火曜日, 3月 25, 2025

トルコの旅(5)カッパドキアのカイマクルの地下都市と陶器の町アバノス

カッパドキアには3日宿泊した。初日はパムッカレからの移動日でオルタヒサールにあるホテルに夕刻到着。2日目はギョレメ野外博物館見学。これは前回のメモ。3日目はカイマクルの地下都市とアバノスでの昼食。翌朝ホテルを出発しカイセリの飛行場からイスタンブールへと向かった。
今回のメモは3日目と翌日のイスタンブール移動のため向かったカイセリの街までをメモする。3日目のスケジュールはカイマクルの地下都市見学が主眼で終日ゆったりとした日程。メモもカイマクルの地下都市とアバノスへの途次立ち寄った渓谷くらいなのだが、肝心の渓谷名がはっきりしないという為体。いまひとつ釈然としない気持ちとはなったが、とりあえずメモを始める。





オルタヒサル(Ortahisar)

オルタヒサル城塞(Ortahisar Kalesi)
朝、宿泊ホテルの直ぐ南、街の中心に聳えるオルタヒサル城塞(Ortahisar Kalesi)を見る。と、城塞には上へと続くアプローチらしきものが見える。バスの出発まで時間もあるので、ちょっと登ってみようかと。
街の中心にある広場あたりから成り行きで城塞跡に向かう。エントランスがあったのだが、閉まっている。見学時間には少し早かったようだ。エントランスの先に進むと城塞への門は閉まっているが傍から上れそう。入り込みたい誘惑を止め、オルタヒサールの洞窟街並みを眺めるだけにした。
トルコ語でオルタヒサールの「オルタ」は「中央」、「ヒサール」は「砦・城塞」を指す。「中央の城」の名の通り、街の中央に聳える。 この地もカッパドキアの他の街と同様に古い歴史をもつ。ヒッタイト(紀元前1600年〜紀元前1200年頃)の時代に、カッパドキア全体が交易ルートの一部として発展し、その頃には凝灰岩の奇岩地形を利用した洞窟住居が作られ、当時の人々が住んでいたと考えられている。家を建てるより洞窟を掘るほうがはるかに簡単であったのだろう。 フリギア人やアッシリア人もこの地域に影響を与え、商業と軍事の要衝として利用したことだろう。
紀元前1世紀、ローマ帝国がカッパドキアを属州化し、地域はローマ支配下に入る。392年キリスト教がローマの国教となるまでキリスト教徒に対する迫害を逃れこの地に多く移り住み、オルタヒサル城塞が要塞化され、防衛拠点としての役割を果たしたようである。 そのころ町周辺には数多くの洞窟教会や修道院が作られ、ギョレメと同様に宗教の中心地となった。
7世紀以降、アラブ軍の侵攻により防衛強化が進み、11世紀には、1071年、セルジューク朝がアナトリアに進出し、オルタヒサルもトルコ系民族の支配下に入った。そして13世紀には、オルタヒサル城塞がセルジューク朝の要塞として利用されたという。 15世紀以降、この町はオスマン帝国の支配下に入り、交易ルートの一部として活用された。 戦乱もおさまった19世紀には、オルタヒサルは果物(特にレモンやリンゴ)の貯蔵庫として使われたとのこと。凝灰岩の洞窟は天然の冷蔵庫として適しており、農業と貿易の重要な拠点となる。
20世紀初頭まで、ギリシャ人とトルコ人が共存する町であったが、1923年のギリシャ・トルコ住民交換により、ギリシャ人住民は去り、トルコ人が移住することになる。 20世紀半ばから、オルタヒサルの洞窟住居は次第に放棄され、現代的な建築が増加した。洞窟ホテルは放棄された洞窟を活用し造られたものである。 1980年代以降、カッパドキア全体が観光地として発展し、オルタヒサルも人気の観光スポットとなっている。
ギリシャ・トルコ住民交換
このギリシャ・トルコ住民交換は、トルコ独立戦争(1919-1922)の結果の一つとして行われたもの。
その経緯は:トルコ独立戦争の後、トルコ共和国が1923年に成立した。その直前の1922年、オスマン帝国の崩壊に伴い、ギリシャとトルコの間で民族的対立が激化。1923年、ローザンヌ条約の一環として、ギリシャとトルコの間で「強制的な住民交換」が決定さた。 これにより、トルコ国内のギリシャ人(約120万人)がギリシャへ移住し、ギリシャ国内のトルコ人(約50万人)がトルコへ移住することになる。
その結果、それまでギリシャ人とトルコ人が共存していた町(特にアナトリア西部やカッパドキア地方)は、一気に民族構成が変わってしまった。カッパドキア地域のギリシャ人は、主にアテネやテッサロニキ周辺に移住したという。
特に影響が大きかったのは、ギリシャ人が去った後、カッパドキアの多くのギリシャ正教会や修道院が廃墟とことである。
この住民交換は、近代史上最大級の強制移住の一つであり、今でもギリシャとトルコの歴史に大きな影響を与えている。今でもギリシャとトルコの歴史に大きな影響を与えている、とは文化的、社会的、政治的影響が挙げられる。
文化的影響とは失われた共存の歴史ということ。ギリシャとトルコは、何世紀にもわたって共存していた。住民交換前、アナトリア(現在のトルコ)には多くのギリシャ人が住み、ギリシャ語を話し、ギリシャ正教の教会があった。逆に、ギリシャのマケドニア地方やクレタ島には、トルコ語を話すイスラム教徒が住んでいた。住民交換によって、これらの多文化共存の歴史は突然断絶してしまったわけである。

その結果、たとえば、カッパドキア地方には、ギリシャ人が去った後、無人になった村や教会が残されている(例:カイマクルやムスタファパシャMustafapaşa )。同様にギリシャにも、かつてのトルコ系住民のモスクが廃墟となって残っている。こうした建物や遺跡は、当時の共存の名残を今に伝える。ムスタファパシャMustafapaşaはオルタヒサールの南東約10キロ。オスマン帝国時代町は 「シナソス(Sinassos)」 という名前で、特に裕福なギリシャ人商人や職人が住みギリシャ正教の教会や修道院があり、繁栄していた。 社会的影響とは両国の人々の意識、「故郷を追われた」という意識といえる。住民交換により、多くの人々が先祖代々の土地を失った。ギリシャでは、今でも「ミクラス(Μικρά Ασία, 小アジア)出身のギリシャ人の子孫」としてアイデンティティを持つ人々がいる。トルコでも、「ギリシャから来たトルコ人の子孫」という意識を持つ人々がいる。世代を超えて、故郷喪失の記憶が受け継がれているわけである。
ムスタファパシャの洞窟:photo by Google Map
以前はギリシャ語を話すムスリム(ギリシャ系トルコ人)や、トルコ語を話す正教徒(トルコ系ギリシャ人)がいたが、住民交換後、彼らはほぼ消滅した。その結果、トルコとギリシャの民族的な線引きがより明確になり、多文化的な要素が薄れてしまうことになった。 政治的影響とはギリシャとトルコの緊張関係が挙げられる。住民交換は、一見すると平和的な取り決めにみえたが、両国の間に「民族的な分断」を生み出すことになった。その後、キプロス問題(1974年のトルコ軍侵攻)や、エーゲ海の領有権問題など、両国の間には繰り返し対立が起きている。
「かつては共存できたのに、なぜ今は争っているのか」という議論がたびたび持ち上がり、最近はギリシャとトルコの間で「かつて共存していた歴史を学び、友好を深めよう」という動きもあるようだ。ギリシャでは、小アジア出身のギリシャ人の文化を大切にする博物館やイベントがあり、トルコでもギリシャ時代の教会を修復する活動が進められている。

オルタヒサールからカイマクルの地下都市に向かう

ネウシェヒル(Nevşehi)
バスは洞窟住居跡が残るオルタヒサールの渓谷を右に見て北に進み幹線道D302号に出て左折し西進むする。
しばらく走るとバスはネウシェヒル(Nevşehi)の町を通りすぎる(と思うのだけど、オルタヒサールから西南に向かう道もあり、トレースしていないため、どちらかはっきりしない)。
ネウシェヒル(Nevşehi)
ダマト・イブラヒム・パシャ・モスク by Google Map
ネヴシェヒルは、トルコ・カッパドキア地方の中心都市であり、ギョレメやウチヒサールなどの観光地への玄関口。この地域は古代から人が住み続けてきた土地であり、多くの歴史的な遺産が残っている。
歴史はオルタヒサールと同様、ヒッタイト帝国(紀元前1600年〜紀元前1200年頃)に遡る。当時ネヴシェヒル周辺は重要な交易ルートの一部となっていた。
他のカッパドキアの地と同様、フリギア人、アッシリア人、ペルシャ人など、いくつもの文明の支配下となり、さまざまな文明の影響を受けた。アレクサンダー大王(紀元前4世紀)の東方遠征後、ヘレニズム文化も広まることになる。
紀元前1世紀~4世紀にかけてローマがアナトリアを統治し、この地域はローマの属州カッパドキアに組み込まれる。ローマ帝国によるキリスト教徒への迫害を逃れるため、多くのキリスト教徒がカッパドキアに移住し、地下都市や洞窟教会を作ったのもこのころである。
395年、ローマ帝国が東西に分割統治されることになり、カッパドキアは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の一部として、修道院や教会が数多く建設された。
7世紀~9世紀)にはアラブ人の侵攻 により、防衛のため地下都市が発展する。 1071年、セルジューク朝がアナトリアを征服し、トルコ系民族がこの地域に定住。 オスマン帝国時代(15世紀~20世紀初頭)に入り、18世紀初頭、ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャ(Nevşehirli Damat İbrahim Paşa)がこの地域を発展させ、町の基盤を築く。彼の命により、モスク、学校、図書館、公共浴場(ハマム)などが建設され、現在のネヴシェヒルの原型ができる。町の名前はこの時期に「ネヴシェヒ(Nevşehir)」=「新しい都市」という意味に改名された。
ダマト・イブラヒム・パシャ・モスク by Google Map
1923年のギリシャ・トルコ住民交換により、ギリシャ人住民が去り、トルコ人が移住。 1954年、トルコ政府によってネヴシェヒル県(Nevşehir Province)が設立され、都市としての地位が確立。
20世紀後半から、カッパドキアの観光地化が進み、ネヴシェヒルは観光の中心都市として発展する。
ネヴシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャ(Nevşehirli Damat İbrahim Paşa) 
この地で生まれたオスマン帝国の大宰相であり、「チューリップ時代(Lâle Devri, 1718-1730)」 を主導した人物。文化・芸術・建築が発展し、オスマン帝国の西欧化が進んだ時代である。
イスタンブールに多くの庭園や宮殿 を建設したほか、出身地であるヴシェヒルを私財を投じ整備 し、モスク、学校、図書館、浴場などを建設。現在も「ダマト・イブラヒム・パシャ・モスク」などの遺産が残る。

カイマクル


カイマクル地下都市(Kaymaklı Underground City)
ネヴシェヒルの町で幹線道路D765 に乗り換え20キロほど南下するとカイマクルの地下都市に着く。
「Kaymak(カイマク)」は、トルコの伝統的な乳製品で、生クリームのような濃厚な乳脂肪を含む食品のこと。特に牛乳や羊乳を煮詰めて作るもので、パンや蜂蜜と一緒に食べることが多いとのことである。
カイマクル地下都市があるカッパドキア地方の岩は、火山灰が固まってできた柔らかい凝灰岩(トゥファ)でできている。その質感が「カイマク(クリーム)」のように滑らかで加工しやすいため、この名がついた可能性が指摘されている。カイマクは贅沢な食べ物とされ、栄養価が高いことから、「豊かな場所」「栄養がある土地」という意味合いで「カイマクル」と名付けられたとの説もある。さらに、カッパドキア地方は古くから牧畜が盛んな地域で、乳製品が重要な食料であった。住民たちが「カイマク」という食品を日常的に食べていたことから、その名が定着した可能性も考えられる。
カッパドキアでは、既に幾多の奇岩で見たように、火山の噴火によって生じた溶岩や火山灰が後に柔らかい凝灰岩の層を形成し、独特の景観を作り出している。地下都市はこの凝灰岩の層を地中深くまで掘り下げて造られたものであり、一説には大小さまざまなもので100以上も存在していると言われる。

」ところで、この地下都市はいつ、誰によって見つけられたのだろう。カイマクル地下都市の発見については、正確な「発見者」の記録はないが、カッパドキア地方では、古くから地下に広がる通路や空間の存在が知られていたようだ。詳細な調査や発掘は行われていなかったが、一部の民家の地下から地下都市へつながる通路があることは地元の人々にとって特に珍しいものではなかったという。
1963年のこと、ある住民が自宅の改修工事中に、家の床の下に隠し通路を発見。さらに掘り進めると、奥に広がる地下空間があることが判明した。これが、後にカイマクル地下都市の広大な構造へとつながる入口であることが明らかになった。 翌1964年にトルコ政府が公式に発掘調査を開始。トルコ政府と考古学者が調査を行い、その規模の大きさに驚かされることになる。1964年には地下都市の一部が観光地として公開され、現在も続く研究と修復作業が行われている。

エントランスより地下都市に入る。
当日は現地ガイドさんのに従い、岩を刳り貫いた狭い通路を進み、時に開けたスペースで、ここが地下教会跡、ここが食堂、ここが換気用の空気穴、そして地下4階まで下り、下に見える石の先にまだ地下都市が続いている、といった案内を聞くだけで精一杯。全体像もよくわかrないまま見学を終えた。
メモの段階で整理すると:
地下1階は厩舎(馬小屋・家畜のためのスペース)があったとされる。
地下都市の入り口近くにあり、*動物を飼育するための厩舎(馬小屋)として使われていたようだ。家畜を地上から地下へ移動させるのに便利だったためだろう。飼料を貯蔵するスペースもあったと考えられる。
地下2階は教会と生活空間
生活空間は家族単位で暮らせるような部屋となっている。教会は1つの身廊(信者が集う空間)と2つの後陣(アプス:祭壇の設置されるところ)を持つ教会があり、正面には祭壇、側面には座席台が設置されている。教会の近くには住居や共有スペースもあり、信仰だけでなく日常生活の一部として機能していたという。 このフロアには身廊と後陣を持つシンプルな造りの教会があるが、祭壇や座席台といった宗教的な設備は確認できるものの、壁画やフレスコ画はほとんど残っていない。





その理由として考えられることは、地下都市は主に実用目的の空間だったこと。カイマクル地下都市は、防衛や避難のために作られた場所であり、修道院や教会のように装飾を施すことが目的ではなかったと考えられる。住民が一時的に避難するためのスペースや、貯蔵庫・厩舎・ワイナリーとしての機能が重視されていたということだろう。 その他考えられることとして保存環境の問題が挙げられる。カッパドキアの多くの洞窟教会(ギョレメやカイマクルの南東約40キロのところにあるソアンル渓谷など)にはフレスコ画が残っているが、それらは主に比較的開放的な洞窟内に造られた教会であり、カイマクルの地下都市は地下深く、湿度や換気の影響で壁画が描かれていたとしても長期間の保存が難しかった可能性がある。もしかすると、かつては簡素な装飾があったかもしれないが、時間の経過とともに消失した可能性も考えられる。
地下3階は貯蔵庫、ワイン醸造所、厨房。
wineryとあった
このフロアは他の階層よりも広く造られているのが特徴とある。貯蔵庫が多く、穀物、乾燥食品、ワインなどの保存が行われていた。 ワイン醸造所もあり、ぶどうを踏み潰してワインを作るための石槽が残っている。厨房では食料を調理するための炉やかまどが見つかっている。ここで食料を備蓄し、長期間の避難生活に備えていた。



地下4階は防衛・避難のための重要な役割を果たしていた地下空間。
この大きな丸い石を右に落とし道を塞ぐ
そのため地下4階には狭い通路や迷路状の通路が張り巡らされており、侵入者が簡単に奥まで進めないようになっている。車輪状の防御扉(トラップドア :大きな円盤状の石扉)が設置され、外部からの侵入時に封鎖できる仕組みもあった。
通路が意図的に低く狭く造られているのは、敵が侵入してきた際に広い空間に待ち構える防衛側が有利に戦える構造でもある。
また地下4階は侵入者が来た際に、住民が一時的に隠れるためのスペースと考えられる 通常の居住空間よりも深いため、外部の影響(敵の襲撃や自然災害など)を受けにく。くなっている。住民は普段は上層のフロアで生活し、危険が迫ったときに地下4階へ避難する仕組みだったと考えられる。



誠に狭い通路
さらに、地下3階には大規模な貯蔵庫やワイン醸造所があったが、一部の食料や水の備蓄はさらに奥深い地下4階にも保管されていた可能性がある。一般的に地下深くなるほど温度や湿度が安定するため、保存食や穀物を長期間保管するのに適していたと考えられる また更に、地下4階の役割として、地下都市同士を結ぶトンネルが地下4階にあった可能性が指摘される。カイマクル地下都市とデリンクユ地下都市は10km以上の距離を地下トンネルでつないでいたという説もある。もし敵が地下都市に侵入した場合、住民は地下4階を通じて別の場所へ逃げることができたと考えられる。
狭いトンネルが多いこの階層ではトンネルがかなり低く造られており、屈んで進む必要があるのが特徴。侵入者を防ぐために意図的に通路を狭くしたと考えられている。さらに隠し部屋や逃走用の通路が存在し、敵の襲撃に備えていた。 軍事的な防御の目的で大きな円形の石の扉(車輪状の防御扉)があり、敵が侵入してきた際に塞ぐことを目的として設置されている。
水とトイレ
空気穴

このふたつのことがちょっと気になりチェック:

カイマクル地下都市では、水の供給を確保するために井戸が複数設置されており、水路とともに地下深くまで続いていたと考えられている。
井戸の位置と構造
井戸は地下1階から地下最下層(地下8階)まで通じるものもある。地上から直接掘られたものと、地下内部にのみアクセス可能なものがある。
地下都市内でのみ使用可能な井戸もあり、戦時には外部からの毒殺や破壊を防ぐために封鎖できる構造になっていた。
代表的な井戸の位置
地下1階(厩舎付近):ここにあった井戸は動物の飲み水や人々の生活用水に利用された。
地下3階(貯蔵エリア付近):飲料水の確保とワイン醸造のために使われた可能性がある。
地下4階以降にも通じる深い井戸:この井戸は地下都市全体の生命線となっていた。
水路の存在
水路は井戸と異なり、都市全体に水を分配するための仕組みだった可能性がある。ただし、現在の発掘調査では明確な水路の構造は見つかっておらず、一部の井戸が横方向にもつながっていたと考えられている。通気孔と交差する部分があり、湿度管理にも役立っていた可能性がある。
井戸の戦略的役割
これより下には下りれない
井戸が地下都市内で独立していたことは、外敵の侵入を防ぐ防衛策の一環だった。また、一部の井戸は封鎖可能で、占領された場合に使用できないようになっていた。地上と完全に独立した水源を確保することで、長期間の籠城戦にも耐えられる構造になっていた。

トイレ
カイマクル地下都市には、現在のような明確なトイレの跡は発見されていない。しかし、当時の生活様式や他の地下都市の構造から、以下のような方法で排泄処理をしていたと考えられている。
専用の排泄エリア(トイレ用空間)
個別のトイレスペースがあった可能性。地下都市の一部には、水を溜める穴や溝が掘られた空間があり、これが簡易トイレとして使用されていた可能性がある。そのエリアは、換気孔や通気口に近い場所に配置されていたと考えられる。
壺や容器を使用する方法
カイマクルの階層図
粘土製や木製の壺をトイレとして利用。ギリシャやローマ時代の例と同様に、壺やバケツをトイレ代わりに使い、一定時間ごとに地上に運んで廃棄する仕組みがあった可能性が考えらえる。家族単位または共同スペースで使用された。
排泄物の処理と排水
一部の通路や井戸、溝を使って廃棄。排泄物を地下の不要な穴や使われていない通路に廃棄した可能性がある。都市の換気システムと連携し、悪臭を抑える工夫もあったと考えられる。戦時や避難時には、簡易トイレの使用後、土で埋めるなどの処理が行われた可能性も。
近隣の地下都市との比較
デリンクユ地下都市では、特定の穴がトイレだったと考えられている。これに対し、カイマクルは規模がやや小さいため、専用トイレの設置が少なく、壺や簡易スペースを利用していた可能性が高い。
カイマクル地下都市には、明確なトイレの痕跡は発見されていないが、特定のエリアが排泄スペースだった可能性が高い。壺や容器を利用し、一定時間ごとに地上へ排出していたと考えられる。通気口や溝を使って、排泄物の処理や悪臭対策をしていた可能性がある。

カイマクルの地下教会のまとめ:
カイマクル地下都市は、トルコ・カッパドキア地方にある最も有名な地下都市の一つで、8層(現在公開されているのは4層)からなる地下構造を持つ。
この地下都市は、主に初期キリスト教徒が異教徒や敵の侵略から身を守るために作った避難都市として知られており、現在、ユネスコ世界遺産「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩窟群」の一部として登録されている。
カイマクルの地下都市では平均して5,000人、多いときには20,000人(?規模からして3000人程度と現地ガイドさんが説明していた)もの人々が暮らしていたと言われている。 カイマクル地下都市には何百もの部屋があり、長い通路や迷路のようなトンネルで互いにつながっている。その通路は低く、狭く、傾斜しているのが特徴。こうした複雑な構造は外敵の侵入を防ぐことに役立ったと考えられる。
地下都市にはきちんと井戸や換気口が設置されており、内部に十分な水や空気を供給できる構造になっている。現代になってからは、村人の貯蔵室や納屋として使われていたが、1964年から一般公開されている。
築造時期:紀元前8~7世紀頃(ヒッタイト時代が起源とも)
主な用途:戦乱時の避難所、修道士の隠れ家
最大収容人数:約5,000人(推定)

カッパドキアの代表的地下都市

デリンクユ地下都市(Derinkuyu Underground City)
カッパドキアにはカイマクルを含め100以上の地下都市があるとされる。その中でも特に有名なのがカイマクル地下都市と地下で繋がっている、と上述メモにあったデリンクユ地下都市である。
photo by Google Map
デリンクユ地下都市(Derinkuyu Underground City)は、カッパドキア地方にある最大規模の地下都市。カイマクル地下都市と並ぶ代表的な地下都市で、最大8層、深さ約85mに及ぶ広大な空間が広がっている。
トルコ語で「Derin」は「深い」、「Kuyu」は「井戸」を意味する。「Derinkuyu(デリンクユ)」は「深い井戸」という意味の名前が示すように、デリンクユ地下都市には、地下85メートルにも及ぶ深い井戸があり、住民が長期間避難生活を送るために必要な水を確保する重要な役割を果たしていた。この深い井戸が町の名前の由来ではあろう。場所はカイマクル地下都市からD765 を南に10キロほど進んだところにある。
photo by Google Map
その歴史は紀元前8~7世紀頃(ヒッタイト時代またはフリギア人が起源とされる)まで遡る。その頃は食料やワインの貯蔵庫として使用されたと考えられる。
その後、古代から戦乱の時代に至るまで、避難所として使用されてきた。特に、初期キリスト教徒が迫害から逃れるために活用し、生活のあらゆる機能を備えた都市として発展してきた。
ビザンツ帝国時代には、アラブ人の侵攻に備えて拡張され、礼拝堂や宗教教育施設が追加される。モンゴル軍の侵攻やセルジューク朝・オスマン帝国の支配期にも利用されたが、 次第に放棄され、忘れられていく。
発見されたのは1963年。カイマクルと同じ年である。偶然といえば偶然ではあるが、1060年代、当時のトルコでカッパドキア地域における地下都市の存在が注目され始めたことが影響している。必然の結果ともいえる。また1960年代には、都市化や家の改修が進み、住民が地下に続く通路や部屋を偶然見つけるケースが増えたこともその因ではある。 公開されている層は8層であるが、実際は20層以上あると推測される。最大収容人数は約20,000人(推定)である。用途は戦争・侵略からの避難、宗教的隠れ家。敵の侵入を防ぐため、狭い通路・隠し扉・落とし穴が多数存在する。
特徴としては、カイマクル地下都市が僧であったように、生活機能がすべて地下に備わっていること。居住スペース(住居)、教会・礼拝堂、貯蔵庫(穀物・水・ワイン・オリーブオイル)、家畜小屋、井戸、換気口(地下でも新鮮な空気を確保)、学校(修道士や子供たちの学びの場)など。
高度な防衛機能を備えているのもカイマクルと同じ。通路は細く、敵の侵入を防ぐ構造となっており、巨大な円盤型の石扉(トラップドア)**があり、内部から閉鎖可能。水源(地下水路)は外部と完全に独立し、毒を混入されるリスクを遮断し、通路の分岐が多く、迷路のように作られている。
カイマクル地下都市とデリンクユ地下都市を比較しておく。

 比較項目     カイマクル地下都市    デリンクユ地下都市
規模      小さめ(4層公開)      最大級(8層公開)
構造      水平方向に広がる      垂直方向に深い
収容人数     約5,000人         約20,000人
特徴       住居エリアが多い      軍事要素が強い
通路       比較的広めで歩きやすい   狭いトンネルが多い
場所:ネヴシェヒル県カイマクル村(ギョレメから南へ約20km)

その他の有名な地下都市
カッパドキアにはカイマクル地下都市やデリンクユ地下都市以外にも、多くの地下都市が存在する。現在確認されているだけで200以上の地下都市があり、そのうち数か所は観光客向けに公開されている。以下に主な地下都市をメモする。

〇ゼルヴェ野外博物館(Zelve Açık Hava Müzesi)
photo by Google Map
ゼルヴェ野外博物館の北東15キロほどのところにある。
岩をくり抜きかつて村人が暮らしていた住居や倉庫、バリス教会(Balı Kilise) やウズムル教会(Üzümlü Kilise) などの教会、かつての村をつなぐ地下通路であったトンネルなどが残る。
この地には6世紀頃から20世紀半ばまで 人々が住んでいた。現在、住民は移住し、観光地・博物館として公開している。
歴史はカッパドキアの他の地と同じく、初期のキリスト教徒の避難所(6世紀~)であり、キリスト教がローマ帝国で迫害されていた時代、信者が隠れ住むための修道院 として発展。修道士たちが洞窟教会を築き、信仰を守りながら生活 していた。
ビザンツ時代(10世紀~)に入りキリスト教が公認されると、宗教的な中心地として発展。多くの教会が建設され、壁画(フレスコ画)が描かれる。
オスマン帝国時代(15世紀~)にはイスラム教徒とキリスト教徒が共存 する村となる。教会がモスクに改装されるなどの変化も起きた。
20世紀半ば(1950年代)、岩の侵食が進み、住民は別の地域に移住。その後、観光スポットとして整備された。

ギョレメ野外博物館との違い
特徴                 ゼルヴェ野外博物館 ギョレメ野外博物館
用途                 村として使われた 修道院として使われた
住居                 住民が住んでいた 修道士が住んでいた
壁画                 ほとんどない          多くのフレスコ画が残る
規模                 広範囲にわたる           コンパクトでまとまっている
観光のしやすさ 道が険しい                    比較的整備されている

ゼルヴェ野外博物館は、カッパドキアに残る「洞窟の村」の名残を今に伝える場所。
キリスト教の修道士の時代から、イスラム教徒との共存時代を経て、20世紀半ばまで実際に人が住んでいた という歴史が興味深い。


オズコナック地下都市(Özkonak Underground City)
photo by Google Map
場所:アヴァノス(Avanos)の北約14km
特徴:デリンクユやカイマクルと同じくヒッタイト時代が起源。全体の構造は縦長で最大10層あるが、現在は4層まで公開。防衛機能が特に発達しており、攻撃用の小さな穴が壁に開けられている。通路が狭く、天井が低め。


マズ地下都市(Mazı Underground City)
photo by Google Map
場所:カイマクルの東約10km
特徴:カイマクル地下都市よりも規模は小さいが、構造がユニーク。家畜の飼育エリアが大きく、農耕社会に適した設計。井戸が内部にあり、長期間の避難が可能、石扉や狭い通路などの防衛機能もしっかり備えている





タトラ地下都市(Tatlarin Underground City)
photo by Google Map
場所:ネウシェヒルNevşehiの西約30キロ。
特徴:他の地下都市と比べて広めの空間が多い。大規模な教会跡があり、宗教的な役割が強かったと推測。保存状態が良く、壁に彫られた装飾が残っている。観光地としての知名度は低いが、静かに探索できる地下都市。









カイマクルからアバノスへ

レッドバレー(Red Valley)?
Red Valleyはこんな奇岩の谷のはずが
カイマクルの地下都市を見学した後、Red Valleyに向かった。と思い込んでいたのだが、撮った写真を見ると、なんとなく違和感を感じる。とはいえ写真から未だ場所を特定できないため、とりあえずレッドバレー(Red Valley)の概要をまとめておく。
レッドバレー(Kızılçukur Vadisi)は、トルコ・カッパドキア地方にある美しい渓谷のひとつで、夕日が当たると赤く輝く岩肌がその特徴となっている(こういった会話をしたんだけどなあ)。場所は宿泊先のオルタヒサールの北、4キロほどのところ。赤みを帯びた岩肌が特徴的な渓谷であり、風化によってできた波打つような地形、赤、ピンク、白の岩層が混ざり合い、幻想的な風景を呈し、風の侵食でできた奇岩やフェアリーチムニー(妖精の煙突)も見られる。
周囲に民家が見えている。ここはどこだ?

またこの渓谷には初期キリスト教徒の多くの洞窟教会や隠れた礼拝所が点在する。 トレッキングやハイキングにも利用され、西隣のローズバレーと3キロほどの距離で繋がっている。
かつて初期キリスト教徒がこのエリアに住み、築いた洞窟教会として知られるのは:
Üzümlü Kilise(ブドウの教会):壁画にブドウのモチーフが描かれている
Haçlı Kilise(十字架の教会):天井に大きな十字架が刻まれて
Kolonlu Kilise(柱の教会):柱のある独特の構造
壁画は比較的保存状態が良く、初期キリスト教美術を鑑賞できる
ローズバレー(Rose Valley)
Rose Valley :photo by Google Map
ローズバレー(Güllüdere Vadisi)は、Red Valleyと同様に岩肌がバラ色に染まることからこの名前がつけられた。洞窟教会や修道院跡が点在し、レッドバレーとセットでハイキングが楽しめる。










カッパドキアのその他の渓谷

カッパドキアの深い岩肌の谷に洞窟教会ののこる渓谷名としては、この他に:
イフララ渓谷(Ihlara Vadisi)
photo by Google Map
カッパドキア最大の渓谷で、全長約14kmにわたる深い谷。16以上の教会が点在し、壁画の保存状態が良い。
代表的な教会には:
アーラ・キリセ(Ağaçaltı Kilisesi):キリストの昇天を描いた壁画が有名
スンルー・キリセ(Sümbüllü Kilise):ギリシャ十字型の建築
エグリ・タス・キリセ(Eğritaş Kilisesi):装飾が美しい
見学に行ったわけでもないのだが、写真でみると断崖絶壁の渓谷に修道院が点在する。なんとなく聖バシレイオスの教えである共同生活を通しての修道という雰囲気ではない。地名の由来は不明。
ちょっと深堀り:
アーラ・キリセ :photo by Google Map

イフララ渓谷(Ihlara Vadisi)における修道生活は、聖バシレイオス(St.Basilバシルス)の教えに基づく共同生活的修道(共同体修道)よりも、隠遁的・孤独な修道の傾向が強かったと考えられている。
では、 なぜイフララ渓谷では「孤独な修道」が中心だったのか?ということだが ① 地形の特徴が隠遁に向いていた。
イフララ渓谷は、深く切り立った谷に沿って約14kmにわたり続く自然の要塞のような場所。谷の両側には、自然にできた岩壁や洞窟が点在し、そこに簡単な手を加えることで、一人で籠もるのに適した小さな庵や礼拝堂が作れた。物理的に孤立しやすい環境が、隠遁修道に適していた。
② 初期キリスト教の影響(3~7世紀)
スンルー・キリセ:photo by Google Map

初期キリスト教の修道士たちは、迫害を逃れて隠れることが多く、エジプトやシリアの砂漠での隠遁修道生活に強く影響を受けていた。イフララ渓谷でも、同様に個々の修道士が世俗から離れ、神との沈黙の対話を求めて孤独に生きる修道生活が根づいたと考えられる。
③ 防衛と安全のため
イフララ渓谷の教会や修道院の多くは、外から見えにくい場所に作られており、アラブ軍の侵攻や異教徒から身を守る目的もあった。修道士たちは、共同で集団生活をするよりも、小規模に分散して生活することで見つかりにくくし、安全を確保していた可能性がある。
④ 聖バシレイオスの教えの受容の仕方
聖バシレイオスはカイセリ出身で、カッパドキアで共同生活修道を提唱した人物だが、その教えはすぐにどこでも一律に広がったわけではない。イフララ渓谷では、より古い、東方教会的な個人修道の影響が色濃く残ったと見られている。後にバシレイオスの教えが徐々に浸透し、いくつかの修道院では共同生活の要素も見られるようになるが、全体としては「隠遁修道」の傾向が強くなっている。
エグリ・タス・キリセ:photo by Google Map
実際のイフララ渓谷の修道施設の特徴
教会や礼拝堂の多くは小規模で1~2人が生活できる程度の空間である。内部に住居・礼拝・瞑想・簡易墓所がそろっている個人単位の修道空間ということだ。フレスコ画も小さく簡素なものが多く、内面の信仰を大事にする雰囲気が見て取れる。



比較項目        聖バシレイオスの共同生活修道         イフララ渓谷の隠遁修道
形態              共同体で規律ある生活                      個人で孤独に祈る生活
拠点               村や町に近い修道院                         山中や谷間の洞窟
空間               大きな修道院や礼拝堂        小規模な庵・礼拝洞
理念      共同体による助け合いと労働      世俗からの隔絶と神との対話

イフララ渓谷は地形・歴史的背景・信仰スタイルから見ても、隠遁的な修道生活に適した場所であった。聖バシレイオスの影響を受けつつも、より古い隠者的伝統が色濃く残っていたと考えるのが自然といえる。何百年にもわたり、静寂の中で信仰を守った人々の足跡が、今も谷の岩壁に刻まれている。
ソーアンル渓谷(Soğanlı Vadisi)
photo by Google Map
観光地化が進んでいない渓谷。東ローマ時代のものが多く、素朴なフレスコ画が残る洞窟教会がある。
代表的な教会:
カラバシュ・キリセ(Karabaş Kilise):聖母マリアや聖人の壁画。カイマクルの南東約40キロのところ
ユスフ・コク・キリセ(Yusuf Koç Kilisesi):保存状態の良い壁画
ギョク・キリセ(Gök Kilise):青い天井が特徴的

ゴメダ渓谷(Gomeda Vadisi)
photo by Google Map
神秘的で「小さなイフララ渓谷」とも呼ばれる。多くの修道院跡や未調査の洞窟教会がある・観光客が少なく、静か。










アヴァノス(Avanos)
カイマクルの地下都市を離れ、アヴァノス(Avanos)へ向かう。距離はカイマクルから北東へ40キロ弱、バスのルートはトレースしていないが、最短ルートはD765を少し北上し、ほどなくD765 を右に逸れオルタヒサールを経由しギョレメの町を抜け、Red Valley とRose Valleyの間を走り抜けアヴァノス(Avanos)に着く。 
このコースを走ったのか、D765 をネウシェヒルNevşehirまで北上しそこからD300 を東進しアヴァノス(Avanos)へと向かったのか本当のところはっきりしないのだが、オルタヒサールを抜けたのであれば、途中妖精の煙突などもあったのだろう。 ともあれアヴァノス(Avanos)に到着。
昼食後、レストランの近くにオスマントルコ時代の公衆浴場(ハマム)があるとのこと。ひとりで町をさまよいなんとか見つけることができた。トルコ全土にはオスマン帝国時代に建設された多くのハマム(公衆浴場)が存在し、その多くは16世紀から19世紀にかけて建設されている。​アヴァノスの公衆浴場も同様の時期に建設されたのだろうか。急いで集合場所に戻ったのだが集合時間ギリギリでちょっと焦った。





オスマントルコ時代の遺構としてはクズルウルマク川(Kızılırmak)に架かる橋(旧アヴァノス橋:Eski Avanos Köprüsü)の古い石造りの橋脚があった。石のアーチ部分が過去の橋の構造を残しており、歴史的な橋を補修・再利用していた。
川に沿って町を散策。クズルウルマク川(Kızılırmak)に架かる人道橋は吊り橋となっており、観光名所なのだろうか多くの人が橋を渡っていた。近くのカフェでお茶を飲みオルタヒサールに戻る。
アヴァノス(Avanos)
アヴァノス(Avanos)は、カッパドキア地方を流れるクズルウルマク川(Kızılırmak、赤い川)沿いに位置する歴史ある町。特に、陶芸の町として知られ、何千年もの間、赤い川の粘土を使った陶器作りが続けられている。
古代はVenessa(ヴェネッサ)と呼ばれていたようだが、その由来は不明。アバノスの由来も不明得ある。
ヒッタイト帝国(紀元前1600年〜紀元前1200年)の時代には、すでに陶器製作が盛んだったと考えられている。 アヴァノス周辺は、ヒッタイト人によって形成された交易ネットワークの一部であり、陶器はこの地域の重要な産業であった。ヒッタイトの陶芸技術は、その後のフリギア人、リディア人、ペルシャ人にも影響を与えたとのことである。
その後、ローマ帝国の支配下に入り、「Venessa(ヴェネッサ)」という名前で知られるようになる(由来は不明)。ビザンツ帝国時代(4世紀~11世紀)には、カッパドキア全体でキリスト教文化が栄え、多くの修道院や洞窟教会が建設される。この時期、アヴァノスでもキリスト教徒の共同体が形成され、陶器や工芸品の製作が続けられた。
1071年のマラズギルトの戦い以降、セルジューク朝がアナトリアを支配し、トルコ系の人々が定住。
オスマン帝国時代には、陶器製作が引き続き重要な産業となり、特に赤土を使った伝統的な陶器作りが受け継がれた。アヴァノスの陶芸職人たちは、宮廷用の陶器やタイルを製作することもあった。
現代に入り。1923年のギリシャ・トルコ住民交換により、ギリシャ人住民が去り、トルコ人が移住。20世紀後半から、観光業が発展し、陶器作りが観光の主要な要素となる。 アヴァノスの陶器は、クズルウルマク川の赤土を使用しているのが特徴。ヒッタイト時代から続く伝統的な技法が今も受け継がれている。手回しのろくろを使った技法が有名で、訪れる観光客も陶芸体験ができる。現代では、伝統的なヒッタイト様式の陶器だけでなく、モダンなデザインの陶器も作られている。


オルタヒサールからカイセリに

一夜明けると大雪
夕方オルタヒサールに戻り、夕食までの間、ホテルから坂を下り街を散策。谷筋からホテルを見上げ、洞窟の雰囲気のアングルを探すが、崖に建ち並ぶホテル以上の写真はとれなかった。
一夜開け、翌朝はイスタンブールへの移動日。朝オルタヒサールからカイセリの飛行場へと向かうことになるのだが、一夜開けると昨日の天候と一変。辺りは一面の銀世界。美しいが、飛行機が飛ぶのかどうかちょっと心配。
また、カッパドキアのバルーン観光を目的として宿泊し、天候不順のため1週間ホテルに足止めとなっていた人たちには無情の雪となったようだ。
雪の中をバスは走り、火山台地を下りカイセリの町にある飛行場へと向かう。飛行場に到着。フライトキャンセルの案内はない。ゲートを出て飛行機に向かったバスはゲートに引き返す。理由の説明は何もない。1時間ほど待っただろうか、無事飛行機はイスタンブールに向かった。

カイセリ(Kayseri)
カイセリはトルコの中央アナトリア地方に位置する古都で、古代から交易の要衝として発展してきた。カイセリはローマ皇帝カイサル(シーザー)に由来する。
カニシュ(Kültepe遺跡)by Google Map
カイセリ周辺には、紀元前3000年ごろからアッシリア人、フリギア人、ヒッタイト人が居住。カニシュ(Kültepe遺跡)は紀元前2000年頃のアッシリア商業植民地があった場所で、楔形文字が記された粘土板が発見されている。ヒッタイト帝国(紀元前1600年~紀元前1200年頃)がこの地域を支配したが、滅亡後、フリギア人やアッシリア人が統治。 紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の東征後、セレウコス朝の支配下に。紀元前1世紀、ローマ帝国のカッパドキア属州の首都として発展し、当時はカエサリア(Caesarea Mazaca)と呼ばれた。
3世紀から4世紀、ローマ帝国のキリスト教迫害の時代に、聖バシレイオス(バシル)がキリスト教文化を広めた。
photo by Google Map

1080年頃、セルジューク朝の支配下に入り、アナトリア・セルジューク朝の重要都市となる。13世紀,セルジューク朝の建築遺産が多く残る黄金期。
フーナト・ハトゥン複合施設(Hunat Hatun Külliyesi),
ゲヴヘル・ネシベ病院(Gevher Nesibe Darüşşifası)(イスラム医学教育の先駆け)
グランドバザールとキャラバンサライ(交易の中心地)が残る。
その後モンゴル軍の侵攻により、一時衰退。1515年、オスマン帝国(15世紀〜19世紀)の支配下に入る。16世紀、建築家ミマール・スィナン(Mimar Sinan)がこの地で生まれ、多くの建築を手がける。19世紀には、交易と織物産業の中心地となる。

今回のメモはここまで、後はイスタンブールを残すだけ。ではあるのだが、イスタンブールについては結構その歴史などを調べ、調べた割には見学に訪れた場所はほんの一部であり、見たかったところはツアーではほとんどカバーできず、といって自由時間もあまりなく、今一つメモする気持ちがでてこないのだけど、そのうちにその気になればメモでもしてみようかとも思っている。

金曜日, 3月 21, 2025

トルコの旅(4) カッパドキアの奇岩渓谷とギョレメ野外博物館

今回はカッパドキアの奇岩地帯、渓谷、そしてその渓谷のひとつであるギョロメ渓谷にあるギョロメ野外博物館の観光がその核となる。

ところでカッパドキアの定義だが、かつては、黒海沿岸からタウルス山脈斜面までを含んでいた時代もあったという。タウルス山脈は過日通過したエーリディル湖の東から始まり、コンヤの南へと大きく弧を描き地中海へと近づき、そこを南端に弧を描いて北東へと続く山脈。トルコ中央部とトルコ南部の地中海地方をわけている。結構広い地域をカッパドキアと指していたようだ。

20世紀以降は、アクサライ、ネヴシェヒル(アクサライの東)、ニーデ(アクサライの南)の三県にまたがる地域がその名で呼ばれ、だいたい、北はクズルウルマック川、西はトゥズ湖、南から東はタウルス山脈によって区切られている。しかしながら、壮観な「岩のカッパドキア」と呼ばれるのはもっと狭く、都市アクサライ、ネヴシェヒル、ニーデを結んだ三角地帯周辺を指すとするのが妥当なようだ。これを狭義のカッパドキアとする。 今回観光するのはこの狭義のカッパドキアの中でもネウシェヒル(Nevşehir)の東のギョレメ渓谷地帯や南のカイマクルの地下都市といった、奇岩地帯のほんの一部であったようだ。
ともあれ、今回のメモはオルタヒサールのホテルを出て、東のImagination Valley,西に戻ってPigeon Valley,そしてギョロメの野外博物館とする。薄れゆく記憶に抗いながらのトルコ旅行記ではある。





Exedra Cappadocia Cave Hotel
朝、部屋を出てバルコニーから東の谷筋を眺める。バラダール渓谷(Balkanderesi Vadisi)と呼ばれる谷筋には家が建ち並び、川筋は見えない。対岸の崖面には小規模ではあるが幾多の小さな奇岩が見える。丁度モスクからコーランの調べが流れ、なかなか、いい。トルコの人口のほとんどがイスラム教徒とのことだが、熱心な信仰者は1割から2割程度と、現地のガイドさんが説明していた。ヒジャブ(スカーフ)を身に着ける女性も年配の型は別にして、あまり街で見かけることもなかった。

朝食をすまし、午前10時、オルタヒサールのホテルを出発し、カッパドキア観光に出発。カッパドキアはペルシャ語で「美しい馬の地」を意味する「Katpatuk」に由来する。カッパドキアは名馬の産地として、アッシリア王アッシュール・バニパル(BC688-631)に、アケメネス朝ペルシャ(BC550-330)のダレイオス王に、その嫡子クセルクセス王に土地の名馬を贈呈したとある。貢ぎ物として馬を供する習慣はカッパドキアに端を発したとも言われる。




三美女のキノコ岩:Three Beauties
現地のガイドさんの説明で最初に見晴らしのいい渓谷に行くとのこと。日程表には当日は カッパドキア観光(約3時間半),カイマクル地下都市、ギョレメ野外博物館、トカル木キリセ(トカル)教会とあっただけなので、どこに向かうのしかとわからず。 オルタヒサールの街を抜け、幹線道路D302を東に進む。ほどなくルギュップ(Ürgüp)の街の手前の道の傍に頭に岩乗せた奇妙な3つの奇岩が現れる。
「3美女のキノコ岩」(Three Beauties)と呼ばれるこの奇岩群はカッパドキア観光スポットの一つ。3本のキノコ岩が並んでいることからこの名前がつけられている。自然の侵食によって形成された「フェアリー・チムニー(妖精の煙突)」と呼ばれる奇岩の一種である。岩の上部が硬い岩石(玄武岩)でできており、その下の柔らかい岩(凝灰岩)が長年の風雨で削られてこのような奇妙な形状となったようだ。
この奇石群には伝説があり、地元では、母、父、子供の3人の家族を表しているとされている。また、別の伝説では、カッパドキアの王女が身分の低い羊飼いと恋に落ち、家族に反対されながらも駆け落ちし、神に助けを求めた結果、3人(王女・夫・子供)が岩に変えられたという話もある。どちらにしても伝説にはThree Beautiesは登場しない。どうも、伝説とは関係なく。3つの奇岩が並んでいることから、「三姉妹の岩」と呼ばれるようになったようだ。それはともあれ、背景にはカッパドキア特有の広大な谷が、遠くには台地が広が雄大な景観となっている。
●カッパドキアで奇岩群が形成された因
カッパドキア地方の奇岩地形は、数百万年前の火山活動とその後の侵食作用によって形成された。この地域には、エルジエス山やハサン山などの火山が存在し、これらの火山が繰り返し大規模な噴火を起こし、その結果、火山灰や溶岩が厚く堆積し、冷え固まって柔らかな凝灰岩や溶岩層が形成された。
これらの堆積物は、長い年月をかけて風雨や河川の浸食を受け、硬さの違いによって異なった形状に削られていった。特に、硬い岩石が上部にあり、下部が柔らかい凝灰岩で構成されている場所では、下部が先に侵食され、上部の硬い岩が保護帽のように残ることで、キノコ状の奇岩「妖精の煙突」が形成された。 この三美女のきのこ岩もその「妖精の煙突」のひとつである。このようにして生まれた独特の地形は、古くから人々の住居や教会、修道院として利用され、カッパドキアの文化的景観を形作っている。
それにしても火山灰が降り積もり、浸食された地は世界中にあるのだけど、どうしてカッパドキアにはこのような奇岩群の一帯が形成されたのだろう。
チェックすると、その因は独特な地質条件と浸食作用が組み合わさった結果とのこと。 火山活動による特殊な地層形成と風と水の浸食作用がその因であることは上で述べた。これらの現象は特にこの地に限ったことではない。これが奇岩群一帯が形成される必要条件てあるとすれば、十分条件として、高原地帯にあるカッパドキアでは、雨水が岩の隙間に入り込み、冬の寒さで氷になると岩が少しずつ崩れる凍結融解作用が大きな役割を果たしたこと、また、地震と地殻変動も指摘される。アナトリア半島は地震が多い地域であり、断層運動によって地形が持ち上げられたり裂けたりした。この地殻変動が、谷を深く削るきっかけとなり、現在の奇岩群の形を強調する結果となった。
さらに、カッパドキア特有の乾燥気候も奇岩形成の因として挙げられる。カッパドキアは、年間降水量が少なく、強い風が吹く半乾燥気候であり、強い風が岩を削り続け、独特の細長い形状を生み出した。同じ凝灰岩地帯でも、湿潤な気候では植物が岩を覆ってしまい、カッパドキアのような奇岩はできにくくなるという。このような要因が複合的に作用しこの地に類まれな奇岩群地帯が形成されたのだろう。

デヴレント渓谷
三美女のキノコ岩でバスは止まることなく走り、20分ほどの渓谷で止まった。ここがView Pointとのこと。はっきりとはわからないのだが、写真とGoogle Street Viewを比較対照した結果としては、この地はDevrent Vadisi(デヴレント渓谷)ではないかと思う。ルギュップ(Ürgüp)の街の北で幹線D302を離れ北に向かって進んだようだ。
デヴレント渓谷は、トルコ・カッパドキア地方にあるユニークな景観の谷の一つで、特に奇岩が多いことで知られている。「イマジネーション・バレー(Imagination Valley)」とも呼ばれ、訪れる人々がそれぞれの想像力で岩の形を動物や物の形に見立てることができる場所という。その中でもラクダの形をした岩が有名。他にもペンギン、蛇、象、鳥、女性の横顔のような形をした岩も見られるとのこと。

ただ、この渓谷は、他のカッパドキアの谷(ギョレメやローズバレーなど:ローズバレーはギョレメの谷の北東3キロほどのところにある)とは異なり、教会や洞窟住居などの遺跡はほとんどない。純粋に自然が作り出した奇岩の景観を遠くの山を借景に充分堪能できる。
この地からみる景観は三美女のきのこ岩でメモした奇岩群形成のプロセスがより実感できる。時は11月末。寒風吹き付ける荒涼とした台地。眼前には深い渓谷とさまざまな形状の奇岩群。こんなに広い範囲で奇岩群が広がるとは思ってもいなかった。 なお、Google Mapにはオラヒサールから幹線道D302に出る手前にImagination Valleyとあるが、こちらが正しいかと思う。

Pigeon Valley:鳩の渓谷
谷の左手(北側)にウチヒサールの砦跡
次いでバスはPigeon Valleyに向かうとのこと。当日はルートはよくわからなかったのだが、メモの段階でチェックすると、Pigeon Valley からウチヒサル城(Uçhisar Castle)前を経てギョロメ野外博物館に向かっている。
ということは、デヴレント渓谷から一旦D302に戻り、西進しオルタヒサールを通り過ごし、しばらくして幹線D302を離れ北進したことになる。
それはともあれ、Pigeon Valleyに到着。ピジョンバレーの名前のは、谷全体に点在する「鳩小屋(ピジョンハウス)」に由来する。
これらは岩をくり抜いて作られた小さな洞窟で、地元の人々が鳩を飼うために使用していた。鳩の糞(グアノ)は肥料として価値があり、農業に利用され、特に、ブドウ畑や果樹園の土壌改良に役立ったようである。
対岸崖面に鳩小屋の窓らしきものが見える
谷には奇岩や浸食された岩の地形が広がっており、カッパドキアらしい風景が楽しめる。 谷の左手、というか北方向には幾多の洞窟が特徴的な大きな岩山が見える。後からわかったのだがそれがウチヒサル城(Uçhisar Castle)とのこと。この城跡からギョレメ方面に向かうハイキングルートがあり、片道約4km、ブドウ畑やアーモンドの木を見やりながら 2時間ほどで歩くようである。
オスマン帝国時代から続く伝統で、地元の人々は鳩を大切にしていたという。鳩は「平和の象徴」とされ、宗教的な意味合いも持っていた。かつてはキリスト教徒がこの地域に住んでおり、修道士たちが鳩を「聖なる存在」と考えていたとも言われている。

ウチヒサール(Uçhisar Castle)
Pigeon Valleyから直ぐ、大きくカーブを曲がると正面に巨大な岩山が屹立する。そしてその岩山には異常なほど多くの洞窟も見える。これがウチヒサール(Uçhisar Castle)。ウチヒサールとは「尖った砦」を指す。城塞とはいい条、洞窟の数があまりに多すぎる。本当に城塞?
チェックすると、ウチヒサール城(ウチヒサール城塞)は巨大な岩山で、その内部には無数の洞窟が存在する。 この岩山は自然の要塞として古代から利用されてきたが、正確な築造時期に関する具体的な記録は見つかっていない。しかし、古代ローマ時代後期に、ギリシャ人のキリスト教徒がローマ帝国の迫害から逃れるため、このカッパドキアに隠れ住んだことが、はじまりとされる。

これらの洞窟は、自然の浸食作用によって形成された後、人々が居住や防衛の目的で拡張し、利用してきたと考えられている。そのため、ウチヒサール城が要塞として機能する以前から、人々がこの岩山内の洞窟に住んでいた可能性が高いようである。
また、この岩山に限らず、周辺にも無数の洞窟が見える。ここに多くの人が住んでいたように思う。 その因はひとつばウチヒサール城塞の存在だろう。ウチヒサール城は、古代から戦略的な要所として利用されてきたが、特にビザンティン時代には、アラブ軍の侵攻から身を守るための要塞として機能し、多くの洞窟や通路が掘られた。これらの洞窟は、敵からの攻撃を避ける避難所や物資の貯蔵庫として使用するのに近くで便利ではあtったのだろう。
もうひとつは宗教的・経済的活動の観点からの利便性だろう。ウチヒサール周辺には多くの修道院や教会が存在し、宗教的な活動の拠点となっていた。ギョレメの教会群でも直線距離で4キロほどである。また、鳩の飼育が盛んで、鳩の糞を農作物の肥料として利用するなど、経済的な活動も行われていた。これらの要因が相まって、多くの人々がこの地域に集まり、洞窟を利用した生活を営んでいたと推測できる。

ギョレメ野外博物館
ウチヒサール(Uçhisar Castle)から10キロ強走るとバスは南ギョレメ渓谷に入る。この渓谷は、カッパドキア火山岩台地の降り口の一つであり、多数のキリセ(洞窟修道院、聖堂)の集中している場所でもある。そのうち壁画の描かれたものは35をかぞえるが、壁画のないもの、壊れかけたものを含めて100ほどにもなるとのことである。 ギョレメ村を抜けるとギョレメ野外博物館に着く。「ギョレメ」はトルコ語で「見えない場所」を意味する。これは、初期キリスト教徒が迫害を逃れるためにこの地域に隠れ住んだ歴史に由来する。

ギョレメ野外博物館内にあったギョレメ野外博物館についての案内を和訳し、ここにメモする:
ギョレメ野外博物館
2世紀末までに、カッパドキアには大規模なキリスト教共同体が形成されていた。当時、この地域には二つの司教区が存在していたことが知られている。一つはカイセリ(この地より東約70キロ強)にあり、長い間この地域のキリスト教の中心地として機能していた。もう一つはマラティヤ(この地より東430キロほど)にあった。
3世紀には、信仰の篤い司祭たちによって、この地域は活気に満ちたキリスト教活動の中心地へと変貌した。
4世紀には、カッパドキアは「三大教父の地」として知られるようになった。偉大なる聖バシレイオス(カイセリの司教)、彼の兄弟である 聖グレゴリオス(ニッサのグレゴリオス)、聖グレゴリオス(ナジアンゾスのグレゴリオス)。この三人は、キリスト教思想に新たな統一をもたらした。聖バシレイオスの教えと行動は、現在においても重要視されている。その教えの一例として、飢饉の際にパンを一つだけ持っていたキリスト教徒に向けた助言がある。彼は、「信仰を持つ者は、パンを半分に分けて仲間に与え、神の導きに身を委ねるべきである」と説いた。
聖バシレイオスは、村や町の近くに小さな修道共同体を築いた。これらの共同体では、説教師の指導のもと、日々の礼拝が行われていた。しかし、エジプトやシリアのように一般社会から隔離された特権的な共同体ではなく、カッパドキアの教会において、地域社会と共に信仰を実践するという形を確立した。
ギョレメ野外博物館 は、まさにこのような宗教教育が始まった場所であり、その後 ソアンル(Soğanlı;この地の南約50キロ)、イフララ(Ihlara:この地の南西約90キロ)、アチクサライ(Açıksaray) でも同じモデルが導入された。
ギョレメの教会建築
ギョレメの教会に一般的に見られる ヴォールト(円天井)を持つ単廊式の教会 は、この地域に住む宗教共同体にとって最も適した建築様式であった。また、これらの建物は墓地としても利用されることがあった。
横長の長方形の平面構造 はメソポタミアに起源を持ち、この地域に移住してきた異邦人グループのために建設されたと考えられている。
ギョレメには 二廊式の教会 はほとんどなく、唯一の例として 聖エウスタティオス教会(St. Eustathios Church:注。場所特定できず) が挙げられる。しかし、ソアンルやイフララでは、二廊式の教会がしばしば見られる。
また、ギョレメでは 三廊式のバシリカ(大聖堂) も稀でである。この構造は、ドゥルムシュ・カディル(Durmuş Kadir) のような司教座教会に適していた。これらの教会は規模が大きく、彫刻装飾も非常に精巧であったため、火山岩の多い地域ではあまり採用されなかった。
〇ギョレメの教会壁画技法
ギョレメ野外博物館に掲示していた壁画
教会の壁画には、次の二つの異なる技法が用いられている。 
□赤土顔料(レッドオーカー)を直接岩肌に塗る方法: 聖バシレイオス教会(St. Basil Church)、エルマル教会(Elmalı Church)。聖バルバラ礼拝堂(St. Barbara Chapel) などで見られる。
□石膏(石膏、砂、わらを混ぜた下地)を塗り、その上に絵を描く方法:
これらの壁画のテーマは 聖書 や キリストの生涯 に基づいている。
ギョレメ野外博物館で見られる主な教会と修道院:
男子修道院(Men’s Monastery)、女子修道院(Women’s Monastery)、聖バシレイオス礼拝堂(St. Basil Chapel)、エルマル教会(Elmalı Church)、聖バルバラ礼拝堂(St. Barbara Chapel)、ユランル教会(Yılanlı Church)(「蛇の教会」とも呼ばれる)、パントクラトール教会(Pantocrator Church)、食堂(Refectory)、マルタ十字教会(Maltese Cross Church)、カランルク教会(Karanlık Church)(「暗闇の教会」とも呼ばれる)、聖カタリナ礼拝堂(St. Catherine Chapel)、チャルクル教会(Çarıklı Church)(「サンダル教会」とも呼ばれる)、トカル教会(Tokalı Church) これらの貴重な教会や修道院は、ギョレメ野外博物館で今も見ることができる」とあった。
聖バシレイオス
photo by Wikipedia
ここに名が挙げられるバシレイオス(330頃-379)は、後世のギリシア、ロシアなどの東方キリスト教会に多大な影響を与えたといわれる「修道綱領」を著した人物として知られる。「修道綱領」を著した頃、、4世紀は小アジアでは大規模な地震が起き、特に365年、西アナトリア一帯は大地震に襲われた。その巨大な自然の破壊力は世界の終末思想が現実味を帯び、キリスト教徒が修道の地を求めてこの地に集まりまってきていた。この頃修道綱領にとりかかったというこは、逆にいえば、4世紀の中頃まで確とした修道法が確立されていなかったということになる。
バシレイオスは修道綱領の構想をまとめるべく、2年間に渡り、エジプト、シリア、メソポタミアの修道院を訪れている。聖バシレイオスがこれらの地の修道院を訪問したのは、これらの地域が当時、修道生活の中心地として発展していたからである。修道生活は4世紀頃、ローマ帝国による迫害の終焉に伴い(392年にはローマ帝国の国教となった)、より徹底したキリスト教徒の生活を求めた人々によって盛んになっていた。 しかし、彼がそこで見たものは荒涼たる自然の中、飢えや渇きを耐えながら、孤独にひたすら祈る修道士の姿であった。彼はその姿を見て疑問を感じたようだ。そして神や隣人への愛といったものは人との関わりのなか、共同生活をとおして得られるものであるとし、修道法の基本に共住することを置いた。このギョロメの谷に集まる幾多の教会、礼拝堂はその精神の具現化とも考えられる。

緩やかな坂を上る
坂道の左手(東側)
ギョレメ渓谷には、多数のキリセ(洞窟修道院、聖堂)が集中している。そしてこのギョレメ野外博物館だけでも大小15のキリセが集まっている。
このほかにも、谷間の斜面に林立する三角形の凝灰岩には、掘り抜かれた聖堂が所狭しと並んでいる。 



坂道の右手(西側)

一般に、洞窟修道院は、住居の部分があり、その同じ岩山やそれに隣接する岩山に聖堂が造られているのだが、聖堂の大きさや形は、実際の岩山の形によって制約を受けざるをえない。しかし、ビザンツの形式に似るものが多いところを見ると、限られた条件の中で修道士たちは努力をしたようである。
バスを降りギョロメ野外博物館へと緩やかな坂を上る。道の左手には洞窟のある三角形の形状をした奇岩が目に入る。教会か礼拝堂のようにも思えるがわからない、右手はギョレメ渓谷の一部をなす、切り立った崖面に幾多の洞窟が見える。



トカラ(バックル)修道院:Tokali(Buckle )Church
少し坂を上ると道の左手に扉があるが、その扉は閉まっていた。入り口近くに案内がありTokali(Buckle)Church)とあった。
案内には「この教会は、カッパドキアにとってだけでなく、ビザンツ美術全体の視野においても非常に重要な記念碑である。
古代のトカラ教会は、広い樽型ヴォールト(半円筒状天井)を持つ単廊式の教会で、おそらく9世紀末に掘られたと考えられている。ヴォールトには、キリストの生涯や洗礼者ヨハネの生涯を描いた広範な壁画が施される。これらの場面の中には、西方教会ではほとんど見られないものもあり、外典福音書(正典に含まれない福音書)に基づいたものが多く、カッパドキアでは非常に人気があった。
photo by Google Map

キリストの生涯を描いた場面の周囲には、聖人たちの姿が描かれている。その中には、最初のキリスト教皇帝であるコンスタンティヌス大帝とその母ヘレナも含まれている。 コンスタンティヌスとヘレナは、十字架崇敬と深い関わりがあるため、カッパドキアで頻繁に描かれている。伝説によれば、ヘレナはエルサレムでキリストの「真の十字架」を発見したとされている。また、この教会には、皇帝コンスタンティヌス7世とその妻ヘレナ・レカペナへの言及も見られまる
この教会は、カッパドキア地方で最古の岩窟教会として知られている。教会は以下の四つの部分で構成される。
1.古い教会(単廊式)、2.新しい教会、3.古い教会の下にある下層教会、4.新しい教会の北側にある付属礼拝堂(パレクリシオン) イエスの生涯は、ヴォールト(天井)の各パネルに個別に描かれ、左から右へと続いている。
photo by Google Map

古代トカラ教会の壁画が描かれてから数十年後、アプス(祭壇後部の半円形空間)が取り壊され、より広く壮大な教会が掘られた。古い教会のナオス(身廊)は保存され、新しい教会の西側玄関ホールとして利用されている。このような改変は極めて異例であり、この場所の重要性を示している。通常、カッパドキアの教会は側廊や側室を追加することで拡張されることはあったが、アプスを取り壊し、その先に掘り進めるという手法は前例がなかった。
壁画に描かれている主な場面
1.受胎告知、2.訪問(マリアがエリザベトを訪ねる)、3.水による試練、4.ベツレヘムへの旅、5.キリストの誕生、6.東方の三博士の礼拝、7.幼児虐殺、8.エジプトへの逃避、9.ザカリアの殺害、10.エリザベトの追跡、11.ヨハネの召命、12.ヨハネの説教、13.キリストとヨハネ、14.洗礼、15.カナの婚宴、16.ラザロの復活、17.盲人の癒し、18.パンと魚の奇跡、19.使徒たちの召命、20.葡萄酒の奇跡、21.ルサレム入城、22.最後の晩餐、23.ユダの裏切り、24.ピラトの審問、25.十字架を担うイエス 26.キリストの磔刑、27.十字架降下、28.キリストの埋葬、29.聖婦人たち(マグダラのマリアら)による墓参り、30.ハデス降下(復活したキリストによるアダムとエバの解放)、31.キリストの昇天、32.ペテロによる最初の助祭叙任、33.聖霊降臨(ペンテコステ)、34.使徒たちの祝福と使命 35.キリストの誘惑、36.ヨセフの夢(第一の夢)、37.百人隊長の僕の癒し 38.ヤイロの娘の復活、39.中風の人の癒し、40.預言者の幻視、41.マタイの召命」とあった。

photo by Google Map
トカル・キリセ、または「留め金の教会・聖堂」。聖人の身につけたバックルからの命名である。 カッパドキアの洞窟修道院中、最大のもので、高さは10メートルを超え、奥行は20メートルに及ぶ。
新旧、二つの部分からなる、かまぼこ形天井の聖堂をもっている。旧聖堂内にも聖書の物語が描かれているが、その奥をぐんと広く掘り進めて造られた新聖堂の柱、天井、壁に展開される画面は多彩で精緻なものである。とくに背景の地を飾る美しい青は、青玉、ラピスラズリを挽いたもので彩色されていたという。高い天井までどのように描いたのであろう。
このキリセはカタコンベ(地下礼拝堂兼墓室)を備えており、ギョレメ修道院群の中でも、中心的なものという。
トカル・キリセは、カッパドキア地域の他の教会とは異なる建築様式を持ち この教会は、メソポタミア方式として知られる横の身廊を備えた構造を持ち、他の多くの教会が単一の身廊と丸天井を持つのに対し、独特の設計となっている。 内部には、セント・バジルやイエスの生涯、イエスの起こした数々の奇跡の場面が描かれており、ビザンチン美術の傑作とされている。

女子修道院(Kızlar Manastırı:Women’s Monastery)
更に坂を少し上るとギョレメ野外博物館のエントランス。そのすぐ先で道は左右に別れる。どちらを進んでもグルリこの場所に戻れるようだ。
道の傍、左手に洞窟のある岩がある。特に案内はないのだが、現地のガイドさんの説明によると女子修道院(Kızlar Manastırı)とのことである。1階部分の崩れが目立つ。 ここは、修道女たちが共同生活を送っていた歴史的な修道院。この修道院は7階建ての構造を持ち、内部には教会、礼拝堂、岩を削ってつくた大きな食卓をもつ食堂、通路などが設けられていた。
修道院内には4つの教会が存在し、その中の1つである3つの後陣を持つ教会には、キリストの誕生に関する場面が描かれているという。また、南側の壁には、カッパドキア出身の高名な聖人、聖グレゴリウスの生涯と殉教の場面が描かれているとのこと。さらに、修道院の名称にもなっているクズラル教会(Kızlar Kilisesi)は、十字形の基礎を持ち、中央のドームは4本の柱で支えられている。この教会内には、立ち姿のキリストを描いたフレスコ画が唯一残されている。
女子修道院はカッパドキア地方における修道活動の中心地の一つでもあった。


左右に別れる右手には聖バシレイオス礼拝堂(St. Basil Chapel)が直ぐ先にあるが、そのまま左手の道を上ってゆく。
正面に幾層にもわかれた洞窟のある岩山が見えてくる。そこが坂道の上りの終点のようだ。
向かって左手が暗闇教会、右手が食料庫・厨房・食堂






カランルク(暗闇)教会:(Karanlık Kilise:Karanlık Church)
坂を上り切ったところ、行く手を遮る巨大な岩盤に幾層もの洞窟が見える。この教会の入口は北側にあり、曲がりくねったトンネルを抜けると樽型ヴォールト(半円筒形天井)のナルテックス(玄関ホール)に通じている。
ナルテックスの南側には3つの墓がある。教会の平面は「スクエア・クロス型」(正方形の中心に十字架を組み込んだ形)で、十字架の腕の部分はクロスヴォールト(交差ヴォールト天井)になっている。
この教会は「カランルク(暗闇)」教会と呼ばれている。それはナルテックス(玄関ホール)の窓からわずかな光しか差し込まないためである。その結果、壁画の色彩が非常に鮮やかに保たれている。
photo by トルコ旅行

中央ドームにはキリスト・パンテクラトール(全能者キリスト)が描かれ、4つの小ドームには4大天使(ガブリエル、ミカエル、ラファエル、アズラエル)が描かれている。 この教会は、エルマル教会(Elmalı Church)やチャルクル教会(Çarıklı Church)と同様に、イエス・キリストの生涯と受難の場面が描かれている。この教会は11世紀末のものと考えられている。
1.デイシス(Deesis)、2.燃える炉の中の三人の若者、3.キリスト、4.聖母マリアとイエス・キリスト、5.大天使ミカエル、6.大天使ガブリエル、7.大天使ラファエル、8.大天使ウリエル、9.ベツレヘムへの旅、10.キリストの降誕(誕生) 、11.東方三博士の礼拝、12.キリストの洗礼、13.エルサレム入城、14.キリストの変容。15.ラザロの復活、16.アナスタシス(ハーデスでのキリスト/復活)、17.ユダの裏切り、18.キリストの磔刑。19.最後の晩餐、20.聖墓の前の女性たち、21.キリストの昇天。但し、教会内部は写真撮影禁止のため、Google Mapの共有に掲載されている写真を主に使うが、ない場合はWebサイトより掲載させていただいた。


入り口から岩を潜り中に入ると開けた場所に出る。ナルテックス(玄関ホール)とよばれるこの拝廊の南の壁面は装飾が施されているが、説明から判断するとその奥に3つの墓があるようだ。その先で十字架らしき装飾の施された入り口から教会にはいる。

聖カタリナ教会(聖キャサリン・チャペル:Azize Catherine Şapeli)
暗闇教会を出る。暗闇教会に沿って東に上る道の一筋下に東に続く道がある。その道を少し進むと小ぶりな岩窟がある。それが聖カタリナ教会(聖キャサリン・チャペル) 聖カタリナ教会(聖キャサリン・チャペル)は、聖カタリナが聖テオドレや他の生徒たちと描かれていることから、この名前が付けられた。 教会内の床には9つの墓があり、壁にも1つの墓があります。 内部には美しいフレスコ画が施されている。
聖カタリナ教会(聖キャサリン・チャペル)は、聖カタリナが聖テオドレや他の生徒たちと描かれていることから、この名前が付けられた。 教会内の床には9つの墓があり、壁にも1つの墓があります。 内部には美しいフレスコ画が施されている。



チャルクル(サンダル)教会:Çarıklı Kilise (the Church with Sandals)
この教会の入口は北側にあり、金属の階段を上って入る。教会は修道院の一部であり、修道院のホールはU字型の中庭を囲むように配置されている。
教会の構造はギリシャ十字型(Greek-Cross Plan)で、2本の柱と3つのアプス(後陣)を持っている。ナルテックス(玄関ホール)は崩壊している。
この教会の名前は、「キリストの昇天」の図の下に見られる2つの深い足跡に由来する。 しかし、壁に描かれたイコン(聖画像)や十字架の落書きから、もともとは「聖なる十字架」に捧げられた教会ったと考えられている。
photo by トルコ旅行
教会は2階建てになっており、下の階には食堂(リフェクトリー)がある。ここには岩を削って作られた長いテーブルがあり、奥には「最後の晩餐」の場面が描かれたニッチ(壁龕)がある。教会内部には、イエスの生涯を描いた12の場面が残されている。 当初はもっと多くの場面が描かれていたと考えられているが、建築形式の変更により12場面に減少したと推測されている。
12の場面の内訳は、
幼少期の場面が3つ、成人後の場面が2つ、受難と復活の場面が7つ。 この教会は11世紀中頃のものとされている。
描かれている場面:
1.デイシス(Deesis)、2.聖母マリア、3.大天使ミカエル、4.キリスト・パンテクラトール(全能者キリスト)、5.キリストの降誕(誕生)、6.東方三博士の礼拝、7.キリストの変容、8.エルサレム入城、9.ユダの裏切り、10.キリストの磔刑、11.キリストの洗礼 トカルキリセと対照的な壁画の様式となっている。

食料庫・厨房・食堂
チャルクル(サンダル)教会から暗闇教会まで戻る。暗闇教会の西、暗闇教会の隣に食料庫・厨房・食堂のエリアがある。
案内には「これらの三つのエリアは並んで配置され、通路でつながっている。最初の区画は食料庫として使用され、岩をくり抜いて作られたくぼみが貯蔵スペースとして利用されていた。
厨房には、「タンディール(Tandır)」と呼ばれるオーブンがあり、これは現在でも地元の村の家々で見られる。
最後の区画は食堂であり、入口の左側には岩を彫って作られた長いテーブルが設置されている。このテーブルには40~50人が座ることができた。 また、テーブルの右側の床にはワイナリー(葡萄絞り場)が掘られており、ここで葡萄を踏み潰してワインを作っていた」と説明にあった。




malta haçlı kılıseマルタ十字教会・パントクラトール教会(Pantocrator Church):Pantokrator Kilisesi
食料庫・厨房・食堂エリアの前を緩やかに下る道を少し西に進む。当日見学コースには入っていなかったのだけど、メモの段階でGoogle Mapを見るとmalta haçlı kılıse、Pantokrator Kilisesiのプロットがある。ギョレメ野外博物館の案内にあった、malta haçlı kılıseマルタ十字教会とパントクラトール教会(Pantokrator Kilisesi)のようだ。道沿いのどれかの入り口がそうなのだろうけれど、特段の案内もなく特定できない。 あれこれチェックしたのだけど、これも情報が見つからなかった。
で。生成AI君に尋ねる。その応えは:
「Malta Haçlı Kilisesi」についての具体的な情報はあまり知られていませんが、名前から推測すると、これは「マルタ十字教会(Malta Crusader Church)」を意味します。 「Haçlı(ハチル)」はトルコ語で「十字軍」を意味するため、十字軍時代に関連する教会の可能性があります。12世紀頃、十字軍の影響がアナトリア地域にも及んでいたため、その時期に建てられたか、または十字軍が使用した教会である可能性があります。 「Malta」という名称については、マルタ騎士団(ヨハネ騎士団)は十字軍時代に活発に活動し、エルサレムやロードス島、マルタ島を拠点にしていました。
「マルタ十字(Malta Haçı)」とは、マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)に関連する十字のデザインを指します。しかし、マルタ騎士団がカッパドキアで活動していた記録はほとんどなく、この名称は後世につけられた可能性があります」とあった。
次いでPantokrator Kilise(パントクラトール教会)についての生成AI君の応え:
ギョレメにあるかどうかの具体的な記録は多くありません。しかし、カッパドキアやギョレメの洞窟教会では、「キリスト・パントクラトール(Christ Pantokrator)」のフレスコ画が多く見られます。「パントクラトール」とはギリシャ語で「全能者」を意味し、ビザンティン美術においてキリストの権威と威厳を象徴する表現です。一般的に、中央ドームや主祭壇の上部に描かれ、キリストが右手で祝福のジェスチャーをし、左手に聖書を持つ姿が特徴です。
多くのビザンティン教会には、中央ドームにキリスト・パントクラトールのフレスコ画が描かれていま。ギョレメ野外博物館内の暗闇教会(Karanlık Kilise)やトカリ教会(Tokalı Kilise)、リンゴ教会(Elmalı Kilise)などにも、キリスト・パントクラトールのフレスコ画が残っています。特に、暗闇教会の中央ドームには、美しく保存されたキリスト・パントクラトールの姿が見られます」とあった。

ユランル(蛇)教会(聖オヌフリウスの教会):Yılanlı Kilise,:Yılanlı Church)
道を下り崖に当たる手前の曲がり角の南の大岩を穿った洞窟がユランル(蛇)教会。 この教会の主な空間は、横方向の樽型ヴォールト(半円筒形の天井) に覆われた長方形の空間となっている。一方、南側に広がる墓を収めた部分は平らな天井 を持つ。 祭壇部(アプス)は、左側の長い壁をくり抜いて造られており、教会の建築は未完のまま残された。
教会の入口は北側にあり、カッパドキアで崇敬される聖人たちの肖像がヴォールトの両側に描かれている。この教会は 11世紀に建てられた とされている。 入口の正面 には、左手に聖書を持つイエス・キリスト の肖像が描かれている。その近くには、この教会を寄進した人物(ドナー)が描かれている。
ヴォールトの東側 には、以下の聖人たちの姿が描かれている。
聖オネシモ(St. Onesimus)、聖ゲオルギオス(St. George)と竜、聖テオドロス(St. Theodore)、聖ヘレナ(Helena)とその息子コンスタンティヌス大帝(Constantine the Great)。
photo by Google Map
ヘレナは、キリストが磔にされた 「真の十字架(True Cross)」 を手に持っている姿で描かれている。
ヴォールトの西側 には、次の聖人が描かれている。
長い髪をした裸の聖オヌフリウス(St. Onuphrius)はヤシの木の後ろ に立っている、聖トマス(St. Thomas)は祝福を授ける姿 で描かれている。
聖バシレイオス(St. Basil)、は本を持つ姿 で描かれている。
壁画の主なモチーフ一覧:
デイシス(Desis)(キリスト、聖母マリア、洗礼者ヨハネの祈願図)、寄進者とともに描かれたキリスト(Christ with Donor)、聖バシレイオス(St. Basil)、聖トマス(St. Thomas)、聖オヌフリウス(St. Onuphrius)、聖オネシモ(St. Onesimus) 聖ゲオルギオス(St. George)、聖テオドロス(St. Theodore) 聖ヘレナ(Helena)、コンスタンティヌス大帝(Constantine) ユランル教会には キリスト教の重要な聖人や出来事 が描かれており、特に 聖オヌフリウスの独特な姿 や 聖ゲオルギオスの竜退治 の場面が特徴的とされる。

エルマル・キリセ:Elmali Church
蛇の教会を出て、周回コースの道を少し下ると平坦な場所に出る。ちょっと
したView Point でもあり西の崖面などを眺める
と、右手に洞窟教会らしきドーム型の岩、左手の一段低いところにも同様に洞窟教会らしきドーム型の岩がある。とりあえず石段を下りるとエルマル・キリセ:Elmali Churchとあった。
エルマルはトルコ語でリンゴという意味だが、命名の由来については、リンゴ畑のそばにあったからという説と、小ドーム (左中央)に描かれた大天使ガブリエルの手にした地球儀がリンゴに見えたからという説があるが、いずれにしてもトルコ人がつけたものである。 構造を見ると、中央部にドームを置き、その四周辺部にドームをもつ側室、さらに奥に 祭室を配置している。
photo by Google Map

537年、コンスタンティノープルに建立され、世界に比類なき偉容を誇るハギア・ソフィア大聖堂と類似しており、おそらくそれを基本としたものと考えられる。つまり、平地の建築物を、岩石の中に刳り出してしまっているとのこと。
壁や柱、そしてドームのすべての面にはキリストはじめ預言者、天使など、聖書の物語の場面が描かれている。つねに聖書の世界に身を置きたいという信徒の願いがこめられている、と。このキリセの壁画はカランルック・キリセ(暗闇の修道院)とともに良い保存状態が保たれている。
キリスト伝や預言者を描いた画は11世紀のものかと推察されるが、 下地に以前描かれたものがあり、聖堂が造られたのはそのずっと前ということになると考えられている。



聖バルバラ・キリセ(聖バルバラの聖堂):St.Barbara’s Church
もとに戻り右手のドームに。案内タグにSt.Barbara’s Churchとあった。
聖バルバラ・キリセ(聖バルバラの聖堂)は、ギョレメ野外博物館の中でも、壁画の保存状態が良好なことで知られている。エルマル・キリセと同じ岩山に、背中合わせに掘られている。入口は西側にあり、その横は深さ15メートルほどの谷となっている。



photo by Google Map
入口から中へ入ると、左手壁面に聖女バルバラが描かれており、聖堂名はこれに由来する。聖バルバラは、アナトリアのニコメディア出身(一説にエジプトのヘリオポリス)といわれている。ベンガラ色の単色で描かれた幾何学文様、そして十字架や鳥などの一見単純なモチーフは象徴的なものに思える。聖像破壊運動(726一843:盛んになっていたマリア像や聖像への崇拝に対して、 聖像崇拝禁止令が発せられ、多くの聖像・聖画が破壊された)で聖像の製作が禁止された時代の表現であったといわれている。







聖バジル教会(Aziz Basil Şapeli:St.Basil Church)
聖バルバラ・キリセの東側の道を下ると、女子修道院前に戻ってきた。周回コースの終点となる。その左手、西側にドーム型の岩がある。それが聖バジル教会(Aziz Basil Şapeli:St.Basil Church)。
聖バジル教会は、4世紀からカッパドキアに広がったキリスト教文化を今に伝える重要な遺産。 建設時期は10世紀の頃。聖バジルとは聖バシレイオスのこと。既述のごとく4世紀のカッパドキアのキリスト教指導者で、「東方正教会の修道制度の父」として知られる。教会内部には、単廊式のシンプルな構造で、内部にはキリストや聖バジルたちのフレスコ画が描かれており、その鮮やかな色彩と保存状態の良さとともに初期キリスト教美術の特徴をよく示している。
ギョレメ野外博物館は かつて修道僧の教育施設があった場所で、多くの教会や礼拝所が集中しているが、中でも聖バジル教会(St. Basil's Chapel)は、初期のキリスト教徒たちの信仰生活や芸術性を垣間見ることができる貴重な場所として知られている。
聖バジル教会は、他の華やかなフレスコ画を持つ教会と比べて比較的シンプルな造りをしている。しかし、それがかえって当時の修道士たちの質素な生活を反映しており、祈りの場としての純粋な雰囲気を感じることができる、という。
聖バジル教会残るいくつかの重要なフレスコ画としては:
聖バシレイオス(バジル)の肖像、キリスト・パンタグラトール(全能のキリスト)の姿。(聖バシレイオスとともに、他の聖人たち(おそらく聖ゲオルギウスや聖デメトリオスなど)も描かれている)、竜と戦う聖ゲオルギウス(または聖デメトリオス)。カッパドキア地方では、騎士の姿をした聖ゲオルギウスや聖デメトリオスが悪と戦う場面がよく描かれる。
また、教会の一角には、修道士たちの墓があると考えられている。岩をくり抜いた墓穴がいくつか見られ、カッパドキアの修道院文化における「修道士の埋葬」の一例となっている。
ギョレメの谷の歴史
ヒサールからギョレメ野外博物館にかけて幾多の洞窟住居をみてきたが、それではこの渓谷周辺に人々がすみはじめたのはいつの頃からだろう。チェックする:ギョレメの谷(現在のギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群)は、先史時代から人々が居住していたことが考古学的な証拠からわかっている。しかし、本格的に定住し、岩窟住居や教会が発展していったのはキリスト教の時代(4世紀以降) とされる。
先史時代(紀元前2000年以前):
ギョレメ周辺には青銅器時代の遺跡が発見されており、すでに人々がこの地域に住んでいたことが分かっている。
〇ヒッタイト(紀元前17世紀~紀元前12世紀)の時代
ヒッタイト(紀元前17世紀~紀元前12世紀)の時代には、カッパドキア全体で交易が盛んに行われていた。しかし、この時代の住居は主に平地にあり、ギョレメの岩窟を利用する文化はまだ発展していない。
〇フリギア・ペルシア時代(紀元前1200年~紀元前330年)
ヒッタイトが滅んだ後、フリギア人やペルシア人がこの地域を支配した。ゾロアスター教が広まり、一部の洞窟が宗教的な目的で使われた可能性があるが、大規模な岩窟都市の形成はまだ見られない。
〇ローマ帝国時代(紀元前30年~4世紀)

初期キリスト教徒の避難地としての利用が始まる。1世紀頃からローマ帝国によるキリスト教徒迫害が始まり、キリスト教徒がこの地域に逃れてきた。3世紀~4世紀には、本格的に洞窟を掘削し、居住空間や礼拝堂を作るようになった。4世紀には、カッパドキア出身の聖バシレイオス(バジル)が修道生活の基盤を築き、ギョレメは修道士たちの拠点となる。
〇ビザンティン帝国時代(4世紀~11世紀)
この時期がギョレメの岩窟修道院の最盛期。4世紀末~9世紀にかけて、多くの教会や修道院が建設される。8世紀~9世紀の聖像破壊運動(イコノクラスム)の時代には、壁画のないシンプルな教会が作られる。
9世紀~11世紀になると、フレスコ画で装飾された壮麗な教会が多数建てられ、ギョレメ野外博物館に現存する多くの教会がこの時代に作られた。
〇セルジューク朝とオスマン帝国時代(11世紀~20世紀初頭)
11世紀以降、セルジューク朝がカッパドキアを征服。その後、オスマン帝国の支配下に入るが、ギョレメの岩窟都市は次第に衰退。イスラム化が進み、多くの修道士たちはこの地域を離れる。それでも、一部のキリスト教徒は19世紀頃まで洞窟住居で生活を続けた。
〇現代(20世紀~現在)
20世紀に入ると、ギョレメの岩窟住居の多くが放棄される。1985年、ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群がユネスコ世界遺産に登録。観光地として発展し

、現在はホテルやレストランとして利用される洞窟住居もある。

ホテルに戻る
ギョレメ野外博物館を出たバスはラクダ岩の前を通った。ということは、ギョレメ野外博物館から東に向かいKaraseki辺りで南に下り、Aktepeを経由してデヴレント渓谷のラクダ岩前を抜け、D302号に合流し西へと向かいオラヒサールのホテルに戻ったのだろう。 明日はオラヒサールから西に向かいカイマクルの地下都市の見学がメーンイベントとなる。