水曜日, 12月 13, 2023

讃岐の金毘羅参詣道:高松街道 ① 高松市から綾歌郡綾川町滝宮まで

讃岐の金毘羅参詣道散歩の第三回は高松街道を辿る。丸亀、多度津、高松、伊予土佐、阿波を繋ぐ所謂「金毘羅五街道」のひとつである。天保五年(1834)国絵図に「高松ヨリ路上金毘羅江八里二丁」とあるように、その行程は高松から琴平までおおよそ34キロの道のりとなる。既に歩き終えた丸亀街道、多度津街道の15キロと比して最も長い。
この高松街道が高松と讃岐西部を結ぶ領国支配の幹線道として重要性を持つてくるのは寛永19年(1642)、松平頼重がに高松藩主として讃岐入部してからである。この領国支配の政治的・軍事的要素の強い公的街道としての高松街道は、金毘羅参詣道として、公的性格とは異なる宗教的・私的な街道としても発達することになる。
香川県の「歴史の道 調査報告書第七集 高松道(以下「歴史の道調査報告書」)には、「金毘羅五街道は慶安元年(一六四八) 金毘羅が街道を整備・変更して造った宗教的・私的な道といえる。歴史的には讃岐を支配した長宗我部、仙石、生駒、松平家はいずれも金毘羅と深い関係をもっていた。時代によって目的の違いはあるが社領寄進、社領安堵、諸役免除、勧進・寄進など手厚い保護を与えている。ある意味では、後の金毘羅庶民信仰隆盛の先鞭をつけたのも近世の大名たちであったと考えられる。
生駒氏時代に一正が慶長六年(一六〇一)に諸国より金毘羅へ移住する者の税をゆるめるという政策をだして町づくりを推進している。やがて慶長九年(一六〇四)に出される幕府の交通施策と併行して参詣道の整備がなされていったのであろう。
寛永十年(一六三四)の讃岐国絵図では高松道は小道として描かれている。 高松道が重要性を増すのは、松平頼重が寛永十九年(一六四二)に高松藩主として讃岐入部してからである。頼重をはじめとして以後の歴代藩主は度々金毘羅参詣を繰り返している。このような藩主と金毘羅の往返によって必然的に高松道は整備されてくる。宝暦十二年(一七六二)の讃岐国絵図では一里塚もなく、普通の道として描写されている。天保五年(一八三四) 京極家讃岐国絵図では鮮明に太く書かれ、一里塚の場所も示されるようになり絵図のうえでは初めて大道としての位置づけがなされている。
そのため、この道のことを「殿様の道」「お成道」とも称し、藩主にまつわる逸話も伝承されいる」とし、実際、歴代藩主の参詣は合計53回にも及ぶと記す。移封直後の領国支配、民心慰撫などの意味をもっていたのであろうとも言う。
また同書には「道沿いにある道標・燈籠の年代別建立をみると(中略)丸亀・多度津・宇多津道に比べて年代的には新しく、寄進者の名前も、ほとんどが地元の人々である」とし、「この街道沿いの村々は高松と直接結ばれており、文化が進んでいた。また交通が発達し商品作物を作るようになり、背幣経済もはやく及んでいた」とし、経済的側面からも主要地方道としての色彩が強いことを指摘している。

現在概ね県道282号(旧国道32号)を右に左にと、出入りを入ったりを繰り返しながら琴平を目指す高松街道歩きをスタートする。尚記事は「香川県歴史の道調査報告書 第七集 高松道)を参照・引用して作成する。



本日のルート;旧・常磐橋跡>少しクランク状に曲がる商店街>琴平神社>番所跡>仏生山街道分岐点>ハゼ地蔵堂>金毘羅燈籠>観賢堂>釈迦堂>国道11号をクロスし勅使町>南下し成合町に入る>遍路道が合流>成合橋北詰めの石仏標石>成合橋>県道282号合流点に金毘羅燈籠>金毘羅燈籠>横内の四つ辻>横内の地蔵堂>>山崎の地蔵堂>仏生山道分岐点に標石>ひょうたん池傍の金毘羅燈籠と地蔵堂>三ッ池地蔵尊>旧道に入る>県道282号と県道39号の交差点に自然石燈籠と地蔵堂>金毘羅燈籠>石碑と地蔵堂>十三塚の集落>十三塚のこんぴらさん>茶堂の井戸>法然上人の牛岩・馬岩の仮寝小屋>陶の地蔵堂>吉盛神社>北宮神社御旅所北側に出る>県道282号に出る>辻の岡地蔵堂>辻の岡地蔵堂>県道二股分岐点に標石>県道282号に合流>県道282号を左に逸れる>滝宮経塚古墳>久保太郎右衛門頌徳碑>県道282号に出る>端の地蔵さん>滝宮天満宮>滝宮神社






旧・常磐橋跡
スタート地点は旧・常磐橋跡とする。藩政期、高松城の外堀に架かっていた木桁橋のひとつ。現在は高松城の堀から南に下ったアーケード商店街の入口に石碑が残る。藩政期の木桁橋は20mほどもあったと言う。常盤橋跡に二つの石碑がある。
「高松の城下町」の案内
ひとつは「高松の城下町」の案内。「高松の市街地は、中世には「野原(のはら)」と呼ばれた港町でした。生駒親正が天正一六年(一五八八)からの築城に際し屋島の南の 「高松」の地名とり、「高松」に改めました。このため、元の「高松」は「古高松」と称するようになりました。
高松城築城に伴い、城下にも職人や商人が集まり、次第に城下町が整備されていったと考えられます。大工町・磨屋(とぎや)町・紺屋町・鍛冶屋町のような職人町が見られるほか、古新町・今新町のように新たな町が次々できた過程もうかがえます。
中でも慶長一五年(一六一〇)に、三代正俊が藩主となり丸亀城から高松城に移る際に、丸亀から商人を呼び寄せ丸亀町ができたとされており、城下町がこの頃に整備されていったことがうかがえます。この丸亀町の南端の両側には御坊町見られるように多くの寺院が集められ、城下の南端を形成ていました。 寛永一九年(一六四二)に松平頼重が高松の藩主となりすが、絵図によるとその頃には城下町がさらに南へ拡大を続けている状況がうかがえ、南新町などが新たにできたことがわかります。これら高松の城下町は商店街として今に残っています。 高松市教育委員 贈… 公益財団法人松平公益会」とあった。
「高松城外濠の常盤橋と高札場の遺跡」の案内
その裏側には外濠と常盤橋を描く絵図とともに「高松城外濠の常盤橋と高札場の遺跡」の案内。「この橋は、高松城外濠に架かっていた。生駒親正による築当時は土橋であった。生駒時代は門出橋と呼ばれていたが、松平頼重入城以後、常盤橋と名づけられた。曲輪と城下町を結んでいて、木造高欄付の橋であった。橋の北側には番所があり、南側には高札場があった。
常盤橋は、城下町から各地に通じる街道の起点となった重要な橋で、南へ丸亀町から仏生山・金毘羅街道へ、東は片原町から志渡・長尾街道へ、西は兵庫町から丸亀街道へ通じていた。各出口には木戸が設けられ、夜間の往来は禁止されていた。外濠は明治に入ってから南側から少しづつ埋めら、明治二十七年、香川県庁舎が内町+に新築された頃には十メートルになり、常盤橋も南北十二メートル、幅九メートルの高欄になっていた。その後も外濠は埋められ、その埋立地に民家が建ち片原町、兵庫町とも両側に家が並ぶようになった。明治三十外濠は完全に埋められ、その一~二年後には橋は撤去され、一部の石材は栗林公園東門入口の橋に使用されている。
常盤橋がなくなった後も街道の起点を示す里程標石は、太平洋戦争の空襲前まで丸亀町の入口、片原町の角の朝日屋洋服店の店頭の土中に埋まって、標石の先端をのぞかせていたが現在は不明である」とある。
説明にあるように、この常磐橋は志度街道・長尾街道・仏生山街道・丸亀街道(現・高松市国分から伊予街道が分岐)・金毘羅街道の讃岐五街道の起点となる交通の要衝であり、その街道跡は現在それぞれ片原町商店街(志度街道・長尾街道)、丸亀町商店街(仏生山街道・金比羅街道)、兵庫町商店街(丸亀街道)となっているようだ。また、橋のたもとには高札が設置されて、現在の三町ドームは「札の辻」と呼ばれていた。
栗林公園東口の常磐橋
旧常盤橋の一部の石材が使用されたとする栗林公園に移された橋は、栗林公園東口に「常磐橋」と刻まれ、2mほどの水路溝に架かる小さな橋となっていた。こちらは「常盤」ではなく「常磐」と「皿から石」に文字が変わっていた。




少しクランク状に曲がる商店街
アーケード商店街を丸亀町に進む。丸亀町は高松城下町がつくられたころからの古町。慶長15年(1610)、生駒正俊が丸亀の商人をこの地に移したことに由来する。
南下し国道11号を越えると南新町。城下町の拡大に伴い、丸亀町の南に、新しく造られた町というのが地名の由来。南新町と田町の境、商店街が気持ち、クランク状に曲がる。城下防御のため。田町は田圃の中に造られたゆえ。南新町と同時期に造られた。

琴平神社
その先に県道43号。街道はそのまま南下するが、県道を東にちょっと進むと琴平神社 がある。「境内には、慶応3年(1867)の鳥居があり、その東西に一基ずつ「金毘羅大権現」と刻まれた金毘羅燈籠がある。東側の燈籠は、嘉永7年(1854)のもので、西側は文政5年(1822)のものである。
境内の由緒に拠れば、「明和7年(1770)建立、明治43年(1910)にこの地に移された。祭神は大物主命とし、蛇神・水神・雷神とする。蛇神を願いの方角に回転させ願がかなう」とあった。
本殿右手に方位盤上に回転する蛇の石像がセットされていた。それほど古くはないように見えた。 もと小田裏金刀比羅権現と呼ばれていたが、明治維新後、この地に移り今の社号に改められた。神仏分離令により本社の金毘羅大権現が金刀比羅(ことひら)神社と改名したのとおなじ理屈ではあろう。現在も、「田町のこんぴらさん」と呼ばれているとのことである。小田裏金刀比羅権現のことは確認できなかった。


番所跡
番所跡辺り
藤塚神社
南に下ると藤塚町。道の左手、建物に挟まれるように藤塚神社がある。昭和20年(1945)の高松空襲で全焼し、廃寺となった徳善寺跡の一部に石清尾(いわせお)八幡神社境外末社として建てられた。 「調査報告書」には「藤塚の由来については諸説があるが、『高松地名史話』では、生駒家の家臣、佐藤道益の墓(藤塚=佐藤の佐の字を除き名付けた)があったからという説をとっている。
天保年間の「高松市街図」では、街道の左側に番所が描かれている。この地は、高松城下と南を結ぶ道の出入口にあたる要所で、高松藩が番所をここに置いた」とある。
岩清尾八幡神社
藤塚町から、西に直進すると高松の氏神である岩清尾八幡神社が建つ。Wikipediaに拠れば、「伝説による由緒は918年(延喜18年)、八幡大神が讃岐国香川郡野原庄(現・高松市)の赤塔山(現・石清尾山)に現れて、これを祭ったものと伝えられている。もう一つの由緒は、当時の国司が京都の石清水八幡宮の分霊を亀ノ尾山(現石清水山との記事がある)上に祭ったというものである。社名も石清水と亀ノ尾の名を併せて石清尾八幡宮と称したとされる。
石清尾山には、多数の古墳からなる石清尾山古墳群があり、この地域が早い時代から栄えていたことが窺える」とある。
社は南北朝時代、室町幕府管領の細川頼之氏の庇護、豊臣政権下で讃岐国一国の領主となった生駒親正はこの社を城の鎮護とした。
藩政期に入ってもの領主の庇護は篤く、松平頼重は、1642年と1666年の二回にわたり、石清尾八幡宮の大造営を行う。現在の境内の姿と、絢爛豪華な御神輿行列は、ほぼこの時代に完成する。以降の歴代藩主も当社を崇敬し、宝物や灯籠を寄進している、とのことである。

仏生山街道分岐点
仏生山街道分岐点。街道は右の道を進む
高徳線の高架を潜ると栗林町。往昔は「御林」という地名であったが、大正10年(1921)に高松市に編入するに際し、改名し「栗林町」とした。栗林公園よりの改名と言う。高徳線高架を潜った少し南の十字路を西に向かうと栗林公園の東門にあたる。
十字路から少し南に下ると仏生山街道分岐点に至る。往昔は「御林の分かれ股」と呼ばれたと言う。 高松街道はこの分岐を右に逸れ細い道を進み国道11号にあたる。
仏生山街道
高松城南の起点(常盤橋)から始まるこの旧街道は、仏生山にある高松松平家の菩提寺、法然寺へ藩主が参拝する為に整備された道でありこの街道名がつけられているが、街道は更に南下し、塩江を経由し相栗峠を越えて阿波に入る

ハゼ地蔵堂

国道をクロスし、戦国時代、香西氏の出城があり、いまも土塁の残ると言う室山の山裾の東細い道を進み、その先で更に県道266号をクロスし南西へ進む。資料には高松鷺田郵便局の少し先、道の左側に金毘羅燈籠が立つとあるが見当たらなかった。
その先、比較的広い車道をクロスすると三俣にあたる。その中央にハゼ地蔵堂が建つ。左は83番札所一宮寺への道。高松街道は右の道をとる。

金毘羅燈籠
直ぐ先、道の左手に金毘羅燈籠。天明7年(1787)の建立。台座に「坂田村」、「萬人講中」と刻まれる。「坂田村」は現在の高松市西春日町と言う。道の東、浄願寺山との間に西春日町の地名が地理院地図に記されている。
傍にあった案内には「金毘羅燈籠 この金毘羅燈籠の建立者は、一説によると内井家の先祖元山村傅八とあります。
この人は元山村より坂田の地(この付近一帯)に江戸時代中期のころ、移り住んできました。この傅八が傷を負った時、金毘羅さんにお祈りしたところたちまちに治りました。それで謝意を表すために金毘羅燈籠を天明七年三月(西暦一七八七)に建てました。
このような燈籠は、この街道沿いに多く見られます。これは寄進の意味もあって金毘羅参りの人が通る道筋の目じるしとしても有志の人達により建てられたものと思われます。(内井家に伝わる古い記録より) 平成七年一月吉日 高松市鶴尾地区地域おこし事業推進委員会」とあった。
「萬人講中」は文字通り皆で寄進して建てられたものだろう。この辺りの町名は紙町。五代藩主松平頼恭にこの地で紙漉きが行われるようになったのが地名の由来。

観賢堂
先に進み、街道が県道266号に合流する手前に、観賢堂がある。「歴史の道調査報告書」には、「観賢堂は、仁壽二年(八五二)旧坂田郷に生まれた観賢僧正が、弘法大師の御髪を剃った剃刀を埋めた剃刀塚の場所に建てたもので、観賢の墓所であるといわれている。観賢堂の境内には、故事にちなんで剃刀(かみそり)塚延命地蔵尊のお堂が建てられている」とある。
観賢僧正
お堂前にはふたつの案内板。ひとつは「観賢僧正」とあり、「観賢僧正 僧正は旧鷺田村(現在の西ハゼ町)の人で文徳天皇の仁寿三年(八五三年)に生れた。空海大和尚に弘法大師の諡(私注;おくりな)を賜わった時、観賢僧正は勅命を伝える使となり、御下賜の紫衣を着せ大師の御髪を剃り大任を果した。後母に逢うため故郷に帰った時、大師の御髪を剃刀塚剃刀塚剃った剃刀をこの地に埋めたので、ここを剃刀塚といいます。
昭和四年、当時の村長内井市太郎氏有志により、ここに僧正の遺品を納められ、頌徳碑と供養所へ建立されました。 高松市 高松観光協会」とあり、もうひちつは僧正の履歴が記されている。
剃刀塚
観賢僧正廟
剃刀塚
お堂の東奥に観賢僧正廟と刻まれた玉垣に囲われた石碑と、その右手に「剃刀塚」と刻まれた石碑が立っていた。その横にあった案内には、「剃刀塚 醍醐天皇の延喜二一年十月二日、天皇は空海上人が破れた法衣を着て、「高野の山にこけむす庵に袖朽ちて苔の下にぞ有明の月」と歌って立ち去られる夢をご覧になりました。
そこで、天皇は上人に弘法大師の称号と桧皮の色の衣を贈ることになさいました。その使者を観賢僧正に命じられたので僧正は勅使とともに高野山にのぼり、廟中の空海が着ていた朽ちはてた衣を着がえさせ頭髪を新しい剃刀でそりました。翌年その剃刀をこの地に埋めたといわれます。
昭和三年に、時の村長内井市太郎氏等により僧正の徳をしのびこの碑を建てました。(古老の話による) 平成七年1月吉日 高松市鶴尾地区地域おこし事業推進委員会」とあった。
剃刀塚延命地蔵堂
剃刀塚延命地蔵堂
剃刀塚延命地蔵堂はお堂の手前右手、街道横に建てられていた。ささやかなお堂であった。
大師号
大師号って天皇より賜る諡号(本人の死後に送られる尊称、おくりな)と言う。古老のお話では、空海存命中のようにも思える。
また我々は大師と言う場合、弘法大師空海を思い浮かべる。大師とは空海への尊称と思っていたのだが、大師号を賜った高僧は25名ほどいる。空海が大師号を賜ったのは最初でもないし、空海ひとりでもない、ということだ。「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」との所以である。


釈迦堂
高松街道は県道手前で左に折れ、県道とほぼ並行して南西に進む。県道266号と並行して下った街道はほどなく県道172号をクロスし県道266号に合流する。その合流点手前に釈迦堂が建つ。
案内によると、「釈迦堂 いつの時代かはっきりしないが 昔この地に大きな釈迦堂がありました。とても栄えていましたが 時代がたつとともに寺院は古くなり雨もりがするようになりました。ある年台風が襲ってきた時建物が倒壊し、釈迦堂の横を流れている川に本尊の釈迦仏や仏具が流されました。その後この渕を釈迦ガ渕といわれるようになりました。
この地に延宝六年(西暦一六七八)に水難犠牲者の供養のために地蔵堂が建てられました。(古老の話による) 平成七年一月吉日 高松市鶴尾地区地域おこし事業推進委員会」とあった。
この辺りの地名は松並み。戦前まで矢止めの松と呼ばれる松並木があったのが地名の由来(「歴史の道調査報告書」)。

金毘羅燈籠が続く
街道は少しの間県道266号を進んだ後、右に逸れて旧道に入る。道を進むとほどなく左手に金毘羅燈籠。火袋以外すべて自然石からできている。その先、南に伸びた浄願寺山の尾根筋の南東端に向かって進んだ街道が山裾にあたる手前、左に大きく折れる角にも金毘羅燈籠。火袋に金と刻まれた天保6年(1835)の建立。この燈籠も火袋以外は自然石からできている。

県道266号合流点に地蔵堂
右手に山王神社を見遣り山裾に沿って進みむと県道266号にあたる。その合流点の右側、民家に挟まれて享保元年(1716)の地蔵がある。「歴史の道調査報告書」には、「この地蔵は編笠の墓とも呼ばれている。江戸時代編笠康斎という者が武者修業で諸国巡業中、高松にやってきて藩内でも武術に優れた竹内某を御前試合で倒した。 竹内の門下数名は恥辱をそそぐため康斎を闇討ちした。村人はこれを哀れんで地蔵を建て追善供養したという」とする。
この地は旧常盤橋から高松街道と重なり進んできた丸亀街道との分岐点。丸亀街道は西へと向かい、高松街道は県道266号をそのまま南へと向かう。

国道11号・高松道をクロスし勅使町
南へ少し下ると高架で走る高松道とその下を進む国道11号をクロス。県道266号は国道11号北で終わり、その先は県道282号となる。「歴史の道調査報告書」には、「この交差点周辺の勅使町という地名は、天皇の綸旨によって開墾された皇室領であったことから出ていて、もと勅旨であったものが後に、今の地名に変えられたものである」とする。県道266号が勅使室新線と称される所以。勅使町と室新町を繋ぐ。

南下し成合町に入る
県道282号を少し南下すると県道171号と交差する。このから南は成合町となる。「歴史の道調査報告書」には「成合町の辺りはその昔家の集落が多く、ならび(家屋)からきた名 と いわれている」とあった。なお、「成合の由来は、成合地区の東にある本村の飯沼氏の出自である丹後国・成相にあるようだ。
『今昔物語』の「丹後国成合観音霊験記」には成相寺の縁起として、「雪深い草庵で修行の僧。食べ物も尽き、食を本尊に祈る。と、堂外に傷つき倒れた猪。禁戒を破り食する。雪も消え里人が堂内を見るに、鍋に木屑、そして両腿の切り削がれた観音さま。僧は観音さまが身代わりになってくれたと、木屑を腿に着けると元の姿に戻った、と。故に成合〈相〉と」といった記事もあった。いつもながら昔の人の豊かな想像力に驚かされる。

遍路道が合流
遍路道合流点
「歴史の道調査報告書」には、「さらに二〇〇m程進むと東西に走る幅二・五m程の道と交わる。この地点は高松道と、へんろ道(根香寺~一宮寺間)が出会う場所であった。この交差点の北西角の民家の植込みの中に二基の道標 が建っている」とある。
が、現在は民家は更地となっており、県道から少し西にはいった更地端に2基の遍路標石が並んで立つ。この遍路道は82番札所根香寺から鬼無経由で83番札所一宮寺へと辿ったのだが、一筋北の道を県道に出たため見逃していた。
左の標石「成合村下所講中」と読める
左;「明治十四年」、
右「北高松道/右へんろ道」の文字が読める
この標石について「歴史の道調査報告書」には「一基は明治十四年建立で一宮と根香を示し、もう一基は宝暦八年(一七五八)に成合村下所講中の建立になるもので「右へん路道」・「北高松道」と刻まれている。近くの古老によるとこの二基はいずれも同じ交差点の南東角にあったものが道路拡幅工事の際に現在の場所に移されたそうだ」と記す。
遍路道に近いほうの標石は摩耗が激しく、「明治十四年」の文字以外は読めない。その横の標石は「成合村下所講中」「右へん路道」・「北高松道」の文字がかろうじて読める。

更に「歴史の道調査報告書」には、「また、二基の道標に並んであったという金毘羅燈籠の所在を調査することができた。この燈籠 は文政十三年(一八三〇)の建立で、現在、 成合町の民家の庭の中にあり、正面に「奉燈/金毘羅」、台座に「高木金右衛門」と刻まれている」とあるが、さすがにこれだけの情報では見つけることはできなかった。

成合橋北詰めの石仏標石
ここから先、香東川北詰までは高松街道とへんろ道は重複して進む。「歴史の道調査報告書」には、「 成合橋の手前の左に折れる道の角に、地蔵 が祀られている。地蔵は、享和二年(一八〇二)の建立で、小さな祠の形をし、前面の二本の柱にそれぞれ「右こんぴら道」・「左一のみや道」と刻まれている」とある。
四本柱屋根付きの石仏はあったが造りは結構新しい。古い資料に、享和2年(1802)の作で台座を含めて1.5mほどといった記事があるが、とてもそれほど古いは思えないし少々小ぶりな感もする。レプリカなのだろうか。前の2本の柱にはそれぞれ「右こんぴら道 左一のみや道」と刻まれる。
遍路道はこの地を左折し83番札所・一宮寺へと向かうが、高松街道は香東川を渡ることになる。

成合橋
左岸堤道を右に逸れる
現在香東川には「成合橋」が架かっているが、明治半ばまで橋はなかった。 「歴史の道調査報告書」には、「土地の古老によると、ここから堤をおりて、七つ八つの飛び石によって渡河し、増水の際は川人足によったという。江戸時代の渡河地点 は、現在の成合橋西詰より一〇〇m程南で、ここで堤を上がり、正面の幅四m程の細い道に入る」とある。
成合橋を渡り、橋の西詰を左折し、堤を少し上流に向かう。直ぐ右に斜めに逸れる道があり、その道を南西に進む。

県道282号合流点に金毘羅燈籠
少し進むと、再び県道282号と合流する。合流地点の右角に、寛政9年(1797)の金毘羅燈籠がある。 近くの古老の話によると、成合橋東詰の近くにあったものが、30年程前に現在地に移されたとのことである( 「歴史の道調査報告書」)。
このあたりから円座町に入る。『古今讃岐名勝図絵』に、「円座(菅を円形に編んだ敷物)を造る工此郷に居る因りて郷名を得」とあるように、円座を作る職人が居住していたことに由来する。この円座を作る技法は一子相伝の秘術とされており、今は技法は伝わっていない( 「歴史の道調査報告書」)。

金毘羅燈籠
県道合流点から直ぐ南で、国道32号円座バイパスと交わる 。バイパスを南に渡り、少し南に下ると、右手の植え込みの中に(2023年12月現在、百円ショップDaiso店)、正面に大きく「金」、右面に「長柄/若講中」と刻まれた自然石の金毘羅燈籠があった。
傍にあった案内には、「金毘羅毘羅燈籠 この前の道は、高松城下常盤橋から丸亀町を南下し、栗林町の御林の分かれ股に至り、小山、円座、岡本、滝宮を経て、海の神様として信仰の厚い金刀比羅宮へ通じる幹線道路で「金毘羅羅街道」と呼んでいます。
この街道は、昔こんぴら参りの人たちが沢山往き来していましした。円座横内には、金刀比羅末社があり、この近くに休憩所や宿屋があってたいへんにぎわっていました。また、街道沿いには、旅人の道案内として金毘羅燈籠がありました。
この燈籠には「金」の印が刻まれ、長柄(現在の永井) 若講中と記してあり、毎晩燈火を献じていました。金毘羅燈籠は、ここから北のバイパス交差点旧道端と横内の四つ辻にあります。さらに沿道最大の立派な燈籠が西山崎町石橋にありましたが、現在、山崎八幡神社の境内に移転しています」とあった。 「永井」はこの燈籠がある地域名。地元の方により寄進されたものだ、

横内の四つ辻
金刀比羅末社
少し南でクロスする県道12号線さらに少し南に進むと、右手に石造物が多く並ぶ四つ辻にあたる。 地名より「横内の四つ辻 」と呼ばれる。この四つ辻は、高松道とへんろ道(一宮寺に至る)が交差する交通の要所であった。 「歴史の道調査報告書」には、「近くの古老によると金毘羅参りの人や遍路の通行が多く、戦前までは 四 軒の宿があったそう で ある 」と記す。
史跡 横内の四つ辻
社の傍の案内には、「史跡 横内の四つ辻は、古代の南海道(官道)と金比羅街道との交差点で、多くの旅人が往来し、たいへん繁盛した土地であります。
金刀比羅末社
幕末のころ、この地に「金」の御幣が天から降ってきました。地元の人々は本社の許しを得て、御弊を祀る末社を建てました。
金比羅燈籠と道しるべ
右が道標。「高松、一宮の」
文字が読める
金比羅さんに参詣する旅人の道案内としてつくられた燈籠と道しるべがあります。
地蔵
旅人の健康と安全を祈願するため地蔵が安置されていましたが、道路の拡張工事のため西方50mに移転しています。構内の地蔵盆は9月23日夜、近在の人たちがたくさん集り賑やかに行われていました。
大納言頼経の墓
大納言の文字が読める
鎌倉幕府四代摂家将軍頼経は、北条氏に追われ讃岐国に落ちてきました。因縁の深いこの地に墓がつくられ、中に五輪の骨壷が納められています。常に四季の花が供えられ、線香の香りが絶えません」とあった。
「歴史の道調査報告書」には、「今でも、金毘羅の大祭の日には、この末社にも幟が立てられている。 その右横に、笠に「金」、正面に「大権現」と刻まれた金毘羅燈籠があり、さらにその右横には「一宮」「高松」などと刻まれた天保四年(一八三三)の道標 がある。その道標の前には、五角柱で「大納言頼經神霊」と刻まれた石造物 が建っている」とある。
道標の「一宮」「高松」は読める。大納言はかろうじて読めた。
遍路道
この四つ辻は80番札所国分寺から83番札所一宮寺へ辿る途次一度通ったことがある。通常であれば80番札所から国分台・五色台に上り81番札所白峯寺より82番根香寺を経て鬼無へと下りて前述の標石2基のあった遍路道へと辿るのだが、80番札所国分寺から81番札所白峯寺・82番根香寺へと向かう国分台・五色台への上りが遍路転がしと呼ばれるような急坂のため、79番札所から81番札所白峯寺、82番根香寺を打ち終えて80番札所国分寺へと下るお遍路さんもいたようで、それがこの遍路道である。

横内の地蔵堂
横内の四つ辻から少し西へ遍路道を戻ったところに地蔵堂が建つ。案内にあった地蔵堂が移されたもの。「歴史の道調査報告書」には、「かつて横内の四つ辻の道幅が今の半分程だった頃には、横内の地蔵堂も北面して建っており、その頃は奥が広く、遍路の一夜の宿としても使われていた。(聞き取り)。堂は東を向き、コンクリート製になり、奥行もなく、外観は昔の面影を残していないが、堂の中には、普通りうつむきかげんの地蔵が祀られている。 地蔵の横に大師像も祀られているが、これは他から持ってきたものらしい」とあった。

横内の四つ辻から東に向かい香東川に架かる円座橋を渡り83番札所に向かう遍路道と別れ、高松街道は県道を南下する。

山崎の地蔵堂
ほどなく円座町を離れ西山崎町に入る。町名の由来はこの地の北東に建つ山崎八幡(山城国の山崎八幡から勧請された)から、また摂津の豪族山崎氏がこの地に移住したとか、地形によるとか諸説ある(「歴史の道調査報告書」)。
道を南下すると古川という幅数メートルの川にあたる。川にかかる山崎橋の北詰、川に沿って進む道との分岐転角に山崎地蔵堂が建つ。堂の横には、「世話人/古川總同行」などと刻まれた弘化四年(一八四七)の小さな石碑が立ち、堂の中には、地蔵尊二体と観音像一体が祀られている(「歴史の道調査報告書」)。
山崎八幡宮に移された燈籠

●「歴史の道調査報告書」には「細道を地蔵堂から二〇m程進んだ道の左側に、大きな燈籠があったのだが、昭和五十五年に山崎八幡宮の境内に移されている。この文久元年(一八六一)の燈籠 は、笠の四面に「山・天・金・石」と刻まれており、山崎八幡宮、綱敷天満宮、金刀比羅宮、石鎚神社の四社に献燈するためのものであることがわかる」とする。山崎神社境内には立派な燈籠が立っていた。
細道を20mほど進んだ?藩政期には山崎橋は掛かっておらず、川を飛び石で渡ったというから、この金毘羅燈籠の辺りが渡河地点であったのだろうか。

仏生山道分岐点に標石
左高松道」
「右仏生山道」
「紀元二千五百六十年」の文字
山崎橋を越えたその直ぐ先、県道44号の高架と交差する。4車線の道路。県道にしてはなんだかちょっと違和感。この県道44号円座香南線は高松高速道と高松空港を結ぶ高規格道路として規格されたようだ。一般部と専用部よりなるが、県の財政上に問題もあり専用部は部分的になったという。この箇所はその名残りかも。
県道44号の交差点高架部を潜り県道282号はしばらく南下し、高松市岡本町の交差点で県道170号とクロスする。変形四つ辻となっているこの交差部から街道は、東西に走る県道170号と南北に走る県道282号の間を左斜めに入る道を進む。20m程進むと道の左手、北東から来る道との分岐点に標石が立つ。「左高松道」「右仏生山道」 「紀元二千五百六十年」などと刻んだ、明治37年建立の標石だ。
仏生山道
分岐点を北東に進む道を進むと仏生山道。「歴史の道調査報告書」には、「岡本・三軒屋川原・仏生山・妙同石・西三谷と結び、高松道と中筋往環を結ぶ近道であった。三本松からの金毘羅参詣道として、よく利用されていたようである。今でも、この小道を金毘羅街道と呼ぶ人もいる」とあった。 少し南下すると県道282号に復帰する。
岡本町
岡本はかつて、宿場町として栄えていた。岡本から金毘羅まではおよそ五里あり、一日でちょうど往復できる距離で、東讃からの参拝者にとって、泊まるのに都合が良い場所だったのである。近くの古老によると、大正の頃でも宿が五軒程あり、うどん屋、風呂屋、商店などが軒を並べていたそうである(「歴史の道調査報告書」)。

ひょうたん池傍の金毘羅燈籠と地蔵堂
道標から直ぐ、再び県道292号に合流する。県道北沿いにあるひょうたん池の堤に、道に面して金毘羅燈籠とお堂が見える。「象頭山大権現」と刻まれた金毘羅燈籠は文化15年(1818)の建立。
「歴史の道調査報告書」には、「石の四面には、「高松鶴竹組講」と十二人の寄進者 名 が刻まれている。こ の燈籠は、もとは今より五m程東、つまり旧国道(私注;現在は県道282号)のセンターライン付近にあったという。それが、国道ができる時、ひょうたん池の南部が六m程の幅で埋め立て られ、もとの池の堤の上から、今の場所へ移されたわけである。
近くの古老によると、この燈籠は、このあたりに「サンヤ」という宿があり、そこを定宿としていた高松鶴竹組講中や十二名の人々が寄進して、街道の向かい側に建てたものだという。 金毘羅さんへの奉納に際して、宿が仲介の労をとることは、琴平町内の宿ではよく行われていたことであるが、街道沿いの宿でも行われていたのである」とあった。
「サンヤ」という宿は取り壊されたのだろうか、その建屋らしきものはみあたらなかった。
お堂は地蔵尊を祀る。地蔵堂については、台座がふさがれていることもあって、 残念ながら地蔵の 由来、 原位置とも不明である(「歴史の道調査報告書」)。

三ッ池地蔵尊
県道282号をちょっと進み、琴平電鉄琴平線の岡本駅の辺りで県道を右に逸れる道がある。高松街道はこの道に入る。直ぐ先お堂を挟むように道が左右に分かれる。高松街道は右に入る。
お堂に祀られているのは三ッ池地蔵尊 である。堂内には「平岡三つ池地蔵尊縁起」が長文の漢字カナかな交じり文で説明されているが、ちょっと読みにくい。「歴史の道調査報告書」には、「高松藩の一家老の掌中の玉ともいうべき娘が大病の末亡くなり、その娘の遺言によって、地蔵を建立すべく藩主に許しを求めたところ、これを許され、藩内の月参講の協力を得て、ここにその地蔵尊ができたのである。台座には、「三界萬霊」・「右こんひら道」「左やまだ道」などと刻まれている。
やまだ道の向かう山田(綾河町山田?)に何があるのかあれこれチェックしたがわからなかった。

旧道に入る
池の先で下側の道を進む
一瞬だが土径となる
三ッ池地蔵尊から先、民家の間の道を進むと右手に池がある。池に沿って舗装された道を進むと道が少し狭くなる。その先で舗装された道は二つに分かれる。下側の道を進むと舗装が切れ土径となる。

その先舗装道にでるが
直ぐ石垣下の細路を西進む()
その先で舗装道が現れる。左手には干上がった池(注;「歴史の道調査報告書」に池とあるが池の姿はない)に沿って更に西進すると、右手に造成された団地との間の間を区切る石崖下と民家の間の細い道を進む。石崖から流れ出た水で足元がとられそうになる。そのまま西進すると県道39号に出る。要は、三ッ池地蔵尊からひたすら西進み県道39号まで進むということだ。

県道282号と県道39号の交差点に自然石燈籠と地蔵堂
県道交差点の東南角に自然石燈籠と地蔵堂が並ぶという。県道39号一筋手前を左折し県道282号・国分寺福家交差点に出る。「歴史の道調査報告書」には、「地蔵堂には丸彫りの石仏が二体と、細長い石柱に刻まれたものが二体ある。丸彫りのものは近くの墓地にあったものを移動してきた。石柱の方はここから南へしばらく行ったところにある向坂橋の橋げた六本にそれぞれ刻まれていたものを、橋の架け替えをした時に二本をゆずり受けてここへ安置したものである。八月十七日には地蔵市が行なわれている。
燈籠 は自然石の大きなもので、安政五年(一八五八)の建立になる。笠石と火袋は後補のようである」とする。

金毘羅燈籠
昔の徒河地点
高松街道に戻る。県道39号をクロスした街道は本津川にあたる。往昔は橋もなく徒河したようだが、現在も橋はなく、左岸はステップがあり川まで下りることができそうだが、右岸は護岸で這い上がることもできそうもない。
県道292号に戻り相生橋を渡り、街道に復帰。道が西へと大きく向きを変えるあたりに金毘羅燈籠が立つ。「四角い燈籠で文化十二年(一八一五)の建立である。「金毘羅大権現」が道に背を向けているのは後に手が加わったものか。場所はほぼ昔のままだという(「歴史の道調査報告書」)」。

石碑と地蔵堂
正面に挿頭山を見ながら進むと
石碑とお堂
正面に挿頭山(かざしやま)を見ながら田圃の中を抜ける街道を西進。先に進むみ緩やかな道は高松市国分寺町福家と綾歌郡綾川町の境を進むことになる。
ゆるやかな坂を上りつめると「左側に石碑と堂が並んで立つ。石碑は慶応元年(一八六五)の建立で「薬師如来」と刻まれており、土地の人は牛の墓といっている。 堂の方は文久二年(一八六二)建立の地蔵菩薩の石仏が祀られている。 昔はこのあたりは藪でさびしいところだったという」と「歴史の道調査報告書」は記す。

十三塚の集落
道を進むと十三塚の集落に入る。「歴史の道調査報告書」には、「ここはかざし山の中腹を走る街道 に沿ってひらけたところで、旧畑田村では一番のマチであった。うどん屋、風呂屋、豆腐屋、饅頭屋、散髪屋、鳥屋、桶屋などが並んでおり、今も屋号として残っている。またカイショ(会所)という家もあった。高松から人力車に乗ってくる場合は、 十三塚までくると一服していたそうである。
金毘羅燈籠
「歴史の道調査報告書」には「もとの散髪屋のカド先に大きな燈籠 が立っている。明治二十五年の建立で大正五年に「建直」をしたと刻まれている。なかなか形のよい燈籠である」とあるが、現在は撤去されたのか見つけることができなかった。
十三塚
十三塚(若宮)
写真左端、右端の小祠が十三塚の一部
「歴史の道調査報告書」には、「ここから少し行くと二股道になる。 左へいけば中植の方へおりていく。 昔の学校道である。このあたりの南側の民家の間に点々と塚が並んでいるが、 これが有名な十三塚 である。 県下には十数箇所残っているが完全な形で残っているのはここだけだという。
中心になる塚を「若宮さん」と呼び、毎年十月には頭屋がたって祭りを行っている。 あらたかな塚だといって子ども達も塚を遊び場にはしない。粗末にあつかうと罰があたるといっている。
「若宮さん」は願い事をよく聞いてくれる神だといい、またオキャクの折にお膳を貸してくれたという伝説も残っている」とする。この説明では十三塚の場所を特定するのは困難だが地図に「十三塚」のフラグが立っていたのでそこを目指す。高松街道に面する民家の裏側に社のような風情の石柱が立つ小さな塚に祠が祀られる。これが「若宮」のようだった。
その他の塚は全く見当がつかないのだが、彷徨っていると若宮の東、県道に南に下りる道の西側の民家に挟まれた草地に2基の祠があった。塚と言えば塚といったささやかな塚ではあった。
有名な十三塚ということだが、よく知らない。一説には、屋島の合戦に敗れて落ち延びた平家の公達(もしくはお姫様と侍女たち)が、このあたりで追っ手に討たれたそうで、地元の人たちがそのお墓をつくったのが、十三塚といった記事を見かけた。

十三塚のこんぴらさん
高松道は上述の二股を右にとる。坂を上りつめると道の右手に神社がある 。 「十三塚のこんぴらさん」で毎年旧八月一日のハッサクには夜おそくまで参詣人でにぎわったという。
ここの上り口の西側に昭和の初め頃(と思われる) まで茶堂があった。周囲が吹きぬけの堂で中央に炉があり、大きなかんすがかかっていたという。昔、ここで道行く人に茶の接待をしていたといい、ハッサクには老人達が集って子ども達に麦の菓子を接待していたそうである(「歴史の道調査報告書」)。 参道途中の小屋掛け風の建屋が面白い。鳥居の扁額には「地神宮金毘羅大権現」とあった。
参道途中の小屋掛けがなかなな、いい。
金毘羅燈籠
左の灯籠は集落より移された?
また鳥居手前に対になった石燈籠が立つのだが、その前に1基だけの金毘羅燈籠が立つ。対になっていないのはなんとなく不自然。チェックすると移されたものとのこと。
妄想ではあるが、上述撤去されたと記した金毘羅燈籠ではないだろうか。「歴史の道調査報告書」に掲載されている姿と似ているように思える。
また、対になった石燈籠には「金毘羅大権現」「地神宮」と刻まれていた。「地神宮」と「金毘羅大権現」の関係などチェックしたいと思うのだが、ここではしばらく思考停止。

法然上人の牛岩・馬岩の仮寝小屋
地図に「法然上人の牛岩・馬岩の仮寝小屋」のフラグが立つ。十三塚のこんぴらさんの少し西。大岩が二つ並ぶ。法然上人が当地を巡錫中、旧金毘羅街道筋の柿木畑の中にある牛岩と馬岩の間に仮小屋を作られ宿とされた、と。どちらが馬で、どちらが牛かわからない。




茶堂の井戸
「こんぴらさん」の前から南へおりていく細道があるが、これはマショウの道だといい、かざし山と南の生子山(私注;ううこやま)をむすんでいる。 夜になると天狗がとんだり、首のない馬が走ったりする。また茶堂のところにも縞の着物を着た 「お爺」が出たという話も残っている。「こんぴらさん」のところが坂の頂上で、ここから下りになる。右側に茶堂で使用したという井戸がある(「歴史の道調査報告書」)。
こんぴらさんあたりが最高地点。井戸の前の道を下ると遠望が楽しめる。


陶の地蔵堂
二股を県道にでることなく直進し団地に
一旦県道に出るが直ぐ右に逸れ土径に
緩やかな坂道を下ると道はふたつにわかれる。街道は右手。先に進むと宅地開発された畑田団地に入る。昔の道は残っていない。成り行きで進むが、西端は池があり先に進めない。仕方なく県道282号に一度出て、地図に「破線」で示される直ぐ県道から右に逸れるルートに入る。
この畑地が旧道のようだが県道に迂回
その先で県道を右に逸れ陶の地蔵堂に
が、そこは民家と耕地の間の畦道といったもの。畦道は直ぐ県道に出るが、「破線」はその先も県道から右に逸れて記されるがすぐ畑となる。畦道は通れるようにも思えるのだが、今回は遠慮し県道迂回し、少し先に進むと少し広い道が街道想定ルートへと向かう。県道を右に逸れ道を進むと地蔵堂が建っていた。高松街道のオンコースに復帰。

吉盛神社
道なりに進むと県道282号に合流する。道の左手に吉盛神社。「歴史の道調査報告書」には、「平吉盛という平家落人を祀ってあるといい、「目の神様」として信仰されている。 「吉盛さん」は馬に乗って逃げてきて、井戸の中へ隠れたといい、その井戸は現在では道の下になっているが、同じ水脈をたどって境内に井戸が掘られている。また境内には吉盛さんの乗ってきた馬と馬丁の墓も残っている。 ここの祭りは盆の二十日で、昔はジュウヒチドウといって花火が盛んであった。以前は芝居も行なわれていた」という。
「歴史の道調査報告書」には吉盛荒神社 とあったが、扁額には「吉盛神社」とあった。

北宮神社御旅所北側に出る
旧道は畑や建屋で歩けない
唯一「新道を潜る」箇所より御旅所に出る
「吉盛神社」から先、「歴史の道調査報告書」には「ここから一本松まではほぼ今の道と 同じである。ガソリンスタンドの西から右へ下りていく道があるが、これが街道である。 民家の庭先をかすめるようにして進み、新道の下をくぐる 。このあたりを一本松と呼び、現在の国道(私注;県道282号)と新道(農免道路)との交差点のあたりに大松があったところからついた名だという。しかし、それは昭和二十年代に台風でたおれてしまったそうである。
道は私道のようなところを進む。 左側の田んぼの中に軍人の石碑が立つ。やがて北宮神社の馬場先へ出る。左側には御旅所がある」とある。
北宮神社御旅所
このルートを探ろうとしたのだが、ガソリンスタンドも既に無く、県道北側には建屋が立ち並びどうも県道から逸れる道は見当たらない。時に左に逸れる道があり入り込むが直ぐに建屋で遮られる。 唯一、「新道の下をくぐる 」の箇所は残ってはいるが、西から新道を潜ればその先は行き止まりとなりUターンし新道に戻るといったもの。一応新道の下を潜り北宮神社の馬場先へと出る。一瞬ではあるが高松街道をトレースした。県道脇には北宮神社御旅所があった。
北宮八幡宮
馬場先参道を北に進むと北宮八幡宮がある。北宮は福家氏の創建になると伝えられ、陶東部の氏神である(「歴史の道調査報告書」)。




県道282号に出る
御旅所より西進し
金毘羅神社稲荷神社傍の県道に出る
「歴史の道調査報告書」には馬場先からのルートを「街道は馬場先を横切り、西へ進む。途中歩道(私注;国道?)と重なるがやがて右へそれて民家の裏へと入っていく。 道はだらだらと下りになり、下りきるとぐっと急坂を上る 。上りつめると国道と合流する。東に「大宮さん」として親しまれる大宮八幡宮の杜が見え、「こんぴらさん」と常夜燈も見える。この「こんぴらさん」の南側へ出てくる道は、香川郡川東から伸びてきた道で、 由佐坂下矢坪を経て金毘羅街道へ合流する道である。主要な脇道の一つであった」とする。
馬場先から田圃の脇の道を西に進み、一旦県道に出た後すぐ右に逸れる道に入り、道なりに進むと急坂を上り県道に出る。
金毘羅神社稲荷神社
「こんぴらさん」とは県道282号の南側にある金毘羅神社稲荷神社。ここは、上述の川東・由佐・坂下・矢坪を経て金毘羅参詣道高松街道に合流する主要な脇道の一つ。合流する角地に祀られている。街道に面している常夜燈には金毘羅大権現・鳥居には、金刀比羅宮・稲荷神社の石の扁額が付いてる。また社の前の燈籠にも「金」が彫られていて、石盥にも「金」が彫られている。
●「こんぴらさん」の東に大宮八幡宮とその境内に陶之宮、その隣に天満宮、そして少し南にくだったところに大宮神社の御旅所があった。

辻の岡地蔵堂
「こんぴらさん」から少し県道を進み、陶小学校を越えた辺りで県道を右に逸れる。その分岐点に「辻の岡地蔵堂」が建つ。十瓶山を背にしたお堂はなかなか、いい。
県道より一筋北の道を民家の間を縫うように進み県道が南へと向きを変える辺りで高松街道は県道282号に合流する。

県道二股分岐点に標石
県道二股分岐点の標石
街道は二股部の一筋手前を右に逸れて進む
南下した街道は富川を渡ると県道は二股となる。その分岐点に標石があり、「右ことひら 左やまだ道」と刻まれる。明治44年(1911)の建立という。 が、高松街道は二股の手前、県道を右に逸れる道とのこと。 明治44年にはこの道筋がメーンの街道になっていたということだろうか。
ともあれ、県道を右に逸れ民家の間の幅2mほどの道を県道の北側に沿って西進し、県道17号と県道288号が合流する辺りで高松街道は県道282号に復帰する。

県道282号に合流
線路を越えると直ぐ右に逸れ坂を上る
台地状の上を進み県道に出る
その先、「歴史の道調査報告書」は「琴電ガード下をくぐり、 右へ向いて旧道は上っていくが現在ははっきりわからなくなっている。民家への進入口のところから南は細い旧道が残っている。上りつめると民家の納屋の軒下に出る。そこから南へは砂利道が旧国道まで伸びている。やがて合流する。このあたりを通称一里山という。農協の本所あたりに大松があったのであろうか」とある。
が、現在は状況が全く異なっていた。ガードを潜ると直ぐ右に逸れる舗装された坂道があり、そこを上り切ると台地上といった地形となる。県道は遥か昔富川に流れ込んでいたであろう谷筋を進んでいるようだ。台地上を進む道はその先で谷筋を登ってきた県道に合流する。
農協の本所が何を意味するのか不明だが、県道合流点の直ぐ先にJA香川県中讃営農センターがある。そこのことだろうか。

県道282号を左に逸れる
県道を左に逸れる分岐点に燈籠は無かった
「街道は現在の街道(私注:県道282号)を西へ進む。農協本所(私注;JA香川県中讃営農センターのこと?)から西へしばらく行くと俗に藤の棚の四つ辻という小さな四つ辻に出る。 ここが陶と萱原の村境である。萱原村へと入る。
スーパーマーケット(私注;2023年12月現在マルナカ)の西で旧道は左へ入る。新旧の別れ股に自然石の燈籠が建っている。元治二年(八六五)の建立で台座と本体は別の石質である。後ろ(南側)には火袋へ灯を入れるための段がこしらえてある。ここから滝宮までは比較的昔の雰囲気を残した道となる。民家の軒先をぬけ、田んぼの端を通り、池の堤を歩く道はほぼ昔のままといってよい。右側に現在の道が見え隠れする(「歴史の道調査報告書」) 」とある。が、県道を左へ逸れる別れ股に現在自然石の燈籠は見当たらなかった。

滝宮経塚古墳
県道185号を越え更に蛇行しながら道を西進すると、道の左手、県道282号との間の畑の中にこんもりとした塚が見える。「これはマルコ塚 といい、滝宮両社の別当職を務めた龍燈院住僧空澄の墓であるといい伝えられている。このあたりはもう滝宮である(「歴史の道調査報告書」)。
地図には「滝宮経塚古墳」と記されており「マルコ塚 」では検索ヒットしなかった。径13mほどの円墳に見えた。かつて経筒が見つかったとされている。

久保太郎右衛門頌徳碑
右手に県道282号を見遣りながら県道一筋南の道を蛇行しながら西進、県道185号手前の道の左手に広場があり道端に金毘羅燈籠、その奥2基の石碑の前に自然石の燈籠が建つ。
これはこの地を潤す萱原用水をひらいた恩人久保太郎右衛門の碑と萱原用水改修の記念碑である。 広場と旧道の角に立つ燈籠は「八百萬御神」と刻まれた明治二十九年の建立で、台座には「西氏子中」とある。もとは今より少し東の田の岸にあったのを移転してきたものである(「歴史の道調査報告書」)。
久保太郎右衛門
「八百萬御神」と刻まれた燈籠
「愛媛大学社会連携推進機構」のページには、「萱原周辺は水利の便が悪く、用水確保に苦労していました。このため、ため池が多く築かれ、水田が開かれていましたが、日照りがあると稲は立ち枯れになることもありました。
、久保太郎右衛門は、延宝四年(一六七六) 萱原村(現在の綾川町萱原付近)に生まれ、二〇歳で庄屋になった人です。太郎右衛門は、農民の苦しみを何とかして救済しようとして、綾川の水を水路に入れ、多くの溜池に注ぐことを考えました。自ら測量をし、山田村(現在の綾川町山田付近)の正末から大羽茂(おおはも)池に達する用水路の計画を立てました。
この計画を高松藩庁に願い出ましたが、許可はすぐには出ませんでした。重ねて願いをしていると右衛門が二八歳の元禄一六年(一七〇三)、一部について許可が出て、数ヶ月で工事を完成しました しかし、水は池に届かなかったので、藩主に直訴してもとの計画を認めるよう嘆願しました。そこで太郎は捕らわれ、投獄されました。
太郎右衛門の妻は金比羅さんにお参りし、太郎右衛門を父母のように慕っていた村人も釈放を懇願しました。 釈放後、太郎右衛門は藩老に用水路計画の事情を涙ながらに訴え、その志に藩老は感激して、宝永4年(一七〇七)、太郎右衛門に許可が下りました。 太郎右衛門は早速用水取り入れ口からの水路の工事にかかり、その年のうちに完成しました。三二歳でした。
この直原用水の完成によって、村々は綾川の恵みに浴することになり、開拓も進みました。
背景
萱原(かやはら)用水は、綾川町正末で綾川の水を取り入れ、大羽茂池に達する14kmの用水で、綾川町萱原周辺の灌漑用水源です。かつてこの辺りは干害に苦しめられることが多く、特に元禄10年(1697)から連続して干害に見舞われ、元禄14年(1701)には270人が餓死しそうになったそうです。この窮状を救うために奮闘したのが、菅原村の庄屋であった久保太郎右衛門です。大正9年(1919)に建立された太郎右衛門の彰徳碑は、 今日も地域の人々に大切にされています」といった記事が掲載されていた。

県道282号に出る
相撲取の墓を越え
民家の間を道なりに進み
更に道を東進すると、道の左手のコンクリートが敷かれたところにぽつんとお墓が立つ。行きだおれになった相撲取の墓だといわれている。正面には「瀧千鳥の墓」と刻まれ、明治三十一年の建立である。台座には発起人、頭取世話人と並んで「角力取中」と刻まれ、他の相撲取の名も見える(「歴史の道調査報告書」)。
琴電をクロスし
水路橋を右に折れると県道に出る

その先直ぐに四つ辻。高松街道は右に折れ、県道手前の左に逸れる道に入る。民家に挟まれた狭い道を進むと高松琴平電鉄線にあたる。踏切もなにもない。気を付けながら単線の路盤を越え水路に沿って進み、小橋を渡り北に向かうと県道282号に出る。

端の地蔵さん
「歴史の道調査報告書」に記された内容をまとめると、「国道と合流したところは三つ辻になっている 。北から伸び てきた道は府中や猿王面からの道で、 香西や鬼無、国分方面の人々の金毘羅道でもあった。このあたりを端 (はし)というが、かつての滝宮の東の端ということである。いいかえれば、ここから、『「讃岐国名勝図会」』 に「旅舎軒を並べて客を宿す を一村の業とす」と記された高松琴平間で最大 の 宿場町、滝宮がはじまるのである。
この端の三つ辻を見守るようにして地蔵堂が建つ 。
正面に「三界萬霊」の文字は読める
「端の地蔵さん」として親しまれ、堂前には手水鉢の台座になっているが、享保四年(一七一九)の建立で、正面には「三界萬霊右ふっ志やうざんミち 左たかま津志ろみ祢」と刻まれる 。右側面には「願主高松金毘羅月参講中」と刻まれているが、これは高松家中の金毘羅へ月参する講だそうである。 「三界萬霊」の文字からして、元来は石仏の台座のようである。
もう一つ、堂の左側に立つ大正十四年建立の道標は、上部に大師像を浮彫りにし、手形と「遍んろ道」と刻みこんである。右肩に「第三十六番」とあるのは一国八十八ヶ所という讃岐一国内での八十八ヶ所の札所を示す番号で、同町北村の菩提院がそれである。これも旧道の方にあったものをここへ移動させてきたもののようである」となる。
残念ながら大正十四年建立の道標は見当たらなかった。

滝宮天満宮
往昔門前町、宿場町、 そして近郷の買物町として賑わったであろう滝宮も家並みも現在は落ち着いた佇まいとなっている。地蔵堂の立つ端の辻から少し西に向かうと右側に鳥居が立っている。 ここに滝宮天満宮がある 。ここは菅原道真公の官舎のあったところだといい、菅公が筑紫国で亡くなった後、生前菅公と親交のあった龍燈院住僧空澄が天暦二年(九四八)に菅公の霊をなぐさめるため一社を建立したのにはじまると伝えられる。後、代々の讃岐の国の有力者に保護されてきた。現在では学問の神様として信仰を集めている。大祭は四月の二四、五日で、二四日にはうそ替え神事が行なわれる(「歴史の道調査報告書」)。
由緒
境内にあった由緒には「登竜門といわれる滝宮天満宮の由縁 当天満宮は菅原道真公が讃岐の国司として四年間住まわれた場所です。道真公が地方で唯一政権を取った所でその経験を生かして京都へ帰り、大変な出世をされました。その由縁でこの地は立身出世の登竜門といわれ滝宮天満宮 京都 太宰府の順で参拝すると良いとされています。
御祭神菅原道真か祈り農民たちが喜び踊った。滝宮宮念仏踊(国指定需要無形文化財)がユネス無形文化遺産に登録が決定されました。
令和五年は八月二十七日(日曜日)に奉納予定です踊り組の人達が千百年余り受け継いだ滝宮の念仏踊りにご参拝下さい」とあった。
相撲の土俵
境内には相撲土俵も残されていた。子供の頃、特段の娯楽がないとき近くのお寺の相撲土俵に多くの人が集まり一時の娯楽を楽しんでいたことを思い出した。
それはそれとして、相撲の神様は野見宿禰命(のみのすくねのみこと)であり、野見宿禰は菅原氏の先祖。は野見宿禰命の子孫と言われる菅原道真との縁により、境内に土俵を造り、毎年9月25日奉納相撲を行っているとのとのである。
菅原の道真公の人物がが奉納されている拝殿にお参りし、左隣にある滝宮神社へ向かう。その途次、「滝宮天満宮・滝宮がうどん発祥の地と言われる由縁」の案内があった
滝宮天満宮・滝宮がうどん発祥の地と言われる由縁
「滝宮天満宮・滝宮がうどん発祥の地と言われる由縁滝宮天満宮の前身とも言われる瀧宮龍燈院(うどん) 発祥の地は、空海が甥 智泉大徳 (空海十大弟子の一人)が初代住職となり空海が遣唐使として唐に渡り習いし「うどん」を智泉に教え智泉は官吏として滝宮に住まいし病身な父(菅原氏・道真が一族) 母(佐伯氏・空海が姉)に食してもらったのが「うどん」発祥の地と言われる由縁です。
滝宮天満宮では、毎年四月二十四日に香 川 県生麺業界・綾川町のうどん研究会により献麺式を執り行いその後龍燈院跡地に年一度だけ仮舎を設え代々の報恩感謝の祈りを捧げ皆様の健康・長寿を祈願しております。 尚常には龍燈院代々の僧の方々は、天満宮拝殿内左側の仮舎に祀り供養いたしております。
智泉(ちせん)七八九~八二五
智泉が九才の時、その秀才ぶりに驚いた空海は都に連れ帰り、大安寺の勤操の元で学ばせた。十六歳で受戒し空海の帰朝後は、ただちに両部の灌頂を受けている。その後龍燈院に一時帰郷し父を看取り都に戻り高雄山に居した。その時橘皇后から皇子誕生の祈祷を請われ、見事に成就させた。その成功以来、智泉への崇敬はましたという。
だが天長二年(825) 病を患い、同年二月十四日高野山本院にて、三十七歳で寂した。 空海が愛弟子の死にあたり、描いた影像は、に、(涕の御影)といわれるものである。 母は後に剃髪して、智縁尼と名のり、常に空海のもとで布教に務めたという」と案内にあった。
龍燈院跡
うどん発祥の地の案内横に「代々の御魂を奉る滝宮天満宮でも空海開宗千二百年祈年として平成二十六年から「うどん柄の健康長寿」のお守りを授与しております。
又、平成二十七年には跡地に龍燈院仮所を設え、弘法大師ゆかりのうどんの発祥の地として弘法大師(三月二十一日亡) 智泉大徳(二月十四日亡)又代々の先人に報恩謝徳の真心を持って合掌礼拝にて徳んで頂きたく思っております.
(中略)初代智泉大徳(弘法大師甥)の廟は高野山にあります」といった案内。うどん発祥の地の案内のあるこの地が龍燈院跡であることがわかった。

滝宮神社
滝宮天満宮から龍燈院跡を西進すると滝宮神社に出る。「歴史の道調査報告書」には「明治までは瀧宮牛頭天王社といわれ、現在でも通称をテンノウサンと呼ばれている。由来としては和銅二年(七〇九)六月八日の創建と伝えられ、行基菩薩が滝宮巡錫のみぎり、 綾川の渕(オミタラサンと呼ばれる)の上で修行をしていると渕の内より神託があり、社を建立したのがはじまりだといわれている(『滝宮神社由緒』より)。
本殿左、八社之宮
田賀稲荷社(左)、伊佐雄神社、八社之宮(右)
古くより牛馬の神として讃岐一円の信仰を集め、また菅公雨乞いの際、降雨を喜んだ百姓達が踊った のにはじまる滝宮念仏踊はここがはじまりとされ、現在でも毎年八月二五日に綾南・綾上両町の踊り組によって踊りが奉納されている。大祭は十月七日と八日である。滝宮の氏神である。かつては大祭、念仏の他にも祭りが多く、旧六月八日の八日市は夏市として大いににぎわっていた。他に旧三月八日のダイハンギョウ、八月八日の花の会、九月の由賀さんなど何回もあって人々のよい楽しみであったという。なお昔は、滝宮では古く十三回も市や祭りがあり、客が多いので滝宮へ嫁にいく人はアシライの良い人でないと務まらないといわれていた」とある。
社殿に礼拝し境内にあるという法然上人ゆかりの修行石を探し辺りを彷徨う。
国分石
境内を彷徨っていると、境内の西側、田賀稲荷社の傍の、綾川に近い草叢に奇妙な石が立つ。その前に「国分石」とある。讃岐の国の中心を示した石で、道真公によって建立されたとも言われている。国分石が立っている場所は香川県の東西南北の中心に位置しており、霊気が集まりやすく、古くはこの場所で護摩行などの修行も行われていた、といった記事もあった。「国分石」と刻まれた石碑には「大正十年」という文字が刻まれていた。
法然上人念佛修行石
国分石の前に結構新しい石碑があり、その横に「法然上人念佛修行石」と刻まれた古い石碑が立つ。 新しい石碑には「念佛誦追恩碑 法然上人念佛修行石 浄土宗開祖の法然上人は建永二年(一二〇七)讃岐に配流となった。その折滝宮のこの修行石の地にも立ち寄られ念佛教化されたこの時、神社で奉納されていた雨乞いの踊りをご覧になり、念佛を称えながら踊るように振り付けの指導をされたと伝えられている。
法然上人の讃岐配流八百年追恩のためにこの碑を建てる 平成二十年(二〇〇八)六月佛日 浄土宗南海教区」とあった。 この修行石を探すため結構彷徨い、一時は綾川縁まで下りて行ったりしたが、なんとか見つかり一安心。讃岐には配流された(本来は土佐であったよう)法然上人のゆかりの地が多く、何だか法然ゆかりの地と聞くと探す習慣となってしまった。
今回の散歩はこれでお終い。次回は滝宮から琴平を目指す。

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