水曜日, 11月 15, 2023

讃岐の金毘羅参詣道 多度津街道;多度津から琴平まで

金毘羅参詣道の2回目は多度津街道。多度津から金毘羅まで150丁の道のりである。前回歩いた丸亀街道とほぼ同じ距離である。多度津街道の特徴は途次、75番札所である善通寺を抜けることだろうか。 多度津は実家の愛媛に戻る際幾度となく通過している。単に予讃線と土讃線の分岐点である以外に多度津のことは何も知らない。いい機会でもあるので、多度津のことをちょっとチェックする。
多度津南部は古代から開けた土地であったよう。大化の改新の際に実施された条里制跡が現在も残るという。また古代官道である南海道が通り、多度津の三井の辺りには甕井駅が置かれていたと言う。中世期には多くの荘園の名が見える。
多度津は多度郡の津(湊)であり、古代より津の存在も知られていた。津は西南に位置する本台山(多度津山)の山陵により、風や波を遮られる天然の良湊であったようだ。実際南北朝の終わり頃、四国管領細川氏の館のある宇多津を訪れようとした足利義満は強風のため、多度津に上陸し陸路宇多津に向かったと言う。
その頃の多度津には、西讃の守護代香川氏の居館が置かれていたようである。主城は、善通寺の西に聳える天霧山にあったが、居館は本台山山麓(現在の桃陵公園内) であったとも言う。天霧山は遍路歩きの途次、第71番札所弥谷寺を訪れた折立ち寄った。
香川氏が多度津に居館を置いたのは、天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国侵攻で敗れるまでの約二百年間である。この間に、城下町はかなり整備され、未だ海浜の寒村であった丸亀とは比較にならないほど発展していた、とのことである。
香川氏が滅んで2年後の天正15年(1587)に生駒氏が讃岐国を領有する。高松に城を構えた生駒氏は西讃統治のため亀山に城を築き丸亀城としその長子の居城とした。
が、元和元年(1615)の一国一城令により、丸亀城は廃城。その後幕府は讃岐の統治を二分し、東讃は松平氏、西讃は山崎氏が治めることとなる、山崎氏は寛永19 年(1642)丸亀に築城。城下整備を行うが、同時に丸亀から多度津を結ぶ道の整備を実施。丸亀藩が発展していく為には、湊として栄えていた多度津との結びつきを強めることが重要であるとの判断ではあろう、これが多度津往還の元となる道である。
万治元年(1685)京極高和が丸亀移封。天守閣建設など城下町の整備を行う。元禄7年 (1694)に多度津分封。丸亀藩二代目藩主の四男京極高通に多度津1万石を分け多度津藩とする。初代藩主高通から三代高文までは、丸亀城内に居館を設けて住み、多度津へは重臣を派遣していたため、多度津往還はは多度津藩統治に必重要な道となっていった。
「歴史の道 調査報告書 多度津街道(私注;金毘羅参詣道ではなく丸亀と多度津との往還道)」には当時の多度津を、「当時の多度津は、金毘羅参詣の主として西からの上陸地として、繁栄を極めていた。『金毘羅参詣名所図会』や『金毘羅山名勝図会』によると、諸国から参詣の船が次々と入り、船から上がる人が昼夜の別なく続いていた。
また、港近くに船宿や旅館が建ちならび、道沿いには、酒屋・菓子屋・うどん屋などが店を出し、往来する人の絶えることがないほどであった。ほかにも多くの商人や船大工などもおり、その繁栄の様子がうかがわれる。この頃の多度津は、丸亀と並ぶ大都市だったのである」と記す。
さらに、江戸時代中期以降、四国八十八か所参りが盛んとなったが、その77番札所道隆寺が港の東・北鴨村にあり、次の札所道場寺(現郷照寺)との往来にこの往還がよく利用されていたことが、道沿いの道標などからうかがわれる」とある。
文政10年(1827)、第四代藩主高賢は、執政上不便が多いことから、多度津に陣屋を設け、藩庁を移す。その位置は、現在県道丸亀・詫間・豊浜線北側沿いにあるJR四国多度津工場付近であった。 多度津は天保5年(1834)、第五代藩主高琢による多度津新湛浦の普請により多度津は湊町として更に栄えることになる。

徳川幕府の開幕以前、多度津が湊として栄えていた頃、丸亀は未だ海浜の寒村であったようだ。金毘羅参詣者も中国・四国・九州と入った西国からの人が多かった、とも。 多度津のことが少しわかったところで散歩のメモを始める。



本日のルート;
■多度津
旧船番所跡>多度津港旧外港東防波堤>合田酒店>多度津町東浜交差点
多度津陣屋跡地;金刀比羅神宮>多度津町民会館(サクラートたどつ)>JR四国多度津工場>旧多度津陣屋蓮堀跡>旧たどつ藩お舟だまり跡>中之町四つ辻の道標
旧塩田家住宅>清水温泉>てつや>幸之木神社>合田邸>鶴橋の道標と金毘羅燈籠>こんぴら一の鳥居跡
桃陵公園;一太郎やあいの像>金毘羅燈籠>一の鳥居と金毘羅燈籠>一の鳥居と金毘羅燈籠 
多度津から善通寺
庄の燈籠>八尺荒神社の金毘羅燈籠>三井正八幡>善通寺五岳を眺めながら南進>伊予街道四つ辻に鳥居・燈籠・丁石・道標>県道212号四つ辻角に道標>3基の道標>善通寺市街に入る 
 ■善通寺市街から琴平まで
県道48号一筋東の細路を進む>赤門筋と県道48号交差点>善通寺簡易裁判所>乃木神社>護国神社>熊ヶ池堤防に沿って県道47号に>四つ辻に標石2基(伽藍道合流)>地蔵>三界萬霊地蔵>103丁石>下土居の金毘羅灯籠と標石 >原御堂>中土居の金毘羅標石 >茶屋跡>線路脇の金毘羅灯籠 >金毘羅街道入口>清少納言・史跡衣掛の松 >四国ガスのガスタンク >香川用水金毘羅トンネル出口>石灯籠と39基の並び灯籠 >金刀比羅宮北神苑の高灯籠>多度津街道起点石
善通寺から琴平まで(伽藍道)
善通寺>陸上自衛隊善通寺駐屯地>乃木記念館>●伽藍道l地蔵堂 >石灯籠>>四つ辻に標石2基(多度津街道と合流)




多度津

旧船番所跡
多度津町商工会議所;船番所跡
スタート地点をどこにしようか。と、東浜地区にある多度津町商工会議所の建物が江戸時代に船番所が置かれていたところ、とのこと。この地を金毘羅参詣道・多度津街道のスタート地点とする。ここで入船や上陸者を管理していようだ。入港料収入などが藩財政に寄与したとのことである。
船番所がいつ設置されたのかわからない。天保2年(1831)の『金毘羅案内絵図』には船番所が描かれていないが、弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図絵』には船番所が描かれている。後述する多度津湛甫は天保9年(1838)に完成しており、これが船番所設置の主因であろうか。ともあれ船番所設置がいつの頃かよくわからない。
多度津湛甫
天保2年(1831)の『金毘羅案内絵図』の多度津湊
船番所は見えない
多度津は古くからの湊町で、上述の如く丸亀が波辺の寒村であった頃には既に湊町として賑わっていたようだが、江戸時代、元祿7年(1694)に丸亀藩の支藩・多度津京極藩となると、その管理のもと本州からの玄関口の一つとしてさらに栄え始める。
文政10年(1827)には多度津藩の陣屋が出来るが、それ以前から既に多度津湊は、桜川の河口にあって活発な交易活動を展開していたようである。
18世紀後半安永年間の多度津港の様子を、船番所報告史料は次のように記す:安永4(1775)年、4月4日の報告には、1月8日より25日までの金比羅船の入港数が「多度津川口入津 参詣船数五百十一艘・人数三千二百十四人」とある。正月の17日間で「金毘羅参詣船511隻、乗船客3214人が多度津の桜川河口の湊を利用していたということだ。500隻余で3200人?1隻あたりおおよそ6人程。ということ。当時の多度津湊への入船は小型であったようだ。
弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図絵』
多度津湛甫が完成し船番所も描かれる
それもあってか、天保5年(1834)、陣屋を構えたばかりの多度津藩は第五代藩主高琢による多度津新湛浦普請に取り掛かる。多度津湛甫がそれ。廻船の入港も可能となるように計画したのだろう。 
普請は5年の歳月と6,200両ともⅠ万両ともいわれる巨費を投じて、同9年(1838)に完成した。 多度津湛甫以前、『金毘羅案内絵図』にある天保2年(1831)の多度津湊と、弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図絵』に描かれる多度津湛甫完成後の湊を比較すると、桜川河口の西側に堤防を伸ばし、一文字堤防などで港を囲んだことがわかる。ま た、桜川と隔てる堤防の上に船番所も描かれている。
この瀬戸内海屈指の良港の完成により、北前船の寄港地なるなど廻船の入港が大幅に増加。 その 数は半年間に一千数百隻にも達するようになり、安政年間(1854~60)で、毎年100両余の干鰯運上銀を納めるほどであった、と言う。
この多度津湛甫完成により、多度津湊は北前船の寄港地なる。ために、廻船業に従事した商人が台頭し、港に接続する桜川の河口には交易品を納める海鼠塀の藏が、本通の町並みには町屋形式の住宅が建ち並ぶことになる。町には、米屋を始め数十軒の問屋や造り酒屋が軒を連ね、大いに繁盛した。この頃の多度津は、江戸時代後期飛躍的に発展した丸亀とともに、西讃地方における経済の中心地となった。
また多度津は琴平との接続の便利さから、江戸時代後期(18 世紀後半~)に多度津を起点とした金毘羅参りが盛んになる。金毘羅参りの街道も廻船業で財を成した商人たちによって整備され、「多度津金毘羅街道」とも称されるようになった。参詣者の数も丸亀街道を辿る人よりも多くなった、とか。
多度津湛甫跡
桜川河口部、水門ゲート手前を県道21号が桜川を跨ぐ。その橋の東詰め、桜川右岸に多度津湛甫跡が残るとのこと。文化庁の日本遺産に登録に登録されている、と。
そこには他とは異なる花崗岩風の10mもないような岸壁石垣があった。
「多度津町土地変遷図(多度津町立資料館分館)」によると、この辺りは明治21年(1888)からはじまった埋め立て地となっており、多度津湛甫普請時は海の中では?また、『金毘羅参詣名所図絵』によれば、多度津湛甫は桜川左岸に造られている。ここは桜川右岸。どういうことだろう。
多度津港旧外港東防波堤
ついでのことなので多度津港旧外港東防波堤もメモしておく。東浜から北に伸びる防波堤は土木学会推奨土木遺産となっている。「明治44年の完成。多度津港は明治時代まで県内最大の港であり、拡張のために 建設された旧外港東防波堤には花崗岩の構造物が現在もよく残っている」とあった。







合田酒店
船番所跡からスタートし町並みの中を道なりに進む。114銀行を右手に見遣り先に進むと、道の左手に屋根は新装されてはいるものの、黒漆喰のなまこ壁や虫籠窓など古い趣きを残す建屋。「合田酒店」と看板にある。
屋号は柳井屋、山口県柳井の出身ゆえ。創業、元禄年間(1688~1703年)、310年を超える歴史をもつ多度津最古の酒屋と言う。讃岐三白(砂糖・塩・綿)を扱う廻船問屋だったともいわれている。

多度津町東浜交差点
左のビルが多度津桟橋通駅があった辺りのよう
その直ぐ先多度津町東浜交差点。かつてこの辺りには琴平参宮電鉄・多度津線の多度津桟橋通駅があったよう。ここが多度津線の始点かと思ったのだが、記録を見ると少々込み入っている。大正13年(1924)10月9日、多度津線 多度津西口(→多度津鶴橋)~善通寺門前(→善通寺赤門前)間開業。 大正14年(1925)2月26日 多度津線 多度津(仮)(→多度津西浜)~鶴橋(→多度津鶴橋)間開業。 大正14年(1925)12月25日 多度津線 多度津桟橋通~多度津(仮)(同日廃止→復活多度津西浜)間開業とある。
ちょっとはっきりしないが、最初にこの交差点の南にある鶴橋(後で通る)から善通寺が開通し、その後この地の北の西浜から鶴橋を繋ぎ、その中間点に 多度津桟橋通駅を設置したように読める。
琴平参宮電鉄
大正11年(1922)、丸亀線;丸亀通町 - 善通寺(後の善通寺赤門前)間(軌道線)開通。 大正12年(1923) 琴平線;善通寺 - 琴平(後の琴参琴平)間(軌道線)開通。 大正13年(1924)多度津線;多度津西口 - 善通寺門前間(鉄道線)開通。 昭和3年(1928年)坂出線;丸亀通町 - 坂出駅前間(鉄道線)開通。昭和23年(1948)には坂出と琴平を結ぶ 琴平急行電鉄を合併。多くの金毘羅参詣客を運んだ。 金毘羅参詣の鉄道にはこの他国鉄(現JR四国)、高松から琴平を結ぶ高松琴平電気鉄道(大正15年(1926)開業などがあり、往時の金毘羅参詣の賑わいのほどが知られる。
高松琴平電気鉄道は現在も営業を続けているが、琴平参宮電鉄は昭和38年(1963)軌道線・鉄道線全線を廃止、バス専業になっている。宇高連絡船など四国への玄関口が高松となったこともその一因か、とも。

■多度津陣屋跡地

多度津東浜交差点から桜川を隔てた東側、桜川右岸の地はかつて旧多度津藩陣屋があったとのこと。現在は多度津町民会館(町木・町花である桜由来の「サクラートたどつ」と称される)やJR四国多度津工場となっている。
「多度津町土地変遷図」
また上述「多度津町土地変遷図」によればこの地は明治21年(1888)以降海浜部が順次め立てられたものであり、往昔の陣屋敷地は海浜部を走る県道21号と桜川の間、現在と比して三分の一といった東西に細長く伸びる砂州のようなところを石垣で囲んで普請したようである。 多度津町東浜交差点を越えて南へと進む多度津街道から少し寄り道し、陣屋跡辺りを彷徨うことにする。





須賀の金毘羅さん
多度津町東浜交差点を左折し桜川を跨ぐ金毘羅橋を渡ると橋の東詰めに金刀比羅神宮が建つ。通称「須賀の金毘羅さん」と称される。小ぶりな境内には多くの金毘羅燈籠が集められていた。
境内にあった由緒には「西讃府志ニ「金毘羅祠、州賀町ニアリと相ツタフ 昔金毘羅汐川ノ神事此地ニテ執リ行ヘリ、因テ此社ヲ建ツ」と誌され、由緒ある古社であり、今も海水と海藻を琴平の本宮に奉持する儀式を伝承し現在に至る。この度小桜川改修工事に伴い社殿並びに附属建物を現在地に移転、新築せり。
竣工 平成二年四月吉日
工事費 参冬千五拾四萬九千圓
工事施工責任者 熊手八幡宮責任役員会」などとあった。
何故に「須賀の金毘羅さん」とよばれるのか不明であったが、この由緒によれば須賀は元々祠のあった地名のようだ。多度津の古い地名には「多度郡多度津村大字須賀」という地名があった。現在の地名では確認できないが由緒にある小桜川沿いのどこかではあったのだろう。

神事は昔は、旧九月八日に多度津須賀町にある金比羅さんのそばの川で、琴平から来て行っていた。 現在は、琴平町の金山寺町を流れている「祓い川」でするようになっているようだが、今でも金比羅宮大祭に用いられる、海水と、ガラ藻(海藻の一種)は多度津の工屋(タクミヤ)と云う「山神」さんは、海水を小さい樽に入れ、またガラ藻は、粟島の「板倉」さんが親代々世襲して、金比羅さんへ持って行くことになている、と。
とはいうものの、桜川は京町辺りで3つの流れが合流している。南から下ってくる東桜川、その西側を同じく南から下るのが小桜川、桜川本流は中桜川を合わせ西から合流している。小桜川改修工事伴いとあるということは、この小桜川のどこか、ということだろうが、汐川の神事を行うには海から離れすぎているように思う。はてさて。
なおまた、由緒に熊手八幡宮の名があるのはこの社が熊手の御旅所ゆえではあろうか。熊手八幡は多度津から海岸線を西に進んだところ、弘法大師生誕の地ともされる海岸寺の手前、弘法大師の産土神とも伝わる社。大師の母が無事の出産を祈願した古社である。


桜川水系図
境内には「時太鼓」の案内板もあった。「町指定有形文化財 多度津京極藩「時太鼓」 第六代多度津藩主京極高典が明治四年の廃藩置県で東京移住する際今の本町一丁目に三層の館「集読院」を建て自ら所持していた膨大な書籍を陳列し町民の用に供した。

この建物の三階に京極の大太鼓をつるして正確な「時」を町内に知らせることにした。これが所謂「時太鼓」である。又この建物は別名「太鼓堂」と称せられた。明治十八年須賀金毘羅社に納められ 十数年にわたり町民に親しまれ正確な時刻を知らせて重宝されたこの「時太鼓」は その役割を終えた。
胴材  ケヤキ 丸銅くり抜き
直径  七ニセンチ
周囲 三メートル十二センチ
奥行  九四センチ
多度津町教育委員会」とあった。
多度津町民会館(サクラートたどつ)
須賀の金毘羅さんの道路を隔てた対面に立派な建屋が見える。かつてこの地。多度津陣屋跡地に讃岐鉄道の多度津駅舎があったようだ。岸壁傍まで線路を延ばし船運で多度津に上陸する金毘羅参詣客の取り込みを計ったのではあろう。
讃岐鉄道多度津駅
多度津において回船問屋の大隅屋を経営していた景山甚右衛門が、上京して鉄道を見たときに地元においても鉄道敷設の必要があると判断し、多度津駅の近くにある多度津港から、金刀比羅宮へ向かう参拝客の輸送を目的に設立した。発起人には計画に協力した香川県会議員の大久保諶之丞も名を連ねていた。1887年(明治20年)、私設鉄道条例に基づいて申請を出し、翌年起工された、とWikipediaにある。
讃岐鉄道多度津駅(多度津町立資料館)
讃岐鉄道は明治22年(1889)、丸亀・多度津・琴平間開業。多度津・琴平間はスイッチバックで運行くした。明治30年(1897)丸亀・高松間開業。
明治37年(1904)山陽鉄道に合併。 明治39年(1906)、国有化。大正2年(1913年)多度津から 観音寺駅間の延伸に伴い、従来のスイッチバックを避けるために多度津駅舎を現在地に移した。現在の予讃線・土讃線の路線である。
ちなみに讃岐鉄道の本社の住所は 「多度郡多度津村大字須賀」とあり、そこは多度津駅舎のところといった記事があった。上述現在地に移る前の須賀の金毘羅さんって、この記事が正しければ現在地の直ぐ北辺りであった、ということになる。小桜川改修工事の小桜川って?
JR四国多度津工場
須賀の金毘羅さんの前の道を東に進むと道の左手にJR四国多度津工場。Wikipediaには「JR四国所有の唯一の車両工場として、同社の保有する電車・気動車・機関車・客車・貨車の総合的な検査、改造等をはじめ、土佐くろしお鉄道所有の車両の受託検査等も行っている。また、現在の多度津駅から離れた場所に工場があるのは、初代の多度津駅に隣接する場所に建てられたためである。
当工場は、讃岐鉄道開業当時に初代の多度津駅(のちの浜多度津駅)構内に設置された工場が発祥である。したがって、工場敷地は初代の多度津駅跡を含んでおり、当時の駅舎に使用されていた鬼瓦と階段の手すりが工場内で保存されている(2009年に近代化産業遺産に認定)。また、工場と多度津駅の間を結ぶ引込線のうち、工場寄りの一部は讃岐鉄道当時の本線に当たる」とある。
多度津陣屋跡
陣屋(多度津町立資料館)
多度津町立資料館にある陣屋模型と現在の地図を比較すると、陣屋御殿は桜川に架かる極楽橋の北東にある。JR四国多度津工場の駐車場辺りといったところだろうか。
そこはもともと桜川河口の砂洲であったため、周縁部は石垣で固めていた。そして、御殿を中心とする主郭を築き、その東、現在家中と言う地名が残る辺りは家臣の屋敷とした。以後、明治4年(1871)の廃藩まで、ここを中心に藩政が執られた。
この陣屋の建設には、多くの費用と時間がかかったが、この工事により多度津の街並が大きく整備された。また、大工や左官を始めとする職人が集まり、材木の取引も盛んとなり、町は一層繁栄した。現在の街並もこの頃整ったとのこと。
大手東門より大手門に通ずる四間半道路の大手筋、これを中心にカギの手型の袋小路、いかめしい土塀と門構えなど、また陣屋要所の門に番所があって、庶民にとって威圧を感じる屋敷町であった、とのことである。
「西讃府志」には「北方海をうけて御陣屋の廓外西南に回りて入江あり、海水往来して舟泊り(古湛甫)あり。この内諸士の宅者軒を並べ、甍を連ねて繁りあえり。さてこの海浜、むかしより舟泊りの津にて、いまも東町、洲家町、中之町、堀之町、角屋町、門前町、田町、浜町、新町などすべて九町、農商相まじり此屋いらかを連ねて一都会たり」とある。
洲家町って、須賀町のこと?
旧多度津陣屋蓮堀跡
JR四国多度津工場を東に進むと交差点。その北東角に小さな公園がありそこに「旧多度津陣屋蓮堀跡」の石碑が立つ。資料館の模型に「堀」と記されたところだ。蓮堀は藩主御殿と武家屋敷を分けた水堀で、文字通り蓮が植えられていたのが名前の由来だろう。ここから西側が藩主御殿の敷地で、 東側に武家屋敷が軒を連ねていた。


旧たどつ藩お舟だまり跡
桜川が湾曲した外側の公園内に「旧たどつ藩お舟だまり跡」の石碑が立つ。湾曲した部分を利用して舟溜まりを造り、年貢の荷揚げや物流の拠点としていたようだ。







中之町四つ辻の道標
極楽橋を南に下った最初の四つ辻に2基の道標が立つ。角柱道標には正面「右 はし久ら道」左面に「す久 金刀ひら道」、右面「す久 ふなハ」、背には「 明治十四年辛巳5月吉日 石工 当地 吉田歌吉」と刻まれる。船場道標だ。
もうひとつの道標には「手形 きしゃば」「大正十年四月三日)」とあり汽車場道標となっている。大正10年(1921)には未だ琴平参宮鉄道は開業していないため、讃岐鉄道多度津駅、それも現在地に移った駅舎を案内しているのであろう。
中之町四つ辻のことを摩尼院西交差点と呼ぶようだ。四つ辻東に摩尼院がある。その隣に多門院。江戸期に陣屋となった砂州は中世には埋墓であったようで、その管理や供養を摩尼院や多門院が行っていたよう。寺と埋墓を繋ぐ橋が極楽橋とは言い得て妙。




旧塩田家住宅
多度津東浜交差点に戻り多度津街道をトレ‐スすることにする。交差点をクロスし南東へと道なりに進む。ほどなく道を少し東に入った所に旧塩田家住宅。案内には「塩田邸 屋号は「岡山屋」。西側の建物は江戸時代のもの。近代に改築した玄関部分との礎石の違いに注目。格子窓の柱には、刀傷が残っています。幕末、商家の繁昌に反感をもった武士が切りつけた跡と伝えられています。塩や米を入れる 「凪(かます)」を取り扱う「多度津商会」の看板を伝えます」とあった。多度津港で讃岐三白(砂糖・塩・綿)を扱う廻船問屋だったとも言われる。

清水温泉
本瓦葺き切妻づくり平入りで黒漆喰塗りの商家の建屋が並ぶ本通りを進む。ほどなく清水温泉。「大正末から営業してきた、まちの銭湯。一時期は「日の出湯」と改めたこともあります。 昭和五十年代半ばまで、たくさんの人がこの銭湯で一日の疲れをいやしていました。 現在は営業をしていませんが、裏道から見えるレンガ造りの煙突が当時の面影を残し、町の歴史を物語っています」とある。 
その横に昔の掲示板。「浴場内の洗濯禁止 最近浴場内で、選択を行ふ入浴者が多いのです。浴場内での洗濯は公衆衛生方見地から公衆浴場法で堅く禁止されております。今後絶えず取締まりを行い違反者は遠慮なく処分する方針ですから浴場内で洗濯しない様にしてください。
尚洗濯防止について入浴者の皆様も充分協力くださる様お願い致します。 香川縣丸亀保健所 香川縣多度津警察署」とあった。何だか、いい。

てつや
案内には「「てつや」は、代々多度津の商人で幕末までは鉄の原料問屋と刀鍛冶を営んでいました。明治になって以降昭和初期までは、船来用品雑貨の卸小売を行う他、米、 スタンダード石油の特約店となり灯油を取り扱っていました。 又、金比羅宮の世話人を長く勤めていました」とあった。



幸之木神社
道の右手に幸之木(さいのき)神社。案内には。「家内安全・子孫繁栄、特に子供の神様として、霊験あらたか。古来より祭祀、現在の社殿は明治三十六年に造営。祭礼は、旧暦五月十二日。町内夏祭りのはしりとして賑わい、伝承された、奉賛の「商品の造物」は、貴重な文化財であった」とある。 「門前町通り」と刻まれた道標が立っていた。
奉賛の「商品の造物」って何、そしてどれ?あれこれチェックしたが不明。その直ぐ先、道の左側に古き趣きの吉田酒造場の建屋があった。

合田邸
道の右手に合田邸。「屋号は「島屋」。貴族院議員の合田健吉氏が施主となり大正末~昭和初期に建造されました。
玄関棟に隣接する応接室は洋風で、本通りに面した窓にはステンドグラスがほどこされています。 邸内西側にはレンガ造の蔵が聳えます。多度津七福神の財力を物語る」とあった。
「多度津七福神」は、北前船の寄港地となり廻船問屋として財をなした七家。景山家、塩田家(2家)武田家(3家)と合田家のこと。讃岐鉄道を開業に導いた景山甚右衛門も、七福神の一人。

鶴橋の道標と金毘羅燈籠
合田邸の先で桜川にあたる。多度津街道はそこを右折し鶴橋へと進む。橋の両側に道標や金比羅燈籠が立つ。多度津街道はここで左折し鶴橋を渡り先に進む。
橋の北詰の道標には「左 古んひら道」「右 いやだに道」、「ふなハ」と刻まれる。嘉永元(1848)年に建立された道標。 
橋の親柱には「大正五(1916)年七月修」とあった。橋の南詰には金毘羅燈籠。正面台座に「周防岩国」の文字が読める。文化12(1815)年」に寄進建立されたもの。この地が多度津街道起点といった記事もあった。

こんぴら一の鳥居跡
右下プレートに「金毘羅一の鳥居」と記される
道を進み斜めにクロスする四つ辻北東角に「こんぴら一の鳥居跡」と書かれた碑が道路に埋め込まれていた。ここにあった 「こんぴら一の鳥居」は現在桃陵公園に移されていると言う。地図を見るとこの地の少し離れた西に公園はある。結構広そう。が、地図を見ると軍国美談で知られる「一太郎やーい」の、日露戦争に出征する一太郎を見送る母の像も立つと記されている。ついでのことでもあるので桃陵公園に寄り道する。

桃陵公園
公園から見た多度津港
地図でチェックするが、どこが公園入口なのかはっきりしない。Google Street Viewでチェックすると、上述琴平参宮鉄道桟橋駅跡のあった多度津東浜交差点より県道216号を南西に進み、桃陵公園を潜る桃山隧道手前に鳥居のマークがある。
成り行きで桃山隧道の北まで戻り、桃山隧道に向かって向かって上るスロープに入る。右手に社の玉垣がありそこに上るが厳島神社であり一の鳥居はない。そのまま成り行きで石段を上ると公園に出た。そこに「一太郎やーい」の銅像が立っていた。
一太郎やあいの像
明治37・38年、日露戦争の際、多くの将兵が眼下の多度津港から船に乗り出兵しました。 この中に岡田梶太郎 (通称 一太郎)がいました。その母カメは早朝、三豊郡豊田村から、わが子、 一太郎を見送ろうとかけつけましたが、船はすでに岸を離れていました。 そこで大声で 「一太郎やあい、わかったら鉄砲をあげろ」と叫けびました。
この母性愛にあふれたその声や姿を再現して後世に残そうと昭和6年に銅像がこの場所に建てられましたが、その後、太平洋戦争中には、 金属回収で撤去されました。 この像は、昭和18年に多度津町の彫刻師・神原象峰が元の台石の上にコンクリートで作製したものです」とあった。
過日札所金倉寺を尋ねた折、「一太郎母子の松」があった。そこでのメモを再掲;戦前の軍国美談として小学校の国語読本にも載った、「一太郎やーい」の主人公岡田梶太郎とその母がこの寺に植えたものと言う。
日露戦争出征のため、多度津から軍船に乗る息子梶太郎の名を大群衆の中で叫び注目を浴びたため、照れ隠しで「天子さまに御奉公」と言ったことが、天皇への御奉公の美談。一太郎のエピソードとして創られた。当の本人は長いことこの美談の主人公であったことを知らなかったようである。 明治生まれの祖父に連れられ、芝居小屋といった映画館に10円を払い、嵐寛寿郎主演の『明治天皇と日露大戦争』を見に行った世代にはわかるだろうが、今の世代に一太郎と言われても、なんこと、と思うだろうなあ。
公園からは多度津の港はお一望ではあるが、埋め立てられ多度津湛甫の面影の断片すらも感じることはできなかった。
金毘羅燈籠
一太郎やあいの像の傍に金毘羅燈籠が一基立つ。正面 竿に「金毘羅大権現」、裏竿に「天保十一年庚子年九月吉日」、 台座左 最上段には 「芸州廣島、中段寶亀講」、下段 に「寄進者の名前と講元 新屋善兵衛」と刻まれる。
高さはおよそ3m。


一の鳥居と金毘羅燈籠
で、一の鳥居は何処?公園に案内図があり、桃山隧道方面へと下っていく途中にあるようだ。道なりに坂道を下ると一の鳥居があった。「こんぴら一の鳥居」と刻まれた石碑も立つ。
案内には「寛政6年(1794年)に建立された多度津金毘羅街道「一の鳥居」(移設)。松江(島根県)の人々から寄進されたもので、当時の大関 雷電為衛門の名も見えます」とあった。「雲州」、「松江」といった文字が読める。世話人の文字の下に幾多の名が刻まれる。
一の鳥居から少し下ったところに金毘羅燈籠。正面(左)に「 奉備」 右(正) に「金毘羅大権現」、 左(裏) に「天保十一年庚子年九月吉日」。 高さ 約3m。これは公園で見た金毘羅燈籠と一対をなすもののようだ。
桃山隧道
道なりに下ると、桃陵公園へと上ったスタート地点に戻った。桃山隧道の上を下ってきたようだ。この桃山隧道はかつての琴平参宮鉄道の隧道。現在は路盤跡は道路として整備され、県道216号、少し下って212号となって善通寺に向かい、その先南東に折れ土讃線沿いの道筋を進み岩崎隧道を抜け琴平と繋いでいる。




多度津から善通寺

庄の燈籠
予讃線・中学踏切を越え更に南下。道の西側には予讃線の北で西に向かう216号と別れた212号が街道に沿って走る。上記の如く、この県道は琴平参宮鉄道の路盤跡を道路としたものとのこと。
少し南下すると小川脇に金毘羅燈籠が立つ。庄地区にあり、「庄の燈籠」と称される。
道に面した正面に「文化十四(1817)年丁丑七月吉日」、側面に「献燈」と刻まれるこの燈籠の宝珠は他であまり見ない独特な形状をしていた。この小川は上述の小桜川ではないかと推測する。
八尺荒神社の金毘羅燈籠
庄の燈籠はもと一対のものであり、対の燈籠は八尺荒神社に移されたとのこと。地図を見ると、この地の少し南東に八尺地区があり、東西に走る県道205号が土讃線を跨ぐ手前、道の右、一筋奥まったところに小ぶりな社が建っていた。
社殿前に1基の金毘羅道標が立ち、擬宝珠も、建立日付も「 文化十四年丁丑七月吉日」と庄の金毘羅燈籠と同じであった。また、庄の燈籠では読めなかったが、「芸州広嶋塚本本町 大田屋七郎兵衛」の文字が読めた。

三井正八幡
庄の多度津街道筋まで戻り再び南下。直ぐ南の三井(みい)に三井(みい)正八幡古社があるという。 場所も街道の直ぐ東。ちょっと立ち寄り。社はそれほど大きくはないが、南に伸びる長い参道が印象的。
境内の案内には「多度津町文化財史跡 昭和五十一年三月三十一日指定 三井正八幡神社参道 平安時代後期の延久五年(一〇七二) 道隆寺の祐善が近くの所在の五ヶ所に八幡宮をお迎えして社造った。三井正八幡宮はその中の一つであると言い伝えている。
南海道の三井 (甕井)駅はこの近くにあったと考えられるから、ここは交通の要所であった後になってからは、多度津から金比羅街道が古くからの伊予街道とこの神社の馬場先で交差することになった その昔の景観が三井正八幡宮の参道馬場先の付近に今も残っている」とある。 参道馬場先の東には民家が建ち、現在となっては昔の景観を偲ぶことは少し難しい、かと。神社鳥居前には巨大な自然石の常夜燈があった。

善通寺五岳を眺めながら南進
三井八幡より多度津街道に戻り、南に進むと変形四つ辻。ここを左折し、すぐ右折。さらに南に進む。 前方に善通寺の五岳がはっきりその姿を現す。少し南に下ったところで仲多度郡多度津町から善通寺市域に入る
善通寺五岳山は弘法大師空海御誕生所である四国八十八ヶ所75番札所善通寺の西側に連なる山々で、善通寺の裏山とも言える標高157mの香色山(こうしきざん)、標高296mの筆ノ山(ふでのやま)、札所73番出釈迦寺奥の院の修行場のある標高481mの我拝師山(がはいしさん)、標高438mの中山(なかやま)、狼煙台が置かれたことに由来すkるという標高408.9mの火上山(ひあげやま)の五山が並ぶ。我拝師山の修行場である捨身ヶ岳は結構、いい。

伊予街道四つ辻に鳥居・燈籠・丁石・道標
北東角

北西角
ほどなく国道11号。国道をクロスした一筋南に四つ辻。東西に走る道は伊予街道。伊予から讃岐を抜けて阿波に抜ける往還。
その四つ辻の各コーナーに石碑が残る。北東角には金毘羅燈籠と丁石、そして鳥居の柱基部。鳥居南面には「天下泰平」、北面には「左 こん」と刻まれる。地名由来のこの「永井の鳥居」は道標も兼ねていたようだ。鳥居柱基部と金毘羅燈籠に挟まれた丁石は文字は読めない。38丁石といった記事も見かけた。
南西角

南東角
北西角には鳥居柱基部。「發起施主」として、「松嶋屋惣兵衛 米屋喜三右衛門 福山屋平右衛門 湊屋儀助」など多くの名前が刻まれる。この鳥居はここ地元中村の人が寄進した鳥居とのこと。昭和21年(1946)の南海地震のときに倒壊したようだ。
南西角には道標。「左 金ぴら道」「右 多ど津道」、「弘化二(1845)年六月吉日」と刻まれる。 南東角の金毘羅燈籠には「右 多ど津道」「文化七(1810)年十二月」とある。これも道標を兼ねてた。
多度津街道はここを左折、伊予街道・讃岐往還を少し東へと進むことになる。

県道212号四つ辻角に道標
ほどなく四つ辻。四つ辻南は地図に県道212号とある。多度津街道の東を南下してきた県道212号が が国道を越え、伊予街道・讃岐往還にあたると左折・東進しこの四つ辻で右に折れ南下しているようだ。
四つ辻東南角の民家の敷地に道標2基と歌碑がある。北の道標は弘化2年(1845)の建立。生垣で文字は全く読めないが、「右 こんぴら」「左 たどつ道」と刻まれているようだ。中央の道標の県道に向かって正面には「はし久ら道」の文字がはっきりと読める。側面には「往来安全」と刻まれているようだがこれも生垣のため見ることはできなかった。
箸蔵道標の南に歌碑。「あふきつつ象の御山に奉る 石は揺るがぬ鎮めともがな」ときざまれているようだ。
この四つ辻を右折することなく直進すると第76番四国遍路札所金倉寺がある。

3基の道標
南進し高松自動車道を越えてしばらく進むと、県道から左に折れる道の角に3基の道標が並ぶ。標石は右から真念道標。右面には「南無大師遍照金剛」、正面には「右へん路道 願主真念」などの文字が刻まれる。
中央は大師坐像が刻まれ、「へんろミち 是寄り石神御社へ八丁 是ヨリ金倉寺へ十八丁」の文字。 左の標石には「石神社 文化二」といった文字が刻まれる。
この遍路道は善通寺から金倉寺へ向かう遍路道のひとつ、石神神社経由の遍路道である。
真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

 ■善通寺市街から琴平まで■

県道212号を進み善通寺市街に入り、県道48号一筋東の細路を南進
県道48号一筋東の細路を本郷通りへ
道を進み東北から南下してきた県道212号に合流し、そのまま南下。善通寺市街に入る。ほどなく東から来た県道48号と合わさる交差点が県道212号の終点。交差点から南は県道48号となるが、多度津街道は交差点から直ぐ左に逸れ、県道48号の一筋東の細い道を進む。
少し進むと善通寺より東に延びる赤門筋が県道48号と合わさる交差点の直ぐ東に出る。交差点から東は本郷通となって東に延びるが、多度津街道は本郷通りをクロスし先に進む


●県道48号と赤門筋の交差点;琴平参宮鉄道赤門前駅跡
赤門筋交差点南東角(左手前)に駅舎があった
多度津街道が本郷通りあたる直ぐ西は赤門筋と県道48号の交差点。この赤門筋の交差点はかつて琴平参宮鉄道の赤門駅前があったところ。交差点南東角に駅舎があったよう。ここは丸亀線、多度津線の終点であり、ここから琴平までは琴平線となる。この交差点は県道48号の終点でもある。
琴平線は交差点から南。県道24号となった通りを南下、T字路で西に向かう24号と別れ東に向かう県道47号を少し進み、県道47号が南へと折れるあたりで県道を離れ斜めに進み、土讃線手前で土讃線に沿って琴平に向かう。
善通寺郷土館前に多度津街道丁石
県道24号の東側一帯、市役所などの行政庁舎が並ぶ地区の南東端にZENキューブ(善通寺市総合会館)の2階に善通寺郷土館がある。昔訪れた時は赤門筋にあったが、この近代的な建物に移ったようだ。
なにか金毘羅街道の参考になる資料でもあればとちょっと立ち寄り。展示ホールには金毘羅街道の詳しい資料がなかったため、職員の方に資料はありませんかと尋ねると、わざわざ事務所まで戻り「こんぴらさんへの道しるべ協議会」発行の「金毘羅参詣 丸亀街道・多度津街道」という30ページの小冊子を頂いた。
小冊子も大変役に立ったがそれよりないより、ZENキューブ(善通寺市総合会館)入口の道路脇に幾多の標石が集められていた。「右 弘法大師御誕生所 善通寺道」と刻まれた巨大な標石、「弘法大師御誕生所 屏風浦善通寺道」と刻まれた大きな標石、「智證大師御誕生所 訶梨帝母出現之地 金倉寺」、「へんろ道」と刻まれた遍路標石とともに、「四十五町 岩国塩屋太*」、「五十五丁 岩国*」といった文字が読める多度津街道の丁石も集められていた」。思いがけない贈り物といった感であった。


護国神社・乃木神社
多度津街道に戻る。本郷通りをクロスし県道24号の一筋東の細道をすすむと、その先善通寺簡易裁判所、四国学院にあたり道が切れる。
仕方なく県道24号へと迂回。道をの右手に護国神社、その手前に乃木将軍を祀る乃木神社がある。拝殿には乃木将軍と夫人の大きな写真が飾られていた。

県道47号一筋北の細路を進み落亀の金毘羅燈籠を右折
ここで県道逸れ左折
落亀の灯籠を右折し南進
陸上自衛隊善通寺駐屯地、元の陸軍第十一師団の敷地東に沿って南下。上述県道24号が西、県道47号が東に分かれるT字路手前水路に沿った細い道がある。多度津道はここで左折し水路に沿って東に進む。ほどなく四つ辻に金毘羅燈籠。「落亀の灯籠」と称される。多度津街道はここを右に折れ南に進む。

熊ヶ池堤下を進み県道47号に出る
車道をクロスし道を直進
熊ヶ池の堤下を進み県道47号に出る
南に進み車道に出る。そこは南に折れた県道47号の少し東。車道をクロスし道を直進すると熊ヶ池の堤にあたる。堤下に沿って東に進むと県道47号に合流する。



県道47号を逸れ南に進む
県道47号を右に逸れる
ここを直進する
熊ヶ池の西、鶴ケ峰の東に沿って上る県道47号を進み峠を越え、南部小学校の南で西に折れる県道から離れ南への道に入る。





四つ辻の2基の標石
道を少し進むと四つ辻があり、道の両側に標石が立つ。東側に立つのが金毘羅標石。手印と共に「金毘羅道 明治十」といった文字が刻まれる。
西側の標石は舟形地蔵標石。手印と共に「こんひらみち がらんみち」の文字が刻まれる。ここが多度津金毘羅道と後述する伽藍道の合流点である。

地蔵池堤に地蔵尊と三界萬霊地蔵尊
四つ辻を左に折れ道を進むと地蔵池の土手に。池の通堤に入ったところに地蔵尊。堤を進み池の東北端近くに三界萬霊地蔵尊が佇む。
三界萬霊
三界とは欲界、色界、無色界。欲界は食欲、睡眠欲、淫欲といった本能的欲望の世界。色界は形あるものの世界。欲界は越えるも、未だ物に囚われる世界。無色界は欲望も物へのこだわりからも自由になった精神世界のこと。三界萬霊はこれら三つの世界、すべての精霊を供養することのようだ。

103丁石
三界萬霊地蔵尊のところで地蔵池の堤を下り、直ぐ先の県道47王に入ることなく、その手前を南に進む道を進む。ほどなく道の右手に石柱。「百三町」とも「百三丁」とも読める。ともあれ103丁石だ。
山口県岩国の白銀屋寄進の丁石と言う。多度津街道に残る丁石のほとんどが岩国の篤志家の寄進と言う。須賀の金毘羅さんの金毘羅燈籠にも白銀屋の名が残る、とのこと。
そう言えば上述、善通寺郷土館前の2基の丁石も共に「岩國」と刻まれていた。



原御堂
103丁石を過ぎ、山裾の道を進み南光、西川の集落を抜ける。道なりに進むと県道47号に合流。道の反対側に鐘楼、歌碑と大師座像がある。
大師坐像には文化二年と刻まれている、と。その右隣、小さな鐘堂前の石碑は芭蕉の句碑。「世を旅にしろかく小田の行もどり」と刻まれる、と。
「しろかく」は「代掻く」は田植え前の田をおこす作業のこと。田圃の中を行ったり来たりを、自分の往ったり来たりの漂白の旅に合わせているとのこと。 
この句は各地に句碑として残り、尾張の医師で俳人である山本荷兮(やまもと-かけい)にあてたものともされるので、特段この地との関連はないようだ。
当初この大師座像のあるところが原御堂かと思っていたのだが、多度津道が県道47号に出る右手にある民家がかつての原御堂跡であったようだ。民家玄関の上に「原御堂」と書かれた木の板が掲げられていた。

金毘羅石灯籠と金毘羅標石
原御堂から県道47号を少し善通寺方面へ戻ると、道の東側に金毘羅灯籠と金毘羅標石が立つ。標石には「左こんぴら道」と刻まれる。側面に「周防」の文字があったため、最初茂兵衛道標かと思ったのだが、常の茂兵衛道標とは少し姿が異なる。よく読むと「周防高森 施主紙屋利兵衛」とあった。
金毘羅石灯籠には表に「金刀比羅神社」、裏に「出雲大社」と刻まれる。昔の記録に、県道47号に沿った多度津金毘羅道は、「金刀比羅神社」「出雲大社」と刻まれた金毘羅灯籠で左に折れ、広い道に出るとあるので、原御堂に出る手前、道なりに左の折れたあたりにあったものを移したものかもしれない。

名土居の金毘羅標石
県道47号を少し進むと一瞬県道を逸れる。水路に沿った田圃の畦道へと左折、直ぐ右折し畦道を南に進み県道47号とクロス。道の反対側の日本独特(?)のホテルの脇に標石がある。「こんぴら せんつじ道 たきのみや道 大正三年」と刻まれたこの標石の指示に従い、県道47号を離れ右へと細路に入る。
たきのみや道は不詳だが、この地を東に向かったところに綾歌郡綾歌町瀧宮という地名があるので、そちら方面への道かもしれない。




大麻の茶屋跡
道下地区を土讃線方向に向かって進む。ほどなく道が東に曲がりその先には「中土居南踏切」のがある。多度津街道は踏切を渡ることなく、直ぐ右に折れ先に進む。
ほどなく民家があり、その南に「地蔵」がある。その辺りに往昔、茶屋があった。
善通寺郷土館で頂いた小冊子には「茶屋の前に架かていた光石(こうせき)橋の欄干は北神苑(高燈籠)に「保存されている」とある。が、付近に川などもなく農業用水路溝が地蔵前にあるだけ。
これは後程北神苑の光石橋の欄干を見た感想であるが、橋とはいいながら、ほどんど細流に架けるほどの長さではあった。小さな小川でも流れていたのかもしれない・


土讃線脇の金毘羅石灯籠
大麻の茶屋跡前を進みほどなく左折し土讃線の線路脇の道に出る。この道筋は琴平参宮鉄道路線を道路としたもののように思える。少し進むと道の左手、線路わきに自然石の金毘羅燈籠が立つ。
昔の記録では県道47号から(私注;中土居の金毘羅標石で)離れた道は現在土讃線のすぐ西に立つ金毘羅石灯籠の辺りで土讃線を渡り、その先、岩崎バス停のあたりで国道319号を越えた、とのこと。
左手の土讃線を注意しながら歩くと線路脇に立つ金毘羅石灯籠があった。踏切跡らしき風情はあるのだが、現在踏み切とはなっていないため少し引き返し中土居南踏切を渡り国道319号に出る。

国道319号の一筋東に多度津街道が残る
国道319号を左に逸れ
国道櫃筋東を水路に沿って進む
国道を進み、線路わきの自然石金毘羅燈籠を見遣り岩崎バス停を越えると、国道を左に逸れる道がある。道は直ぐ右折し水路溝に沿って国道筋の民家裏側と田圃の間を進む。
少し進むと緩くカーブして金倉川へと向かう国道319号に出る。正面にはファミリーレストランの裏手に巨大なガスタンクが見える。
●岩崎隧道と清少納言 史跡衣掛けの松跡
ちょっと寄り道。土讃線の西側に立つ自然石の金毘羅燈籠から国道319号道にでることなく、そのまま旧琴平参宮鉄道と線跡の道を進むとトンネルがある。旧琴平参宮鉄道の岩崎隧道だ。
大正12年(1923)竣工。坑口に往時の煉瓦造りが残るが、坑内はライナープレートで補強工事がされていた。
トンネルを抜けると道の右手に「清少納言 史跡衣掛けの松」の案内がある。石段もなにもないのだが、とりあえず崖をよじ登ると草に覆われた小さな平場があった。
松は枯れたのだろう、今は残らない。清少納言が金毘羅参拝の途中、この地で松に衣を掛け休息したとの伝承が残る。

四国ガスのガスタンク
多度津街道に戻る。国道319号の先、ファミリーレストランやガスタンクの傍を抜ける道を探すが道はない。仕方なく、国道319号をクロスし、県道208号に乗り、土讃線の踏切を渡る。
直ぐ岩崎隧道を抜けてきた琴平参宮鉄道跡の道が合流。合流点から東へと大麻神社の長い参道と鳥居が見える。多度津道は県道208号を南進する。



大麻神社
ちょっと立ち寄り。参道口にある御旅所より長い参道を進み石段を上ったところに社が建つ。社殿によれば、大麻神社は、神武天皇の御代、、讃岐忌部氏と阿波忌部氏が協力して忌部(いんべ)氏が付近を開拓して麻を植え、祖先神を祀ったのが始まりだと伝えられる。延喜式(えんぎしき)にも名を残す古社。
境内社には、白玖祖霊社・天神地祇社といったあまり見かけない社も祀られていた。
社には、国指定重要文化財(旧国宝)として、「木造天太玉命坐像」「木造彦火瓊々杵命坐像」があり、平安後期の作と言う。

金倉川に沿って進む
多度津街道に戻る。かつて琴平参宮鉄道がはしったであろう県道208号に戻り、少し南下。 
古い記録に、金毘羅多度津道は金倉川の土手を進んだとある。さてこの先は? と、ガスタンクへと続いた用水路がガスタンク抜け、土讃線を潜った先に金倉川沿いへと向かう道があり、地図にも金毘羅街道と記されている。県道208号を左に終れ道を進むと土讃線を潜ってきた水路にあたる。多度津街道は水路に沿って道なりに進み金倉川左岸の道に出る。


39基の並び石灯籠
金倉川沿いの道を進み、昭和橋南詰め、次いで高薮橋南詰めを越えると道筋はカーブし、川から少し離れる。
その曲がり角、道の右手民家の前に金毘羅石灯籠と39基の並び石灯籠が続く。
砂岩の軟質石材で造られた灯籠は文久、元治、慶応など幕末のものが目立つ。国も佐渡、越前、越後、甲州、松前、豊後など全国に及び、奉納講中には大阪陸尺(駕かき人足)、江戸の日雇い仲間一同といったものまである。金毘羅信仰の人気がこれだけでも十分確認できる。並び灯籠の間にある玄関から家人が出てくる。なんだか印象的な光景だ。国の重要有形民俗文化財に指定されている。
金毘羅鳥居跡の碑
並び石灯籠の南端に「金毘羅多度津旧街道遺跡並び灯籠及び鳥居跡 この地にありし粟島奉献の鳥居、昭和48年高灯籠前に移す」と刻まれた石碑が立つ。 この道筋が金毘羅道の御オンコースであることが確認でき、一安心。






香川用水金毘羅トンネル出口
昭和橋と高藪橋の間、金倉川の下を香川用水がサイホンで潜る。象頭山・琴平山の下をトンネルで抜けてきた香川用水は地下を進み金倉川左岸の琴平サイホンで金倉川を潜り右岸の金倉川局;琴平サイフォンで金倉川を越え、その先も地下を進む。
香川用水
阿讃山脈をトンネルで穿ち、吉野川の水を三豊に流し、東西分水工より東部幹線で東かかが市まで、西部幹線で観音寺まで、高瀬支線で高瀬まで水を流す。何回かにわけて香川用水をすべて辿り終えた頃が懐かしい。


大宮橋東詰めに高灯籠
多度津道に戻る。道なりに進むと、金倉川の対岸、大宮橋の東詰めに高灯籠が見える。これが高灯籠だろう。上述並び燈籠に、高灯籠前に移すとあった鳥居を確認に向かう。琴電琴平駅横にある広場に高灯籠があり、それを囲む金毘羅宮北神苑と書かれた石碑横に鳥居があった。
高灯籠
慶応元年(1865)に建てられた高さ27mの灯籠。日本一高い灯籠であり、国の重要有形文化財に指定されている、瀬戸内海を航海する船の指標として建てられ、船人がこんぴらさんを拝む目標灯となっていた、とある。
内陸のこの地にある「灯台」が航海の標となるとは思えないが、その昔は10キ れています。ロほど離れた丸亀沖からもこの灯籠の「火」は見えたのだろう。電気も派手なネオンもなく、高い建物もない往時であれば可能かもしれない。 高い石の基壇の上に木製の灯台が築かれ内部は三階建て、壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されている、とのことだが、現在内部には入れないようだった。
藤棚と多度津街道起点石
多度津街道起点石
先回の丸亀街道散歩の折、見逃した藤棚が北苑にあると言う。藤棚は高燈籠の金倉川側にあった。特に案内はない。
それよりなにより、藤棚傍に2基の石柱と小ぶりな石造の欄干があった。傍の案内には「寄贈
起点石 多度津街道の金毘羅側の史跡 明和四年建立
道標 善通寺道と金蔵寺道との分岐点の史跡 安政七年建立
橋桁 大麻茶堂前にあった光石橋の史跡 時期不明
平成二十四年三月 善通寺市大麻町 楠木寺」とあった。
図らずも多度津街道起点石と途次出合った大麻の茶堂前の橋桁に出合えた。
藤棚
大麻茶堂前にあった光石橋の橋桁
奈良出身の放浪の画家、大原東野の丹精したもの、と。大原東野は江戸時代の大坂の浮世絵師、画家。Wikipediaに「奈良の旅籠・小刀屋の次男として生まれる。大原氏、名は東野。茨木町に居住。東野、東埜、民声、如水と号して享和から文化期に主として名所図会、物産図会、読本、辞書の類に挿絵を描いている。画風は岡田玉山風であり、一時は玉山と並ぶ名声があった。山水画、花鳥画、人物画を得意とした。また博物学に通じており、晩年には讃岐国琴平に移り、昆虫を収集してすごした。天保11年7月に没す」とある。 丁石は京都の後藤八郎兵衛の寄進とか。京都の後藤八郎兵衛といえば金座・銀座の後藤家の分家だろうか。であれば刀剣金工師として知られる人物である。

一の橋西詰の金毘羅宮参道口に
更に道なりに進み、左に金倉川に架かる一の橋。ここを右に折れると金毘羅さんの参道となる。






善通寺市街から琴平まで(伽藍道)■

善通寺から金毘羅道への最短ルート。善通寺を出て、上述2基の標石のある四つ辻で多度津金毘羅道に合流し、その先は多度津金毘羅道を進む。

南大門を出て県道24号へ南下
善通寺伽藍境内の南大門を出て、道なりに南下。ゆうゆうロードと呼ばれる陸上自衛隊善通寺駐屯地の敷地の間を南下し、県道24号と交差する。




乃木館
交差点の少し東、自衛隊利駐屯地の中に乃木館がある。建物は第十一師団司令部であったもの。執務室には初代司令官の乃木希典以下、代々の司令官が座る。館内には山下奉文をはじめとした著名な軍人の軍服や日露戦争の資料なども展示されていた。

地蔵堂
県道24号を突き切り、山麓への上り道にはいる。完全舗装の車道を少し進むと道の右手にお堂がある。特に名は書かれていないが、このあたりに「身代わり地蔵」があったとの記録もあるので、そのお堂かもしれない。






樽池傍の地蔵尊
鶴ヶ峰の西を上り八丁原を越え樽池に。この辺りが峠のようだ。池の傍に地蔵尊が佇む。道は整備され昔の金毘羅道の面影はないが、地蔵尊、地蔵堂がその名残だろうか。八丁原は南大門から八丁が地名の由来、とか。



四つ辻の2基の標石で多度津金毘羅道に合流
峠を越えると道は東に下る。少し進み右に折れ、上述四つ辻の標石へと向かう。伽藍道はこの先は上述多度津金毘羅道の道筋となる。

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