月曜日, 8月 30, 2021

伊予 歩き遍路 横峰寺道;湯浪登山口から順打ち遍路道を第六十番札所 横峰寺へ

先回の土佐街道歩き、伊土国境の黒滝峠を繋ぐピストン往路での日没・夜間行動に懲りたというわけでもないのだが(ちょっと参ってはいるのだが)、ひたすら藪漕ぎが続く土佐街道歩きから少し開放されたく、気分転換に伊予遍路道・横峰寺道を歩くことにした。
四国の遍路道は一応すべて歩き終えているのだが、札所第六十番 横峰寺へは札所第六十一番 香園寺からの逆打ちルートを辿っており、湯浪から上る巡打ちルートは未だ歩いてはいなかった。また、横峰寺道は平成28年(2016)10月3日に宇和島の仏木寺道、久万高原町の岩屋寺道、四国中央市の三角寺奥の院道と共に国指定史跡と指定されているようであり、であれば道はそれなりに整備されているであろうし藪漕ぎ・道迷いもなかろうと思ったわけである。
横峰寺道は湯浪登山口から横峰寺までその距離2.2キロ。標高270mの横峰登山口から標高745mの横峰まで475mほどの比高差を上ることになる。地図を見ると登山口から1キロ程は妙之谷(みょうのたに)川に沿って標高450mまで180mほどゆっくりと高度を上げ、そこからは横峰寺の建つ山稜に取り付き300mほど、等高線にほぼ垂直に上ることになる。
実際歩き終えた印象としては、遍路道に沿って古い丁石、新しい道案内・距離案内が立ち、道に迷うことはない。道筋は前半部は妙之谷川の流れに沿って渓谷を進み、後半部の山道もそれほど厳しい上りでもなかった。痛めた膝を庇いながらの散歩であるため上りに3時間ほどかかったが、普通に歩けばそんなに時間がかかるとも思えない。
それよりなにより、道があるのは誠にありがたい。道なき道を延々と藪漕ぎを続け、あまつさえ日没・夜間行動の顛末などを想うにつけ、道の有り難さを実感した一日であった。


本日のルート;湯浪休憩所>20丁石>横峰寺道標>19丁石・18丁石>16丁石・弐十丁石>15丁石・14丁石>13丁石・「四国のみち」石碑>12丁石の先で沢筋を離れ尾根筋を上る>11丁石・10丁石>大師坐像と角柱10丁石>9丁石と角柱12町石>四国のみち」木標と7丁石>8丁石と傾いた角柱7町石>6丁石と5丁石>古坊地蔵堂>4丁石・3丁石>2丁石>1丁石・山門


湯浪休憩所から横峰寺道を横峰寺へ

 

湯浪休憩所
国道11号を進み、妙之谷川を越えた先、小松の大頭(おおと)交差点を左折し県道147号石鎚丹原千を進み湯浪休憩所に。県道はその先行き止まりとなっている。
湯浪休憩所には清潔なお手洗いも整備されている。休憩所山側崖から落ちる沢水をタンクに入れて持ち帰る地元の方が目にとまる。美味しい水なのだろうか。 湯浪休憩所に車をデポし山入道に入る。

山入道アプローチ石段に20丁石;午前9時34分
湯浪休憩所山側に手摺のついたコンクリートの石段があり、その入り口に「四国のみち」の標識、横峰寺まで2.2kの表示、悪路注意といった案内が立つ。
沢水が表面を覆う石段を上り、右に曲がる角の山側に「二十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。 このコンくリートの石段は昭和56年(1981)以降、「四国のみち」整備事業にともない改修:整備されたもの。これから歩くかつての遍路道はこの整備事業によって歩きやすくなったとのことである。

横峰寺道石碑;午前9時37分
石段を流れる沢水が切れるあたりに「国指定史跡 伊予遍路道 横峰寺道」と刻まれた石碑が立つ。側面には「平成平成二十八年十月三日指定 文部省」とあった。 
その先、道の左手に「100m」と書かれた案内が木に括られている。その時は標高表示かと思ったのだが、その後も同様の案内が続く。湯浪休憩所からの距離を示しているようだ。
その直ぐ先、左手から妙之谷川に合流する沢に架かる木橋を渡り(午前9時41分)先に進む。

19丁石・18丁石
沢に架かる橋を渡ると直ぐ山側に「十九丁」と刻まれた丁石(午前9時43分)。数字が減ってことを考えれば丁石は横峰寺まで(から)の距離を示しているのだろう。

左手の妙之谷川の渓相はなかなか、いい。この暑い夏、軽い沢登りもいいかもしれない。
湯浪休憩所から「250m」の先に「四国のみち」の指導標。文字が見えなくなってきている。先に進むと「十八丁」と刻まれた丁石が立つ(午前9時54分)。



16丁石・弐十丁石
湯浪休憩所から「450m」、「湯浪〈休憩所」への案内を見遣りながら小さな沢に架かる木橋を渡ると「十六丁」と刻まれた丁石(午前10時4分)。

その先、左妙之川の沢筋へと左に逸れその先に見える橋に繋がる道の分岐点に「四国のみち」の標識。「湯浪 1.9km 横峰1.6km」とあり、「横峰寺参道」は道を逸れることなく直進の案内。

その「四国のみち」の直ぐ先に石の地蔵道標。「従峯 弐十丁」と刻まれ、下部には六体の小さな仏が刻まれている。今まで出合った丁石とは造りが異なる。少し古い時期の丁石のようである(午前10時10分)。 「従峯」>峯より(従)とは横峰(峯)寺より、との意だろう。

15丁石・14丁石

「横峰寺1.6km 湯浪0.6km]の案内を見遣り数分進むと「十五丁」と刻まれた丁石(午前10時13分)。 その先「650m」、土に打ち込まれた赤い木に架かれた「700m」の湯浪休憩所からの距離案内。
その先で妙之谷川に架かる橋を渡り右岸に渡る。
右岸を進むと「750m」の距離案内の先に「十四丁」と刻まれた丁石が立つ(午前10時22分)。



13丁石・「四国のみち」石碑
直ぐ先、橋を渡り左岸に。湯浪休憩所から「800m」の案内と、「横峰寺1.4km 湯浪休憩所0.8km」の案内。その直ぐ先で木橋を渡り妙之谷川右岸に移ると「十三丁」と刻まれた丁石(午前10時31分)。

湯浪休憩所から「900m」の案内を見遣りながら右岸を進み、橋を渡り左岸に移った橋詰に「四国のみち」の石碑(午前10時38分)が立つ。



12丁石の先で沢筋を離れ尾根筋を上る
左岸を少し進むと「十二丁」と刻まれた丁石(午前10時42分)。その先、木橋を渡り妙之谷川の右岸に移る。湯浪休憩所から妙之谷川筋を進んできた遍路道は、ここから妙之川の沢筋を離れ標高745m辺りの山腹に建つ横峰寺に向けて尾根筋を上ることになる。
ここまで右岸・左岸と沢を橋で渡ってきたが往昔の遍路道は沢を飛び石伝いに上っていたようである。


11丁石・10丁石
沢を右岸に渡ると前方に虎ロープ。尾根の稜線への取り付き口となる。沢筋の標高437m地点から6分ほどかけて高度を30mほど上げると、「十一丁」と刻まれた丁石(午前10時50分)。

丁石の左手には急斜面の滑の岩に水が流れる。妙之谷川に注ぐ枝沢なのだろう。一枚岩といった滑は結構距離があり這い上がるのは楽しそうだ。
更に30mほど高度を上げると「十丁」と刻まれた丁石が立つ(午前10時58分)。1丁が約109mであるから、横峰寺まで(から)約1090mとなる。

大師坐像と角柱10丁石;午前11時8分
「横峰1.0km 湯浪休憩所1.2km」の案内を見遣り、先に進むと道の左手に遍路墓(午前11時4分)。文政二年(1819)。芸州(現在の広島)との銘があると言う。遍路墓に手を合わせ少し進むと道の左手に大師坐像。その後ろに角柱丁石が立ち、「従峯 十丁」と刻まれる。
大師坐像の台座には「享保十六年十二月廿一日 千足山村 とち之川 市左ヱ門」と刻まれる、と。
千足(せんぞく)山村 
現在の西条市南西部、石鎚山北麓の加茂川上流域にあった村。明治22年(1889)、周敷郡千足山村として発足。明治30年(1897)、周敷郡と桑村郡が合併し周桑郡となる。昭和26年(1951)石鎚村に改称。昭和30年(1955)、小松村、石根村と合併し周桑郡小松町。現在は周桑郡、西条市、東予市が合併し西条市となっている。 

 9丁石と角柱12町石
少し上ると「九丁」と刻まれた丁石(午前11時14分)。そこから5分ほど上ると「従峯 十二町」と刻まれた角柱丁石(午前11時19分)。「丁」と「町」は同じ。ここに十二町があるのはちょっと違和感。後世、下流部よりここに移されものだろう。

「四国のみち」木標と7丁石
「横嶺寺0.8km 湯浪休憩所1.4km」と記された案内を見遣り、等高線550mを越えた先に「四国のみち」の木標(午前11時24分)。「湯浪2.6km 横峯寺0.9km」と記される。「四国のみち」木標の指す「湯浪」は湯浪休憩所ではなく休憩所から少し下った湯浪の集落のようだ。
そこから5分、高度を30mほど上げると自然石の大岩の手前に「七丁」と刻まれた丁石(午前11時31分)。傍には土に埋め込まれた小さな赤い木片に「1500m」と記される。湯浪休憩所からの距離だろう。

8丁石と傾いた角柱7町石
10分弱歩き、?m高度を上げると「八丁」と刻まれた丁石(午前11時40分)。丁数が増えるのは異なことではあるが、これはよく出合うこと。道の整備の折に「テレコ」になることが多い。
昔のお遍路さんにとってはクリティカルな丁石、標石も今となっては文化的価値はあっても実用性という意味合いではその価値は大きくない。私のようなもの好きでもない限り丁石、標石に目を留めるお遍路さんがそれほどいるとも思えない。
それはそれとして、その直ぐ先に傾いた角柱丁石(午前11時43分)。「従峯 七町」と刻まれる。

6丁石と5丁石
数分進むと「六丁」と刻まれた丁石(午前11時47分)。そこからさらに5分強歩き高度を?mほど上げると道の右手に「五丁」と刻まれた丁石(午前11時53分)。その後ろ、一段高いところに小さな地蔵。傍には遍路墓がまつられる。

丁石の対面、道の左手には木造の椅子とテーブルの休憩所。その上、これも道の左手には「湯浪2.7km 横峰0.6km」と期された「四国のみち」木標と石碑が立っていた。



古坊地蔵堂;午前11時58分
5丁石の一段上、道の右手の遍路墓に手を合わせる。その直ぐ上、遍路道から少し左に入ったところに朽ちたお堂が残る。お堂の前には六地蔵が並ぶ。 このお堂は古坊地蔵堂。かつてこの辺りには古坊と呼ばれる集落があり、昭和50年(1975)頃までは住民も住んでいたとのことである(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」)。

沢・遍路墓
古坊地蔵堂を離れ650m等高線が西に切れ込んだところの沢(午後12時4分)に架かる橋を渡ると道の左手、少し奥まったところに墓石群(午後12時6分)。古坊集落の墓地なのかと思ったのだが、遍路墓のようである。「正徳四(1714)」「天保九(1838)」「天保十四(1843)」「嘉永元(1867)」といった年号、阿州(徳島県)、芸州(広島県)といった文字が刻まれる、と(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」)。

4丁石・3丁石
そこから数分、「四丁」と刻まれた丁石(午後12時8分)。標高はおおよそ650m辺り。4丁石から7分ほど歩き高度を40m弱上げ、左に曲がるコーナーに「四国のみち」の木標。「60番横峰寺0.4km」と記される。その傍に「三丁」と刻まれた丁石(午後12時15分)が立っていた。

2丁石: 午後12時23分
「横峰寺0.2km 湯浪休憩所2.9km」の案内を見遣り700m等高線を越え8分ほど歩くと「二丁」と刻まれた丁石。
数分歩くと道の左手に、「この下 車道へは行けません」と書かれた立看板と、その下、木の根元辺りに「へんろ道 横峰寺」「第六十五一番 香園寺へは大師堂**」と記された案内がある。 この案内がよくわからない。「この下」」とはどちらを指すのだろう。事をややこしくするのはこの2丁石から左に踏み跡と見えないこともない筋が残る。実際その踏み分け道を200mほど進めば、明治の神仏分離の折、横峰寺の境外にお堂を建て本尊などをそこに避け、後に大峰寺と称した場所に出るようだ。 で、案内の意は、この大峰寺跡へ向かう道を辿っても車道(平野林道)には繋がらないという注意だろうか。それとも単に湯浪から上ってきたこの坂を下っても車道(平野林道)に出ることはないという注意だろうか。
また、「第六十五一番 香園寺へは大師堂**」とは、香園寺に向かうには大師堂にお参りし、大師堂に繋がる平野林道を下り、途中から平野林道を逸れて香園寺へと下ってゆく、ということだろう。
平野林道が開かれたのは昭和59年(1984)。それ以前の遍路道はさきほどちょっと混乱した2丁石あたりから平野林道から逸れる旧遍路道へと続いていたのだろうか。よくわからない。
横峰寺・大峰寺
明治4年(1871)、神仏分離令により廃寺となった六十番札所・横峰寺はその対応策として、石鎚神社横峰社となり、その後明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)には六十番札所大峰寺となり、明治42年(1909)には旧名の横峰寺に復す。
六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、極楽山妙雲寺が六十番前札所となる。
横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。本来であれば、妙雲寺も前札所として続いたのだろうが、明治17年(1844)火災により焼失。明治28年(1895)妙雲寺は近くにあった鶴来山大儀寺を移し、60番前札旧跡として再興。 戦後、昭和32年(1957)再び石鉄山妙雲寺と称することになる。

1丁石・横峰寺山門
先に山門が見えてくる。その手前左手に「一丁」と刻まれた丁石(午後12時31分)。その横に合掌した地蔵石仏が佇む。
ステップを上り切ると横峰寺山門。「四国霊場 第六十番札所 石鎚山横峰寺」「ご本尊 大日如来蔵王権現」と記された山門をくぐり境内に。境内を進むと納経所、石段を上ると本堂、本堂から西に進むと大師堂が建っていた。 
 ●大日如来・蔵王権現
蔵王大権現、とは役の行者が感得したという神様、というか仏様。日本独自の創造物。権現って、「仮」の姿で現れる、ということ。神仏混淆の思想のひとつに本地垂迹説というものがあるが、日本の八百万の神は、仏が仮の姿で現れた権現さまである、とする。

蔵王権現は釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩という三尊が「仮」の姿で現れたもの、とされる。三尊合体の、それはもう強力な神様、というか仏様。吉野の金峰山、山形の蔵王山など、役の行者が開いた山岳信仰の地に祀られる。
現在はお寺と神社は別物である。が、明治の神仏分離令までは寺と神社は一体であった、神仏混淆とも神仏習合とも言われる。
これで湯浪登山句口から横峰寺までの順打ち遍路道を繋ぐことができた。往昔、横峰寺から次の札所第六十一番香園寺には、今辿ってきた湯浪へと打ち戻ることが多かったようである。
「えひめの記憶」には、「横峰寺から香園寺への打戻りの遍路道は、貞享4年(1687年)刊の『四国邊路道指南』によると、「○しんでん村○大戸村、此所に荷物おきでよこミねまで二里。○ゆなミ村、地蔵堂有。○ふるほう村、地蔵堂。大戸より山路、谷合。(中略)是よりかうおんじまで三里、右の大戸村へもどる。<16>」と記されている。
また『四国遍礼名所図会』は、(是より大頭町迄下り支度いたし、香苑寺へ廿五丁也。明口村、香苑寺村。<17>」と記し、それぞれ大頭へ打ち戻ることを案内している。また、明治16年(1883年)刊の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「大戸村、此(の)所に荷物おき行(く)。是よりよこみねへ二里。ゆなみ村・ぶりほう村。(中略)横みね寺より香苑寺へ筋向(かい)道発(おく)る人多し、益なし。右の大戸へもどるをよしとす。(中略)是より香苑寺迄三里。右の大戸村へもどり、みゃうぐち村、周布郡かうおんじ村。<18>」と記して、横峰寺から香園寺への直通路は益がないとして、大戸(大頭)に戻ることを勧めている」とあり、香園寺への直通路は益がないと言っている。
が、現在は横峰寺から平野林道を少し下り、左に逸れて山道を香園寺奥の院経由で香園寺に向かう方が多いように思える。
この奥の院経由の遍路道は昭和になって開かれた道であり、それほど古くない。が、遍路道の途次、「香園道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺ヘ一里二十丁」の分岐標石があった。この分岐から小松川の谷筋に下れば岡村から香園寺に繋がるようである。次回はこの遍路道を辿ってみようと思う。

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