火曜日, 10月 13, 2020

土佐 歩き遍路;第三十五番札所 清瀧寺から第三十六番札所 青龍寺へ

今回は清瀧寺から青龍寺への遍路道をメモする。距離はおおよそ14キロほどだろう。このルートは地形の観点からみると少々バリエーションに富んだルートとなっている。虚空蔵山地の清滝山麓に建つ清瀧山からはじめ、仁淀川により形成された氾濫平野・谷底平野を進み、横瀬山山地を越える。横瀬山山地の南は地震沈降によるリアス式海岸の様相を呈する浦の内湾。かつては渡船、現在は湾口部に架かる宇佐大橋を歩き浦の内湾を渡り、対岸の横波半島に東西に連なる横波山地東端麓に建つ青龍寺へと進む。氾濫平野とリアス式海岸により三条に分かれた山地を北から順に辿ることになる。
Google Earthで作成

地層もバリエーションに富んでいる。虚空蔵山地を東西に走る仏像構造線の南は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期の地層よりなる四万十帯に属するが、清瀧寺の建つ辺りは中生代後期白亜紀の海成層砂岸(黄色)に中生代前期白亜紀の砂岸泥岩互層(黄緑)が割り込み、中央の高岡平野は仁淀川により形成された新生代の氾濫低地、その南の横瀬山地北側は中生代の海成層砂岸層と砂岸泥岩互層が幾条も並行して東西に走り、浦の内湾を挟んで横瀬山山地南側と横波半島の横波山地北側は中生代海成層の泥岩(薄い青)で造られている。

これらの地層はプレートが沈み込むときに海底に溜まっていた砂岩や泥岩が沈み込み部に取り残された「付加体」とされるが、大雑把に言えば日本列島って「付加体」でできているようなもの。どのような地殻変動でこのような地層が形成されたのか門外漢にはコメントできないが、それにしても面白い地層の並びである。
それはともあれ、遍路道に話を戻すと、お寺さまを繋ぐ遍路道も地形、地質・地層同様バリエーションに富んでいる、横瀬山山地には青龍寺道として国の史跡に指定されている塚地峠越え、横波山地の竜坂越えといった「軽い」峠越えあり、氾濫原の高岡平野では野中兼山開削水路跡など、峠越え・水路フリークには結構楽しいルートとなっている。もっとも峠越えはともあれ、水路フリークはお遍路さんにそれほどいらっしゃるとも思えないが、とまれ散歩のメモを始める。



本日のルート;35番清瀧寺>清瀧寺・青龍寺道分岐点>茂兵衛道標>波介(はげ)川の弥九郎橋>県道39号を南下>塚地休憩所>青龍寺道(遍路墓>供養塔と標石>峠手前に標石>塚地峠>標石>展望所>「遍路道 塚地峠あと600m」の標識(摩崖丁石)>大師の泉>舗装道路に出る(摩崖仏)>安政地震・津波の碑>常夜灯>伊気神社の茂兵衛道標>茂兵衛道標>県道23号合流点に標石>宇佐大橋を渡り横波半島に>竜坂越えの遍路道(旧遍路道の案内丹生神社の茂兵衛道標>井尻大師堂>峠>2基の石仏と遍路墓>9丁・8丁>竜の集落に下りる)>六地蔵>標石>36番青龍寺



清瀧寺から清瀧寺・青龍寺道分岐点まで打ち戻り

清瀧寺(きよたきじ)から高岡市内の清瀧寺・青龍寺(しょうりゅうじ)道分岐点まで打ち戻り。往路と同じ遍路道を戻ることになる。澄禅が『四国遍路日記』が「此宿ニ荷俵ヲ置テ札斗持テ清滝寺エ上ル也」、真念も『四国遍路道指南』に「荷物を高おか町にをき、札所へゆきてよし」荷を高岡に置くと書く所以である。メモは清瀧寺・青龍寺道分岐点より始める。

清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点に標石
清瀧寺から清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点へと打ち戻る。分岐点には「35寺 清龍寺」は北方向、「36寺青龍寺」は南方向を指す案内と、その下におおきな標石。「右清瀧寺道 左青龍寺道 文化五」とある。
青龍寺への遍路道は案内に従い、南下する。

茂兵衛道標(259度目)
道の左手を流れる用水路に沿って南下。東西に走る県道39号を渡り更に南下,用水路が鋳鉄の「たたら」をその語源とする「高殿」(「土佐地名往来)あたりで、北から下って来た用水路を「水路橋」で渡る辺りで用水路と共に道もその方向を東に変えしばらく進む。
ほどなく道の左手を流れていた用水路が右側に変わる。その少し先で道と用水路がペアで南東へと下り南へと下って来た県道39号とクロス。 その西南角に「清滝寺4.8km」「塚地峠2.5km」の「四国のみち」標識と茂兵衛道標がある。手印と共に「清瀧寺一里 青龍寺一里半余 大正四年」といった文字が刻まれる」。茂兵衛259度目巡礼時のもの。遍路道はこの四つ辻を右折し南下する。
鎌田井筋
清瀧寺・青龍寺道分岐点から遍路道に沿って続く用水路は。鎌田井筋として紹介されている写真と同じ風情であり、どうも往昔鎌田井堰で取水し、松尾八幡の東辺りで三つの流れに分かれた鎌田井筋のひとつのように思える。
八田堰の工事を完成した野中兼山は、八田堰の上流2.5km、仁淀川に架かる土讃線の鉄橋西側下辺りに取水口(鎌田井堰)を設けることとして、承応3(1654)年鎌田堰築造に着工。2年の歳月で長さ545m(300間)、幅18.1m(10間)、高さ12.7m(7間)の堰を完成。およそ23キロにも及ぶ鎌田井筋を開削し、土佐市のある高岡平野を潤した。
鎌田井堰は下流の八田堰まで舟筏を通す必要があったためか、「水越」を設けられ、「鎌田堰の筏越し」として知られたようである。

国土交通省の資料
広谷喜十郎:野中兼山と春野
この鎌田井堰も昭和12(1937)年、高岡郡日高村下分に水門を設け、トンネルを掘り抜き、新たな水路を開いた。ために、約300年近く利用されてきた「鎌田堰」は、昭和17(1942)年をもって取り除かれ、現在鎌田井堰跡には石碑が残るのみ、と。
鎌田井筋の水路図(国土交通省の資料と「広谷喜十郎:野中兼山と春野、高知市広報「あかるいまち」2007 年 12 月号」)などと現在の用水路を比較すると上流部の高知自動車道のすぐ南の松尾神社辺りまではそれらしき流路が比定できるのだが、その先で分岐した流れがどれもピタッと一致しない。一致しないのだが、土佐市の写真に鎌田井筋として紹介されている用水路とは同じ風情であり、往昔の鎌田井筋がベースとなった幹線用水路であろうと思い込む。

波介(はげ)川の弥九郎橋を渡る
路傍の地蔵尊を見遣り道を南下。波介川の弥九郎橋を渡る。弥九郎の由来は?そして何故に波介を「はげ」と読み、またその由来はなども気になる。
あれこれチェックするが「弥九郎」の由来は不明。長曾我部元親の異母弟に島弥九郎がいる。元親の阿波侵攻のきっかけとなった徳島南部、那佐湾での島弥九郎事件の当事者であるが、これといって橋名との関連を示す資料はなかった。
また、何故に波介を「はげ」と読む?『土佐地名往来』に「波介川の氾濫と、小野の樋台から逆流するサカウド(逆水)で、田面がホゲ通しのムラだった。ヒキ(蛙)の小便で早やツカル(浸水)ともいわれた。動詞ホグレルの名詞形ホゲに原意があったと考えられる。ホゲルは、方言でハゲルだった」とある。
波介川の氾濫水と、小野の樋台から逆流する仁淀川かの水がぶつかり合って土地が「はげる」場所と言うことだろう。「介」には間に挟まるって意味がある。波と波がぶつかり合うところどいうことで、「波の介(あいだ)」の文字をあてたのだろう。
往昔波介川は仁淀川に合流していた。「小野の樋台から逆流」とあるが、波介川が仁淀川に接近する辺り、波介川を渡る県道282号に「小野橋」が架かる。小野橋の下流、現在波介川水門のある辺りで波介川が仁淀川に合流していたのだろう。
仁淀川の水位は波介川の水位より高く、洪水時には仁淀川からの逆流が波介川を遡り、土佐市内は幾たびも洪水に見舞われた、という。仁淀川の逆流に加え、波介川が上流に行くほど地盤が低い低奥型の地形であることも大きな因ではあろう。
波介川の治水対策事業
昭和50年(1975)、土佐市は未曽有の洪水被害に見舞われた。洪水対策として仁淀川からの逆流を防ぐため波介川水門が設けられた。が、この水門により仁淀川の逆流は防げるが、低奥性の地形である波介川自体の洪水帯水を避けることができなかった。
その対策として両河川の合流点を現在の波介川樋門辺りまで下げたが、それでも洪水被害を避けることはできず、結局波介川筋を河口まで抜く波介川河口導流路工事に平成19年(2007)度に着手し平成24年(2014)5月に運用を開始した。
これにより、平時は波介川からの水を仁淀川に流すため、波介川と導流路を十文字堰で仕切り、波介川樋門は全開。波介川潮止堰は全閉し、河口から導流路内への塩水遡上を防止した。 洪水時は、波介川の水はけをよくするため、波介川潮止堰を全開し、十文字堰を倒伏しその後、波介川樋門を全閉して仁淀川と波介川を分断し、波介川の洪水を導流路から海域へ流すことで、土佐市街地を含む波介川流域の浸水被害を極力減らすことを目したようである。

県道39号を南下
弥九郎橋を渡ると前面に横瀬山山地が東西に連なる。山地は山脚を分岐し、山脚には発達した浸食谷が見られる。遍路道は塚地川の開析した谷筋を通る県道39号を南下する。
浸食谷を南下する県道最奥部に塚地坂トンネルがある。873mのこのトンネルは平成10年(1998)3月竣工、翌年年開通とあるので県道39号はそれに合わせて整備されたのだろう。
古い資料には県道開通前の旧路に道標などが残るとあるが、県道脇に時に旧路の面影を残す橋などが残るも、その先は既に藪となっており、とても踏み入る気にはなれない。仕方なく県道39号を南に進み、塚地休憩所に。
県道はその先で塚地坂トンネルを抜け宇佐の町に入るが、遍路道は塚地休憩所から塚地峠越えの山道を上ることになる。
塚地
『土佐地名往来』に、「古くは津賀地。集落にある猿喰古墳が由来。蓋石がいまも残り穴神様として祀る」とある。古墳の塚のある土地が由来ではあろうか。塚地川右岸に猿喰の地名は残るが、猿喰古墳は検索でヒットしなかった。
義盛山
猿喰をチェックしていると、塚地川谷筋の東側に義盛山(標高144m)が目にとまった。義盛で想起できるのは和田義盛。鎌倉御家人。頼朝を助け鎌倉幕府の重責を担うが、北条氏と不和となり、所謂、和田合戦により一族は滅亡した。
そんな和田義盛と土佐に何か関係が?あれこれチェックしていると、四国の水瓶・早明浦ダムの南西に和田の地名があり、また695.4m三角点に和田城山があるようだ。
一族滅亡とされる和田合戦の際、義盛の四男若狭守義直は一族を引き連れ、四国まで逃れ、讃岐和田浜にをへて、山奥の地・和田に来て城を築き神社を建てて再挙の時を待ったとのこと。
とはいえ、Wikipediaには建暦3年(1213年)に討ち死との記事もある。なんだか四国に多い平家の落人物語の様相を呈してきた。上述弥九郎同様、単なる妄想ではある。

塚地休憩所
塚地坂トンネルに向かう県道39号と源頭部から下る塚地川の沢筋の分岐点に塚地休憩所がある。 四阿(あずまや)や「大師の泉」と刻まれた石碑傍には水車などが添えられている。名称は大師の泉とあるが、特段お大師さんゆかりのものではなく、施設名といったものだろう。
この塚地休憩所には多くの案内パネルがあった。写真に写る文字をテキストに変換してくれる優れもの無料ソフト「一太郎pad」を活用し、案内をテキスト化する。
遍路道 巡礼の往還
まずは遍路道の案内。説明文とともに、摩崖仏と遍路塚とか大師の泉といった塚地峠越えの旧跡などの地図があるのだが、地図が大雑把すぎて場所の目安がつかない。成り行き任せとなるようだ。 遍路道の案内には「遍路道 巡礼の往還 塚地峠(宇佐坂)越えは、道のり二キロ、標高百九十メートル、四国霊場八十八ヶ所の第三十五番札所清滝寺から、横波半島の竜・第三十六番札所青龍寺へ向かう最短距離の遍路道である。
清滝寺は、奈良時代の僧・行基が、養老七年(七二三)、薬師如来像を作って寺を開き、さらに平安時代になって弘法大師・空海が再興したと伝えられる。また青能寺は空海が中国で修行中に秘法を授かり、手にした独鈷杵(仏具の一種)を海に投げた。それが竜の浜に流れついたという。空海は、ここを霊場と定め、延歴二十三年(八〇四)に開山したと伝えられる。
いずれも真言宗豊山派の寺で八十八ヶ所の札所の中で、山を越え海を渡って半島を結ぶ霊場はここだけである。交通が発達した今でも、白装束の遍路が鈴を鳴らして峠に向かう。
時には団体を組んだ遍路の列も見受けられる」とある。
また、遍路道の地図上に示された旧跡としては
峠の茶屋
「ふもとの手差し石(道しるべ)に従って一キロほど登ると峠に出る。この峠には昭和二十年代まで茶店があり、ここを通る遍路や商人たちの憩いの場であった。
峠からは、東に室戸岬、西に足摺岬を眺望し、横浪半島の竜・青龍寺の山々がパノラマのように見える」。
大師の泉
「峠から南に下りるとすぐ楢の林にはいる。その中に「大師の泉」という湧水がある。峠を越えてゆく者にとってこの水はお大師様の恵みと感謝して、のどを潤していったであろう」。
磨崖仏と遍路塚
「下りの道半ばを過ぎると、道より上に大岩が傾きほこら状になっている。その斜面を見ると このあたりでは珍しい磨崖仏が線刻で描かれている。
さらに下りたところに、その昔 各地から遍路巡拝の旅を続けるうちこの辺りで命尽きた人々の遍路墓が塚地側登り口と同様、多く見られる」。
水車小屋の跡
「宇佐側のふもと近くまで下ると、一軒の廃屋がある。この谷川の水を利用して、精米、製粉を営んでいた水車小屋跡である。戦後昭和二十年代まで老夫がすんでいたという。古き良き時代の 一 水車の名残をとどめている」。
〇安政大地震の津波の碑
「峠をおりきると、路傍右側に、南無阿弥陀仏の名号を彫った筒型の碑が建っている。これは、安政元年(一八五四)十一月五日の大地震と津波のことを記したもので、碑文には、人家流失し残る家僅か六、七十軒、溺死者七十余人など当時の状況が記され「先ず逃げよ、物欲にとらわれるな」と教えている。
安政四年に建立されたもので宝永・安政の二度の津波による死者の供養塔である」。 地図は大雑把なイラストであり、場所の特定はできそうもない。結構注意して歩いたのだが、大師の泉(多分そうだろう)と安政大地震の津波の碑以外は見つけることはできなかった。
「くらしの道 みちの移り変わり」の案内
「この塚地越えは、往事の商業の道でもあり、また、漁村を結ぶ産業文化の道でもあった。遠い昔、宇佐で作られた塩は、この峠を越えて穀物と交換され、郷と浦の人々を結ぶ生活道でもあった。
近時の車が発達するまでは、通勤の道でもあり、宇佐方面に勤める人たちはよくこの道を越えていった。特に、竜の不動祭や大相撲、潮干狩、海釣りなど高岡と宇佐を結ぶ最短の要路であった。 明治時代の終わりに中島から新居を経由して宇佐に通ずる郡道が開通し、主要交通路として確立するに従って、塚地峠を行き交う人の数はだんだんと減っていった。戦後、自動車交通が普及すると、この道はお遍路やハイキングの人たちの道となった。
その一方で、昭和三十三年の土佐市設置の際には塚地トンネルの建設構想が挙げられるなど、人々の心からこの塚地越えの道が忘れられることはなかった。
平成の時代になって、現在の科学技術の力により、この道はトンネルという形で再び私達の前に帰ってきた。全長八三七、五メートルのトンネルの開通により、峠をわずか二分で越える(通り抜ける)ことができるようになった」とある。
塚地峠越えから横瀬山地が仁淀川に落ちる東裾を走る県道282号、そして塚地坂トンネルの開通によって横瀬山地を県道38号によって一直線に結ばれることになった高岡と宇佐の「往還」変化の経緯が解説されていた。
「かつおと石」の案内
「夜売りの道 「宇佐の鰹」。これはその昔から多くの人に新鮮な魚としてよく知られてきた。塚地の峠に山つつじが咲く頃は、ことに初鰹で港は賑わった。早朝 港を出た船が次々に帰ってると、いきのいい鰹が砂浜に上げられ競りにかけられる。
待ち構えていた行商人たちは、鰹を入れた荷籠に檜の葉っぱをかぶせて一斉に商いに出る。氷が自由でない時代は、先を争って新鮮な鰹を食卓に届けようと 高知市や高岡の町を日指して算駄天のように 日暮の塚地峠を越えた。
漁師と町の人々とを結んだコースが「夜売りの道」である。塚地峠の他にも高知方面には新居坂を越えて十文字の渡しを通り 西畑から弘岡に出るコースや仁淀川河口を渡り仁ノから秋山をするコースがあった」。
「石工の里 塚地の里は、高岡町の南に位置し三方が山に囲まれた田園地帯である。波介川に架かる弥九郎橋を渡ると、東には義盛山があり その頂上には塚地城址がある。すぐ近くの猿喰地区は、初代衆議院議長の中島信行の生誕地でもある
塚地は古くから石工の里であった。江戸時代より石工が多く、一時期は、四十軒ばかりの石材加工を生業とした家があり、石工も六十余人がいたといわれる。
その石材は、塚地の峠を越え、須崎市浦ノ内の灰方山で採れる「土佐の青石が選ばれてきた。 石塔の外に、名前を刻んだ石灯籠や狛犬、石像など、塚地の石工は県下でも最高の技術を誇っていたらしく優れた作品が残されている。今でも五~六軒の石材店がその伝統を受け継いでいる」とある。

これらの解説の他、「塚地坂」周辺は、幻の鳥といわれる高知県の県鳥、「八色鳥(やいろちょう)」の生息地でもあるといった解説や、西隣りの須崎市との境にある「虚空蔵山」から、「横瀬山」へと続く「横瀬山山系」のハイキングコースなどの案内も公園にあった。


青龍寺道


塚地休憩所を離れ横瀬山地を越える青龍寺道に入る。全長およそ1.6km、標高およそ200mの遍路道で、平成28年(2016)秋、国の史跡に指定されている。「文化遺産オンライン」に拠れば、「(土佐遍路道のうち)塚地坂(つかじざか)を越える部分に旧状をとどめている。(中略)塚地坂を南に下って沢と合流する付近の岩塊には丁石としての文字が刻まれ,それに尊像が添え彫りされている。また,坂を下りきった宇佐側の沿道には磨崖仏が存在し,その一部には高岡郡域の中世期の石仏の特徴が見出される。青龍寺境内に慶長6年(1601)の接待供養塔が存在することをふまえると,遍路が一般化する時期以前から信仰の道として利用されていたことが推測される。遺存状況が良好であり,土佐における遍路道の実態を考える上で重要である」ということが指定の因であろうか。
とはいえ、肝心な処はすべて見逃した為体(ていたらく)ではあるが、ともあれ青龍寺道をメモする。

遍路道 塚地起点;14時3分
「遍路道 塚地起点 標高45.0m 塚地峠まで840m 標高差140m」の木標のあるところからスタート。道端に置いてある遍路杖をお借りして進むと、道の左手に「四国のみち」の概要図。沢に沿って数分進み、沢筋を離れる。






遍路墓
沢筋を離れ尾根筋に入るあたりにいくつもの遍路墓が並ぶ。尾根筋に入り、標高を100mほど上げる。道筋には「遍路道 塚地峠あと600m」、「遍路道 塚地峠あと500m」といった案内が立つ。 道は横木の敷いた階段状、石畳状などと整備されている。



供養塔と標石
「遍路道 塚地峠あと300m」の案内を越えると2基の石柱。1mほどの自然石には「南無阿弥陀仏」の文字がかすかに見える。供養塔のようだ。小さな石柱は「下 へんろ」といった文字が読める。標石だろう。






峠手前に標石
「遍路道 塚地峠あと200m」「遍路道 塚地峠あと100m」といったあたりには竹林に囲まれる、その先、峠鞍部への小さな切通がある手前に自然石の標石。手印と共に「下 へんろ道」と刻まれる。 






塚地峠:14時30分
上り口からおおよそ30分弱で峠に到着。峠には「へんろ道 塚地峠 標高185m」の標識の他多くの道案内の「標識が立つ。「宇佐」「高石(私注;弥九郎橋を渡った北側の地)」、「弥九郎橋」「大峠展望所」、またハイキングコースの案内もあり西の「大峠展望所」や「茶臼山」「波介山公園」への概要図があった。




標石
大峠展望所へのハイキングコースへの道との分岐点に標石が立つ、手印と共に「へん路道 嘉永」といった文字が刻まれる。宇佐への遍路道は標石の左の道を下ることになる。 ●手やり石
道を下るとすぐ、「手やり石」の案内。「手やり石は青龍寺までの道しるべとして路傍に建てられたもので、多くの人々が利用した」とある。が、肝心の手やり石らしきものが見当たらない。「手やり石」で検索すると、手印のついた標石のことを「手やり石」とする土佐の散歩記事が目についた。手印上述手印付きの標石のことを指すのだろうか。


展望所
道を進むと「遍路道 塚地峠あと100m」の案内。宇佐から上ってきた人のためのよう。その先、全面が開け、宇佐の町と内海が見える。
塚地休憩所にあった「茶屋跡」の案内は特になかった。






「遍路道 塚地峠あと600m」の標識
「遍路道 塚地峠あと200m」,「あと300m」、「あと400m」と続く。上りと異なり土径がほとんど。たまに石が敷かれる。「あと400m」のところには石垣が組まれれいた。その先に「遍路道 塚地峠あと600m」の標識。




摩崖丁石
以下、後付けのメモではあるが、青龍寺道を辿るも塚地休憩所にあった「摩崖仏」を目にすることはなかった。で、メモの段階であれこれチェックすると、春野公麻呂さんの書かれた、「土佐の摩崖仏三景」という記事の「萩谷磨崖仏(宇佐萩谷)」の項(私注;萩谷とはこのあたりの地名)に、塚地峠越えの道筋に2か所の摩崖史跡が紹介されていた。
そのひとつが、この「遍路道 塚地峠あと600m」の標識の少し先にあるという摩崖仏ならぬ「摩崖丁石」。上述の文化遺跡オンラインにあった「塚地坂を南に下って沢と合流する付近の岩塊には丁石としての文字が刻まれ,それに尊像が添え彫りされている」とあるのがこの史跡だろう。 自然の大岩に「是より青龍寺へ 四十九丁半」と刻まれる、と。これは前もって場所がわかり、その気になってじっくり岩を眺めなければとてもわからないだろう。
興味を持たれた方は、「遍路道 塚地峠あと600m」の標識から先辺りを注意しながら歩きいてみてください(もうひとつの摩崖史跡である摩崖仏は後述)。

大師の泉
何となく沢筋を感じ始めた辺りに「萩谷」と書かれた木の標識。その先に「遍路道 塚地峠あと700m」の標識を見遣り更に進むと砂防ダムが現れる。
砂防ダムを越えると「遍路道 塚地峠あと600m」の標識がありその先に水場。塚地休憩所にあった大師の泉の案内では、「峠から南に下りるとすぐ楢の林にはいる。その中に」大師の泉があるとする。「すぐ」が「大師の泉」に架かると思い峠近くで大師の泉を探したがみあたらなかったのだが、「すぐ」がかかるのが「楢の林」であり、そのそこから続く林の中に大師の泉がある、と解釈すれば、ここが案内にある大師の泉とも思える。特段の案内はなかった。

舗装道路に出る;15時34分
水場を過ぎるとほどなく舗装された道に出る。そこで小休止。少々荒れてはいるが簡易舗装の道を進み、「あと900m「あと1100m」、「へんろ道 青龍寺7000m 塚地峠1200m」の標識の先で沢に架かる橋を渡り、「塚地峠1.3km 青龍寺5.3km(私注;7キロから5.3キロに急に減っている)」の傍にある「金剛杖の返却箇所で上り口でお借りした杖を戻す。その間、上部の欠けた石仏、遍路墓、舟形地蔵などが道脇に立っていた。 上りはじめてから1時間半。膝を痛めているとはいえ、ちょっと時間がかかりすぎ。
舗装された道に出て、沢を左手、右手そして左手に見ることろで里にでる。
摩崖仏
上述、摩崖丁石のところで見落とした摩崖仏のチェックで、春野公麻呂さんの書かれた、「土佐の摩崖仏三景」という記事の「萩谷磨崖仏(宇佐萩谷)」の項(私注;萩谷とはこのあたりの地名)に、塚地峠越えの道筋に2か所の摩崖史跡が紹介されていた、とメモした。
記事に拠れば萩谷の登山口(四国のみちの道標あり)から徒歩10分ほどの地点にあるとのこと。他の方の記事を見ると摩崖仏は舗装道に出た辺りにあるようだ。
以下、春野さんの記事と写真を引用させていただく:「大小二つの岩に沢山の仏像等が彫られているが、地震か豪雨で岩が斜面から滑り落ちており、斜めに傾いている。

〇かなり沢山のものが彫られており、仏像以外のものもあるが、何か分からないものが多い。







〇「大きい岩の方の正面上部、一つの胴体に頭が三つあるカラス天狗が刻まれており、その下には弘法大師の座像。この頭が三つあるカラス天狗像は珍しくなく、高知市内の寺にも石像がある。

〇「大岩の東側側面の顔が薄肉彫りの像は、錫杖を持っていることから山伏か役小角。他にもエジプトの王のような仏像等、数体の他、三味線や独鈷のように見えるものもある。




〇「小岩の方には、円形に連なった小太鼓を持っている雷様のような像に、烏帽子を被った神職のような像も描かれている。

当日歩いた時にこの大岩と前に立つ石仏は見た覚えはあるのだが、その大岩に線彫りの摩崖仏像が刻まれているなど思いもよらず、仏に頭をちょっと下げて素通りした。摩崖仏の説明文を見たときに、大分臼杵の石仏いった崖に彫られた巨大仏と思い込み、見逃してしまった。 そういえば、讃岐の弥谷寺や同じく讃岐の曼荼羅寺奥の院でみた摩崖五輪塔にしても、ちょっと大きめの岩に線彫りで描かれており、その気になって見ないことには摩崖塔であるとはとてもわからなかったことを思い出した。

安政地震・津波の碑
開けた萩谷の里の舗装された道を左手に水路(萩谷川)を見ながら進むと、道の右手に「安政地震・津波の碑」と書かれた解説文と石碑と標石らしきものが並ぶ。
「安政地震・津波の碑」は塚地休憩所の案内にあったものだろう。解説文には「この碑は、宝永四年(一七〇七)に発生した地震及び安政元年(一八五四)に発生した安政地震に伴う津波による犠牲者の追善と被害の教訓を後世に伝えるために安政五年(一八五八)に地元の衆議により潮先に近いこの地に建立されたもので、碑の前面には当時の状況が詳細に刻まれている。
後年発生した南海地震の際に、この教訓が生かされ、津波による死者は僅か二名のみであり、今後も津波への備えを語り続ける貴重な史跡である。 平成九年十一月十日指定 土佐市教育委員会」とあった。
円柱の石碑表面には当時の被害状況が刻まれており、「八、九度にわたって襲来した津波により、多くの人家は流され、残った家は六、七十軒。溺死七十余人。山手に逃げた人は助かったが、船で逃げようとした人は亡くなった。御蔵米の供出により飢えることはなかった。衣服等を拾い用いた人は伝染病で亡くなった・・」といった当時の状況を伝える。
安政の大地震・津波の碑は土佐の遍路道の途次、何度か出合った。安政の地震・津波の碑の傍に2基の標石。手印がかすかに見える。

常夜灯
水路(萩谷川)沿いの道を東進、そして南下すると水路が南と西方向に分かれる。その角に3mほどもある常夜灯。現在の遍路道はここを南に進み海岸線に出て宇佐大橋へと向かうが、宇佐大橋が架橋されたのは昭和48年(1973)。今回は架橋以前、お遍路さんが利用した渡船場への遍路道をトレースすることにする。
往昔の遍路道はこの角を右折し、萩谷川に架かる灯明1号橋を渡り西進する。

伊気神社の茂兵衛道標
萩谷川に沿ってしばらく西進し、川筋南に縦長い境内をもつ伊気神社のある箇所を左折し南に進む。境内に茂兵衛道標。常と異なり小ぶりな標石。
正面には「周防国云々」と常の如くの在所名と施主中務茂兵衛」、右面には「明治二十七年」と言った文字が刻まれるが、巡礼度数の表示がない。
伊気神社
地元の人々は「おいげさん」と呼ぶ。 「いげ」というのは、稲毛・池など水田稲作に由来する言葉のようで、豊穣の神。高知県では「神母神社」、「畝丘樹下神社」とも表記し、共に「(お)いげ神社」 と読むようだ。
泣沢売命(ナキサワメを祭神とする社もあった。泣沢売命はイザナミを失い悲しむイザナギの涙から生まれた神とされ、Wikipediaには「江戸期の国学者、本居宣長は『古事記伝』にて「水神」「人命を祈る神」、平田篤胤は「命乞いの神」と称するなど、水の神、延命の神として古代より信仰を集めている。
太古の日本には、巫女が涙を流し死者を弔う儀式が存在し、そのような巫女の事を泣き女という。この儀式は死者を弔うだけではなく魂振りの呪術でもあった。泣き女は神と人間との間を繋ぐ巫女だった。ナキサワメは泣き女の役割が神格化したものとも言われており、出産、延命長寿など生命の再生に関わる信仰を集めている。また、雨は天地の涙とする説があり降雨の神様としても知られている」とあった。

茂兵衛道標(88度目)
伊神社の角を右折し西進し萩谷川筋に合流、そのまま西進し海にほど近い潮止水門が見える辺りで成り行きで左折し宇佐の町中を進むと四つ辻、南西角のにほとんど壊れた標石らしきものが鉄脇で補強され電柱根元に置かれていた。
標石?、などと思いながらもチェックすると茂兵衛道標であった。かつての写真では三つに折れた標石が電柱脇に積まれている。よく見ると3段に積み重ねられていた。「*十八」といった文字も読めた。茂兵衛88度目巡礼時のものであったよう。

県道23号合流点に標石
かつての横波半島・井尻への渡し場があっただろう海岸へと西進し、成り行きで次の角を左折すると県道23号に合流。角に上部の欠けた標石があり、「是より青龍寺へ一里十丁 *知へ約六里 昭和三年」といった文字が刻まれるようだ。往昔の渡し場はこの先の海岸辺りにあったようだ。現在宇佐大橋西側の海岸近くに「青龍寺へんろ道 渡し場の跡」の碑が立つ。

宇佐大橋を渡り横波半島に

宇佐の町を歩き宇佐大橋に向かう。宇佐はかつて漁業で栄えた町。鰹節の加工地として知られた。海部郷とも海辺村とも称されたと言うが、九州の宇佐八幡を勧請して以降、宇佐の浦と称した。その後宇佐村、高岡郡宇佐町となり、昭和33年(1958)高岡町などと合併し現在は高岡市宇佐町となっている。
対岸の半島を隔てる浦の内湾は別名横波三里と称される。太平洋の波が湾口で横ざまに波紋を広げるのがその所以と言う。
湾口に架かる宇佐大橋に到着。全長645m。かつての渡しは既になくこの橋を渡り青龍寺へ向かう。橋を通る道は県道47号となっていた。

竜坂越えの遍路道


宇佐大橋を渡る。現在多くのお遍路さんは県道47号が走る海岸線をそのまま進み青龍寺へと向かうが、渡し舟で渡っていた時代には宇佐から対岸井ノ尻に渡った遍路の多くは山越えして背竜寺へ詣でたようである。海岸沿いの道が整備されているとも思えず、山越えの道が安全であったのかとも思える。実際横波スカイラインともよばれる県道47号は宇佐大橋の竣工(昭和48年;1973)に合わせて整備されたという。

竜坂越えについて、真念の『四国遍路道指南」には「○宇佐村、是よりかち道を行時は、此村西に荷物を置育竜寺へ行。但舟にて行ハ、いのしりへ荷物持行。ふくしま浦、此間に入海、渡し有。舟賃四銭。〇いしり村、此所に荷物を置札所へ行。此間りう坂。○りう村」とあり、また、『四国遍礼名所図会』では「宇佐村[此所にて支度]是より浜辺出、猪の尻川 [入海也、渡し舟四もん宛]、猪之尻村[此所に荷物預ケ行]、竜坂[峠より海辺津呂ノ御崎見ゆる]、竜村「是より寺へ三丁也]と記す。

旧遍路道の案内
宇佐大橋を渡り切ると横波山地が土佐湾に落ちる北端部、道の右手に「旧遍路道」の案内。「旧へんろ道 坂道ですが約30分です 旧道へ450m」とある。ここが竜坂越えのアプローチ地点。案内に従い右に折れ井尻の集落に入る。



丹生神社の茂兵衛道標
右に折れるとすぐ道の左手に丹生神社。社には上部破損の茂兵衛道標が立つとのことだが見逃した。茂兵衛188度目巡礼時のものと言う。鳥居横とも、境内文化銘の手水場そばの鳥居傍ともいうが、実際に見ていないのでどちらか不詳。
丹生神社
「にう神社」と読むのかと思ったのだが、「たんじょう神社」と読むようだ。祭神は罔象女命(ミヅハノメ)。水の神。弥都波は、水早、水走の意味で、耕地の灌漑の用水の意味、といった記事もあった。
罔象女水の神。弥都波は、水早、水走の意味で、耕地の灌漑の用水の意味か。

井尻大師堂
井尻の集落を抜け、湾と山裾の間の道を進むと右手にマリーナ、左手に井尻大師堂。竜坂越えの道は大師堂前とマリーナの間の細い道を入っていく。入り口には「旧へんろ道 上り口」の案内も立つ。

上り口から1分ほどで「廿一丁」と刻まれた丁石。木漏れ日の中、土径を10分ほど歩き、標高を100m弱挙げて峠に着く。
特段の峠表示はないのだが、「へんろ道 峠標高100m 井ノ尻529m 竜680m」の標識がある。峠に着いたのだろう。
見通しもよくなく、先に進むと手書きの「竜の一本松跡」の案内。「土地の人々は竜の一本松は桧か杉かと言い続けてきた。松の木としては巨木で中学生が両手で繋いで計るると6人分もあったよう。台風で折れた枝も巨木であったよう。現在は特段の跡は残っていない。

2基の石仏と遍路墓
峠からは100m等高線に沿って少し進む。時に前が開け土佐湾が見下ろせる。峠から5分ほど歩くと路傍に2基の石仏と遍路墓。「日向国 天明四年」といった文字が刻まれるようだ。


9丁・8丁
石仏を越えるあたりから下りとなる。標高を50mほど下げると「九丁」と刻まれた丁石。更に30mほど下げると「八丁」と刻まれた丁石がある。



竜の集落に下りる
8丁石を越えるとほどなく里の舗装路に下りる。井尻大師堂からおおよそ30分ほとであった。少し進むと四つ辻。道に石柱。神社の幡を立てる石柱かとおもったのだが、青龍寺の寺柱とのことである。竜坂越えが往昔の遍路メーンルートであったエビデンスでもある。

海岸通り遍路道との合流点

「青龍寺」直進の案内に従い先に進むと次の四つ辻で現在「多くのお遍路さんが歩く東海岸の県道からの遍路道と合流する。四つ辻左角には辻地蔵の小祠がある。
東海岸からの遍路道の四つ辻には「36番青龍寺」直進の案内。案内に従い竜の集落を抜ける。


六地蔵
道を進むと2つめの寺柱。道の左手に明徳義塾中学・高等学校 竜キャンパス、右手に横波山地の支尾根が張り出す箇所。山側に六地蔵が立つ。ここから先、道の右手、山側に阿波の札所1番からの四国88霊場の石仏が並ぶ。石仏は青龍寺境内まで続く。
竜の池
道の左手、明徳義塾竜キャンパスの南に大きな池がある。周辺の湿地帯を含めてベッコウトンボの生息地として有名。この地は、今から約五千年前には内湾であったが、二千五百年前 頃、弥生時代の小海退期に湾口が土砂で塞がれてできたもの。昆虫類の生息環境としてすぐれ、種類、数も豊富のようである。
伝説
この池は昔、青龍寺が出来た時に、八人の天女が天降り一夜で掘ったとも。七葉(七枚)掘った時夜が明けたため、この池の名を七葉の池とも云う。
また池の主が畳四畳半とも六畳とも言われる大きな蟹であり、それゆえの蟹ヶ池の名ともいう。 まだいくつか伝説があるが、伝説によくある今の我々には何を言いたいのかわからない話でもあるので割愛する。
八葉
上述伝説の「八葉」になんらかの意味がありそう。チェックすると、胎蔵界曼荼羅に蓮華の中央に大日如来が位置し、その周囲に四如来、四菩薩が八連弁に座す。この八弁を八葉とするのだろうか。

標石
右手に四国霊場の石仏に頭をさげながら進む。途中石仏の中に「二丁石」も立つようだが、わからなかった。道を進み青龍寺への最後の曲がり角に四国霊場の石仏と標石が立つ。「従是五社迄十三里 文化」の文字が刻まれる。
五社とは次の札所岩本寺の元の札所であった五社神社・高岡神社のことである。

三十六番札所 青龍寺 山裾のカーブを曲がると正面に青龍寺。やっと到着。
あれこれと気になることも多く、距離のわりにメモが長くなった。今回はここまで。

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