
いつだったか第六十一番札所香園寺から第六十一番札所横峰寺に逆打ちで辿ったのだが、そのルートは香園寺奥の院経由の、通称奥の院道と称される道であった。今回香園寺から横峰寺への遍路道をチェックすると、奥の院道は昭和になって開かれた道であり、香園寺から小松川に沿って岡村から横峰寺登山口に進む遍路道があることを知った。この遍路道が往昔の逆打ち遍路道のようにも思え、今回は香園寺からは岡村を経由して横峰寺に上る遍路道をトレースする。
順打ちで湯浪から横峰寺に上り、復路も同じルートを戻るもよし、奥の院道、または岡村経由で六十一番札所香園寺に下るもよし、また、逆打ちのふたつの遍路道のどちらかで横峰寺に上り、逆打ちルートを戻るもよし、順打ちルートを逆に下るもよし、と幾つもの選択しからルートを選び歩き遍路旅を続けることができるかと思う。
本日のルート;
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川まで■
生木道・香園道分岐点の茂兵衛道標>喜多台の道標>円海寺橋>壬生川公民館の道標>貝田の道祖神>闇岡神社傍の道標>石田の道標
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川から香園寺まで■
中山川右岸の道標>清楽寺>JR予讃線新宮踏切南側の道標>国道11号線脇の道標>三嶋神社前の道標2基>三嶋神社東に茂兵衛道標>三嶋神社>香園寺参道入り口に3基の道標>六十一番札所香園寺
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:香園寺から横峰寺登山口まで■
香園寺参道南東の茂兵衛道標>小松橋東の茂兵衛道標>仏心寺>T字路の道標>T字路の茂兵衛道標>地蔵堂南・二差路の道標>車道を右折し三差路に>砕石場手前の2基の道標>採石場の先で舗装が切れる>横峰寺への登山口
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■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川まで■
生木道・香園道分岐点
県道159号を進むこの道は、通常、六十一番札所香園寺に向かい、逆打ちで六十番札所横峰寺を目指すルートである。
県道159号はかつての旧街道(西条道)。旧街道は、その後東予市内の壬生川(にゅうがわ)の街中・三津屋・北条を経て小松町、西条市へと至る。
喜多台の道標
右折し喜多台の公園を越えた先、T字路に道標が立つ。古い道標がいつのまにか無くなってしまったため、昭和30年代に地元の方が元の場所に道標を立てたとのことである(「えひめの記憶」)。南を指す手印と共に「右 へんろ道」と刻まれる。
円海寺橋
壬生川公民館の道標
貝田の道祖神
更に「そこから南東に進み向口川を越えると、すぐ右手に一つの石に彫られた2体の地蔵があり」とする。その場所には貝田の道祖神との石碑があった。
闇岡(くらみ)神社傍の道標
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Google Street Viewで作成 |
道祖神から500mほど進むと、右に少し細くなった道が分かれる。遍路道はこの右に入る道を進む。途中、地蔵堂などを見遣りながら進むと{闇岡(くらみ)神社前(石田本郷601-2)の道路沿いに道標がある(えひめの記憶)」とする。当日は、どうしたことか見つけることができなかったのだが、Google Street Viewには民家ブロック塀の前に道標が立っている。どうして見つけられなかったのか、ちょっと混乱。
●闇岡(くらみ)神社
闇岡(くらみ)の名称が気になりチェックするが、見つからない。 音からすれば、水の神である闇淤加美神(くらおかみのかみ)に近く、音の転化か何か、両社に関係ありそうにも思うのだが、エビデンスはない。
石田の道標
□バリエーションルート□

生木道でメモした新町あたりで左折し、今治道路丹原ICあたりの連願寺を経て、この周布から吉田をぬけたようだ。県道44号が中山川を渡る橋が吉田橋と呼ばれるので、その辺りにでたのだろうか。目安は道標ひとつであり、詳細は不明である。
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:中山川から香園寺まで■
中山川右岸の道標
とりあえずはこの道標を見つけ、道を繋げようとおもうのだが、なにせ情報不足。遍路道が通るであろう清楽寺から逆トレースすると、予讃線の少し東に道が中山川へと続く。この道筋だろうと推測し道を進むと、道が予讃線とクロスする踏切の少し手前に道標があった。
「四国第六十番前札所清楽寺 大峰寺 第六十一番香園寺」「明治三十三年」 また、北向きの手印には「西山」らしき文字も読める。
清楽寺
●遥拝石と円柱道標
境内の西隅に「横峯遥拝石」が立つ。また、円柱道標は明治廿年と刻まれているようである。
●「ホ力二六十番前札ナシ」とは
なんどかメモしたが、この間の経緯を再掲する;
経緯は明治4年(1871)、神仏分離令により廃寺となった六十番札所・横峰寺はその対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。 六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
ここに六十番前札所極楽山妙雲寺であった登場する。本来であれば六十番前札所となった清楽寺とともに、妙雲寺も前札所として続いたのだろうが、明治17年(1844)火災により焼失。明治28年(1895)妙雲寺は近くにあった鶴来山大儀寺を移し、60番前札旧跡として再興。 戦後、昭和32年(1957)再び石鉄山妙雲寺と称することになる。
JR予讃線新宮踏切南側の道標
国道11号線脇の道標
三嶋神社前の道標2基
●金比羅道
いつだったか松山から桜三里を越えて、金比羅街道が中山川を渡る史跡 釜之口井堰へと辿ったことがある。大雑把に言って、そこから中山川を渡り国道11号の旧道を進むのが金比羅街道である。
三嶋神社東に茂兵衛道標

三嶋神社
三嶋神社にお参り。県道11号を松山方面から桜三里の山地を抜け、周桑平野を東に進むとき、四国山地から平野部に突き出した尾根筋が眼前に現れ、しばらくその尾根筋を右に見ながら走ることになる。
石段に上り拝殿にお参り。拝殿左手に一柳直徳と刻まれ、注連縄も張られた奉納石柱があり、小松藩の殿さまの奉納かとも思ったのだが、一柳系譜には見当たらなかった。ご子孫の奉納だろうか。
●三嶋神社由緒
後に井河神を開発の守護神として合祀し、その後、寛永15 年(1638年)小松藩主一柳直頼公が入封して本殿再建し、歴代の藩主も社殿修覆、領内主席神社として、参勤交代の節は道中安全祈願を行った。嘉永7年(1854年)にこの船山に遷座され、頂上に祀られし船山八幡宮を本社に合祀し、明治5年村社となり、明治28年1月31日郷社に列格した。
花陵神社は嘉永7年に本社をこの船山の地に遷宮の時、古墳を開掘して石棺の人骨、副葬品を多数に出土し、一部を帝室博物館に、残りを花陵神社に奉斎しその霊を神として祀っている。この当時の様は舟山騒動の芝居の起因として世に知られている。
10月17日の秋祭には、だんじり10数台が、五穀豊穣と家内安全の祈りを込めて、境内で絢爛豪華な練りが奉納されている」とある。
花陵神社は神社境内社のひとつである。また、遷座は新宮原から移されたとされるが、その場所は清楽寺の東辺りかと思われる。
●指定文化財
三嶋神社由緒の案内の脇にある平成二十五年 西条市教育委員会作成の指定文化財の案内には。
○「愛媛県指定 史跡 船山古墳群 昭和37年指定」
県指定史跡 船山古墳群は、小松川の西岸に位置する東西三百メートル、南北百メートル、高さ十五メートルの偏平な丘陵に築造された古墳時代後期の群集古墳である。丘陵は中央部がくびれ、形が舟に似ていることから舟山の名がある。
丘陵東部には三嶋神社が鎮座しており、西部の古墳群全体がその境内地となっている。嘉永七年(1854)、三嶋神社が遷座した際、武器や勾玉、須恵器などが発掘されたことが、『小松邑誌』に記録されている。かつて古墳は二十基ほどあったとされるが、現在確認できるのは十基ほどである。
「三島新宮」の案内には、三嶋神社は、歴代の小松藩主一柳家(越智氏)の産土神として庇護を受けてきた神社であり、船山に遷座したのは八代藩主一柳頼紹(よりつぐ)の時である。また、神社には能書家として知られる三代目一柳直卿(なおあきら)が寄進した「三嶋新宮」の石碑や「三島宮」の扁額も残されており、両方とも市の指定文化財となっている」とあった。一柳直卿石碑「三島新宮」は石段手前左手にある。
香園寺参道入り口に3基の道標
参道へと左折するT字路、東西に走る道路の北側左手に3基の道標が並ぶ。手印と共に清楽寺への道を示した円柱の利平道標、「右へんろ」と刻まれた小さな道標、手印と共に「六十一番香園寺 六十二番寶壽寺」が刻まれた面と、矢印のようなマークと共に「六十番横峯寺」と刻まれた道標が、「61番香園寺 0,2km」「62番宝寿寺1.2km」と書書かれた「四国のみち」の木標脇に並ぶ。
六十一番札所香園寺
Wikipediaをもとにまとめると:香園寺(こうおんじ)は、真言宗系の単立寺院(元御室派の寺院)。山号は栴檀山(せんだんさん)。院号は教王院(きょうおういん)。本尊は大日如来。
1903年(明治36年)住職になった山岡瑞園大和尚により、1914年(大正3年)に本堂を再興、大正7年に「子安講」を創始し、全国はおろか海外にまで講員を拡大し隆盛に尽力した。 1976年(昭和51年)本堂は妙雲寺に移築され、その跡地に、高さ16m座席数620余の鉄筋コンクリート造りの大聖堂が建立された。
2階本堂には金色に輝く大日如来と大師像。この大日如来像は前立本尊でり、本尊は秘仏として後ろの厨子におわす、とのことである。境内の子安大師堂にお参りし、孫の健やかな成長を願う。因みに、子安講は往時10万人を越えたと言う。
●山頭火・紫苑荘の歌碑
この句は山頭火の2回目の四国遍路の途中、この地で詠んだもの。1回目の四国遍路は昭和2年から3年にかけてのもので、中国・四国・九州と七年に及ぶ旅のひとこまであったが、2回目は昭和14年10月5日に松山を出て、10月8日香園寺に着き、10月14日に出立した。旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断し、松山に戻り「一草庵」に住まうことになる。
また、森 紫苑荘の川柳、「偉い子はいぬがどのこも親思い」と刻まれた歌碑もあった。刑務官として全国を転勤した方とのことだが、香園寺との関わりはわからない。
●境内入り口右手の道標2基
◆香園寺奥の院への道
逆打ちで香園寺奥の院から横峰寺へと辿ったときは、直接香園寺奥の院に向かい横峰へと向かったのだが、香園寺から奥の院までの道筋の概略をメモする。 香園寺からは、神仏分離令以前は香園寺が別当寺となっていた高鴨神社へと上り、丘陵を越えて大谷池の東の舗装道に出る。そこからは大谷池の東を道なりに進み、松山道の高架下を抜け、南へと進めば奥の院に至る。「えひめの記憶」には「横峰寺から続いていた舟形地蔵丁石がおこやから岡村への道に続いていることや、香園寺奥の院白滝が昭和8年(1933)に香園寺住職山岡瑞圓によって新たに作られたということなどを考慮すると、おこやから岡村を経て香園寺に至る道よりは新しい遍路道であると思われる」とあった。
■生木道・香園道分岐点から香園道を進む:香園寺から横峯寺登山口まで■
いつだったか、香園寺奥の院から横峯へ逆打ちで上り、先回生木道でメモした湯浪に下りたのだが、上述の如く奥の院からの道は昭和に入ってからの遍路道のようであり、今回は香園寺から岡村を抜けて横峯への登山口までという、オーソドックスなルートを繋ごうと思う。
香園寺参道南東の茂兵衛道標
進行方向を真っ直ぐに進めば香園寺参道入口の3基の道標の所に出るが、横峰を目指す遍路道は、ここを右に折れ、田圃の畦道を進むことになる。
小松橋東の茂兵衛道標
道を左折し、小松橋を渡ると、直ぐ右に分岐する路地の角に茂兵衛道標が立つ。右折方向の面には「大峯寺」、小松橋に向かう方向には「香園寺」と刻まれる。
仏心寺
小松川を渡り山門に向かう。なんとなく武家屋敷の趣が残る。山門前にある案内によると「仏心寺は、小松藩の二代藩主の一柳直冶(ナオハル)により、その父、初代藩主の直頼(ナオヨリ)の七回忌にあたる慶安3年(1650)に一柳家代々の菩提寺として、臨済宗妙心寺派の南明禅師を開山に迎え建立されました。 江戸時代(1596~1867)を通じ境内の拡充が図られ、明治以降も、小松藩ゆかりの建物が移築され、現在に至っています。
また、天然記念物として、中国原産の広葉杉(コウヨウザン;中庭 藩主寄進と伝わる)と明石連(北庭、紅色の椿)があり、特に椿は、数百種と数多く、椿寺としても知られています。 西条市教育委員会」とある。
●山門
山門正面の『圓覚山』の扁額は、一柳直卿公(なおあきら;頼徳)御真筆の奉納額です。西条市の文化財(工芸品)の指定を受けています」とある。
本堂の右手に鐘楼と供待がある。それぞれの案内は
●鐘楼
●供待(ともまち)
本堂にお参りし、左手の御霊屋門(みたまやもん)に
●御霊屋門(みたまやもん)
◆一柳家と小松陣屋
Wikipediaには「『寛政重修諸家譜』が記すところによれば、河野通直(弾正少弼)の子宣高が美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市)に移り、土岐氏の家臣になって一柳氏を称したという。「一柳」の家名は、土岐氏が宣高を招いた蹴鞠の場で鞠庭の柳がひときわ鮮やかであったことが由来とされる。しかしながら、系譜上の世代数の不自然さなどから、河野通直の子孫であることには疑問が呈されている。
宣高の孫の一柳直末・一柳直盛兄弟が豊臣秀吉に仕え、兄の直末は美濃国の軽海西城主となったが天正18年(1590年)小田原征伐のときに、緒戦の山中城攻めで戦死した。弟の直盛は尾張国(今の愛知県西部)黒田城3万石の領主となり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢国(三重県)神戸藩5万石に加増転封された。更に寛永13年(1636年)には伊予国西条藩6万8600石に移転したが同年死没した。彼の遺領は直重・直家・直頼の3人の息子たちによって分割された。
長男の直重が西条藩3万石を相続して2代藩主となったが、その子直興の代に勤仕怠慢の理由により除封された。
次男直家は播磨国(兵庫県)加東郡及び伊予宇摩郡・周布郡に2万8600石を領し、小野藩初代藩主となった。しかし直家の死後は末期養子が認められず1万石に減封され、幕末に至った。歴代藩主は対馬守や土佐守などに叙任され、明治17年(1884年)一柳末徳が子爵となった。
3男直頼は伊予国周布郡・新居郡に1万石を領し、小松藩初代藩主となりそのまま幕末に至った。歴代藩主は兵部少輔や美濃守などに叙任され、明治17年(1884年)に一柳紹念が子爵となった」とあった。
小松藩の陣屋は、仏心寺から東へ抜ける道を少し進んだところにあった。
T字路の道標
T字路の茂兵衛道標
地蔵堂南・二差路の道標
車道を右折し三差路に
車道に出た遍路道は、右に折れ車道を進み松山道の高架下を抜けしばらく進むと三差路に出る。右に曲がると、地蔵堂南・二差路の道標に戻り、直進すると石鎚山サービスエリア南、小松オアシス道の駅。遍路道は左に折れて山に向う。 「えひめの記憶」には、「この付近には道標もなく、高速自動車道路工事により新道ができており、遍路道の特定は困難である」とある。
砕石場手前の2基の道標
「えひめの記憶」には「右は「世話人西條寿し駒事日野駒吉」と刻まれた板状の道標であり、左は「六十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石である。(中略)湯浪地区では昔から、横峰寺への登り道の舟形地蔵丁石のほとんどは、「寿し駒」によって建てられたと語り伝えられてきたという。
先達として本四国50回・小豆島島四国100回・石鎚登山100回という行者信仰の旅を重ねるとともに、大師蓮華講(れんげこう)を組織したといわれる。西条市の六十四番前神寺境内には、大正5年(1916)、日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進した弘法大師修行の石像が立っている。
その右には、大正15年(1926)に建立された五輪塔の日野駒吉頌徳碑(しょうとくひ)が立っている」とある。
「寿し駒」の道標には「横峰寺六十丁 西條市大師蓮花講 信者一同世話人日野駒吉」といった文字が読める。左手の地蔵丁石は下半分が土に埋もれていた。
採石場の先で舗装が切れる
右の道を、左手に削り取られた採石場の山肌を見遣りながら進むとほどなく舗装が切れ、簡易舗装となり、それも切れると割と広い林道(本谷林道)を進む。「えひめの記憶」には舗装された道、と記されているが、簡易舗装も土砂で荒れたのか、小石の多い林道となってちる。
横峰寺への登山口

最近では県道12号を黒瀬湖近くの横峰登山口までバスを利用し、そこから平野林道を横峰に向かうシャトルバスに乗り換えてお参りすることもできる。
、
何回かにわけて、第五十九番札所国分寺から六十番札所横峰寺を繋ぐふたつの遍路道、生木道を経由して湯浪の登山口から横峰寺に上る順打ちの遍路道、香園寺道を経由して第六十一番札所香寺を打ち、岡村から横峰寺登山口を上る逆打ち遍路道をメモした。
登山口から先の横峰寺への遍路道は、いつだったか辿った香園寺奥の院から横峰寺を逆打ちで辿り、湯浪へと下った遍路歩きのメモを参考にしていただければと思う。
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