日曜日, 8月 20, 2023

八幡浜街道散歩;八幡浜から三机まで②;八幡浜市と西宇和郡伊方町の境辺りから石神山取り付き口まで

二日目は八幡浜市と西宇和郡伊方町の境辺りからスタートし伊方町の中心を抜けた後、伊方峠を越え、伊方町九町地区の三宝寺から山腹の道を南西に進み、平岩峠を経て石神山取り付き口までをトレースする。
伊方峠は取り付き口がわからず、下り口から逆に繋ごうとしたが伊方峠からの下りルートは大半をカバーするも、結局伊方峠への上り口から峠を越えたあたりまでのルートはトレースできなかった。 また三宝寺から伊方半島を東西に続く山地の宇和海側の山腹をトラバース気味に進むルートは、「調査報告書」記載のルート案内と現状が今一つ一致せず、ほぼ成り行き、後半の平岩峠への道筋はなんとなく往昔の往還道筋らしきところをトレースできた。
当日はその先、石神山の取り付き口を確認しその日を終えた。



2日目のルート;
大川左岸地蔵尊よりスタート>河内三波の常夜灯>大師堂と大草履>川永田の一里塚跡>伊方峠へ>町道から伊方峠手前までを繋ぐ>伊方町九町地区から山腹の三宝寺へ>三宝寺の一里塚跡>九町から上ってきた舗装された町道(?)に出る>町道を西進する>鳥津への分岐点から土径に入る>分岐点を左に折れると廃屋>廃屋の先、荒れた竹藪を抜け国道197号に出る>平岩峠>平岩峠の先で国道を逸れ町道を進む>国道197号を潜り佐市への舗装道に出る>石神山へのアプローチ口へ



大川左岸地蔵尊よりスタート
初日の最終地点、鼓尾集落から少し西に進んだ国道197号に沿って流れる大川左岸の町道(?)に立つ地蔵尊よりスタート。八幡浜市と西宇和郡伊方町の境といった辺りである。舗装された大川左岸をしばらく進むと伊方町河内で国道197号に戻る。

河内三波の常夜灯
往還は少しの間国道197号を進んだ後、国道を右に逸れ旧道に入る。旧道入口に常夜灯が立つ。河内三波の常夜灯。「当浦安全 嘉永七寅四月吉日」の銘が刻まれる。
「愛媛県歴史の道調査報告書(以下「調査報告書」)には「昔、大津波が三回にかけて襲ってきた。一番目の波が来た所を一の波、二番目の波が来た所を二の波、三番目の波が来た所を三の波といい、現在もその地名が残っている。また、海抜二〇〇メートル位の所に船頭ヶ崖という地名があり、何度目かの大津波で小舟が船頭を乗せたまま押し上げられた」 (「ふるさとの歴史と文化財』)。 この場所は海抜二〇メートルほどあり、本当に津波がここまで来たかどうかは科学的な調査が必要だが、伊方浦の住民の、津波への警戒を怠らぬようにという願いから、このような伝承が生まれたのかもしれない」とある。

大師堂と大草履
河内三波の常夜灯から先に進んだ往還はその先で国道197号をクロスし、そのまま国道の南、大川左岸を進み、浦湊地区に入ると直ぐ大川を渡り右岸へ移る。直ぐ先、スーパー手前、道の右手にコンクリート造りの祠があり、中央に大師立像、その左右に四基の石仏が祀られる。
「調査報告書には」、「コンクリート製の祠があり、中には首を修復して継いだ大師像が祀られ、次のような言い伝えがある。
昔、一人の百姓がいた。酒好きの怠け者で勝負事が大変好きだったので、ばくち場へも度々出入りしていた。ある日のこと、いつものようにぼくちに負けてしょんぼり帰ってくると、近所の年寄りが、「心配事があるなら、五本橋のお地蔵さんに頼めや」と言った。男は地蔵に願をかけ「ばくちに勝た せてくれたら赤いよだれかけをあげるし、毎日お参りに来る」と祈った。帰ってすぐ家屋敷を抵当にして借金をし、ばくち場へ出かけたがその晩も負けてしまった。
怒った男は、「このぼろ地蔵め」と蹴飛ばしたため、地蔵は川の中に落ち、首がぽろりと取れてしまった。それからしばらく経ったある日、男が薪とりに山へ出かけ帰ってこないので近所の人が探しに行くと、男は薪を背負ったまま谷底に落ち、首の骨を折って死んでいた。人々はお地蔵さんの祟りだと話し、川に落ちていた地蔵の首を見つけ、胴につないで祠に納めてお祀りした。
それから特に首の病気を治す地蔵として、お参りする人が絶えない。(『ふるさとの歴史と文化財』) ただし、この石像は右手の印の結び方や、台座部分に水瓶と沓の彫刻がなされていることから弘法大師像とみて間違いない。台座は一部剥離し、コンクリートで修復されているが、右側に天保五 甲午歳(一八三四)の銘がある。
また、祠に掛けられた大草履は、西予市宇和町永長の例と同様、村境で悪霊や病疫を防ぐ意味を持つ。」とあった。よく見れは大師像の首の辺りがコンクリートで補修されていた。

川永田の一里塚跡
その先、往還は伊方町の中心部を抜ける。山裾に湊浦八幡。お参りを済ませ小中浦、中浦を過ぎると川永田に一里塚跡を記念する石碑が立っていた。

伊方町
「愛媛県」の資料には「愛媛県の最西端、豊予海峡に突き出した“日本一細長い”佐田岬半島に位置し、南は宇和海、北は瀬戸内海と三方を海に囲まれている。半島の中央部は200~300m級の低い山地が東西に連なっており、平地が少ない。気候は、年間気温16~17℃で、著しい寒暖の差がなく温暖な海洋性気候である。
風光明媚なこの地域は「耕して天に至る」と言われる段々畑で温州みかん、清見タンゴール、デコポンなどの果樹栽培が盛んに行われている。また、天然の好漁場に恵まれ、高級魚の一本釣りや採介藻、底引き網漁業が主に営まれ、山の幸、海の幸を利用した加工品も多く生産され、これら特産品を求めて観光客が県内外から訪れる。
また、この地域特有の風を利用した風車建設を行うなど、自然エネルギーの利用を推進している。 「伊方」という名の起源はいつの時代からかはっきりしていないが『日本地名語源事典』の「イカタ」・「イガタ」の項に『土地がらがさまざまで地形語ではあるまい。「イヘカタ」(家方) か「イホカタ」(庵方)で、もと仮小屋のあった所をいうか、農業の小屋であったかもしれない』とある。
また、一説には「イカ」は山ろくなど後方に山を負うところにみられる地名で「タ」は土地の意味である。後ろに山をかかえた地形から名付けられたものか、はっきりしたところはわからない」とあった。

伊方峠へ
往還は川永田の一里塚跡から伊方峠に向かう。が、往還は伊方ダム、町民グラウンドなどの建設で道筋は消えている。
とりあえず道なりに進み伊方峠手前、町民グランド西端辺りで伊方峠への取りつき口を探すが見つからない。さてどうしたものか。と、国土地理院の地図には伊方峠から東に下りる破線が描かれている。で、破線に沿って逆方向から伊方峠越えのルートを探そうと、町民グラウンド西端を廻り込み国道197号に出て直ぐ、九町トンネルを抜ける。九町トンネルを抜けると左に折れ伊方峠方向への舗装された道がある。道を進み国土地理院地図の破線ルートが道と交差する地点へと向かう。

地図では、この辺りが九町への下り口なのだが
破線部が道に交差する地点に到着し伊方峠へのアプローチ口を結構探したのだが見つからない。またまた、舗装道から東へと九町方面へと下るアプローチ口も見つからない。場所からすれば道の右手にある柵で囲まれた平地あたりから下るかと思うのだが踏み跡もない。
結局、伊方峠からの下りはあきらめ、伊方峠から沢筋を下る破線ルートが九町方面の町道に合流する辺りにアプローチ口があることを願い、その地まで進むことにする。

町道から伊方峠手前までを繋ぐ
砂防堰堤脇から伊方峠方面に上る道がある
踏まれた道も消え、地図の破線ルートを上る
九町トンネル出口まで戻り、その少し西から国道を右に逸れ、国道を潜り国土地理院地図の破線ルートが町道(?)と出合うところまで進む。



上り切ったところに柵
先ほど見た柵に囲まれた平場に出た
そこには砂防堰堤があり、その左隣から沢筋へと向かうアプローチがあった。しばらくは踏まれた感のある道筋を進むが、崖面近くで踏み跡は消える。GPSを頼りに国土地理院地図に記される破線に沿って崖面を上ると先ほど見た柵に囲まれた平場に出た。
ここまでは道を繋ぐことはできたが、結局そこから伊方峠、伊方峠から町民グランドへのルートは見つからず、伊方峠越えトレースは西半分のみで終えることにした。

伊方町九町地区から山腹の三宝寺へ
ここから三宝寺への山道に入る
沢筋に沿って道を進み旧町見の町並みに入る。町に九町公園とか九町保育園と言った名前が目につく。町見は九町浦と二見浦が町村制施行時に合併し、ふたつの浦の地名をとり「町見村」としたのが前身。その後昭和30年(1955)に伊方村と合併し伊方町となった。現在の地名は旧九町浦地区は伊方町九町、二見浦地区は伊方町二見となっており、伊方町九町にも二見にも「町見」を冠した施設が残り、かつての町見村の歴史を残す。
町並みを抜け一里塚のある三宝寺へと向かう。三宝寺への道筋は「調査報告書」には「久保あたりから急斜面を登り」とある。はっきりとした取りつき口は不明だが、国土地理院地図に山腹の三宝寺に続く破線が描かれている。その破線を頼りに狭い民家の間を抜け山に上る道に乗る。

三宝寺の一里塚跡
小祠を見遣りながら山道を上ると
三宝寺。無住のようだ
途中小祠などを見遣りながら10分ほど道を上ると無住らしき寺がある。三宝寺だろう。その直ぐ先に大日如来をはじめとした四基ほどの石仏が祀られる。


「九町一里塚」の案内板
傍に4基の石仏
傍に「九町一里塚」の案内板。「伊方町指定史跡昭和53年(1978)12月20日 指定
江戸時代、主要な街道にそって一里(約4km)ごとに植えられていた一里松の跡地。宇和島領では2代伊達宗利の命で宝元年(1673)に黒松が植えられたとされている。三宝寺の前のこの地にあった松も、その頃に植えられたものと考えられている。
残念ながら松は明治末期に枯死し、その後植えられた2代目の松も昭和49年(1974)に虫害で枯死し伐採されているが、かつては「一里松」といえば三宝寺の通称であったといい、周囲はかつての往還道沿いで、「これより西へ二見を経て三机に至る」と記した石碑や、旅人の喉をうるおしたお茶の 水」と呼ばれる湧水があったと伝えられている。当時の主要な交通路を知る上でも貴重である」とあった。

平岩峠への道
ここから先、山腹の道を進むことになるが、「調査報告書」には「九町の一里塚からの往還は、みかん畑の中の道で若干道幅も細くなっている。(中略)約一キロ弱みかん畑の中の土道をたどると、中腹の町道に合流する。(中略)少し下ると国道と並行する細い農道があるので右へ分岐する。道路はアスファルト舗装で、そのまま道を約一キロ行くと、地元でサイレン山と呼ばれている場所にたどり着く。ここから鳥津方面に向かう土道を登り、送電塔まで登る手前で左折してみかん畑の中を行く。 約一キロで国道一九七号に出て、平石峠に至る」と記される。
この記事に従いトレースしようと思ったのだが、記事に「ミカン畑の中を抜ける」とある農道は獣侵入防止柵で行き止まりとなることが多く、また「国道に沿った舗装された細い農道」が何処を指すのか現在の地図と見比べてもわからない。途次出合った地元の方も旧道は現在の町道改修に際し分断されており、旧道をトレースするのは難しそう。
ということで、三宝寺から平岩峠までの往還は後半に旧往還の一部は掠めるも、おおよそ成り行きで進むことにした。以下、実行ルート記す。

町見から上ってきた舗装された町道(?)に出る
舗装道に出た山側に石仏が並ぶ
その先にも石仏が
三宝寺の石仏が佇む分岐点からミカン畑を西に向かう土径がある。これが往還だろうかと歩を進めるが直ぐ行き止まり。分岐点まで戻り坂道を上ると伊方町九町から登って来た舗装された町道(?)に出る。町道に出た山側に石仏が並ぶ。少し先の山側にも幾つもの石仏が並ぶ。
合流点手前に西進する道
宇和海をの眺めを楽しみながら
ミカン畑の間の道を進むが、ほどなく行き止まり
合流点手前にミカン畑の中を西進する舗装農道がある。これが往還だろうかと先に進んだのだが、しばらく行ったところで道が切れ行き止まりとなり元に戻った。道筋から眺める宇和海は美しかった。

石仏が並ぶ町道を西進する
合流点から少し上ったところで九町から上ってきた道は、山腹を東西に続く舗装道にあたる。ここの合流点にも幾多の石仏が並ぶ。


合流点を左に折れ、舗装された道を南西へと進む。道筋には時に石仏をみかける。道を進みながら「調査報告書」にあった「国道と並行する舗装された細い農道」がないものかと注意しながら進むが、それらしき道は見当たらない。途次1キロ弱のところにある集落で出合った地元の方にお聞きしても、町道の上下にあった旧道は町道整備の折町道に吸収されたり、廃道となったりと現在は往還は残らない、と。
想うに、道脇にいくつもの石仏が並ぶということは、この町道がかつての往還に何か関係ある様にも思えてきた。ひょっとすると、この舗装道が「調査報告書」にある「 国道と並行する舗装された細い農道」?この国道って稜線を走る国道197号?などと思いもするが、結局よくわからない。

鳥津への分岐点から土径に入る
電波塔脇で町道を逸れ土径へ
亀ヶ池を眺めながら進む
また、地元の方によれば、町道を先に進み、道が丘陵を南に大きく迂回する手前に電波塔施設があり、そこから鳥津方面へと土径に入れば平岩峠に続く「殿様道」が残るとのこと。アドバイスに従い500mほど歩くと道の山側に電波塔らしき施設があり、そこから町道を逸れる土径があった。国土地理院地図にはこの地から北に進み国道197号を越えて伊予灘側の鳥津(とりづ)に繋がる破線が記される。「調査報告書」にある「ここから鳥津方面に向かう土道を登り、送電塔まで登る手前で左折してみかん畑の中を行く。 約一キロで国道一九七号に出て、平石峠に至る 土道を登り」とあるのがこの地であろうと思い込む。
地元の方が最高の温泉とおっしゃっていた亀ヶ池温泉のある亀ヶ池のある湾を見遣りながら土径を進む。

分岐点を左に折れると廃屋
二つ目の分岐を左に折れると
廃屋があった
土径に入るとほどなく最初の分岐点。分岐点を左に折れ少し進むが直ぐに行き止まり。元に戻り少し北進すると2番目の分岐点。分岐点近くには送電塔は見当たらないが地図には上に送電線が走っており、分岐点を左折。
しばらくは草の生い茂る道。宇和海を眺めながら進むと廃屋があった。

廃屋の先、荒れた竹藪を抜け国道197号に出る
滅茶苦茶な竹藪を抜けると
国道197号に出る
廃屋から先、数分歩くと荒れた竹藪となる。滅茶苦茶な状態で道を塞ぐ竹藪に悪戦苦闘。オンコースではあろうと思うのだが、少々心配。かろうじて踏まれた感のある道筋に沿って細い水管が続く。水管があるだけで故無き安堵感。
竹藪を抜けた先で国道197号に出た。廃屋から40分もかかっていた。「調査報告書」のルート図にもこの道筋は概ね合致しているように見える。
鳥津への道
分岐を折れず直進すると国道に出る
道も踏まれており至極快適
二つ目の分岐点で左折することなく直進すると国道197号に出る。竹藪での藪漕ぎ格闘を避けたいなら、こちらのルートを進み国道に出るのがいいかと思う。国道からのピストン復路はこちらのルートを歩いた。至極快適。

平岩峠
国道197号を少し進むと平岩峠。国道197号建設により峠の面影は消えている。稜線を走る国道197号、東西南北遮るもののなく、風受けて回る幾多の風力発電のブレードが見える。
国道197号
現在の国道197号は稜線を抜ける快適な道であるが、この国道ができる前の旧197号の佐田岬部分は、それはもう「酷道」の際たるものであった。集落部での細路、ガードレールもない伊予灘の断崖絶壁上を走る山腹の道、思い出すだけでも当時の怖さが蘇る。「197」、別名「いくな;行くな」の国道と呼ばれた所以である。

平岩峠の先で国道を逸れ町道を進む
平岩峠の先で国道197号を左に逸れ町道に乗る。南西にすすむと分岐。右の道に入り国道197号に沿って進む。道は少し荒れているが舗装されており車で走ることも可能ではある。 上水施設などを見遣りながら進むと、道の山側に地蔵が佇む。

国道197号を潜り佐市への舗装道に出る
国道197号を潜り
佐市への舗装道に出る
先に進み国道197号を潜る。分岐点から20分弱歩いただろか。舗装された道は国道を潜った辺りで行き止まり。国道197号へと上る道を探す。国道を潜った先、国道に沿って緩やかなスロープがあり、そこを上り切ると国道197号から別れ佐市へと下る舗装道に出る。

石神山へのアプローチ口へ
石神山へのアプローチ口
国道から逸れた辺りから石神山へのアプローチ口を探す。広いスロープが南へと上るため先に進むが行き止まり。道路まで戻りよく見ると国道197号の法面へと上る手摺柵があり、そこに踏み跡もある。ここが石神山へのアプローチであろうと仮定し、二日目の往還トレースを終える。




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