉦打坂薬師堂の左手には鉦打 大師堂。「『鉦打 大師堂 由来』 には「左側に安置する大師堂は、宗祖弘法大師を祀る「鉦打坂のお大師さん」と諸人に親しまれ衆生の篤い信仰を集めていたもので、福井治水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成七年三月十七日現在地に遷座されたものであります。
大師が四国霊場開創遍歴のみぎり、第二十二番平等寺より月夜坂を越え土佐街道の現在地付近を通り、姥目崖を下り渓流を渡って七分蛇、怪猫の住むという弥谷渓谷に足を留められ、ここを奥の院修験の場と定め厳しい修行の末、霊験受得・三界万霊・森羅万象全ての自然界と自分の身と心が一体と感じ念ずる即身成仏を唱え、如意輪穴観音、七不思議の霊跡を遺す。傍らの碑に示すとおり
一、不二地蔵 二、ゆるぎ石 三、笠地蔵 四、御硯り石 五、四寸通し 六、日天月天 七、胎内くぐり、
その他種々多様の石仏を祀るのが秘境弥谷観音で、同行二人の誓願をたて八十八の遺跡によせて利益を成し給う内の一つである。
後世に至り里人斉しく大師の偉大な御遺徳を偲び御跡を崇め弘化二年(一八四五)堂を建てて弥谷観音の前堂として灌頂し、その御徳を礼賛し奉ったのが起源と伝えております。
「願わくば無明長夜の闇路を照し、二仏中間の我等を導き給え」
「南無大師遍照金剛」「平成七年三月吉日 鉦打講中」とあった。
土佐街道
案内にある土佐街道は、薬師堂・大師堂のあるところから南に進む道を少し進み、現在の福井トンエルの先で国道55号筋に出たようである。現在は藪で荒れており歩けそうにない、とのこと。「裂股」は旧遍路道である月夜坂を越え福井川筋に下りる谷間を含めた、福井川左岸の丘陵部を福井町裂股と呼ぶ。

福井ダム
県道55号を進むと鉦打トンネル。このトンネルは福井ダム建設に伴う国道の付け替え工事で掘られたもの。竣工昭和63年(1988)、開通平成11年(1999)。301mのトンネルを抜けると福井川を堰止めた福井ダムとダム湖が右手に広がる。
平成7年(1995年)に完成。高さ42.5メートルの重力式コンクリートダムで、洪水調節・不特定利水を目的とする、徳島県営の治水ダムである。福井町は日本第二の降水量を記録したこともあるようで、徳島県の資料に「この地域は,徳島県においても多雨地域であり,台風期以外でも他地域に類を見ない豪雨があり,急峻な山地からの水の流出は早く,鉄砲水となります。特に,昭和20年代の度重なる大雨により被害が発生し,昭和27年3月22日には時間雨量162mmという集中豪雨により,死者6名,被害家屋360戸,浸水農地111haという大きな被害が発生しています。
また,本川沿いの耕地は,かんがい用水を福井川に依存しており,しばしば用水不足を来しています」とある。これが洪水・多目的利水ダムの所以だろう。

名月橋
福井ダム湖の左岸に22番平等寺奥の院弥谷観音があると言う。上述鉦打大師堂での由来にあるように由緒あるお堂。ダム建設後の姿は如何なものかとちょっと立ち寄り。
国道55号を左折しダム湖に架かる名月橋を渡る。橋の西詰に案内。「名月橋という名について ここ弥谷(いやだに)の-自然石の岩肌に線刻手法彫りこまれた「弥谷七不思議」のひとつ……。日輪と月輪の天体像を日天月天さんと呼んできました……。古代の民俗信仰の神秘性と深い謎につつまれたまま永遠にダムの湖底に沈むことになりました。
その日天月天の淡い月影が湖面に映えて明るく、まさに「明」めいの文字どおり仲良く並んで、渡れるようにとの意味ですが、はるかなる幻想と歴史的イメージから「明月橋」と美称したものでありました」とあった。
上述、鉦打薬師堂に弥谷観音の七不思議とあった「日天月天」に由来するとのことだ。

遊歩道に笠地蔵と日天月天
遊歩道入り口

福井ダム湖左岸の道を進むと、道の左手に「弥谷観音堂 右へ200m」の案内と共に、「弥谷観音 夫婦地蔵 笠地蔵 日天月天」は左へ、の案内。


車道を逸れ遊歩道といった土径の道を進むと夫婦地蔵、笠地蔵、日天月天の石造物が道端に立っていた。
道を進み擬木を上ると弥谷観音堂の少し手前の車道に出る。




弥谷観音堂
ゆるぎ石
お堂は車道より一段高いところに建つ。「弘法大師様ゆかりの 阿波坂東観音霊場第壱番 弥谷観音 御本尊如意輪観音」と刻まれた寺標石を見遣りお堂へと上る。擬木の敷かれた坂の周囲には幾多の石仏が並ぶ。
上り切った平場に大岩。「ゆるぎ石」とある。前述弥谷観音七不思議のひとつ。「第二十二番平等寺奥の院」と書かれた木札の掛る堂宇は観音堂とあった。本尊は防犯のためか祀られていなかった。
弥谷観音堂旧地
かつての弥谷観音堂は、福井川の渓谷にあった。現在の弥谷観音はダム建設に伴い移設されたもので、旧地は現在ダム湖の底に沈む。
前述『鉦打大師堂』の由来に「姥目崖を下り渓流を渡って七分蛇、怪猫の住むという弥谷渓谷に足を留められ、ここを奥の院修験の場と定め(中略)如意輪穴観音、七不思議の霊跡を遺す」とあるように、渓谷の岩窟を修行の場と定め、岩場に如意輪観音を刻み、絶壁には大日如来を祀り「行場とした、と言う。上述七不思議の笠地蔵、日天月天、ゆるぎ石も渓谷に沿った道筋にあったものを遊歩道や現在の弥谷観音堂に移したものである。
旧遍路道
福井トンネル傍、旧土佐街道出口(推定)
福井ダムが建設される以前の遍路道は福井川に沿って弥谷の渓谷に入り、弥谷観音に詣でた後、 福井川右岸に渡り上述「姥目崖」を上り、現在の弥谷観音堂の対岸にある福井トンネルを迂回する旧国道筋に出たようである。上述土佐街道は福井トンネルの先で下りてきたとのことであるので、遍路道は土佐街道に合流したのであろう。
因みに平等寺で見た茂兵衛道標は「鉦打トンネル」付近の国道三差路に立っていた」とあったが、 場所の特定はできなかった。

由岐分岐
名月橋まで戻り、国道55号を右に折れ福井トンネルを抜ける。抜けた先で右手からトンネルを迂回する旧国道が合流する。また、左手から下りてくる藪道は鉦打薬師堂・大師堂の辺りから越えてきた土佐街道・鉦打坂の下口だろうか。
道を進むとほどなく右に逸れる右。ガードレールに「右薬王寺」との案内がある。右に逸れ県道200号に乗り換える。


小野集落の茂兵衛道標〈153度目)
県道200号を進むと橋を渡る。逆瀬橋と呼ばれダム上流部の福井川を跨ぐ。この地で北に大きく蛇行した福井川が、一瞬、逆流しているよう見える故の命名だろうか。
その先、国道55号を潜った県道200号はほどなく左に折れて進む。遍路道はそのまま直進し小野の集落に入る。三叉路に茂兵衛道標。「是ヨリ三里半 薬王寺二十三番 平等寺 徳島 明治三十年」茂兵衛153度目巡礼時のもの。

由岐坂峠(郡界標)
茂兵衛道標の三差路を左に折れ、福井川に沿って進む。道は県道20号となる。ほどなく国道55号バイパスの高架を潜る。この辺り東西、南北に流れてきた福井川の支流が合流する地点。右に曲がれば貝谷の谷筋、左に進むと辺川の谷筋。
地図を見ると辺川の谷筋を進む県道20号筋に遍路休憩所がある。とりあえず左に折れ、遍路休憩所を見遣りながら谷筋を進むと県道は丘陵を越えるべく右に折れ峠に向かう。
二車線の立派な県道を上り峠につくと右手に「阿南市」、左手に「美波(由岐)」の看板が立つ。阿南市と海部郡美波町の行政域のここが境。
峠の左手には郡界標が残る。「郡界標 北那賀郡 南海部郡 距徳島県庁十一里二十* 距海部郡役 三里三十一丁 大正十年」といった文字が刻まれる。
峠には特に峠名の表記はないが、地図には由岐坂峠とあった。峠を下り田井に下りる。
土佐街道・貝谷峠・松阪峠越え遍路道
メモの段階でわかったことなのだが、往昔の遍路道は由岐坂越えではなく、貝谷峠・松阪峠を越えて田井に出たようである。ルートは、福井川の支流が合流する地点で今回歩いた逆、右に曲がり貝谷の谷筋に入り、そこから貝谷峠・松阪峠を経て、現在の55号線バイパスのトンネル出口辺りに出たあと、里道に下ったようである。
道も地元の方の尽力で整備されているとのこと。このルートは往昔の土佐街道であり、『四国遍礼日記』を著した澄禅もこのルートを歩いたと記事にあった。
土佐街道・星越峠越え遍路道
上述、小野集落の茂兵衛道標〈153度目)を右に折れ、現在国道55号が通る道筋も藩政時代の遍路道。星越トンネルのある辺り、星越峠には地蔵尊があり、「「薬王寺 二里余 弘化二巳年(1845)七月二四日建」と刻まれていたようだ。
由岐町経由の貝谷峠・松阪峠越え土佐街道が星越峠ルートに変更になったのは明治34年(1901)。阿南市小野と日和佐町大戸を結ぶルートに変わり、峠越えのバスも走った、とか。星越トンネルが開通したのは昭和43年(1968)のことである。

由岐の町
Google mapで作成
峠道の途中に遍路休憩所を見遣り、牟岐線の手前を右折し、牟岐線由岐駅の山側の道を進む。駅の海側に由岐の街並み。リアス式海岸の入り江に港。かつては土佐や九州との海上交通の中継地点として栄えたとのことである。
『太平記』には「阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。」とある。
太山の如なる潮漲来てとは、正平16年/康安元年(1361年)の正平・康安地震による津波のことであるが、この津波で1700余の家屋が津波に呑み込まれたとある。ここにある「雪の湊」は由岐の湊のことであっるが、当時既に1700戸の家が建つ大きな港であった、ということである。
『平家物語』には「権亮三位中将維盛は、(中略)忍びつつ屋島のたちを出で、阿波国雪の浦より鳴戸の沖をこぎ渡り、和歌の浦、吹あげの浜、玉津島明神、日前、国懸の御前を過ぎて、紀伊ぢの由良の湊といふ所に着給へり」とある。「雪の浦」とは由岐の湊のことであるが、船運中継地としての 性格を示す記述である。
海部郡由岐町は平成18年(2006)、日和佐町と合併し現在は海部郡美波町となっている。

苫越
県道を進みかつての由岐町の名残を残す美波町西由岐(対岸にも東由岐の地名がの残る)を越え、牟岐線田井の浜駅の山側を進む。ほどなく牟岐線の踏切を渡り海岸側に。そこは田井の浜。名の由来は、「定説を欠くが、「たい」は「田結い」からの語で農作業上の手間がえを意味し、漁村では共同で地引網を引く意であることから名付けられたという説がある」とWikipediaは言う。
田井の浜休憩所z8お遍路休憩所)を見遣り海岸に沿った県道を少し進むと、遍路道は木岐トンネルに向かう県道を右に逸れ、ほどなく県道高架下を潜った後、木岐トンネルの海側を迂回する旧道に入る。
道を上ると直ぐ、山側に「土佐街道」の標識。当日は、土佐街道を辿る散歩でもないしなあ、などと通り過ぎ木岐トンネル南口で県道25号と合流し次の入り江の町、木岐へと下る。
土佐街道苫越ルート
ちょっと考えれば、県道などの道路整備される以前の遍路道は土佐街道を利用したのだろう、といったことはわかるのだが、当日は先に進むことに気が急き苫越岬の上り口にあった「土佐街道」の標識を軽く往なした。
で、メモの段階で標識の写真をじっくり見ると」「土佐街道苫越登り口 一里松跡と薬王寺 二里の道しるべ(この上五十〈米))」とあた。チェックすると「道しるべ」とは徳右衛門道標のことのようだ。「従是薬王寺二里 本願主豫州 徳右ヱ門 施主 那賀郡答島郷 新浜善蔵」と刻まれrとある。峠への上り下りの道は荒れ果て現在は廃道となっているようだが、徳右衛門道標があるとわかっておれば、藪漕ぎで進んだではあろうが、今となっては後の祭りである。

苫とは歴史民俗用語で、「菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる」とある。昔地震による大津波のとき、苫がこの峠まで打ち上げられたところからつけられたとも伝わる。

木岐の四国千躰大師標石
苫越の県道を下り、木岐に(美波町木岐)。県道を道なりに進むと木岐駅の少し北、牟岐線の高架手前に照蓮の四国千躰大師標石が立つ。左を指す手印に従い道なりに進み、牟岐線木岐駅前をぐるりと左に廻り木岐の港に沿って進む。

この木岐(きき)を含め海部郡の海岸線には志和岐、木岐、由岐、牟岐など「岐」のつく町が目につく。地名の由来、特にこの場合の「岐」は何を意味するのだろう。
あれこチェックするが、それらしき記事がヒットしない。で、妄想を逞しくすると、最初に思いつくのは過日12番札所焼山寺から13番札所大日寺への道すがら出合った、船盡(ふなと)神社での「妄想」。
そこでは、船盡(ふなと)神社のベースには、阿波に多く残る「岐(ふなと)信仰」にあるのでは、メモした。その岐信仰は「来名戸(くなと)信仰」からの転化。「来名戸」は「来名戸祖先神(くなとさえの神)がそのベース。「くなと」は戸(家)に来るのを拒否する、の意。さえの神とは塞(さえ)の神。塞神とは疫病などが村々に侵入するのを防ぐ道祖伸である。
この岐神信仰に由来する?この海部郡にも岐神信仰由来の伝承があるとは言え、焼山寺を下った神山町に七百以上もあると言う岐神さまを祀る祠がの辺りに多数あるとの記録もない。岐信仰と結びつくエビデンスが見つからない。
別の説としては、古代豪族紀氏の傘下に組み入れらた海人由来のものといった記事もあった。紀>岐の転化ということだろう。
ともあれ、「岐」の由来は不明。少し寝かせて置く。

白浜の安政地震津波石灯籠
木岐漁港に突き出た丘陵裾を抜ける県道25号を進むと白浜の海岸に。ほどなく海岸沿いに遍路休憩所。遍路道はここで県道を逸れ海岸堤防に沿って進む。
少し進むと右手に木岐王子神社。ちょっとお参り。さっぱりとした境内に「木岐王子神社石灯籠 奉一燈 嘉永七年(1854)11月5日快晴の午後4時ごろ大地震が発生し、1時間ほどの間に津波が三度押し寄せ、家が流された。波の高さは12m以上にもなった。王子神社も流され翌年に移転した。大地震の節は油断なきようあらかた記しおく」の説明と、灯籠に刻まれた「嘉永七寅十一月五日清天七ツ時大地震、半時之内大汐三度込入軒家流失凡四丈余上リ、當宮流失明卯八月遷宮、大地震之節油断無之事荒方記置」の写しが掲載されていた。
地震の規模は現代風に言えばマグニチュード8.4。房総から九州まで被害を及ぼした大地震であるが、この木岐浦においても被害は甚大で230戸のうち190戸が津波で流失した、という。

山座峠越入り口のお堂と丁石

王子神社の先、遍路道は木岐浜から恵比須浜に抜ける山座峠越の道に入る。海岸際の取り付口にセメント造りのお堂と地蔵座像、お堂の左手に下半分が埋まった標石があり、手印と共に大師像が見える。照連の四国千躰大師標石だ。お堂の中に祀られる舟形地蔵も丁石を兼ねており、台座に「辺路道 薬王寺 七十五丁」と刻まれる、と。
如何にも海辺の樹林といった風情のウバメガシ(?)の木々の中をしばらく進むと、白浜で分かれた県道25号に合流する。比高差は70mほどだろうか。1キロ弱を緩やかに上る道であった。
土佐街道・殿さま道
往昔の土佐街道・殿さま道は、遍路道とは異なり、上述王子神社辺りから丘陵に取り付き、山座(さんざ)峠の西へと下りていたようだ。現在は廃道となり藪漕ぎMUSTの荒れたルートとなっているようだ。

山座峠
県道25号に合流点には「四国のみち」の木標。「山座峠1.0km」とある。県道とはいえ、ほとんど車が通ることはない。大型地震による津波浸水想定地帯を走る県道25号の代替ルートとして建設された国道55号バイパスを利用しているのだろう。

しばらく歩くと山座峠。峠といった風情はない。そこに山座休憩所(遍路休憩所)。ルート図があり、山座峠から県道を離れ恵比須浜に下りる道が示される。浜に下りた後は海岸に沿って日和佐の町へと向かうようにと示されていた。
擬木の敷かれたアプローチから下り、100mほど高度を下げると田井の集落に下りる。途中舟形地蔵丁石。「遍ろう道 是より五十丁 左日和佐浦 天明元」といった文字が刻まれる、と。
しばらく歩き、潟湖堤防前に遍路道は下りる。

田井の一石三体の石塔
Googke mapで作成
田井の集落に下り、田井湾に沿って道を進む。巾着の口のように締めた地形の田井の浦の地形は結構面白い。砂(礫)洲・砂(礫)堆によって造られた潟湖を活用した浦であろうし、外洋と結ばれた細い水路は砂(礫)洲・砂(礫)堆を掘りぬいたものではないだろうか。砂(礫)洲・砂(礫)堆は20mほど、その下にも6mほどのシルト層(沈泥)が堆積していると国土地理院の資料にあった。
県道が恵比須浜へと右に折れる角に一石三体の石塔。上部に役小角、右に不動明王、左に地蔵菩薩が刻まれる。

恵比須洞の岬上り口に四国千躰大師標石
田井の浦を過ぎ、恵比須浜に沿って南に突き出た岬に進む。岬への上り口、海側に標石が見える。 正面に大師坐像、側面には「真念再建願主」といった文字が刻まれた照蓮の四国千躰大師標石。
岬の突端に「恵比寿洞」の案内。「美波町周辺の海岸は、打ち寄せる太平洋の荒波に浸食されて、いたる所に大小の海蝕洞が見られる。中でもこの恵比須洞は標高52mの岩山に、内部が32m、高さ31mの半円状に貫通しており、県内では最大のものである。
荒波が押し寄せると洞窟の中で轟音を発し出口から噴出する様は実に壮観である。山上には展望台があり、傍らに夫婦和合の神として、恵比須洞神社が祭られている。洞穴には町指定天然記念物である「イワツバメ」が棲息している」とあった。

日和佐
ウミガメの産卵地で知られる大浜海岸北端辺りまで海岸線を走った県道25号は、日和佐八幡神社北側の道へと進み、三差路を西に向かう。道の右手に弘法寺、観音寺と続く。観音寺の道を隔てた北側には美波町役場。その前に日和佐御陣屋跡が立つ。
美波町役場の先はT字路。県道25号は左折し、北河内谷内川に架かる厄除橋を渡り、直ぐ桜町通を右折。門前町の桜町通りを直進すれは第二十三番札所薬王寺に至る。
弘法寺
弘法寺は法印さんで知られるようだ。法印さんは江戸末期の、日和佐で生まれた行者。栄寿法印と称し、荒行の末小松島での化け物退治なといくつもの霊験譚が伝わる。本尊は弘法大師坐像。境内には法印堂も建つ、と言う。
観音寺
観音寺には「二見千軒と寺屋敷」の話が残る。「日和佐町の西南端に小さい円い湾があって、そこを二見といっている。湾の周囲は険しい山であるが、その山の中腹に、一町四方程の平地があり、ここを寺屋敷といっている。この地が「二見千軒」と言う伝説のところであって、大昔、二見には千軒ほどの家があったが、陥没してなくなり、寺屋敷にあった寺も日和佐に移った。今の観音寺がその寺で、山号も二見というと伝えられている。
観音寺の縁起には「弘法大師が二見に来られた時、霊木得て十一面観音を造り、補陀落山観音寺を創立せられた。その後、440余年を経て正嘉二年(1258)八月、台風雨洪水大波のため、山下の町八百余家が一時に海となったので住居しがたく、檀家の人びとと共に現在の所に移って来て、村を開いた」と書かれている。
日和佐御陣屋跡
阿波藩は、地方行政の役所として明和6年(1769)郡奉行と代官の名を改め郡代と唱え、阿波国内を6区とした。那賀・海部が一区となり、3人の郡代はそこに常駐したが、時々管轄地を巡見するのが通例であった。
寛政11年(1799)海部郡鞆浦に、海部郡代所が新築されて新御陣屋と呼ばれた。海部郡は徳島より遠く、交通不便で異国船の警備や、国境に近い重要地などの関係で設置されたものと思われる。
更に文化4年(1807)御陣屋は日和佐のこの地に普請をして移転された。この日和佐御陣屋が最後の郡代役所となった。以来明治初年に至る約60年間、郡代役所の機能を十分に生かし、上は藩庁の指揮に随順し、また管轄6箇町・木頭4箇村の協力を得て、多事多難であった行政に有終の美を発揮したのである。今日も尚、遺跡は町役場・日和佐小学校として行政と文教の歴史を織りなしている。
いま、御陣屋の遺構として残っているのは、北西隅の土塀の一部と、遺物としては、ここにある蜂須賀氏の卍紋のついた瓦と的石である。
この役場庁舎の玄関横にある的石は、御陣屋の西北隅の射場に南面して立っていた矢見立岩である。日和佐小学校改築の際に移転してから、三度の移転を経て、平成9年現在地に設置したものである。
地上部は、高さ1.8メートル、巾2.0メートル、厚さが0.5メートルで、岩質は堆積岩(礫岩)で、日和佐町の宝木橋付近に産する珍しい石で出来ている。矢見立岩の名のとおり、この岩陰で、的を射とめたかどうか判定するのに使用したものである。
日和佐の町
日和佐の町についての記事を探していると、「美波町日和佐地区散歩絵地図」にわかりやすい説明があった。「門前町と港町 門前町である「寺前・桜町」と、古来より港町として発達した港町(川口町)として発達して来た日和佐浦(港町周辺の総称)よりなり、門前町は参詣者や陸上交通の発達で栄えた比較的新しい町。日和佐浦は江戸中期より台頭してきた廻船商人の活躍や、"御陣屋"(後の郡役所)が置かれた事もあり、明治に至るまで、海部郡の政治・経済・文化の中心として栄えてきました。とくに"谷屋" に代表される廻船(交易)によってもたらされた様々な文化が、この町の構成や人々の営みに多大な影響を与えていたことは、日和佐浦の古い町並みなどからも見てとることができます」とある。
桜町は上述の通り。日和佐浦は弘法寺や御陣屋跡があった、、北河内谷内川北側の地区。北河内谷川に架かる厄除橋も、元の橋は廻船業で財を成した谷甚助が総引受人となり、人々の浄財をもとに完成した。と言う。引船渡、木橋を経て石橋を架けた。
日和佐の由来
日和佐を中心とした上灘一円はその昔「和射(わさ)」郷と称していた。明治13年(1880)徳島県が調査した「阿波国村誌」には「古老伝に、往古、和佐(和射)と言いけるが、空海はじめてこの地へ着船、陸に上りし時、旭登れるに所の名を問う。土民「和佐」と答えけるが、朝日を受けて良き地なりとして「日和佐」と言しよし」と記される、と。
土佐街道・小田坂峠越
今回の散歩は田井の恵比寿浜から海岸に沿って大浜海岸を経て日和佐に入った。メモの段階で危険な海岸沿いの道ではなく山越えの道があるのではとチェック。と、田井から日和佐に抜ける土佐街道・小田坂峠越の道があった。
Wikipediaには「北河内側から登る際には、小田坂といい、田井側からはソロバン坂とも言われる。この峠は北河内田井から北河内札場へと抜ける、かつての土佐街道の本線で、阿波藩藩主である蜂須賀氏も通ったと伝わる。かつて道幅は6尺(1.8メートル)ほどあったが、昭和期には、3尺(90センチメートル) ほどになっており、現在は通行困難となっている」とあり、「峠には一本松があり、峠から200mほどの日和佐側には花折地蔵が祀られる」と記されていた。
北河内の真念道標
Wikipediaには現在通行困難とのことだが、WEBをチェックすると結構多くの方が歩いている。それはそれでいいのだが、この道が遍路道であった(当然そうだろうが)エビデンスはないものかと更にチェック。と、牟岐線北河内駅の少し北に真念の道標が残る。「右 大く巳んみち   左 やく巳う寺みち 十丁余」と刻まれると言う。
「大く巳んみち」って何だろう。これが小田坂峠越えとの関連があるのであれば、小田坂峠越えの遍路路のエビデンスになるのだが?そういえば徳島の十番札所の傍にあった真念道標にも「大くわん道」と刻まれていた。以下妄想。観音寺(かんのんじ)のことを真道標には「くわんおんじ」とあった。とすれば、大く巳んみち>大かんみち>おおかんみち>往還道?土佐街道・小田坂峠のことを指しているのだろうか?単なる妄想。根拠なし。
○日和佐浦の旧遍路道
小田坂峠越遍路道のエビデンスとなる標石をチェックしていると、上述「美波町日和佐地区散歩絵地図」に和佐八幡神社の西、通りを少し奥まったところに、遍路道標の記事。Google Street Viiewでチェックすると「日和佐町日和佐浦 旧険路道しるべ」と書かれた標識とその傍に舟形地蔵と角型石柱があった。
上述北河内谷に出る遍路道とも、澄禅が辿ったとする海岸沿いの遍路道ともルートが外れる。あれこれチェックすると、ここから奇岩・大岩から小田坂峠を経て田井に抜ける道があったようだ。この道標はその道を辿ったお遍路さんのために立てられたのではないだろうか。
尚、この記事作成に際しては、いわや道・平等寺道をメモする際、中山道の記事を参考にさせて頂いた「大瀧嶽記(奈佐和彦)」のお世話になった。地元の方の記事は、誠にありがたい。
今回のメモはこれでお終い。次回は第二十三番薬王寺から始める。

0 件のコメント:

コメントを投稿