土曜日, 9月 19, 2020

土佐 歩き遍路;第三十一番札所 竹林寺より、三十二番 禅師峰寺、三十三番 雪蹊寺を打ち第三十四番 種間寺へ

今回は31番竹林寺より34番種間寺までを常の如く遍路標石を目安に旧遍路道を辿る。全行程23キロ程度だろうか。 
竹林寺から南の大畑山地を越え32番禅師峰寺までおおよそ7キロ。道は山地に深く切り込んだ侵食谷を辿るため、緩やかな坂道を上り標高20mほどの鞍部を越えるだけであり険しい山越えではない。
鞍部を越えると市域は高知市から南国市と変わる。大畑山地北麓を東西に走る仏像構造線の南は構造体としては四万十帯であり、山地は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期)の地層である砂岩・泥岩、砂岩泥岩互層などをその特徴とするが、国土地理院の地形図を見ると、山を越えた先、海岸線との間は形成時期を新生代第四期とする堆積岩、海岸・砂丘堆積物の岩質となる。打ち寄せる波により形成されたものだろうか。その海岸線の平坦地を辿り大畑山地の支尾根が海岸線に迫る丘陵にある禅師峰寺に。寺の標高は80mほど、山道参道もきつくない。
禅師峰寺から雪蹊寺まではおおよそ9キロ。大畑山地南の海岸・砂丘堆積物で造られた地を西に進み、南国市から再び高知市に入る。さらに西に進み浦戸湾に中州状に延びた先端部で渡海船に乗り、浦戸湾西岸に渡る。実際は散歩当日、何故か「欠航」となっていたが、それは稀なことのようであり、ルート図は海を渡ったこととして描いた。
浦戸湾西岸に渡るとその地形は烏帽子山山地から延びたいくつもの支尾根からなる長浜丘陵。幾筋もの支尾根奥に深く切り込まれた侵食谷は新世紀第四期の谷底平野の岩質を呈す。 遍路道は長岡丘陵を西に新川川に沿って進み雪蹊寺に。新川川は野中兼山によって開削された人工水路であった。 
雪蹊寺から次の種間寺までの距離は大よそ7キロ。新川川を西に進むと長浜丘陵を切り抜いた唐音の切抜。仁淀川から取水した新川川の水を浦戸湾に流すため切り抜いたもの。唐音の切抜を抜けると高知市長浜から、高知市春野町に入る。
春野は「墾る野」から。仁淀川東岸の新田開発のため野中兼山により開削された利水・治水の水路に知らず出合い種間寺にたどり着く。
跡付け、付け焼刃ではあるが、散歩の途次に出合った兼山開削の新川川と諸木井の水路図を地図にマッピングしておいた。遍路歩きに役立つとも思えないが、水路フリーク故の好奇心ではある。興味のある方はご覧ください。


本日のルート;
竹林寺から第三十二番禅師峰(ぜんじぶ)寺へ
坂本の茂兵衛道標(185度目)>下田川・遍路橋を渡る>県道247号を南下>武市半平太旧宅>>石土トンネルを抜け南国市に>石土神社>自然石標石を左折>禅師峰寺参道口に>三丁・二丁石>第三十二番札所 禅師峰寺
第三十二番禅師峰寺から第三十三番札所 雪蹊寺へ
青石板状標石>県立高知高等技術学校西端に標石>標石?>仁井田の聖神社>仁井田の仁井田神社・一の鳥居と御旅所>種崎の御座大師堂>県営渡船種崎待合所>(迂回)>渡船長浜待合所>人工水路・新川川(長浜川)に沿って西進む>鶴田熟跡>第三十三番札所 雪蹊寺>秦神社
第三十三番札所 雪蹊寺から第三十四番種間寺へ
日出野>唐音の切抜>一つ橋>丘陵鞍部で右に逸れる>標石が続く>甲殿川・諸木井水路橋>西諸木の標石>新川川に架かる新川川橋>第三十四番札所 種間寺に



■竹林寺から第三十二番禅師峰(ぜんじぶ)寺へ■

坂本の茂兵衛道標(185度目)
今回のメモは竹林寺より禅師峰道を下り、参道が県道32号にあわさる地点に立つ茂兵衛道標からスタートする。茂兵衛道標の「峯寺」への手印に従い道標を左折し、下田川に沿って県道32号を東進する。 
下田川
下田川(しもだがわ)は、高知県を流れる延長約14kmの二級河川。江戸時代には、稲生鉱山で採掘された石灰を運び出すための航路として利用されていた。
高知県南国市包末付近に源を発し、物部川から取水された農業用水を集めながら南西へ流れる。源流部を地図をチェックすると28番札所大日寺から29番国分寺に向かう途中に出合った松本大師堂の近く、野中兼山が物部川から水を引き開削した舟入川のすぐ傍。舟入川と同様兼山が開削した人工用水路のようだ。
下田川は小さいながら下田川水系とし、支流として樋詰川・介良(けら)川が合流し高知市五台山で浦戸湾に注ぐ。介良川は後述遍路橋の少し東で北の介良から注ぎ、樋詰川は更に上流で南から注ぐ。 流域はどの河川も物部川が形成した扇状地低地に流れを発し、香長平野平野の西に残る鉢伏山、五台山と、その南に東西に連なる大畑山丘陵山地に挟まれた一帯である。
樋詰川は海岸線を東西に流れる川筋と繋がっているように見える。地図に見える溜池を境に東西に流れがわかれているのだろうか。
介良
「土佐国長岡郡の九郷の一つ「気良郷」。のち源希義 の流摘の地が「介良庄」。キク科の古名ウケラの自 生地?(『土佐地名往来』)」

下田川・遍路橋を渡る
コンクリート護岸補強された下田川に沿って東進。右手護岸コンクリートに「ヘンロ橋跡」と書かれたプレートが埋め込まれている。かつての遍路橋が架かっていた箇所だろう。 その直ぐ東に遍路橋。遍路道はこの橋を渡り下田川左岸に移る。前面は直ぐ南に大畑山(標高143m)の丘陵が東西に繋がる。地区名は「唐谷」。「地検帳にはカラ谷。日影地のカウラが転訛しカラ、日 当たりの良くない谷」と『土佐地名往来』にある。

県道247号を南下
遍路橋を渡るとそのまま唐谷の集落を南下。大畑山から東に延びる丘陵の山裾まで進むと突き当りに遍路道案内。「禅師峰寺3.5km」とある。案内に従い左折、山裾の集落の細い道を東進し県道247号に合流。右折直ぐ「高知南国道路」の高架。遍路道は高架を潜り県道247号を南進する。 県道は大畑山山地を南に切り込んだ低地を進み(侵食谷?)、標高30m弱の鞍部を越えて南に抜ける。

武市半平太旧宅
ほどなく県道の左手に「武市半平太 旧宅と墓」の案内。ちょっと立ち寄り。県道を左折し、侵食・開析され(?)東西に分かれた大畑山山地の東側山裾に「武市半平太 舊宅及墓」の石碑があり、古家がその左に建つ。
武市半平太
旧宅傍にあった案内には「国史跡武市半平太旧宅及び墓 【1936(昭和11)年9月3日指定】 武市半平太は、幼名鹿衛、諱は小楯、瑞山は号。別に吹山、?茗の号があります。(1829(文政11)~1865(慶応元)年)
半平太は、こちらの旧宅に22歳まで居住していました。宅地225坪で、その頃の規模が残っています。屋根は、元は藁葺でしたが、現在は銅板葺となっています。 (現在は民家として使用されていますので、旧宅は非公開させていただいております。ご見学はご遠慮ください。)
武市半平太の墓は、ここから南に接する丘陵にあります。墓碑には、武市半平太小楯と刻してあり、妻富子の墓と並んでいます。」とあった。
旧宅の逆を進むと瑞山神社と墓がある。

Wikipediaで補足。「優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した」とある。 龍馬も元は土佐勤王党に参加するも、脱藩後は勝海舟の影響もあり「開国思想」と変わってゆく。

石土トンネルを抜け南国市に 
県道に戻り南下。緩やかな坂を大畑山地の鞍部に向かって上り、右手に刈松神社の社が建つ辺りより県道を離れ右手に逸れる道に乗り換える。
直ぐ石土トンネル。トンネルが高知市と南国市の境。トンネルを抜けると南国市緑ヶ丘となる。トンネル出口には神保神社が鎮座する。

石土神社
宅地開発されたような街並みを道なりに進み石土池西岸に出る。結構大きな池だ。場所から見て農業用溜池とは思えない。どうも宅地開発された十市パークタウンの雨水調整池のようだ。 名前の由来は、池の西南端にある石土神社からだろう。
石土神社
『続日本後紀(しょくにほんこうき)』に、延喜式内社と記載される古社。読みも「(いしつちじんじゃ」「 いわつちじんじゃ」などの名が見える。それもあってか石土池も「いわつちいけ」「いしどいけ」「いしづちいけ」、地名をとって「十市の池」とも呼ばれるようだ。

縁起を読んでいると、ちょっと気になる箇所があった。「三百有余年前修験者此神社より 伊豫國新居郡瓶ヶ森に勧請し延喜式社なりと衆人に呼かけても朝庭 に於せられては御記録の通りにて此郡此村にして寸分の紛れなしとて御変更なかりしとか其の後伊豫新居岡市の境なる伊豫の地高嶺に遷座してより本名高嶺の名は次第に廃れ現在の石鎚山となる石鎚神社は延喜式社に非ず、(中略)石鎚神社は元土佐の國より分霊したるものにして土佐長岡の石土毘古の命と原祠を稱すと記せり(石鎚山先達記に有り)」とする。古来伊予の石槌(いしづち)神社を奥の院に、当社を前の宮とも称する、と。
要は、伊予の石鎚神社は土佐から分霊されたとのこと。そういえば石鎚山のお山開き祭事の際、土佐の信者が供奉するとも聞く。また、当社裏手の石灰洞は伊予の吉田(私注;南予にある)まで続くといった話も残る。伊予との繋がりの深堀にフックが架かりそうだが、ここはちょっとセーブ。

自然石標石を左折
石土川から注ぎだす十市川に架かる石土橋を渡ると県道14号。遍路道は県道合流点を右折し、すぐ県道を左に折れる。そこに「32 禅師峰寺1.2km」と刻まれた新しい標石があり、「すぐ先左折」の矢印が記される。
指示に従い県道より南下すると、二筋南の四つ辻に自然石の標石。手印と共に「へんろミち」と刻まれる。
十市(とおち)
この一帯は十市地区。「海辺に延びた砂洲。遠く突き出ている「遠洲」、門戸のよ うな「戸洲」がとおつ、とおちに転訛」と『土佐地名往来』にある。



              第三十二番札所 禅師峰寺

禅師峰寺参道口に
集落の間の生活道を東進すると、前が広場となり道の左手に大きな石仏と小振りな石仏群、標石そして「四国第三十二番霊場 八葉山禅師峰寺」と刻まれた寺標石が立つ。 遍路道案内に従い広場を左折れ参道口に向かう。
参道口はふたつに分かれる。左は車道参道、歩き遍路は直進する。参道口には手印と共に「禅師峰本堂 三四〇米」と刻まれた標石が立つ。

三丁・二丁石
ジグザグの遍路道を上る。比高差は60mであり、それほどキツイ坂ではない。道の途中には三丁、二丁の舟形丁石、1基の石仏が立っていた。
尾根道散策コース
お気楽に山道参道を進んでいると、なんとなく違和感。地図をチェックすると寺から東へと離れている。引き返し、地図に記される寺への道筋と思しき実線まで戻る。
よく見ると分岐点には「尾根道散策コース」の案内。峰寺>栗山>札場へと独立丘陵の尾根道を進むハイキングコースの案内が雑草に埋もれるように置かれていた。少し注意しなければならない分岐点だ。
栗山は丘陵部、札場は丘陵の東、海岸に面した平地にその地名が見える。

境内
山道を出ると四十八段の石段。石段を上ると仁王門。仁王門の右手に本坊。仁王門を潜ると右手に石灰岩の奇岩を背に峰寺不動明王が立つ。




右手に奇岩を見遣りながら三十一段の石段を上り、右に曲がると正面に本堂、右手に鐘楼、左手に大師堂。大師堂前面には地蔵堂が建つ。
本堂も大師堂も香台の置かれたところにも覆屋が建っている。あまり見ない様式のように思う。本堂は昭和45年(1970)の台風で被害を受け、修築に際し時の住職がコンクリートでの再建案を避け木造を決断。美しい屋根のフォルムを楽しむことができるのもそのおかげである。

境内にあった「禅師峰寺略縁起」には、「寺伝によれば平城天皇の大同二年(八〇七)に、弘法大師が一宇を建て海上安全祈願のため自刻の十一面観音菩薩像を当寺の本尊として、安置せられ四国八十八ヶ所のうち第三十二番札所と定められた。
当山は観音の浄土天竺補陀洛山さながらの霊域にしてその山容八葉の蓮台に似たりとして八葉山と号し、大師当山に於いて求聞持の法を修せられたので求聞持院と称す。 藩政時代藩主が浦戸港出帆の際必ずこの寺の観音に海路平安を祈ったこのことから船観音ともよばれている。
金剛力士像二体は仏師定明の作(正応四年)で重要文化財に指定されている。(保管庫で保存)」とあった。
Wikipediaを基に補足すると、「禅師峰寺(ぜんじぶじ)は、高知県南国市にある真言宗豊山派の寺。寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、行基菩薩の開基された峰の寺ゆえに禅師峰寺と空海が名付けたとの話も残こる。

第三十二番禅師峰寺から第三十三番札所 雪蹊寺へ

次の札所雪蹊寺は浦戸湾を渡った西側、直線距離にして9キロほどである。直線距離と言ったのは、浦戸湾を渡る渡船を利用した場合のこと。如何なる理由か不詳だが、散歩の当日は欠航となっていた。仕方なく当日は浦戸大橋を渡り桂浜のある竜頭岬経由で雪蹊寺へと向かった。
結構大廻りとなったが、渡船は通常は欠航することがないようであり、メモもそのルートを組み込んでの 雪蹊寺への遍路道を記す。

青石板状標石
禅師峰寺を下り参道口に。遍路道は禅師峰寺への往路に辿った道筋より一筋南の道を西進する。 道は大畑山地の丘陵の南、太平洋に面した海岸堆積物を岩質とした堆積岩よりなる。 道の右手に小さな独立丘陵が見える阿戸地区の先、四つ辻左角に標石。青石で造られた板状標石には「へんろ道」。手印と共に「三十二番峯寺 三十三番興福寺」の文字が刻まれる。雪て蹊寺の旧寺名は高福寺。それゆえの「興福寺」ではあろう。
阿戸
「土佐日記の「大湊」十市説?オド(大門=門は水の 出入り口)が転じてアド(『土佐地名往来』)」

県立高知高等技術学校西端に標石
白石神社の建つ丘陵を越えると遍路道は県道14号とクロスし、そのまま直進する。県道を越えた道は地図に県道14号とある。交差して海岸部に向かう道も県道とある。遍路道は旧路というこtだろうか。
県道を境に南国市から高知市仁井田に行政域が変わる。

道を西進、砂地といった如何にも海岸堆積岩よりなる地形を表す地区を越え大平山(標142.8m)の山裾、県立高知高等技術学校の校庭西端の道の左手に標石らしき石柱。記録ではこの辺りに「へんろ道 三十二番へ十二丁 三十三番へ一里十六丁」と刻まれた遍路標石があると言う。その標石かもしれない。

三里
大平山の山裾を進み大平山を抜けて来た県道376号・高知南インター線を越えると、南に折れる県道14号と分かれ直進すると三里(みさと)小学校や三里中学校と、三里を冠する施設名が多くある。この辺りは仁井田??
現在は仁井田であるが、明治22年(1889)の町村制の施行により、種崎村・仁井田村・池村の区域をもって長岡郡三里村が発足したと言う。そういった歴史を踏まえての「三里」だろう。その後、高知市に合併し三里村一帯は高知市仁井田となったようだ。

仁井田の聖神社
道を進むと山側に聖神社がある。鬱蒼とした社叢に社が鎮座する。
鳥居傍の狛犬、阿吽一対の狛犬の姿が少し異なる。阿の狛犬台座には大正6年〈1917)とあるが、吽の狛犬には台字不明で、少し新しいようである。後年の作であろうか。
境内に由緒案内は無く、御祭神等は全て不明だが、昔は聖観音堂と称されていたようである。 聖神社境内前、道を防ぐように巨大な御神木が残る。
聖神社
聖神社の名前に惹かれ、あれこれチェックすると、結構全国に分布しているようである。秩父の黒谷、和同開珎の史跡を訪ねた時にも聖神社があり、そのご神体は採掘された自然銅を御神体にしていた。
高知にも他に聖神社が見受けられるが、高岡郡越知町にある聖神社が面白そう。断崖絶壁の洞窟に鎮座する社は鳥取県の三徳山三佛寺奥の院「投入堂」(平安時代後期:国宝)を思わせる景観であり、土佐の投入堂とも称されるようだ。江戸時代後期頃には造られたようだが、詳細は不明。一度訪れてみたい社である。

仁井田の仁井田神社・一の鳥居と御旅所
聖神社境内前の御神木脇を抜け西進。仁井田の街並みの中を進むと、道の左手にスペースが現れ、そこに鳥居と石造物が見える。チェックするとこの地の北、太平山南麓に鎮座する仁井田神社の一の鳥居と、石造物は御旅所であった。
仁井田神社
仁井田神社は道の右手に立つ注連柱の間の参道道を北に進み社頭に。そこに二の鳥居。社殿までには三の鳥居、四の鳥居を潜り進むことになる。社殿は入母屋造り千鳥破風付きの屋根を持つ大きな拝殿と、春日造りの本殿からなり、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
社の由緒には「古くは五社大明神とも言われていた。天正15年(1587)頃、高岡郡の仁井田明神(現四万十町窪川の高岡神社)を勧請して祀ったのが当社という」とある。この説明だけでははるか離れた仁井田(現在の窪川一帯)と当地の仁井戸由神社の関りなどがわからない。ちょっとチェック。
浦戸湾と窪川の仁井田神社
あれこれデータを調べていると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで”船渡御(ふなとぎょ)”が行われた。この御神幸は波静かな灘晴れが続くときに行われるため、”おなバレ”と土佐では言われる。この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている。(ツヅキ島の仁井田神社は横浜地区の総鎮守で地元では”ツヅキ様”と呼ばれる)」とある。
窪川移住の神託は「投げ石」
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
土佐神社遷座の神託も「投げ石:
上述神託のプロットってどこかで出合った気がする。薄れゆく記憶に抗い思い起こすと、それは土佐神社の「礫岩の謂れ」とほほ同じプロットであった。
「礫岩の謂れ」を再掲すると、「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である」とあった。
物語の成り立ちを妄想
時代から考えて、仁井田神社の遷座に関わる物語は土佐神社のプロットを借用したのであろうか。 仁井田神社の物語に登場する仁井翁は、仁井田の地名に神性を付加するためのものだろうか。物語の主人公である伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
もっとも、新田橘四郎玉澄も周辺の新田開発を行ったゆえの小千(後の越智)から「新田」姓への改名とも思えるし。。。?ともあれ、上述石土神社に限らず、土佐と伊予がはるか昔には結構強い繋がりがあったようである。
船渡御
ツヅキ島の仁井田神社由緒に「小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで”船渡御(ふなとぎょ)”が行われた。(中略)この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている」と記されるのだが、これがよくわからない。この船渡御ってコンテキストから考えれば窪川の仁井田五社明神からはるばると浦戸まで運ばれ船渡御で御旅所の当地仁井田神社に渡り、さらにツヅキ島の仁井田神社に船渡御された、と読めるのだが???
土佐神社もはるか昔には、西に大きく離れた浦の内湾の西端にある鳴無(おとなし)神社に土佐神社の神輿が渡御する「しなね祭り」が神事としてと行われた言うし、であれば、窪川と浦戸を結ぶ神事があったのだろうか。「高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社」とあるわけで、 であれば神輿は高知以外のどこかから渡御あれたとしか読めない。とはいえ、少々遠すぎる感あり。

種崎の御座大師堂
道脇の御旅所にフックがかかり、仁井田神社で結構メモが長くなった。先に進む。遍路道は浦戸湾手前で県道278号に合流。浦戸湾入り口へと南西に延びるかつては砂礫洲といった趣の種崎地区を進む。道の意右手、浦戸湾側には造船所のクレーンが建ち並ぶ。
しばらく進むと道の右手に小堂。種崎の御座大師堂。33番札所雪蹊寺の奥の院とも言われる。弘法大師四国御巡錫の砌り種崎に足を泊めここを開基したと伝わる。


県営渡船種崎待合所
御座大師堂から少し南に進み、右に折れると浦戸湾の護岸壁前に県営渡船種崎待合所。人は無料で対岸の長浜地区の長浜渡船場までに渡る。その距離575m。およそ5分の乗船と言う。 が、何故か当日は「欠航」のサイン。結構、ガックリ。
浦戸の渡し
この通称浦戸の渡しは、その昔お遍路さんも使っていたようであり澄禅はその著『四国遍路日記』に、「「(禅師峯寺より)山ヲ下テ浜伝ニ一里斗往テ浦戸ト云所ニ至ル、爰ニ(私注;ここに)大河在リ、材木米等ノ舟出入スル所ナリ、大裏焔上ニ付テ、太守与進上ノ材木ノ舟トテ三十余艘、順風ヲ待テツナキ置タリ、此河二太守与渡シ舟ヲ置テ、自由自在ニ旅人渡ル也、夫与浜伝ニ一里余行テ高福(雪蹊寺)ニ至ル」と記す。
種碕
岸壁より対岸を眺める。6キロ弱と誠に狭い。種崎は、「戸の崎、ト(門・戸)は土地が両方迫り狭くなった水運 路?刀禰(船長)の居る崎、刀禰崎」と『土佐地名往来』とあった。

浦戸大橋経由で長浜渡船場に
渡船欠航のため仕方なく歩いて対岸に向かう。ルートをチェック。と、種崎から海を隔てた南の竜頭岬に浦戸大橋が架かっている。浦戸大橋を渡り竜頭岬経由で種碕渡船場対岸の長浜渡船場に向かうのが最短コースのようだ。
浦戸大橋を渡ると浦戸城跡、龍馬像で知られる桂浜、長曾我部元親の墓などちょっと気になるところはあるのだが、とりあえず長浜渡船場に向かうべしと途中の旧跡はすべてカットし、成り行きで進み長浜渡船場に「戻る」。
浦戸湾の地形
浦戸湾(Google Earthで作成)
歩きながら浦戸湾の地形を見ていると、高知平野と浦戸湾の境、仏像構造線が東西に走る線にある西の烏帽子山山地と東の大畑山山地がバッサリと切り開かれ海峡となり高知平野と浦戸湾を繋いでいる。
また、大雑把に言えば浦戸湾の高知平野への開口部と浦戸湾が太平洋に繋がる部分も南北に一直線に切り開かれているようにも見える。川が切り開くにはちょっと不自然。これってなに? あれこれチェックしていると、「寺田虎彦博士東西方向の山脈が南北方向の断層によって分断された結果ではないかという科学者としての文章を残している。高知県の地質には南北方向の断層線がほかにも多く分布している」といった記事を目にした。はるか、はるか昔の地殻変動の所産なのだろう。


●渡船長浜待合所から雪蹊寺へ●

渡船長浜待合所
渡船場の場所を確認し、遍路道歩きのスタート。地図に渡船場の北に御畳瀬(みませ)の地名が見える。上述、伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、最初に上陸したとされる所である。
烏帽子山地と長浜丘陵(Google Earthで作成

左右に見える低山は烏帽子山山地から南に突き出した幾つもの支尾根からなる長浜丘陵ではあろう。
笑ヶ浦(わらいがうら)
渡船長浜待合所の道を隔てた丘陵側に庭園風の門構え。門は締め切られているが、門傍に「長浜史跡コース 笑ヶ浦(わらいがうら)」の案内。「明治二十三年(一八九O) 当時笑ヶ浦の住人、森九郎右衛門、号笑浦の書いたこの地の由来記の一節に、『山嶺ニハ一小茅亭ヲ建テ爰ニ笑ヶ浦ノ八景ヲ題シ、笑浦夜雨、西法寺晩鐘、浦戸帰帆、種崎晴嵐、桂濱秋月、藻洲潟落雁、桟嶋夕照、仁井田寮雪、ト云。」と書いてあります。
また明治二十年漢詩人で吾川郡長を勤めた三浦一竿の詩碑と、翌二十一年清人馬仲?の詩碑が山上に残されています。
両詩碑とも山上の見晴亭から浦戸湾の美を称えた詩であります。さらに由来記には、「漁船等ヲ繋泊スル一小湾二シテ安政年間故太田儀左衛門氏ノ物語ル二地名ハ「和合ヶ浦」ナニト。」と書いてあります。
天正十七年長宗我部地検帳には、「「わラヵ浦』一所拾六代下畠(ひとところじゅうろくだけのはたけ)「わラヵ浦村」宮崎強力扣(ごうるりきひかえ)」とあります」とある。
これだけではなんのことかよくわからなかったが、後述する雪蹊寺駐車場にあった「長浜史跡コース」にこの丘陵東端部に笑ヶ浦とあtった。門が閉まりここからは入れないが、丘陵に上る道があり、笑ヶ浦八景を愛でるところがあるのだろう。

人工水路・新川川(長浜川)に沿って西進む
遍路道は新川川の北岸を西進する県道278号を辿る。この新川川は野中兼山によって開削された人工水路。仁淀川の八田堰から取水し、弘岡井(ひろおかゆ)、新川川により一帯を灌漑した後、浦戸湾と結ばれた。
仁淀川の八田堰から概略図を書いてみる。地図を見ると人工的に開削された水路と仁淀川の自然分流の川筋を繋ぎ合わせ浦戸湾に続けているようだ。特に南北に流れる甲殿川などは人工的に開削した人工水路(新川川)を落とした自然水路のように思える。人工水路と自然水路を組み合わせた治水・利水事業はよく見る。利根川の東遷事業で源頭部を失い廃川となった古利根川の流路を改修し葛西用水の流路として活用した大落古利根川などが記憶に残る。

「広谷喜十郎:野中兼山と春野」より
この新川川は灌漑、仁淀川と浦戸を結ぶ舟運〈木材)のほか洪水対策として排水の機能も備えるようだ。地図に新川川の流れを落とした甲殿川が土佐湾に注ぐ手前(西戸原)で大きく西に向き変える箇所があるが、そのためもあってかこの甲殿川の河口が土砂で埋まり諸木地区が洪水に見舞われたようだ。そのため、甲殿川が西に向きを変える地点(西戸原)から人工的に水路を開削し、唐音の丘陵(後述)を切り抜き、長浜川と繋ぎ浦戸に水を流した。開削された新川川筋が唐音へと河口付近で不自然に東進、さらに北進し唐戸の切抜に繋がりるのは排水・洪水対策でもあったわけだ。
仁淀川からこの地を流れる新川川(長沢川)に繋がる人工水路には新川川のほか、諸木井などもある。諸木井を浦戸に繋げたのは灌漑用水の用途の他、新川川と同じく排水の機能もあったのだろうか。
(流路概要はGoogle Mapと共に掲載地図を参照ください;「広谷喜十郎:野中兼山と春野、高知市広報「あかるいまち」2007 年 12 月号」より)。
この利水・治水工事は慶安元年(1648 年)、まず弘岡堰(現八田堰の前身)と八田川(一名弘岡井筋)の工事に着手し、5カ年を要して承応2年(1653 年)に完成したとのことである。

鶴田熟跡
新川川に沿って県道278号を西進。しばらく歩くと道の右手、T字路を少し北に入った石垣の前に石碑があり
「鶴田熟跡 幕末の土佐藩政吉田東洋が蟄居中に開いた熟跡 熟生に岩崎弥太郎、、後藤象二郎、福岡孝弟などがいた」と刻まれる。傍に手書きの案内。「鶴田熟跡 幕末の土佐藩政吉田東洋が蟄居中に開いた熟跡である。東洋は安政元年(一八五四)、江戸出府中に、酒癖の悪い山内家親戚の幕府役人を接待していて、頭をなぐったため罰せられた。翌年四月、長浜の鶴田に塾を開き、安政五年(一八五八)一月、参政に復帰するまで、ここで子弟の教育につとめ、後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎らの門弟を養成した」とあった。
石垣上の熟跡は更地となっていた。
吉田東洋
武市半平太の土佐勤王党の郷士により暗殺された土佐藩執政ということは知るが、暗殺に至る経緯などは知らない。ちょっとチェック。
Wikipediaをもとにまとめると、「先祖は土佐の土豪名家。戦国期は長宗我部元親に仕えた。土佐在郷の名家ゆえ山内一豊の入国後、一豊から三顧の礼をもって仕官を勧められ、土佐藩上士として迎え入れられた家柄に生まれる。
東洋は藩の重臣として仕えるも、上述事件により蟄居。この地で若手藩士を教育するが、その子弟が「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えることになる。
安政4年(1857年)12月に蟄居赦免。翌年1月には参政として藩政に復帰し、法律書『海南政典』を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。然し、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となり、文久2年4月8日(1862年5月6日)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾などによって暗殺された」とあった。


第三十三番札所 雪蹊寺

更に西に進むと深い叢が県道まで延びている。その直ぐ先、左手が大きく開ける。雪蹊寺参拝の駐車場となっている。駐車場の境内玉垣の前に前述「笑ヶ浦」でメモした「長浜史跡コース」が案内されていた。

境内への8段ほどの石段の前、左手に寺標石。「四国三十三番霊場」の左右に「みね寺二り 是よりたねま寺二り 明治四十年十月」と刻まれ、標石を兼ねている。

境内に入ると右手に鐘楼、左手に安産地蔵、馬頭観音堂と並び、正面に本堂、その右手に大師堂が建つ。本堂に置かれたなで仏(おびんずるさま)は患部治癒の願いからよく磨かれ、真鍮色に輝いていた。
曾我部信親公の墓所
本堂右裏には長曾我部信親公の墓所がある。宝篋印塔、五輪塔、宝塔などが立つ。長曾我部信親公は元親の嫡男。秀吉の軍門に下った後、九州攻めに参陣。無謀とされる戸次川(へつぎかわ)の合戦で島津勢の大軍に敗れ戦死。信親に殉じた家臣の供養塔も残る、と言う(基本、墓所撮影は遠慮しており、写真なし)


境内にあった「長浜史跡コース」には「高福山雪蹊寺(四国霊場三十三番札所) 延暦年間(七八二~八〇六)弘法大師が開基されました。もとは高福寺といいましたが、鎌倉時代に運慶と湛慶作の毘沙門天の仏像など(国重文)が安置されたところから、慶雲寺と改称された経緯があります。
戦国時代、月峰和尚を中興の祖とし臨済宗に改宗され、長宗我部元親の菩提寺となり、元親の法号にちなみ雪蹊寺と改称されました。

慶長五年盛親の敗戦で山内一豊公の入国となり、七十石を拝領しました。歴代の住職やその弟子に朱子学を学んだ天質と小倉三省、谷時中などを輩出し、南学の中心地ともいわれています。 明治二年廃仏毀釈により廃寺となりましたが、同十二年山本太玄和尚を住職とし復興され、その弟子山本玄峰和尚は昭和の傑僧といわれました。本尊薬師如来三立像」とある。

Wikipediaにより補足すると、「雪蹊寺(せっけいじ)は、高知県高知市長浜にある臨済宗妙心寺派の寺院。高福山(こうふくざん)、高福院(こうふくいん)と号する。
『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。
雪蹊寺改名の元となる長曾我部元親の法名は「雪蹊恕三大禅定門」。江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した。
明治時代になると廃仏毀釈により明治3年(1870年)廃寺となり、翌年、後方に隣接して当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社が建立された。その後、大玄和尚により復興した。なお、明治12年(1879年)に再興されるまで納経は、31番竹林寺で「高福寺」の名でされていたという。
太玄和尚
境内を入るとすぐ左手に「太玄塔」と刻まれた石碑が立つ。「長浜史跡コースの案内には「太玄塔  雪蹊寺が廃仏毀釈の後、再興に尽力した十七世山本太玄宜點和尚のために、養子嗣法となった玄峰和尚が建立した塔で碑文は裏側に刻まれています。
碑文の一節には、「文政九丙戌年(一八二六)京都ノ公家二生マル幼時花園桂春院ノ徒トナリ長ジテ岡山国清寺月珊和尚二師事シ三十餘歳ニシテ茨木本源寺二住ス明治十二年本山妙心寺ノ特命二ヨリ當寺再興ノ為来ル。(中略)明治三十六年六月二十八日當寺二於テ遷化ス世寿七十八歳」 昭和廿八年七月吉辰 前妙心寺派管長嗣法比丘般若窟玄峰謹志」とあった。
山本玄峰老師
太玄塔の横に2基の石碑。そのうち1基が上述、明治の頃寺の復興に努めた山本玄峰師の石碑。上半身像が載る。石碑に人物の説明も刻まれているのだが、当日は篤志家のひとりでもあろうかと注意を留めず「太玄塔」の案内写真の端に偶々石碑が写るが解説は半分だけしか読めない。あれこれとチェック。と、検索ヒット多数。「長浜史跡コース 雪蹊寺」の案内に、「昭和の傑僧といわれました」とある所以である。
慶応2年(1866年)和歌山の生まれ。十代で目を患い四国遍路にでる。裸足での遍路だったと。 7回目の途上、雪蹊寺の門前で行き倒れとなっていたところを住職の山本太玄師に救われる。24歳の時という。
この出会いにより出家を決意。妻と離別し翌年雪蹊寺で出家。修業を重ね83歳で京都の妙心寺管長、最後は江戸期臨済宗中興の祖・白隠禅師創建の三島龍沢寺の住職となり、昭和36年(1961年)96歳で遷化した。生涯四国遍路すること17回。最後の遍路は95歳の時と言う。
で、気になる「昭和の傑僧」の所以だが、若き頃参禅会で玄峰を慕った田中正玄、井上日昭といったいわゆる右翼、昭和のフィクサーとの交流ゆえか(5.15事件では井上日昭の弁護を引き受けている)、また三島龍沢寺に師を頼った多くの著名人との交流ゆえではあろう。
天皇の玉音放送にある「 堪え難きを耐え忍び難きを忍び」の文言は終戦時の首相である鈴木貫太郎への終戦を勧める書簡の中の一文とも言う。また、書簡には象徴天皇制への示唆も書かれているとか。
月峰和尚
戦国時代、雪蹊寺の中興の祖、月峰和尚には妖怪とのやりとりの伝説(歌詠み幽霊の伝説)、所謂「雪蹊寺物語」がある。
ある日、ひとりの旅僧が寺での一夜の宿を村人に願う。村人は「妖怪が出るので近づかないほうがよい」と。が、僧は一人寺にて座禅を組む。と、夜更けにどこからともなくむせび泣く声。耳をすますと「水も浮き世という所かな」と聞こえる。
旅の僧は、和歌の下の句と聞き取り、上の句がないため成仏できず悲しんでいるのだろうと思い至る。
翌晩、同じくむせびなく声。僧は「墨染めを洗えば波も衣きて」と上の句を詠み、続けて「水も浮き世という所かな」と繋ぐと、むせび泣く声はハタと止んだ。
この話をきいた長宗我部元親はその僧に雪蹊寺の住職になるように頼み、元親は雪蹊寺を立派に建て直し、今に至るという。その僧こそが月峰和尚であった、と。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
土居楠五郎 (保) 墓
境内の長浜史跡コース案内に掲載されていた。案内には「土居楠五郎 (保) 墓 坂本龍馬の剣の師、長岡郡十市村字系木の郷士(現南国市十市)高知築屋敷の日根野弁治道場の師範代として、龍馬が十四歳の時から指導し、人間形成にも深い影響を与えたようです。慶応三年九月二十三日、龍馬最後の帰郷の時、種崎中城家に上陸、小島家にて二人は劇的対面をしています。十市の土居家墓所を移転の時一族の墓石とともに当寺へ移したようです」とあった。

秦神社
雪蹊寺の東、寺に隣接して建つ。長宗我部元親の菩提寺である雪蹊寺が廃仏毀釈により明治3年(1870年)に一時廃寺となった。そのため、雪蹊寺に安置していた元親公の木像を移し、ご神体としたのがこの社のはじまり。明治4年(1871年)4月7日(新暦5月25日)に建立された。戸次川の戦いで戦死した長宗我部兵の霊璽板(大位牌)も祀るとのこと。
秦神社の社名の由来は長宗我部氏が中国秦王朝の始皇帝の子孫とされる秦河勝の後裔と称したことによる。河勝は聖徳太子に仕え京都の太秦(うずまさ)を開いたことでも知られるが、その後裔が信濃国に移り、26世の孫能俊(よしとし)の代に、土佐国庁役人として赴任し土佐に入ったとする(異説もある)。
土佐入部の経緯ははっきりしないが、長曾我部氏の祖はこの能俊(よしとし)とすることは一致しているようだ。
秦が長曾我部となったのは、居住した地が長岡郡宗部郷(宗我部郷)であったため。能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、隣の香美郡にも宗我部氏を名乗る一族があったため、香美郡の曽我部氏を香曽我部氏、長岡郡の曽我部一族を長曾我部氏したとのことである。
長浜城址
長浜史跡コース」案内には「長浜城址 秦神社と雪蹊寺の背後の山が長浜城址であり、二カ所の竪堀跡がありました。しかしながら現在は、四百有余年の星霜により風化し、樹木に覆われ容易に目にすることはできません。
戦国時代に、土佐、吾川の両郡を支配していた本山梅慶(茂宗)の子茂辰の支城で、大窪美作守(弁作)が城主でした。
長宗我部国親は、父の兼序の死と岡豊落城の首謀者であった本山氏の討滅を決意していましたが、その機会ができたので、国親の元家臣であった福留右馬允の手引きによって日時を定め、永禄二年(一五六〇)五月二十六日の雨風激しき夜、種崎から海を渡り御畳瀬より、長浜城を奇襲して攻略しました。今も城山の北西の谷を夜討が谷と伝えています。
戸の本古戦場跡
秦神社から少し西、新川川の南の「戸の本一号公園」の中に「古墳勿毀」と刻まれた石碑が立つ。 「こふんなり。こぼつなかれ」と読むようだ。戦死者を弔う塚であるので、こわしたらダメ:ということだろう。
ここは長浜城攻防戦の時、長曾我部と本山氏が戦った古戦場跡。国親急襲の報を受け、本山氏の居城である朝倉城(高知市西郊)より本山茂辰が二千の兵を率いて長浜に攻め寄せ、長曾我部勢一千と激突した。
このとき長曾我部元親は22歳。この合戦が初陣であった。「姫和子」と呼ばれていた元親はこの合戦での働きにより以降、「鬼和子」「土佐の出来人」と称されるようになった、とか。 四国制覇を目した戦国の雄である長曾我部氏であるが、元々強大な力をもっていたわけではなかったようだ。土佐七雄(本山、吉良、安芸、香曾我部、大平、長曾我部)の中でも最弱であったようで、居城岡豊を本山氏に奪われ一族存続の危機に瀕している。
岡豊城の落城際し、兼序の嫡子千雄丸は一条房家を頼り中村に逃れ、一条房家の下で元服して長宗我部国親を名乗った。そして房家の配慮により永正15年(1518年)岡豊城に帰還して長宗我部氏を復興、20代当主となっている。このような経緯を踏まえての長浜城急襲ということである。
一条房家
文明9年(1477年)、関白・一条教房の次男として誕生。土佐一条氏は、父・教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向して在地領主化した公家大名である。房家自身も正二位の高位に昇り、その名門の権威をもって土佐の国人領主たちの盟主として勢力を築き、土佐一条氏の最盛期を築き上げた。本拠地の中村には「小京都」と呼ばれるほどの街を建設した。なお、現在の四万十市にある東山や鴨川という地名は、房家が京都にちなんで名づけた地名であるといわれる(Wikipedia)。


■第三十三番札所 雪蹊寺から第三十四番種間寺へ■

次の札所種間寺までの距離はおおよそ7キロほど。高知市長浜から高知市春野町となる。春野町は野中兼山が開削した水路が幾筋も流れる。春野の地名の由来は「墾る野」。野中兼山への敬愛は、兼山を祭る春野神社 となり、昭和32年の合併では春野町」と『土佐地名往来』にある。散歩の途次、兼山開削の水路に知らず出合うことになる。

日出野
雪蹊寺を離れ県道278号を東進する。右手の日出野地区は「中世の悲田院(病人貧者の救護施設)由来の地名。「土佐 幽玄考」に悲田院野の訛り」とあると『土佐地名往来』は記す。『続日本記』には、土佐には幡多郡と吾川郡長浜に造るとあるようだ。悲田院の場所は比定されていない。
悲田院
聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承がある。
日本では養老7年(723年)、皇太子妃時代の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録があり(『扶桑略記』同年条)、これが記録上最古のもの。また、奈良時代には鑑真により興福寺にも設立された。
平安時代には、平安京の東西二カ所に増設され、同じく光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下におかれた。
鎌倉時代には忍性が各地に開設し、以降、中世非人の拠点の一つとなった。 大阪市天王寺区の南端に位置する悲田院町(JR・地下鉄天王寺駅近辺)など、地名として残っているところもある(Wikipedia)。

唐音の切抜
唐音の切抜(Google Earthで作成)
日出野地区過ぎると前面を丘陵地が防ぎ、県道・水路はその丘陵地を堀割った切通しを抜ける。ここが前述唐音の切抜(切通し)。県道が2車線に整備され切り抜きの風情はあまりない。
左右の丘陵を見遣りながら歩くと、法面補強された北岸の一段高いところに石碑。「唐音の切抜」とあり。「土佐藩の奉行職野中兼山は吾南平野の灌漑と水運のため弘岡用水と新川川の水路の開発に1648(慶安元)年より5年の歳月を費やして完成した。
唐音の切抜は新川川と浦戸湾を結ぶ水路として開発されたもので長さ50間(90m)高さ15間 5尺(27m)幅7間(12m)に及ぶ大工事であった。

この切抜の開通により仁淀川流域と高知城下町とが内陸水路によって結ばれ産業は発展した。兼山苦心の遺跡である。春野町教育委員会  昭和63年3月建之」とあった。
開削工法は里芋の茎(ずいき)を干した物を岩盤の上で燃やして、その熱で岩盤に亀裂を入れては、金槌と石ノミで割る、このプロセスを繰り返す気の遠くなるような作業であったよう。
記念石碑の対面、新川川(長浜川)に門扉が設けられている。高潮対策のためのようだ。西に進むと道は急に1車線、昔ながらの道となっていた。唐戸の切抜を境に行政区域は高知市長浜から高知市春野町に変わる。
唐音
唐音の由来は「勾配の緩やかな切り通しの道「空峠」の転訛。同地名が各地にある。兼山ゆかりの春野治水の旧跡が 「唐音」」と『土佐地名往来』にあった。
亀割
切抜辺りの地図をみていると、切抜南の丘陵の南に亀割といった地名が見える。『土佐地名往来』には、「地検帳には亀ハリ。"川目"は網の目の水路、開墾を ハリ(墾リ)。川目墾りが「亀割」と転訛」とある。灌漑水路と結果生まれた新田開発の名残を示す面白い地名だ。

一つ橋
唐戸の切抜を抜けると北から下る「内の谷川」に架かる「一の橋」を渡る。橋の西詰に角柱が立ち、「三界萬霊」と刻まれる。
橋の下流は新川川。この地で新川川と内の谷川が合流(鉢合わせ?)する。当日は北から流れる内の谷川の一部が唐戸の切抜を抜けて新川川(長浜川)に流れ、残りが下流の新川川へと流れるのだろうなどと思っていたのだが、上述新川川のメモの如く、新川川(甲殿川)が土佐湾に注ぐ手前(西戸原)で人工水路を開削し北上、この地で内の谷川を合わせて唐戸の切抜へと流れているようだ。

新川川
内の谷川
前もって分かっていれば当日、この一の橋あたりの水の流れをチェックしたのであろうが、こんなことがわかったのはメモをはじめてから。常の如く後の祭りである。
それにしても、仁淀川支流筋であった川筋(甲殿川)を浚渫し(たのであろう)、人工水路である新川川を落とし新川川水路の本流となった甲殿川が土佐湾に注ぐ手前(西戸原)からこの地へと水を通すということは、高きから低きに流れる水ゆえの勾配、内の谷川の水が下流にながれることなく新川川に「含まれ」唐戸に向かう「仕組み」なと気になることが多い。
もっとも、現在でも新川川が往昔と同じ機能を果たしているということが大前提。そのあたりのことも気になるが、これも後の祭り(国土交通省の「新川川水系河川整備」の資料には、「唐戸で内の谷川が新川川に合流し」浦戸へ注ぐ、とあるから、現在の新川川・内の谷川の流れも浦戸湾へと流れているようにも読める。。。)

丘陵鞍部で右に逸れる
県道278号は左折し南下するが遍路道は直進し、前面に見える独立丘陵へと向かう。遍路道に入る道のガードレルには種間寺を指す歩き遍路のタグがある。
ビニールハウスの並ぶ田圃の中を一直線に進み丘陵山裾で2車線の車道に合流。正面の春野保育園の壁面には「種間寺4.4km」左折の案内。指示に従い左折し山裾の道を進むとほどなく丘陵鞍部へのゆるやかな上りとなる。
上り切った辺りに右に逸れる道があり、新しい遍路標石と供に「遍路タグ」が右折を告げる。2車線の車道を離れ右折し丘陵裾の道を辿る。
丘陵の地質
Google Earthで
この辺りの丘陵は烏帽子山地から南に突き出した支尾根といったもの。長浜地区は長浜丘陵と呼んだが、この辺りも長浜丘陵なのだろうか。烏帽子山地を走る仏像構造線を境に北の秩父帯と画した四万十帯の地質からなるのだろう。
秩父帯は中生代中頃(中生代ジュラ紀)、四万十帯は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期)の地層とのこと。はるかはるか昔の頃であり、とりあえず四万十帯は秩父帯より新しく、砂岩・泥岩からなるといった程度を理解しておくことにする。
ただし、丘陵を取り巻く低地は新生代第四期のde
sakusei 河川平野堆積物の岩質。仁淀川により形成された沖積地が四万十帯の岩質の上に被さっているのだろうか。門外漢ゆえ不明。
真偽のほどは別にしても、秩父帯とか四万十帯と言われてもピンとこないのだが、実際に歩いてみると、地溝帯を画する仏像構造線を境に、南に新しい層(四万十帯)、北にそれより古い地層(秩父帯)、秩父帯の北の御荷鉾構造線を境に、さらに古い地層三波川変成帯といった、いままで頭に入らなかった地層、構造線のことがちょっとわかったような気になった。

標石が続く
丘陵南裾の道を少し進むと民家脇に出る。そこで一筋南から来た道と合流するが、その角に標石が立つ。ちょっと傾いた板状標石にには手印と共に、「三十四番 へんろ道 大正九年」といった文字が読める。
手印に従い西進し弧を描き南に向かう。T字路を越え三差路角に2基の標石。少し大きき角柱標石には手印と共に「種間寺 橋迄十五丁  雪蹊寺」といった文字が読める。もう一基の板状標石には手印と共に「へんろ道 明治廿六」といった文字が刻まれる。

甲殿川・諸木井水路橋
諸木井を越える遍路道
諸木井の水路橋
道なりに進み、前面に見える烏帽子山地の支尾根丘陵裾に出る。丘陵手前の芳原川に架かる高田橋を渡ると県道278号に出る。と、すぐ下流、県道278号に架かる橋(落山橋)の南に水路橋が架かる。これってなんだ?
チェックすると、この水路は新川川と同じく野中兼山が開削した仁淀川東岸に開削した人工水路・諸木井筋であった。
諸木井
『春野町誌』より

水路をトレースする。仁淀川の八田堰から取水し、開削水路・井岡井を南下、行当の切抜を越え現在の井岡井筋分岐公園で南下する新川川筋と分かれ東進。国道56号を越え、そのまま県道36号を東進し。久万で県道278号交差。水路はここで流路を南に向きを変え、県道278号に沿って下り、新川川の水を合わせた甲殿川と北山川が合流する辺りで東に向きを変え、大用川に架かる中筋橋を水路橋で渡り、中筋地区の先で丘陵部を切抜で通し丘陵西側山裾を県道278号に沿って当地に至る。
なおこの先の流路は、同じく県道278号に沿って進み、東諸木の丘陵南裾を進み禰宜谷(「地検帳にもネキカ谷・ネキヤシキ。禰宜=神官に給 された田が由来。禰宜の原意は「祈ぐ・労ぐ (ネ)」で労う(土佐地名往来)」)で新川川に合流し、浦戸に向かうようである。
『春野町誌』に掲載されていた用水路をみると、仁淀川東岸だけでも新川川、諸木井すじだけでなくいくつもの開削水路が記されていた。春野が「墾る野」たる所以である。

西諸木の標石
遍路道は県道をクロスし、諸木井の水路を渡り、丘陵裾への道に入る。道は直ぐ丘陵部を離れ西諸木を南下。道が少し左にカーブする手前に2基の自然石の標石。少し小さな標石には「右 へん**」、もう一基は左右を指す手印が見える。
さらにその先に3基の地蔵が佇む小堂脇に標石。「へんろ道 種間寺右へ二十丁二十間 昭和六年」といった文字が刻まれる。
諸木
「白鳳地震で海に没した黒田郡。深井戸を掘ると大き な木材が出土するそれら諸々の木々が埋まった土地 から諸木」と『土佐地名往来』は云う。
黒田郡は実際の郡名には登場せず、「地震のために陥没したる面は、東の方、室戸岬より、西の方、足摺岬にわたる、黒田郡と称する一円の田島にして(『土佐大震記(作者年代不詳)』)」などと大よそ土佐の一円を指しているようだ。

新川川に架かる新川川橋
直ぐ先、新川川に架かる新川川橋の東詰、道の左手に自然石に刻まれた大きな石仏、その前に小さな舟形地蔵、道路改修記念碑などが並び、椅子も置かれた休憩所ともなっている。 少し休憩し新川川に架かる新川川を渡る。
新川川・甲殿川?
橋には新川川とある。Google Mapには甲殿川とある。地図をトレースすると人工的に開削された新川川が広岡下で北から下る流れに合流するが、その上流部はGoogle Mapでは甲殿川となっている。以下は妄想であるが、仁淀川から浦戸へと抜いた人工水路の総称が新川川。途中、人工的に開削するだけでなく、既にあった仁淀川の支線(往時、流路定まることはなかっただろうから)を浚渫し新川川水路として活用したのが甲殿川。人工水路新川川の水を落とした甲殿川は新川川水路の本流となたため、新川川ともまた本来の流れである甲殿川とも呼ばれるのではないかと思う。


第三十四番札所 種間寺に

新川川橋をわたり、県道279号まで進み、県道を右折し西進する。右手には独立丘陵、左手には高森山(標高143m)を主峰とする妙見山脈の支尾根丘陵が見える。県道は南北の丘陵の間を進む。支尾根丘陵の間には発達した侵食谷が奥へと入り込む。
丘陵の間を抜けると道の左手に第三十四番札所 種間寺の寺標石。左に折れて境内に進む。

本日のメモはここまで。次回は種間寺から三十五番清滝寺、三十六番青龍寺へと向かう。

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