土曜日, 8月 19, 2023

八幡浜街道散歩;八幡浜から佐田岬の三机に①;八幡浜から大峠を越え八幡浜市と西宇和郡伊方町の境まで

八幡浜街道、もっとも往昔は「往還」とのみ称されていたようだが、この往還道を辿る旅も卯之町から笠置峠を越えて八幡浜に、次いで八幡浜から夜昼峠を越えて大洲までのルートは歩き終え、残すは八幡浜から佐田岬の三机へのルートのみとなった。

今回はこの八幡浜から三机までの往還道を辿る。このルートは宇和島藩主参勤交代時のルートのひとつであった。今回この往還道を辿る途次、地元の方に道を尋ねると。「殿様道」と仰っていたことかrらもそのことがよくわかる。
『愛媛県歴史の道調査報告書:八幡浜街道(以下「調査報告書})』に拠ると、宇和島藩主の参勤交代ルートは大別して5つあったようだ。
1.宇和島>(海路)>佐田岬の塩成>(陸路)>三机>(海路)>大坂
2.宇和島>(海路)>佐田岬の塩成>(陸路)>三机>(海路)>兵庫の室津>(陸路)>大坂
3.宇和島>(陸路)>波止浜>(海路)>尾道>(陸路)>大坂
4.宇和島>(海路)>兵庫の室津>大坂
5.宇和島>(陸路)>三机>(海路)>兵庫の室津>(陸路)>大坂
大坂から江戸までは中山道や東海道を進んだとのこと。
これらのルートうち、今回歩く第五のルート、八幡浜・三机を利用した藩主はそれほど多くはいないようだ。記録では五代藩主村候(むらとき)公が参勤・下向48回のうち、8回をこの八幡浜・三机のルートを利用していると、と。
宇和島からの経由地は、城下を出立し、高串村(現宇和島市高串)>卯之町に宿泊>笠置峠越え>八幡浜に宿泊>宮内村(現八幡浜市保内街宮内で休憩>三机浦というもの。宇和島から三机まで二泊三日の旅であったよう。
で、今回の散歩、参院交代では1日で進んだと言うルートではあるが、プラニングし2泊3日の行程とした。単独車行のため途中の大峠越え・伊方峠越え・平岩峠前後の山麓のトラバース道・石神山越えなどでのピストン往復となる。峠にしても石神山にしても高くても標高200m程度ではあるが、多分道迷いなどもあろうし、それよりなりより異常なほどの酷暑を考慮しあまり無理はしないようにした。ルートは「調査報告書」に記されるものを参考にGPSギアにプロットし、それを唯一の頼りとして進むしか術はない。
総括としては2泊3日でピッタリ。大峠越えの上りでは往昔のルートは獣除侵入防止柵のフェンスに阻まれ大きく迂回。これで初日終了。二日目は伊方峠 ・平岩峠前後の山麓のトラバース道 ではルート探しに難儀し、石神山への取り付き口で終了。三日目は石神山越えの下山時の藪漕ぎ、そして、これは予想していなかったのだが、三机直前の往還道探しに難儀しながらも何とか三机の港に到着した。 そんなこんなで八幡浜から三机まで直線距離は25キロから30キロほどだろうと思うのだが、行きつ戻りつのピストン行であり、直線距離の倍ほどではあっただろうが、なんどか計画通りに三机まで到着し、八幡浜街道歩きを無事終えることとした。
散歩のメモは3日間の行程を3回にわけて記す。まずは初日から。



初日のルート;
船繋ぎ石と海老崎地蔵堂>番所跡>第一防空壕跡>名坂峠への道筋に>名坂峠>名坂越えの往還道>喜木川傍の日露戦役記念碑とお堂>喜木の一里塚と標石>宮内の金毘羅道標
大峠越え
大峠上り口の六部供養塔>舗装された農道に出る>一字一石塔>一字一石塔を右に折れ土径に>農道に出る>給水塔が見えてくる>大峠>馬頭観音横より斜面を下り、大峠隧道の北口脇に出る>鼓尾集落へと下る
八幡浜市と西宇和郡伊方町の境に
鼓尾集落の常夜灯・石仏群>大川左岸の地蔵尊



初日;八幡浜から大峠を越え八幡浜市と西宇和郡伊方の境まで

八幡神社をスタート
スタート地点は参勤交代時、藩主の送迎をした八幡浜の八幡神社とする。八幡神社は丘陵南端部に建つ。「調査報告書」には「八幡神社は社伝によると、養老元年(717)に勧請されたといわれ、 「八幡浜」の地名の由来となった神社である。境内一帯は矢野神山といわれ、万葉集二一七八番の短歌「妻ごもる矢野の神山露霜に匂ひそめたり散らまく惜しも」の矢野の神山は当社一帯であるといわれている。
宇和島藩主伊達村候は社殿や祭具に家紋の使用を許し、度々参拝したといわれる。 現社殿は昭和のものだが、当社が所蔵する「八幡大菩薩愚童記」 写本は県指定有形文化財であり、境内の「延宝鳥居」 が市有形文化財となっている。 また、八幡山一帯は市指定の名勝になっている。
八幡山の西麓(市民会館の辺り)は八幡浜浦の庄屋屋敷で、代々浅井氏が庄屋を務めた。その隣には現在、八幡浜市立図書館 がある。図書館には郷土資料室が併設され、八幡浜出身で「飛行機の父」と呼ばれる二宮忠八が晩年過ごした住居の一部を移築復元し、八幡浜に関する歴史・文化的資料を所蔵展示している」とある。
「調査報告書」にはまた。「町を見下ろす位置には、江西山大法寺がある。 大法寺は慶安二年(1649)の創建で臨済宗妙心寺派に属し、矢野郷随一の大寺院として宇和島藩主の尊崇も篤かった」とあり、また「明治初めの八幡浜住民録」の付図によると、現在の市役所辺りは海で、そこから南へ入江が大きく入り込んで内港となっていた。 内港を囲むように南から砂州が伸びており、砂州上は新地と呼ばれ、現在の大黒町商店街付近が海岸線であった。
砂州の先端に戎堂があり、二軒の遍路宿があった。現在の恵比寿町の地名はその名残である」とある。 九州から四国遍路への行き帰りに利用したのだろう」と記す。

船繋ぎ石 と海老崎地蔵堂
八幡神社鳥居前を西に進み浜之街通りで右折し北進。この道筋は近世初頭には海に面した道。途中浜之町郵便局の一筋北の通りを左に折れた次の角に「船繋ぎ石」が残っていた。
北進すると道は山麓に突き当たる。そこに海老崎地蔵堂。元は近世初頭以前に建てられたものだが、現在のものは昭和11年(1936)に再建された。

番所跡
丘陵に沿って進み

アーケードにあたる。この辺りが番所跡


山麓に沿って北西に進むと新町通り商店街のアーケードにあたる。辺りに番所があったとのことだが、現在はその名残は見えない。商店街のアーケードが切れた先、道の道手に多賀神社があった。

第一防空壕跡
山裾の道を進む。地図には往還と思われる道筋を一筋東に入ったところに「第一防空壕」の案内がある。ちょっと立ち寄り。
丘陵崖面に防空壕があった。「八幡浜第一防空壕」のプレートの下、防空壕入口にあった案内には「見学者の皆様へ 四国で最初の本格的な防空壕です。昭和15年5月に起工し、翌年2月に完成しました。米軍機の機銃掃射などでこの防空壕も何度か市民の退避に使われました。この戦争の体験を後のの人に伝えたいと思っています。
防空壕の中を見学されたい方は下記のいずれかで鍵をかりてご見学ください。
平成17年4月 幸会一同
防空壕前の尾崎てんぷら屋  尾崎 幸和
幸町3丁目 此上製あん所   此上 勝宅
幸町2丁目本農機具店 (八幡浜見てみん会) 久保 幸利 宅」と記されていた。

名坂峠への道筋に
入り組んだ国道高架下のトンネルを潜り
山裾の舗装道を名坂峠へ向かう
北進すると、立体交差の入り組んだところに出る。南北に走る県道249号(八幡浜保内線)と愛宕トンネルを抜けてきた国道378号線(伊予市から八幡浜を経由して宇和島を結ぶ)、東西に走る松柏トンネルを抜けてきた国道197号バイパス八幡浜道路が交差している。
次の目的地である名坂峠へは立体交差の高架橋を潜り北の山裾を走る道に入る必要がある。山裾へと抜ける道筋を探し国道379号の直ぐ北側を走る道に入る。舗装された道を八幡浜の町並みを眺めながら進む。

名坂峠
往還入口
旧国道197号線である山裾の舗装道を進むと名坂峠に(標高65m)。峠といっても切通しがあるでもなく、下に国道379号の名坂トンネルが抜ける広い鞍部といったもので、道筋に集落が並ぶ。峠といった雰囲気ではない。
集落の入口辺り、道の右手に乃木希典大将揮毫の戦役記念碑が立つ。往昔の往還道はこの石碑より右に逸れて進むという。往還へ入る。
乃木希典大将揮毫の戦役記念碑
正面に「戦役記念碑 希典書」、側面に「明治四十五年壬子六月」、裏面に「明治二十七八年 同三十七八年為是ニ戦役建立」と刻まれる。明治四十五年(1912)は乃木大将が明治天皇崩御に際し殉死した年、明治二十七八年の戦役は日清戦争、同三十七八年は日露戦争。
それにしても、何故にこの地に乃木大将ゆかりの石碑があるのだろう。それは後程、推測ではあるが、自分なりに納得できる「解法」を得ることになる。

名坂越えの往還道
「歴史の道報告書」によれば、「往還は乃木大将ゆかりの石碑から舗装道を右に逸れ、数百メートルほど舗装道に沿って土径を進み、その先で再び舗装道に出る」、とある。
石碑の東手、石碑の裏手に入り込むように土径がある。道の右側には農業用運搬モノレールが見える。土径に入ると直ぐ道は草に覆われるが、そこを抜けると踏まれた道となって現れ、鉄板で覆われた一枚岩の小さな石橋を渡り、獣侵入防御柵に沿って進む。木立の中といったなんとなく往昔の往還を感じされる箇所を進むが、ほどなく先は行き止まりとなり舗装道(旧国道)に出る。
数百メートルにはほど遠い距離でもあり、成り行きで舗装道から土径に入り舗装道に沿って西に続く道に入るが、すこし進んだ辺りの民家裏でそこの家の方より、先は獣侵入防止策柵で進めないとアドバイスを受ける。仕方なく舗装道に戻る。距離は短かったが何となく往昔の往還の雰囲気は感じられた。

喜木川傍の日露戦役記念碑と地蔵堂

舗装道に出た後は名坂トンネルを抜けてきた国道378号としばらく並走。取り敢えず「調査報告書」の記事に従い保内(保内)町須川で国道に合流するが少し先で国道から右に逸れ県道28号長浜保内線に乗る。
少し先に進むと喜木(きき)川にあたる。橋の東詰めにに日露戦役記念碑。「日露戦役記念碑 陸軍大将従二位勲一等功二級男爵 土屋光春書」とある。須川から喜木のあたりまでは近世以前の往還ルートははっきりしてはいないと「調査報告書」にあるが、ここに日露戦役碑があるということはこの辺りに往還が抜けていたのだろう、か。
県道28号は橋を渡ることなく喜木(きき)川左岸を北の日土方面へと向かうが、往還は喜木川に架かる橋を渡る。橋の西詰めにお堂があった。お堂の名は消え読めないが、小さな境内には六地蔵が並ぶ。地蔵堂なのだろう。
男爵土屋光春
愛知県岡崎の生まれ。日清戦争では大本営参謀、日露戦争では乃木大将の率いる第三軍隷下の第11師団長として旅順攻略戦に参加。戦役後いくつかの師団長を歴任後、男爵、大将となり退役する。第11師団は善通寺にあり乃木大将も師団長を務めた部隊。
ここにも乃木大将ゆかりの、というより、第11師団ゆかりの軍人の揮毫石碑。第11師団の徴兵区域はおおむおね四国四県というから、それゆえの乃木大将であり土屋光春大将のもと第11師団で戦った地元軍人を顕彰し建立したのではないだろうか。名坂峠に乃木将軍の戦役記念碑が建つ所以も推測ではあるが、自分なりに納得できた。
保内
このあたりは矢野保と称される荘園のあったところ。保内とは荘園の中ということだろうか。地域は結構開けている。愛媛で最初の銀行が開かれ、電灯も愛媛で初めて灯ったと言う。

喜木の一里塚と標石
喜木川を渡った往還は最初の角を左折し西進。蛇行して下る喜木川の堤に出合う辺りに石碑と標石。 石碑は比較的新しい。「史跡 一里塚」と刻まれる。
一里塚には黒松が立っていたようだが、昭和46年(1971)マツクイムシ被害で枯れたとのこと。一里塚碑の西側には金毘羅標石「金刀比羅宮五十二里三十二丁」と刻まれる。明治13年(1880)建立と言う。

宮内の金毘羅道標
小祠
金毘羅道標
喜木川右岸に沿って進み、道の右手に小祠を見遣るとほどなく一瞬国道378号にあたるが、直ぐ右折し国道を逸れ北西進、道路を跨ぐ鳥居手前で左折し宮内川の堤に出ると、突き当りの民家角に標石。「右こんひら道 左 みさきへ十三里」と刻まれる。慶応二年(1866)建立の金毘羅道標。かつてはここに要橋があったという。往還は宮内川を渡り川の右岸を進んだのだろう。
宮内三島神社
道路を跨ぐ鳥居の先に
道路を跨いで建つ鳥居は宮内三島神社参道の鳥居。西に進むと社がある。「調査報告書」には、「近くの舟来谷には、宮内三島神社がある。宝亀五年(七七四)に、大山祇神社より分霊を勧請したとされ、保内郷総鎮守として、摂社九社、末社七五社と多くの神領を有した。その後衰微したものか、宝徳元年(一四四九)、河野刑部大輔教通により中島三島神社の神主職、神領を回復する旨の下知状が出されている。
近世に入り歴代領主の尊崇も篤く、慶長二年(一五九七) 板島城主藤堂高虎が当社を再建、寛文六年(一六六六)には宇和島藩二代藩主伊達宗利が参拝し社殿を造営、享保四年(一七一九)には四代伊達村年が神殿造営料として木材及び白銀を寄進、また、七代伊達宗紀は安政三年(一八五六)「船跡森」の扁額を寄進している。七月二八日の夏越祭と一〇月二三日の秋祭りには境内に露店が並び、近郊からの参拝客が多い(『保内町誌』)」とある。
境内にあった案内には
〇県指定有形文化財 工芸品
懸仏一面昭和三十一年十一月三日 指定
懸仏とは円鏡に神仏の半肉の鋳像をつけたり、その形を線刻したりして、掛けて崇拝対象としたものである。
宮内三島神社
三島神社の懸仏は、直径約三十三㎝の円盤に像高約十七㎝の愛染明王座像と台座が取付けられ、青銅製で重さ一・六九㎏、裏面上部の釣穴で掛けつるすようになっている。
裏面の陽刻の銘文から、一一九四(建久五)年鎌倉時代初期の作と知られ、工芸品・歴史資料としても貴重なものといえる。
〇県指定有形文化財 彫刻
神像五躯昭和三十一年十一月三日指定
市指定有形文化財 彫刻
昭和四十六年三月十五日 指定
神像二躯
鎌倉時代後期ごろの作とされる神像七躯のうち、傷みの見られた二躯は、一九九六(平成八)年補修を施したが、いずれも像高約三十一~三十七㎝、桧材一木造り、丸彫りの像で、冠と髪部、眼形などに墨彩をのこしている。
頭に巾子冠(髻を入れる形の冠)を頂き、袍衣(公家の宮廷服)や狩衣(公家の常用略服)をつけている。朝廷で行われた相撲の節会にちなんだ角力人形ともいわれているが、定かではない。 豊かな表情と姿態のたくみな変化は、長年手がけた伝統の下に、時代の写実を生かした力強い表現技法をうかがわせ、県下の大山祇神社系神像の傑作といえる。八幡浜市教育委員会」と記されていた。
船来谷・船跡森
神社由緒に船来谷とか船跡森と「船」に関りのある表現が記される。三島神社の案内には、「勧請当時、このあたりは入海となっており、社地は中島のようであり、その形が船形であったことから船跡森 三島神社と呼ばれるようになったと伝えられています」とあった。

大峠越え

上り

大峠上り口の六部供養塔;午前10時58分
大峠上り口に
石仏と六部供養塔
宮内川左岸を進み、国道378号の高架を潜り南橋で宮内川を渡る。その先最初の角度左折、右折、左折と繰り返し大峠の上り口を探す。「調査報告書」には上り口には青石の六部供養塔があるとのことで、それが目安。地図でそれらしきところを推測し彷徨うと、山道に入る入口にいくつかの石仏ともに比較的大きな石碑が立ち、「奉納大乗妙典六十六部」と刻まれる。そこが大峠への取り付きく。
この六部供養塔は正徳二年(1712)建立。六部供養塔としては比較的古い時代のものと「調査方向書」にあった。
六十六部
六部とも呼ばれ、全国66か所の霊場に法華経を一部納めるため全国を巡礼した。供養塔は満願成就の記念、地域との何らかの縁により建てられたものなどがある。

舗装された農道に出る;午前11時1分
土径を数分上ると
舗装された農道に出る
石碑から土径に入ると道は一面草に覆われる。少しキツイ坂を数分上ると舗装された農道に出る。「調査報告書」に「六部供養塔の場所が大峠への登山口にあたる。はじめは勾配がきつく、何度か道を切り返して登っていく。すぐに舗装された農道に出るが、天保七年(1836)の銘のある一字一石塔のところで右に折れ土道に入る」とある農道がこれだろう。国土地理院地図に実線ルートで描かれている。

一字一石塔;午前11時6分
舗装された農道を5分ほど上ると民家があり、その庭に石碑が立つ。「天宝七年」と刻まれた一字一石塔。上述一字一石塔がこれ。
一字一石塔とは、小石に経文、主に法華経のお教の文字をひとつの石に一字を書写し、追善,供養などのために地中に埋め,その上に年月日,目的などを記した石塔の類を建てることが多い、と言う。写経の一形態のように思える。

一字一石塔を右に折れ土径に;午前11時6分
一字一石塔を右に折れ
民家庭先より土径に入る
「調査報告書」には「一字一石塔の所で右に折れ土道に入る。概ね道幅は広く勾配も緩やかだが。通行者が少なく道が荒れている」とある。民家庭先から上に続く道が見える。右折しその道に入る。

舗装された農道に出る;午前11時10分
舗装された農道に出る
が、その先土径には獣侵入防止策で進めない
数分で再び舗装された農道に出る。「調査報告書」には、「再び舗装された農道に出るが、また土道に入るが、、、」とある。土道を探す。農道に出た所にミカン畑の中を上に向かう作業路らしきものはあるのだが、獣侵入防止柵で道は遮られている。通常は開け閉めできるようになっているところが多いが、ここは厳重に閉められており中に入ることはできない。周囲にアプローチはないものがと彷徨うがどこも獣侵入防止柵がありミカン畑の中の土道にはいることはできない。

往還の風情を残す農道を進む
しかたなく、舗装された農道を大峠に向かって大きく迂回しながら上っていくことにした。
「調査報告書」」のルートによれば、往還道の土道は北進し、当日歩いた大きく迂回し等高線に沿って西進する農道のどこかで合流するようであり、注意しながら歩いたのだが、それらしき箇所はわからなかった。それでも、西進する農道途次に、往還の石畳らしき箇所、如何にも往還といった雰囲気の道筋などがあった。

給水タンクが見えてくる;午後12時12分
右に水利施設
左に給水タンクがみえてくる
宮内の町並みを眺めながらジグザグの堂々を上ってゆく。酷暑の中1時間ほどかけ、ゆっくりと上ってゆくと前方に何かの施設建屋、どうも上水施設のようだ。また、道の左手前方に給水塔が見えてくる。「調査報告書」には「丸いコンクリートの給水タンクが見えてくると、尾根上はアスファルト舗装の農道となっており、その横の広場部分が大峠(おおと)である」とある。大峠まであと一息。

大峠;午後12時16分
舗装された農道が集まる鞍部が大峠
大峠の馬頭観音と石造物
道を進むと保内第19ブロック制御堂(午後12時15分)。水利施設のようである。その直ぐ先平場となっており、そこが大峠のようであった。
平場は五つの舗装農道が交差する五差路となっており、なんとなく峠といった雰囲気ではない。峠に残ると言う馬頭観音、一里塚跡を探す。水利施設北側の木立の中に二基の石像物を見つけ、大峠であることを確認し大休止とする。大きく迂回したこともあり上り口からおおよそ1時間20分ほどかかった。

下り

馬頭観音横より斜面を下り、大峠隧道の北口脇に出る
馬頭観音脇から崖面を下り
大峠隧道出口西側の道に出る
大峠の下には大峠隧道が抜ける。大峠を下るには大峠隧道の北側に出なければならない。峠からの下りは馬頭観音脇より斜面を下り、大峠隧道の北口脇に出る。斜面の傾斜はキツイが距離はあまりない。GPSを頼りに大峠隧道北側出口の少し西を目指して下ればいいかと思う。下り口には舗装されたのう道がある。6分ほどで道に出る。
実際の行動
遠景を端子見ながら隧道へのアプローチへ
が、獣侵入防止柵。柵を乗り越え道に下りる
上には結果を記しているが、下り口のルート探しには結構難儀した。峠は五差路となっており舗装された道が集まるが、どれもこれから下る鼓尾の谷筋に下るようではない。「調査報告書」には「大峠からの下り道は、最初の入口で道が荒れておりはっきりしないため、迂回して大峠隧道の横から下りはじめる」と記されるが、説明がよくわからない。 「迂回して大峠隧道の横から下りはじめる」は??
ともあれ、どうしたところで大峠隧道の北側に出ないことには鼓尾の谷筋に下ることはできないので取り敢えず、大峠隧道を抜けることにした。
これがまた結構大変。大峠の直ぐ傍ではあるのだが大峠隧道に通じる道は見当たらない。水利施設建物あたりまで下り、ミカン畑の中の道を大峠隧道への道へと進む。下に隧道に続く道が見える畑とは結構なギャップがある。が、ここしか隧道への道に下るところはないと、ミカン畑の獣侵入防止柵を乗り越え、崖を下りて隧道への道に入る。
踏まれた感のある下り道
その山側に上に上る踏まれた道があった
その先、大峠隧道を抜け左右に別れる舗装された道を彷徨い、鼓尾の谷へ下るアプローチを探す。と、隧道より西に向かう道、少し先に少し踏まれた感のある土径を見つけた。さ、そこから下ろうとしたのだが、その道の山側にも踏まれた感の道が上に続きている。ひょっとしてこの道が大峠からの下りかと踏まれた感のある道を上ると、最後はルートははっきりしないものの馬頭観音の脇に出た。ということで上述のルートを記したわけである。想うに「調査報告書」の案内は、隧道を抜け、鼓尾への谷筋に下るアプローチ点から先の案内のように思う。
大峠隧道
内部途中で急に狭くなる
トンネルの中にトンネルがあることで知られる。トンネルが内部途中で急に狭くなっているわけだ。昭和27年(1952)開通。が、開通直後長雨で崩落、5年放置され昭和33年(1958)改修工事がはじまったが、新たな国道197号整備の計画が持ち上がったため工事が縮小されることになり、現在の形となっている。地元住民に「ガリバートンネル」の愛称で呼ばれるとのことだが、何故?アニメの「ドラエもん」に登場する、漏斗のように二つの入り口の大きさが極端に違う「ガリバートンネル」に由来するとあった。

鼓尾集落へと下る;午後13時13分
隧道少し西に踏まれた感のある下り道
30分ほどで里に出る
道路から鼓尾の集落へと下り始める。時間は大休止、峠からの下り道探し、隧道を抜け踏み跡を見つけ、大峠を繋ぐルート確認のため崖道を往復するなどしたため、結構時間が立っているが、前述の如く大峠から鼓尾下り道までは6分程度である。
ともあれ、舗装道を逸れ鼓尾へと下る。このルートが正しいのかどうか不明だが取り敢えず下る。道は結構踏まれており歩きやすい。GPSで確認しても鼓尾集落方向へ下っている。途中「調査報告書」に記される、石畳と言われればそれっぽい箇所もあった。しばらく下ると竹林が現れる。里は近い。30分程下ると集落がみえてきた。

鼓尾集落の常夜灯・石仏群;午後13時49分
常夜灯
大日如来と馬頭観音
鼓尾の集落へは30分強で下りてきた。「調査報告書」には鼓尾集会所に常夜灯、その付近の法面に大日如来、馬頭観音、地蔵などが祀られると言う。集会所は国道197号へと下ることなく、山裾の道を大峠トンネル出口上を横断し大川の左岸を進む道の方向にある。
道を進むと、道の右手に鼓尾集会所。その敷地、道より一段低いところに常夜灯があった。また、鼓尾集会所の道を隔てた山側法面に幾多の石造仏。二基の地蔵、大日如来と馬頭観音、台座に座る地蔵、六地蔵などが一箇所に集まって佇んでいた。

大川左岸の地蔵尊;午後15時59分
大川左岸の道は舗装はすぐ切れ草道に
15分ほど歩くと舗装道となり地蔵尊が。
本日は八幡浜市と伊方町境のここで終了。
往還は大峠トンネル出口上を横断し大川左岸を進む。トンネル出口上を横断したところで舗装は切れ、草の茂る道となる。歩くことおおよそ15分。草の茂る道を抜け、大川左岸を進む舗装道に出る。角に地蔵尊が二基祀られる。国道から大川を越えこの地まで道が繋がっていた。
当日の実行動
単独車行のルールとして峠越えなどをしたとき、車の走れるところまで下りると、そこからピストンで車デポ地に戻り車をその地まで寄せることにしている。通常では鼓尾の集落で舗装道を確認しピストンで大峠に戻り車デポ地へと、ということになるのだが、峠越えした先、日陰のない道を酷暑の中歩く気力はなく、鼓尾集落に抜ける大峠トンネルを歩き車デポ地に戻ることにした。
トンネルを人が歩けるかちょっと心配だったが、それは問題無かった。が、一段高くなってはいるものの狭い側道を長さ1064m歩くのはちょっと怖かった。長いトンネル故か、歩行者側道用の照明が30分だけつくボタンがあったのが有難かった。トンネル内は暑さに苦しむこともなく歩き車デポ地に戻った。
上述時間が16時近くになっているのは、そのためである。当日は、車デポ地からトンネルを車で抜け、15時43分くらいに大峠トンネル出口上に車をデポし、歩き始めた。
当日は往還歩きは八幡浜市と西宇和郡伊方町の境辺りのこの地までとし、八幡浜のホテルに戻った。初日はほぼ計画通りに終了。

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