水曜日, 10月 13, 2021

予土往還 土佐街道・松山街道 ⑩ ; 薬師堂集落の「道分れ」から鈴ヶ峠へ

予土往還 土佐街道・松山街道 の散歩もこれで10回目。基本車デポでのピストン往復のため、結構回数がかかってしまった。
今回は薬師堂集落の「道分れ」から鈴ヶ峠を繋ぐ。先回の越知町横畠・堂ノ岡から薬師堂集落までは3カ所ほど激しい藪があったのだが、今回は藪もなく比高差400mほど、その距離おおよそ5キロ(旧松山街道まっぷ案内図には朽木峠から鈴ヶ峠まで1.3キロとなっていたが、林道合流点に立つ標識(朽木峠)には3.1キロとあった)を往路・復路ともに3時間ほどでカバーできた。
ルート概要は標高410mの「道分れ」から黒森山への分岐手前の標高700mの旧朽木峠(上述林道合流点の朽木峠標識と区別するため便宜的に「旧」とつけた)までの2キロほどは、途中等高線間隔の広い緩やかな道はあるものの、基本は尾根稜線部をジグザグと300mほど上げることになる。
朽木峠からの3キロほどは、山腹の林道を鈴ヶ峠手前まで標高700mから750mまで緩やかにさ高度を上げ、最後の上りで50mほど高度を上げて標高820mの鈴ヶ峠に到着する。標識はきちんと整備されており道に迷うことはない(往路は問題ないが復路で注意箇所は後述する)。
今回で伊予と土佐国境に聳える四国山地の山越え部トレースも完了となる。あれこれトラブルもあったため、常にもまして少々感慨深い。ともあれ、山越え部最後のメモをはじめる。



本日のルート;道分れ>清水井手・虎吾掘案内板>標識1(虎吾堀>標識2(商人休場 )>標識3(お茶屋跡)>標識4;稲村分岐>標識5(九里塚 )・黒鯛三蛇神様>標識6(朽木峠)>標識7;黒森山頂との分岐点>標識8・標識9(朽木峠);>分岐点を右に>標識10>標識11;土佐街道と林道交差:標識>峯岩戸集落跡>標識12;鈴ケ峠分岐>標識13>鈴ヶ峠
「道分れ」から鈴ヶ峠へ

道分れ;午前7時16分(標高410m)
道分れ
仁淀川谷筋右岸の山麓
愛媛県新居浜市の家を出て、国道194号線を南下、仁淀川を挟んで高岡郡日高村と接する吾川郡いの町柳瀬で県道18号に乗り換え西進。仁淀川に架かる横畠橋を渡ってすぐ、県道18号から山側に逸れる道にかかる「横畠」の標識を目安に薬師堂集落へと続く道に入る。曲がりくねった道ではあるが、完全舗装で道幅も広い。 しばらくの上りの後、薬師堂集落の三叉路に。そこを大山祇神社鳥居前の道を500mほど進むと車道から道が左に逸れる分岐点に案内板、標識が立つ。そこが「道分れ」。分岐点傍にある畑側のスペースに車をデポ。
分岐点に立つ「旧松山街道」の案内を読み、その傍に立つ「旧松山街道」の標識の指す道を進む。道の左手、眼下に仁淀川本流谷筋の右岸山麓の集落が見える。
「旧松山街道」案内板
「この道は土佐と伊予を結ぶ重要な往還で道幅が1間(一・八メートル)ありあり、当時としては結構広い。
伊予では、松山から土佐界までの道を土佐街道と呼び、土佐では高知城下から伊予界までを松山街道と言う。
薬師堂は、街道沿いの重要な宿場であり、明治のころは店屋や宿屋が七軒も並んでいたという。
藩政時代の土佐・伊予間の通行にはこの街道が主に利用されており、両国の物質交易や文化のほか百姓一揆や脱藩の志士たちが命がけで駆け抜けた道でもある。 一八五二年にはアメリカから十一人の役人とともに帰国したジョン万次郎、一八五九年には長崎へ行くために岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕といわれる長岡謙吾など、歴史上の著名人もこの街道を使用している。
一八六四年八月十四日には田中光顕、大橋慎三、山中安敬、井原応輔、片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就を祈願し、黑森越えで脱藩している。その途中で腹痛を起こした井原は薬師堂の店屋「与市」で馬を借り、黒森まで与市も同行したという。
一八六八年には 土佐藩の兵一六一○人が松山征討に行く時は地元の人たちも街道の広場に集まって見送り、一八八二年に薬師堂の大山祇神社で行われた自由民権集会など世直しの人たちも使用している。
街道は車社会の到来とともに荒れ果てていましたが、二○○八ー二○○九年度に実施した国交省の「新たな公」モデル事業等により「虹色の里横畠」と越知町が主導となって再整備し、登山道として親しまれるようになりました。
この説明板は二○○九年度の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。 二○一○年三月」」

清水井手・虎吾掘案内板;午前7時22分(標高435m)
虎吾池
舗装された道を5分ほど歩くと道の左手に池があり、その傍に案内板。
清水井手 この池の水は、海水井手と呼ばれる用水路で運び込まれている。清水井手は、一八六〇年に生活や農業用水の確保に苦労していた清水・八頭(やがしろ)・薬師堂の先覚者左京義三、左京宗常、山本虎吾、山本広次が中心となり、夜中に堤燈(ちょうちん)の明かりで測量をし、地元の人約100人が連日休みなく山肌を堀り岩を砕いて、一年六か月で黒森山東側の稲村谷から約七キロメートルの用水路を完成させた。この偉大な事業により、約7へクタールの水田ができ、その恩恵は今も営々と愛け継がれている。
山本虎吾堀と刻まれた石碑
清水井手・虎吾池案内板
用水路は当時から井手組合が管理してきたが、維持管理に大変苦労するため昭和三〇年代と四〇年代に二度にわたってコンクリートで固めた。それでも水濡れがひどいため平成になってから全線にバイブを敷設し、労力や費用は大きく軽減された。
虎吾堀 (用水池)
この池は、清水井手の完成後に水を溜めて使うべく、山本虎吾が自分の畑二反をコツコツ掘り、一八八七年に完成させたものである。
昭和四〇年代後半に内側に防水シートが施され、現在も水田の用水としで仕様されている。
この説明板は二○○九年度の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。 二○一○年三月」とあった。
案内板、道の反対側には「山本虎吾堀」と刻まれた自然石が立つ。
清水井手の取水口は何処?
清水簡易水道ろ過地・配水池
清水井手の取水口は何処だろう?チェックするが清水井手に関するデータがヒットしない。はてさて。そういえば「道分れ」から虎吾池の間に水道施設があった。チェックすると「清水簡易水道ろ過地・配水池」とあり、越知町の資料には「簡易水道は表流水を水源とし、緩速ろ過+滅菌処理し配水しています」とある。表流水とすれば谷筋から取水しているようにも思える。そしてその水源は稲村谷川の谷筋、鎌井田清助集落の更に北、稲村谷川の最奥部となっている。虎吾池からの距離も7キロほどでもある。
ひょっとすると清水簡易水道の水源・水路は清水井手と重なっているのかもしれない。虎吾池と水源の間には、稲村谷川の支流がふたつ流れる。等高線から考えれば、水路はこのふたつの川に水を落とし、再び取水してこの地に繋いでいるのかも。妄想は拡がるが所詮は妄想。確たる根拠は何もなし。だが、妄想は楽しい。

標識1(虎吾堀):午前7時24分(標高435m)
標識1(虎吾堀)を右に折れ土径に
急坂の用水路。水が勢いよく流れ落ちる
虎吾堀の直ぐ先に標識が立つ。木柱には「虎吾堀」と記され、舗装道方向は「黒森山横道」とあり、「旧松山街道」は舗装道から右に逸れる土径方向を指す。「黒森山横道」って何だ?などと思いながらも、標識から道を逸れ土径に。
急坂にパイプから流れ出た水が用水路を勢いよく流れ下る。上に清水井手は平成になりパイプ敷設と改めたとのことだが、最終部のところだけ表に出して、用水路を虎吾池へと流しているのだろうか。これも妄想。根拠なし。

標識2(商人休場 );午前7時30分(標高475m)
標識2(商人休場 )
標識前は平坦地
地中に敷設されたパイプより水が流れ出るあたりから先、少し草が茂るがその直ぐ先は簡易舗装。簡易舗装の道を上ると少し大きな舗装された道に出る。その交点に標識。木柱に「商人休場 」と記され、「黒森山」「堂岡」の標識がその方向を指す。標石前には平坦場が広がっていた。
復路注意
松山街道は標識前より左に逸れ土径に
舗装路を下るとこの標識が立つ
往路は問題ないのだが、復路(鈴ヶ峠から堂ノ岡に下る場合)ではこの標識箇所は要注意。標識の「堂岡」は何となく舗装道から逸れる方向を指しているようにも思えるのだが、ちょっとわかりにくく、そのまま舗装道を下ってしまう。実際復路では舗装道を逸れることなく少し下り、木柱に「黒滝」と記された「黒森山」標識で気が付き、標識2(商人休場 まで戻り、標識1(虎吾堀)へと下った。
もっとも、確認したわけではないが、この舗装道をそのまま先に進んだとしても標識1(虎吾堀)まで繋がっているように思える。「黒森山横道」標識が指す道がこの道筋かとも。

標識3(お茶屋跡);午前7時50分(標高550m)
畑地が切れると舗装も切れる
その先、山道に
標識2(商人休場 )より簡易舗装の道を50m弱高度を上げると舗装が切れる。畑地もここで切れる。簡易舗装は耕地農作業用に整備されたものだろう。
そこから10mほど高度を上げると平坦な道となる。その先10mほど下り緩やかに鞍部に下りるが、直ぐに上り。20mほど坂を上ると木柱に「お茶屋跡」と記された標識(標識3(お茶屋跡))があった。20分ほど歩き高ひ度を75mほど上げたことになる。
踏み込まれた広いみちを進む
標識3(お茶屋跡)
この間、堂ノ岡の「旧松山街道まっぷ」に記されていた「耳切れ」標識があったようだが見逃した。実のところ、往路ではこの標識3(お茶屋跡)は見逃していた。木柱に「お茶屋跡」と記されただけで、方向を示す標識もなく、注意しなければ木の切り株と同じ;「耳切れ」標識も同様であり、それゆえに見逃したのだろう。

標識4;稲村分岐;午前7時58分(標高580m)
標識4;稲村分岐
10分ほど尾根稜線部の坂を上り高度を30mほど上げると、道の右手に標識。 木柱に「出口」と記され、「黒森山」「稲村」を指す標識が立つ(標識4)。「稲村」は東に下る方向を指す。国土地理院地図に「稲村」の地名は記されていないが、東側は稲村谷川の谷筋であり、何となく納得。

標識5(九里塚 )・黒鯛三蛇神様;午前8時18分(標高660m)
標識5(九里塚 )と黒鯛三蛇神標識
尾根筋稜線部を等高線にほぼ垂直にジグザグ道を20分ほど上り、高度を80mほど上げると木柱に「九里塚」と記された標識(標識5(九里塚 ))。その傍に「黒鯛三蛇神」と記された木柱が立つ。
九里塚
九里塚は先回の「史跡八里塚」でメモしたように、高知の城下江口番所から一里毎に立てられた里程標。とはいうものの、高知城下での番所は東の松ヶ鼻、西の思案橋、北の山田橋の三カ所とされ、江口番所がヒットしない。が、場所から考えれば西の思案橋番所のことではないだろうか。近くに江の口川が流れている。
黒鯛三蛇神
黒鯛三蛇神標識
木の標識はあるものの、辺りには手水石と言えばそれらしき石造物が転がるが、祠などはない。そもそも黒鯛三蛇神って何?
チェックすると高知市春野町の春野郷土資料館に、地域に伝わる民話として「小鯛大明神(黒鯛大明神)の記事があった;「400年ほど昔の正月明けのこと、この地の漁師が魚売りにでかけると、田圃の畦道で罠にかかった山鳥をみつける。これ幸いと山鳥を頂戴しその場を去るが、なんとなく気が咎め、山鳥の替わりに小鯛を三尾、罠に置いて去る。
罠の獲物を取りに来た百姓は罠にかかった鯛を見てビックリ。「正月早々鯛とは縁起がいい。これは神様の御利益よ」と村に持ち帰る。
と、この事はたちまち部落中の大評判になり、部落みんなで小さい祠を造り、祠の前には『小鯛大明神』という小さい幟を立てた。このとき神官が、この祠に『黒鯛三所権現〔くろだいさんしょごんげん〕』という名前をつけてた、と言う。
黒鯛登場の所以はわかった。また、三所権現を古来より神とみなされた蛇神信仰に置き変えれば、「黒鯛三蛇神」のことはなんとなく説明がつく。
が、しかし、そもそも遥か遠く離れた春野の民話がなにゆえにこの地に。それよりなにより、この話のキモは海の鯛が田圃の罠にかかっている不思議であろうとおもうのだが、そこが至極あっさりと流されている。
他に適当な資料はなものかとも少し深堀りすると柳田国男の『日本の昔話』に「黒鯛大明神(小鯛大明神)」の話がみつかった;「黒鯛大明神(小鯛大明神) むかし土佐国のある山奥の村へ、浜から一人の魚商人が、魚を売りにやってきた。寂しい山路で、道のわきの林の中に、罠にかかった山鳥を見つけ、之を貰おうと。が、只取って行くのは良くないことであると、山鳥の替わりに黒鯛を三尾挟んで置き、その山鳥を取って帰って来た。
その後村人が来て、山に黒鯛のいるのが不思議であるが、それ以上に山鳥の罠にかかるというのは只事ではない。これは天の神のおぼしめしと、すぐに小さな社を建てて、黒鯛三所権現と唱えて祀る。その評判が伝わりますと、方々からお参りに来る者があって、社は大変に繁盛した。のちに魚売りがまた遣って来て、山鳥を持って行った話をする迄には、もう繁盛のお宮になっていたそうであります、と。
こちらのほうが分かりやすい。三所権現は少々強引ではあるが、日本古来の社の祭神の起源は、祖霊としての蛇神であったと言われることから考えると、三所権現を三蛇神様と読み替えて、一応個人的には納得。これも全くの妄想。なんらの根拠なし。
と、これで取敢えず個人的には納得していたのだが、偶々黒森山のことをチェックしていると、その山頂にも「黒鯛三社権現」の小祠があるとのこと。そこに伝わる伝承では登場人物が越知の魚商人となり、罠にかかったのは兎に置き換わり、黒鯛を見付けた村人は驚き床に伏せるが、病癒えた後山伏に祈祷してもらい黒鯛を「黒鯛三社権現」として祀ったとされる。修験のお山、黒森山ゆえの山伏の登場だろう。
伝承は黒鯛を核にしながらも、地域の事情にあわせバリエーションを持たせたお話が出来上がっている。中にはこの黒鯛プロットを使って黒鯛三社権現の祠を造ることにより、地元の村人が神体山と信じるお山にお寺を建てる藩の意図を反故にするといった、地元民の智慧の物語仕立ての話もあった。とはいえ、何故にお話の核に「黒鯛」が登場するのか依然不明ではある。

標識6(朽木峠);午前8時32分(標高700m)
広く踏み込まれた道
鞍部が朽木峠
標識5(九里塚) から高度を50mほど上げると700m等高線に囲まれた尾根が南に長く突き出た稜線突端部に出る。そこから北へと緩やかに上る尾根筋を進み鞍部へと下ると標識が道の両側に立つ(標識6(朽木峠))。
左手には木柱に「朽木峠」と記された木柱に「薬師堂」「松山街道」の標識。右手は「稲村」と下りの道を指す。
道脇にある木のベンチに座り小休止。1時間10分ほどで標高を300m弱上げたことになる。
標識6(朽木峠)
稲村分岐標識
朽木(クツギ・クチキ・クツキ)
朽木峠って結構多いようにも思える。「クツ」は「崩れる」、「キ」は「土地」」。崩れやすい土地の意との説がある。
また、古歌には、クチキと書いたものがあり、クツ・クチは古事記などに見える木の神ククノチのククが、タ行に変わってクツ・クチとなったとも。この場合は、古く大きい木が茂っていた土地を意味したのではないか」とも言われ、ほぼ真逆の林相を示す。
その他、山の中の細道、峰・峠、自然堤防などの小高い所を意味する「クキ」との関連もあるようで、要するによくわからない、ということ。

標識7;黒森山頂との分岐点;午前8時44分(標高710m)
標識7;黒森山頂との分岐点
10分休憩し出発。「松山街道」の標識に従い尾根筋を先に進むと数分で「黒森山頂」と書かれた標識が右を指す。ここが松山街道と黒森山への分岐点。
当初、黒森山との分岐点は朽木峠と思っていたため、道の西側に道筋が無いものかと探すが、そこは深く切れ込んでおり、とても歩けそうにない。ために、「松山街道」の指す道筋は黒森山を経由して鈴ヶ峠に行くことになるのか、と少々気落ちしていたのだが、一安心。分岐点から先は広く踏み込まれた林道風の道を進む。

標識8・標識9(朽木峠);午前98時49分(標高700m)
標識8
標識9(朽木峠)

黒森山頂から6分ほど歩き、朽木峠のあった黒森山尾根筋稜線の東側から西側に移る。道が林道に合流する角の左右に標識が立つ。
道の左の標識は「堂岡」「樺休場」と同方向を指す(標識8)。道の右手には木柱に「朽木峠」と記され。「松山街道」「黒森登山口1.3km」の標識、そして「鈴ヶ峠3.1km」と記された標識が立つ。堂ノ岡の旧松山街道取り付き口にあった「旧松山街道まっぷ」には朽木峠から鈴ヶ峠まで1.3キロとあったが、3.1キロのほうが正しいように思える。

分岐点を右に:午前9時9分(標高760m)
分岐を右に
黒森山西麓、等高線700mから750mへと緩やかな上りの林道を20分ほど進む。時に「水源かん養保安林」とか「土砂流出保安林」の案内。道は一部だけ簡易舗装されているが、舗装が切れた先、黒森山の支尾根が南西に着く出たところで道はふたつに分かれる。直進はなんとなく下って行きそう。尾根先端部を切り通した道へと右に折れ先に進む。

標識10;午前9時13分(標高760m)
標識10
正面に標識10、左は黒森山への道
分岐点から数分歩くと道の合流点に標識(標識10)。「堂岡」「樺休場」と記された標識が朽木峠方向を指す。
地図を見ると、この合流点を右手へと折り返す道は黒道山頂まで繋がっている。見つけた写真で見るかぎり、結構広い道のようだ。

標識11;松山街道標識;午前9時16分(標高760m)
標識11;松山街道標識
峯岩戸集落から上ってきた道
標識10から更に数分、再び道に合流。峯岩戸の集落から上ってきた道は合流点手前まで舗装されている。
合流点角に多くの標識。「松山街道」、「桜 大板」・「黒森山頂」と記された木の標識。「峯岩戸 桜 大板 黒森山頂」のルートを表示した金属プレートなどが並ぶ。桜はここから西、ほぼ仁淀川本流近くまで下った地にある集落。大阪は不明。 
尚、この合流点は、もし鈴ヶ峠から薬師堂への道が藪が多く、途中撤退となった場合の再アプローチ点としていたところ。鈴ヶ峠近くまで車を寄せられる道を探し、Google Street Viewでこの合流点近くまで車を寄せ得ることを確認していた。実際は松山街道の状態はよく、舗装はされてはいるが車一台ギリ走れるといったこの峯岩戸集落への道を利用することはなかった。 

 岩戸集落跡;午前9時36分(標高780m) 
 岩戸集落跡標識
標識11の立つ合流点角から「松山街道」の標識が指す広い林道を進む。水源かん養保安林、土砂流出保安林であった今までの林道道筋とは表情を一変。植林地帯を進む道となり、時に伐採された材木が集積され、伐採林が道の上下に広がる。 10分ほど歩くと植林地帯から離れ落ち着いた林相の中を進む。沢水を潜らす堰堤を越すと道の左手、谷側に「岩戸集落跡」の標識。案内は特にない。周辺を見渡すが道の上も下も傾斜地であり家が建てそうな平坦地は見当たらなかった。 

 標識12;鈴ケ峠分岐;午前9時44分(標高750m) 
鈴ケ峠分岐
鈴ケ峠分岐に標識12
標識11から知らず緩やかな上りの山腹の道を高度を30mほどあげていた。峯岩戸集落跡標識から先、10分ほどゆるやかな下りを歩き高度を30m強下げたところ、道の分岐点に標識(標識12)。「旧松山街道」と記された標識は林道から右に逸れる道方向を指す。ここが鈴ヶ峠への分岐点。道を直進すれば上述、桜の集落へと向かうのだろう。 

 標識13;午前10時2分(標高820m)
鈴ヶ峠への上り
標識13
 「旧松山街道」標識に従い道を右に折れ鈴ヶ峠への最後の上りに入る。20分弱歩き高度を70mほど上げると道の左手に標識(標識13)。「堂岡」「樺休場」と記される。標識の右手に山へと上る道があり、この黒森山頂への道に入らないようにと松山街道を案内した標識だろる。 

鈴ヶ峠;午前10時3分(標高820m) 
標識の先、平坦地に2基の燈明台が見える。鈴ヶ峠に到着した。道分れからおおよそ3時間で鈴ヶ峠に着いた。木のベンチで大休止。
鈴ヶ峠はこれで二度目。先回のメモを再掲する;峠には2基の石灯籠と、「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識が立っていた。「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識には「松山討伐の道 勤王志士脱藩の道 中浜万次郎帰国の道」とも記されていた。 
天晴石燈明台
正面に「奉 寄進」と刻まれる2基の燈明台の1基、東側の正面右側に「明治七戌年年(私注;1984)」、左手に「三月十八日」、西側のもう一基の燈明台の右側面に「天晴元卯九月十八日」、左には「月燈明」と刻まれる。 左手に建つ燈明台に刻まれる天晴という元号は正式には存在しない。が、土佐においては明治元年の前年にあたる慶応3年(1867)に「天晴」年号が各地で使われたとのこと。『天晴』に改元される、といった噂が流れ、世直しを求める民衆が「天晴」の年号を先取りするも、結果的には「明治」と改元され、元号としては幻に終わったその歴史の痕跡を残す。
それにしても立派な燈明台があるが、辺りには社が見当たらない。これってなんだろう。チェックするとこの燈明台は金毘羅遥拝のためのもののようであった。
松山討伐の道
堂ノ岡の「旧松山街道まっぷ」に「明治元年(1868) 松山征討 土佐将兵1610人が1月23日、越知で一泊し黒森越えで松山へ進駐」とあった土佐藩の松山藩討伐軍がこの峠を越えて伊予に向かったということ。 先回のメモにも掲載したが、土佐藩の松山征討軍のことをもう少し詳しく再掲: 〇土佐藩の松山征討軍
慶応四年一月十一日、朝廷は土佐藩主へ次の勅書を発せられ、錦旗を下賜された。
勅書
土佐少将江
徳川慶喜反逆妄挙ヲ助候条、其罪天地二不可容候間、讃州高松、豫州松山、同川之江始メ、是迄幕領、惣而征伐没収可有之被仰出候、宜軍威ヲ厳ニシ、速ニ可奏追討之功旨、御沙汰候事、
正月十一日
但、両国中幕領之義ハ勿論、幕吏卒ノ領地ニ至迄、惣而取調、言上可有之、且又人民鎮撫、偏ニ可致王化様可致処置候事、
土佐少将江
征討被仰付候ニ付、御紋付御旗二流下賜候事、
正月
この勅書に従い土佐藩は松山、高松藩征討の軍を編成。松山征討軍は一月二十日、本藩家老深尾左馬之助を総督、佐川家老深尾刑部を副総督に命じ、深尾刑部には軍律を保つ旨の命令が藩主より下されている。
一月二十一日鬆督深尾左馬之助率いる本隊は城下を進発、副総督深尾刑部率いる佐川隊は二十二日進発、越知で合流した。両隊は降りしきる雪中を仁淀川を渡り、街道最大の難所、黒森越えで池川に宿営し。街道の村々では、草鞋・松明・弁当などの提供を命ぜられていた。
征討軍は用居・瓜生野を経て、伊予の七鳥村に入った。ここで万一に備えて弾込めして、標高千メートルの尾根道を越えて、休む暇もなく行軍した。二千名近い行軍は寺院や民家に分宿できない者もあり、焚火をして野宿し、藁をかぶって仮眠する状態であった。
二十六日、久万に到着し大宝寺に宿営。久万山郷の庄屋・百姓共のあたたかい接待 を受けた。この日松山より飛報来り、長州軍出陣の由、一刻も早く進発すべしとの事で、二十七日早暁土砂降りの大雨の中を急いで進発した。
三坂峠を降ると、荏原で道後・立花口・麻生の三方面進軍の作戦をとり立花橋で合流し、午後六時ころ八股に到着した。城下の街並は藩主が朝敵となったためか、ひ っそりと静寂そのものであった。
征討軍は八股で集合した後、大砲や小銃の空砲を松山城に向かって一斉に発砲した。その響きは城山にこだまして、城下にたれ込めた夕間を貫き街並一帯にひろがった。すっかり暗くなった午後七時ころ、征討軍は隊列を正して堂々と入城した。土佐藩兵は総数九一五名、荷駄夫を合わせると約二千名の人員であった。
勤王志士脱藩の道
ここには勤王志士の名は記されていない。が、「旧松山街道」案内に「一八六四年八月十四日には田中光顕、大橋慎三、山中安敬、井原応輔、片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就を祈願し、黑森越えで脱藩している」とあった。この五名の脱藩志士だろう。
鈴ヶ峠を仁淀川へと下りた越知と佐川の境にある赤土峠にも「脱藩志士習合の地」の碑があり、そこには「元治元年(1864)、死を決した血盟の佐川勤王党五士が脱藩のため習合した地」とあり、この碑はこの五士のひとりであった浜田辰弥(後の宮内大臣田中光顕)が建てたもの。「まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき」の歌も刻まれる、と。越知から高知までの松山街道の途次、此の地も訪れてみようと思う。
なお、脱藩志士は明治維新後、田中光顕は上述の如く宮内大臣、大橋慎三は太政官大議生、片岡利和は侍従、山中安敬は宮中の雑掌となるも、ひとり井原応輔は元治二年(1865)中国諸国を遊説中、賊と間違われ自刃して果てた、と。
中浜万次郎帰国の道
旧松山街道取り付き口、堂ノ岡にあった「旧松山街道まっぷ」に、「1852 嘉永5   ジョン万一郎  アメリカより帰国のとき、役人11とともに7月11日に高知に着く」と記されていた。
ジョン万次郎こと中浜万次郎は土佐沖での漁船遭難しアメリカ合衆国に渡った11年後の嘉永5年(1852年)、上海・琉球・長崎を経由して故郷の土佐に帰国したとのこと。帰国の途地、この鈴ヶ峠を通ったということだろう。
〇ジョン万次郎
ジョン万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の子として生まれる。天保12年(1841)9歳で漁船の炊係として漁に出るも難破し離島に漂流。アメリカ合衆国の捕鯨船に救助される。鎖国下の日本に船は入れずハワイを経て1843年、アメリカ合衆国に渡る。
アメリカ合衆国で教育を受けた後、捕鯨船に乗り込み世界各地を巡った後、1850年に日本に向けて上海行の商船に乗り、琉球、長崎を経由して嘉永5年(1852)年土佐に帰国した。
帰国後は土佐藩だけでなく幕府に仕え、その経験・知識を活かし日米和親条約の締結などに活躍した。


今回で伊予と土佐国境に聳える四国山地の山越え部トレースも完了となる。愛媛県の久万高原超・越ノ峠からはじめ色ノ峠、七鳥かしが峠を越え面河川の谷筋・七鳥の集落へ。七鳥からは予土往還;土佐街道・松山街道のふたつのルートの内、面河川を渡り尾根筋に取り付き、猿楽岩を経て予土国境の黒滝峠へと向かう通称「高山通り」を辿り(おうひとつの往還は現在の国道494号筋)黒滝峠へ。
黒滝峠から土佐に入り、水ノ峠を経て土居川の谷筋・池川の町に下る。池川からは、見ノ越から尾根に取り付き鈴ヶ峠までを繋ぎ、鈴ヶ峠から仁淀川本流の谷筋の越知町横畠・堂ノ岡までをトレースした。
愛媛側はルート調査がなされており、標識も整備されているが面河川を越えて山入し、猿楽岩を経て予土国境の黒滝峠までは基本藪。標識を目安に道なき道の藪漕ぎとなる。
黒滝峠を越えて土佐側に入ると標識はほとんどない。道も藪が多く結構大変ではあった。現在黒滝峠から水ノ峠へと辿る旧土佐街道は一部危険となっており、大規模林道に下りて危険個所を迂回することになるが、その大規模林道と黒滝峠を繋ぐピストン復路で日没となり、一晩山中を彷徨うことになってしまった。
大規模林道から水ノ峠までは結構踏まれた道であったが、水ノ峠からツボイ、寄合の集落へ下る旧水ノ峠道は激しい藪を下ることになる。ここは歩かないことをお勧めする。旧水ノ峠道を下りた先から土居川の谷筋にある池川の集落までは旧土佐街道に関する資料が見つからず車道を下ることになった。
池川からは見ノ越で再び山入りし鈴ヶ峠を経て仁淀川本流の谷筋、越知町横畠の堂ノ岡まで下ることになるが、この間鈴ヶ峠までは標識はあまり整備されていないが、踏まれた道が続き道に迷うことはなかった。鈴ヶ峠から堂ノ岡までは先回と今回のメモの通り、標識も整備され道に迷うこともなく歩き終えた。
予土往還 土佐街道・松山街道の難関部である山越え箇所を歩き終え、次は高知までの平地部の土佐街道・松山街道を繋ぐか、久万高原町の越ノ峠から松山を繋ぐか、平地部はパスしどこか別のトピックを見付けそこを歩くか、ちょっと思案中。




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