水曜日, 9月 09, 2020

土佐 歩き遍路;第三十番札所善楽寺より高知城下を経由して第三十一番札所竹林寺へ

30番札所善楽寺から31番札所竹林寺へ向かう。ルートは大きくかけてふたつある。ひとつは善楽寺から南下し五台山を目指し山腹にある竹林寺を目指すもの。おおよそ7キロ、といったところだろうか。もうひとつは高知城下を経由し竹林寺を目指すもの。おおよそ10キロほど。
『四国遍路道指南』を書いた真念や『四国辺路日記』の著者である澄禅は城下町を廻り竹林寺に向かっているが、多くの遍路は厳しい遍路政策をとる土佐藩の番所での詮議を避け、直接五台山に向かったとの記事もある。真念にしても城下町の中核である城近くの武家区域(郭中)に入ることはできず、現在のはりまや町あたり、かつての下町(しもまち)に宿をとったとのことである。
で、今回の遍路歩きは城下町経由を選んだ。その理由は真念や澄禅の辿った道といったことではなく、高知平野の地形に惹かれたゆえのことである。
国土地理院・高知地形概念図

先回の散歩で物部川流域の広大な扇状地に地形フリークのわが身にフックがかかり高知平野のことをあれこれチェックした。
今回歩く高知市街は物部川の大扇状地を含めた広義の高知平野ではなく、狭義の高知平野を指す。その地の特徴は国分川、久万川、鏡川などの河川により形成された低湿地、三角州のデルタ地帯である。何故にこのような湿地帯に城下町を普請したのか、実際に歩けばなにかにフックがかかり、普請のプロセス、低湿地ゆえの治水対策などにアテンションが向くのではと思った次第。
それともうひとつ、高知平野を囲む地形が面白い。北は四国山地の北端の細藪山地が走り、南の海岸線にも四国山地と並行して山地が搭載に走り、その間に高知平野が嵌っている。どのようにしてこのような地形ができたのだろう。あれこれちぇくすると、高知平野は地質学的には地溝性盆地状沖積低地と称されるようである。地溝とは両側の断層崖間にある低地のことで、高知平野は断層間が陥没し低地となったようだ。
Google mapで作成
国土地理院の地質図でチェックすると、高知平野北端部の細藪山地には東西に御荷鉾(みかぶ)構造線が走り、南の太平洋岸に東西に連なる山地には仏像構造線が走る。この構造線に沿ってプレートの沈み込みがおき、その時に形成された断層の間が陥没したのが高知平野であろうか。通常仏像構造線とに御荷鉾(みかぶ)構造線の間は秩父帯と呼ばれる中世代の地層が挟まれているのだが、高知平野は五台山など一部の小山が中世代の地層を残す以外、低湿地の高知平野は形成時期は新生代の河川平野堆積物の岩質となっていた。陥没した中生代の秩父層の上に、川によって運ばれてきた泥や砂礫が積み上がり、現状新生代の地層となっているのだろうか。
門外漢の妄想であり大いなる誤認の恐れあるも、自分としてはこれでよし、とし高知平野を取り巻く地質・地形などを思い描きながら散歩を始めることにする。



本日の散歩;土佐神社参道口・県道384号角の標石>掛川神社>久万川に架かる比島橋を渡る>比島の茂兵衛道標>江ノ口川の山田橋を渡る>はりまや町(かつての下町区域)を南下>はりまや町1丁目交差点>北光社移民団出航の地>松ヶ鼻番所>青柳橋
五台山竹林寺への遍路道
土径遍路道に入る>独鈷水分岐点>伊達兵部宗勝の墓>車道をクロスした先に遍路道案内>五台山展望台公園に出る>竹林寺西門(裏門)に下る>第三十一番札所竹林寺
竹林寺から五台山を下りる>徳右衛門道標>貞亨元年法華經塔>南吸江の茂兵衛道標

土佐神社参道口・県道384号角の標石
第30番札所善楽寺横の土佐神社の長い参道を歩き、県道384号との合流点に。土佐神社参道口交差点西北角の電柱脇に標石。「三十一 左へんろ 昭和六年」と刻まれる。
この遍路標識はこの交差点を南下し、第三十一番札所竹林寺を目指す最短コース。今回は、高知平野の地形の面白さに惹かれ、真念もという歩いた高知の城下町経由の遍路道を歩く。今は埋め立てられ何らかの痕跡もなかろうとはおもうのだが、国分川、久万川、鏡川の形成した三角州に立地する高知市街の雰囲気を感じたい、との思いからである。

五台山竹林寺への直進コース
旧城下を廻ることなく直接竹林寺を目指すお遍路さんも多いと聞く。一応ルートのみをメモしておく。
土佐神社参道口交差点を標石に従い県道251号を南下>一宮東小学校を左に見遣り土讃線土佐一宮駅前で県道249号に合流>県道249号を少し東に向かい、県道を右に折れ土讃線の踏み切路を越え田圃の中の道を進み国分川へ>国分川に架かる錦功橋を渡り更に南下>舟入川に架かる新木橋を渡る>新木橋を渡ると直ぐ、県道195号を右折し西進>とさでん交通御免線の文殊通駅手前を左折(文殊通駅の駅名は竹林寺本尊文殊菩薩より)>南下し大規模農業用水池・絶海(たるみ)池に架かる大島橋を渡る>橋を渡って最初のT字路左折>高須大島集落の標石を右折(その少し東にも遍路道右折指示の案内がある)>案内に従い山麓に取り付き牧野植物園を経て竹林寺へ

掛川神社
県道384号を南西に進む。県道44号高知北環状線を越えた先で久万川大橋へと向かう県道384号を離れ、県道249号に乗り換え土讃線北側に沿って直進。薊野(あぞの)駅を越えた先、道の右手に掛川神社がある。
遠州掛川5万石の藩主であった山内一豊が関ヶ原の合戦での功により土佐20万石の藩主に封 ぜられた。この社は二代目藩主忠義が掛川より勧請したもの。
案内には「掛川神社 江戸時代の寛永十八年(一六四一)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭天王を遠州掛川 (静岡県)から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめである。
以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(一八六八)現社に改称した。 合祭神社→龍宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、何れも明治三十二年(一八九九) 合祭した。
東照神社は延宝八年(一六八〇)、四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(一八一四)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、 明治元年東照神社と改称、明治十三年(一八八〇) 合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋、三つ葉葵がつけられている。
社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも、現在東京国立博物館に寄託されている。
飛地境内社として椿神社・秋葉神社がある。 高知市教育員会」とあった。
江戸の頃、澄禅もこの社に詣でており、その著『四国遍路日記』に「(観音院)・ 夫与西ノ方ニ一里斗往テ小山在、美麗ヲ尽シタル社也。是ハ太守、天正ノ昔、遠州懸川ノ城主夕リシ時ノ氏神ヲ、当国ニ勧請セラレタリ、天王ニテ御座ト云ウ」と記す。
江戸の頃、牛頭天王と称していた社が明治に改名しているところが結構多い。一説には天王>天皇の連想から不敬に当たるとしての対処とも言われる。
国清寺
神社参道左手にお寺さま。牛頭天王の別当寺であった国清寺。案内には「陽貴山見龍院国清寺は、元和三年(一六一七)比島の龍乗院の開基でもある日讃和尚の開基で、寛永一八年(一六四一)牛頭天王宮 (現掛川神社) の別当寺となった。
二代快彦・三代快充・四代黙堂と次々に高僧が出て、藩主の帰依を得、上級武士や学者文人などとの交流が深かったといわれる。
もとは天台宗で、徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺門主支配の寺であった。慶安四年(一六五一)には三重の塔、続いて護摩堂が建立されるなど、藩主山内家の尊崇が篤かったが、明治 維新後の廃仏毀釈によって廃寺となった。
この廃寺に、明治四年(一八七一)四月から六年五月まで、明治政府によるキリシタン弾圧のため土佐に預けられた、長崎県浦上の信徒と家族九十人前後の人たちが、赤岡と江ノ口の牢舎から移されて生活していた。
明治一三年(一八八〇)、京都相国寺の独園大禅師が参禅道場を開き、退耕庵と名付けた。二代実禅大禅師も参禅を広め、門下の坂本則美・中山秀雄・弘田正郎らの協力を得て再興し、寺号 も旧に復して国清寺となった。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、本尊は釈迦如来である。 高知市救向要員会」とあった。
〇明治政府のキリシタン弾圧
幕末、キリシタン禁止政策のもと、隠れキリシタン弾圧を受けた長崎の浦上村は「浦上四番崩れ」と世にいう4度目の弾圧により、一村全体、およそ3000名(3400名とも)が捕縛・拷問を受ける。幕府崩壊後もその政策を受け継いだ明治政府は村民すべてを流罪とし、流罪先は21藩に及んだ。ここ高知では当初赤岡(香南市)と江ノ口(高知市街)の牢舎に停め置かれたが、その後廃寺となっていた国清寺に移された。
キリシタン禁制が廃止されたのは明治6年(1873)。不平等条約改正のため欧州に赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達し廃止となった。
獄中は劣悪な状態であり、おおよそ三分の一が帰らぬ人となったとのことである。

久万川に架かる比島橋を渡る
掛川神社を離れ、県道44号をクロスした県道249号は久万川に架かる比島橋を渡る。比島は「山の形がひ;箕のこと)に似ている島の意味(「土佐地名往来」より)。箕は穀物の餞別に使われていた農具だろうと思うのだが、それを裏返した形に似ていたということだろうか。とまれ、往昔湿地に浮かんだ島の痕跡は今はない。
久万川
国分川水系の川。東から西へ、物部川の発達した扇状地に阻まれ高知市内に注ぐ国分川とは真逆、高知市の北の細藪山地にその源を発し西から東へと流れ浦戸湾河口部で国分川に合流する。 現在は陸地化されているが、かつて高知平野を流れた久万川は氾濫平野であり、河口部は三角州であったわけで、とすれば両河川の浦戸湾への注ぎ口は現在より上流点であったろうし、であれば往昔は国分川と久万川は合流することもなく浦戸湾に注いでいたようにも思う。
それが国分川水系とされるのは?水系の定義である分水界を同じくする、を元にチェック。国分川と久万川の共通点は、東を土佐山田台地で物部川との分水界を画し、北は細藪山地が吉野川水系との分水界となり、西も南に突き出した細藪山地により鏡川と分水界を画している。要は北と西は細藪山地、東は土佐山田台地によって囲まれた流域であるということだ。
この定義にもとり、両河川は同一水系と考えてもよさそうだ。国分川水系とされたのは国分川も久万川も共に2級河川であるが、その流路距離や流路面積が一見して国分川が圧しているためだろうか。
国分川
国分川は、その源を高知県香美市土佐山田町 と平山 の甫喜 ケ峰 (標高 611m)に発し、領石川 、 笠 ノ川川等の支川を併せながら香長平野を南西に流れた後、下流部において久万川、江ノ口川 、舟入川等の支川を合わせ、浦戸湾に注ぐ。

比島の茂兵衛道標(100度目)
比島橋を渡った県道249号は西進し、すぐ南下するのだが、遍路道は西に折れることなく直進し、ゆるやかなカーブの道を進む。途中道の右手の古き趣のお屋敷端に「久保添家伝薬発売元」と刻まれた石碑が立つ。旧家には「クボゾエ外科科胃腸科」の看板がかかっていた。「*家伝来」は 家業意識の高さを示すもの。かつて家業として薬を販売していたのだろう。
その直ぐ先、道の右手に茂兵衛道標。手印と共に「安楽寺 左 高智 左国分寺 明治二十壱年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。
安楽寺は明治の神仏分離令に際し、廃寺となった善楽寺に替わり明治8年(1875年)に札所となったお寺さま。当地より南西5.5kmの所に建つ。
安楽寺
土讃線高知駅の西、千年の昔、辺り一帯が海であった名残を地名に残す洞ヶ島町に建つ寺院。Wikipediaには「高知県高知市にある真言宗豊山派の仏教寺院。山号は妙色山(みょうしきざん)。 妙色山 金性院 安楽寺と号する。
伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(潮江、升形、久万はいずれも現・高知市内)。(中略)その後、12坊を有する大寺院となったが応仁の乱(1467年-1477年)の兵火を受けて焼失し衰退。(中略)明治時代初頭の廃仏毀釈の影響でついに廃寺となったが、明治8年(1875年)に、長宗我部氏の菩提寺であった旧瑞応院跡に再興された」。
廃寺となった善楽寺は昭和5年(1930年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院を現在地に移転し、また国分寺に預けられていた弘法大師像を移し、本尊は有縁の江戸期作の阿弥陀如来坐像を迎えて30番札所東明院善楽寺として再興した。
そのため、30番札所が2箇所並立することになり、30番札所の正統性について善楽寺と安楽寺の間で論争が起こった。
昭和39年(1964年)四国開創1150年を機に両寺代表が協議し、善楽寺を「開創霊場」、安楽寺を「本尊奉安霊場」と称することになるも混乱は続いたが、平成6年(1994年)1月1日、札所は善楽寺、安楽寺は奥の院とすることで最終決着した」とある。

江ノ口川の山田橋を渡る
次の遍路道の目安は江ノ口川に架かる山田橋。真念はその著『四国遍路道指南』に「過ぎてひしま橋、次に丸山有。かうち城下入口に橋あり。山田橋という。次番所有、往来手形改。もし町に泊まる時は、番所より庄屋にさしづにて、やどをかる」と記す。
茂兵衛道標の立つ旧路を進み県道249号に復帰、南下し土讃線の踏切を渡ると江ノ口川。県道に架かる橋は平成橋。山田橋はそのひとつ上流に架かっていた。
この橋は伊予の川之江に出る北山越え、室戸岬東岸の甲浦に出る野根山越えの起点。橋の南詰めは少し広くなっているが、そこが真念の記す城下三番所のひとつ山田橋番所の跡だろうか。 山田橋の由来は長曾我部氏が城下町を建設するにあたり、土佐山田の人が移り住んだ故と言う。
江ノ口川
この川も久万川と同じく細藪山地西端近くの山裾(高知市口細山辺り)に源を発し、西から東へと流れ高知城の直ぐ北を経由して更に東進し国分川に合わさり浦戸湾に注ぐ。この川も久万川同様に国分川水系である。
江ノ口川はその流路故に、江戸時代の早い段階から浦戸湾と城下を結ぶ運河として利用され、高知城北側、江ノ口川に面する北曲輪は城に物資を運び込むための重要な場所であったとみられる。
江ノ口川の名前の由来は、現在の高知駅、入明駅周辺にあった江ノ口村に由来するようだ。

高知城

「カルポート(後述)前公園石碑にあった城下町図」より
真念が山田橋を「かうち城入口」と言うように、この地から1キロ強西に高知城がある。遍路道から周少し逸れるし、愛媛に育った者として折に触れ高知城は訪れているので今回はパス。 とはいうものの、今回の歩き遍路の過程で高知城が国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地することに初めて気づいた。で、そんなデルタ地帯に城下町を造った経緯とその後の治水施策をちょっと整理しておこうと思う。
元は大高坂山城
高知城は北は久万川、南は鏡川、東は国分川に囲まれた氾濫平野、三角州からなる低湿地帯のほぼ中央、標高44mほどの大高坂山に築かれている。大高坂山に城が築かれた、といっても砦といったののではあろうが、その初出は南北朝の頃、南朝方についた大高坂松王丸の居城であったとされるが、北朝方の細川氏に敗れ廃城となった。
長曾我部氏の城普請
戦国時代に入り、四国統一を目前に秀吉に敗れた長曾我部元親は、秀吉の命により居城を岡豊城からこの地に移すことになった。
デルタ地帯の水はけの悪さに加え、度重なる洪水被害に城普請は難渋を極め、城を本山氏の城塞のあった浦戸に移し浦戸城を整備したとの記事もある。が、地図で見る限りその地で本格的城普請が行われたとは考にくい。浦戸湾口に西から東に突き出た狭い岬に家臣団の住む城下町は考えられない。使われた瓦も安普請であり,浦戸城は朝鮮出兵に際しての出城であったとする説に納得感がある。事実、朝鮮出兵中も大高坂山城の整備が続けられていたとの説もある。
山内氏の城普請
長曾我部氏は関ヶ原の合戦で西軍に与し改易。山内一豊が土佐一国を与えられ掛川城から転封し、浦戸城に入るも、大高坂山を居城と定め城普請を始める。築城に際し、織田信秀の家臣として西軍に与し蟄居処分となっていた百々綱家(どど-つないえ)の登用を幕府に願い出でる。
百々綱家は元は浅井家の家臣であり、近江坂本の石工集団「穴太衆」との繋がりが強く、石垣普請の名手と称されていたようだ。幕府の許しを得た山内氏は6千石で百々氏を召しかかえ、総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ね、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。石垣は浦戸城のものを流用したという。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際、城の名を河中山城(こうちやまじょう)と改名された。 普請開始は慶長6年(1601)9月といった記事もあるのでおよそ2年の工期。人足として山内家臣団も加わったという。
慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧の助言を受け高智山城と改名した。この時より後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。


高知城下を護る治水対策
「高知の藩政期の水防災対策の再評価平成 25 年自然災害フォーラム論文,2013」

香川大学の資料にあった「高知の藩政期の水防対策の再評価平成25年自然災害フォーラム論文,2013」ラム論文,2013」の図およびその記事をもとにまとめると、 高知城下を洪水から防ぐ施策は大きくふたつのタイプに分類されるようだ。ひとつは城下の北から浦戸湾に流れ込む河川への治水事業。久万川、国分川、舟入川がこれにあたる。もうひとつは城下町の南を流れる鏡川の対策である。


国分川、舟入川、久万川の治水対策
資料図を見ると国分川や舟入川には霞堤とか水越(越流堤)が目につく。これらの堤は洪水を防ぐというより、洪水時には水が堤防を越ることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、城下町を護るといった治水施策をとっているようだ。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
久万川には洪水を防ぐ中堤(水張堤)が見られる。支流からの洪水が久万川に流れ込み久万川の水位が上がるのを防いでいるのだろうか。
洪水に対しては防ぐというよりは、堤防を越水させて遊水池となし、洪水が一挙に流下するのを抑え、それにより下流域の被害を少なく抑える「伊奈流」関東流と呼ばれる越流堤の治水施策は埼玉の見沼などで出合った。
■鏡川の治水対策
参考図には堤などは無いが、香川大学の記事によれば鏡川の城下町に対する治水対策は極めてシンプルである。洪水になれば鏡川右岸(南側)の堤が決壊し(いざとなれば人為的にでも「切る」)、鏡川の南一帯を水没させることにより、北側の城下町を洪水から防ぐ、というもの。
記事には寛文 1 年(1661 年)から安政4 年(1857 年)の約 200 年間に 17 回、鏡川南岸の潮江堤防の決壊記録が残っている。一方、鏡川北岸の堤防決壊の記録はない。記事には「城下町を守るため、潮江の堤防を鏡川左岸堤防なみに強く高く築くことをせず、城下側堤防よりも低く強度もいくらか弱めに築いていたと推察することができる」と記す。事実、鏡川北岸には下述の上町あたりから「大堤防」、郭中から下町にかけては「郭中堤防」が築かれているが。南岸にはこれといって名前のついた堤防は見当たらなかった。
城下町の水防体制
上町(家臣と商人・職人)・郭中(城と重臣)・下町(家臣と商人・職人)からなる城下町を12の区画に分け、水帳場と呼ばれる受け持ち区画には標柱が立っていたとある。高知市鷹匠町(柳原橋西)に残る標柱の案内には「この石柱は、江戸時代、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ちの区域(丁場)の境界を示す標柱です。
西は、上町の観音堂より、東は喉場に至る鏡川沿いの堤防に、この丁場を示す標柱が建てられ、出水時には武士、町人らが協力して、十二に分かれた丁場を十二の組が出動して水防にあたりました。各組の長は家老があたり、その下に組頭がおり、組を率いていました。水丁場には、目盛りをつけた標本も建てられており、これで増水状態を確認しながら、その程度に応じて、出勤の人数を決めていたといわれています。他に同様の標柱が、上町二丁目・上町五丁目にのこっています」とある。標柱には「従是西六丁場、従是東七ノ丁場」 と刻まれる。
上町上流端に中堤(水張堤)、上町と郭中の間には升形堤防と呼ばれる中堤(水張堤)、郭中と上町の間にも中堤(水張堤)、さらにその東、下町の下流端にも比島中堤、宝永堤といった中堤(水張堤)が築かれ城下町への浸水に対処しているようである。

はりまや町(かつての下町区域)を南下
山田橋がフックに、高知城へ、さらには江ノ口川、国分川に挟まれた低湿地・デルタ地帯に城普請をした高知城のあれこれの寄り道が長くなった。遍路道に戻る。
山田橋を渡った遍路道は城下町を南下する。現在は西の国道32号から東の県道249号、北を江ノ口川、南を国道56号に囲まれた一帯が「はりまや町」となっているが、江戸時代の城下町の図(寛文七年(1667))から見ると、藩政重臣が住む「郭中」区域の少し東、「下町(しもまち)」区域を下っているようであり、町名も北から山田町、蓮池町、新市町、材木町、種﨑町と続き、東端の県道249号の辺りには新堀川、南の国道56号あたりには堀川の流れが見える。
新堀川と堀川
「高知城下町読本 土佐史談会編 明治初期
新堀川は江ノ口川と鏡川を結び高知城の東の外堀としての機能をもっていたようだ。現在ははりまや小学校の南辺りから、国道56号あたりまでが開渠となっている。
堀川は城下と浦戸湾を繋ぐ船運の水路。寛文七年(1667)の図(後述、「松ヶ鼻藩所」の地図を参考にしてください)では新堀川が堀川に合流する地元では東が閉ざされ、南の鏡川筋に向かって水路が伸びるが、貞享4年(1687)には両水路合流点の東側も開削され、堀川をとおして城下と浦戸湾が一直線につながった。「高知城下町読本 土佐史談会編 明治初期」には開削され新堀川合流点から南東に延びる堀川の水路が描かれている。
横堀川と新堀川
新堀川や堀川のことをチェックしていると、江ノ口川と鏡川を南北に結んだ堀川を横堀川とし、寛文七年(1667)の図に、堀川の北、現在のはりまや小学校南辺りから「新堀川」に繋がる堀を「新堀」とする記事があり少々混乱。
チェックすると現在の新堀川は藩政期初期に開削された堀川。郭中から東西に流れる堀川を縦堀と呼ぶゆえに、南北に流れ縦川に交差する堀川を横堀(川)とした。新堀(川)は性格には上述、材木町(現在のはりまや小学校南)に東西に開削し横堀(川)に繋いだ水路。が、どのような経緯か、現在では横(川)を新堀(川)と呼ぶようになっていた。
〇城下町の縦と横
竪川(縦川)と横川って普通に考えると南北にはしるのが縦川、東西に走るのが横川って気がするけど、江戸の街歩きで同じケースに出合ったことがある。江戸の下町を東西に通るのが竪川(たてかわ)、南北に通る水路が横十間川などとあった。縦か横かはお城からみての縦横ということのようであった。

はりまや橋
高知といえば「はりまや橋」でしょう。、というわけでちょっとメモ。「はりまや橋」」は何処かとチェック。現在はりまや町域が広くなっているが、江戸期のはりまや町は郭中と下町の境の少し東、現在の国道32号と56号が交差する辺り。国道32号と56号のはりまや交差点の一筋北に朱に塗られた「はりまや橋」が造られ、下に水路が整備されていた。
元のはりまや橋は堀川に架かり、堀の南北に建つ高知の豪商である播磨屋と櫃屋(ひつや)の本店の往来の為に架けられた私設の橋であったようだ。
よさこい秘話
はりまや橋を有名にしたお話は、先回27番札所神峯寺を下りた山裾、安田の地にその案内があった。簪を買ってもらったお馬さんが騒動の後に働いた旅籠のあった地である。そこにあった案内をコピー&ペーストする。
「土佐の高知のはりまや橋で坊さん かんざし買うをみた
ヨサコイヨサコイ
よさこい節に登場する坊さんかんざし騒動の主人公お馬さんが、ここ安田、東谷の旅籠「坂本屋」で働いていた。幕末の土佐に、恋の自由を求めて奔放した 「よさこい、かんざし騒動」は、維新の志士達より早く自由精神を実践した。
由来
五台山、竹林寺の学僧、百余名を預る指導僧の純信と五台山麓、鋳掛屋の娘、お馬との恋の「かけおち」のため純信がお馬に花かんざしを買い求めたもので、安政元年(一八五四)の大地震の直後の翌二年、五月十九日の夕刻、純信、お馬と土佐山田出身の道先案内として安右衛門の三人で、物部村から国抜けし、讃岐の金比羅、百段目の旅籠「高知屋」で捕えられ、高知の山田町奉行所で取調べられた。
この時の奉行は、ここ安田に生まれ育った儒学者、岡本寧浦の門下生である松岡毅軒であった。 この取調べの際、松岡奉行が「なぜ年が二〇も違う親の様な人と好きで逃げたのか」との問いに、お馬は平然として「好きになったら、年の差などどうでもよい。」と答えたと毅軒は後世に書き残している。
やがて裁きが終り、お馬は安芸川以東へ追放、この安田・東谷の神峯登り口、旅籠「坂本屋」で奉公をする身になった。
一方、純信は仁淀川以西へ追放となったが、自らの意志で国外追放を願い、伊予国、川之江の 塩屋の三軒屋炒娚石の亀吉の世話により、学問一筋の家柄、井川家の私塾の教授となって、子弟の教育に専念する。
一方、お馬は、ここ坂本屋で奉公中、突然、追放先の変更を受けた。理由は、純信がお馬を連れもどしに来たとのことであった。
事実不明のままお馬は、今度は高岡郡、須崎池ノ内の百姓に、預けられ、のちに土地の大工と 世帯を持ち、二男二女をもうけた。
当時の坂本屋
安田の神峯は、よさこい節の一節にも登場している。
思うてかなわにや 願かけなはれ 流行る安田の神峯」
当時、安田の神峯は「流行る安田の神峯」と歌われたように、近郷近在の信仰と遊びの中心であった。神峯寺の前札所の発心庵(現在廃寺)がここ東谷集落の岡にあり参拝客相手の大きな料亭旅館がひしめき、繁華な場所であった。美人のお馬は大人気であっただろうと、想像される。
その後の「お馬」
お馬の子供達もそれぞれ成長し、明治一八年(一八八五)お馬夫婦は、長男の住む東京小石川に引越し、更に明治二一年(一八八八)に「二男の家で余生を送り、お馬は煙草屋の店先で店番をしていたという。東京都北区豊島で明治六年(一九〇三)六五歳で病没し、北区の西福寺で出かに眠っている。(お馬さんの眠る西福寺の写真)」

はりまや町1丁目交差点
山田橋より旧城下町の下町地区を南に下り県道249号が国道32号に合流する「はりまや町1丁目交差点」に。かつて北の江ノ口川と南の鏡川を繋ぐ横堀川(現在の新堀川)と郭中から下町を抜き浦戸湾へと東西に通じる堀川がクロスしていたところ。現在両堀の交差するところは暗渠となり、かつての面影は交差点北の新堀川の一部と暗渠となった交差点から東南に延びる堀川に残るのみ。
木屋橋跡
交差点北側には「木屋橋」の橋柱。北に新堀川の水路が見えるが、南は高知市の市民文化センター・かるぽーと(カルチャーとポートの合わせ技での命名)の敷地となり橋柱は残らない。
かるぽーと前の公園にあった石碑案内には、「江戸時代、城下町の外堀に架橋された。当時の呼称は菜園場橋。明治以降は橋のたもとにあった豪商木屋の名で呼ばれた。電車通りの拡張により大きく姿を変えている。橋長15m」とあった。
幡多倉橋跡
橋の名残は何もないのだが、かるぽーと前公園石碑に「幡多倉橋」の案内。「1687(貞享4年)菜園場農人町間の掘割が開通、掘割が交差した。この後掘割交差西側に架橋された。
周辺設備のため姿を消した橋は全長15.9m,幅員7.4m」とある。
菜園場橋跡
公園石碑に「1930(昭和5年)、九反田中央卸売市場開設の年、掘割交差東側に架橋された。現在では珍しいトラスト橋であった」とある。
納屋堀橋跡
公園にある橋に関する石碑を見て居いると、掘割の交差点を「四ツ橋」とある。であれば、交差部に四つの橋があったはず。木屋橋の石碑の平成10年(1998)の写真があり、掘割交差部南に納屋堀橋の名があった。納屋堀橋の南は既に埋め立てられているが、その他の橋は水路と共に残って見える。四ツ橋が覆われたのはそれほど昔のことではなかった。

北光社移民団出航の地
遍路道は四ツ橋の交差点から堀川に沿って浦戸湾に向かう。堀川北岸は農人町、堀川の南は九反田。ほどなく、道の右手に「北光社移民団出航の地」の案内。「北光社移民団出航の地 北海道北見開拓への経緯
北光社は、明治三十年(一、八九七年)、北海道北見(当時のクンネップ原野)に新天地を開く ため、坂本直寛、沢本楠弥、前田駒次ら高知県の有志によって組織され、この地の向い側にある高瀬屋(当時、旅館)に開拓移住民の募集事務所を開設し、応募者を集めた。
移民団の第一陣となった百十二戸は、明治三十年(一、八九七年)三月、この岸壁より船に乗り、 須崎港で再編成した後、関門海峡を通って日本海に出て北上し、はるばる小樽港へと向った。それから引きつづき北進し、宗谷岬を迂回して網走港に入港し、ここから今の北見市へと、移住の第一歩をしるした。
これらの人たちは、この人跡未踏の原野で想像を絶する苦闘に耐えて開発の成果をあげ、今の北見市発展の基礎を築いたのである。 昭和六十一年四月二十七日 高知市 高知ライオンズクラブ 高知市・北見市姉妹都市提携委員会」とあった。
農人町
北光社移民団出航の地の案内の直ぐ東に農人町の案内。
「高知城下町名今昔 旧農人町 
寛永二年(一六二五)、藩が城下の東外側の下知村に外輪堤を築き、堤内の耕地を御手先農民に耕作させ、長屋を貸与して住まわせたことに由来する町名。その後、元禄十一年(一六九八)には鉄砲方足軽が鉄砲町から移住してきた。
町の東端には、城下三番所の一つの三ッ頭番所と船着場があり、堤に松並木があったことから松ケ鼻とも呼ばれた」と。
御手先農民って?他の記事に「藩主の御手先農民」といった記述がある。藩主直属の農民ってこと?

松ヶ鼻番所
道を進み国道56号が鏡川を鏡川大橋で渡る少し手前、道の右手に「松ヶ鼻番所」の案内。「松ヶ鼻番所は、高知城下三番所の一つです。松ヶ鼻は、堀川沿いに植えられていた松並木の突端に位置していたので、この地名がつきました。また、堀川・鏡川・潮水(浦戸湾)の水が交わることから、三ッ頭とも呼ばれました。こうした地理的条件であることから、藩政時代から水上交通の要衝として栄えました。
東は物部川流域、西は仁淀川流域の産物が野中兼山によって整備された用水路網によって浦戸湾に集められ、さらにここ松ヶ鼻を通って城下町の七町方面まで運ばれました。ここに置かれた番所は、主にこうした水上交通を取り締まるためのもので、明治期以降は水上警察署も置かれました。また、浦戸湾内を走る巡航船も付近で発着し、松ヶ鼻は高知の海の表玄関として賑わいました。
城下町を読みこんだ「高知廻り歌」も、「高知松ヶ鼻・番所を西へ行く...」という歌い出しで歌い継がれてきました。
安政2年(1855)、駆け落ちしながらも捕らえられた純真とお馬がここでさらしの刑に処せられたときには、多くの見物人が集まったと伝えられています。
鏡川大橋の通りを東に渡った界隈は、幕末から明治にかけて開発され、明治期以降は有名な料亭が建ち並び、大いに賑わいました。明治44年(1911)には土佐電気鉄道株式会社の電車路線が新たに整備されたほどでした。
このように、河川や堀割を中心に水の都として発展してきた高知城下町の表玄関であった松ヶ鼻界隈も、現在では鏡川大橋に代表される大きな道路が通る地区として賑わっています。
近辺の史跡
① 北光社移民団出航の地 北海道北見クンネップの開拓団
②開成館跡 幕末の藩近代化の中枢機関」とあった。

七町
高知城下の二十五町」の中で「唐人町、掛川町、弘岡町、種崎町、浦戸町、蓮池町、朝倉町を築城頃からある古町として他の町とは別に「七町」と称される。城下町の地図を見ると、すべて下町、郭中に近い現在のはりまや町の中に見える。
開成館跡
「東九反田公園にある。慶応2(1866)年、土佐藩が殖産・富強を目的に設置した技術教育機関。維新後は、接客所となり、明治4(1871)年には西郷・木戸・大久保ら、政府の重鎮が来訪し、板垣・福岡らとの会談を行っている」と高知市のHPにある。ゲストハウスは現在取り壊され更地になっているようだ。
「城下町高知の成り立ち」案内図と説明
番所案内の傍に高知の城下町を案内した地図と説明があった。上述城下町に関するあれこれのメモ作成に際しては結構この図が助けになった。説明はダブルところもあるが、おさらいを兼ねて掲載しておく。
「この地図は、高知城を中心とした藩政時代の城下町と現在の高知市を重ね合わせています。 高知城の築城開始とともに、本格的な城下町の建設が慶長6年(1601)から始められ、お城を中心とした武家の住む郭中は、南の鏡川と北の江ノロ川との間、東は堀詰(地図の新京橋付近)、西は升形までの区域に設定されました。
町人街は、郭中を挟んで東西に設けられました。郭中の西側には武家の奉公人が多く住んでいたので、北奉公人町・南奉公人町などの町名が見られ、東側のはりまや橋界隈には、移住者の出身地を示す掛川町・堺町・京町や、商工業者の職業名をとった細工町・紺屋町などがありました。 また、地図のように、ほとんどの街区は現在よりも藩政時代のほうが大きく、その中央には水路が流れているところも多くありました。城下町には、この水路で区切られた細長い町が数多くつくられました。
歴史の道沿いには、藩政時代の名残があちこちに顔をのぞかせています。皆さんも街並みをよく観察してみてください」と解説されていた。

青柳橋
青柳橋(Google mapで作成)
堀川北岸の遍路道を進み久万川や江ノ口川、そして舟入川の水を集めた国分川に架かる青柳橋に至る。真念もこのルートを辿ったようで、『四国遍路道指南』には「さゑんば橋、過ぎて農人まち、町はずれをミつがしらという。これよりつゝミ、ひだりハ田也。右は入うミ、行きてたるミの渡」と記す。
現在は松ヶ鼻番所のあった三ッ頭より東へ、国分川の手前まで堀川の堤が伸びるが、松ヶ鼻番所にあった「寛永7年高知絵図(1667)」では、番所のある三ッ頭辺りで堀川の堤が切れ鏡川と合わさり浦戸湾との汽水域となっている。ひだりは田とは三角州を埋め立てた新田が広がっていたのだろうか。
絶海(たるみ
絶海池(Google mapで作成)
で、たるミの渡だが、明治初期に青柳橋が架かる前は国分川に橋が架かる前は、このたるみの渡しで対岸に渡っていたのだろう。が、国分川西岸に「たるみ」の地が見つからない。と、ふと札所善楽寺から竹林寺へと城下町を経ることなく南下する遍路道のメモで、竹林寺のある五台山の北にある農業用ため池が絶海池であり、地名が高須絶海であることを思い出した。この絶海は「たるみ」と読む。この絶海(たるみ)に渡る故の「たるみの渡し」ではあろう。『土佐地名往来』にも、「古くは”垂水”。タルミはハラミ・孕と対の地名ともいう。にちなんで字を充てる」とあった。
吸江寺絶海とは竹林寺のある五台山西麓の名刹吸江寺(ぎゅうこうじ)」ゆかりの名僧絶海中津のこと。絶海中津は「ぜっかい ちゅうしん」と読む。絶海(ぜっかい)を「たるみ」に充てたと所以など興味を惹かれるのだが、城下町のメモで結構寄り道し、これではいつまでたっても竹林寺に辿りつけない。ここは一旦、音の転化であろう、ということにして、ちょっと思考停止としておく。
絶海中津
絶海 中津(ぜっかい ちゅうしん、建武元年11月13日(1334年12月9日)- 応永12年4月5日(1405年5月3日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての臨済宗の禅僧・漢詩人。道号は絶海のほかに要関、堅子、蕉堅道人など多数ある。中津は諱。義堂周信と共に「五山文学の双璧」と併称されてきたが、20世紀後半から義堂より詩風の高さを評価され、五山文学ひいては中世文芸史の頂点を為すと論じられている。 南北朝時代を代表する禅僧夢窓疎石の弟子として疎石ゆかりの吸江庵を再興した。」


五台山竹林寺への遍路道

五台山竹林寺参道口
青柳橋を渡ると青柳橋東詰に五台山に上る自動車道。竹林寺への五台山西麓からの自動車参道口でもある。参道口に寺標石。「四国丗壱番霊場五台山竹林寺参道 昭和十一年四月吉日 参道完成記念」とある。この時は、この道が古くからの表参道で、その道が自動車参道となったのだろうと思っていたのだが、どうも違ったようだ。が、それは後になってわかったことであり、当日はこの参道を上った。
吸江十景
参道口の少し北、国分川に面した五台山山裾に吸江十景の案内。
「吸江十景について
「心あらん人に見せばや 吸江の 岸の向ひの 夕べあけぼの」
夢窓国師
群鳥静かに碧波に浮かぶ吸江湾みはるかす浦戸の入江、玉島を望むこの地に文保二年(一三一八)夢窓国師(疎石)は鎌倉幕府の執権、北条高時の母覚海夫人の招請をさけて土佐に来国した。 そして、五台山に吸江庵を開創して住んだが夢窓はこの地の景観を愛し、「見国領、独鈷水、白鷺洲、粋適庵、呑海亭、雨華巌、泊舶岸、玄夫島、潮音洞、磨甎」の吸江十景を選んだと伝えられている。
高知県立美術館蔵

しかし長い歳月の間に取り壊されたりその場所の面影がまったく変わったがため判定に困難な所もあるが、古来文人墨客が来遊し、詩歌、絵画の作品が残されており、中でも河田小龍の吸江 図志によりその場所をここに記した。
1.見国領 2 独鈷水 3.白鷺洲 4. 粋適庵 5. 呑海亭 6. 雨華巌 7. 岩船岸 8.玄夫島 9.潮音洞 10. 磨就堂」とあった。
青柳橋と新青柳橋の間が吸江湾と記あり、五台山西麓の吸江寺を含めた一帯に10の名所跡が記されていた。

土径遍路道に入る
車道を進みとすぐヘアピンカーブ。ヘアピンカーブ、道の右手に立つ「農民の友 山崎豊吉翁」の等身大像。元参議院議員。この像の直ぐ先に「伊達兵部墓、独鈷水」と書かれた案内と車道を逸れる石段がある。石段下に標石があり、手印と共に「近道上り 三十一番十丁」と刻まれる。
遍路道は石段を上り、敷石の旧道を進むことになる。


兼山神社
石段上り口の直ぐ先、道の右手に鳥居があり兼山神社とある。野中兼山を祀るのであろうとちょっと立ち寄り。境内敷地の石碑には、野中兼山を徳とするある修養団が建てたものとあった。石碑の日付も昭和46年(1971)、昭和58年(1983)とありそれほど古いものではないようだ。
吸江病院
兼山神社はそれとして、かつてこの地には高知では初めての西洋医学病院である吸江病院が建っていたようだ。明治3年(1870)、土佐藩最後の藩主、第十六代山内豊範が建てたもの。高給で外国人医師を招き治療にあたった。木造ではあるが明治初期を代表する西洋建築の様式を取り入れられており、その白堊巍然として偉觀を呈した建物は、明治7年(1874)頃にこの地から移された後、病院をへて明治17年(1884)から大正6年(1917)までは高知県庁の建物の一部として使われたそうである。

独鈷水分岐点
数分歩くと「独鈷水」への分岐点に至る。遍路歩きの各所で出合う弘法水。地図をチェックすろと、分岐点のある標高30mあたりから等高線に沿って五台山西麓を廻り、緩やかに高度を上げて標高60m地点までおよそ250ほど歩くことになる。ちょと立ち寄り。
少し歩くと木々に遮られていた浦戸湾が現れる。更にその先、道の下にパゴダの尖塔が見える。名刹吸江寺の境内に建てられた戦没者供養の塔と言う。独鈷水までに吸江寺へ下りる道でもあれば寄ってみようと思ったのだが、それらしき案内はなかった。

厳島神社・独鈷水
ほどなく、道の山側に木に書かれた、かろうじて読める厳島神社・独鈷水の案内。注意していなければ見落としてしまう。実際私も見落としだいぶ先まで行ってしまった。
案内のある箇所から道を離れ山道を10mほど上ると厳島神社の鳥居と、その先に厳島神社の小社、そして独鈷水が流れ出す、というか浸み出す岩があった。
寺伝弘仁6年(815)、空海が竹林寺を訪れた際、投げた独鈷杵で大岩が割れ、水が湧き出した、とか。周囲には細いパイプがひきまわされているが、山裾の集落の生活用水となっているのだろうか。
吸江寺
独鈷水への道下にに吸江寺のパゴダ

Wikipediaには「文保2年(1318年)、夢窓疎石が北条高時の母・覚海尼による鎌倉への招請から逃れるために四国に渡り、土佐国の五台山の山麓に結んだ草庵を起源とする。夢窓が草庵の前に広がる浦戸湾を「吸江」と命名したことで、草庵は吸江庵と称するようになった。
夢窓が足利尊氏の政治顧問に就いたこともあって、室町幕府の厚い庇護の下に隆盛し、海南の名刹と呼ばれた。室町時代には長宗我部氏が代々当寺の寺別当を務めた。江戸時代は、土佐藩主山内一豊の命を受けた義子の湘南宗化により中興され、このとき寺号を吸江寺と改めて現在に至っている」とある。 疎石の去った吸江庵には五山文学を代表する絶海中津、義堂周信といった高僧が法灯を継いだ。

伊達兵部宗勝の墓
独鈷水から遍路道まで戻り、幅広の石の敷かれた石段を上ると道の左に「伊達兵部宗勝墓」と刻まれた石碑が立つ。傍の案内には「独眼龍政宗で著名な仙台藩主伊達政宗の実子。歌舞伎の「先代萩」や山本周五郎著『樅の木は残った」に重要人物の一人として登場する伊達兵部宗勝の墓である。
彼は一の関3万石の城主で、三代藩主綱宗の実子亀千代の後見人となり藩政を補佐していたが、 側近の原田甲斐が刃傷事件をおこしたので、その責任を負って寛文11年(1671)に山内家預けとなり、延宝7年(1679)11月4日58歳で病死した。 平成2年3月 高知市教育委員会」とあった。 山本周五郎著『樅の木は残った」では藩内におけるお家騒動というより、幕府による仙台藩取り潰しから藩を守る中心として原田甲斐が描かれ、宗勝は藩を壟断する人物として描かれていたように思う。伊達騒動についてはいろんな解釈があるようだ。
お墓は基本撮らないことにしているので写真はなし。途次、浦戸湾が時に顔を出す。

車道をクロスした先に遍路道案内
石段を上ると車道参道に出る。車道を越えた道の反対側に木標が立つ。遍路道案内かと思ったのだが「至展望台」とあった。さてどうしよう。取り敢えず展望台への道を進んでみる。と、ほどなく道の右手に遍路道案内が立っていた。遍路案内に従い展望台への道を右に逸れ土径に入る。

五台山展望台公園に出る
土径を道なりに進むと何だか公園というか、崖面を岩や植物で整備したような場所に出る。五台山展望台下の椿園の辺りのようだ。遍路道といった雰囲気ではない。整備された区域とその南を通る木々の間にそれらしき道はないかと探すが見つからず、結局椿公園から五台山展望台前の公園を抜けて、その先にある公園駐車場傍に出た。前面にNHKの電波塔が立ち、その敷地に繋がったかたちで竹林寺の塀が南に続いていた。

竹林寺西門(裏門)に下る
竹林寺塀の北端、NHKとの境に「(左方を指す矢印 山頂 (右下方向を指す矢印) 本尊 知恵の文殊菩薩 五台山竹林寺」の案内があり下りの石段がある。石段の下り口に2基の標石。大型の標石には右手を指す手印と共に「三十一番 二丁 京都 田中亀吉 森藤輿三郎」と刻まれ、もう1基の標石には「三十一番 後藤」といった文字が刻まれる。
標石案内に従い石段を下りると竹林寺西門(裏門)に出る。


遍路道再考
遍路道の車道合流点
結果オーライで竹林寺まで来たのだが、途中の椿園の中を辿る道はどう考えても遍路道とは思えない。また竹林寺塀傍に標石2基があったので、そこは遍路道筋には間違いないのだろうが、それは五台山北麓を上りいくつかに分かれる遍路道案内のようにも思う。
で、あれこれチェックしていると、展望台下にある椿園の整備された公園の手前で右に逸れ車道に出るルートが国土地理院の山地図に描かれる。そのルートが車道に合流した地点をGoogle Street Viewで見ると、車道に出る土径があり、車道合流点には丁石らしき標石も見える。
青柳橋東詰めからの遍路道としては展望台に向かうことなく、伊達兵部宗勝の墓を越え車道をクロスし遍路道案内に従い右に逸れる土径に入った後、更に右に逸れる道に乗り換え再び車道に出て、そのまま車道を進み竹林寺西門に向かうルートがオンコースではないのだろうかと思う。

第三十一番札所竹林寺

西門から入ることなくとりあえず表門から境内に入るべく、車道を辿り土産物屋のある表門前の広場に出る。東側には牧野植物園温室が建ち、その脇を北に上ると牧野植物園に至る。植物園方面から下りてくるお遍路さんが多い。車参拝の駐車場も植物園の駐車場と共有しているようだ。

札所巡礼者は土産物屋前から石段を上る。山門手前、右側に鐘楼、虚空蔵菩薩堂、さらにその奥に本坊があり本坊に合わさって客殿と書院、その前面に伝夢想疎石作の庭園が広がる。
書院
江戸時代後期・文化13年(1816年)建立、玄関は切妻造り、車寄せは唐破風造り、主屋は入母屋造り。藩主参詣の際の接待殿として造営された。




五重塔
五重塔戻って仁王門を潜り境内に入ると左手高台に五重塔が見える。昭和55年(1980)再建されたもの。石段を上ると左手に大師堂、右手に本堂が建つ。
大師堂
寛永21年(1644)藩主山内忠義によって建立されたもの。
本堂
まことに美しい風情。入母屋造、柿(こけら)葺き。細部には禅宗様建築の意匠が用いられている。建立年代は室町時代と推定されている。重要文化財指定。


船岡堂
本堂と大師堂の間を抜け西門に向かう。五智如来像にお参りし先に進むと船岡堂。明治の廃仏毀釈により荒廃した寺を再興した明治・大正期の住職である船岡芳信師を祀る。師はこの地で生きながら入定した。船岡堂を先に進むと竹林寺西門に出る。





竹林寺(ちくりんじ)は、高知県高知市五台山にある真言宗智山派の寺院。本尊は文殊菩薩。京都の切戸文殊、奈良の安倍文殊とともに日本三文殊の一つに数えられる。四国霊場のうち文殊菩薩を本尊とするのは本寺だけである。
寺伝によれば、神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇は行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であると感得し栴檀の木に文殊菩薩像を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年間(806 - 810年)に空海(弘法大師)が滞在、瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復したと伝えられる。
実際の創建年代等について不詳である。中世以降は武家の信仰も厚く寺運も隆盛し、1318年(文保2年)には臨済宗の僧夢窓疎石もこの寺に滞在している。その後、寛永年間(1624年 ? 1644年)空鏡によって再興された。江戸時代には土佐国における真言宗の触頭を勤める寺院のひとつであった。また、本尊の文殊菩薩の出開帳を江戸や大坂で行っている。
本尊文殊菩薩
渡海文殊(竹林寺HP)より

本尊文殊菩薩座像(高さ六センチ)は宝物殿の四眷属とともに一組をなしたもので、獅子にまたがった「騎獅子文殊」 であり、唐代の様式を伝える我が國最古の文殊菩薩像とされている。慈覚大師円仁が承和五年(838)に入唐の際に中国五台山よりもち帰ったものと同形とされ、後に「渡海文殊」とも呼ばれるようになった。
渡海文殊とは、騎獅の文殊が四眷属を従えて雲に乗り水上を進む像姿を言う。






竹林寺から五台山を下りる

下山口
参拝を終え、第三十二番禅師峰寺へと五台山を下りる。遍路道は仁王門石段を下りたところ、土産物屋の西側から下る石段がある。これが下山道だろうと石段を下りる。

徳右衛門道標
急な石段道を下ると直ぐ左手に標石が立つ。梵字と大師座像が刻まれた典型的な徳右衛門道標。「是ヨリ峯寺迄一里半」と刻まれる。この標石のところで左に下る石段もあり、禅師峰寺への案内もあったようなのだが、その時は全く気にすることなくそのまま石段をまっすぐ下る。



貞亨元年法華經塔
道を5,6分下ると右手少し高い所に石塔が立つ。道脇の案内には、「貞亨元年法華經塔 貞享元年(1004)、柏島法蓮寺の僧日教が建立。宿毛市、東洋町甲浦にも同形同大の経塔が存在する。方柱状の身部に笠を置き、上に宝珠を載せるもので題目式許と呼ばれる。総高2.98m、
石質は砂岩。身部正面に題目一尊を刻し、四面に経塔建立の願文、
法経経の功徳、塔下に法華経を経函に入れ収納していることを刻す。日蓮四百遠忌直感を意識して建立したものであろう。 平成2年3月 高知市教育委員会」とあった。

「土佐遍路道 竹林寺道・禅師峰道 高知市教育員会」に拠れば、柏島は現在の幡多郡大槻町栢島。この高知の最西端(南端とも)いえるところの寺僧が3基もの石塔を建てたのは、幡多郡が土佐における日蓮宗布教はじまりの地であることもさることながら、この栢島が船運の要衝の地として栄え、経済力があったからでは、とする。
また土佐入国・出国の地・交通の要衝である東洋町甲浦、宿毛市市山、そして土佐中央部の竹林寺に経塔を建立したのは土佐の人だけでなく、お遍路さんへの日蓮宗の布教を目したのでは、とも記す。実際、建立時期は、年間3万とも4万名とも言われる四国遍路のもっとも多い時期であるとする。
なおまた土佐藩主が土佐転封以前より日蓮宗要法寺を菩提寺とし、土佐転封に際しては、寺を土佐に移している。こういったことも真言宗の名刹参道に日蓮宗の法華塔が立つ所以だろうか。もっとも、法華経はすべての経典の中心となるとされるわけで、その観点からいえばそれほど特異なことではないのかもしれない。

南吸江の茂兵衛道標(100度目)
法華教塔から10分ほど下ると南吸江の集落に出る。下山口の石段東側に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「五臺山伽藍」と刻まれる。道標には「右 高野寺 安楽寺」の文字も刻まれる。高野寺は高知市内にある四国遍路別格霊場、また安楽寺は廃仏毀釈で廃寺となった善楽寺にかわって明治8年(1875年)に30番札所となったお寺様。明治21年(1888)。茂兵衛100度目巡礼時のもの。


遍路道再考
五台山の遍路道
当日はこれで高知の城下町経由の竹林寺遍路道のトレースは終わったと思っていたのだが、メモの段階で上述貞亨元年法華經塔のところでメモした「土佐遍路道 竹林寺道・禅師峰道 高知市教育員会」を読んでいると、タイトルの如く竹林寺道・禅師峰道の案内があり、そのルートは当日辿った竹林寺への上り・下り道とは異なる案内が記されていた。
城下町経由の遍路道は国分川に架かる青柳橋まではおなじなのだが、上りの表参道は竹林寺道とされ、それは今下りてきた参道道。下りは禅師峰道と称し、下田川に面した坂本へと下るとする。
同レポートによると、国分川を渡った遍路道はそのまま国分川に沿って五台山西の山裾の道を進み吸江寺前を通り上述茂兵衛道標の建つ参道口に至る。同レポートではこの参道口から竹林寺に上る道を竹林寺道とし、竹林寺を打った後は、これも前述下山時に参道脇に立っていた徳右衛門道標のところから左に逸れ、石段道を下途中車道参道をクロスしながら坂本の集落に下りる。この禅師峰道と称する遍路道の下山地点、坂本小学校の東には茂兵衛道標が立ち、遍路道は茂兵衛道標を左に折れて下田川に沿って先に進む、とあった。
遍路道に特段の決まりはないわけで、どのルートを辿ってもいいわけだけど、国土地理院の山地図には竹林寺からの下山道として禅師峰道が描かれている。前述の如く、当日は青柳橋東詰から上る遍路道が竹林寺への表参道かと思っていたのだが、ひょっとするとレポートにある竹林寺道が往昔の城下町から竹林寺に上る表参道であり、そして禅師峰道が五台山を下るメーンルートかとも思い直し、とりあえず同レポートにあったルートを確認する;
徳右衛門道標の分岐点
当日は気づかなかった、というか気にしなかったのだろうが、確かに徳右衛門道標から左に下る石段があり、「禅師寺道」の案内もある。




車道クロス地点
国土地理院の山地図にある実線ルートが車道参道と交差する箇所をGoogle Street Viewで確認すると車道の両側に車道とクロスする土径が見える。
その先、車道を離れた遍路道をGoogle Street Viewでは確認できなきが、Google Mapには下山道らしき筋が透明の帯として山裾に下り、坂本小学校東側の道と繋がっていた。この道筋が禅師峰道だろう。 
坂本の茂兵衛道標(185度目)
坂本小学校東の道が下田川に沿って進む県道32号に合わさる地点、坂本小学校東南端に鉄骨で補強された標石が見える。茂兵衛道標だろう。
東面には手印と共に「五臺山 京都三条通東洞院西へ入 施主中井三郎兵衛」、北面には「峰寺 為中井氏先祖代々菩提」、南面には「左 高知 壱百八十五度目為供養 周防国大島郡椋野村在 発願人 中司茂兵衛義教」、西面には「明治三十四年 見わたせハ罪もき?ルリ法の道」と添歌も刻まれている、と。
中井三郎
中井三郎氏が施主となった茂兵衛道標には86番志度寺から87番長尾寺ねの途次で出合った。そこにあった案内には「(願主茂兵衛の説明に続き)施主は京都三条通東洞院西入の中井三郎兵衛とその妻ツタである。明治三三年三月にここに建てた道標は、中井氏先祖代々供養のためとして、長尾寺と志度寺の道しるべとなっている。 中井氏と中務氏が組んで建てた道標は、明治二四年に高知市坂本に、明治三年に徳島県平等寺の近くに、明治三四年に愛媛県新宮村に建てられている。四国の四県に各一基ということになるが、いずれも、二か寺を案内する道標になっている。
中井三郎兵衛氏は、京都府会議員で、観光都市京都の発展に貢献した実業家である」とあった。
添歌
添歌が刻まれたも茂兵衛道標も、遍路歩きの途次、時に目にする。現在比定されているも茂兵衛道標263基ほどの道標のうち、37基に句歌が刻まれる、と。 句歌は臼杵陶庵の作。本名臼杵宗太郎。明治9年、12歳で第七十六番札所金蔵寺に入寺。以来俳句を学び、茂兵衛とは巡礼時に金蔵寺納経所にて知己を得、後に茂兵衛建立の道標に句を添えた。
26番札所金剛頂寺から27番札所神峯寺への途次、不動岩の茂兵衛道標には「迷う身越教へ天通す法の道」の添歌と大正七年九月吉辰」の文字が刻まれていた。

今回のメモはこれでお終い。次回は茂兵衛道標の立つ坂本から次の札所へのメモから始める。


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