その時のルートは第70番札所国分寺からスタートし、五色台南麓の「遍路転がし」とも称される急登を上り、一本松休憩所の先で県道180号に出る。その先は県道をクロスし台地上の道を北東に進み、19丁の丁石の立つT字路に。この地は札所白峰寺、根香寺への遍路道分岐点。そこを右(東)に折れ第82番札所根来寺を訪れ、再び遍路道を19丁へと折り返し、10丁分岐点を更に西に進み第71番札所白峰寺を訪れ、そこからは五色台北麓を下る西行の道とも称される白峰寺への参道道石段を辿り青海神社へと向かった(その時のメモ)。車2台で行ったこともあり、一台を青海神社にデポしておいたため、ピストンは19丁の分岐点から根来寺往来だけで済んだ。
今回も道筋はほぼ同じではあるが、何せひとりでの遍路でもあり、ピストンは19丁の分岐点から白峰寺往復、根来寺往復の2回となる。距離も14 キロほどになるだろうか。途次遍路標石などをチェックしながらの歩きであり、結構時間はかかりそう。ということで、今回の遍路道歩きは国分寺から県道180号に出るまでの遍路転がしの急登を一本松休憩所へと上る「一本松ルート」は先回の散歩メモにお任せし(国分季から一本松登山口、登山口から県道180号まで)、「一本松ルート」が一本松休憩所の直ぐ先で県道180号に出るところに車をデポしスタートすることにした。 ルートは県道180号をクロスし遍路道を北東に19丁の遍路道分岐点まで進み、先回とは異なり順打ちで歩くべくそこを左に折れ先に札所81番白峰寺を打ち、ピストンで19丁遍路道分岐点まで戻る。そこから更に東進し第82番札所根香寺を打ち、ピストンで19丁分岐点まで戻り、19丁遍路道分岐点を左に折れ南西に進み車デポ地に戻った。
スタートしたのが午前9時過ぎ、車デポ地に戻った時には午後4時を過ぎていた。標石をチェックしたり、第81番札所白峰寺の奥の院へとちょっと立ち寄ったり、古い遍路道探しに時間が掛かったりしたとは思うのだが、これほど時間がかかるとは思わなかった。ただ、2013年に歩いた時には特段遍路道に興味もなく、ために、知ることもなかった遍路道に立つ標石、丁石は記録に残るものはほぼすべてカバーできたし、昔は見落していた旧遍路道もカバーできたのでよしとする。
今回歩いたのは順打ちの遍路道だが、80番札所国分寺から81番札所白峰寺、82番札所根香寺、83番札所一宮寺を辿る遍路道はいくかバリエーションルートがあったようだ。元々の遍路道は80番国分寺から現在の遍路転がしのある一本松ルートの西、過日の遍路道歩きで11丁石まで辿った五色台南麓の道筋を台地上へと上り道を白峰寺へと上っていたようだ。地形図を見る限りでは急峻なルートのように見える。このルートは明治に入り五色第二に善通寺の陸軍第11師団の演習場がつくられたため道は道は分断されたようだが、11丁石の先にも12,13.14,19,20, 24の丁石が南麓に残り、台地上の現在善通寺にある陸上自衛隊第14旅団演習場に沿った細路にも丁石が残ると言う。途中には陸上自衛隊の演習場もあり、現在このルートが残っているのかどうか不明だが、元々の遍路道はこのルートを81番白峰寺へと上り、82番根香寺、83番一宮寺へと進んでいたようだ(地図に推定ルート記載。演習場は迂回しえいる)。
今回順路として上る遍路転がしのある一本松のルートは北へと切れ込んだ谷筋を進み一本松へと上る。上記のルートよりは楽そうだ。でこのルートは江戸後期の頃開かれたとする記事、また明治の頃陸軍の演習場建設に際し、廃道ちなった本来の遍路道の代りとして開かれたとする記事がある。どちが正しいのか不明だが、遍路道の途次出合った説明には、19丁の遍路道分岐点から現在の県道180号を結び一本松ルートへと繋がる台地上のートは江戸後期の頃、あまりに急峻な上述の国分寺から白峰寺への遍路道を避け、81番白峰寺から82番根香寺を打ち、そこから80番国分寺に下るため開かれたとあった。とすれば一本松ルートは台地上に開かれた道を辿り国分寺へと降りるために江戸の頃開かれたようにも思える。また、その場合このルートは第79番高照院から高屋神社を経由して81番白峰寺、82番根香寺、80番国分寺へと辿る逆打ち遍路道として開かれたようにも妄想する(79番高照寺から高屋口への遍路道はこちらの記事を参照ください)。
ということで、今回辿るルートは、元々は「順打ち」の遍路道として開かれたかどうかは不明だが、途次打ち戻しはあるものの順打ちの遍路道として辿ることにする。県道クロス地点からスタートし19丁の遍路道分岐点で左に折れ81番白峰寺を打ち、第80番札所国分寺から一本松ルートをのぼり、県道180号を交差し打ち戻し19丁の遍路道分岐点で左折・東進し82番根香寺を打つ。その後、根香寺の少し手前にある休憩所地点から台地を鬼無へと下り83番一宮へと下りていくことになる。
今回のルートはいくつものバリエーションルートがあるため、ピストン往復で同じ方に度々出合った。高屋口から81番白峰寺を経て82番根香寺へ向かう香港からのお遍路さん、白峰寺への往復の途次出合い、19丁からは国分寺へと向かう4人連れの外国からの若者などルート取りはさまざま。そういえば、今日は日本人より外国からの歩き遍路さんに出会うほうが多かった。そんな時代になっているということだろうか。ともあれメモを始める。
本日のルート;
■県道クロス部より19丁遍路道分岐点まで■
県道180号の散歩スタート地点>県道を逸れ土径の「四国のみち」へ>「四国のみち」標識>「四国のみち」の標識が続く>「四国のみち」の標識の先で沢を渡る>遍路墓>19丁の遍路道分岐点
■19丁遍路道分岐点から白峰寺■
>>20丁石・21丁石>「四国のみち」の標識>22丁・23丁石>「四国の道」標識・24丁石>陸軍省敷地の石柱>25丁石>26丁石>遍路標石と27丁石>28丁石>29丁・30丁>遍路標石と31丁石>陸軍用地の石柱・32丁石>陸軍用地の石柱・33丁石>閼伽井(あかい)>沢を越え34丁に>35丁石・36丁石>37丁石・38丁石>旧遍路道との合流点>41丁石と標石>42丁石・43丁石>白峰寺奥の院毘沙門窟>44丁石・45丁石>46丁石・摩尼輪塔と下乗石>47丁石・48丁石>根香道案内>本堂前に茂兵衛道標と丁石>第81番札所白峯寺~第82番札所根香寺
本日のルート;
■県道クロス部より19丁遍路道分岐点まで■
県道180号の散歩スタート地点>県道を逸れ土径の「四国のみち」へ>「四国のみち」標識>「四国のみち」の標識が続く>「四国のみち」の標識の先で沢を渡る>遍路墓>19丁の遍路道分岐点
■19丁遍路道分岐点から白峰寺■
>>20丁石・21丁石>「四国のみち」の標識>22丁・23丁石>「四国の道」標識・24丁石>陸軍省敷地の石柱>25丁石>26丁石>遍路標石と27丁石>28丁石>29丁・30丁>遍路標石と31丁石>陸軍用地の石柱・32丁石>陸軍用地の石柱・33丁石>閼伽井(あかい)>沢を越え34丁に>35丁石・36丁石>37丁石・38丁石>旧遍路道との合流点>41丁石と標石>42丁石・43丁石>白峰寺奥の院毘沙門窟>44丁石・45丁石>46丁石・摩尼輪塔と下乗石>47丁石・48丁石>根香道案内>本堂前に茂兵衛道標と丁石>第81番札所白峯寺~第82番札所根香寺
■19丁遍路道分岐点から根香寺■
19丁打ち戻り箇所>18丁石・16丁石>15丁石を越え県道180号に出る>足尾大明神>12丁石を越えた先で県道を右に逸れ土径に入る>9丁石・8丁石>一旦県道180号に出ると、直ぐ県道を右に逸れ土径に>標石・4丁石>3丁目;第83番一宮寺鬼無ルート分岐点>2丁石・1丁石>第82番札所根香寺
19丁打ち戻り箇所>18丁石・16丁石>15丁石を越え県道180号に出る>足尾大明神>12丁石を越えた先で県道を右に逸れ土径に入る>9丁石・8丁石>一旦県道180号に出ると、直ぐ県道を右に逸れ土径に>標石・4丁石>3丁目;第83番一宮寺鬼無ルート分岐点>2丁石・1丁石>第82番札所根香寺
■県道クロス部より19丁遍路道分岐点まで■
県道180号の散歩スタート地点;午前9時19分
一本松ルートと県道合流点 |
合流点直ぐ東に標識が見える |
国分寺ヨリ遍路転がしの急登を上り一本松休憩所の先で遍路道は五色台を走る県道180号に出る。ここが本日のスタート地点。県道合流点には
「四国のみち」の木の標識に「第81番札所白峰寺4.7K」と記された案内があり県道を西へと指す。この標識が指すルートは県道180号を進み白峰寺に行く、また途中県道を左に逸れ、陸上自衛隊の演習場フェンスに沿った細路を進み、先で県道をクロスし陸上自衛隊古田廠舎の東を抜け標石と39丁石のある地点(後述)で「四国のみち」として整備されている遍路道に合流する。
今回辿る19丁の遍路道分岐点経由の遍路道は、県道合流点の少し東。県道の向かい側(北側)に見える「四国のみち」の標識、小さな石燈篭の立つところから県道を逸れて土径に入る。
県道を逸れ土径の「四国のみち」へ:午前9時20分
県道から土径に逸れる箇所に立つ「四国のみち」の標識には「19丁1.5km 白峰寺4.2km 根香寺3.4km]の案内と共に「白峰寺4.7km 車道経由」の案内もある。合流点にあった白峰寺への案内と同じ。お遍路さんかハイキングの方か、ともあれ県道を辿る方も多いのだろうか。
県道より一段低いところより土径がはじまる。スタート地点に「カンカン石の案内」。
●カンカン石
案内には「讃岐の名石として知られるカンカン石(讃岐石)は木槌で叩くと美しい音色を響かせ、江戸の頃から謦石(がいせき;吊るして鳴らす石の楽器)として知られる。明治24年(1891)にドイツの岩石学者ワインシェンクはサヌカイト(讃岐の石)と命名し、世界に紹介した。この岩石は五色台以外に金山(坂出)、二上山(大阪府、奈良県)にも産する。今から1000万年前の激しい火山活動の産物である。
●カンカン石
案内には「讃岐の名石として知られるカンカン石(讃岐石)は木槌で叩くと美しい音色を響かせ、江戸の頃から謦石(がいせき;吊るして鳴らす石の楽器)として知られる。明治24年(1891)にドイツの岩石学者ワインシェンクはサヌカイト(讃岐の石)と命名し、世界に紹介した。この岩石は五色台以外に金山(坂出)、二上山(大阪府、奈良県)にも産する。今から1000万年前の激しい火山活動の産物である。
この石は表面は灰色‐白色ですが、打ちかいてみるとにぶい光沢をもった黒色をしています。今から約1000万年位前、瀬戸内地方は激しい火山活動にみまわれましたが、カンカン石はその時の溶岩なのです。国分台には旧石器遺跡があります。私たちの祖先はこの石を加工しえ石器を作り、利用していました。その石器の精巧さには驚かされます」とある。
「四国のみち」標識;午前9時24分
よく踏まれ整備された土径を4分ほど進むと「四国のみち」の標識。「白峰寺4.0km 根香寺3.2km /一本松(県道)0,2km 国分寺e.8km」と記される
。その先数分で沢を越える(午前9時27分)。青海川源流のひとつだろう。
「ススキと秋の七草」の案内;午前9時30分
「ススキと秋の七草」の案内;午前9時30分
「ススキは昔から私たちの身近にある植物の一つでした子ども達は、ススキの葉で矢を作って飛ばして遊びました。 また、カヤともいって、茎葉は屋根をふく材料にしたり、茎で炭俵やすだれを作ってきました。
このススキという名は、平地や山地の日当たりのよい草地にスクスクと育つ木(草)からきているともいわれています。また、花が開いたのち水平に広がって、いわゆるけものの尾のようになるので尾花 (オバナ) とも呼ばれて、秋の七草の一つにも数えられてきました。
このススキという名は、平地や山地の日当たりのよい草地にスクスクと育つ木(草)からきているともいわれています。また、花が開いたのち水平に広がって、いわゆるけものの尾のようになるので尾花 (オバナ) とも呼ばれて、秋の七草の一つにも数えられてきました。
秋の七草は、山上憶良が 「万葉集」(奈良時代)の中で詠んだものが今に伝えられ、親しまれているものです歌を覚え、山道を歩きながら秋の七草をさがしてみましょう。 しかし、花をつみ取ることはやめましょう。
秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花
萩が花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤 朝貌の花
昭和59年3月香川県」とある。
歌は共に山上憶良の詠んだもの。
「あきののに さきたるはなを およびおり かきかぞうれば ななくさのはな(秋の野に咲いている花を、指折り数えて見ると、七種の花がある。 案内には「萩が花」となっているが、万葉集では「萩の花」となっている。
「はぎのはな をばな くずばな なでしこのはな をみなへし また ふぢばかま あさがほのはな」。意味は詠んでみたとおり。秋の七草をリズミカルに詠う。
「四国のみち」の標識が続く
秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花
萩が花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤 朝貌の花
昭和59年3月香川県」とある。
歌は共に山上憶良の詠んだもの。
「あきののに さきたるはなを およびおり かきかぞうれば ななくさのはな(秋の野に咲いている花を、指折り数えて見ると、七種の花がある。 案内には「萩が花」となっているが、万葉集では「萩の花」となっている。
「はぎのはな をばな くずばな なでしこのはな をみなへし また ふぢばかま あさがほのはな」。意味は詠んでみたとおり。秋の七草をリズミカルに詠う。
「四国のみち」の標識が続く
7分ほど歩くと「四国のみち」の案内(午前9時37分)。その先2分で再び「四国のみち」の案内(午前9時39分)。19丁の遍路道分岐点まで0.7kmと記される。県道から800mほどを20分弱で進んだことになる。道はよく踏まれ整備され、険しいアップダウンもなく快適。
「四国のみち」の標識の先で沢を渡る;午前9時45分
「四国のみち」の標識の先で沢を渡る;午前9時45分
遍路墓;午前9時49分
2分ほど歩くと「四国のみち」の標識(午前9時47分)。「19丁まで0.3km」とある。その直ぐ先に舟形の石仏(午前9時49分)。風雪に晒され表面が摩耗し文字は読めないが遍路墓ではないかと思う。合掌。
遍路墓;午前9時55分
遍路墓;午前9時55分
3分ほど歩くと「四国のみち」の標識(午前9時53分)。「19丁まで0.1km」とある。その直ぐ先に角柱の石造物(午前9時55分)。これも同じく風雪に晒され表面が摩耗し文字は読めないが遍路墓ではないかと思う。合掌。
19丁の遍路道分岐点;午前9時57分
19丁の遍路道分岐点;午前9時57分
お接待にと用意された飲み物の傍に案内と地図。
「遍路道に立つ道標(十九丁の道しるべ)
Signposts along the Henro Circuit
ここは3札所への分かれ道になっています。それぞれの道はどの札所に通じているのでしょうか。道標に示された文字を読みとってみましょう。 3岐路の南にある道標には「十九丁打ちもどり」と記されています。
Signposts along the Henro Circuit
ここは3札所への分かれ道になっています。それぞれの道はどの札所に通じているのでしょうか。道標に示された文字を読みとってみましょう。 3岐路の南にある道標には「十九丁打ちもどり」と記されています。
19丁石 |
上部の欠けた丁石 |
これはどういう意味でしょう。「打つ」とは札所を巡ることをいいます。ここから第80番札所国分寺へ通じる道は、四国遍路が始まったころは無かったようです。江戸時代の後半になって、第80番札所の国分寺から第81番札所の白峯寺へ進む道は、急な登りであるためにこれを避け、第79番札所天皇寺から第811番札所白峯寺へ先に参り、白峯寺から第82番札所の根香寺へ。そして再びこの道を戻って、第80番札所国分寺へ下るコースが作られたと考えられます。「打ちもどり」とは、根香寺を巡った後、ここから国分寺へ引き返しなさいという意味なのです。
1丁は約110mのこと」の案内と共に遍路道に並ぶ道標、丁石の位置が示される。
道標・丁石は東から
1丁は約110mのこと」の案内と共に遍路道に並ぶ道標、丁石の位置が示される。
道標・丁石は東から
角柱丁石 |
茂兵衛道標 「19丁打ち戻り:の文字 |
●「十九丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石
●上部が欠け「丁目」の文字だけが残る舟形地蔵丁石
●地蔵座像の前にある角柱丁石の正面には「右白峰寺へ三十一丁 / 根香寺へ十九丁」、側面に「左国分寺へ**丁」と刻まれる。
●地蔵座像の東には自然石の上に茂兵衛道標。手印と共に「八十番国分寺」「第八十二番十九丁打ち戻り 東京***」「明治二十七年九月」、茂兵衛137度目のもの。ここに「第八十二番十九丁打ち戻り」とあるのは上述案内に記された、「第82番札所の根香寺へ。そして再びこの道を戻って、第80番札所国分寺へ下る」とのことを意味する。
●上部が欠け「丁目」の文字だけが残る舟形地蔵丁石
●地蔵座像の前にある角柱丁石の正面には「右白峰寺へ三十一丁 / 根香寺へ十九丁」、側面に「左国分寺へ**丁」と刻まれる。
●地蔵座像の東には自然石の上に茂兵衛道標。手印と共に「八十番国分寺」「第八十二番十九丁打ち戻り 東京***」「明治二十七年九月」、茂兵衛137度目のもの。ここに「第八十二番十九丁打ち戻り」とあるのは上述案内に記された、「第82番札所の根香寺へ。そして再びこの道を戻って、第80番札所国分寺へ下る」とのことを意味する。
標石。「此方 国分寺道」 |
擬宝珠風標石 |
●手印と共に「此方 国分寺道」
●「左こくぶ道 すぐ道ねごろ」と擬宝珠風の飾りのある標石
●「左こくぶ道 すぐ道ねごろ」と擬宝珠風の飾りのある標石
ところで、案内板にある地図を見ると、国分寺から白峰寺へと上った旧遍路道には多くの道標、丁石が記されている。一方、国分寺から一本松ルートを上り、この19丁の遍路道分岐点に至るルートには一本松ルートの上り口に標石があった以外、標石・丁石は全く見当たらない。これってどう理解すればいいのだろう。このルートは江戸後期に開かれたとあるわけで、それなりに標石・丁石があってもいいようなきがするのだけど。わからない。
お接待に用意された飲み物やお菓子 |
遍路道と標石・丁石 |
それよりなりより、明治に陸軍の演習場となり廃道となった国分寺から白峰寺に上る旧遍路道に数多くの標石・丁石が記載されている。現在そのすべてが残っているのかどうか不明だが、自分で確認した11丁の先、五色台の南麓には12,13.14,19,20, 24の丁石が残っていることはあれこれチェックし確認できた。これは一度歩いてみようかと。とはいうものの、自衛隊の演習場の近くに上るわけであり、演習や実弾訓練の無い日でなければ上ることは危険とも。演習や実弾訓練の無い日をチェックし、一度登ってみたいと思い始めている。
■19丁遍路道分岐点から白峰寺■
午前10時10分、19丁の分岐点を左に折れ第81番札所白峰寺に向かう。2分ほど歩くと宝珠を抱えた舟形地蔵丁石(午前10時12分)。「二十一丁目」」と刻まれる。そこから4分ほど歩くと「二十一丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前10時16分)「。上半分が折れていたものが補修され上下が繋がれていた。手のあたりが摩耗もあり印相などよくわからなかった。
「四国のみち」の標識;午前10時18分
2分程歩くと「四国のみち」の標識と休憩ベンチ、そして「ヒサカキのとんねる」と記された案内板があった。「四国のみち」の標識には「十九丁0,2km 根香寺2.1km 国分寺5.3km / 白峰寺2.5km」と記される。
● ヒサカキのとんねる
ヒサカキのとんねる
五色台の林はほとんどがマツ林です。その林の中にはえている木で最も多いのが、ヒサカキです。所によっては、高木層のマツをみることが できないほど密生し、とんねるを形作っています。花は3月下旬から4月中旬にかけて咲きます。この花には特有の強いにおいがあります。
● ヒサカキのとんねる
ヒサカキのとんねる
五色台の林はほとんどがマツ林です。その林の中にはえている木で最も多いのが、ヒサカキです。所によっては、高木層のマツをみることが できないほど密生し、とんねるを形作っています。花は3月下旬から4月中旬にかけて咲きます。この花には特有の強いにおいがあります。
果実は10月から12月にかけて熟して紫黒色になります。 ツグミ、シロハラなどの野鳥が好んでこの実を食べます。この時期になると、五
色台の山道にこの実をたべて出た紫黒色のふんがめだちます。この木は県内ではシャシャキとよ
ばれ、神事や仏事用に使われていま す。落葉でまき笛ができます。 うまく作って、鳴らしてみましょう。
22丁・23丁石
ばれ、神事や仏事用に使われていま す。落葉でまき笛ができます。 うまく作って、鳴らしてみましょう。
22丁・23丁石
「ヒサカキのとんねる」を3分ほど進むと「二十二丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前10時21分)。右手に錫杖、左手で香炉を支える。その先4分ほど歩くと赤いエプロンをした舟形地蔵丁石(午前10時25分)が佇む。
「四国の道」標識・24丁石
「四国の道」標識・24丁石
3分ほど進むと「白峰寺2.5km」などと記された「四国のみち」の標識(午前10時28分)。更に2分ほど歩くと右手に錫杖(?ちょっとみじかいようだが)、左手に宝珠らしきものをもった舟形地蔵丁石がある(午前10時30分)。「二十四丁目」」と刻まれる。
25丁石:午前10時34分
26丁石;午前10時37分
3分ほど歩くと合掌をした舟形地蔵丁石。「二十六丁目」と刻まれた丁石は上部が欠けていたものを修理し上下を繋ぎ合わせた跡が見える。その先、沢の手前に「谷川の生き物」の案内板がある。
●谷川の生き物
「谷川の生き物。 五色台は、青海川、亀水川などの川が深く山をきざんでいます。遍路道が横切るこの谷川は青海川の上流です。この谷川の水中の石をそっとひっくりかえしてみましょう。サワガニがあわててはい出す時があります。
●谷川の生き物
「谷川の生き物。 五色台は、青海川、亀水川などの川が深く山をきざんでいます。遍路道が横切るこの谷川は青海川の上流です。この谷川の水中の石をそっとひっくりかえしてみましょう。サワガニがあわててはい出す時があります。
またモンキマメゲンゴロウが泳ぎ出します。石の表面にはクロタニガワカゲロウの幼虫がぴったりとひっついてします。よどみの底には木の葉の細片をうまくつづりあわせた巣をもつコカクツツトビケラやマルバネトビケラの幼虫が生育しています。ときにはカスミサンショウウオの姿も見られます。
春から夏にかけて、遍路道沿いの植物の葉の上ではカワトンボ、時にはオジロサナエが翅をやすめています。夏になると、オニヤンマの姿をよくみかけるようになります。これらのトンボの幼虫は、谷川の水中で成長したものです。昭和59年3月 香川県」
陸軍省敷地の石柱;午前10時40分
春から夏にかけて、遍路道沿いの植物の葉の上ではカワトンボ、時にはオジロサナエが翅をやすめています。夏になると、オニヤンマの姿をよくみかけるようになります。これらのトンボの幼虫は、谷川の水中で成長したものです。昭和59年3月 香川県」
陸軍省敷地の石柱;午前10時40分
沢を渡ると「四国のみち」の標識があり、その傍に角柱石がある。刻まれた文字を読むと「陸軍省敷地とある。五色台には明治に陸軍の演習場が建設された。南側は善通寺に師団司令部のあった陸軍11師団の演習場敷地であったことを示す痕跡だろう。第十一師団の初代司令官は乃木希典。日露戦争では乃木将軍率いる第三軍に編入され旅順攻略線、続いて川村景明大将の鴨緑江軍に組み入れられ奉天会戦に参加。その後も、シベリア出兵、上海事変などの戦役に参加。上海事変後は満州に駐屯。太平洋戦争では一部がグアムに派遣され玉砕するも、師団主力は昭和20年(1945)、本土防衛のため四台国に戻り終戦を迎えた。現在台11師団のあったところには陸上自衛隊第14旅団の善通寺駐屯地がある。演習場も陸上自衛隊の演習場・射撃訓練場となっている。
遍路標石と27丁石
遍路標石と27丁石
陸軍省敷地の石柱の直ぐ先、道の右側に遍路標石が立つ。手印と供に「しろみね道」の文字が刻まれる(午前10時41分)。その先遍路道は上り道となる。それほど険しくはない。上り始めるとすぐ、道の左手、少し開けた処に「二十七丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前10時45分)。宝珠を抱いた姿に見える。
28丁石;午前10時51分
28丁石;午前10時51分
「五色台のどんぐり 「どんぐりころころ どんぶりこ おいけにはまってさあたいへん・・・・」。
秋の野山にはたくさんのどんぐりが転がっています。五色台でどんぐりのなる主な木は、落葉樹のアベマキ、クヌギ、コナラ、 常緑樹のウバメガシ、アラカシです。これらの木は、つい最近まで家庭用の燃料(薪) や木炭の原料として利用されてきました。 また、クヌギやコナラはシイタケ作りのほだ木として今でも利用されています。
アベマキ、クヌギ、コナラ、ウバメガシの葉と樹皮には図のような特徴があります。これらの特徴をよく観察しながら、どんぐりに名前をつけましょう。 昭和59年3月 香川県」
29丁・30丁
アベマキ、クヌギ、コナラ、ウバメガシの葉と樹皮には図のような特徴があります。これらの特徴をよく観察しながら、どんぐりに名前をつけましょう。 昭和59年3月 香川県」
29丁・30丁
直ぐ先に「二十九丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前10時55分)。宝珠を両手でもっているようにも見えるがはっきりしない。その先に「四国のみち:の標識(午前10時57分))。「白峰寺1.8km」と書かれる。そこから2分ほどで「三十丁目」」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前10時58分)。これも宝珠を両手でもっているようにも見えるがはっきりしない。
遍路標石と31丁石
遍路標石と31丁石
直ぐ先に「四国のみち」の標識。白峰寺などへの案内と共に「県道0.3km」の案内があり、踏まれた道が南に続く。国土地理院地図にも検討から実線でこの地まで線が結ばれていた。山中の「交差点」ともなっているこの場所に立つ「四国のみち」の標識の直ぐ先、道の右手に手印と共に「しろみね道」と刻まれた遍路標石が立つ(午前11時)。そこから4分ほど歩くと「三十一丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時4分)。錫杖をもっているようだが摩耗が激しくはっきりしない。
陸軍用地の石柱・32丁石
陸軍用地の石柱・32丁石
31丁石の直ぐ先に四角の石柱。「陸軍用地」と刻まれる(午前11時5分)。その先に「四国のみち」の標識(午前11時7分)。「白峰寺1.5km」と記される。そこから2分ほど歩くと舟形地蔵丁石(午前11時9分)。結構摩耗が激しい。
陸軍用地の石柱・33丁石
陸軍用地の石柱・33丁石
閼伽井(あかい);午前11時18分
3分ほど進むと角柱碑と砂像石仏。角柱には「閼伽井」と刻まれる。傍にあった案内板には「閼伽井(あかい)とは神仏に捧げる水の湧く井戸のことです。此の付近は白峰寺の寺領で、此の井戸のことは白峰寺縁起中に記述されています。
水は枯れることなく、遠い昔から此処を通るおへんろさんは、此の霊水でのどをうるおし、手をきよめたことでしょう。 ただ一人山道を歩くおへんろさんにとってたよりになったのが丁石です。此れは岩石に地蔵菩薩と次の札所までの丁数を刻んだ舟型石仏です。 一丁は百九米です。丁石は江戸時代後期に建てられ五色台山上には数多く残っています。
水は枯れることなく、遠い昔から此処を通るおへんろさんは、此の霊水でのどをうるおし、手をきよめたことでしょう。 ただ一人山道を歩くおへんろさんにとってたよりになったのが丁石です。此れは岩石に地蔵菩薩と次の札所までの丁数を刻んだ舟型石仏です。 一丁は百九米です。丁石は江戸時代後期に建てられ五色台山上には数多く残っています。
此等の丁石は当時の人々がおへんろさんの道中の安全を祈願して建てたものです。ところが丁石は五色台山上には分布しないカコウ岩で造られています。おそらく庵治などの石切場から此処へ運んできたのでせう。信仰心が厚かった昔の人たちの苦労が偲ばれます。シロダモでぞうりを作り遍路道にたたずむお地蔵さんにおそなえしましょう 昭和59年3月 香川県」とあり、説明文の最後にはシロダモでの草履の作り方の説明もあった。
「閼伽井」と刻まれた角柱の前には鉄板の板が置かれている。その下に湧出する水をガードしているのだろう。
沢を越え34丁に;午前11時24分
沢を越え34丁に;午前11時24分
35丁石・36丁石
4分ほど進むと「三十五丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時28分)。両手で宝珠を抱いているようにも見えるがはっきりしない。その先、「白峰寺1.1km」などと記された「四国のみち」の標識を過ぎると「三十六丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時32分)。両手で宝珠を抱いているようにも見える。
37丁石・38丁石
3分ほど歩くと「三十七丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時35分)。右手に錫杖を持っているように見える、直ぐ先にも舟形地蔵丁石(午前11時36分)。折れた上部を補修し上下を繋いでいる。この地蔵も右手に錫杖を持つ。
旧遍路道との合流点;午前11時40分
旧遍路道との合流点;午前11時40分
T字路角の3基は東から
●突き合わした手印と共に「八十二番根ごろ寺へ四十二丁/八十一番志ろみね寺へ四十二丁」 、「八十番国ぶん寺へ四十二丁」、「明治三庚午」と刻まれる標石
●これも突き合わした手印と共に「昭和十一年八月 九十六度目 栗田修三」「右八十番」と刻まれる標石
●これも突き合わした手印と共に「昭和十一年八月 九十六度目 栗田修三」「右八十番」と刻まれる標石
T字路東
左「陸軍用地」、右標石 |
●陸上自衛隊古田廠舎のフェンスの前に「陸軍用地」と刻まれた角柱石
●その対面に、比較的新しいこれも角柱標石。「白峰寺へ 一・一粁]と刻まれる。
〇江戸期以前の国分寺からの遍路道
T字路角に立つ標石には「八十番国ぶん寺へ四十二丁」、「右八十番」と刻まれる。なんだこれ?あれこれチェックすると、ここは明治になって廃道となったとされる国分寺から白峰寺に向かう遍路道が白「峰寺<>根香寺」遍路道と合流する箇所のようだ。
●その対面に、比較的新しいこれも角柱標石。「白峰寺へ 一・一粁]と刻まれる。
〇江戸期以前の国分寺からの遍路道
T字路角に立つ標石には「八十番国ぶん寺へ四十二丁」、「右八十番」と刻まれる。なんだこれ?あれこれチェックすると、ここは明治になって廃道となったとされる国分寺から白峰寺に向かう遍路道が白「峰寺<>根香寺」遍路道と合流する箇所のようだ。
手印と共に八十番国分寺方向を指す |
五色台南麓を上り、台地上をこの地まで来ていたわけだが、「八十番国ぶん寺へ四十二丁」の標石の建立年は明治3年であり、第11師団は明治31年(1898)創設であるので廃道とはなっていないのでいいとして、「右八十番」の標石の建立年は昭和十一年。とっくに廃道となっているはすなのだが、まだこの時期にも元々の遍路道はお遍路さんに利用されていたのだろうか?また、この地で国分寺を案内するってどういうこと?白峰寺から根香寺を打ち、ここまで内戻し国分寺へと下っていったということ?よくわからないが。ともあれ元々の国分寺から白峰寺への遍路道の一部でも確認できたのは有難い。ここから逆に五色台南麓の確認できた丁石まで繋げることができるかもしれない。
41丁石と標石
41丁石と標石
旧遍路道から自衛隊古田廠舎のフェンスに沿って少し歩くと道の左手に自然石で造られた台形の祠があり、その前に「四十一丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石がある(午前11時45分)。地蔵菩薩は宝珠を抱く。台形の自然石祠に2基の石仏らしき石造物が祀られる。
そこから少し歩くと道の左手に大きな角柱標石が見える(午前11時51分)。手印と共に「根香寺 八十二番札所是ヨリ四十二丁」「四国霊場参拝遍路道」「八十一番札所 白峰寺 是ヨリ八丁 昭和十四年四月」と刻まれる。広島講中が建立したとも伝わるが、多面を持つ珍しい形をしている。
そこから少し歩くと道の左手に大きな角柱標石が見える(午前11時51分)。手印と共に「根香寺 八十二番札所是ヨリ四十二丁」「四国霊場参拝遍路道」「八十一番札所 白峰寺 是ヨリ八丁 昭和十四年四月」と刻まれる。広島講中が建立したとも伝わるが、多面を持つ珍しい形をしている。
左に倒れた標石 |
その東側に倒れた標石がある。手印と共に「昭和十一年八月 九十六度目 栗田修三」ときざまれているようだ。39丁石のあった旧遍路道合流点にあった栗田修三さんの標石が続く。栗田修三氏の標石は土佐の清瀧寺参道(88度目)、伊予の大宝寺・岩屋寺の間(88度目)など四国で9か所確認されているようだ。
なお、40丁の丁石は白峰寺へのピストン往復で注意して探したのだが見つけることはできなかった(後程見つけた資料の中にも41番は記載されていなかった)
なお、40丁の丁石は白峰寺へのピストン往復で注意して探したのだが見つけることはできなかった(後程見つけた資料の中にも41番は記載されていなかった)
42丁石・43丁石
右、上部欠けた丁石 |
更に数分、道の左手に大きな石燈篭とその傍に上部が欠けた舟形地蔵(午前11時58分)がある。「十三丁目」の文字が残る。
白峰寺奥の院毘沙門窟;午後12時7分
「毘沙門天」と刻まれたおおきな石灯篭と45丁目の丁石から北に石が敷き詰められた参道らしきアプローチがある。その先に白峰寺奥の院毘沙門窟が地図に載る。ちょっと立ち寄り。
少し進むと鳥居がありそこから右に折れ急な石段を手摺に捕まりながら、また虎ロープの助けを受け10分弱下ると大岩壁を背にした洞窟がある。白峰寺奥の院毘沙門窟。四畳半ほどの洞窟中央に毘沙門天が安置される。
少し進むと鳥居がありそこから右に折れ急な石段を手摺に捕まりながら、また虎ロープの助けを受け10分弱下ると大岩壁を背にした洞窟がある。白峰寺奥の院毘沙門窟。四畳半ほどの洞窟中央に毘沙門天が安置される。
44丁石・45丁石
遍路道里に戻り(午後12時13分)、遍路道を東に進むと「四十四丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時16分)。赤いエプロンが掛けられていた。そこから数分、道の右手、フェンスで囲まれた白峰寺歴代住職などのお墓などが並ぶフェンス内に「四十五丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時20分)。左手に宝珠を持つ姿のようだ。
46丁石・摩尼輪塔と下乗石
その直ぐ先に五輪塔、覆屋の中に石造笠塔婆、「下乗」と刻まれた笠を被った大きな角柱などがある(午後12時23分)。傍に二つの案内板。そのひとつ「摩尼輪塔と下乗石」の案内によると、「摩尼輪塔(県指定有形文化財)は、苦しい仏道修行の中でも特に最終の位を表す「摩尼輪」(塔の円盤部分)にちなんでこのように呼ばれています。また、この塔は、下に「下乗」と書いてあり長い遍路道もやっと聖地に近づいたことを教えています。下乗とは、ここからは聖地であるからどんな高貴な者でも乗り物からおりて、自分で歩いて参拝しなさいということです。
この摩尼輪塔は、1321年(元応三年二月十八日、鎌倉時代末期)密教の僧、金剛仏子宗明によって建てられた全国でも珍しい塔です。
一方左手にある下乗石の裏には、1836年(天保七年丙申春三月、江戸時代末)高松藩が古い摩尼輪塔を小屋で覆って保存し新しくこの碑を建てたことが刻まれています」とある。
よく見れば覆屋中にある摩尼輪塔の円盤(摩尼輪)石の下の角柱(塔身)に「下乗」の文字が刻まれる。 また、ほうひとつの「香川県指定建造物 石造笠塔婆」には、「この笠塔婆は白峯参道高松道が白峯寺境内に達した地点に元応三年二月十八日、願主金剛仏子宗明(塔身在銘)によって建立されたもので、角礫質凝灰岩を用いている。
塔は基壇、基礎、塔身、蓋、宝珠と重ねられているが、塔身の正面下部に「下乗」の二字を彫付けているので、下乗石と呼ばれ、又塔身上部に金剛界大日如来の種子バンを刻んだ円盤(摩尼輪)を填込んでいるので摩尼輪塔とも呼ばれている。
摩尼輪とは仏道修行によって悟りを得た究極の位のことで、この塔はこれより白峯の聖地に入る究極地の意から建立されたもので、したがってここより内部は一切の乗物を禁ずるために「下乗」の二字が刻まれたのであろう。この形は全国にも珍しいものである。
もと南、西からの白峯参道にも同様のものが建設されていたが破損亡失していたので、高松藩は各々の地点に再建あるいは添碑を建て、その保存を図った。左側の下乗石はその中の一つで、天保七年三月建立された添碑で、碑の裏側にこの笠塔婆の由来を刻んでいる」とあった。
47丁石・48丁石
よく見れば覆屋中にある摩尼輪塔の円盤(摩尼輪)石の下の角柱(塔身)に「下乗」の文字が刻まれる。 また、ほうひとつの「香川県指定建造物 石造笠塔婆」には、「この笠塔婆は白峯参道高松道が白峯寺境内に達した地点に元応三年二月十八日、願主金剛仏子宗明(塔身在銘)によって建立されたもので、角礫質凝灰岩を用いている。
塔は基壇、基礎、塔身、蓋、宝珠と重ねられているが、塔身の正面下部に「下乗」の二字を彫付けているので、下乗石と呼ばれ、又塔身上部に金剛界大日如来の種子バンを刻んだ円盤(摩尼輪)を填込んでいるので摩尼輪塔とも呼ばれている。
摩尼輪とは仏道修行によって悟りを得た究極の位のことで、この塔はこれより白峯の聖地に入る究極地の意から建立されたもので、したがってここより内部は一切の乗物を禁ずるために「下乗」の二字が刻まれたのであろう。この形は全国にも珍しいものである。
もと南、西からの白峯参道にも同様のものが建設されていたが破損亡失していたので、高松藩は各々の地点に再建あるいは添碑を建て、その保存を図った。左側の下乗石はその中の一つで、天保七年三月建立された添碑で、碑の裏側にこの笠塔婆の由来を刻んでいる」とあった。
47丁石・48丁石
その先に「四十七丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石。右手に錫杖、左手に宝珠をもつような姿に見える(この地蔵丁石は往路見逃し、復路ピストンで出合いたもの。往路での出合い時刻記載出来ず)。その先、補修され上下を繋いだ舟形地蔵丁石(午後12時31分)
根香道案内;午後12時37分
根香道案内;午後12時37分
白峰寺0.1kmのと記す「四国のみち」標識を見遣りながら進むと白峰寺の建屋が見えてくる(午後12時35分)。その先きに「讃岐遍路道 根香寺道」の案内があり、「讚岐遍路道 根香寺道
Sanuki Henrouichi Rotte in Shikoku 88 Temple Pilgrimage
Negorojimichi Route (route between Shiromineji Temple and Negoroji Temple
四国八十八ヶ所を巡る遍路道は、徳島県・高知県・愛媛県・香川県の4県にまたがり弘法大師ゆかりの霊場をつなぐ、全長1,400kmにも及ぶ壮大な巡礼路です。古来より人々の往来や文化交流の舞台となっている遍路道には、数多くの石造物等の文化財や「お接待」の文化が残されています。
根香寺道は、第81番札所白峯寺と第82番札所根香寺をつなぐ遍路道で、高松市と坂出市にまたがる五色台にあり、道沿いには道標 (道しるべ)や丁石(道のりを示した石)などの石造物が多く残されるなど歴史的な面影をとどめています。 道標は、主に白峯寺から根香寺の遍路道と別の札所寺院へ遍路道が分岐する場所に設置されています。丁石も道標と同様に重要な構成要素で、白峯寺から根香寺間の遍路道沿いに約109m間隔で50基設置されていたようで、現在も41基確認できます。
承応2年(1653) の澄禅による『四国遍路日記』には「白峰ヨリ五拾町住ミテ根香寺ニ至ル、貞享4年(1687) の真念による 『四国遍路道指南』には「これより根香寺まで五十町。」とあり、現在の丁数と合致しており、少なくとも江戸時代前期には現在の遍路道が使われていたことがうかがえます。 以上のように、 讃岐遍路道 根香寺道は江戸時代前期の遍路道の様子を良好にとどめ、 今も歩くことで当時の歴史的環境を体感できる文化財として重要です」と記される。
Sanuki Henrouichi Rotte in Shikoku 88 Temple Pilgrimage
Negorojimichi Route (route between Shiromineji Temple and Negoroji Temple
四国八十八ヶ所を巡る遍路道は、徳島県・高知県・愛媛県・香川県の4県にまたがり弘法大師ゆかりの霊場をつなぐ、全長1,400kmにも及ぶ壮大な巡礼路です。古来より人々の往来や文化交流の舞台となっている遍路道には、数多くの石造物等の文化財や「お接待」の文化が残されています。
根香寺道は、第81番札所白峯寺と第82番札所根香寺をつなぐ遍路道で、高松市と坂出市にまたがる五色台にあり、道沿いには道標 (道しるべ)や丁石(道のりを示した石)などの石造物が多く残されるなど歴史的な面影をとどめています。 道標は、主に白峯寺から根香寺の遍路道と別の札所寺院へ遍路道が分岐する場所に設置されています。丁石も道標と同様に重要な構成要素で、白峯寺から根香寺間の遍路道沿いに約109m間隔で50基設置されていたようで、現在も41基確認できます。
承応2年(1653) の澄禅による『四国遍路日記』には「白峰ヨリ五拾町住ミテ根香寺ニ至ル、貞享4年(1687) の真念による 『四国遍路道指南』には「これより根香寺まで五十町。」とあり、現在の丁数と合致しており、少なくとも江戸時代前期には現在の遍路道が使われていたことがうかがえます。 以上のように、 讃岐遍路道 根香寺道は江戸時代前期の遍路道の様子を良好にとどめ、 今も歩くことで当時の歴史的環境を体感できる文化財として重要です」と記される。
小さな韋駄天像;午後12時38分
少し進むと白峰寺の塀の前に誠に小さな韋駄天の像が祀られる。傍の案内には
「章駄天 (イダテン)
●由来
釈釈のために駆け巡って食料を集めていたとされたことが「御馳走」の由来とも云われ、食に不自由をしないという功徳もある。 釈釈 入佛後、捷疾鬼(しょうしつき)が仏舎利を奪って逃げ去った時、これを追って取り戻したという俗伝から、よく走る神、盗難除けの仏様として知られる。
●ご利益
住居の守り神にされる。また盗難・火難除け、身体健全(特に足腰)のご利益あるとされている。さらに、小児の病を除く仏様とも云われる
●ご真言
オン イダテイタ モコテイタ ソワカ」と記されていた。
本堂前に茂兵衛道標と丁石;午後12時40分
「章駄天 (イダテン)
●由来
釈釈のために駆け巡って食料を集めていたとされたことが「御馳走」の由来とも云われ、食に不自由をしないという功徳もある。 釈釈 入佛後、捷疾鬼(しょうしつき)が仏舎利を奪って逃げ去った時、これを追って取り戻したという俗伝から、よく走る神、盗難除けの仏様として知られる。
●ご利益
住居の守り神にされる。また盗難・火難除け、身体健全(特に足腰)のご利益あるとされている。さらに、小児の病を除く仏様とも云われる
●ご真言
オン イダテイタ モコテイタ ソワカ」と記されていた。
本堂前に茂兵衛道標と丁石;午後12時40分
修繕された舟形地蔵 |
本堂前に丁石と道標 |
その先、折れた上部をうまく重ねた舟形地蔵(丁石ではないよう)を見遣り進むと第81番白峰寺本堂前に出る。その前石垣角に3基の石碑。
左から
●上部が欠け「十丁」の文字のみが見える舟形地蔵丁石。五十丁石であろうか。
●「根香寺へ五十丁」と刻まれた角柱標石
●「右本堂:、手印と共に「八十番根香寺 右納経所 明治二十七年十一月」などと刻まれた茂兵衛道標。138度目巡礼時のものである。
●「根香寺へ五十丁」と刻まれた角柱標石
●「右本堂:、手印と共に「八十番根香寺 右納経所 明治二十七年十一月」などと刻まれた茂兵衛道標。138度目巡礼時のものである。
第81番札所白峯寺
白峰寺に到着。県道180号から19丁の打ち戻しまで40分、そこから奥の院に立ち寄り白峰寺まで2時間40分(後述するが復路では1時間10分ほど)、合計でおおよそ3時間20分ほど掛かったことになる。標石や丁石チェックをしながらの散歩でもあり普通より少し時間が掛かっているように思える。普通に歩けばもっと短時間でカバーできるかとも思う。
ここで少し休憩。白峰寺のあれこれは前回のメモお任せし、根香寺へと打ち戻すことにする。
19丁打ち戻り箇所;午後14時5分
ここで少し休憩。白峰寺のあれこれは前回のメモお任せし、根香寺へと打ち戻すことにする。
■第81番白峰寺から第82番根香寺へ打ち戻り■
19丁打ち戻り箇所;午後14時5分
午後1時前に白峰寺を出発、39丁石のある旧遍路道合流点に午後13時19分、それから往路を打ち戻り19丁の打ち戻り遍路道分岐点に14時5分に到着。遍路道を少し逸れる白峰寺奥の院に廻ることもなかったこともあるが白峰寺から19丁の打ち戻り箇所までおおよそ1時間10分ほどで歩けた。普通に歩けばこの位であるけるのだろう。標石・丁石を探しながら道の左右に目を凝らし、またそのポイントをGPS上に打つ作業などに結構時間がかかるということだろう。
ところで、往路では気づいてはいたがあまり気にとめていなかったのだが、19丁に大量のプラスティックのケースが積まれていた。復路でなにげなく近づくと、何段にも積まれたケースの中には大量の飲み物、御菓子や飴などが用意され、「お遍路さん一人一本ご自由にどうぞ」と書かれている。ケース蓋に新聞記事があり、そこは6歳で亡くなった景子ちゃんの供養を込めた「景子ちゃんのお接待」であることがわかった。お茶を一本頂き、毎日、父母の供養のために唱えている般若心経と観音教(大乗妙典観音普門品偈)でご供養させて頂いた。
●景子ちゃんの接待所
●景子ちゃんの接待所
新聞記事によれば、小児がんのため6歳で亡くなった鈴木景子さんのお父さんが23回忌の供養として四国遍路を巡った。途次学校などで「いのちの授業」というテーマで講演を聞いた高松在住の国方さんが、香川に来られた鈴木さんを御接待し、それをきっかけにこの接待所を設けた。多い時には地元ボランティアの方と一緒に90本もの飲み物を補充しているという。お接待所には病と戦う景子さんを描いた「5さいのおよめさん」という絵本も置かれていた。情感に欠ける私も、思わず接待所に向かって合掌しお教を唱えていた。
18丁石・16丁石
18丁石・16丁石
少し休憩をとり、19丁の遍路道分岐点から東に向かう(午後14時10分)。少し上りになっている。数分歩くと「十八丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石がある(午後14時13分)。宝珠を抱いているようにみえる。その先、「根香寺1.7km」と書かれた「四国のみち」の様式を見遣り先に進むと「十六丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石がある。宝珠を抱いているようにもみえるがはっきりしない(午後14時21分)。
15丁石を越え県道180号に出る; 午後14時28分
15丁石を越え県道180号に出る; 午後14時28分
「根香寺1.5km」の「四国のみち」標識をみやり先に進むと「十五丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後14時27分)。宝珠を抱く。その直ぐ先で遍路吉道は一度県道180号に出る(午後14時28分)
足尾大明神;午後14時30分
足尾大明神;午後14時30分
此のあたりの地名は吉水と呼ぶが、その昔、根香寺末の吉水寺という寺があったため。桜の木が多かったので「花の吉水」とも称され、と。寺は兵火などで度々の火災にあい、また、根香寺が焼けた時、吉水寺のの本尊が根香寺と同じ作の本尊であったため根香寺に移されたため小庵となってしま
い、更には明治の台風で被害に遭い遂に廃庵になってしまったとのこと。
足尾大明神は此の吉水寺の鎮守であったようである。また此の吉水寺には木喰行道が彫った仏像が何体か祀られて板とも伝わるが、それも火災で焼けてしまったという。
足尾大明神は此の吉水寺の鎮守であったようである。また此の吉水寺には木喰行道が彫った仏像が何体か祀られて板とも伝わるが、それも火災で焼けてしまったという。
12丁石を越えた先で県道を右に逸れ土径に入る;午後14時40分
上部の欠けた12丁石 |
県道を逸れ土径に入る |
県道を進み、道の左手にある中山休憩所を越え、県道281号が北へと別れるT字路の県道180号南側に立つ電柱横に上部が欠けた舟形地蔵丁石。宝珠を抱いているように見える。
その先、県道180号が北へと折れるあたり、県道の右手に石段があり、その手前に小さな赤色の遍路の姿が描かれた遍路道案内のタグが立つ。遍路道はここから石段を上り土径に入る。
9丁石・8丁石
その先、県道180号が北へと折れるあたり、県道の右手に石段があり、その手前に小さな赤色の遍路の姿が描かれた遍路道案内のタグが立つ。遍路道はここから石段を上り土径に入る。
土径に入り3分ほど歩くと「九丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後14時43分)。宝珠を抱く。県道に沿って進む土径を進むと「根香寺0,8km」などと刻まれた「四国のみち」の標識。mそこから2分ほど歩くと「八丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後14時45分)。このお地蔵さまも宝珠を抱いているように見える。
一旦県道180号に出るが、直ぐ県道を右に逸れ土径に
ここで一旦県道にでるが |
直ぐ先で県道を逸れ再び土径に |
8丁石から3分ほど歩くと県道180号に出る(午後14時48分)。出口の東側には門があり、牧場の入口のよう。その東側には鬼無に下る舗装道がある。
その直ぐ先、草叢に遍路道案内が県道を右に逸れるうように指す(午後14時50分)。案内に従い右に折れ土径を進む。
標石・4丁石
標石・4丁石
土径に入ると直ぐ道の左手に、比較的新しい標石(午後14時50分)。「根香寺本七七.五米」「南大師返照金剛」の文字が刻まれる。その先、「根香寺0,4km」と気さんれた「四国のみち」の標識を見遣り進むと「四丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後14時55分)。右手に錫杖を抱いているようにもみえるがはっきりしない。
3丁目;第83番一宮寺鬼無ルート分岐点;午後14時56分
3丁目;第83番一宮寺鬼無ルート分岐点;午後14時56分
側面に「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」 |
その先で空が開ける。そこには休憩所と遍路小屋(午後14時56分)。休憩所の手前に標石が立ち、正面には梵字、大師像と共に「是ヨリ一宮迄二里半」と刻まれる。また側面には「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」とある。
千尋嶽は崇徳天皇がその風光を賞で,御陵を造るようにと言った場所だと言われる。ここから少し西に435mのピークがあるが、そこが千尋嶽だろうか。
●崇徳帝の御陵
帝の御陵は千尋嶽ではなく白峰寺の白峰御陵にある。その経緯は?チェックすると、江戸時代後期の儒者である中山城山がまとめた『全讃史』の「根香寺」の項に崇徳院とのゆかりを示す記述があった。
「保元中、崇徳帝 数々行幸を為し給ひて、風景の勝を愛し給へり。甞て詔して曰く、朕千秋の後は、必ず此の山に葬れよ(根来寺の景観を愛で、幾度も行幸を繰り返し、亡くなった後はこの寺に葬れ、と言った。)」、と。
が、「長寛二年八月二十六日、崩じ給ひ、従者 霊輿を奉じて 此の山に到れり。乃ち 僧徒 相議して曰く、吾が山は 即ち大悲轉法の所、百王鎮護の場なり。豈に 凶穢の物を入るべきや、と。乃ち 南嶺に出して之を拒む(崇徳院が亡くなった時、遺言故に根香寺に棺を運び入れようとしたのだが、根香寺の僧は、崇徳院を"凶穢"として入山を拒んだ)」、と。 「是を以って、已むを得ずして 神輿を反す。時に、輿中に聲ありて曰く、「何故反す」、と。因って 其の地を謂つて "何故嶺" と曰ふ。遂に 白峯に奉葬せり。 此の寺の衰廃は もと、其れ之れの由る。厥(そ)の後、数々災ありき。亦、"帝の祟(たたり)" と云う」、と。
しかたなく神輿を戻すに、"何故、返すか" との声があった。「根香寺」のあたりの嶺を、"那是か;何故嶺(なぜかれい)" と呼ぶようになった所以、とか。そして、白峯山に埋葬することになったわけだが、東西一里餘、十七檀林もあった大寺であった根香寺がその後衰退したの、崇徳帝の "祟り" によるもの、と言われる、と記されていた。 休憩所の傍には小祠と共に「崇徳天皇 遥拝小祠」と刻まれた石碑があり、上述エピソードと共に、「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」とある崇徳天皇の遥拝所の小祠が荒れ果てたがゆえに、此の地に小祠を立てたといった記事が刻まれていた。
この休憩地のある処、地図には「お遍路さん休憩小屋51号五色台」と記される。地元のかたは「3丁目」と呼ぶ、と。あらこれ探したが3丁目の丁石をみつけることはできなかった。
●第83番札所一宮寺への鬼無ルート分岐点
千尋嶽は崇徳天皇がその風光を賞で,御陵を造るようにと言った場所だと言われる。ここから少し西に435mのピークがあるが、そこが千尋嶽だろうか。
●崇徳帝の御陵
帝の御陵は千尋嶽ではなく白峰寺の白峰御陵にある。その経緯は?チェックすると、江戸時代後期の儒者である中山城山がまとめた『全讃史』の「根香寺」の項に崇徳院とのゆかりを示す記述があった。
「保元中、崇徳帝 数々行幸を為し給ひて、風景の勝を愛し給へり。甞て詔して曰く、朕千秋の後は、必ず此の山に葬れよ(根来寺の景観を愛で、幾度も行幸を繰り返し、亡くなった後はこの寺に葬れ、と言った。)」、と。
が、「長寛二年八月二十六日、崩じ給ひ、従者 霊輿を奉じて 此の山に到れり。乃ち 僧徒 相議して曰く、吾が山は 即ち大悲轉法の所、百王鎮護の場なり。豈に 凶穢の物を入るべきや、と。乃ち 南嶺に出して之を拒む(崇徳院が亡くなった時、遺言故に根香寺に棺を運び入れようとしたのだが、根香寺の僧は、崇徳院を"凶穢"として入山を拒んだ)」、と。 「是を以って、已むを得ずして 神輿を反す。時に、輿中に聲ありて曰く、「何故反す」、と。因って 其の地を謂つて "何故嶺" と曰ふ。遂に 白峯に奉葬せり。 此の寺の衰廃は もと、其れ之れの由る。厥(そ)の後、数々災ありき。亦、"帝の祟(たたり)" と云う」、と。
しかたなく神輿を戻すに、"何故、返すか" との声があった。「根香寺」のあたりの嶺を、"那是か;何故嶺(なぜかれい)" と呼ぶようになった所以、とか。そして、白峯山に埋葬することになったわけだが、東西一里餘、十七檀林もあった大寺であった根香寺がその後衰退したの、崇徳帝の "祟り" によるもの、と言われる、と記されていた。 休憩所の傍には小祠と共に「崇徳天皇 遥拝小祠」と刻まれた石碑があり、上述エピソードと共に、「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」とある崇徳天皇の遥拝所の小祠が荒れ果てたがゆえに、此の地に小祠を立てたといった記事が刻まれていた。
この休憩地のある処、地図には「お遍路さん休憩小屋51号五色台」と記される。地元のかたは「3丁目」と呼ぶ、と。あらこれ探したが3丁目の丁石をみつけることはできなかった。
●第83番札所一宮寺への鬼無ルート分岐点
鬼無口分岐点の標識。ここを先に進む |
国分寺への案内標石 |
この箇所は第83番札所一宮寺へ向かう二つのルート(香西ルート、鬼無ルート)のうち、鬼無ルートの分岐点でもある。第82番根香寺を打ち終えた遍路さんのうち、鬼無ルートを取る方はこの地まで打ち戻り鬼無へと下ることになる。
休憩所や遍路小屋傍にもう一基標石が立つ。手印は右を示し「国分寺六十四丁 瑞岡駅四十七丁」と刻まれる。瑞岡駅とあるからそれほど古いものではないだろう。
それよりなにより、瑞岡駅は国分寺の東2.3キロほど鬼無側にあるわけで、距離からすればこの標石の意味するところは、この分岐から瑞岡駅を経て国分寺への道を案内するということになる。ということは、へんろころがしの急坂経由国分寺の遍路道ではなく、鬼無口経由国分寺までの遍路道を案内しているようにも思える。
思うに、79番札所・天皇社から81番・白峰寺を経て82番・根香寺に進み、80番札所・国分寺へと下った後、82番札所・一宮寺へと向かう逆遍路道の標石か、とも。79番天皇寺から80番国分寺へと順路を進み、81番、82番に向かうへんろころがし・一本松の峠への急登を避けるため、江戸の中頃開かれた逆遍路道の道筋だろう。逆遍路道のルートは根香寺から一本松の峠・へんろころしの急坂を国分寺へと下っていたのだろうと思っていたのだが、いつの頃開かれたか不明だが、この鬼無口から国分寺へと向かう遍路道もあったようだ。
それはともあれ、この標石は鬼無口への手掛かり。このあたりにあるだろうと辺りを彷徨うと、標石の右、というか少し西側に、比較的新しい石柱があり。そこには一宮寺方面と白峰へと向かう根香寺道の分岐案内があった。ここが根香寺道から鬼無口への分岐であろう。なんとか分岐点がみつかった。
2丁石・1丁石
思うに、79番札所・天皇社から81番・白峰寺を経て82番・根香寺に進み、80番札所・国分寺へと下った後、82番札所・一宮寺へと向かう逆遍路道の標石か、とも。79番天皇寺から80番国分寺へと順路を進み、81番、82番に向かうへんろころがし・一本松の峠への急登を避けるため、江戸の中頃開かれた逆遍路道の道筋だろう。逆遍路道のルートは根香寺から一本松の峠・へんろころしの急坂を国分寺へと下っていたのだろうと思っていたのだが、いつの頃開かれたか不明だが、この鬼無口から国分寺へと向かう遍路道もあったようだ。
それはともあれ、この標石は鬼無口への手掛かり。このあたりにあるだろうと辺りを彷徨うと、標石の右、というか少し西側に、比較的新しい石柱があり。そこには一宮寺方面と白峰へと向かう根香寺道の分岐案内があった。ここが根香寺道から鬼無口への分岐であろう。なんとか分岐点がみつかった。
2丁石・1丁石
3丁目休憩所を午後15時出発し根香寺に向かう。休憩所の東、「四国のみち」の標識、根香寺の方向を指す比較的新しい角柱標石の先に木々に覆われた細い道があり、木には「遍路タグ」が吊り下げれれている。根香寺へはこの道に入る。
数分歩くと2丁石(午後15時2分;写真がピンボケ)。更に3分ほどで根香寺の仁王門前駐車場東端に出る(午後15時5分)。「白峰寺4.6km」と記された「四国のみち」の標識の傍に1丁石。これもピンボケ。ともあれ、根香寺に到着。
第82番札所根香寺
仁王門を潜りお寺さまに一礼。根香寺のあれこれは記述メモをご覧いただくこととして、ここでは省略。少し休み今辿った道を19丁の打ち戻り箇所まで戻り(午後16時)、そこから車デポ地である一本松休憩所近くの県道まで戻り(午後16時25分)、本日の散歩を終える。
今回は基本標石・道標チェックを主眼とした散歩ではあったが、白峰寺・根香寺の間で、3,5,6,7,10,11,13,14,17,40,49丁石に出合うことはできなかった。只、記録に残る丁石はほぼカバーした思うため、これらの丁石は無くなったものが多いかと思う。
今回は基本標石・道標チェックを主眼とした散歩ではあったが、白峰寺・根香寺の間で、3,5,6,7,10,11,13,14,17,40,49丁石に出合うことはできなかった。只、記録に残る丁石はほぼカバーした思うため、これらの丁石は無くなったものが多いかと思う。
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