木曜日, 6月 09, 2022

阿波・讃岐の遍路道;白鳥道;長野の集落で切幡道と別れ與田寺を経て白鳥神社まで

札所第八十八番、結願の寺・大窪寺から札所第一番霊山寺に向かう遍路道の内、先回は第十番札所切幡寺を経由する通称切幡道をメモした。
今回は『四国遍礼名所図会(寛政十二年;1800)』に、「谷川 [数多あり]、五名村、此所ニて一宿。廿六日 [雨天出立]長野村[此所より右切幡寺、左白鳥道]、山坂、仁井の山村 [此所左ハ本道 大水時ハ右へ行、川側行べし]、谷川、新川村[此所より白鳥へ十六丁]馬場、白鳥町、本社白鳥大神宮末社、社家、 塩屋川、引田町、此所二て一宿。閏四月廿七日[日和吉出立]。引田町[浜辺をとふる]、通念島 [壱里斗沖に二ツ並ぶしまをいふ也]、川[小川也わたる]、馬宿村[浜辺とふる]、坂本村[是より坂に懸る]、逢坂、不動尊 [坂中に有、滝あり]。讃岐・阿波国境[坂の峠にあり]阿波板野郡、大師堂 [坂の峠にあり]。峠より徳島城・麻植郡南方一円に見ゆる。大坂村[番所有り切手改む]、大寺村、此所ニ荷物置霊山寺?行、是迄戻ル」と記される遍路道、通称白鳥道・大坂越え辿り第三番札所金泉寺に下り霊山寺を目指すを遍路道のうち、白鳥陣神社までの白鳥道をメモする。

ルート概要は距離おおよそ20キロ弱。長野の集落で切幡道と分かれると直ぐ八丁坂。上り下りで八丁(1丁は約109m)の緩やかな丘陵越え。その直ぐ先に中尾峠越え。舗装さえた道を逸れ旧中尾峠を越える遍路道に入る。峠越えは直線距離で700m程、比高差も80mほどだろうか。緩やかな上りで中尾峠に、が、下りで道が消える。いくつも山腹を走る林道開発で遍路道は分断され藪と消えていた。
土佐街道歩きの途次、藪に阻まれ下山途中に日没となり一晩を山中で過ごしたのが丁度去年の今頃。下山口まで距離はわずかではあるが藪漕ぎは勘弁と撤退。旧中尾峠に逸れる舗装道まで戻る。 地図を見ると中尾峠を迂回する舗装道は等高線に抗うことなく、大きく北に進み蛇行しながら旧遍路道下山口まで延びている。こんな長い距離を迂回するのはかなわんと思いながら舗装道の中尾峠に着くと、そこには舗装道を逸れ迂回道路をショートカットする「四国のみち」の指導標と遍路タグがあった。現在の遍路道道は分断され藪となっている旧中尾峠を越えることなくはこの「四国のみち」をすすむようだ。
「四国のみち」を600mほど下ると迂回してきた舗装道に出る。そこからは舗装された道を湊川水系の入野(にゅうの)山地区の谷筋に沿って3キロ強歩き、寛四地区の遍路道分岐点に。茂兵衛道標の立つ遍路道分岐点で遍路道は、湊川筋を北東に向かい直接白鳥神社を目指すルートと、北に進み星越峠を越え、古社水主神社、四国88霊場奥の院與田寺を経て白鳥神社に向かうルートに分かれる。 上述『四国遍礼名所図会』に記す遍路道は湊川筋を下るルートのように思う。

距離は湊川を下るルートが9キロ強、與田寺経由が11キロほど。湊川を下るルートには遍路標石などもないようであり、距離は長いが古社水主神社、四国88霊場奥の院與田寺経由の道を辿ることにした。 途中にある星越峠も現在は道路が通る切通しとなっており、ひたすら舗装された道を歩き白鳥神社を目指すことになる。
途中水主神社の手前、大内ダム傍で思いがけなく香川用水の導水管に出合った。吉野川の水を阿讃国境の嶺を穿った8キロのトンネルで香川県三豊市にある東西分水工に通し、そこから13キロほどの西部幹線、70キロはどの東部幹線に水を分ける。大内ダム傍で出合った香川用水導水管は東部幹線の最終点近く。なんだか惹かれる。西部幹線はトレースし終えている。近々東部幹線を歩いてみようと思い始めた。ともあれメモを始める。



本日のルート;切幡道・白鳥道分岐点の標石と丁石>日開谷川に架かる木橋を渡る>標石と百万遍供養塔;八丁坂取り付き口>獣防止フェンス>「四国のみち」指導標>八丁坂の峠>大師堂・遍路墓>標石>県道2号に出る>境目の大銀杏>標石・旧遍路道分岐点>中尾峠>「四国の道」指導標>舗装道に合流>(●旧遍路道>旧中尾峠>立入禁止」の貼られた箇所に下る>下り口から道を繋ぐ)>遍路墓と標石>自然石標石と110丁石>石仏と標石>>白鳥温泉手前に標石と丁石・遍路墓>黒川温泉・白鳥温泉>寛四の茂兵衛道標>国道377号交差点に茂兵衛道標>三宝寺>首切り地蔵>香川用水>「四国のみち」標識>水主神社>誉水橋>お堂と石仏・円光寺>「四国のみち」指導票を左折し八坂神社に>高松自動車道を越え「四国のみち」指導標を右折し県道を離れる>與田寺>原間池を経由し国道377号に>白鳥神社

切幡道・白鳥道分岐点の標石と丁石
標石を直進。右は切畑道

長野の集落の三差路に丁石と標石。「三十八 与之大窪 明和四丁亥」と刻まれる38丁石。その右に大きな標石。「右 きりはたミち 三里半 / 左 白鳥道 三里半 明治六癸酉」と刻まれる。
ここが切幡寺経由と白鳥神社・大坂越え経由の遍路道の分岐点。切幡道へはここから日開谷川本流の谷筋を南下する。白鳥道はこの分岐点より西に進み八丁坂に取り付くことになる。


日開谷川に架かる木橋を渡る
直ぐ木橋を渡る
日開谷川手前の「四国の三みち」を左
少し東に進むと日開谷川にあたる。「四国のみち」の指導標に従い左に折れ、直ぐ日開谷川に架かる木橋を渡る。
日開谷川
Wikipediaには「日開谷川(ひがいだにがわ)は、香川県東かがわ市と徳島県阿波市を流れる吉野川水系の河川である。
香川県東かがわ市の南西部の女体山に源を発し、讃岐山脈を横断して徳島県阿波市市場町を南流、同市阿波町南東端で吉野川に合流する。途中、香川県道・徳島県道2号津田川島線と並行に流れていく」とある。

八丁坂と中尾峠(緑が中尾峠旧遍路道)

標石と百万遍供養塔;八丁坂取り付き口
道なりに山裾に
八丁坂の取りつき口の石像物
その先、道なりに山裾まで進み、「四国のみち」の指導標に従い山裾を右に折れ先に進むと大きな石碑と2基の石造物。石碑には「光明真言百万遍供養塔」。2基の石造物のひとつ、ふたつ折れたものは標石。「右 遍路 左 白鳥 明和」といった文字がかすかに読める。その右横の石造物には不動明王像が刻まれる。ここが八丁坂の取りつき口。上り下りで八丁(109m/丁)のようであり、距離はそれほどない。

獣防止フェンス
獣防止フェンス
よく踏み込まれた道
取り付き口から直ぐ獣防止フェンス。しっかり閉じられている。どうしたものかと迂回道を探していると、犬の散歩の地元の方が、わかりにくいが上部の留め具を外せばいいと教えてくれた。フェンスを開け、またしっかり閉めて道を進む。よく踏まれており道に迷うことはない。

「四国のみち」指導標
快適な道

高度を30mほど上げると「四国のみち」の指導標。「白鳥温泉4.8km 三宝寺7.7km /大窪寺5.8km」と記される。白鳥温泉は八丁坂、次の中尾峠を越えた先、湊川水系の谷筋の遍路道途中にある。三宝寺はイントロで記した寛四地区の遍路道分岐点傍にあるお寺さま。指導標から40mほど高度を上げると八丁坂の峠に出る。

八丁坂の峠に標石
八丁坂の峠
八丁坂の峠の標石
平坦な地には標石、「四国のみち」が立つ。標石には「是与白鳥三里 是与大く不四十二丁」と刻まれる。「四国のみち」には「白鳥温泉4.6km 三宝寺7.5km /大窪寺6.0km」と記され、遍路タグも貼られていた。
取り付き口から峠まで13分程度、高度を80m上げたことになる。




大師堂・遍路墓
大師堂
遍路墓
峠から道を下る。よく踏まれた道。道は香川と徳島の県境を下る。「四国のみち」の指導標を見遣りながら8分ほど下ると道の左手に小祠。大師堂という。
その先直ぐ遍路墓。側面には「弘化二年九月 豊前國宇佐宮神人/古谷直衛建立」などとあるが、正面には「前楽人旧谷筑前太神**浄林居士」といった文字が刻まれていた。前楽人って雅楽の奏者?古谷は苗字のようだ。近隣の方がボランティアで埋もれていた墓石を整備されたよう。



標石
遍路墓から数分、自然石の標石が立つ。大きな手印と共に「右へんろ道 白鳥へ三里 三番へ七里 境目マデ一丁」と刻まれる。「 三番へ七里」とは札所三番金泉寺。白鳥神社を参拝し大阪越え経由で札所三番を案内する。境目は八丁坂を越えた先の地名。
既に記した切幡寺道の途次、民家フェンスを迂回し国道に出たところに「3番札所金泉寺38km」の遍路タグがガードレールに貼られていたが、切幡道ではなく白鳥道を経て金泉寺から一番札所霊山寺に向かうお遍路さんも多かったのだろう。




県道2号に出る
県道2号との合流点
茂兵衛道標と標石
標石から5分ほどで県道2号に出る。県道合流点手前には「四国のみち」の指導標や「八丁坂」と記された木の柱が立つ。
県道に出ると八丁坂の左手に2基の標石。ひとつは茂兵衛道標。「為二百七十九度目巡拝記念 周防国大島郡椋野村 願主中努茂兵衛 / 八十八番與田寺 弘法大師御再来遺跡/大窪寺へ一里餘 大正十年六月」などの文字が刻まれる。茂兵衛は四国遍路を280度めぐっており、この道標は最晩年のものである。
もうひとつの標石には「是与東白鳥 是与北長尾 明治六巳丑三月廿一日」と刻まれる。なんだか印象的な字。長尾は香川県さぬき市。北へと大坂峠、日下峠を越えて向かうのだろうか。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均とし、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
で、件(くだん)の茂兵衛道標であるが、中務茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標のひとつ。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。

境目の大銀杏
八丁坂の下り道から県道に下りた辺りの地名は境目。香川県東かがわ市五名(旧香川県大川郡白鳥町)と徳島県阿波市市場町大影境目(旧徳島県阿波郡市場町)が接する。
道の反対側に大きな銀杏の木が見える。境目の銀杏と称される。そこは徳島県阿波市市場町となる。 案内に拠ると、「いちょうさん この大銀杏のほか、四国のみち沿いでは払川と大窪寺の境内にも、大きな銀杏の木があって、ともにいちょうさんと呼んでいます。いちょうさんはこの他にも各地にあります。
また気根が空中に下がっているのが乳に似ていることから、ちちいちょうとも呼ばれます。昔、子にのませる乳が足りない人がこの銀杏の木に一合の米を供えて、乳がよく出るように祈願したものだそうです。
また、大阪夏の陣を戦った生駒讃岐守の弟、甚助正信は、徳川方の豊臣の残党狩りをのがれてこの地に隠れ住んだが、発見されて、この大銀杏の下で切腹して果てたといわれます」とあった。昭和35年(1960)、徳島県の天然記念物に指定されている。

標石・旧遍路道分岐点
道の右手に標石
旧遍路道は右に逸れる
大銀杏の直ぐ先で県道2号を左に折れ中尾峠への道に入る。しばらく道を進むと右手に入る道の角に標石が立つ。手印と共に「左へんろ 道志ろとり」と刻まれる。
その直ぐ先、道の右手の法面を上る道がある。そこが旧中尾峠を越える遍路道となっている。
旧遍路道
旧遍路道は法面上を上り旧中尾峠までは踏まれた道が残るが、峠から先は林道で分断され道は消える。その先は藪。当日は林道で一度撤退し下山口から再アプローチしたが、とてもお勧めできるルートではない。旧遍路道を繋ぐメモは後述することにして、ここでは舗装された道を進むルートをメモする。

中尾峠より「四国のみち」を下る
中尾峠より「四国のみち」を下る
「四国のみち」は現在、遍路道を兼ねる
旧峠道分岐点から中尾峠へと進む。地図を見ると舗装道は北に突き出た尾根筋を迂回するため大廻りしている。結構距離がありそう。途中「四国のみち」の案内もあるし、こんな大廻りの道をお遍路さんは歩いているのだろうか、などと考えながら進むと新中尾峠(私注;旧遍路道の中尾峠を便宜上。旧中尾峠、ここを新中尾峠と呼ぶ)に到着する。
峠には「四国のみち(四国自然歩道)阿讃山麓の遍路道コース案内板」が立ち、その案内板の地図を見ると、コースは北に大廻りする舗装道をショートカットしている。また「四国のみち」のの脇、舗装道を逸れて右に入る土径に遍路タグがあった。現在の遍路道は「四国のみち」コースを歩くようだ。

両サイドに「立入禁止」の警告のある林道と交差
休憩所を先に進卯と
道の両サイドに「立入禁止」サイン
休憩ベンチや「四国のみち」の指導標が立つ道を5分ほど歩くと、道の両サイドにロープが張られ、「立入禁止」の警告のある林道と交差する。「四国のみち」と交差するこの「立入禁止」の林道が旧中尾峠から下りて最初に出合う林道だが、その顛末は後述する。

「四国の道」指導標
「四国のみち」は等高線に抗うことなく緩やかに南に下る。数分で「四国のみち」の指導標。その先、南西に切り込んだ谷筋を迂回した先にも「四国のみち」の指導標。そこから谷筋に沿って北東へと道はゆっくり下る。

舗装道に合流
道を下り池の尻にでると
中尾峠より北を大廻りしてきた舗装道に出る
谷筋を迂回した道を5分ほど歩くと「四国のみち」指導標。その先数分で池に架かる木橋を渡る。木橋を渡ると北に大廻してきた舗装道に合流する。中尾峠から20分弱で下りてきた。



旧遍路道●
このルートあまりお勧めできないが、本来の遍路道のようであり一応メモしておく。 
 〇舗装道を逸れ法面部上の道を上る
前述標石の先にある法面部より旧遍路道に入る。よく踏まれた谷戸っぽい風情の道を進む。



旧中尾峠
良く踏まれた道を進むと
中尾峠に
その先よく踏まれた道を10分ほどで中尾峠に着く。鞍部があるだけで特段の標識もない。






旧中尾峠より下ると直ぐ道は消える
峠を下ると直ぐ道が消える
その先、林道で道は分断される
そこから下りはじめると直ぐに道は消え、その先にブルドーザーで開かれた林道に出る。踏み跡らしき箇所はないかと探すが藪が茂るのみ。



「立入禁止」の貼られた箇所に下る
ここで撤退したが、クロスする道は
「四国のみち」だった
林道先は藪。踏み跡はみつからない
林道を少し下ると道とクロス。道とクロスする林道の両サイドにロープが張られ、「立入り禁止」との警告が貼られる。その時は、林道とクロスする道が「四国のみち」と知る由もなく、右往左往し踏み跡を探すがそれらしき箇所もなく、藪漕ぎは勘弁願い、下り口から道を繋いでみようと撤退を決め旧遍路道分岐点まで戻り、上述「四国のみち」を舗装道まで繋いだ。

下り口から道を繋ぐ
踏み跡を見つけ先に進むが
直ぐ道は荒れ
「四国のみち」を歩き、池の南に出た。資料には旧遍路道は池の北に下りたという。ついでのことでもあるので、撤退箇所まで道を繋いでみようと踏まれた道筋を探して右往左往。なんとなくそれらしき掘割の道を見つけ登り始める。が。直ぐに掘割道は倒木に覆われ、四苦八苦で先に進む。その先、少し落ち着いた先で林道に出た。
林道で荒れた道も分断。更に上るが
その先は藪。GPSを頼りに
「立入禁止」箇所に這い上がる
ここでまた道が途切れる。GPSでチェックするに、「四国のみち」はまだ少し上。林道から這い上がりもう一つ林道を越え上で「四国のみち」の「立入禁止」箇所に出た。
結局旧遍路道は法面分岐地点から旧中尾峠を越えて少し下がったところ、また池側から掘割道を上り最初の林道に交差する辺りまではトレースできたたりが、その間は踏まれた道はわからなかった。と言うことで、中尾峠越えは旧遍路道ではなく、「四国のみち」を歩くのがよさそうだ。

遍路墓と標石
遍路墓
標石
湊川水系の谷筋をしばらく進むと左手に遍路墓。「秋月道光信士 文化元年子八月十四日 大坂北浜壱町目 市兵衛」と刻まれる。その直ぐ先、道の右手「四国のみち」の木の円柱の傍に自然石の標石。大きな手印と共に「大く不」らしき文字が読める。

自然石標石と110丁石
自然石標石
110丁石
少し進んだ山側に標石と丁石が並ぶ。三角の形をした自然石の標石には手印と共に、「白鳥宮へ百十丁 大く不じへ九十丁」と刻まれる。その横の舟形地蔵丁石には「百十丁 文化」と刻まれる。
中尾峠までの舟形地蔵丁石は大窪寺へのものであったが、ここからは白鳥神社への丁数に変わる。




石仏と標石
不動明王
標石
その直ぐ先、道がS字にカーブするところ、山側に石仏が祀られる。姿は不動明王。下部に不動明王と文字が刻まれていた。
S字カーブを出た辺り、左手山側に標石があった。手印と「大く不」の文字が刻まれていた。

白鳥温泉手前に標石と丁石・遍路墓
2基の標石
遍路墓
しばらく道を進み黒川地区に入る。道の左手、山側に標石と丁石が並ぶ。自然石の標石には手印と共に「白鳥 百五丁 天保十一子八月十七日:、舟形地蔵丁石には「白鳥へ百五 寛政十一未天」と刻まれる。
その直ぐ先、道の右手谷側に2基の石造物。そのうち一基は遍路墓。「法師清心 安永三年八月二十四日 野州河内郡横山村住人」の銘がある。

黒川温泉・白鳥温泉
白鳥温泉橋手前の石仏
白鳥温泉
道の左手に黒川温泉と書かれた旅館、川を隔てた対岸に町営白鳥温泉。遍路道は橋を渡って白鳥温泉の裏側を進むようだ。橋を渡る手前にいくつもの石仏が並ぶ。白鳥温泉建設の際にでもここに集められたのだろか。
ここでちょっと疑問。ここを徒渉しなければならなかった何らかの理由があったのだろうが、川は結構深い。温泉施設裏手をぐるりと廻りその先で橋を渡り元の道に戻る。大変な想いをして徒渉外し直ぐまた渡り返すのは何だか間尺に合わない。今は橋が架かっているので川を渡り元の道に戻るが、往昔の遍路道はもう少し川の南岸を進んだのかもしれない。記録には橋を渡り返す辺りに「白鳥百丁目」といった丁石があるようだが見つけることはできなかった。

寛四の茂兵衛道標と標石;遍路道がふたつに別れる


茂兵衛道標と標石
「大阪兵庫神戸・・・」の文字が刻まれる
湊川水系の川筋、入野山(にゅうのやま)地区をしばらく進み、別の湊川水系の川が合流する手前、寛四のT字路に2基の標石。そのひとつは茂兵衛道標。手印と共に「右 白鳥道 金泉寺 /大阪兵庫神戸阿波むや 毎日午前十一時汽船出航あり 汽船取扱所 明治三十四年十一月」と刻まれる。もう一つの自然石標石には手印と共に「右 白鳥道 九十丁」と刻まれる。
白鳥道の遍路道分岐点
この地は白鳥道の遍路道分岐点。その一つの遍路道は、基の標石が「右白鳥道」と示すように、湊川の谷筋に沿って北東に進み直接白鳥神社に進むもの。イントロに記した『四国遍礼名所図会(寛政十二年;1800)』に、「谷川 [数多あり]、五名村、此所ニて一宿。廿六日 [雨天出立]長野村[此所より右切幡寺、左白鳥道]、山坂、仁井の山村 [此所左ハ本道 大水時ハ右へ行、川側行べし]、谷川、新川村[此所より白鳥へ十六丁]馬場、白鳥町、本社白鳥大神宮末社,,,」とあるルートはこの遍路道だろう。ここにある「仁井の山村」とは入野山村(にゅうのやま)のことではないだろうか。
もうひとつの遍路道は茂兵衛道標に 「大阪兵庫神戸阿波むや・・・」の方向を示す北に進むルート。茂兵衛道標の示す「汽船云々」は三本松港を示すようだが、この遍路道の要点は少々遠回りにはなるが、その途次にある四国88か所総奥の院と称される與田寺を参拝し、その後で白鳥神社に向かう遍路道。

どちらを進もうとちょっと考える。直接白鳥神社を目指すルートは9km。14キロほど歩く與田寺経由道より短いのだけど、途中標石なども何もないようであり、であれば四国88か所総奥の院與田寺に参拝し白鳥神社に向かうことにした。以下はそのルートをメモする。

国道377号交差点に茂兵衛道標
茂兵衛道標
下部に「三本松・・」の
文字が読める
茂兵衛道標の箇所を左折し道を進む。川に突き出た尾根筋突端部の丘陵を切通しで抜けている。昔は丘陵を越えて北の谷筋に出たのだろう。
切通しの道を進み湊川に架かる馬越橋を渡ると国道377号交差点に茂兵衛道標が立つ。八十八番番奥の院 御再来御遺跡與田寺へ十五丁 県社白鳥神社へ一二里 県社大水主神社 三本松ヨリ毎日午後大阪神戸むやへ汽船出ます/ 大正十年六月吉辰建立」といった文字が刻まれる。汽船の便の云々も面白いが、何よりここに與田寺を案内している。
こちらの遍路道を進むお遍路さんも多かったのだろうと一安心。
なおこの茂兵衛道標は二百七十九度目のもの。茂兵衛は翌年大正十一年三月、二百八十回目の途次なくなっているので、この道標はひょっとすれば最後に近い標石かもしれない。

三宝寺
菩提樹
茂兵衛道標の国道を隔てた対面に三宝寺の寺柱が見える。大窪寺を出て以来、三宝寺を案内する標石、「四国のみち」指導標を数多く見てきた。その意図するところは遍路道分岐点ゆえのものだろうが、如何なるお寺さまかちょっとお参り。
浄土真宗のお寺様。鐘楼門を潜り境内に。落ち着いた雰囲気。境内には案内にあった菩提樹の木などが立つ。寺暦などは不詳。
●三宝寺の菩提樹(ボダイジュ)
香川県指定天然記念物 三宝寺の菩提樹(ボダイジュ) 昭和四十二年五月三十日指定 苦行を捨てた釈尊は、インドのブッダガヤー・ネーランジャラー河の岸辺にある大樹の下で瞑想に入り、「さとり」を開いた。「さとり」はサンスクリット語で「ボーディ(bodhi)」と言い、「菩提」と漢訳される。それ以来、その大樹は「菩提樹」と呼ばれるようになった。
日本の「菩提樹」は、インドボダイジュとよく似ている。が、別種のもので、中国産のシナノキ科に属する。 栄西が宋から持ち帰ったのが最初である、と伝えられている。「さとりの樹」として、日本各地の寺院に植えられている。
三宝寺の「菩提樹」は、天保五年(一八三四)に、下野国の住人渡辺太郎平が約一メートルの苗木を当寺境内地に植えた、との記録があり、香川県下では、最大のものとされている。 幹囲 約一.八五メートル 樹高 約七メートル 六月中旬に黄褐色の芳香ある花を咲かす 東かがわ市教育委員会」

首切り地蔵
三宝寺を離れ県道132号を北進し星越峠を越える。往昔の山越え道の名残はなく、山を切通した舗装道路が峠を越える。このあたり旧大川郡白鳥町と大川郡大内町の境。現在は共に東かがわ市となっている。
峠を越えて直ぐ、道の左手に自然石で造られた祠があり、中に二体の地蔵が祀られる。二体とも首が着られ,一体は頭部の代わりに石が置かれている。この故か、首切り地蔵と称される。 今は昔星越峠に不動明王の如く炎をまとった化け物が峠を通る人々を脅かしていた。福永村の郷士・村松貞久が化け物を斬り退けた翌日、峠の地蔵の首が切り落とされていた、と。

香川用水
「四国のみち」は右に逸れる
香川用水導水管
その先直ぐ、道の左に「四国のみち」の指導標。「四国のみち」はここで県道を右手に逸れる。特に遍路タグもないため、そのまま県道を進むと右手に大内ダム。大内ダム公園の道を隔てた東側に導水管が走る。チェックするとそれは香川用水であった。
香川用水
香川用水は、昭和43年(1968年)から昭和56年(1981年)に、香川県を東西に全延長106kmに渡って建設された、農業用水・水道用水・工業用水といった多目的用途の用水路である。 水源は阿讃山脈を越えた徳島の吉野川であり、吉野川総合開発のもと建設された池田ダムから取水し、阿讃山脈を8キロに渡って貫いた導水トンネルによって、香川県三豊市の香川用水記念公園のある地まで導いている。

香川用水の水源を吉野川からの分水でまかなう、といった構想は明治の頃、箸蔵街道の時に知った大久保諶之丞によってその原型は提唱されていたようであるが、徳島県とその他の四国三県(愛媛・高知・香川)の利害が対立し事は容易に進まなかった。
対立の要点は、大雑把に言って、吉野川の分水によりメリットを得る四国3県(高知・香川・愛媛)と、唯でさえ季節による水量の変動が激しい吉野川が、分水によって渇水期の水量が更に減少するといったデメリットが加速する徳島県との鬩ぎあいにある。
「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない」。これは銅山川分水に反対する徳島県議の発言であるが(『銅山川疏水史;合田正良』)、この発言が対立の要点ではあろう。
徳島とその他の四国三県の鬩ぎ合いの経緯は吉野川総合開発のメモをご覧いただくことにして、その各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水、徳島には安定亭な水の供給を図るもの。
高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注ぐ。
そして香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、その阿讃トンネルを抜けたその水路は香川県三豊市の香川用水記念公園にある東西分水工より、幹線水路は東西に分かれ、東部幹線水路は高松を越え東かがわ市まで73キロ、西部幹線は観音寺市豊浜町まで13キロ程度、そのほか東部幹線水路から分かれ三豊市高瀬町まで続く高瀬支線がある、と言う。
香川用水は東西分水口より西部幹線を姥ヶ池まで12キロ、高瀬支線を満濃池まで20キロ弱歩いているのだが、未だ歩いていない東部幹線は東西分水口より東に73キロほど流れ湊川中流域の宮奥池まで続き、その先も支線が馬宿川の先まで延びている。
この水管はここから大内ダム東を進み、星越峠を越えて湊川筋に向かい、そこから湊川に沿って下流に下り宮奥池二「つながっているようだ。なんだか香川用水を全部歩き通したくなってきた。

「四国のみち」標識
「四国のみち」は大内ダム東を抜けここに出る
大内ダム休憩所より与田川の谷筋に下る。道は与田川手前で県道129号に合流し右折東進する。大内ダムからの水路が与田川に注ぐ手前のT字路に「四国のみち」の円柱。首切り地蔵に先で道を逸れた「四国のみち」は大内ダムの東を抜けてこの地に出るのだろう。
大内ダム
大内ダムは与田川水系の様松(ためしまつ)川に建設された多目的ダム。与田川流域の治水、農業用水、水道用水を供する。

水主神社
県道を少し進むと県道右手に社叢があり古き趣を残す社殿が建つ。そこが水主(みずし)神社。社叢東端に鳥居。鳥居の前に水主神社の案内。「水主(みずし)神社 水主神社は江戸時代まで大水主社と呼ばれた古社です。文献史料上の所見は『続日本後紀』承和三(八三六)十一月七日条であり、「讃岐国水主神奉授従五位下」とあります。これは讃岐国で最も早い神階授位でした。その後、累進して正一位となり、大水主大明神と称するようになりました。
また平安時代の法典『延喜式』の「神明帳」に「讃岐国二十四座 大内郡一座小水主神社」と見え、讃岐国大内郡(ほぼ現東かがわ市に相当)で唯一の式内社でした。
室町時代のはじめ (十四世紀ごろ)に「弘法大師の再来」と評される増吽(ぞううん)僧正もこの神社ゆかりの人物です。彼は東寺(京都市) や高野山(和歌山県)、修験道のメッカである熊野三山などで修行し、水主の那智山本宮山・虎丸山を拠点として熊野信仰を広めたとされています。
平成三十年三月三十日 東かがわ市教育委員会」とある。古社であり、山岳信仰の地でもあったよう。 境内に入ると右手に古い石柱。「正一位大水主大社」と刻まれていた。

境内を進み拝殿に参拝。境内にも案内がふたつあり、そのひとつには「水水主神社 弥生時代後期、女王卑弥平の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。
姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石(たていし)は大内 ・白鳥町内に今も残っています。
與田寺へ向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え、「チンチン同(どう)しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか。」と、こどもたちが歌ったほどににぎやかな土地でありました。 昭和六十一年三月 香川県」とあり、当社祭神と雨の少ない香川での水利の関係が示されていた。 もうひとつは寺の由緒といったもの。
うつぼ船 
拝殿前には「うつぼ船」と称する舟形の大岩が置かれ、その案内には「うつぼ船 社伝によると今から二千有余年前水主神社御祭神倭迹々日百襲姫命都皇居 今の奈良県桜井市黒田 幼き頃より神意を伺い、まじない、占い、智能のすぐれた御方と言われ都皇居に於いて塵に交なく人もなき皇居の黒田を出られお船(うつぼ船)に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘 今の東かがわ市引田安堵(あど)の浦に着き水清き所を求めて今の水主の里宮内にお着きになり住われ(ここを大内と言う)土人に弥生米をあたえて米作り又水路を開き雨祈で雨を降せ文化の興隆をなされた御人といわれる」と当社祭神と水利の深い関係が記されていた。
もうひとつの案内には「水主神社(延喜式内社)
御祭神 倭迹日百襲姫命(ヤマトトヒモモソヒメノミコト)(日本書記)
夜麻登々母々曽?売命(ヤマトトヒモモソヒメノミコト))(古事記)
倭迹々日百襲姫命
奈良県黒田慮戸(イホド;現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定める。 御年七才より黒田を出、八才にて水主宮内に着き給う。成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の神と称へられ奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。
水主三山(熊野三社)
山嶽信仰 増吽僧正が遷宮すると伝えられる。
新宮神社(虎丸山) 御祭神 伊邪那美命(国生冥界との深き神)
本宮神社(本宮山) 御祭神 早玉男命(禊祓を司どる神)
那智神社(那智山)御祭神 事解男命(龍神(水)・食物豊穣を司どる神)
水神社 御祭神 水波女命(井戸を司どる神)
水主神社別当寺 大水寺(開基は不詳) 水徳山宝珠院神宮寺、寛文年中に大水寺と改める。
本尊は阿弥陀如来 (円光寺へ)・不動明王、二童子(与田寺へ)・十一面観音(坂手・観音寺へ) 〇江戸末期まで、神仏混合〇明治元年三月、神仏分離令〇明治二年二月二十五日、正式に廃寺となる。 
 ●伝教大師最澄(七六七~八二二)
延歴九年(24才の時) 水主神社・大水寺に参籠する。比叡山延暦寺創建す。(22才の時) 天台宗 ●弘法大師空海(七七四~八三五)
水主神社境内地於て閼伽(あか)井水を掘り水主神社に奉献する。高野山金剛峯寺・善通寺・真言宗 (現在の閼伽谷の井戸)」と記される。
明治の神仏分離令まで熊野権現を信仰する神仏混交の地であり、熊野信仰にゆかりの深い天台宗、また、空海との関りも示されていた。
拝殿左には熊野三山を祀る水主三社(本宮・新宮・那智神社)も建つ。神社の南には虎丸山(標高417m)、西には本宮山(標高346m)、北には那智山(標高271m)が熊野三山を模してあり、山頂には熊野の社が立つ、とのこと。
●「四国のみち」杜のみちコース案内
四国のみち」杜のみちコース案内
水主神社横で「四国のみち」は左折
鳥居の前に「四国のみち 杜のみち」コースの案内が立つ。前述の如く首切り地蔵に先で道を逸れた「四国のみち」は大内ダムの東を抜けて県道129号に合わさり、水主神社の拝殿あたりで県道を逸れていた。県道との分岐点には「四国のみち」の標識が立つ。杜のみちコースは與田寺へと続いていた。



誉水橋
「四国のみち」は橋を渡らず右岸を進む

誉水橋。地図には額川下橋と記されている
水主神社を離れ県道を進むと与田川に架かる誉水橋を渡る。橋の南詰めには「四国のみち」の指導標が立ち、「四国のみち」指導標は橋を渡ることなく与田川右岸を進む道筋を示していた。

お堂と石仏・円光寺
誉水橋を渡り先に進むと道の左手に古寂びたお堂。中に2体の地蔵尊が祀られる。その先しばらく進むと交差点。与田川右岸を進んだ「四国のみち」も川を渡りこの辺りで合流するようだ。
交差点の北西に円光寺の参道口の寺柱が見える。古い資料には寺柱と共に標石があるとするが、見あ たらない。寺柱もお寺さまも新しくなっており、その下りにでも撤何処かに移されたのだろか。

「四国のみち」指導票を左折し八坂神社に
県道129号を左に折れる
八坂神社
この先、與田寺までの遍路道ははっきりしない。仕方なく、先ほど水主神社の「四国のみち」杜の道コースが與田寺まで続いていたことを思い出し、「四国のみち」を辿ることにする。
県道を進むと左手に「四国のみち」指導標。県道を左に逸れる。
道なりに進むと高松自動車道の手前、左手に八坂神社の建つあたりで県道129号に戻る。

高松自動車道を越え「四国のみち」指導標を右折し県道を離れる
県道129号を右に逸れ
丘陵裾の道を進む
高松自動車道の高架を潜り、しばらく北進すると「四国のみち」指導標。県道を右に逸れる。小高い独立丘陵の東端を少し進むと與田寺に到着する。





與田寺
仁王門の前両側に巨大な椋の木。樹齢六百年。水主神社でも登場した弘法大師の再来と称される増吽手植えと伝わる。
椋の巨木の傍に寺の案内。
「與田寺(医王山虚空蔵院) 平年間(729~749)、行基菩薩の開基と伝えられ、平安時代に嵯峨天皇により勅願所となり、鎌倉時代には讃岐七談義所の一つとなりました。室町時代には、「弘法大師の再来」とも評される増吽(ぞううん)僧正の活躍により、讃岐国はもとより中国地方や関東地方にも末寺が広がりました。現在でもその歴史を示すように、国県指定の文化財を所蔵しています。
国重要文化財
絹本著色地蔵曼荼羅図、絹本著色仏涅槃図、木造不動明王立像及び童子像など
県指定有形文化財
石造宝篋印塔、本尊薬師如来、絹本著色稚児大師像、十二天像版木など 東かがわ市教育委員会」とあった。
仁王門前の寺柱には「四国八十八ヶ所奥院 與田寺/三番金泉寺へ五里 大正十四年四月五日」と刻まれる。見た目は結構新しい。クリーニングでもしたのだろうか。
仁王門を潜ると左手に白壁の本坊。そこに「大師堂」とあった。大師堂にお参り。その右手に護摩堂。 境内を進むと鐘楼門。右手には新しい風情の多宝塔。昭和59年(1984)建立とのこと。 正面一段高いところに本堂。本尊の薬師如来は両脇に日光、月光菩薩の薬師三尊、十二神将が並ぶ、という。それゆえか「與田薬師」とも称される。 大師再来の寺、厄除けの寺、また四国88か所奥の院としても知られる。
四国霊場総奥の院
四国霊場総奥の院ってどういう位置づけなのかよくわからない。過日訪れた愛媛の第六十五番札所の三角寺奥の院となっている仙龍寺も四国総奥の院とあった。仙龍寺は真言宗大覚寺派のお寺さま。また、この香川の真言宗善通寺派の與田寺の他、 徳島の真言宗御室派の大瀧寺も四国霊場総奥の院とされる。

與田寺を離れて最後の目的地である白鳥神社に向かう。この先も遍路道ははっきりしないが、東進し原間池北を抜け国道377号に合流。ここで寛四で別れ湊川筋を辿って来たもうひとつの遍路道と合流し、北進し白鳥神社へと向かうようである。

原間池を経由し国道377号に
参道口に「札所与田寺」と読める寺柱
直ぐ左折し与田川を渡る
與田寺を離れて東進。与田川にあたるところ、道の両側に石柱が立ち、その傍に「札所与田寺」と読める寺柱らしきものがある。ここが参道口なのだろうか。
このT字路に「四国のみち」の案内。「原間池」を示す左へ折れ、さらに直ぐ先、与田川に架かる中央橋の西詰めに「四国のみち」の指導標。「原間池」は左折し中央橋を渡るとその方向を示す。 道なりに南東に進み原間池の北側を進み国道377号に合流する。その間、特段の遍路標石などは見当たらなかった。
四国のみち
途次「四国のみち」の指導標もみつけることができなかったため、メモの段階でチェックすると、田園のみちと名付けられた「四国のみち」は、中央橋を渡ると右に折れ少し進んで東進し、原間池の南端を進み梨ノ木神社の近くで国道に合流していた。
中央橋を渡った東詰めには「四国のみち」の指導標がなく成り行きですすんだが、「四国のみち」が遍路道というわけでもないので、よしとする。

白鳥神社
一の鳥居
参道と二の鳥居
国道に出た先も特段の遍路道資料は見当たらない。取り敢えず国道377号を進み何処に寄ることもなく国道11号を右折し白鳥神社参道口に。
参道口の道路を隔てた反対側に大きな鳥居が建つ。この大鳥居を含め5つの鳥居が周辺に建つという。参拝者の便宜を図ったものだろうが、人気のほどが伺える。因みに5つの鳥居はこの一の鳥居のほか、 裏参道、国道318号久詰池北(田の口薬師東照寺近く)、伊佐の新池北、湊川を渡る11号線の一筋海側・湊橋の西に建つ。往昔の讃岐街道は国道11号の南を通っており、一ノ鳥居がここにあっても違和感はない。また、伊佐の新池北、湊川西の鳥居も讃岐街道上にある。
それはともあれ国道から結構なアプローチ。途中高徳線の踏み切りを越え境内に向かうと二の鳥居。境内に入ると一の門。今まで見たこともない形の狛犬が両脇に侍る。次いで鶴門。表には鶴、社殿側にはこれもあまりお目にかかったことのない狛犬が両脇を護る。神鳥の白鶴を両側に安置した「鶴の御門」からは左右に回廊があり、訪れたときは回廊に幾多の風車が飾られ、風に吹かれて廻っていた。何だか、いい。
境内に巨大な灯籠。高松藩主などの寄進による。正面に壮麗な拝殿・社殿が建つ。
白 鳥 神社
白鳥神社は白鳥町「松原」、海辺の松林を背にしており、讃岐十五社の第一番の社となっている。大鳥居をくぐると参道両側に歴代高松藩主寄進の神籠がならび、祭神は日本武尊、両道入姫命、弟橘姫命となっており、『御由緒略記』には、「日本武尊は人皇十二代景行天皇の皇子にあらせられ、勅命に依りて九州・中国を、其の後東國を征定し給ひ還啓の途次、近江國の伊吹山にて病に癘触れさせ給ひ、尾張國を経て伊勢國能褒野(のぼの)に至り病篤く、遂に薨じ給ふ。御年三十、実に景行天皇四十一年なり、天皇其の功を録し武部を定め群臣に命じ其の地に山陵を造り厚く葬り給ふ。群臣入棺し奉りしに、神霊白鶴に化して西方に飛び去り、棺内には只衣冠のみ空しく存す。
其の白鶴は大和國琴弾原に、又飛びて河内國旧市の邑に至り、更に飛びて讃岐國大内郡鶴内の里に止まり給ふ。依りて此の所に神陵を建てさせ給ふ。成務天皇の御宇、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武鼓王に従随せしめ給ひ讃岐の國造に封じ神陵を監せしめ給ふ。
(武鼓王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり。)
日本武尊の御子仲哀天皇の御宇、神籬を建て封戸を寄せらる。今の神社即ち其の御跡なり。爾後一盛一衰ありしも武家は弓矢の神と為し崇敬深かりき。寛文五年(一六六五) 讃岐守高松藩祖松平頼重侯大いに其の規模を拡め、社殿の修築をなし、領地を割き神領に寄し、幕府の朱印地に改めたり。明治五年県社に列せられ現在に及べり。」とある。
源義経も大坂峠を越え屋島の平氏奇襲の折、この「社に戦勝を祈願している。 そして、その時、白 い羽根が舞い下りたとも伝えられる。
三万九千坪の広大な境内、神社の鎮座する東かがわ市松原の地名が示す如く、神社海側は白鳥の松原と呼ばれる。案内には「日本武尊は勅命により東国を征定し給い、還啓の途、癘病に触れ給い、伊勢国能褒野に至り薨じ給うた。
時の天皇その功を録し厚く葬り給うた、その時白鳥と化し西方に飛び、大和国、河内国を経てこの大内郡鶴内の里に止り給うた。
由来、松原は景勝地として白砂青松風光明媚の地にして白鳥海岸となり、渺茫たる播磨灘に臨んでいる。昭和三十一年五月に瀬戸内海国立公園と指定され、四季遊覧の人達が訪れている。」と記す。
なお、白鳥の松原には日本一標高の低い山がある。御山と呼ばれる山の標高は3.6m。山の定義ってなんだ?とあれこれチェックすると日本一低い山は各地にあった。数メートルといったものである、とこれを続けるとあらぬ方向に向かうようでもあり、ここで思考停止とする。 ともあれ、これで白鳥道のメモは終了。次回は大坂越えで三番札所金泉寺を目指す。




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