金曜日, 10月 01, 2021

予土往還 土佐街道・松山街道 ⑧ ; 見ノ越から鈴ヶ峠へ

予土往還散歩もこれで8回目。今回は水ノ峠から下った仁淀川水系土居川の谷筋の池川からはじめ、見ノ越より尾根に取り付き鈴ヶ峠までを繋ぐ。
久万高原町の越ノ峠から山入りし、仁淀川水系面河川に面する七鳥より猿楽岩から黒滝峠を経て水ノ峠を下るまで、肩まで埋まるような笹原、延々と続く藪漕ぎに何度となく「勘弁してほしい」と小声で叫んだ「予土往還 高山通り」散歩であったが、今回のルートは藪もなく、踏まれた道や掘割道そして林道を辿る至極「快適」なものであった。
「快適」とは言うものの、それは藪漕ぎから解放されたという意味ではあり、標高180mほどから800mまで比高差620m、平均20°の急登を5キロほど上るルートであり、それはそれなりに険しいのだが、「道」があるだけ、それだけで十分に有り難いルートであった。
所要時間は見ノ越取り付き口から鈴ヶ峠まで往路、復路共に3時間半程度。復路は下りはじめて2時間ほどはなんとか膝も我慢しててくれ、結構快調に下れたのだが残りの1時間半は膝がほぼダメ状態。結局往路上りと同じ位の時間がかかってしまった。普通に歩けばこんなに時間はかからないかと思う。
ルート概要は見ノ越取り付き口は草木が茂り少し分かり難いが、その先は上述の如く踏まれた道、掘割道、林道と「道」を辿っていけば鈴ヶ峠に到着する。藪漕ぎでは頼りの綱であった木に括られたリボンも16ほど確認できたが、今回は特に無くても道を辿ることはできそうではあった。
とはいうものの、2箇所だけ道迷いそうな箇所があり、そこでは助かった。 その二箇所は共に杉林。一瞬踏まれた道筋が消え、どうしたものかと思ったのだが、辺りを見回し杉の木に括られたリボンを見付け、そこを先に進むと踏まれた道に出た。
今回のルートで注意が必要なのはこの杉林の2箇所と見ノ越から取り付きはじめて少しして出合う沢を越すあたりの3カ所だけ。後は迷うこともなく踏まれた道、掘割道、林道を辿ればいい。この3カ所については後述する。 余談ではあるが、快調に往復ピストンで車デポ地に戻ったわけだが、ここでちょっとしたアクシデント。さあ帰ろうとエンジンをかけようとしたのだが、うんともいすんとも言わない。トンネルの多い国道439号を走って来たのだが、車デポ地でライトを消し忘れ、バッテリ‐切れ。JAFのお世話になってしまった。デポ地が里に近かったからよかったものの、山中であれば結構迷惑かけたかも。気をつけよう。 とまれ、メモを始める。



本日のルート;池川から見ノ越へ>「旧松山街道略図」案内>狩山川渡河>山道への取り付き口>沢を越える>T字路>大師坐像>道迷い注意箇所>道迷い注意箇所>痩せた馬の背>林道枝道(?)に出る>林道が左から合流。道の左手は大きく開ける>大きな林道に合流>「見ノ越」標識>鈴ヶ峠

見ノ越から鈴ヶ峠へ

池川から見ノ越へ
先回の最終地点、天明逃散習合の地、また山頭火の歌碑の立つ土居川・安居川合流点である「安の川原」からスタートする。
土居川に架かる橋を渡り安居川右岸を進む。ほどなく安居川に狩山川が合流する地点で安居川に架かる橋を渡り国道439号に出る。見ノ越は国道439号を横切り、狩山川に沿って進む。
見ノ越
「見ノ越」ってなんとなく惹かれる地名。四万十町地名辞典には「高知県内には見残、見ノ越、三ノ越、箕ノ越、三野越があるが、ミノコシ本来の意味は不明。ただ地形的にみると小さな尾根を越える小みちのよう」とあり、「ミノについて柳田国男氏は「一方が山地で、わずかな高低のあることを意味した」という。ミノは丘陵地帯の意味という」と続ける。
いまから取り付く鈴ヶ峠への尾根筋は「わずかな高低のある丘陵」には似合わない。字義通りに見ると、狩山川筋と安居川の合流点に向かって90mほどの丘陵が突き出ている。これが「見ノ越」の由来となった地形だろうか。単なる妄想。根拠なし。


「旧松山街道略図」案内:午前7時38分
旧松山街道案内
斜めに上るアプローチ
刈山川右岸を集落へと入る。少し進むと民家石垣の前に「旧松山街道略図」案内。随所で見る予土往還高山通りの案内図ではあるが、概略図であり実用性はない。 途は言うものの、案内が立つのであれば、この辺りから鈴ヶ峠への取り付き口へと進むのだろうが狩山川には対岸に渡る橋が架かっていない。
対岸に取り付き口の目安でもなかろうかと往きつ戻りつ取り付き口を探すと護岸工事された狩山川左岸、上述案内の立つところより少し上流に川床から斜めに上るコンクリートのアプロ―チがあった。左岸に上るにはそのアプローチを上るしか術はない。

狩山川渡河;午前7時42分
狩山川をジャブジャブと
アプローチを上る
どこか濡れずに対岸のコンクリートのアプロ―チに渡れる場所はないものかと探すが、適当な浅瀬も飛び石もない。仕方なく狩山川をジャブジャブと渡河する。膝の辺りまで水に浸かりながらコンクリートのアプロ―チに向かい、狩山川左岸に渡る。

山道への取り付き口;午前7時56分(標高180m)
草木に覆われた撮りつき口
その先に、かすかに踏まれた道が見える
左岸に渡るが川に沿って草木が茂る。どこかに山に向かう取り付き口は無いものかと右往左往。と、コンクリートのアプロ―チを左岸に上ったことろから少し下流、藪の向こうに道筋らしきものが見える。


踏み込まれた道が現れる
リボンでオンコース確認
取敢えず草木を掻き分けて中に入ると、直ぐ先に踏まれた道筋が上に続いていた。そこが取付口であった。
7分ほどかけてよく踏み込まれた道を進む。高度を30mほど上げたところ、道の右手に小さな木立にリボンが括られている。しっかり踏まれた道であり、リボンがなくても道に迷うことはない。

沢を越える;午前8時3分(標高200m)
左岸より小滝上を迂回しそのまま右岸道に
薄い道の先には踏み込まれた道
そこから20mほど上げると、目の前に沢が現れる。結構広かった道は消え、一瞬沢に下りて対岸を這い上がる?などと思ったのだが、沢の左岸の数メートルほどの崖に沿って誠に狭いが踏まれた風の道が見える。慎重に歩を進めると沢の小滝の上を迂回し右岸に移れた。
右岸から先も薄い道筋だが、小滝上から先に続く踏まれた感のある道筋が続く。先に進むとしっかり踏まれた比較的大きな道となる。

T字路;午前8時35分(標高310m)
T字路手前のリボン
T字路。復路注意箇所
しっかり踏まれたをジグザグで30分ほど進み高度を100mほど上げると立ち木にリボンが括られ、その直ぐ先にT字路。往路ではなにも問題なくT字路を右折し上りの道を辿ることになるが、復路(鈴ヶ峠方面から下るとき)このT字合流部は見逃しやすくそのまま直進し、あらぬ方向へ行くことになる(実際復路で直進してしまった)。
復路では少しわかりにくいが、このT字部のリボンを目安に左折すれば沢に出る。念のためにメモしておく。
沢からこの間4つのリボンが括られているが、リボンが無くてもその間は道に迷うことはない。

大師坐像;午前9時(標高400m)
T字部から標高350m辺りまでは尾根筋稜線を等高線に垂直に上る。その間木に括られたリボンがある。この間も道はよく踏まれており迷うことはない。
標高350m辺りまで上ると等高線の間隔は広くなり、急坂は少しゆるやかになる。その先馬の背を越え標高400mまで高度を上げると、道脇に大師坐像が佇む。「文政二年 弘法大師」」と刻まれていた。予土往還 土佐街道・松山街道 高山通り」を辿る途地、を猿ヶ岩、黒滝峠には大師像が建っていた。大師信仰の深さが感じられる。
取り付き口から1時間かけて標高を200mほど上げた。ここで小休止。

道迷い注意箇所;午前9時52分(標高510m)
ここから急に道が狭くなる
リボンでオンコース確認
小休止の後、40分ほどかけて標高500m辺りまで上る。と、明瞭に踏み込まれた道が少し狭く、薄くなる。道にそって小枝にリボンが2つ括られており、オンコースであろうと先に進むと杉林に出る。前面と斜斜面には杉の木が立ち並ぶが道が消える。

杉林で道が消える
右手の杉の木にリボンを確認
どうしたものかと左右を見渡すと、道が消えた直ぐ右手の大きな杉にリボンが括られている。明瞭な踏み跡というわけでもないが、リボンの括られた杉の木脇を上っていくと、よく踏まれた道筋が現れた。
因みに、目安としているリボンではあるが、様々な用途で括られていることも多い。時には全くの個人のルート目安として括られたものが残置されていることもある。注意が必要。

道迷い注意箇所;午前10時5分(標高560m)
再び杉林。括られたリボンを目安に進む
その先、青いリボン。オンコース確認
左手に杉林を見遣りながら7分ほど歩き高度を50mほど上げると再び前面に杉林が現れる。ここで道が少しわかりにくになる。が、前回と同じく道が消えたところの大きな杉にリボンが括られている。それを目安にリボンのついた杉の左手を抜けると、踏まれた感のある道の杉の根元にブルーのリボン。その先にも同じくブルーのリボンが続きオンコースであることを確認する。最初の道迷い箇所ほどルーティングは難しくないが、念のためメモしておく。

痩せた馬の背;午前10時43分(標高670m)
馬の背
よく踏まれた道、掘割状に削られた道を進む。尾根筋を等高線に垂直に30分ほど上り、高度を100mほど上げると等高線の間隔が広くなり少し緩やかな道となる。その直ぐ先には痩せた馬の背が見える。

林道枝道(?)に出る;午前10時48分(標高700m)
道なりに林道枝道(?)に出る
平坦な林道枝道(?)を進む
平坦な痩せた馬の背を越え、その先で高度を20mほど上げると道は北西に長く突き出た700m等高線突端部に乗る。そこでは背の低い草に覆われた林道枝道(?)のような比較的広い道が繋がる。



林道が左から合流。道の左手は大きく開ける:午前10時52分(標高700m) 
林道合流手前。先に草道が続く
林道との合流点。写真右が林道。
細長く延びた700m等高線に囲まれた平坦な道を進むと左手から林道が合流する。左手から合流する林道箇所は如何にも重機で削られたような痕跡を残す道筋ではあるが、合流点から先は背の低い草に覆われた道のまま。

道の左手は大きく開け、正面には黒森山に連なる稜線、目を下に移すと国道439号が走る狩山川の谷筋の集落などが見える。
復路注意箇所
往路では成り行きで林道に合流するので問題ないのだが、復路(鈴ヶ峠から見ノ越へくだる)ではこの林道分岐点は注意が必要。下山ルートは林道側ではなく左手に入るのだが、分岐箇所の下山ルート道は上掲林道分岐点写真の如く、草が生い茂り、そこが道というか、林道枝道(?)があるとはわからない。復路ではここが分岐箇所かどうかもよくわからないだろう。ここでは林道ではなく左手の草の中へ入ること。念のため。

大きな林道に合流:午前10時57分(標高720m)
大きな林道に合流
緩やかに上る草の「芝生道」を数分歩くと谷側から上ってきた大きな林道に合流する。林道は重機で力任せに開かれた感のある粗削りな道。石が転がる荒れた林道といったもの。荒れてはいるが藪にくらべれば誠にありがたい。

「見ノ越」標識:午前11時18分(標高800m)
林道は標高770m辺りまで稜線を上った後、稜線を離れ山腹をトラバース気味に20分ほど歩き、緩やかに標高を30mほどあげ鈴ヶ峠から黒森山に連なる尾根筋に出る。尾根筋合流点に「見ノ越」と書かれた標識が立っていた。

鈴ヶ峠;午前11時35分(標高820m)
平坦な尾根の道を鈴ヶ峠へと向かう。800m等高線に囲まれた尾根筋には途中2箇所のピークある(東側のピークは849.7三角点)。20mか30mほどのピークであるが、上りはもう勘弁と思いながら先に進むと、道は共にピークを巻いて東に進み、三角点のあるピークの先は緩やかな下りとなって鞍部に下りていった。
道は如何にも重機で開かれた道といったものであり、往昔の道筋はピークを抜ける尾根筋道かとも思うのだが、特段の標識もみつからなかったため巻き道を進んだ。
鞍部には2基の石灯籠と、「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識が立っていた。「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識には「松山討伐の道 勤王志士脱藩の道 中浜万次郎帰国の道」とも記されていた。 
見ノ越からおおよそ3時間半で鈴ヶ峠に着いた。
天晴燈明台
正面に「奉 寄進」と刻まれる2基の燈明台の1基は「明治七戌年年(1984)」、もう一基の燈明台の側面に「天晴元卯九月十八日」と刻まれる。天晴という元号はないのだが、土佐においては明治元年の前年にあたる慶応3年(1867)に「天晴」年号が各地で使われたとのこと。『天晴』に改元される、といった噂が流れ、世直しを求める民衆が「天晴」の年号を先取りするも、結果的には「明治」と改元され、元号としては幻に終わったその歴史の痕跡を残す。
それにしても立派な燈明台があるが、辺りには社が見当たらない。これってなんだろう。チェックするとこの燈明台は金毘羅遥拝のためのもののようであった。
松山討伐の道
幕末争乱記、慶応4年(1868)1月幕府側であった伊予松山藩討伐のため土佐藩兵1600名からなる松山藩征討軍が松山に向かった進撃路のことだろう。征討軍は鈴ヶ峠から池川に下り、池川から予土往還のひとつ、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠)を越えて伊予に入り松山に向かったようである。
勤王志士脱藩の道
ここには勤王志士の名は記されていない。最初、水ノ峠、黒滝峠で出合った脱藩の士中島信行、中島与一郎、細木核太郎のことかとも思ったのだが、この脱藩志士の逃亡ルートは、佐川から名野川に出て北川川の谷筋を橋ヶ藪抜け水ヶ峠へと向かっている。名野川は鈴ヶ峠からははるか西、仁淀川に沿った地にある。そこから水ノ峠へと北上したわけであるから、どうみても鈴ヶ峠を越えたとは思えない。
あれこれチェックすると、鈴ヶ峠を仁淀川へと下りた越知と佐川の境にある赤土峠には「脱藩志士習合の地」の碑があり、そこには「元治元年(1864)、死を決した血盟の佐川勤王党五士が脱藩のため習合した地」とあり、この碑はこの五士のひとりであった浜田辰弥(後の宮内大臣田中光顕)が建てたもの。「まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき」の歌も刻まれる。
その流れでもう少し深掘りし、この脱藩五士は田中光顕、大橋慎三、片岡利和、山中安敬、井原応輔、と判明した。
明治維新後、田中光顕は上述の如く宮内大臣、大橋慎三は太政官大議生、片岡利和は侍従、山中安敬は宮中の雑掌となるも、ひとり井原応輔は元治二年(1865)中国諸国を遊説中、賊と間違われ自刃して果てた、と。
 
●中浜万次郎帰国の道
ジョン万次郎こと中浜万次郎は土佐沖での漁船遭難しアメリカ合衆国に渡った11年後の嘉永5年(1852年)、上海・琉球・長崎を経由して故郷の土佐に帰国したとのこと。帰国の途地、この鈴ヶ峠を通ったということだろう。
ジョン万次郎
ジョン万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の子として生まれる。天保12年(1841)9歳で漁船の炊係として漁に出るも難破し離島に漂流。アメリカ合衆国の捕鯨船に救助される。鎖国下の日本に船は入れずハワイを経て1843年、アメリカ合衆国に渡る。
アメリカ合衆国で教育を受けた後、捕鯨船に乗り込み世界各地を巡った後、1850年に日本に向けて上海行の商船に乗り、琉球、長崎を経由して嘉永5年(1852)年土佐に帰国した。
帰国後は土佐藩だけでなく幕府に仕え、その経験・知識を活かし日米和親条約の締結などに活躍した。

今回のメモはこれでお終い。藪漕ぎの連続であったこれまでの予土往還からは一変そした「道」を歩ける快適な散歩であった。次回は鈴ヶ峠から越知へと繋ぐが、段取り上、越知側から繋げるのがよさそうだ。道も結構踏まれているようであり、藪に入ることもなく快適に歩けそうな気がする。ありがたい。

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