土曜日, 1月 25, 2025

トルコの旅 (2)  パムッカレの石灰華段丘とヒエラポリス遺跡


第一回のメモは古代都市エフィソスの遺跡にまつわるあれこれがその眼目となった。エフィソスを実際に目にするまでは、都市の一角に残る建築遺跡程度に思っていたのだが、その規模は少し離れたアルテミス神殿跡を除いたエフィソスの遺跡だけでも1キロ四方の広さがあるようで、それもまだ全体の三分の一も発掘されていないという。
エフィソスの遺跡にはギリシャの女神といったギリシャ文明のレイヤーとローマ帝国のレイヤーがお折り重なる。またアルテミス神殿に祀られたアルテミス神はギリシャ以前のアナトリア半島で信仰された母神信仰を取り入れ、現地との融和を図ったギリシャ(イオニア)入植者の智恵、ローマ帝国時代となりキリスト教の浸透とともに消えていったアルテミス神信仰の顛末などを知ることができた。
さらには、古代の海上交通の要衝として栄えたエフィソス故のキリスト教の布教活動。キリスト教がローマ帝国の国教となるまでは迫害を受けながらも使徒パウロが布教活動をおこなっていたことも知ることができた。パウロがアルテミス神を否定していたことは当然のことではあるが興味深いエピソードではあった。
そんな古代都市エフィソスも入り江を活用した港が河川の土砂で埋まるとともに、都市機能が失われ廃墟と化していったことも地形フリークのわが身に深く刺さる歴史的事実であった。
トルコの旅2回目はパムッカレをメモする。

エフィソスからパムッカレへ

エフィソス遺跡、アルテミオン神殿見学を終え、石灰華段丘で知られるバムッカレへ向かう。約185キロ、3時間半のバスの旅。はっきりルートを確認していたわけではないのだが、Aiden(アイドゥン)の街を経由していったのであろう。
アルテミオンを出発したのが午後ということもあり、当日は夕刻パムッカレの石灰華段丘のある丘を右手に見やりながら少し北にあるホテルに向かいAdempira Thermal & Spa Hotelに18時半頃到着し宿泊。翌日パムッカレ見学に向かった。

 


 Ayden(アイドゥン:英語表記ではAidin)
エフィソスから幹線道路を東に向かう。エフィソスの東側は地形が変化し、より高い地帯へと続く。Aidinの周辺地域は、高原地帯の一部となり、山地が広がる。この地域は、風光明媚な景色と豊かな自然が特徴で、トルコの他の地域と比べて比較的涼しい気候となっている。
Aydinはトルコの西部に位置する歴史的な都市。古代ギリシャ時代から存在しており、様々な文化と歴史が交差してきたが、特にオスマン帝国時代に重要な役割を果たした。 オスマン帝国時代に、Aydinは商業と文化の中心地として発展した。多くの学校、モスク、図書館が建設され、知識と文化の中心ともなった。また、Aydinはオスマン帝国の農業生産の中心地でもあり、特にオリーブオイルの生産で知られた。
Aydinは、2012年に行われた地方自治体の再編成により、街の中心地区は「Efeler」という名前に変更された。しかし、Aydin市自体は「メトロポリタン自治体」としてその名前を保っており、そのため、地図上では現在でも「Efeler市」ではなく「Aydin市」として残っている。

トラルレス(Tralles) by Google Map
Aydinには、ギリシャ、ローマ、オスマン帝国時代の遺跡がいくつかあるようだ。以下はその一部:
トラルレス(Tralles):古代ギリシャ時代の都市で、現在のAydin市の近くに位置している。Aydinもローマ、ビザンツ時代には「トラルレス(Tralleis)」と呼ばれていた。この都市には、ローマ時代のギムナジウムや劇場の遺跡が残っている。
ニュサ(Nysa):古代ギリシャの都市で、現在のSultanhisar地区に位置し。ニュサは、ミレトスの東に位置し、古代ギリシャの神話にも登場する都市。この都市には、古代のオーディトリアムや図書館の遺跡が残っている。
オスマン帝国時代の建造物:Aydin市内には、オスマン帝国時代に建てられたモスクや学校などの歴史的建造物が多く残っている。これらの建物は、オスマン帝国時代の建築技術や文化を感じることができる。

ヒエラポリス・パムッカレ

パムッカレの石灰華段丘を眺めながら丘陵上に向かう
真っ白の石灰華に覆われたパムッカレ
翌朝午前9時半ホテルを出発しパムッカレとヒエラポリスに向かった。とはいうものの、まえもってあれこれしらべているわけでもなく石灰華段丘のパムッカレに行くのだと思っており、そこにヒエラポリスという古代遺跡があることなど知る由もなかった。 
旅行日程にも「パムッカレ観光」と書かれており、その下に「ヒエラポリス」と申し訳程度に付記されていた。ツアーの眼目もパムッカレの石灰華段丘観光ではあったのだろう。
それはともあれ、ホテルから南に少し戻ると、雪に覆われたような真っ白の丘陵が現れる。周囲の丘陵はごく普通の山容ではあるだけに、少し奇妙な感もする。そこが石灰華(トラヴェルティン:Tranvertine)の段丘で知られる奇観パムッカレである。
バスで丘陵を上り駐車場に。駐車場のある丘陵上はごく普通の丘であり、石灰華段丘のパムッカレは山裾に向かって形成されている。


ビザンツ門(The Southern Byzantine Gate)
入口を入ると右手の高くなった丘陵を取り囲むような城壁跡がある。通路を進み石組みの門を潜る。
丘陵上に続く城壁らしきものがあり、城塞跡かと思っていた
案内には:(西暦5世紀初頭南ビザンツ門)。この門はトラバーチン(Tranvertine :石灰華)ブロックと再利用された石材(いつかは大理石製)で建造されており、両側に2つの四角い塔が配置されている。北ビザンツ門と同様に、大きなアーチが一枚岩のアーキトレーブ(Architrave:横木)に支えられている点が特徴。しかし、実際の門の高さは北ビザンツ門よりもやや低くなっている。最近の修復作業により、崩壊した石材が撤去され、壁の広範囲にわたる部分が再構築された」とあった。
この案内でこの地には石灰華段丘だけでなく、なんらか遺跡があることをはじめて知った。
地図を見ると「ヒエラポリス・パムッカレ」とある。この段階では未だ「ヒエラポリス」ってなんだ?門構えからして城塞跡?といった為体ではあった。

南ビザンツ門もいかにも城塞跡といった造りであ
メモの段階でのチェック:南ビザンツ門(THE SOUTHERN BYZANTINE GATE)は、そのヒエラポリス遺跡の南端に位置する重要な門であり、古代都市の南側からの主要な入り口であったようだ。門はビザンツ時代の建築様式を反映しており、建設された時期はヒエラポリスがキリスト教都市として栄えていた時代のようである。




門から城壁らしきものが続く
説明に北ビザンツ門とあったが、南ビザンツ門は、ヒエラポリス遺跡のもう一方の主要な入り口である北ビザンツ門と対をなしていたとのこと。北門と同様の構造を持ちながら、門の高さや設計に若干の違いがあったようだ。また、門は防衛的・宗教的役割と共に北門から入り古代都市を抜けて近隣の集落や交易路に接続する主要なルートの一部でもあったとのことである。
門の左右には石垣が古代都市を囲むように続く。これは、5世紀にビザンツ帝国がヒエラポリスを要塞化する過程で建設した防御施設の一部とするためのようだ。この門は、周辺の壁や防御塔とともに都市への出入りを管理し、侵入者から都市を守るためのものであった所以である。壁に向かって水路溝のような遺構も見受けられた。

ギムナシオン(Gymnasium)
南門を潜ると、その先前方や左右、丘陵上から山地にかけて遺構が点在する。ヒエラポリスの遺跡であるのだが、砦跡?、などと思いながらも頭には白い石灰華段丘にブルーに映る美しい自然の奇観・世界遺産のパムッカレのことしかなく、お気楽に先に進んだ。
が、通路の先に円柱遺構がみえてくる。このあたりから何らかの遺跡?とは思い始めた。メモの段階でのチェック:
円柱のあるあてりを地図でチェックするとGymnasiumとあった:
ヒエラポリスのギムナシオン(Gymnasium)は、古代ローマ都市において市民が集い、教育や運動、社会活動の場として機能した重要な施設の一つ。遺跡内の中心的なエリアに位置していたと考えられている。他の主要な施設(例えば、浴場や劇場)に隣接していることが多く、都市生活の中心を構成する施設の一つとして設計されていた。
ギムナシオンは通常、以下のような構造を持っていたとする:
中央の広場(パレストラ:Palaestra):屋外での運動や競技が行われる広場で、周囲に柱廊(ポルチコ)が設けられている。ヒエラポリスのギムナシオンでも、パレストラは中心的な要素となっていた可能性がある。
教室や会議室:学問や哲学の講義が行われる部屋が備えられていた。
浴場エリア:ギムナシオンは浴場施設と組み合わせて設計されることが多く、運動後に入浴できるようになっていた。ヒエラポリスのギムナシオンも、大規模な浴場複合施設と関連していたとされている。
使用目的:ギムナシオンは、若者の教育や市民の身体鍛錬、知的交流の場として使われていた。
運動やスポーツ:若者が身体を鍛える場として利用され、レスリングやボクシング、ランニングなどが行われていた。
教育:文学、哲学、音楽、弁論術などが教えられる場所でもあった。
社交の場:市民が集まり、交流や討論を行う場としても機能していた。
また、ヒエラポリスのギムナシオンの独自性としては、ヒエラポリスは温泉地として知られ、多くの訪問者が集まる都市であったため、ギムナシオンも観光客や他都市の人々を受け入れる役割を果たしていた可能性がある。他のローマ都市に比べて、浴場施設との連携が強かったと考えられる。
現在、ヒエラポリスのギムナシオンの遺構は、柱や床のモザイク、一部の壁が発見されているが、大部分は損傷しているか埋もれている。

前もってこのような知識があれば点在する円柱遺構も見方が異なったのだろうけど、当日は見れども見えずの状態で石灰華段丘へと急いだ。

パムッカレの石灰華段丘
綿の城・パムッカレ
通路に従い左に折れ丘陵端に向かう。丘陵を取り囲むように丘陵裾まで白い石灰の「棚田」が広がる。「バムッカレ (Pamukkale)」はトルコ語で、「綿の城」という意味。石灰の「棚田」の真っ白な見た目が、綿のようにふわふわした外観を連想させるため、この名前が付けられた。また、段々状に広がる棚がまるで「城」のように見えることから「綿の城」と呼ばれているとのことである。
が、残念ながら観光パンフレットでみるような美しいブルーの温泉水が溢れる石灰棚が圧倒的に少ない。また、当日の天候のためもあってか、太陽光が弱く、温泉水が流れる石灰棚も、キラキラと輝く美しい「棚田」とはほど遠い風情である。曇りの日に「仁淀ブルー」を見に行き落胆した心境である。
こういうイメージであったのだが 。写真 by Google Map
それでも丘陵裾まで広がる石灰棚に温泉水が張られていれば、それなりに見栄えがしたのだろうが、ほとんどの石灰棚に温泉水が流れていない。多くの観光客を収容するため林立したリゾートホテルが温泉水を利用したプールをつくったり、農業灌漑用に地下水が多用された影響もあってか、パムッカレに湧出する温泉水が減り、石灰棚に流れる温泉水は時間制限を行い、流量をコントロールしているようである。
いくつか限られた区画では靴を脱ぎ温泉水を蓄えた石灰棚に入れるようではあるが、それはごめんこうむり、山裾まで伸びる白い「棚田」の景観を眺める。
石灰華段丘生成のプロセス
で、何故にパムッカレにこのような白い石灰華の段丘ができたのだろうなどと思いを巡らす。その時はわかるはずもなく、メモの段階で確認するとそこには3つの大きな要因があるようだ。その3つとは、石灰岩の地質、活発な断層活動による地熱水、そして地熱水によってつくられる温泉水の特性である。
当日は温泉水もなくこのような状態

このあたりの地質は石灰岩よりなり、その石灰岩には炭酸カルシウムが含まれている。そして地下に蓄えられた雨水や地下水は石灰岩をゆっくりと溶かし炭酸カルシウムを溶解した地下水となる。その地下水は活発な断層活動による地熱水により加熱され、石灰岩の溶解がさらに促進される。こうして多量の炭酸カルシウムを溶解した地熱水は温泉水となって地表に湧き出す
温泉水が地表に出て空気に触れると、水温が下がり、温泉水に含まれる二酸化炭素が空気中に放出される。二酸化炭素が失われることで、水中の炭酸カルシウムの溶解度が低下する。こうして溶けていた炭酸カルシウムが水中で過飽和状態となり、固体として析出し、この析出した炭酸カルシウムが、岩や地形の表面に付着して石灰華を形成するわけである。 石灰華(英語で travertine )とは炭酸カルシウム(CaCO3)から成る堆積岩で、温泉や地下水が地表に湧き出る際に析出して形成される。
炭酸カルシウム(CaCO3)は、純粋な状態では白色の結晶である。パムッカレの石灰華が白いのは地下から供給される炭酸カルシウム(CaCO3)がほぼ純粋な状態であるためである。パムッカレの白い石灰華段丘形成の要因として挙げた温泉水の特性とはこのことを指す。
地表に湧き出た温泉水は流れる地形の傾斜に沿って、石灰華が層状に堆積する。この堆積が長期間繰り返されることで、棚田のような独特の段差状の構造が形成される。これが白い石灰華段丘が形成されるプロセスである。
●石灰華段丘の端が中央部に比べ高く壁のように周囲を囲む因
端が中央部に比べ高く壁のように周囲を囲む
石灰華段丘の端が中央部に比べ高く壁のように周囲を囲み温泉水を蓄えるのは、温泉水の流れの特徴と関係するようだ。つまり、中央部は水流が早く、端にいくと水流は停滞する。停滞すると蒸発と二酸化炭素(CO?)の放出が起こりやすい環境が整い、この結果、炭酸カルシウムが集中的に堆積し、周囲よりも高くなることがあるという。また、温泉水は石灰華段丘の端に沿って流れる際、表面張力の影響で端に水が集中することがある。この結果、端の部分で析出が進みやすくなる。そのほか、雨や風、温泉水の流れによる侵食が中央部で進むと、相対的に端が高く残るといった自然の浸食といった因も考えられる。こういった要因が重なって棚の壁が形成されるのだろう。
どうしてこの地だけに石灰華段丘
ここでちょっと疑問。このあたり一帯は石灰岩の地質という。では、なに故に付近一帯の丘に白い石灰棚がなく、パムッカレの丘に白い石灰華段丘ができたのだろう。
その理由には、以下のような特定の条件が揃っていたからであり、またそれぞれの条件が相互に作用し、この場所を特異な地形に仕上げているようだ。
パムッカレ地区だけが白い石灰華で覆われている。 写真 by Google Map
地熱源の位置:バムッカレの地下には地熱活動が非常に活発な地帯がある。この地域では、地下水が地熱によって加熱され、カルシウムを多く含む温泉水が特定の場所から湧き出している。他の石灰岩地質の丘にも地下水はあるかもしれないのだが、地熱活動が集中しているのはバムッカレ周辺だけである。
温泉水の流路:地下の断層構造や裂け目に沿って温泉水が地表に湧き出ることで、炭酸カルシウムを含んだ水が特定の場所に供給され続けている。この安定した水流がパムッカレにあるため石灰棚形成の重要な要素となっている。
地形の特徴・適切な傾斜:バムッカレの地形は、緩やかな傾斜を持つ丘陵地帯であり、湧き出た温泉水が自然に流れ落ちやすい構造になっている。水が傾斜を伝って広がることで、炭酸カルシウムが析出し、棚田のような段差状の地形が形成される。他の場所では地熱活動があっても、傾斜が急であるなど適切でない場合、水が滞留し、石灰華段丘のような広がりのある構造は形成されることはない。
水質の適合性・高濃度の炭酸カルシウム:湧き出る温泉水には、炭酸カルシウムと二酸化炭素が高濃度で含まれており、この水質が石灰華形成に最適となっている。他の石灰岩地質の地域では、温泉水に含まれる炭酸カルシウムの濃度が低かったり、二酸化炭素の放出が不十分だったりするため、石灰華の大規模な堆積が起こりにくい場合がある。
気候条件・乾燥した温暖な気候:この地域は比較的乾燥した気候で、温泉水が地表に広がると同時に蒸発しやすく、炭酸カルシウムの析出を促進しやすい環境となっている。他の地域では湿度が高いなど、蒸発が遅れ、炭酸カルシウムの析出が効果的に起こらない可能性がある。
時間の蓄積・長期間にわたる形成プロセス:バムッカレの石灰華段丘は数千年にわたり継続的に形成されてきた地形である。地熱活動や温泉水の湧出が他の場所よりも安定して継続したことで、この規模の石灰華段丘が発達した。他の石灰岩地質の場所では、地熱活動が短期間で終わったり、断続的であったため、大規模な棚が形成されなかったと考えられる。
断層と地下水の関係・断層線の影響:バムッカレは、地質学的に断層の近くに位置しており、地下深部の地熱水が地表に湧き出やすい条件が揃っている。他の石灰地質の丘にはこうした断層がなかったり、断層があっても温泉水が十分湧き出なかったりするため、石灰棚の形成が限定されることになる。

現在のバムッカレの場所だけが石灰華段丘として成立した理由は、上に述べた条件が特定の場所に集中しているため、バムッカレは唯一無二の石灰華段丘として形成された。他の石灰地質の丘では、これらの条件が全て揃わないため、同様の地形が発達しないということである。

パムッカレの石灰華段丘の危機
近年、バムッカレの石灰棚はその独特の美しさが危機に瀕していると言われている。実際自分の目で見た実感として、写真や映像で紹介される美しさは感じられない。その原因は主に人間活動と環境変化によるものが挙げられるようだ。
人的要因としては:
今風に言えば、「マジ やばい」
過剰な観光:バムッカレは非常に人気の高い観光地で、年間数百万人もの観光客が訪れる。観光客が石灰棚の上を歩いたり、水に入ったりすることで、石灰棚が摩耗し、脆くなっている。
汚染:観光客が石灰棚に持ち込む日焼け止めや化粧品が水を汚染し、石灰棚の自然な形成プロセスに影響を与えている。 温泉水の利用過多:近隣のホテルやリゾート施設が温泉水を大量に引き込むことで、石灰棚に供給される水の量が減少している。この結果、石灰棚の形成が停滞する原因となっている。
水路の分岐:石灰棚に流れる水を人工的に制御しているため、自然な水の流れが失われ、一部のエリアでは乾燥してしまっている。
環境変化による要因としては:
乾燥化:気候変動により、この地域での降水量が減少し、地下水や湧き出る温泉水の供給量が低下している。
気温の上昇:気温の上昇によって水が蒸発しやすくなり、石灰棚の維持が困難になっている。
都市開発と農業活動:バムッカレ周辺の都市開発が進み、地下水の過剰な利用が地熱水の供給を減少させている。また、農業用水として地下水が使用されており、これが温泉水の減少にもつながっている。
自然な浸食:石灰棚は自然のプロセスで風化しやすく、時間の経過とともに浸食が進んでいる。ただし、これ自体は長期的な現象であり、人為的な影響によるものほど急激ではない。

対策と保護活動
トルコ政府とユネスコは、バムッカレの保護に向けて以下のような対策を講じている。 観光客の制限:特定のエリアへの立ち入りを制限し、専用の歩行ルートを設けている。 
水の管理:温泉水の流れを調整し、一部の石灰華段丘区域に水を定期的に供給するようにしている。
ホテルの移転:過去には、温泉水を過剰利用していたホテルを閉鎖・移転させた例もある。 環境教育:観光客や地元住民に対し、バムッカレの保護の重要性を啓発する活動が行われている。
バムッカレの石灰棚は、人間活動(観光、温泉水の利用)と環境変化(気候変動、乾燥化)の双方によって危機に瀕している。ただし、保護活動によって改善が進んでいる部分もあり、観光と保全のバランスを取る取り組みが求められている。 「棚田」に温泉水が圧倒的に少なく、また観光客の温泉水体験の区画が制限されていたのは、こういった要因によるようだ。

中世の砦(The Medieval Fortress)
丘陵裾に沿って広がる石灰華段丘を見やりながら丘陵端の木道を歩く。突き出た丘陵北端に展望ポイントがあると地図にあり、とりあえずそこを目標に進む。道なりに進むと石み組の遺構がある。木道は石組みの遺構に阻まれ、道は石組の間を抜けて丘陵端に向かうことになる。


石組みの遺構に案内があった:
The Medieval Fortress(中世の砦):この砦は、ヒエラポリスにおいて中世に建設された最大の建造物。砦には、防御壁があり、2階建ての3つの四角い塔が設けられている。この壁は、パムッカレやリュコス渓谷を見下ろす自然の石灰華段丘の上に突き出た土地を囲んでいる。壁の内部には建築物が見られるほか、石造りの階段があり、それは壁沿いに続く通路へとつながっている。この通路は、胸壁と城壁上部の銃眼によって守られていた。
段丘端近くにも遺構。これも砦跡?
砦の建設は、13世紀前半に遡ると考えられている。この時期は、ビザンツ帝国とコンヤのセルジューク勢力との間で大きな緊張が高まっていた時代。
その後、14世紀末頃の地震によって砦は放棄されたと見られている。この時以降、ヒエラポリスの廃墟は、羊飼いや少数のオスマン帝国時代の農場だけが占拠する状態となった」とあった。
砦の中には入れそうにない。この砦は段丘端にあり、リュコス渓谷(Lykos Valley)全体とその周辺地域を見渡せる戦略的な視点を持って建設されているように思える。また前面は急斜面になっているため、敵にとって攻めにくい防御の要塞として理想的な場所であったのだろう。

中世の砦を抜け、段丘の端に向かう。段丘端手前に石組みの遺構が残る。これも中世の砦の一部なのだろうか。

段丘端からの展望
段丘端から下を眺める。遠景が見渡せ見張りの要塞としては適切な場所となっている。また、石灰華の段丘により白い段丘面となっている丘陵と、ごく普通の丘陵の境も見渡せ興味深い。
丘陵裾には池がいくつか見える。地下水が溜まった池だろか。メモの段階でチェックする:パムッカレの丘陵下にある池の水源は、主に地下水と温泉水に由来しているようだ。 温泉水が丘の上部から流れ落ち、石灰華段丘を形成した後、一部の水が丘陵下に流れ込み、その一部が池を形成していると考えられている。
また、パムッカレの地下では、石灰岩層が多孔性の性質を持つため、水が簡単に浸透し、地中に蓄えられる。これが地下水の基盤を作り、温泉水と混ざり合うことで池の水源となっている。もちろん、丘陵下の池は、地下水だけでなく、温泉水の溢れたものや自然の湧水によっても供給されている。
丘陵下にある池の水は青く映る。それは池の水は石灰分やミネラルを多く含んでおり、透明で青や緑の美しい色合いを持つことになる。その他、一部の池は観光用に人工的に整備されていることもあり、自然の湧水だけではなく、制御された温泉水が供給されている可能性もある、とのことであった。

温泉の湧き出る石灰華段丘に出合う
段丘端に整備された木道を石灰華段丘を見遣りながら進む。と、突然温泉が湧出する箇所があった。
ほんの一区画ではあるが、幸運にも少し空も晴れ、ブルーの美しい温泉水が一杯にはられた石灰華段丘に出合うことができた。段丘一面がこのような状態であれば、さぞや美しい石灰華段丘面となるのだろうとは思う。





ヒエラポリス考古学博物館
成り行きで道を進むと建物があり、確認するとヒエラポリス考古学博物館とあった。当日はこの段階でも、パムッカレに来た目的は石灰華段丘を見ることであり、この地に来て初めて知ったヒエラポリス遺跡の「有難さ」などわかるわけもなく、取り合ずという感で博物館の門を潜った
●第一の展示室:彫像の部屋
入り口から展示室に入る。細工の施された石棺や神像、アポロン神殿(後述)で使用された石碑が展示されているという。女神像は2世紀につくられたギリシャの女神やギリシャ神話の英雄の像が展示されていた。異なった時代の彫像のようだ。 
その時は特段の問題意識もなく、すーっと通り抜けたのだが、メモの段階で、どうしてギリシャの女神や英雄の神々がこの遺跡にあったのだろう、と。チェックすると、そこにはヒエラポリスの歴史的背景が大きく関わっていた。
ヒエラポリスは、古代ギリシャとローマの影響下にあった都市。紀元前190年頃にセレウコス朝シリアの支配下に入るも、その後ローマ帝国の影響下に入り、ヘレニズム文化を取り入れたことで、ギリシャ風の彫刻や建築が多く取り入れられた
ヘレニズム文化とは、紀元前4世紀、大王アレキサンドロス大王の東方遠征により、ギリシャ文化が広範囲に行き渡ることになった結果生まれた。
ヘレニズム文化時代(紀元前323年~紀元前31年)には、東地中海や中東地域の多数の都市がギリシャ的な影響を受け、彫刻や建築にもギリシャ神話の要素が取り入れられたということである。 
ヒエラポリスは、紀元前133年からローマ帝国の支配下に入った。ローマ人もギリシャ文化を尊重し取り入れたため、神殿や公共建築物にはギリシャの神像や女神像が多く使用されたわけである。ために、ローマ時代の繁栄とともに、ギリシャ風の芸術や信仰が今も残っている。

女神像の豪部がすべ欠けていた
因みにアポロンはギリシャ神話の美と音楽の神として知られ、ヘラクレスは勇気と力の象徴として描かれる。
女神は台座に説明があったのだが、写真がピンぼけで名前が特定できない。通常この展示場には愛と美の女神でありローマでは「ヴィーナス (Venus)」として知られるアフロディーテ (Aphrodite)、農業、収穫、肥沃の女神で、ローマでは「ケレス (Ceres)」として知られるデメテル (Demeter)、狩猟、自然、月を司る女神で、ローマでは「ディアナ (Diana)」として知られるアルテミス (Artemis)、 大地の母、自然、肥沃を象徴するアナトリア起源の女神であり、後にギリシャやローマでも広く信仰されたキュベレ (Cybele)が展示されるということである。確証はないがこれらの女神かも知れない。

で、気になるのは女神像のすべての頭部が欠けていること。日本でも明治の神仏分離令による廃仏毀釈により頭部の欠けた仏像があちこちに見られるが、ここでもキリスト教の国教化にともなう多神教偶像崇拝の禁止により頭部を破壊した?などと妄想したのだが、その因は不詳。上述ローマ帝国のキリスト教の国教なに伴う影響のほか、盗掘といった人為的因、経年劣化や地震などの自然的因などが推測されている。

その他、 冥界の女王であり、デメテルの娘。春の再生や季節の移り変わりの象徴でもあるペルセポネ (Persephone)。魔術や夜、冥界に関係する女神でヘカテ (Hecate)などが展示されるようだ。
ペルセポネ はプルートニオン(Ploutonion冥界の入り口:後述する)と関連し、ヒエラポリスの宗教的儀式において重要な存在であったと考えられる。ヘカテもプルートニオンなどの地下の神秘的な場所に関連がある可能性があるとのことであった。
これら神像が意味すことは、この地域の豊かな宗教的背景を反映していること。特に、癒し、自然、肥沃、再生、冥界といったテーマが多くの信仰の中心となっており、展示されている彫像はその象徴といえる。ここでは、ヒエラポリスの発掘物の中でも特に注目される彫像が展示されているようだ。
事前知識があれば展示物の見え方も違っただろうが、今となっては後の祭りではある。

●第一展示室を出る
展示室は結構狭い。先に進もうと思うのだが、どうもこの展示室はこれで終わりのよう。一旦展示室を出る。表に通路が先に続いでいる。屋外にも石造物が展示されている。 ギリシャの神々といった彫刻や石像、古代の神殿などといった建物の柱やアーチ、埋葬のための石棺、また細工の施されたモザイクのような石造物が置かれていた。



●第二展示室
この部屋には、日常生活の道具と宗教的儀式で使われた小物が展示されている。日常的に使われた道具としては陶器・ガラス器、金や銀、貴石を用いた装飾品が多く展示されている。特に女性が身につけたネックレスやブレスレット、また金属製の装飾品で、ビザンツ時代の特徴を反映したデザインのブローチやベルトのバックルは当時のファッションを伝えている。
その他ヒエラポリスで鋳造された硬貨、ヒエラポリスが温泉地として癒しの役割を果たしていたことを示す医療用器具、宗教的儀式で使われた小物として、神々への供物(奉納物)として捧げられた小さな像や彫刻、儀式用の器、聖杯、香炉、祭壇に置かれる装飾品、神官や参加者が身に着けた宗教的なシンボルや装飾品(アクセサリー)などである。
また、公共施設や邸宅に使用されたモザイクが展示されている、との説明もあった。モザイクは幾何学模様や植物、動物のモチーフを描いたものが多く、色彩も豊かである。モザイクはアポロン神殿や温泉施設で発見された床のモザイクのようだ。が、当日はモザイクらしき展示はなかったように思う。それにこの展示室の造りとしてモザイクが置かれるような感じはしなかった。

●大浴場遺構
第二展示場を出て先に進むと古い石の建造物がある。案内には「中央浴場(西暦2世紀) この浴場複合施設は、おそらく西暦2世紀の間に建設され、市の中央部に湧き出る温泉から水を引いている。約140m×100mの大きさで、約1.5ヘクタールの敷地を占めており、トラバーチン(石灰華)ブロックでできた壮大な構造が特徴となっている。
建物は部屋Aからアクセス可能で、20m×32mの広いホール(D)を持ちます。このホールは元々バレルボールト(barrel vault:半円筒形の天井や屋根のこと)で覆われており、3つのエクセドラ(eedra:半円形のくぼみ)はスタッコで豪華に装飾されていました。壁は多色の大理石で覆われていました。部屋EとGではカリダリウム(calidaria:温浴室)が確認できる。
東部の広大な区域にはジムナジウムがあり、4つの長方形の部屋(L・M・N・O)が大きな中央の中庭を囲んで配置されていた。この中庭には、地元産の石灰岩で作られた柱からなる列柱廊を通ってアクセスできた。

西暦4世紀後半の地震の後、部屋Hでは新たにレンガで作られたバレルボールト(barrel vault:半円筒形の天井や屋根のこと)が追加され、アポロ神殿から回収された大理石の柱が、長辺の両側に一列に並べられた装飾が施された」とある。
AからHまでは説明の横に描かれたイラストについている番号。説明にはないが、博物館はこの大浴場跡を活用して設置されたようだ。確認すると、現在のヒエラポリス博物館は、古代ローマ時代の中央浴場(Central Baths)の建物をそのまま活用した施設であり、そのため、中央浴場の遺構と、博物館に展示された遺物の両方を見学できる、非常に重要な文化的・観光的拠点となっている」とあった。

●第三展示室:石棺遺構(Sarcophagus :サルコファガス)の部屋:
ここには、古代の石棺が多数展示されているとのことだが、当日は石棺は第一展示室で見たが子の展示室では見なかったようにも思う。展示内容を定期的に入れ替えしているのだろうか。
ともあれ、石棺には精巧な彫刻や碑文が施されており、過去の文明の埋葬習慣や信仰についての洞察が得られる。墓碑には、ギリシャ語やラテン語で故人の肖像や生前の功績が刻まれており、当時の社会階級や文化的価値観がうかがえるという。これらはヒエラポリスが「ネクロポリス(Necropolis:死者の町)」としても知られていた因ともなっているようだ。
ネクロポリス(死者の町)とか、墓地遺構(サルコファガス)とかこのヒエラポリスの遺跡は何となくエフィソスなどと性格が異なるようにも思える。

ヒエラポリスの概要図
ヒエラポリス博物館あたりを成り行きで歩いていると、ヒエラポリスの概要図の案内があった。結構広い。
●遺跡の南部
概要図には1から16までの遺跡案内が記されているが、今まで辿ったのは15のSouth Roman Gate(南ビザンツ門)、14のGymnasium(ギムナシオン)、 13のLarge Baths(大浴場)の3か所だけである遺跡の南部と仮に名付ける。
●遺跡の中央部
大浴場の傍、少し東、遺跡の中央部には10のtemple of Apolion(アポロン神殿)、9のTemple Nymphaeum(ニンファエウム神殿)、11のPloutonion(冥界の入り口)が記される。この辺りが遺跡の中心のようだ。またその東、丘陵の上のほうには12のTheatre(劇場)もある。
遺跡の北部
そしてこの中心部から北に向かい8のFrontinus Steet(フロンティヌス通り)が一直線に南北を貫き、右手の広大な7のAgora(アゴラ)を過ぎると4のFrontinus Gate(フロンティヌス門)がある。フロンティヌス門が古代都市の北端とのこと。フロンティヌス門の手前、門に向かって右手に5のLatrine(公衆トイレ)、アゴラ南西端左手に6のNymphaeum of the Tritons(トリトンの神殿)が描かれる。
遺跡に北の郊外
フロンティヌス門の東、丘陵上には3のSuburbun Theatre(郊外の劇場), フロンティヌス門を北に進むと2のBass-Basilica(公衆浴場), そしてその先には死者の町と称される1のNorthern Necropolisと続く。

壮大な規模である。もう少し早い時にこの概要図を見ておればヒエラポリス博物館でのアテンションも違ったであろう。博物館の展示品はヒエラポリスの歴史や文化の多様性を反映しており、古代の宗教的、社会的、経済的背景を包括的に学ぶことができたように思える。
また、遺物が発掘された場所ごとにテーマが分かれているため、ヒエラポリスの各エリア(プルートニオン、アポロン神殿、ネクロポリスなど)の役割を視覚的に理解できただろう。が、今となっては詮無いことではある。

当日はここではじめて、ヒエラポリスって結構すごい遺跡ということはわかった。が、それぞれの遺跡の意味などを知る由もなく、とりあえずこれから訪ねるであろうヒエラポリスの遺跡について、現地のガイドさんの話をよく聞いとこうとは思うに至った。旅の日程表には「ヒエラポリス」とはあるが、どこに行くのかは知らされていない。

クレオパトラの温泉(Cleopatra Antique Pools)
パムッカレの石灰華段丘観光の自由時間も残りすくなくなり、集合場所であるクレオパトラの温泉前にある土産物屋がある場所に向かう。
土産物屋の前に結構広い池があり、そこがクレオパトラの温泉跡。現在は温泉プールとして観光客も水着で温泉を楽しむことができるようである。 炭酸成分を含むこの温泉は古代からその美肌効果や治癒効果で知られており、美と健康の象徴とされるクレオパトラの名をとったようだ。クレオパトラが実際にここに来たことはない。
プールには歴史的な石柱や遺構が水中に沈んでおり、温泉に浸かりながら古代遺跡の雰囲気を楽しむことができる、とあった。

ニンファエウム神殿(Temple Nymphaeum)
クレオパトラの泉の前で集合。この後ヒエラポリスのPloutonion (プルートニオン:冥界の入口)遺跡跡に向かうとの現地ガイドさんの説明。
少し北に向かうと整備された通路があり、柵で仕切られた道筋を北東に向かう。と、道の右手に結構大きな建造物。その前に半円を描く劇場か集会所のような広い石段が見える。地図でチェックするとTemple Nymphaeumとプロットされていた。
その時は、結構大きな遺構だなあ、後から見に行くのかな、などと思いながらお気楽に先に進んだのだが、当日は観光ルートに組み込まれていなかった。
メモの段階でチェックすると、ニンファエウムは泉の妖精ニンフの聖域で、神聖な泉や装飾的な噴水があり、都市の人々にとって重要な社交・宗教の場であった。キリスト教が普及した4世紀にアポロン神殿(後述)とプルートニオン(後述)が閉鎖されたのに対し、ニンファエウムは噴水庭園としてビザンツ時代まで稼働していたという。
建築の特徴としては、壁や柱に彫刻が施され、美しい装飾が見られ、噴水や水槽が配置され、水が建物の中心的な要素となっていた。多くの場合、建物の一部にニンフや神々の像が祀られていたようだ。
ヒエラポリス遺跡でのTemple Nymphaeum(ニンファエウム神殿)の重要性としては、古代の水管理技術を示す重要な建造物であり、都市にとっての水源の中心であったこと、また宗教的な役割も担っており、地元住民や巡礼者が儀式や祈りを捧げる場として機能していた。
現在では、ニンファエウムの一部が修復され、その規模や装飾を見学できる。構造物の多くは崩壊しているが、建築の一部や水槽の跡が確認でき、当時の繁栄と技術力を感じらるとのことである。が、柵の中にありそれほどお気楽に行けそうもない。
ふたつのニンファエウム神殿
ヒエラポリス遺跡には、少なくとも2つの主要なニンファエウム神殿が存在したという。 1つはFrontinus Street(フロンティヌス通り:後述)沿いにある大規模な構造物で、都市の公共広場に近い場所。もう1つはアポロン神殿に近い場所にある可能性があり、宗教的な性格を強く持っていると考えられている、とある。
Frontinus通り沿いにAncient temple of Apolion(古代アポロ神殿)とプロットされた場所がある。Frontinus通りとは今回の観光ルートには組み込まれていなかった北門に続く通りのようだであり実際に付近を歩くことはなかったため、メモの段階でGoogle Street Viewでチェック。が、荒野が広がるだけで遺構らしきものは確認できなかった。
次いで「アポロン神殿に近い場所」とあったが、これってアポロン神殿もふたつあったてこと?どこだ? 地図をチェックするとクレオパトラ・プールのあたりにもHierapolis Apollon Tapinagi(ヒエラポリスのアポロン神殿)のマークがプロットされている。Google Street Viewであちこちチェックしていると、後述するプルトニオンとニンファエウム神殿の間にそれらしき遺構があった。このニンファエウム神殿は「アポロン神殿近く」のものかと推察される。

プルートニオン(Ploutonion)
ニンファエウム神殿遺構を右手に見遣り、北門へと向かう道を左に折れることなくグルリと道を回り込みプルートニオン(Ploutonion)に。
英文の案内を訳すと「プルートニオン:テアトロンとイオニア式柱廊(西暦1世紀後半) この聖域の重要な要素の一つが、儀式用の劇場である。この劇場は長方形の平面図を基に建設され、約800人の信者が洞窟前で行われる儀式を観察することができた。その儀式には、ガスで窒息死させた牛の犠牲や、洞窟内に入るキュベレーの去勢司祭たちの姿が含まれていた。この司祭たちは、噴出する有毒ガスに殺されることなく洞窟に入る唯一の存在であった。
信者たちは洞窟前のエリアへの立ち入りを禁じられていた。劇場の上部には、ネロ帝の治世中に建設されたエレガントなイオニア式柱廊が設けられていた」とあった。
劇場風の石段の上にイオニア式柱廊が見える。
工事中で近づくことはできなかったのだが、柱廊の見えるあたりがプルートニオン(Ploutonion)の中心なのだろう。
プルートニオン(Ploutonion)は、冥界の神プルートン(ギリシャ神話ではハデス)を祀る神聖な場所とのこと。建物下の洞窟から有毒な二酸化炭素ガスが自然に発生しており、古代の人々はこれをPloutonium(プルトニウム:冥界への入り口」と考えていた。
特徴的なのは、聖職者や神官が儀式の一環としてこの洞窟に入り、無事に出てくることで神聖さを示していたことが挙げられる。それは祭司たちがガスの流れを熟知していたためであるが、超自然的な力を持つゆえに生還できたと信じられていたようだ。 
古代の記録によれば、ここでは生け贄の動物が洞窟内に放たれ、その即死する様子が儀式の一環とされていたとされる。
プルトニオンは2013年、イタリアの考古学チームが正確な位置を再発見した。現在では洞窟とその周辺が修復され、観光客が安全に見学できるように整備されている、とのこと。
宗教的道具
プルートニオン(Ploutonion)の通路近くに「2つの丸い石を木で貫いて車輪状にした遺物」があった。当日は何だろう、石臼上を転がし穀物を砕く石の杵?、それが神殿跡に置かれるのは不自然などと考えながら通り過ぎた。
何気なく撮った「物」が結構な「宝物」だった
メモの段階でチェックすると、これは冥界に関連した宗教的儀式や象徴的な目的で使われたと推測される遺物のようだった。
構造の特徴として、丸い石2つが木の軸で貫かれ、車輪のような形状をしている。 石そのものには彫刻や装飾が施されている場合があり、宗教的または象徴的な意味合いが込められていたと考えられている。
学会でも推測の域を脱しないようだが使用目的は:
冥界の入口の守護具:プルートニオン(冥界の入口)において、邪悪な霊や不浄な力を防ぐための象徴的な装置であった可能性がある。 
宗教儀式の道具:冥界の神であるプルート(ハーデス)に捧げる儀式で使われた道具で、地獄と現世をつなぐ象徴として重要だったかも。
天体や冥界の象徴:車輪状の形が、円形の永遠性や天体(太陽・月)を象徴し、冥界の神々の力と結びつけられた可能性がある。
プルトニオンとの関係:プルトニオンは、有毒ガス(二酸化炭素)が自然に噴き出す場所で、冥界の入口とされていた。この遺物は、洞窟の入口付近や神殿の一部に配置され、特定の宗教的または象徴的な意味を持っていたと考えられる。
考古学的背景と解釈:ヒエラポリス遺跡の研究者たちは、このような遺物を「冥界信仰」や「古代の天体信仰」と関連付けて解釈しているようだ。形状から、「車輪」が生命の循環や冥界と現世をつなぐ媒体としての象徴性を持っていた可能性が高いとされている。 また、これらの石の車輪は、プルトニウムの洞窟周辺に配置され、訪問者や祭司たちがその力を視覚的に感じるための装置だった可能性もある。
何となく撮った写真だが、取り合えず気になるものは撮ってみるものだ。
洞窟跡
これが冥界の入口の洞窟のようだ
ところで現在も洞窟は残っているのだろうか。ツアーでは実際に行くことはなかったのだが、あれこれチェックすると、プルトニウム(Ploutonium :冥界の入口)と呼ばれる洞窟は現在でも残っている、と。
遺跡の一部として発見されており、観光地として公開されているが、洞窟からは今でも少量の二酸化炭素(CO2世紀)が自然に噴き出しており安全性の理由から立ち入ることはできないとのこと。
冥界の入口(プルトニウム:Plutonium)として知られる洞窟は、ヒエラポリス遺跡内のアポロン神殿(Hierapolis Apollon Tapinagi)のすぐ近くにあるとという
〇放射性元素のプルトニウム(Plutonium)
放射性元素のプルトニウム(Plutonium)は、実際にヒエラポリスにあるこの冥界の入口(プルトニウム)に由来する。プルトニウムは、ギリシャ神話の冥界の神であるプルート(Pluto)にちなんで名付けられた。化学元素周期表の新しい元素には神話上の神々の名前を付ける伝統に則ったものである。

アポロン神殿
当日のツアーコースには入っていなかったのだけど、しばしば遺跡の解説に登場するアポロン神殿についてチェックしておく。
ニンファエウム神殿(Temple Nymphaeum)の箇所でもメモしたのだが、ニンファエウム神殿の場所を特定するためにGoogle Street View(正確にはGoogle Mapに投稿した写真の投稿箇所の〇印)でチェックし、神殿跡らしき遺構がプルートニオン(Ploutonion)とニンファエウム神殿の間あたりにあることを特定(?)した。
この神殿は、古代ローマ時代に建てられたもので、ギリシャ神話の太陽神であるアポロンに捧げらたもの。ヒエラポリスは温泉地としても有名で、アポロン神殿は癒しと予言に関連する儀式が行われる神聖な場所であった。
アポロン神殿の特徴としてその建築様式は、古典的なギリシャ・ローマ建築様式で建設された。コリント式の柱を持つことがその特徴となっている。神殿は部分的に破壊されているものの、残っている基礎部分や柱からその壮大さを感じ取ることができる。

アポロン神殿の近くには、上述のごとく「冥界への入り口」と位置づけられる「プルトニウム」と呼ばれる洞窟があり、記述のごとく古代人はこれを神聖な場所と見なしていた。プルトニウムはアポロン神殿の儀式にも関係しており、信仰と儀式の中心地とされていた。生と死、そして再生といったコンセプトでの関連性かとも思える。少々先走った感があるが、この「生と死、そして再生」といったコンセプトはヒエラポリス博物館の第一展示室の展示物のメモに関連して既に述べた。
洞窟(プルトニウム)は、アポロン神殿の基盤の下またはその隣接エリアに位置していることは上述の通りである。
生と死、そして再生
ヒエラポリスのプルートニオン(Ploutonion)とアポロン神殿の宗教的関連性は、古代ギリシャ・ローマ時代の宗教観における「生と死、そして再生」のテーマに深く結びついている。この二つの施設は異なる神々に捧げられたものであるが、地理的に隣接していることや、象徴的な意味を持つことで密接な関係をもっている。このことは既述してはいるが、もう少し深堀りしておく;
プルートニオン(Ploutonion)の宗教的役割とは冥界の入口としての象徴である。しかし、プルートニオンでは、死が終わりではなく、浄化や新たな始まりを迎えるプロセスと捉えられていた。これは、死後の魂の旅や再生を信じる古代人の宗教観に根ざしている。
アポロン神殿の宗教的役割はアポロンの象徴でもある「光と生命」にある。アポロンはギリシャ神話において、太陽、予言、音楽、癒し、秩序を司る神であり、アポロン神殿は、アポロンの「生命を与える力」や「癒しの力」を称える場所として重要であった。 ヒエラポリスでは、アポロンの癒しの力が温泉(クレオパトラの泉)とも結びついていたと考えられている。
アポロン神殿跡? by Google Street View
アポロンはまた、予言を司る神として信仰されており、ヒエラポリスの神殿でも神託が行われていた可能性がある。予言は未来を知る手段であると同時に、人々の再生や新たな希望の象徴でもあった。
両者の宗教的関連性として「生、死、再生」の統合が挙げらえる。その因として地理的な近さが重要である。プルートニオンとアポロン神殿は隣接しており、これ自体が象徴的な意味を持つと考えられている。アポロン神殿(光、生命)とプルートニオン(死、浄化)が一体化することで、「死と再生の循環」という古代の思想を物理的に示しているのかとも考えられている。
また、、生命と死のバランスも考えられる。プルートニオンが冥界の神に捧げられた場所である一方、アポロン神殿は癒しと生命の象徴である。この対比が古代人にとっての「死と再生」の調和を表現していると考えられている。
古代ギリシャでは、異なる神々や神話が融合して新たな信仰体系を形成することがよくある。ヒエラポリスでは、アポロンとハデスの信仰が融合し、特定の場所や儀式において両者が関連付けられるようになったといえる。
これにより、神秘的な力や予言と死後の世界の関連性が強調されたわけである。ふたつの異なる神は互いに補完的な役割を果たし、訪問者や祭司たちはこれらの場所を通じて死後の浄化(プルートニオン)から癒しと再生(アポロン神殿)へと至る宗教的な旅を体験していた可能性がある。両者の儀式的・宗教的シンクロニシティといってもいいだろう。
その他、自然現象の神格化もその因である。プルートニオンの有毒ガスの噴出(死の力)と、アポロン神殿近くの温泉(生命の癒し)は、自然現象を神格化した象徴的な表現と解釈できる。
プルートニオンとアポロン神殿は、古代の宗教観における「生、死、そして再生」のテーマを反映する象徴的な施設である。プルートニオンが「死と浄化」を、アポロン神殿が「光と生命」を体現し、両者が一体となることで生命の循環や宇宙の秩序を表していたと考えられる。

ヒエラポリスの古代劇場(Theatre)
また同じくプルートニオンより更に丘陵を上ったところにヒエラポリスの古代劇場跡が見える。こちらも当日のツアーコースに入っていなかったにだけど、チェックしておく。 ヒエラポリスの古代劇場は、ローマ時代の壮大な劇場。この劇場は、当時の建築技術や文化を象徴する素晴らしい遺構とのことである。
プルートニオンから眺めた古代劇場
劇場は、ローマ帝国時代の2世紀末から3世紀初頭に建設された。特に、皇帝セプティミウス・セウェルス(在位:193?211年)の時代に建築が進められた。その後、さらに修復や拡張が行われ、現在見られる形となった。劇場はヒエラポリス遺跡の高台に位置する 劇場の収容人数は約12,000人から15,000人と推定されており、当時のヒエラポリス市民や周辺の住民が集まる重要な社交の場であった。
ヒエラポリスの劇場は、トルコ国内でも保存状態が非常に良いローマ時代の劇場の一つであり、彫刻や装飾の一部は崩壊しているものの、舞台建築や観客席などの主要な構造が残されている。
劇場の構造について
古代劇場 by Google Street View
観客席(Cavea):半円形の観客席は、地形に沿って設計され、自然の斜面を利用して作られている。観客席は3つの段階に分かれており、階級によって座る場所が異なっていた。 オーケストラ(Orchestra):半円形のオーケストラ部分は、主に演劇や音楽、舞踊の場として使用されていた。ローマ時代にはオーケストラの一部が柵で囲まれ、闘技や動物を使った演目も行われた。
舞台建築(Scaenae Frons):舞台の背景には高さ約3階建てに相当する彫刻装飾が施された壁があった。彫刻にはギリシャ神話やローマ皇帝の姿が描かれており、特にアポロンやアルテミスに関する場面が多く見られたとのこと。現在でも、彫刻の一部がそのまま残っている。
装飾彫刻:舞台建築や観客席には、ギリシャ神話を題材にした彫刻や浮彫が施されていた。 特に有名な彫刻として、アポロンの姿やディオニュソス(酒と劇の神)を表した場面があるとのことだ。
劇場の用途としては演劇と音楽、またアポロン信仰と結びついており、宗教的な儀式や祭典も行われた。さらに公的イベントと娯楽の使節でもあったようだ。ローマ時代には、市民に娯楽を提供するための競技、演技、闘技なども行われた。
劇場は現在までに多くの修復作業を受けている。特に、彫刻や建物の安定性を確保するための修復が進められた。修復プロジェクトにより、観光客が安全に訪問できるようになり、舞台建築や観客席の美しさを鑑賞することができるとのことである。

遺跡北部地区

当日はプルートニオン(Ploutonion)から古代劇場跡を遠くに見やりながら南口に戻り、パムッカレ・ヒエアポリス観光を終えホテルにむかったのだが、途次目にしたヒエラポリス遺跡の概要図を見るにつけ、今回見学コースに組み込まれていなかった北門へのルートに沿って幾多の遺跡があるようだ。 
今回歩いた区域はヒエラポリス遺跡の南区域と中心分の一部である。ついでのことでもあるので、今回訪れなかった中心部より北、フロンティヌス通りから北門、その先の死者の国とも称されるネクロポリス辺りの遺構をメモしておく。

フロンティヌス通り(Frontinus Street)
ニンファエウム神殿(Temple Nymphaeum)からプルートニオン(Ploutonion)へと回り込む通路の途次、北に向かう通路がある。それがフロンティヌス通りの道筋跡だろう。 通りは、古代都市ヒエラポリスの主要な通りであり、都市の社会的、商業的、そして宗教的な活動の中心地として機能していたようだ。
フロンティヌス通りは、ローマ時代の政治家や建築家の名前に由来するとされているが、具体的に誰を指しているかは明確ではない。

フロンティヌス通りは、ヒエラポリスの北の入り口であったフロンティヌス門(西門)までのおおよそ800mの長さがあり、幅は約14メートルと広く非常に広く、都市の主要道路であったことを示している。フロンティヌス門付近の170mほどは発掘されており、通りは大きな石灰岩の石板で舗装され、ローマ時代の都市計画とインフラ技術を反映している。
フロンティヌス通りとアポロン神殿あたり。
神殿遺構はみえない by Goole Street View
ヒエラポリスは地震などの自然災害によって多くの遺構が埋没しているため、現在発見されている部分は通り全体の一部に過ぎないと考えられる。

アポロン神殿跡(Ancient Temple of Apolion)
通りを北に進むとアポロン神殿があった。現在も地図にAncient Temple of Apolionとプロットされているが、Gooogle Street View(といっても写真がアップされている箇所を示す〇をチェックするしか術はないのだが)でチェックしても、上述のごとく遺跡にふたつあったとされるこのフロンティヌス通り沿いのアポロン神殿の痕跡は素人目には認めることはできなかった。

アゴラ(Agora:商業・公共広場)
通りの近くにはアゴラ(商業・公共広場)があり、商業や社交、行政活動が行われていた。 記述遺跡の概略図でみるとその規模は結構大きい。その広さは約 170 x 280メートル と推定され、約 47,600平方メートル(4.76ヘクタール)という非常に広大なものでり、都市の中でも最も広い公共空間の一つであったと考えられている。
アゴラの四辺は柱廊(ポルチコ)で囲まれており、これにより、日差しや雨から人々を守りながら、商業活動や集会が行われる空間を提供していた。
柱廊の柱は典型的なローマ建築のスタイルで、コリント式またはイオニア式の装飾が施されていた可能性が考えられる。
アゴラ by Google Street View
柱廊の背後には、小さな店舗(タベルナ)や倉庫が並んでいたと推測され、これらは日用品や食料品、工芸品の売買が行われた場所であった。一方アゴラの中央は開放的な広場であり、商業活動だけでなく、祭りや公共の集会、スポーツ競技など多目的に利用された。
アゴラは紀元1世紀から2世紀頃に建設されたと考えられる。この時期はヒエラポリスがローマ帝国の支配下で最も繁栄していた時期であり、アゴラのような大規模な公共施設が整備された。
アゴラは都市の商業活動の中核として機能し、地元の商人や遠方からの交易者たちが集う場所であり、食料品、衣類、陶器、金属製品など、あらゆる品物が取引されたと考えられる。
また、アゴラは単なる市場ではなく、市民たちが集まり交流する場でもあり、公共の議論や演説、宗教的儀式が行われるなど、都市の社会生活の中心的な役割を担っていた。 それ以外にアゴラは、都市の統治者や行政官が市民と接触する政治的な場でもあり、時には重要な布告や裁判が行われた可能性がある。
アゴラの遺構は、現在一部、石畳や柱の基礎が発掘・保存されているが、完全には復元さ 長い年月にわたる地震や侵食により、大部分が損傷しているものの、その広さや構造を感じ取ることができる。

Nymphaeum of the Tritons(トリトンの神殿)
トリトンの神殿(?)と南フロンティヌス門(?)By Google Street View
ヒエロポリス概要図には、アゴラの南西端、フロンティヌス通りを挟んでアゴラの左手にNymphaeum of the Tritons(トリトンの神殿)が描かれる。
確証はないのだが、Google Street Viewにそれらしき円柱が立ち並ぶ一角がある。そこがNymphaeum of the Tritons(トリトンの神殿)だろうか。
ヒエラポリスのNymphaeum of the Tritons(トリトンの神殿)は、ローマ時代に建設され南フロンティヌス門たもので、トリトン(水神)を祀るための神殿。
神殿らしき一角の傍、フロンティヌス通りに三連アーチの門が見える。Triton GateともTriple Arch Gateとも称されるようだが、北フロンティヌス門に対しフロンティヌス門とも呼ばれる。ともにヒエラポリスの水利技師Avius Frontinusに由来する、とあった。


公衆トイレ(Latrina)
公衆トイレ by Google Street View
フロンティヌス門手前、道に沿ってに公衆トイレ(Latrina :ラトリナ)があり、それはローマ都市の高度な都市計画や公共衛生意識を示す重要な遺構となっている。
公衆トイレは、市民や訪問者が自由に利用できる施設で、特に市場や公共広場に隣接して設置されることが多く、日常生活に欠かせない役割を果たしていた。
公衆トイレは通常、長方形の部屋に沿って設置されたベンチ状の座席と排水溝から成り立っている。ヒエラポリスの公衆トイレには、おそらく座席に複数の穴が並んでおり、下には汚水を流すための排水路が設けられていたと考えられる。この構造はエフィソスの遺跡でみた公衆トイレと同様のものではあろう。利用者は座席に座りながら、清掃用のスポンジを水で洗いながら使っていたとされている。
古代ローマ時代の公衆トイレは、単なる衛生施設ではなく、社交の場でもあった。利用者が隣同士で会話を楽しみながら用を足すという、現代とは異なる習慣があったようである。 公衆トイレの遺構は部分的に残されており、石造の基盤や排水溝の一部を確認することができる。

フロンティヌス門(Frontinus Gate)
通りの西端に位置する門で、ヒエラポリスの西側の出入口として機能していた。大規模な石造建築で、ローマ帝国時代の都市設計と建築技術を象徴している。
フロンティヌス門は、紀元1世紀頃、ローマ皇帝ドミティアヌスの治世に建設されたとされている。この時代、ヒエラポリスはローマ帝国の重要な都市であり、温泉や宗教的な施設で有名であった。名前は当時のヒエラポリスのローマ行政官であったフロンティヌスに由来すると考えられている。
フロンティヌス門 by Google Street View
フロンティヌス門は三連アーチから構成されており、左右に円形の塔が付属している。これにより、門は堅牢な要塞のような外観を呈している。
アーチはトラバーチン(石灰石)で作られ、装飾的な彫刻が施されており、そのデザインはローマ帝国の典型的な都市門の構造を反映し、権威や都市の繁栄を象徴している。 概要図によれば、門はアゴラの北西角に位置している。
前術のごとくフロンティヌス門付近の170mほどは発掘されており、通りは大きな石灰岩の石板で舗装され、ローマ時代の都市計画とインフラ技術を反映している。これらの石板には、車輪の通過による溝が残されており、古代の交通の痕跡を見ることができる、とのこと。
フロンティヌス門 by Google Street View

また発掘済みの通りの両側には柱廊(colonnadeコロネード)が並び、往昔その背後には商店や公共施設が配置されていたと。この柱廊は、市民が雨や強い日差しを避けながら歩けるように設計されている。
フロンティヌス通りの下には、当時の高度な排水システムが設置されており、雨水や生活排水を効率的に都市外へ流していた。このシステムは、ローマ時代の都市インフラの水準の高さを物語っている。
古代都市国家はこのフロンティヌス門の内側とされる。門を出ると街の外ということだろう。

Bath-Basilica(公共浴場)
 
これが浴場かとおもったのだが
巨大な墓のよう by Google Street View
 
その街の外、概要図にはフロンティヌス門の北にBath-Basilica(公共浴場)が描かれている。ヒエラポリスには複数の浴場があり、フロンティヌス門付近に位置する大浴場(ローマ浴場)はその中でも最大規模の施設であった。
フロンティヌス門のすぐ北にドーム型の遺構があり浴場かと思ったのだが、それは巨大なお墓であったよう。浴場はそこから少し北に進んだところにあった。
これが公共浴場のようだ by Google Street View
Bath-Basilicaは、古代ローマの典型的なバシリカ建築様式を取り入れた大規模な浴場で、長方形の平面を持ち、高い天井と柱廊で構成されていた。
この浴場は、単なる入浴の場ではなく、運動や社交、リラクゼーションを楽しむ多目的施設として使用されていた。

浴場はローマ時代、1世紀から2世紀に建設されたと考えられている。ヒエラポリスが繁栄した時期に合わせて拡張や改修が行われ、当時の先進的な技術が採用されていたとのこと。
●Basilica
バシリカとはキリスト教の建築様式のことだと思っていたのだが、ローマ帝国時代、バシリカは宗教的な意味ではなく、行政や商業に関連した施設を指した。その後、キリスト教が広がるにつれて、この建築様式が教会建築に応用され、宗教的な「バシリカ」の概念が生まれたとのことである。

郊外の劇場 (Suburban Theatre)
郊外の劇場あたりのGoogle Street View
これも概要図、フロンティヌス門の東、丘陵の少し高いところに描かれる。古代都市ヒエラポリスに存在する2つの劇場のうちのひとつとされており、この劇場は都市の郊外に位置していたため「SuburbanTheatre 」と呼ばれている。
が、考古学的な発掘調査が進んでいないため、詳細な情報は限られており、この劇場の正確な用途は不明だが、宗教的な儀式や特別なイベントに使われた可能性がありる。 
この劇場はメインシアターに比べて規模が小さく、観客席の収容能力も限られていたと考えられている。半円形の客席(Cavea:カウエア)と舞台エリア(Skene:スケネ)を備えており、ローマ時代の典型的な劇場建築の要素を反映していると考えられるが、現存する遺構は非常に少なく、ほとんどが埋もれた状態となっている。
確かな建設時期は分かっていないが、ヒエラポリス全体がローマ時代に大きく発展したことを考えると、この劇場も1世紀から3世紀の間に建設された可能性がある。

デミトリアス門(Demetrios Gate)
概要図には描かれていなかったのだがフロンティヌス門(Frontinus Gate)の更に北にデミトリアス門があったとの記事がある。この門は、市街地と外部の世界を結ぶ通路として機能し、都市への防御やアクセスを管理する重要な役割を果たしたようだ。
デミトリアス門は、ローマ時代の紀元1世紀から2世紀に建設されたと推定されるが、これは、ヒエラポリスがローマ帝国の影響を強く受けて繁栄していた時期にあたる。 「デミトリアス門」という名称は、古代にこの門の建設や改修に関わった人物、または門に関係した地元の有力者に由来している可能性があるが。詳細は不詳。
フロンティヌス門の北。巨大な家型墓と浴場は見えるが
門らしき遺構はみえない by Google Street View
デミトリアス門は、典型的なローマ建築の特徴を持つ門で、大きな石灰岩ブロックが使用され、アーチ形の入り口と門の左右には防御のための塔が付属していたとのことであるが、現在ではほとんどが失われている。
デミトリアス門は、ヒエラポリスの北門(North Gate)とも呼ばれることがあり、南側の門(南門)と共に、都市の主要な交通網を形成していた、とのこと。この門は、単なる通路としてだけでなく、防御施設としての役割も果たしていた。ために敵の侵入を防ぐための堅固な構造を持っていた、という。
この門は、宗教的・象徴的な役割を持っていた可能性もある。古代都市では、門を通ることで「神聖な都市空間」に入ることを意味し、外界と都市内部を分ける象徴的な境界線として機能していた。ヒエラポリスがアポロンや冥界の神プルート信仰の中心地であったことから、門を通ることは精神的な旅の始まりと捉えられることもあったと考えられる。
またデミトリアス門は防御的な目的が強く、都市の外周部に位置する門として機能。 外部の脅威から都市を守ると同時に、北側から来る商人や旅行者が都市に入る際の最初の関門であった。
デミトリアス門は、保存状態が非常に悪く、現在ではほとんど遺構が残っていないという。 現在、基礎部分やわずかな石材が残る程度とされており、他の門のような壮大なアーチ構造や彫刻などは失われ、形状や詳細な装飾については記録や想像に頼る部分が多いとのことである。
そんな保存状態ではあるが、このデミトリアス門は他の門よりもローマ時代の特徴を色濃く残しており、当時の都市設計や防御システムを理解する上で重要な遺構となっているとのことである。
因みに記事を読んでいると、デミトリアス門とフロンティヌス門が混同・錯綜している。私自身も実際に見たわけではないので断定することはできないのだが、発掘整備された石畳や柱廊の建つところにある三連アーチの門がFrontinus Gate(フロンティヌス門)であろう。デミトリアス門は上述のごとく遺構はほとんど残っていいないようだ。位置はフロンティヌス門と上述公共浴場の間といった記事もあるが、


●ヒエラポリスの門
上述のごとく、ヒエラポリスの門の記事を読んでいると、矛盾やデミトリアス門とフロンティヌス門の混同などちょっとわかりにくい。門の配置と歴史的変化について整理してみる。ただし、これも推測ではあるが、生成AI君も「合理的」とコメントくれたので大体正しいのかとも思う
ローマ時代の門:北端にデミトリアス門(Demetrios Gate)または北門(North Gate)、その南のフロンティヌス通りに接続してフロンティヌス門(Frontinus Gate)が建ち西門とも呼ばれた。 更に南、フロンティヌス通りの南端に南フロンティヌス門(South Frontinus Gate)があったよう。南フロンティヌス門は特定できなかった。
そして丘陵上の劇場近くに東門があった可能性が指摘されているが、未確認。
ビザンツ時代(主に6~7世紀ごろ)の門:都市の防衛力を強化するため、城壁の内側に新しい門が追加された。この時期に「北ビザンツ門」や「南ビザンツ門」が建設されたとされる。
この場合の北ビザンツ門とはデミトリアス門の改築か、またはその内側に建設された可能性があるようだが、未だ比定されていない。
で結論として、門の並びは:
最北端:デミトリアス門(Demetrios Gate/北門)。ほとんど遺構はのこっていない。
フロンティヌスス通り北端:その南にフロンティヌス門(Frontinus Gate)
フロンティヌス通り南端:南フロンティヌス門(South Frontinus Gate/南門)
最南端:南ビザンツ門(South Byzantine Gate)。これがビザンツ時代に作られた門であろう。
という配列となっていると推定される。

ネクロポリス:死者の町(Necropolis)
デミトリアス門を超えてた北側はネクロポリス(Necropolis:死者の町)と呼ばれる。 ネクロポリスは、古代都市ヒエラポリスにあるトルコ最大規模の墓地遺跡。「ネクロポリス」とはギリシャ語で「死者の都市」を意味し、ヒエラポリスのネクロポリスは、紀元前2世紀からローマ時代、さらにはキリスト教時代まで、長期間にわたり使用されてきた。この墓地はヒエラポリスが温泉地として知られ、「癒しの地」や「死後の安息の地」として人々を引き寄せたことを象徴している。
ネクロポリスはヒエラポリス遺跡の北と東の市外区域に広がっており、その範囲は約2kmにも及ぶ。地図上にはtumulusと記されたいくつもの墓跡がプロットされる。 ネクロポリスにはさまざまなタイプの墓が存在し、それぞれが異なる時代や埋葬の習慣を反映している。

石棺 by Google Street View
石棺(サルコファガス): 墓地には、多数の彫刻が施された石棺がある。特に裕福な市民や重要な人物が埋葬されたと考えられている。
トゥムルス(塚状の墓): 丸い石積みの丘状の墓で、内部には埋葬室がある。アナトリア地方特有のスタイルである。巨大な円形の墳墓は目を引く存在で、内部に埋葬室が残っている。




家型の墓 by Google Street View
家型の墓: 小さな家のような形をした墓があり、家族墓として使用された。石でできた家型の墓は、古代の人々が死後の世界でも家族と共にいたいと考えたことを示している。 柱状の墓(オベリスク型): 紀念碑のような形式で建てられたものも見られる。
キリスト教時代の墓: 墓地の一部にはキリスト教徒用の墓があり、初期のキリスト教の影響を示している。
装飾と碑文:多くの墓には精巧な彫刻や装飾が施されており、古代の宗教的信仰や死後の世界に対する考え方が反映されている。墓碑にはギリシャ語やラテン語の碑文が刻まれており、埋葬された人々の名前や職業、祈願の言葉などが記されている。
健康と死の関連性:ヒエラポリスは温泉の治癒効果で知られ、病気を治そうと訪れた人々が多くいました。しかし、治癒できなかった人々はそのままこの地で埋葬されることが多く、ネクロポリスが拡大する一因となった。
歴史的背景としては:
ヘレニズム時代: 紀元前2世紀頃から、ヒエラポリスは繁栄し始め、多くの人々がここに移り住んだ。この時期に最初の墓が建設された。
ローマ時代: 紀元1世紀から3世紀にかけて、ヒエラポリスは大きく発展し、ネクロポリスも拡大した。石棺や彫刻が特に増えたのはこの時期である。
キリスト教時代: ヒエラポリスはキリスト教の重要な巡礼地となり、ネクロポリスにはキリスト教徒の墓も建設された。
多くの墓は保存状態が良く、現在も発掘調査が続けられています。遺跡の一部は修復され、観光客に開放されている。

以上で、訪れあところ、訪れなかったところを含めヒエロポリスの概要図に描かれていた遺跡をメモした。最後に予期せず出合ったフリギア・ヒエロポリスの概要をまとめておく。

フリギア・ヒエラポリス遺跡●
ヒエラポリスは正式には「フリギア・ヒエラポリス(Frigya Hierapolis)」と称す。 「ヒエラポリス(Hierapolis)」の意味は、ギリシャ語で「聖なる都市」を意味する。この名前は、古代ローマ時代に都市が宗教的な中心地として機能したことに由来する。「フリギア(Frigya)」は、この地域が歴史的にフリギア王国の一部であったことの証左であり、この地方を、フリギアと呼ぶからである。
建設時期:ヒエラポリスは、おそらく紀元前2世紀にペルガモン王国のエウメネス2世によって建設されたとされている。西暦133年にペルガモン王国がローマ帝国の一部になった後、ローマ時代に都市がさらに発展した。
地理と特徴:ヒエラポリスは、現在のパムッカレの石灰華(トラバーチン)段丘と密接に関連している。この石灰華段丘は温泉が湧き出るため、古代から湯治地として知られていた。この地の温泉は癒しの力があるとされ、多くの人々が病を治すために訪れた。温泉の炭酸カルシウムが石灰華の段丘を形成し、都市の景観の一部となっていることは記述の通りである。
宗教的特異性
ヒエラポリスは、古代ローマ時代において宗教的に重要な役割を果たした都市であった。その宗教的役割と特徴は、以下のように整理できる。
癒しの中心地:ヒエラポリスは、温泉地として知られ、温泉の効能が「癒し」や「浄化」に結びついていたため、多くの人々が病気を治す目的で訪れる聖地として機能していた。温泉水が「神聖な力」を持つと信じられていたわけである。
死者の聖地:ヒエラポリスの北の外れには「ネクロポリス(Necropolis, 死者の町)」と呼ばれる広大な墓地がある。このことから、ヒエラポリスは死者の世界への「門」としての役割を果たし、特に死後の平安を求める人々が訪れる場所だったと考えられる。 
生と死、そして再生:既述のごとく、癒しや生命の誕生を司る太陽神と冥界の神が融合し、「生と死、そして再生」というコンセプトを明示的に示している
多神教からキリスト教への移行:初期はギリシャ・ローマの多神教文化が支配的であったが、4世紀以降、キリスト教が優勢になり、ヒエラポリスはキリスト教の重要な拠点となった。この移行は、宗教施設の変化(神殿が教会に転用されるなど)にも見られる。
異教とキリスト教の交差点:ヒエラポリスはローマ時代の多神教信仰の中心地でありながら、キリスト教が広がる初期の重要な拠点にもなった。キリスト教徒にとっては、使徒フィリポが殉教した地として特別な意味を持っていたと考えられる。
聖フィリポ殉教教会(St. Philippe Martyrion)
聖フィリポ殉教教会 by Google
キリスト教の初期において、使徒フィリポがヒエラポリスで殉教したとされ、彼を記念する教会が建設された。この教会は8角形の設計を持つ珍しい構造で、重要な巡礼地となっている。南門の少し東にある。
ヒエラポリスは、古代地中海世界の宗教的多様性と文化的融合を象徴している。ギリシャ・ローマ時代の宗教儀式からキリスト教の巡礼地へと移行する過程は、地中海地域全体での宗教的変化を反映している。
使徒フィリッポ
使徒フィリッポ(Philip the Apostle)は、新約聖書に登場するイエス・キリストの12使徒の一人。彼は福音宣教活動や奇跡を行った人物として知られている。
フィリッポは、イエスの伝道活動を助け、イエスの教えを伝える重要な役割を担った
聖書にはフィリッポに関するエピソードが記される。最後の晩餐の際のイエスと、フィリッポの問答に、三位一体の教え(父なる神、子なるキリスト、聖霊が一体であり、同じ本質を共有する唯一の神としての教義)を示唆するエピソードがある。
フィリッポはイエスの昇天後、他の使徒たちとともに福音宣教に専念しました。伝承によれば、彼はギリシャ、小アジア、シリア、フリギア(現在のトルコの一部)などで伝道活動を行ったとされている。
伝承によると、フィリッポはフリギアのヒエラポリスで殉教したとされている。彼は逆さ十字架にかけられ、迫害の末に亡くなったと伝えられており、。そのため、彼はヒエラポリスで特に崇敬されている。
フィリッポが殉教したと伝えられる地で、「聖フィリッポの殉教教会(Martyrion of Philip)」という遺跡があり、この場所はユネスコ世界遺産にも登録されている。
歴史的背景
地震と復興:この地域は地震多発地帯にあり、何度も地震による被害を受けまた。特に西暦60年の地震では壊滅的な被害を受けたが、ローマ帝国の支援で再建された。
キリスト教との関係:初期キリスト教の重要な拠点でもあり、キリストの使徒フィリポが殉教した地として知られている。フィリポに関連する建物「フィリポの殉教(Martyrion of St. Philip)」が残っている。
世界遺産登録:ヒエラポリスとパムッカレは、1988年にユネスコの世界遺産に「文化的景観」として登録された。石灰華段丘の自然遺産と古代都市の文化遺産が融合した特別な場所として認識されている。
フリギア
「フリギア(Frigya)」は、古代においてアナトリア半島(現在のトルコ中西部)に存在した地域およびそこに暮らしていた民族の名前である。
地理的位置:フリギアは、アナトリア半島の中西部に位置していた。この地域は現在のトルコのエスキシェヒル、アフィヨンカラヒサール、クタフヤ、デニズリの一部を含んでいる。
自然環境:フリギア地方は肥沃な平野や山地が広がり、農業や牧畜が盛んであった。また、石灰岩やトラバーチンといった独特の地質もこの地域の特徴の一つとなっている。
フリギア人について民族の起源:フリギア人は、紀元前1200年頃にバルカン半島からアナトリア半島に移住してきたとされるインド・ヨーロッパ系民族。トロイ文明が衰退した後、この地域で強い影響力を持つようになった。
フリギア王国:紀元前8世紀頃には「フリギア王国」が形成され、首都はゴルディオン(現在のトルコ・アンカラ付近)に置かれていた。この王国は、伝説的な王「ミダス王」で知られている。
文化と信仰:フリギア人は、豊かな文化と独自の信仰体系を持っていた。特に女神キュベレー(大地母神)の崇拝が有名で、後のヒエラポリスの宗教にも影響を与えた。
ヒエラポリスとフリギアの関係
ヒエラポリスがフリギア地方に属していた:ヒエラポリスは地理的にフリギア地方の一部であり、そのため「フリギア・ヒエラポリス」と呼ばれる。
文化的・宗教的影響:フリギアの宗教や伝統は、ヒエラポリスの信仰にも影響を与えている。例えば、ヒエラポリスの「プルートニオン(冥界の神プルートに捧げられた聖域)」は、フリギアの神々と関連していたと考えられている。
「フリギア」の象徴的な意味:フリギアという名前は、古代アナトリアの豊かな歴史や文化を象徴している。この地域は、フリギア人だけでなく、後にローマ帝国やビザンツ帝国の支配を受け、多文化的な遺産を残している。
フリギア人は石工技術に優れ、特に岩を削り出した神殿や墓が多く残っている。これらの技術や様式は、ヒエラポリスの建築にも影響を与えた可能性がある。

バムッカレにある要塞
と、以上ヒエラポリスの遺跡についてメモしてきたのだが、上記デミトリアス門のところでメモしたように、実際歩いて周囲を見た感じとしては、遺跡とともに城塞の要素も多い。パムッカレの石灰華段丘端で見た中世の砦もそうだし、丘陵に城壁が続いているし、砦らしき建造物があるようにも見える。
チェックすると、バムッカレには、「ヒエラポリス(Hierapolis)の要塞」と呼ばれる古代都市の遺跡が存在することがわかった。この要塞は、ローマ時代に建設され、後にビザンティン時代に強化された歴史的な構造物である。
要塞の役割
防衛拠点:ヒエラポリスは戦略的な位置にあり、要塞としての役割を果たしていた。周辺の山々と石灰華段丘の自然地形を利用して防御を固めていた。
都市防衛のための壁:ヒエラポリスには、都市全体を囲む城壁があった。この城壁は、ローマ時代やビザンティン時代に増強され、都市を外敵から守るために機能した。
要塞の建築構造
ローマ時代の技術:要塞の建築には、ローマ時代の高度な石工技術が使われており、石灰岩を主要な建材として利用ていた。この地域で採掘された石材が豊富に使われている。 
要塞門:ヒエラポリスの要塞には複数の門があり、特に「ドミティアヌス門」が有名。この門は1世紀に建設され、都市への主要な入り口として機能した。南ビザンツ門も城塞門ではあろう。
要塞の歴史的役割
ローマ時代の繁栄:ローマ帝国時代には、ヒエラポリスは温泉療養地としてだけでなく、宗教的・商業的な中心地としても発展した。要塞はその繁栄を守るための重要な役割を担っていた。
ビザンティン時代の防衛強化:ビザンティン時代になると、要塞の構造が強化され、さらに堅固な防衛施設が追加された。この時期、ヒエラポリスは宗教的な重要性も増し、キリスト教の巡礼地としても知られるようになった。
セルジューク朝時代以降の衰退:中世以降、周辺地域の地震や侵略により、ヒエラポリスとその要塞は次第に放棄され、廃墟となった。

これでパムッカレ・ヒエラポリスのメモは終了。ホテルに戻る。

ヒエラポリス・パムッカレを離れホテルに戻る

Karahayit Kirmizi Su(カラハユットの赤い水)
カラハユットのバザール
午後1時過ぎ宿泊先のAdempira Thermal & Spa Hotelに戻る。夕飯まで自由時間とのこと。ホテルには温泉プールもあり、そこでゆっくり時間を過ごす人もいるようだ。ここに限らず周囲には数多くのホテルが建つ。パムッカレの地下水や温泉水が減っている一因かも知れない。



どこか近くに散歩できるところはないかとGoogleでチェック。と、ホテルから北に30分ほど歩いたところにカラハユット(Karahayit )の街があり、そこにKarahayit Kirmizi Su(カラハユットの赤い水)がある。パムッカレの白い石灰華段丘と異なり、小規模ではあるが赤い温泉の堆積物が「棚田」状になっている。ちょっとでかけることに。 のどかな田舎道を歩く。町のモスクから提示のコーランが流れてくる。町に入るとこの町も温泉湯治場のようで多くのトルコの人でにぎわっていた。
道の左右には土産物屋が並び、呼び込みの声も多い。なんとなく50年前に体験したトルコのイメージがそこにあった。

カラハユットの赤い水
雑踏の街中を抜け坂を下る途中、道の右手に公園がある。地図のKarahayit Kirmizi Su(カラハユットの赤い水)をプロットしているポイントとは異なり少し混乱したが、公園に入っていくと赤い「棚田」があった。そこがKarahayit Kirmizi Su(カラハユットの赤い水)。
Karahayit Kirmizi Su(カラハユットの赤い水)は、トルコのパムッカレ近郊にある温泉地 Karahayit(カラハユット) で湧き出る特別な温泉水を指す。Kirmizi(クルムズ)は 「赤」という意味のトルコ語形容詞、Su(ス):は「水」という意味の名詞である。

規模は小さいがなかなか、いい
棚田の土が赤いのはここの温泉水は、鉄分やミネラル分を多く含み、地表に出ると酸化して赤色や錆色になるため。赤、オレンジ、茶色の層が重なり、スケールは大きくないが非常にユニークな景観を呈する。色彩は、パムッカレの白い石灰棚とは対照的だ。
水温は約60℃~68℃とされ、パムッカレの約36℃~38℃に比べて、比較的高温。湧き出た温泉水が冷えるにつれて、色がさらに鮮やかになり、地表にミネラルが堆積して独特の模様を作っている。
Karahayitの温泉水は、ミネラル成分が豊富で、特に皮膚病、関節痛、リウマチ、循環器系疾患などに効能があると信じられている。地元の人々やトルコ各地から訪れた湯治客にとって、リラクゼーションや健康増進のための重要なスポットとなっているようだ。町の周囲には多くのホテルやリゾート施設もあった。

第二回のメモはこれでお終い。次は660㎞を9時間かけてカッパドキアへと移動数rことになる。