日曜日, 10月 17, 2010

秩父観音霊場散歩;小鹿野から大日峠を越えて32番札所法性寺奥の院に


紅葉の頃、会社の仲間と秩父路へ、との話になった。さて、どこに行こうか、と少々考える。メンバーは沢ガールデビューした「怖いもの知らず」のうら若き女性が中心。ちょっと手応えがあり、かつまた紅葉も楽しめるところ、ということで秩父の西奥の小鹿野にある32番札所法性寺奥の院を訪れることにした。法性寺には二度訪れたことはある。が、二度とも奥の院はパス。時間が無かった、ということもさることさることながら、岩場をよじ登っての大日如来参拝、巨大なスラブの背を辿っての岩船観音参拝は、高所恐怖症の我が身には少々荷が重く、見ないふりをしていたわけである。
ルートを定めるに、法性寺奥の院への直球勝負では面白くない。自分ひとりで散歩するぶんには、だらだら、成り行きで歩けばそれで十分満足ではあるのだが、同行者を率いる以上、おのずと「起承転結」のルートとなってしかるべし、とプランを練る。

で、あれこれ考え決めたルートが、西武秩父からバスで小鹿野まで行き、そこから峠越えの巡礼道を法性寺に。法性寺の奥の院で少々盛り上がり、仕上げは長瀞での紅葉見物といったもの。これであれば、起=峠越えの巡礼道>承=落ち着いた法性寺>転=一転、奥の院の怖い岩場>結=結びは、長瀞の美しい紅葉見物、と構成としてはそれなりのものとなった、かと。同行者にもそれなりの気持ちの揺れも与えられることを期待しつつ、晩秋の11月18日、一路秩父へと向かった。

本日のルート;西武池袋;7時半・秩父5号>西武秩父8時58分>西武秩父駅;西武バス・小鹿野車庫・栗尾行初;9時15分>小鹿野役場着;9時51分>徒歩;大日峠経由32番法性寺(1時間)>到着おおよそ11時>法性寺奥の院(おおよそ1時間)>松井田バス停まで4キロ歩く;おおよそ1時間>松井田バス停発14時51分>秩父駅着15時1分>長瀞>西武秩父>西武池袋

西武秩父駅西武池袋7時半・秩父5号に乗り西武秩父に8時58分着。駅前のバス停で「小鹿野車庫・栗尾」を待つ。当初の予定では駅前の観光案内所で資料など手に入れようと思っていたのだが、開館時間前で利用できなかった。

蒔田川筋西武秩父発9時15分の「小鹿野車庫・栗尾」行き西武バスに乗り、小鹿野町役場に向かう。国道299号を進み荒川に架かる秩父橋を渡り、蒔田で赤坂峠、といっても標高200mといった長尾根丘陵の北端部といったところだが、その峠を越え長尾根丘陵の西側、荒川の支流である蒔田川の谷筋に入る。長尾根丘陵は50万年前に荒川が流れていた段丘面である。蒔田川の谷筋が荒川のそれに比べてそれほど深くないのは、蒔田川の上流部が荒川や赤平川の浸食により切断されたため、と言う。上流部分が切断されたため水流が少なくなり浸食が進まなかったのだろう。とは言うものの、はるかなる大昔の話ではある。

赤平川筋蒔田川の谷筋、というか、浅い蒔田川を囲む水田地帯をしばらく進むと道は再び丘陵の峠に上る。丘陵名は不詳だが、その丘陵の南端の千束峠を越え荒川の支流・赤平川を渡る。赤平川は国道299号を北西に進み上州に抜ける志賀坂峠の南に聳える諏訪山に源を発し、秩父の皆野で荒川に合流する。

小鹿野_9時51分;標高248m谷筋を進み小鹿野用水と交差するあたりで国道299号を離れ、小鹿野の町に入り、9時51分小鹿野役場で下車。小鹿野はこれで3度目。すべて秩父観音札所巡礼がらみである。最初は小鹿野の町を越え、栗尾バス停で降り、4キロほど歩き秩父観音31番札所・観音院を訪れたとき。その時、この小鹿野役場まで戻り、今回巡礼道を辿る32番札所・法性寺までタクシーを利用した。時間無きが故ではある。二度目は札所の写真を撮るだけのために車で秩父を巡ったとき此の地に訪れた。
三度目の小鹿野。小鹿野は埼玉県最西端、群馬県と接する秩父郡最奥の町である。もっとも、それは「現在」の東京を中心として結ばれた道路交通網を基にした物流の視点でのこと。かつて、物流は峠を越えての人馬が担っていた時代の視点で見ると、小鹿野の物流におけるポジショニングが大きく変わって見える。上州と境を接した秩父の最奥部の町小鹿野は、上州そして更には上州を介して信濃と結ぶ物流の拠点となって現れる。
往昔の小鹿野の経済圏は、現在の国道299号を進み志賀坂峠を越えた上州中山郷(群馬県上野村)までも含まれていた、と。当時、山間の集落、謂わば「陸の孤島」であった中山郷の産物は峠を隔てて接する小鹿野に集まっていたようだ。また、その上州の中山郷は十石峠(かつて米のとれない上州地方西部の山間部に、信州佐久平から一日十石の米を運び込んでいたことが地名の由来)を越えて信濃とつながっていた。この往還は江戸と信州を結ぶ上州道とも呼ばれ、明治・大正の頃は絹織物を運ぶ重要な道として栄えていたようである。

かくして。小鹿野は古くから開けていた。その歴史は古く、平安時代に編纂された『倭名類聚抄』には既に「巨香郷(こかのごう)」として記録されている。小鹿野の地名は、古代神話で日本武尊がこの地を「小鹿の野原」と呼んだことに由来する、とか。「日本武尊を小鹿が案内した原」といった意味である。小鹿野には広大な野原があるわけでなないので、「原」はこの場合、「渡来人の住む地域(秦>幡羅>ハラ>原)ではないか、との説もある。真偽のほどは定かではないが、実際小鹿野には古墳が残る、とも。

古代から中世にかけては秩父武士団が台頭。戦乱の世には信州・上州・秩父往還筋故に、甲信越勢力の関東侵攻のための拠点とされ、この地の争奪合戦が繰り広げられたようでもある。小鹿野の町並みを更に奥に進んだ三山地区の要害山は永禄12年(1569)には武田と後北条の戦いの際の後北条方の物見跡、とも。耕地面積が少なく林業と養蚕業で生計を立てていた小鹿野地域は、江戸時代に入ると江戸と信州を結ぶ上州道・中山道裏街道における秩父路最後の宿場町として賑わいを見せた。また、その街道故に上州山間部をも経済圏に入れた西秩父の経済の中心として栄え、山間の僻地にもかかわらず六斎市が立つなど、市場町として、秩父市内=大宮郷とは異なった独自性を保った町として発展したようである。
小鹿野は江戸の頃は幕府直轄地であり、明和2年(1765)、八代将軍徳川吉宗の時代に代官の出役所として発足したのが始まりと言われる本陣跡もあるようだ。秩父市内=大宮郷は確か忍藩領であったと思うが、そのあたりの統治携帯の違いも、独自性の一因、かも。

宮沢賢治の歌碑小鹿野役場バス停脇には休憩所があり、小鹿野近辺の地図や観光パンフレットなどが置かれている。休憩所の前には「宮沢賢治の歌碑」。「山狭の 町の土蔵のうすうすと 夕もやに暮れ われらもだせり」と刻む。賢治が地質調査で秩父を訪れた折に詠んだもの。
賢治は小さいころから鉱物・植物・昆虫などに興味を持っていたが、特に鉱物が好きで「石コ賢さん」とも呼ばれていた、とのこと。秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層に恵まれ、我国の近代地質学発祥の地である秩父を訪れたのは盛岡高等農林学校2年生、二十歳の時。大正5年(1916)9月1日から7日まで長瀞の「岩畳」に代表される岩石段丘や「ようばけ」と呼ばれる赤平川の露出崖面(よう=夕日、ばけ=はけ>崖のこと。夕日に照らされた崖といった意味だろう)、そしてこの小鹿野から三峰山に登り、玄武岩質の露出した凝灰岩の調査をおこない、三峰から影森の石灰洞などを調査し秩父大宮に戻り、盛岡に帰っている。
賢治はこの地質調査の旅の間に20ほどの歌を詠んだ。いつだったか長瀞を訪れたとき、「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ」と刻まれた歌碑があったが、これは岩畳の対岸にある虎の毛の模様を思わせる「虎石」を読んだもの。また、赤平川の「ようばけ」では「さはやかに半月かゝる薄明の秩父の狭のかへりみちかな」と詠む。

赤平川に架かる金園橋バス停を離れ、大日峠への道が分岐する郵便局まで町を戻る。確かに郵便局の対面に、まことにささやかな「巡礼道の札」があった。気をつけていなければ見落としてしまいそうである。
道を右折し民家の間の小道を進むと庚申塚があり、そこを左折し先に進むと欅の巨木が道脇に聳える。道はこの古木の辺りから緩やかに右に曲がり下ってゆくと赤平川に架かる橋に出る。橋の名は「金園橋」。橋脇に注ぐ沢の名前が小判沢。小判>黄金>金の園との縁起故の命名とか。

小判沢集落橋を渡ると樹林の中に入る。坂を上ると集落がある。小判沢と呼ばれる。誠に有難い地名である。地名の由来は不詳。金山でもあったのだろうか、ミヤマグルマのような小判を連想させる草花が咲くのだろうか、はたまた、養蚕が盛んな秩父では米粉団子で「繭玉飾り」をつくり神棚にお供えする風習があるようだが、その団子が繭のかたちや、小判などの縁起のいい飾りにするとのこと。そんな風習に由来する沢名前であろうか、などと如何なる根拠とても無い妄想を楽しむ。


そんな小判沢集落の入り口の小祠に「こんせい宮」が佇む。金精様とは男性のシンボルを祀る。奥日光と片品村を繋ぐ金精峠が有名だが、散歩の折々で金精様にはよく出会う。いつだったか、奥多摩の川井駅の先、百軒茶屋キャンプ場から「棒ノ折」への急登手前に金精様が祀られていたことを思い出す。金精様に限らず、石をご神体とした社によく出合う。人々の原初的な信仰は巨石・奇岩より起こったとも言われる。古代の遺跡からは石棒が発掘されるとも聞く。石には神が宿り、それが豊饒=子孫繁栄の願いと相まってハンディな「金精さま」へと形を変えて伝わってきたのだろう、か。

巡礼道_10時25分;標高260m集落を抜けたあたりに児童公園がある。そこから左に下る巡礼道の指導標があり、「大日峠を経て32番へ2.4km」、とある。
細い山道を下って行くと、沢に出る。これが小判沢ではあろう。小判のように光輝くこともなく、少々薄暗い杉林の中を流れる沢にかかる小橋を渡り、沢に沿って樹林の中を進む。丸木を並べた橋を渡ったり、沢の小石を踏んで渡るなど、沢をしばらく進むと道は沢から離れ峠へと向かう。

道は鬱蒼とした杉林。明るいといった雰囲気ではないが、巡礼道っぽくて、それなりの雰囲気がある。道脇には遍路道の札がかかっているので道を間違うことも、ない。

秩父の地層小判沢では沢に沿って地層が露出している箇所も見受けられる、とか。門外漢にはよくわからないが、上で鉱物に強い興味をもった宮沢賢治が地質調査に訪れた、とメモしたように、秩父は秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層で知られるようである。
周囲を山にかこまれた秩父盆地は、盆地の中に舌状丘陵が複雑に並び、荒川や赤平川は深く刻まれた谷筋を構成する。地形フリークには誠に魅力的な地形である。
その複雑な地形を秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層の観点で整理するに、秩父中・古生層とは秩父を含む日本列島は海の底にあった時期。海底には土砂が堆積し分厚い地層が形成された。今から3億年前のことである。この時期は地球の歴史の中で、古生代から中生代と称されるため、この地層を秩父中古生層と呼ぶ。中古生層は日本全国に分布するが「秩父」中古生層と「秩父」という形容詞が付くのは、秩父ではこの地層が表面に露出し、また、この地層が最初に発見されたのが秩父であった、ため。

2億年前の中生代の末頃になると、依然海底にあった日本列島は、海底火山による造山運動がはじまる。日本列島は隆起と沈降を繰り返し、時には、高地の一部が海上に顔を出しはじめた、とか。奥秩父の高山はこのころ海上に頭を擡げたの、かも。
6000万年前に始まる新生代に入ると、日本列島が次第にその形を現してくる。1700万年前には日本列島が大陸から分離され、秩父は陸と海の境となったようである。奥秩父の山々が海岸線を形作り、秩父盆地が湾となっていた、とか。その後、海進期・後退期が繰り返され、その過程で陸地の浸食が進み、現在のような複雑な地形となっていったのであろう。
海岸線を形成していた奥秩父山系と湾となっていた秩父盆地の境目には大きな断層があり、この断層面には、秩父中古生層から現在までの地層が観察できるようである。秩父にくれば、日本列島の歴史がわかる、とか。宮沢賢治が秩父を訪れた所以である。

大日峠_10時54分;標高394m

しばらくすすむと、杉林が明るくなり尾根に近づいたことがわかる。沢を離れておおよそ30分弱。標高390mほどの大日峠に到着。沢の標高が250mほどであるので、140mほど上ったことになる。峠の見晴らしはよくない。
赤い幟の立つ峠には二体の石像が佇む。一体には傘、というか上屋があるが、野ざらしの像のほうが古そうでもある。また、像は仏像と言うより、神像といった風情でもある。像はそれほど古そうではない。秩父札所を200回以上も辿った東京在住の個人篤志家の建立、とも言う。
像の傍らには大正8年(1919)に建てられた石の道標。正面の右を示す手の形は「小鹿野道;次ノ大字ハ小鹿野町大字下小鹿野ニシテ懸道マデ約二十町」「左を示す手の形は「札所三十二番柿ノ久保」、右側面には「從是東南秩父郡長若村」と刻まれる。

柿の久保集落_11時5分;標高296m峠で少し休憩し、里に向かって下ると六十六部供養塔。六十六部供養とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部(六部とも)と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。
六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた。この供養塔がこのような六部僧の供養のためのものか、巡礼を終えた六部尊の記念のためにつくられたものか、場所から考えれば前者のようにも思えるのだが、不詳である。
六十六部供養塔を見やりながら15分ほど下ると樹林から抜け出し民家が現れる。柿の久保集落である。民家の横を抜けると車道にでると、角にはお地蔵様が佇み、「32番まで0.5km」の指導標。道脇の諏訪神社に一礼し100mほど進むと32番札所・法性寺に到着した。

32番札所法性寺_11時13分;標高276m11時13分、法性寺に到着。道脇の仁王門の前の広場には小鹿野町営バスの停留所や休憩所を兼ねたお手洗いがある。町営バス12時7分法性寺発の小鹿野町営バスに乗れば、松井田バス停下車;12時14分、そこで西武バス松井田バス発;12時41分に乗るのがベストプラクティスではあるが、奥の院まで辿れば結構時間が厳しそう。成り行きで対応することにして、とりあえず法性寺の仁王門をくぐる。

結構迫力のある仁王様に一礼し、79段有るという急な階段を上ると納経所。納経所の隣が本堂。本堂には薬師如来が祀られる、と。本堂の前に舟をこぐ観音像を描いた額。ために、この寺は、「お船観音」とも呼ばれる。奥の院のある山上の岩場が大きな船の舳先の形をしている、と。ために、岩船山と。またここに建つ観音様を、岩船観音と呼ぶ。本堂前の奥の院遙拝所から、尾根に佇む観音様がかすかに見える。

観音堂本堂の先の小高い箇所には観音堂。頃は晩秋。紅葉が美しい。途中の毘沙門堂にお詣りし、本堂から更に上に、100mほど石段というか、岩を削った山道をのぼったところにある。享保4年(1719)につくられた三間四方、宝形造りに回廊をめぐらせた木造懸崖造りの観音堂は結構な構え。縁起では行基菩薩が観音像を彫っておさめた、と。また寺伝には、弘法大師も登場する。 『大般若経』六百巻を書写し納めたとか。
扁額には「補陀巌」と見える。補陀巌とは、聞思修とも称されるが、仏の教えを聞き、その法を理解し、教えを実践修行しりに至る三段階の修行の教えを意味する。正面には船に乗ったお舟観世音の額が飾られているが、そこきは三十二番般若寺とあった。
観音堂に縁起絵も飾られる。「豊島権守の娘 或る時犀が渕に飛入りし一人の美女を舟に乗せ助けしは天冠の上に笠をかぶりし御本尊なり」とある。 悪魚に魅入られ身を投げた豊島権守の娘を助けたのが岩船山の観音さまであった。ということ。この縁起絵と同様の『観音霊験記』を広重が描いている。

観音堂の背後には大きな岩窟。太古秩父まで海が広がっていた頃にできた浸食のあとだと言われる。岩窟には幾多の石仏、石塔、祠の中にも仏が佇む。昭和6年(1931)に法性寺で発見された「長享二年秩父観音札所番付」によればこの岩窟が長享二年当時、般若岩殿と呼ばれた秩父第十五番札所と記され、また現在34の札所がある秩父札所は実正山・定林寺(現在、第17番札所)から日沢山・水潜寺(同34番札所)までの33ヶ所が札所として記載されている。33札所までしかない、ということは、諸説あるも室町時代の天文年間(1532-1555)に、現在の34の札所となる以前の、初期の秩父札所の資料、ということだろう。

般若岩殿と呼ばれた法性寺が秩父第十五番札所であったように、札所の番号も長享番付と現在の番付とは、現在の二十番以外はみな番付が異なる。一番は現在の十七番定林寺、二番が現在の十五番少林寺、三番が現在の十四番今宮坊、三三番が現在の三四番水潜寺、現在一番の四萬部寺は二四番で、順序が大きく異なっている。
順路が変わった要因は、秩父往還のメーンルートの変遷に負うところが大きいようだ。室町時代の秩父往還は名栗→山伏峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷→皆野→児玉→鬼石が中心となっており、秩父観音巡礼はこの道か、吾野通りと称される、飯能→正丸峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷がメーンルートであり、札所番付もその往還に沿ったものとなっている。
巡礼の最も盛んになった江戸時代になると、熊谷通りと川越通りの往還がメーンルートとなったようで、札所1番もこのふたつの往還が交差する栃谷の四萬部寺を一番として、二番真福寺を追加し、山田→横瀬→大宮郷→寺尾→別所→久那→影森→荒川→小鹿野→吉田と巡拝し、三四番を結願寺とした。秩父札所は秩父にしっかりとした檀家組織をもたず、もっぱら江戸の市民を頼りとした。秩父札所の水源は江戸の百万市民であり、その人々がやっとの思いで秩父に入り、最初に出会うお寺さまを、どうせのことなら一番札所とするほうがお客様のご接待、現在で言うところのマーケティング戦略としては効果的であった、ということだろう。
ご詠歌;ねがわくわ はんにゃの舟にのりをえん いかなる罪も浮かぶとぞき

法性寺奥の院観音堂で寺の紅葉を眺めるも、心ここにあらず。少々怖い奥の院を想う。奥の院には、世に言われる、岩場・鎖場を辿っての大日如来、そして巨大なスラブ(岩の塊)の背を辿っての岩舟観音さまが待ち構える。高所恐怖症の我が身には少々荷が重い。
いつだったか、四国の石鎚山頂上の天狗岩進むも足が竦み「撤退」したこと、先日の四国の歩き遍路でも、岩屋寺の岩壁を掘り抜いた祠に架かけられた、ほとんど垂直の梯子の「上り下り」、特に下りの時の怖さなどを思い起こす。とは言うものの、「怖いもの知らず」のメンバーの「先達」としては、先頭に立ち範を示すに如かず。
観音堂から少し下ったところに巨石が二つ重なって、その間に隙間があるのだが、そこが奥の院への入口。巨石をくぐって山に向かう。
竜虎岩 胎内観音

行く手右側に岩壁が見えてくる、その下に着くと「竜虎岩 胎内観音」の案内。見上げると岩窟があり、そこから鎖が下がっている。一枚岩の岩盤には足がかりが刻まれており、鎖にすがり、足場を確保しながら岩窟に。岩窟には壊れかけた小祠が祀られていた。
小祠にお参りし、再び鎖にすがり元の道まで下る。「怖いもの知らず」の山ガールも少々勝手が違うようで、少々難儀していた姿が微笑ましい。






岩窟の石仏群更に山道を進む。巨石の脇を通りすぎると急な上りとなる。岩盤に階段が刻まれており、鎖の手すりにすがって上ると岩窟があり、そこには幾多の石仏が横一線に並んでいる。いい表情の仏様である。

大日如来_11時55分;標高392m岩窟脇に道標があり、「左 岩船観音 右 大日如来」とある。岩船方面へと進むとスラブ(巨大な岩塊)があり、断崖絶壁となっている。素晴らしい眺望。今時の感嘆詞である「やばい!」の言葉が山ガールの口から飛び交う。
スラブ上でしばし眺めを楽しんだ後、大日如来へと向かう。右手が絶壁となった狭い山道を、怖さのあまり左手の崖に生える草木を握りしめ進む。これだけでも結構怖いのだが、その先には岩峰が屹立する。大日如来はその岩峰の上に安置されている。宝暦2(1752)年、西村和泉守作とのことである。
垂直にも思いえる岩壁に下がる鎖に縋り上り終えると、次には絶壁の岩場が待っていた。右手の断崖を極力見ないようにして岩峰上に。岩峰上は二畳ほどのスペースの小さな岩窟となっており、その中に大日如来が佇む。宝暦2年(1752)、西村和泉守作とのこと。岩窟の周囲には鉄の手すりがあるのが心強い。私は早々に狭い岩窟の奥に縮こまるのだが、後から岩場を上る山ガールたちは、あろうことか、鎖から手を離し、手を振りその感激を示す。誠に以て、私にはあり得ない所行である。
メンバー全員が峰上の岩場に着く。大日如来を囲むその岩場は4,5人が肩を寄せ合って立つのが精一杯。高所恐怖症には縁遠い山ガールは鉄の手すりから手を話して眺望を楽しんでいる。動画を撮る余裕のある者もいる。見上げたものである。私は、鉄の手すりにつかまり、かつまた、狭い岩窟の奥に控えるのが精一杯。眺望は素晴らしいが足が竦む。



お船観音_12時13分;標高356m眺望を謳歌するメンバーを尻目に、早々に下山準備。再び今度は極力左手の絶壁を見ないようにして、鎖に縋り岩場をへっぴり腰で降り、元のスラブの辺りまで戻る。
次の目標はこのスラブの先に佇むお船観音。予想ではスラブは一枚岩でできた「痩せ尾根の馬の背」といったものであったが、実際は断崖の逆側に岩場が緩やかな傾斜で広がっており、それほど怖いものではなかった。



スラブの先端に佇む観音様からの眺めも素晴らしかった。法性寺に二度も訪れながら、一度として辿らなかった奥の院は少々足は竦むも、それに十分に見合うところではあった。





法性寺を離れる_12時41分岩船観音で時刻をチェックするに、既に12時。もうこれは12時14分発の小鹿野町営バスには到底間に合わない。後は成り行きで段取りを組むことにして奥の院から下山し、仁王門前まで下りる。時刻は12時36分。
昼食をとり、さて、ここで14時48分発の町営バスを待つか、国道299号までの4キロ程度を歩き、松井田バス停発;14時51分のバスに乗るか。少々悩むも、バスを1時間ほど待つよりも、歩くに如かず、ということで徒歩で松井田バス停に向かう。出発は12時41分。少し急ぎ足で歩いて、なんとか間に合う、といった段取りではある。

長若交差点_13時18分法性寺のある谷筋を流れる「般若川」に沿って進む。ほどなく右手から「釜ノ沢」が合わさるがその手前に嬲谷集落。「なぶりや」と詠む。「からかったり苦しめたりしてもてあそぶこと」の意味。凄い地名ではある。
般若川と釜ノ沢合流した川筋が長い年月をかけて開析したであろう平坦な野を進み、長若交差点に。長留とか般若といった地名はあるのだが、長若って?チェックすると、明治22年(1889) 町村制施行により、長留村,般若村が合併して秩父郡長若村が成立した。昭和30年(1955)に小鹿野町と合併し、その村名は消えたが、交差点名はその名残ではあろう。
長若交差点では県道209号と県道43号が交差する。ふたつの県道は一時同じ道筋を南に走り、蕨平交差点で二手に別れ、43号は南西に向かい、秩父鉄道白久手前で国道140号と合流。一方の209号は南東に向かい、長尾根丘陵の南端を経て荒川を渡り、秩父鉄道影森近くで国道140号と合流する。

長留川交差点を越え、県道43号を北西に進むと長留川(ながる川)。「長留・永留」は「長く留まる状態」を示す。「長留」は「母の胎内に16年留り、ヤマト姫を待つて8万年も宮に留まり、世に208万年間留まったといわれる「猿田彦」を現す詞とも言うが、まさか、猿田彦まで遡るとも思えず、一説には「水辺の上手の道」のことを示す、といった地形を現す表現に由来するの、かとも。単なる妄想。根拠なし。
その長留川の上流をチェックすると、馬場とか屋敷平とか、旗居、番戸原といった、いかにも武将の館があったような地名が残る。実際上記二つの県道が分岐する蕨平の辺りには長留館と称される中世の館跡がある、とか。地図をチェックするに、蕨平の辺りは、長留川の川筋を遡り雁坂道に至る道筋と、秩父・大宮への道筋の分岐点。往還を扼する拠点ではあったのだろう。

茅株稲荷神社長留川を渡り茅株、長留地区を進む。道脇に茅株稲荷神社。茅株地区由来の社だろう、か。往昔は茅葺屋根のための茅、そしてその株は大切なものであったのだろう。茅株を掘り、そして移植する職人も多くいたのだろうか。これまた単なる妄想。根拠なし。



松井田バス停道を進むと道脇に宮本の湯。農家屋敷と囲炉裏の湯。時刻は14時40分を過ぎている。バスを誘導する職員さんに松井田バス停を確認。道なりに進めば5分程度でバス停に着くとのこと。なんとか14時51分のバス間に合いそうである。急ぎ足でバス停に到着。数分待ってバスに乗り、西武秩父駅に向かう。




西武秩父から長瀞西武秩父から長瀞までは秩父鉄道を利用し、長瀞の紅葉を楽しみ本日の散歩を終える。毎度のことながら、長瀞で田舎で子供の頃、おばーさんにつくってもらった「柴餅」、柴とは言いながら、サルトリイバラの葉で包んだお饅頭によく似た。秩父の田舎饅頭をお土産に一路家路へと。

■観音霊場について

○観音霊場巡礼をはじめたのは徳道上人
観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と言われる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れ、曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。黄泉がえった上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印とは、人というものはズルすること、なきにしもあらず、ということで、本当に三十三箇所を廻ったかどうかチェックするために用意されたもの。スタンプラリーの原型、か。

○観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。その後、河内石川寺の仏眼上人の案内で中山寺の宝印を掘り出し、播磨・書写山の性空上人を先達として、中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡った。これが契機となり観音巡礼が再興されることになるわけだ。
この花山法皇、熊野散歩の時に出合って以来、散歩の折々に顔を出す。鎌倉・岩船観音でも出会った。東国巡行の折、この寺を訪れ坂東三十三箇所観音の二番の霊場とした、と。花山法皇って、何ゆえ全国を飛び廻るのか、少々気になっていたのだが、観音信仰のエバンジェリストであるとすれば、当然のこととして大いに納得。鎌倉・岩船観音をはじめ坂東札所10ケ所に花山法皇ゆかりの縁起もある。が、もちろん実際に来たかどうかは別問題。事実、東国に下ったという記録はないようだ。坂東札所に有り難味を出す演出であろう。
それはともかく、花山法皇の再興により、霊場巡りは、貴族層に広まった熊野参詣と相まって盛んになる。さらに時代を下って鎌倉時代には武家、江戸時代には庶民層にまで広がっていった。ちなみに、播磨の国・書写山円教寺は西の比叡山と称される古刹。天台宗って熊野散歩でメモしたように、熊野信仰・観音信仰に大きな影響をもっている。中山寺は真言宗中山寺派大本山。聖徳太子創建と伝えられる、わが国最初の観音霊場。石川寺って、よくわからない。現在はもうないのだろうか?ともあれ、縁起の中には観音信仰に影響力のある人・寺を配置し、ありがたさをいかにもうまく演出してある。

○観音霊場巡礼の最初の記録は1090年縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後三井寺の覚忠が那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。園城寺も三井寺も密教というか、熊野信仰というか、観音信仰に深く関係するお寺。熊野散歩のときメモしたとおり。で、「三十三ケ所」と世ばれていた霊場が「西国三十三ケ所」と呼ばれるようになったのは、後に坂東三十三霊場、秩父巡礼がはじまり、それと区別するため。

○坂東三十三霊場鎌倉時代にな り、平氏追討で西国に向かった関東の武士団は、京都の朝廷を中心とした観音霊場巡礼を眼にし、朝廷・貴族なにするものぞ、我等が生国にも観音霊場を、と坂東8ケ国に霊場をひらく。これが坂東三十三霊場。が、この巡礼道は鎌倉が基点であり、かつまた江戸が姿もなかった頃でもあり、その順路は江戸からの便宜はほとんど考慮されていなかった。ために江戸期にはあまり盛況ではなかった、ようだ。

○秩父観音霊場の縁起で、やっと秩父観音霊場についてのメモ:秩父巡礼がはじまったのは室町になってから。縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめた長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなど、観音さまと縁の深いキャスティングをおこなっている。秩父観音霊場巡礼のありがたさを演出しようとしたのだろう。で、この 伝説は、500年以上も秩父の庶民の間に語り継がれた、とのことである。

○はじまりは「秩父ローカル
とはいうものの、縁起というか伝説は、所詮縁起であり伝説。実際のところは、修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず。

○秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってからこの秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから。江戸近郊から秩父に至る道中には関所がなく、また総延長90キロ、4泊5日の行程で比較的容易に廻ることが出来たのも大きな理由。江戸の商人の経済力も大いに秩父札所の支えとなった。秩父巡礼は江戸でもつ、とも言われたほど。そのためもあってからか、江戸からの往還の変更により、巡礼の札番号も変わっている。秩父札所も単に江戸からのお客さまを「待つ」だけでなく、江戸に打って出て、出開帳をおこなっている。「秩父へおいでませ」キャンペーンといったところだ。
秩父札所の宗派については、上でメモしたように江戸期までは修験者が中心だった。その後は禅宗寺院が札所を支配するようになった。宗派の内訳は曹洞宗20、臨済宗南禅寺派8、臨済宗建長寺派3、真言宗豊山派3で、禅宗の多さが目立つ。

○秩父が33ではなく、34観音札所になったのは?
秩父が34観音になった時期については、諸説ある。16世紀後半には観音霊場巡礼が全国的になり、西国・坂東・秩父観音霊場をまとめて巡礼するようになってきた。で、平安時代に既に京都に広まっていた「百観音信仰」の影響もあり、全国まとめて「百観音」とするため、どこかが三十三から三十四とする必要がでてきた。霊場としては秩父霊場が歴史も浅かった、ということもあり、秩父がその役を受け持つことに。ために、大棚観音こと、現在の第2番札所真福寺を加え、三十四ヶ所と改められた、とか。もっとも、大棚観音が割り込んできたので、その打開策として「百観音」を敢えて提唱した、とか諸説あり真偽の程は不明。 ともあれ、諸説あるも、34の札所が成立したのは室町時代の天文年間(1532-1555)と言われる。
「三十三」って観音信仰にとっては大きな意味がある数字。観音さまが、衆生の願いに応えるべく、三十三の姿に化身(三十三見応現)とされるから,である。その重要な三十三を三十四に変えるって、結構大変なことだったと思うのだが、それ以上に「百観音」のもつ意味のほうがおおきかったのであろうか。なんとなく釈然としないのだが、門外漢としてはこれ以上の詮索・妄想もできないので、このあたりで観音霊場巡礼のまとめを終える。

石神井川散歩 Ⅲ:板橋から墨田川との合流点まで

石神井川散歩も第三回。今日は板橋から王子、隅田川との合流まで。石神井川からちょっと寄り道し、中山道板橋宿を中宿から下宿まで辿り、前々から気になっていた宇喜多秀家の眠る東光寺を訪ねる。その後、再び石神井川筋に戻り加賀前田家の下屋敷跡を辿り、滝野川とも呼ばれた石神井の渓谷を王子駅に進み、河川争奪の結果をちょっと実感し隅田川の合流点へと向かう。距離もそれほどない。結構余裕。のんびりと散歩を楽しむ。(yoyochichi 2010年10月10日 20:32 月曜日, 8月 15, 2005のブログを修正)



本日のルート;東武東上線・中板橋駅>氷川町・氷川神社>東光寺>谷端川跡>近藤勇の供養塔>金沢橋>弾道検査管>前田家下屋敷跡>埼京線交差>寿徳寺>音無もみじ緑地>金剛寺>音無橋>王子駅>隅田川合流点

東武東上線・中板橋駅
駅を北側に下り、下町の雰囲気を残す商店街や民家のなかを石神井川に向かう。北東に進んできた石神井川は東武東上線に交差したすぐ先で南東へと折れるが、そのあたりは環七と最も接近するあたり。いつだったか、板橋区を数回にわたって散歩したとき、この環七脇にある氷川神社から国道17号線の近く、智清寺、日曜寺辺りを歩いたことを思い出す。

氷川町・氷川神社
川に沿って中根橋を越え、国道17号線の近くに釣り堀公園。その先、国道17号線に沿って氷川神社。13世紀はじめ、この地域をおさめる豊島経泰が大宮の武蔵一宮である氷川神社を勧請し、石神井河畔の景勝のこの地に社を建てた。豊島氏が太田道灌に滅ぼされた後も地元人の信仰が篤く、江戸の頃は板橋宿の鎮守であった。1945年の空襲で社殿は全焼。現在の社殿はその後、再建されたものである。

板橋宿
川筋に戻り進むと「板橋」に。石神井川に架かる木製の風情の「板橋」は旧中山道板橋宿の往来である。橋の北、皇女和宮ゆかりの縁切り榎などがある一帯は板橋宿上宿。橋から南に中宿、下宿へと、国道17号線との交差を越えて板橋宿が続いた。板橋宿は1.7キロほどの街並みに、人口2500名弱、旅籠、料理屋、駕籠屋など573の民家が軒を連ねた。
ここからは川筋を少し離れ、板橋宿下宿、中山道が川越街道と分岐する平尾の追分にある宇喜多秀家ゆかりの東光寺にちょっと寄り道。中宿商店街を南に進む。ここは板橋散歩で一度歩いたところ。スーパ脇の民家の前に本陣跡があったよな、遍照寺の境内には板橋宿の馬繋ぎの場所があったよな、板橋区の観光センターは結構充実していたな、そういえばその近くには宿に30ほどもあった妓楼の中でも最大の新藤楼跡もあったよな、などとあれこれ思い出しながら先に進み、旧中山道が国道17号線に当たる手前にある東光寺につく。

東光寺
宇喜多秀家のお墓がある。津本陽氏さんの『宇喜多秀家:備前物語』を読み、素敵な人物であるよなあ、と印象深い戦国武将。関が原で西軍・豊臣側の副将。戦いに敗れ、八丈島に島流し。明治になって恩赦で板橋に。
配流中から加賀前田藩が援助をしており、加賀前田家とゆかりの深いこの板橋の地に。ここ一帯は江戸時代前田藩の下屋敷があったところ。加賀という町名や加賀小学校、金沢小学校までもある。で、なぜ前田藩が「戦犯」の援助?そうだ、中村彰彦さんの『豪姫夢幻』。宇喜多秀家の愛妻豪姫って、前田が実家だった。納得。境内には平尾一里塚にあった石造りの地蔵菩薩座像が残る。
東光寺から石神井川に向かって坂が下る。国道17号線・中山道が通る台地の尾根道から石神井川の谷に向かってくだる。窪みの向こうに見える高まりは十条台の台地であろう。台地を穿って石神井川が流れる。

谷端川跡 
ここまできたので、国道17号線を越え、旧中山道を板橋駅前にある近藤勇の供養塔に向かうことにした。商店街を道なりに進みJR板橋駅西口に。予想に反して小振りな駅。近藤勇のお墓は東口。地下通路はないので、駅から少し南に下り線路下をくぐる通路を探す。ほどなく駅のホーム下を抜け東口に向かう道路があった。あれ?なんとなく見覚えがある道筋。これって谷端川跡。豊島区要町の粟島神社の弁天池を水源とし、板橋を経て小石川へと下る。いつだったか水源から下流の後楽園まで歩いたことを思い出す。

近藤勇の供養塔
それはともあれ、谷端川跡を進み東口に出る。南に下る川筋跡と別れ、北に向かい駅前の近藤勇の供養塔に向かう。駅の真ん前にある供養塔は、オープンな雰囲気で、お墓というか記念碑といった風情。
慶応4年(1868)、平尾一里塚付近、というから板橋駅付近で官軍により斬首された近藤勇の首級は京都に移送され、胴体はここに埋葬された。ここには近藤勇だけでなく副長の土方歳三、そしてこの供養塔造立の発起人でもある永倉新八が供養されている。
供養塔を離れ、ゆるやかな坂を上り旧中山道の通る尾根道に戻る。平尾の追分から駅に辿った道の続きであり、駅の南に廻らず、踏切を渡ってそのまま進めばここにでる。平音の一里塚もこのあたりであろう。その名残は何も、ない。

金沢橋
旧中山道の尾根道から石神井川筋へと戻る。民家の軒先といった小径を、成り行きで進み国道17号線に出る。次のポイントは石神井川沿いの前田家下屋敷跡なのだが、なにせ成り行きで板橋駅前の近藤勇の供養塔まで来てしまったため、原点復帰地点・板橋への回帰は結構遠い。旧中山道の板橋あたりはあれこれと折に触れて歩いているので、板橋よりは心持ち東の前田家下屋敷まで戻ることにした。
台地上を走る国道17号線から北西へと成り行きで坂を下る。住宅街を進むと金沢橋南詰めに出た。渓谷の様相を呈する石神井川をもう少々東へと戻る。記憶によれば、帝京大学病院あたりから石神井川は「渓谷」となり、桜が誠に美しかったとの覚えがあったため、そこまで戻ることに。

弾道検査管の標的跡
石神井川の南岸を東に戻ると、脇に小高い丘。何気なく寄り道をすると丘は区立加賀公園となっていた。その丘の上に弾道検査管の標的跡が残る。煉瓦積みといった壁は弾道標的の跡。公園西隣にある財団法人・野口研究所の敷地に残る弾道検査管から発射された兵器弾道の標的である。
金沢橋とか加賀公園といった地名からもわかるように、江戸の頃はこの辺り一帯、石神井川を挟んだ現在の加賀1,2丁目や板橋3,4丁目には加賀前田家の広大な下屋敷があった。
明治になり下屋敷跡を陸軍が接収しここに黒色火薬の火薬製造所を設けた。そして終戦に至るまで、この地では7000名もの職員が陸軍が使用する火薬、機関砲。大砲を製造していた。
この地に火薬・兵器工場ができた理由は、第一に広大な前田藩下屋敷の跡地があった。また、兵器・火薬製造機械の動力として石神井川の水力を活用できた。さらには、鉄道運輸が開始される前では、石神井川の水運を利用して都内および後楽園跡地にあった陸軍造兵工廠とのアクセスを確保できた、といったところだろう。区立加賀公園の少し西にある東板橋体育館脇の加賀西公園には火薬製造に使用された圧磨機圧輪記念碑が残る。

前田家下屋敷跡
弾道検査管の標的跡を先に進むと前田家下屋敷跡の案内があった。延宝7年(1679)、幕府から6万坪(約19万8000?)を拝領し平尾の別邸としたのがはじまり。その後、他の下屋敷を返上して天和3年(1683)には合計21万8千坪(約72万1000?)を拝領し、ここを「平尾の下邸」と称した。
そもそも、大名屋敷が上・中・下屋敷と別れたのは明暦3年(1657)に起きた明暦の大火がきっかけ。江戸城の天守閣を含め江戸の町を焼き尽くし、3万名とも10万名とも言われる焼死者を出した未曾有の大火を教訓に、江戸の都市政策を大きく見直し、大名屋敷も上・中・下とわけ、災害・緊急時のリスク管理を計った。上屋敷には藩主やその家族が住み。政治・経済・外交活動の本拠地 とする。中屋敷は隠居した藩主や 嗣子などの住まい。そして下屋敷は別荘、火災時の避難場所として使われた。この前田家下屋敷は前田家の別荘として使われ、鷹狩りや園遊会も催された、また、中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代の休息や送迎の場、装束替えの場にもつかわれたようである。加賀公園のこの小高い丘は人工的に築かれた築山であった。

埼京線交差
加賀公園から野口研究所脇を通り石神井川筋へ戻る。川に沿って更に東に、渓谷の雰囲気を楽しみながら加賀橋、御成橋へと進み帝京大学病院あたりで折り返す。そこからは石神井川北岸の遊歩道を逆に「渓谷」を金沢橋へと戻る。埼京線を越えて「渓谷」は続く。昭和30年ころ、河川工事を行い自然な流れ・蛇行は消え去り渓谷の趣はなくなった、とよく言われているが、現在でも立派な渓谷の赴きを残す。世田谷の等々力渓谷もそうだが、そもそも何でこんな深みがでるのだろうか?よくは理解してはいないのだが、どうも川筋を変えた・川筋が変わったことに関係あるか、とも。
これからは全くの想像。石神井川はもともと、王子あたりから南に不忍池方面に流れていた。現在の流れは王子から隅田川に向かって進む。もともとは、南へとゆったり流れていた川筋が王子で急激に「落ちる」。地形図をみても、王子の駅の西・東で10メートルの落差がある。急激に落ちる=急流。川も蛇行しており、浸食には好都合、ということも相まって「渓谷」に、といったところか。
川筋が自然に変わったのか、人為的に変えられたのか不明のようだが(飛鳥山博物館の資料によれば「自然」のなせるわざ、とのとこ)、この流路の変化により、それまでゆったりと蛇行を繰り返しながら流れていた石神井川が、「滝の」あるような渓谷に変わってしまった。埼京線を越えたあたりで石神井川は滝野川とも呼ばれる。しかし、鈴木理生さんの本によれば、「滝野川」って名前も昔からあったわけではないようだ。もとは穏やかだった流れが、川筋の変化による、急激な侵食作用の結果、滝のような川と変貌していったのだろう。

寿徳寺
先に進み観音橋に。この辺りに来ると街並みが近くなる。北詰に大きな観音様。谷津大観音。2005年に歩いたときは無かったのだが、2008年の冬に寿徳寺により建立された。観音さまの横を抜け、谷津観音の坂を寿徳寺へと向かう。坂名の由来は寿徳寺に祀られる本尊・谷津観音より。谷津の子育て観音とも聖観音とも称される。蓮華座に坐り、両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、 指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結ぶ木造の観音さまは、現在は秘仏となっている。
壽徳寺は 江戸時代から城北地域の江戸西国三十三番観音札所の第十二番目の巡礼地。西国三十三観音巡礼札所の第十二番、近江国(滋賀県)の名刹岩間寺の霊験と同じ功徳を持つものとして多くの信仰を得た。境内にある銀杏は、この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出ると信じられた。この寺の子育て観音信仰は 昭和の初期にも続いていたようで、 河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は「秋立つや子安詣の花の束」といった俳句を詠んでいる。
寺の本堂は鉄筋つくりだろうか。古き趣はない。本堂脇に小振りな仁王さまが佇む。お詣りを済ませ、寺入口の案内をみやると石版に近藤勇の姿がある。脇の石碑には「新撰組隊長近藤勇菩提寺」と。どういうこと?よくよく読むと、板橋駅前の近藤勇供養塔はこの寿徳寺の境外墓地であった。なんとなく立ち寄ったお寺様と供養塔がつながった。成り行き任せの散歩の妙。

音無もみじ緑地
滝野川橋を越えると南岸の遊歩道を進むと「音無もみじ緑地」。石神井川の水が敷地内に取り込まれ、水辺まで降りることが出来る。 河川改修の前には川筋はこの緑地の引き込み部分の方向に蛇行して流れていたのだろう。公園内にある「松橋弁財天窟跡」の説明によると、 ここは「江戸名所図会」に描かれた景勝の地。特に紅葉の名所として知られ、 崖下の岩屋の中に弘法大師の作とされる岩谷弁財天が祀られ、 横に松橋が架かり、付近の崖からは滝が流れていたとのこと。滝は昭和初期まであった、よう。岩屋は昭和50年(1975)頃の、護岸工事が行われるまで残っていた、と。
広重も佐野喜東都名所「王子瀧の川」を描く。朱の鳥居の「岩谷弁才天」。その岩谷のある小高い崖の上にあるのが松崎弁財天社。音無川の河原には床几を出して、水辺で酒を酌み交わす人、水浴を楽しむ人、親子連れや旅人風の人物など、無粋な私にも「その日」の情景が思い浮かぶ。

金剛寺
音無もみじ緑地のすぐ横に金剛寺。由緒書に、源頼朝がこの地に布陣したとのこと。鈴木理生さんの「幻の江戸百年」に興味深い記述があった。以下、まとめると、「伊豆の石橋山の合戦で破れた頼朝は、安房(千葉房総)の国に逃げる。しかし、房総上陸後、関東一円から頼朝のもとに軍勢があつまり、3万余騎の大軍団に。
鎌倉進軍。が、その行く手を阻んだのが、江戸重長。江戸の名前の由来ともなった、この人物、江戸湊の支配者。江戸城本丸あたりに居城をもっていた。秩父平家の流れ。ようするに、反頼朝軍の武将であった。
頼朝は江戸重長との武力戦を避ける。市川で2週間ほど足止め。江戸氏の氏族である、豊島清光、葛西清重など、我に利あらずと必死の調停。結局江戸重永は頼朝に降伏の形をとり、妥協成立。市川から、船で川を渡り王子付近から武蔵野台地に「取りつき」武蔵府中に進軍した」、と。「取りつき」というのがいかにも、低地・湿地帯から台地というか陸地に上陸したって思いが出ている。台地を一歩離れれば一大湿地帯だったのであろう。頼朝は滝野川の松橋に陣をとったといわれる。 松橋とは、当時の金剛寺の寺城を中心とする地名。頼朝は崖下の洞窟に祀られていた弁財天に祈願し 、金剛寺の寺城に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられる。この弁財天が「江戸名所図会」に描かれた岩谷弁財天であり、松崎弁財天社であろう。

音無橋
金剛寺は紅葉寺とも呼ばれていた。深山幽谷の趣をもったこの地は紅葉の名所として知られていたのだろう。その名残を名前に残す金剛寺の近くに紅葉橋を越え、少し先に進むと「音無さくら緑地」。ここも河川改修工事以前の旧流路を残して造られた緑地となっている。緑地内には吊り橋なども造られている。緑地から300m程進むと音無橋に。音無橋のところで、石神井川は音無親水公園の右岸脇の水路に進み暗渠となって飛鳥山。王子駅の下へと流れ込む。
音無親水公園は昔の石神井川の流路、風情を残して公園にしたものだろう。案内をメモする;音無川のこのあたりは、 古くから名所。 江戸時代の天保7年に完成した「江戸名所図会」や、 嘉永5年の近吾堂板江戸切絵図、 また、 安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかる。「江戸名所花暦」 「游歴雑記」などには、 一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともでき、 夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれる。 江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、 眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、 谷間の樹木は見事で、 実にすぐれているとある。こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和63年、北区は、この音無親水公園を整備した。「 たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影」、と。ちなみに、音無の由来は紀伊熊野の音無川から。音無川のすぐ脇に王子神社があるが、その社は鎌倉後期、豊島氏が紀伊の国の熊野権現を勧請し社を建てた。

JR王子駅から隅田川合流点
王子駅下をくぐった暗渠は駅の東口で開渠となり首都高速環状線の下を窮屈そうに進む。明治通りと交差し、さらに高速道路に沿って、溝田橋、豊石橋と進み墨田川に合流する。合流地点は立ち入り禁止。少々呆気ないながらも、これで石神井川散歩を終える。

石神井川散歩 Ⅱ;石神井公園から板橋まで

先回の迂回路、迷い路,EveryWhere状況の再現を怖れつつ、気持ちも少々晴れやかならず、石神井公園に向かった。結論から言えば、予想に反し、予想外の展開で、本日の散歩ルート、 石神井公園から板橋・滝野川までは快適な散歩道。遊歩道、川筋に沿った車道との共同道と遊歩道一本やりというわけではないが、川に沿って迷うこともなく、行き止まりに「怒る」こともなく、楽しく歩けた。(yoyochichi 2010年10月10日 20:30 日曜日, 8月 14, 2005のブログを修正)


本日のルート:西武新宿線上石神井駅>三宝寺>道場寺>氷川神社>石神井城址>三宝池・石神井池>禅定院>笹目通り>清戸道交差>豊島園>広徳寺>高稲荷神社>早宮史跡公園>氷川神社>光伝寺>城北中央公園>御嶽神社>田柄川跡>茂呂遺跡>安養寺>東新町氷川神社>環七>川越街道>旧川越街道・下頭橋

西武新宿線上石神井駅
井の頭線。中央線、正確には吉祥寺から総武線で西荻窪。駅前からバスに乗り、西武新宿線上石神井駅に。北口大通りを北に進み早大学院前バス停に。先回日没ギブアップでバスに乗ったところ。坂を下り、石神井川を井草通りまで進み左折。旧早稲田通りを越え、三宝寺池に向かう。

三宝寺まずは、三宝寺。由緒ある真言宗の寺。品格のある風情。開山は南北朝時代の応永元年(1394)。もとは少し先にある禅定院のところにあったようだが、豊島氏を破った太田道灌の命により、この地に移った。小田原北条家や江戸の徳川家により庇護を受け、末寺数十という大寺となった。
表参道の「守護史不入」(しゅごしふにゅう)の碑は、 守護の徴税史も山門内には入れない、ということ。寺格のほどを誇る。山門は「御成門」と呼ばれる。三代将軍家光が御園猪山で猪狩りのとき、この寺を休憩所としたことが名前の由来。山門東側の長屋門(ながやもん)は、勝海舟の屋敷門を移したものとのことである。ちなみに三宝、って「仏・法・僧」。悟りを開いた人である「仏」、仏の教えである「法」、法を学ぶ仏弟子「僧」ということ。

道場寺
落ち着いた、いい雰囲気の禅寺(曹洞宗)。豊島山との山号が示すようにこの寺院は石神井一帯を支配した豊島一族が建立したもの。文中年間(1372)、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が建て、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられる。境内には文明九年(1477)太田道灌に滅ぼされた
豊島氏最後の城主奉経や一族の墓と伝えられる石塔三基がある。伽藍は昭和11年から60年に渡って再建され、各時代の様式を再現している。室町様式の「山門」に入ると、左手に鎌倉様式の「三重塔」、右手には安土桃山様式の「鐘楼」、そして正面の「本堂」は奈良・唐招提寺の「金堂」を模した天平様式、「客殿」は京都・桂離宮を模した江戸時代、といった案配である、とか。

氷川神社
寺を出て、すぐ北にある氷川神社。平安時代末期から室町時代中期まで,この地域、というか、現在の文京区,台東区,豊島区,北区,荒川区,板橋区,練馬区などやその周辺地域、つまりは、石神井川流域に勢力を持っていた豊島氏が祀ったもの。周りは鬱蒼とした森。神社脇の踏み分け道をはいると石神井城址があった。

石神井城址
石神井城址。鎌倉末期、豊島泰経の居城跡。空堀と土塁が残っているとのこと。保護フェンス越しに丘を眺める。で、この豊島泰経、1477年に太田道潅との戦いに敗れ、平塚城に落ちその後。。。平塚城?上中里の平塚神社の平塚城?あの浅見光彦様がお団子を食べるためよく行く、平塚団子亭のある、あの平塚神社?表紙が違っただけで新刊と思う自分も悪いのだが、出版社の「新刊」という宣伝に惑わされ、実際の作品総数の5割り増しの200冊ほど「買わされた」あの名探偵浅見さまの平塚神社?急に豊島泰経、大田道潅が身近になった。
先日の妙正寺川散歩の折も、江古田・沼袋の戦いで太田道潅・豊島泰経の名前が出てきたのだが、古川公方だの、扇谷上杉、山内上杉など、ややこしくてちょっと躊躇していたこの二人、なぜ互いに戦ったのかについて、まとめてみることにする。

結論としては、豊島泰経は古河公方、大田道潅は鎌倉公方・関東管領方として互いに会い争う立場にあったということ。鎌倉公方とは室町幕府の関東10カ国の最高責任者といったもの。古河公方も、もともとは鎌倉公方。鎌倉公方であった足利成氏が、その最高補佐役である関東管領の上杉氏と諍いを起こし、席を同じゅうせず、と古河(茨城県古河市)に居を構えて反目することになる。その本拠地故に古河公方と呼ばれるようになる。
大田道潅は関東管領の一族扇谷上杉氏の重臣。豊島泰経も関東管領山内上杉氏の重臣。同じ管領側が敵味方に分かれたのは?山内上杉家の重臣、長尾景春が跡目相続の恨みで主家に反旗を翻し、鎌倉公方から古河公方に移ったことがきっかけ。豊島泰経は長尾景春に与力した、つまりは、古河公方側についたため、鎌倉公方側の大田道潅と戦うことになった、ってこと。
戦いのプロセス;1477年、道灌軍豊島氏の属城である平塚城を攻める為に江戸城を出る。が、泰経はその隙に江戸城を奪うべく石神井城より出陣。が、しかし道灌軍は転じて石神井城方面に侵出。江古田・沼袋付近で両軍は激突(江古田原・沼袋の戦い)。豊島軍は敗れ、この石神井城に逃げ込むが落城。豊島泰経は,落城後,平塚城(北区平塚神社)に敗走。その翌年の1月25日に道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げた、と伝えられる。
後日談。大田道潅は主家扇谷上杉家に疑念をもたれ謀殺される。その後、後北条(ごほうじょう)氏、上杉氏、足利氏、長尾氏、太田氏による戦乱の中、扇谷上杉家は力を失い滅亡。一方山内上杉は越後に逃れ、管領職を重臣・執事の長尾氏に。長尾景虎こと、上杉謙信が関東管領として関東を窺うことになる。

三宝池・石神井池
さてと、歩きはじめなくては。石神井城址から三宝寺池に。江戸のお散歩の達人・村尾嘉陵が《江戸近郊道しるべ》の『石神井の道くさ』に、氷川の社から三宝池への「道くさ」を描く:「(略)畑の細道を行ば、氷川の社あり。鳥居の脇を猶西へ行ば、道の左林のうちに小社あり、天満天神を崇め奉る。そこより少し行ば、北にくだる小坂あり。くだれば、向ひに弁才天の社あり。社をめぐりて皆池(三宝池)なり。蘆荻(ろてき)生じけり、雁鴨あまた下居て、かなたこなた水の面をゆきかへる、いくらといふ数をしるばからず、池の大さ七八十間ばかり、四面は東の一方のみ明て、余はみな高からぬ山なり」、と。
三宝池に着く。葦かなにかはわからないが、湿地一面の芦原って、こういった風情かと想像。水源は、もとは武蔵野台地からの湧水であった。ために、水温も季節によって大きな変化が無く、氷河期からの植物が生息する池として昭和10年には国の特別天然記念物に指定された沼沢植物群落を有する池となったが、湧水が涸渇してきた昨今、状況は変わってきているのだろう、か。池には厳島神社が祀られる。石神井川の水源ともなった三宝池を守る水神様というところだろう。森というか林を抜け、石神井池に。以前一度ここにきたことはあるのだが、石神井公園の東側の石神井池は三宝池とは大きく印象を替え、都会風の洒落た公園、といったもの。もとは三宝池の水をひいた田圃であったところを堰止めて昭和8年に池にした。都心や宅地化された周辺住民のための観光・行楽の地とするためとのことであろう。
ところで石神井川だが、wikipediaによれば、最近まで石神井川の本流はこの三宝池から流れ出す川であり、小金井からの流れは大川、さらに上流では「悪水」などと呼ばれていたようだ。都市化ともに三宝池からの湧水が減るにつれ、大川が石神井本流とされるようになった、とか。石神井川とは石神井村を貫流するが故の名前ではあるが、源流点が石神井ではないわけで、なんとなく名前に違和感があったのだが、もとはこの地からの流れが石神井川、ということであれば、なんとなく納得できる。

禅定院
石神井池を離れ石神井川へと向かう。途中に禅定院。火災による古書類消滅のため開基時期は不詳。境内で南北朝期の板碑がみつかっているので、おおよそその頃にはお寺が開かれていた、と推測されている。本堂前の寛文十三年(1673)と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠と言われる。茶人古田織部が創案したとされる織部灯籠は、竿にマリア像に似た石彫りがあり、また、織部が切支丹であったと伝わるためである。
「橋を北へわたりこせば、石神井村、この辺一人の往来を見ず、もの問べきよすがもなし。路の行あたる所に寺あり、禅定寺(禅定院)といふ、その前を西へ山にそふて、田のふちを行ば民家一戸あり、其先に又寺あり、道常寺(道場寺)といふ、その西にとなれるが三宝寺なり(村尾嘉陵《江戸近郊道しるべ》の『石神井の道くさ』)」。禅定院から三宝院への描写である。

笹目通り石神井公園を離れ、南田中団地の中を進む。両岸に宗歩道があり、川幅も広くなる。笹目通り、西武新宿線練馬高野台駅付近を交差。笹目通りの名前は開通当時、戸田市の笹目を通っていたから。川は北に振れる。谷原一丁目で目白通りに接近。少しの間目白通りに沿って流れる。笹目通りを少し北に、西武新宿線を越えて左に入ると長命寺がある。いつだったか自転車で和光の白子の宿に向かうとき偶然出会ったのだが、その構えに少々驚いた。後北条一族の開基。江戸の頃は御朱印寺でもあり、東の高野山と称される大寺であった。南大門の四天王様もなかなか、いい。たまたま迷い込んだところに、突然現れた古刹だけに記憶に残る。

清戸道交差
環八練馬中央陸橋付近で目白通りと環八通りのクロス部分を越える。ここにもガスタンク。東伏見付近に続き二つ目。どうということはないのだが、なんとなくおもしろい。環八を越えると遊歩道はなくなり一般の道が川に沿って進む。バルコニー風のデザインの道楽橋での清戸道、旧目白通りと交差。清戸道は文京区関口から大雑把に言って目白通りの道筋を清瀬の清戸に進む道。清戸にあった尾張藩の鷹場への道とも、近郊の野菜を江戸に運ぶ道とも。もっとも、野菜を江戸に運んだ帰り道、「有機肥料」を持ち帰る姿故に呼ばれた「汚穢(おわい)街道」のほうが通りやすいか、とも。神路橋のあたりで貫井川が合流する。石神井公園の南、下石神井付近から石神井川の南をほぼ平行に暗渠となって進む。一部は貫井川緑道ともなっているようだ。石井橋から先で石神井川は豊島園に入ってゆく。

豊島園
現在豊島園となっている一帯は昔の練馬城址。石神井川を自然の堀割に、川の北側の急崖の台地の上に城が築かれていたようだ。この城は豊島一族の支城。太田道灌との戦いにおいては、豊島方の拠点の石神井城とともに道灌方の江戸城と川越城の連携を阻止すべく奮戦するも、江古田の戦いにおいて豊島勢は道灌方に敗れる。練馬城もこのときに落城したようだ。遊園地となった今、遺構は残らない。ただ、遊園地の名前である豊島にその名残が残る。豊島区でもないのに、どうして豊島園、の所以はこういうことである。
川は豊島園内を流れているため、園に沿って迂回。川の南側、その昔は矢野山と呼ばれる雑木林であったそうだ。西武豊島線・豊島園の駅前あたりまで上り、ふたたび石神井川筋へと下っていく。
豊島園の東に中之橋。橋の脇には大江戸線のトンネル内の漏水を放流しているとの案内。水質保全のためではあろう。水源には何も水がなかった石神井の流れが徐々に豊かになっていくのは、それほど単純なことではないようだ。

広徳寺
道に沿って進むと川の右手に練馬総合運動場。中学校の陸上競技大会などを見やりながら、先に進むと川の右手に豊かな緑が見える。地図をチェックすると広徳寺とある。いかなる由緒のお寺さまかは知らないままに広徳寺に向かう。
広大な敷地とは思えども、「拝観お断り」のメッセージがあり境内には入れない。どこかに入り口はないかと彷徨うが、入口は見あたらず。総門脇の桂徳院にてかるくお参りをすます、のみ。案内によれば、臨済宗大徳寺派の大寺。もとは台東区の上野にあったものが、関東大震災の後、この地に移った。この時期は塔頭の桂徳院などと墓地だけであったようだが、戦後になって本寺もこの地に移ってきた。寺域二万坪と言う。浅草の浅草寺がおよそ三万坪、芝の増上寺が一万六千坪というから、現在の東京でもベストスリーに入る広大な寺域である。
寺の興りは元亀・天正(1570-92)の頃。岩槻城主北条氏房が義父である太田三楽齋の菩提を弔うため小田原に建てたことにはじまる。寺は秀吉の小田原征伐の時に炎上・焼失。江戸時代になり徳川家康により復興され神田、さらには下谷に移され、多くの諸大名・旗本の帰依を受ける。境内の墓地には柳生、前田(大聖寺)、小堀(備中松山藩、近江小室藩初代藩主。小堀政治一は小堀遠州の名で作庭家))、織田、立花、小笠原、秋月、細川(谷田部)、市橋、関、松浦、真田(松代)、桑山、滝川、松平(会津)などの大名が眠る、という。
あれ? 下谷? 広徳寺?ひょっとして「びっくり下谷の広徳寺?」。然りであった。太田南畝がつくった「おそれ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師さま」を庶民がアレンジし「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」となり巷間流布したフレーズにある、あの広徳寺であった。こんなところで出会うとは、まことに「びっくり練馬の広徳寺」ではあった。
ちょっと気になることがある。何故家康が広徳寺を再興したのだろうか。以下は単なる推論というか、妄想であるが、最初に思い浮かぶのは、北条の領地を引き継いだ家康の北条旧領民や旧北条家臣団の融和策。もう少し深読みすれば、もともとは太田三楽齋という北条の関東支配以前からの旧勢力太田氏の菩提寺であったわけで、その寺を庇護することにより旧北条家臣の勢力を牽制した。実際新領地に移った徳川家は北条旧家臣団の蜂起を怖れてはいただろう。まだ深読みすると、広徳寺は小田原早雲寺の末寺のひとつ。その小田原早雲寺は臨済宗大徳寺派の関東の拠点。十数カ所の末寺を擁していたわけで、拠点を抑えば末寺を通しての可能となる。早雲寺も北条滅亡し焼失したわけで、臨済宗大徳寺派を再構築する際に、末寺の中から北条家ゆかりでもあるが、同時に北条家臣団への牽制ともなりうる広徳寺を選び出し、江戸で臨済宗大徳寺派のネットワークを組み上げていった、ということだろう。妄想はそろそろやめて散歩に戻る。

高稲荷神社
川筋に戻ると、ほどなく公園に。公園南に小高い台地に稲荷の社・高稲荷神社。「高稲荷は石神井川に臨んだ台地上にあるが、その下は、むかしは大きな沼。そこには、主の大蛇がすんでいた。練馬村のとある若者が、その沼の主である大蛇に見込まれ、沼の中に引きいれられてしまった。それは篠氏の一族だともいうが、その霊をなぐさめるために祀ったのが、高稲荷」いった伝説が伝わる。文政5年(1822)の頃より地元の農民の信仰を集めていた、と。高稲荷公園も護岸工事などがないはるか昔には沼地であったのだろう。
この高稲荷神社付近からは旧石器・縄文・弥生時代の遺構遺物が発掘されている。特に東北地方産と考えられる材質(硬質頁岩)の旧石器時代の石器は、石神井流域によく見られる黒曜石やチャートの石器とは異なる特徴をもち、注目されている、とか。いまひとつ有り難みはよくわからないが、それはそれとして、さて次はどこ、と地図をチェック。石神井川の北岸台地の上に早宮史跡公園がある。名前が如何にも有り難そう。一休みの後、台地を上る。

早宮史跡公園
住宅街を上り、右往左往、そして下る。また上る。住宅に囲まれた台地上の公園を見つけるのに少々苦労。見つかればどうということはないのは、いつものことではあったが、誠につつましやかな公園についた。この公園敷地辺りで弥生時代の住居跡や土器、縄文時代の鍬などが確認され、遺構は再び埋め戻されている。
この公園あたりも含め、この地域は旧石器時代から平安時代までの複合遺跡である「東早淵遺跡」と呼ばれる。この遺跡からは旧石器時代の石器製作跡や調理用礫、縄文時代初期の土杭、弥生時代後期の住居跡や方形周溝墓、土器、また平安時代の住居跡や土器が発見されている。この石神井川北岸台地の東早淵遺跡、そして川向こうの高稲荷の遺跡など、石神井川の両岸の台地の上では往古より人の営みがあったわけである。事実、石神井川や白子川流域には130余の縄文・弥生、そして古墳時代の遺跡が残る。ちなみに、有り難そうであった、早宮の由来は早淵と宮が谷戸の合成語というだけであった。早淵は石神井川の早き淵、宮が谷戸は近くの氷川の宮との関連ではあろう。

氷川神社
台地を下り氷川神社へと向かう。長禄元年(1457)、渋川義鏡が古河公方・足利成氏との合戦への途上に下練馬で石神井川を渡河。淀みに泉を見いだし、武運を祈ったのがはじまりと言う。もとは、「お浜井戸」(桜台6-32)に鎮座していたとのことだが、1477年(文明9年)の江古田原の戦いの際に焼失。江戸時代の延享年間(1744年 - 1748年)に現在地に移転・再建された、とのことである。4年に1度の例大祭にはお里帰りと呼ばれる神幸行列を組んで神社から発祥の地まで練り歩く。
渋川義鏡は享徳の乱(古河公方・足利成氏と関東管領上杉家の争い)に際し、室町幕府より派遣され、堀越公方・足利政知とともに古河公方・足利成氏と戦う。これから先はよくわからないのだが、結局は和を結び古河公方の傘下に入る、とも。その後は武蔵に進出した小田原北条の支配下に入り、16世紀の前半、扇谷上杉家の上杉朝興に攻められ居城の蕨の城は落城した、とのことである。いまひとつ全体像がよくわからないのだが、古河公方と結んだのであれば太田道灌(扇谷上杉家の家宰)と敵対するだろうし、道灌と敵対すれば、敵の敵は味方ということで豊島一族とは誼(よしみ)を通じるわけで、石神井川一帯を支配する豊島一族の支配下に、こういった伝説が残るのもあり、ということだろう。

光伝寺
参道脇に古い趣の民家と商家があった。なかなか、いい。成り行きで都道441号の光伝寺交差点に戻り、差光伝寺に向かう。参道を通り山門をくぐり境内に。本堂、閻魔堂、鐘楼、十一面菩薩道などが残る。開山は16世紀の中頃、か。橋柱石が境内に保存されているとのことだが、これは光伝寺の和尚が私財を投じ、石神井川にかけた「弥右衛門橋(現在の正久保橋)」の名残り。地元民の徳を集めた和尚様であった、と伝わる。

城北中央公園
光伝寺から成り行きで石神井川に戻る。開進橋の先に城北中央公園。練馬区と板橋区に跨る26ヘクタールにも及ぶ広い敷地をもつ。戦時中は空襲被害の拡大を防ぐ防空緑地であったものが、戦後公園となった。一時期立教学園の運動場もあったようで、その建設の時期に石器時代から平安時代に至る複合遺跡がみつかった。地名をとって栗原遺跡と名付けられた遺跡には、現在奈良時代はじめの竪穴式住居が復元されている。雑木林の中を成り行きで進むと御嶽神社が現れた。

御嶽神社
教育委員会の案内によれば、創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神。この栗原の地は、康生二(1456)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田村の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあり、往古より開けた土地柄であった、と。この社はその頃、信州の御嶽山(一説には甲州)を勧請したと伝えられる。境内にある嘉永七(1854)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。毎年三月八日に行われる昆謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残されている、と。
誠に、狛犬は狼型。御嶽信仰において狼は神狗、「大口の真神」との尊称をもち、御山の神の眷属、神の使いとして神聖視されていた。御嶽山には平安時代修験道の霊山として蔵王権現が祀られ、江戸の頃には数多くの御嶽講が組織され、御師のガイドより御山への登拝が行われたが、その御師が檀家廻りのとき、配った神札が、「御神狗」であった。

田柄川跡
御嶽神社から石神井川に戻る。社前の道に緑道がある。櫻川緑道とあったが、これは場所からみて田柄川の川筋ではなかろうか。先日、別の機会にこの公園北にある金乗院に出かけたとき田柄川跡の暗渠に出会い、思わず少し北に辿ったことがあるのだが、源流点が練馬の光が丘辺りとわかり、遡行は別の機会と言い聞かせた川筋であった。

茂呂遺跡石神井川に戻ると川の南側にいかにも、何かありそうな小高い叢がある。思わず進むと台地はフェンスで囲われ、案内に茂呂遺跡とあった。旧石器時代の遺跡であり、黒曜石のナイフ形石器やその剥片石器が出土した。石神井川の両岸の台地上で日当たりが良く、水の便がいいこの地は往古の人々にとっての快適な地であったのだろう。

安養院
再び石神井川に向かって成り行きですすむ。川筋から少し北に安養院。安養院とか多聞寺といった名前のお寺様は結構外れが少ない。とりあえず寄り道。
本堂、鐘撞堂、大師堂、庫裏など美しいお寺様。銅鐘は江戸時代の作で国の重要美術品とか。寺伝によれば、鎌倉中期正嘉元年(1257)に、最明寺北条時頼が諸国行脚のみぎり、持仏「摩利支天」を此地に安置し一宇を建立して創建されたと伝えられる。1257といえば、五代執権であった時頼が病のため執権職を義兄である北条長時に譲り出家し、最明寺入道と称した年の1年後。執権職を強化するためには辣腕をふるう一方で、見識にすぐれ善政を敷いた名君と評される。ために、能の『鉢の木』の「廻国伝説に時頼の民情視察の諸国行脚が語られている。安養寺の寺伝はそのみぎり、と符号するのだが、実際は出家したとはいえ、幼い嫡子時宗の次期執権職を安泰とするため幕府の実権はしっかり握っており、且つまた、病気のためむなしくなったのが、寺伝縁起の数年後の1263年というから、諸国行脚をしている余裕はなかった、かと。いつものように縁起は縁起としておこう。

東新町氷川神社
安養院から東へ道なりに進むとほどなく氷川神社。東新町の豊か鎮守の森の中にある。一の明神鳥居から二の木製の台輪鳥居へと長い参道を歩く。その先は石段となっており、上りきると三の朱塗り両部鳥居がある。鬱蒼とした木々が茂る境内の入り口には嘉永3年(1850)生まれの子連れ江戸流れ狛犬。子連れの狛犬ってあまり見たことがないので、なんとなく、いい。本殿は嘉永3年(1850)に改築されたもの。現在は)鉄筋コンクリート建ての覆殿に納められている。

環七
氷川神社から石神井川へ戻ると、ほどなく環七と交差。先に進むと耕整橋。耕整橋から緑道が南に向かうが、これは「エンガ堀」と呼ばれた用水跡。昔は一面に広がる田圃の用水路ではあったのだろうが、都市化が進むとともにその機能を失い暗渠化され、現在緑道の地下には下水道向原幹線が通っている。耕整橋の名前は、耕地の整理に際して出来た橋であったのだろう。また、「エンガ」は、エガ堀とも呼ばれ、「江川」と表示することもあるようだが、「エンガ」の由来は不明。埼玉県には「排水堀で川へ落ちる部分」との方言があるそうだ。このあたりの意味が近そう。いつだったか、この耕整橋から南へ、大谷口の給水塔へと歩いたことがあるが、それはそれとして、先に進むと、ほどなく川越街道。

川越街道
現在の川越街道・国道254号線は起点である豊島区・池袋六ッ又交差点からはじまり、埼玉県川越市に終わる。ちなみに、起点から先、日本橋に向かう国道254号線は春日通りと呼ばれる。川越街道のはじまりは、戦国の頃、古河公方に対する防御ラインとして川越に城を築き、江戸城との間を古道をつなぎ合わせて道としたもの。江戸時代に入り、川越藩主。松平信綱により、中山道の脇往還として整備された。中山道を板橋宿・平井の追分(現在の板橋3丁目三叉路)で別れ、上板橋宿、下練馬宿、白子宿、膝折宿、大和田宿、大井宿と進み川越に至る。

旧川越街道・下頭橋
先に進むと東武東上線との交差の手前に下頭橋。このあたりは昔の川越街道の道筋であろう。橋の袂に祠があり、ちょっと立ち寄る。橋と祠の由緒の案内によれば、この辺りは旧川越街道の上板橋宿跡。宿橋である下頭橋は近隣住民の協力により石橋に架け替えることにより、それまで頻発していた水難事故が跡を絶った、と。
橋の名の由来については、例によって諸説ある。旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽を吹いて大木に成長したという逆榎がこの地にあった、というのがそのひとつ。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから、というもの。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもの。橋脇の六蔵祠はこの六蔵の徳を讃えて建てられたもの。本日の散歩はここまで。東武東上線・中板橋駅に向かい、家路へと。

石神井川散歩 Ⅰ:源流点から武蔵関公園まで

先日、東横線沿線散歩のとき、祐天寺の古本屋で買った『幻の江戸百年(鈴木理生:ちくまライブラリー)』に以下の記述があった。;「石神井川は、小金井市北端のゴルフ場付近を源流として、田無市を経て富士見池―(練馬区関町)―三宝寺池(同区石神井公園)―石神井池(同区石神井5丁目)から板橋区南部を流れ、北区滝野川に入ってからは台地の川のあり方としては例外的な渓谷状の河川となり、JR王子駅の下を流れて隅田川に注ぐ全長25.21キロの河川である。いまは滝野川の部分を中心に大改修が行われ、つい30年前まであった緑深い渓谷上の河流の面影は全く姿を消した。
それはともかく、滝野川―王子間、特に飛鳥山付近の地形を調べると、本来の石神井川は飛鳥山西麓から、昭和三十年代初めまで残っていた谷田川という河流の線を千駄木―根津―不忍池へと流れ、不忍池から池之端―湯島―須田町―神田(お玉が池)―日本橋堀留に至る河流として、江戸前島東岸の海に注いでいた」
前々から気になる川ではあった。滝野川あたりの地形、渓谷云々、といったコンテキストでよく現れる川である。が、それよりも、滝野川と石神井がどうも繋がらなかった。神田川の時もメモしたが、川は北から南に流れるものとの刷り込みが強かった。多摩川しかり、荒川しかり、である。西の石神井から東の滝野川へ?どこからどこへ流れているのか?今(2010年)となってみれば、武蔵野台地は西から東へと緩やかに傾斜する台地であるし、途方もない年月で開析された谷筋は概ね東西に、しかもこれも大雑把に言えば、東にむかって少し上向きに開かれているわけで、武蔵野台地を流れる川が西から東に流れてもいっこうに不思議ではないのだが、散歩をはじめた2005年の頃は、川の流路が不思議に思えていたのである。また、武蔵野台地の西と東の端を下る多摩川と荒川が北から南に下るもの、まことにもって理にかなってもいた。;
石神井川の流路は武蔵野台地を西から東に横切っている。神田川、善福寺川、そして妙正寺川も同様の流れ、である。しかも、これらの河川の源流点というか湧水点も大雑把に言えばほぼ同じ地帯。「海抜50メートルの南北線上には谷頭が沢山あって、これより東に向かう谷の源となっている」と『東京の自然史(貝塚爽平)』にも記述がある。湧水フリークとしては神田川、善福寺川、そして妙正川の源流点は辿った。残すは石神井川。これが気になる川の所以である。
石神井川を歩こう、とはいうものの、石神井川を源流点から河口まで辿ろうと、地図を見て結構迷った。Webで調べて躊躇した。どうみたところで、源流点近くのあたりの流路には遊歩道などあまり整備されているとは見えないし、あれこれ道に迷うだろうし、同じ道を引き返すことも多そうだし、それは段取り優先、一筆書きを信条とする私にとって、結構鬱陶しいことであるし、はてさて、どうしようか、とは思い迷った。が、結局、出かける事にした。始まりは、案の定というか、予想通りというか、予想以上というか、いやはやのスタートとなった。(yoyochichi (20010年10月10日 20:27:土曜日, 8月 13, 2005のブログを修正)



本日のルート:中央線武蔵小金井駅>嘉悦女子大>小金井公園>多摩自転車道>向台運動場>田無駅前>青梅街道>東伏見稲荷>早稲田大学東伏見運動場>下野谷遺跡公園>武蔵関公園>新青梅街道

中央線武蔵小金井
中央線武蔵小金井下車。バスに乗り、小金井街道を北に進む。都立小金井公園手前、五日市街道との交差点に小金井橋。これって先日の玉川上水散歩のとき歩いたところ。結構近いところを歩いていた、などと何ヶ月か前のエピソードを思い起こしながら、はたまた、エピソードって人の人たる所以であり、ほかの動物には「過去の経験」を思い出す能力はない、といった先日読んだ茂木健一郎さん(だったと思うのだが)の本のコメントを「思い出」しながら嘉悦女子大前(2010年秋現在嘉悦大学に)で下車。

嘉悦女子大(2010年秋に嘉悦大学)近くに源流点
バスを降り、小金井公園の裏手というか前述の「小金井市北端のゴルフ場」と嘉悦女子大の間にある源流点近くの開渠地点に向かう。早速迷う。行き止まりの道に阻まれ、元の道に引き返し、再度トライ、そしてまたエラー。先が思いやられる。
小金井公園道路を見つけ、南に下りなんとか辿りつく。ほとんど大学構内といったところ。先に開渠部が続いているのが見えるが、関係者立ち入り禁止といわれている以上、これ以上進めない。川筋に水は無い。(2010年秋修正;地図を見ていると、嘉悦大を抜けてその先まで流路跡が見える。流路跡は西に向かい新小金井街道脇にある鈴木小学校の手前で切れている。このあたりが源流点のようだ)

小金井公園の裏手を進む
さて、石神井川の川筋ツアー本格スタート。嘉悦大学あたりから暗渠が続くが、小金井公園の裏手というか北端あたりで開渠となる。「石神井川上流端」との案内があった。開渠は公園北端に沿って流れる。水は無い。小金井公園も表というか南側の整地された、いかにも公園といったところは子どもが小さい頃、何度か訪れたことはあった。が、裏はいかにも自然のまま。いい感じの森、というか林を歩く。

多摩自転車道の土手
公園を離れるあたりで川と道が泣き別れ。踏み分け道を左手の流れを意識しながら道に出る。川に戻るがまた、泣き別れ。川は畑の中から、そして、土手の下をくぐっていく。土手、というか堤は、一体何?地形としてはいかにも不自然。畑を迂回し土手に向かう。
多摩自転車道というサインがある。この道路、狭山境緑道とも呼ばれ、武蔵野市の境浄水場から狭山湖までの10キロ強の自転車・歩行者専用道。道路の下には狭山湖(山口貯水池)、多摩湖(村山貯水池)からの水を運ぶ水道管が埋められている。先日歩いた多摩湖・狭山湖のあたりに外周の多摩自転車道というのが、あったが、その自転車道路はここまで続いていたわけだ。堤のようになっていたのは、このあたりの土地が低いため土手が築かれた。「馬の背」などと呼ばれている。

向台運動場
堤から降り、上向台をほとんど民家の軒をかすめるように進む。川に沿ってつかず離れず、一瞬川に沿って道が現れても、すぐに行き止り、行き返りを繰り返しながら、向台運動場のあたりに。川がこの運動場の北端に沿って流れており、行き止まりを怖れながらも場内に。ちびっこサッカー観戦の皆様の間を縫って、川筋を。かろうじて場外への道。再び住宅街を、川に沿って、といっても川沿いに遊歩道があるわけではないので、あそこを流れておるな、などと確認しながら歩く。それにしてもこのあたりは行き止まりが多い。

田無駅前
田無養護学校(田無特別支援学校)を越え、北におおきく振れる川筋を田無駅前近くまで。田無駅前に続く武蔵境通りを越え、文化大橋からは左手に西武新宿線を見ながら進み青梅街道に交差。
田無のあたりは、高低のうねりを感じるおもしろい地形ではある。が、遊歩道は無いし、迷いながらの散歩。水はなかったのに、ちょっと水かさが増えているので、なにかと戻ってみると、濁った水、生活用水か(2010年には生活排水が減っていた。白い泡が見えなくなっているだけで、結構嬉しい)。開渠部分も等間隔に打ち込まれたH鋼に両岸を結ぶ梁をとおした無粋なもの。この梁、いつでも表を覆えるように、、などと思ったのだが、実際は増水したときに左右のH鋼が倒れるのを防ぐ「つっかえ棒」といったもののようだ。
田無の歴史は古い。永禄2年(1559年)の小田原北条家の文書に田無の地名が見える。江戸の頃は青梅街道、所沢街道が交わる宿場町として栄えた。また、それが為に、現在の中央線、当時の甲武鉄道敷設に際しては、既存の宿場の権益を守るべく鉄道敷設に反対し、西武線が開設されるまで交通の要衝の地位を失った、とか。戦前は中島飛行機の軍需工場、大日本時計(シチズン)、石川島播磨などがつくられた。戦後は東京のベッドタウンとして都市化が進んだ。その急激な都市化のためだろうか、あまりに市街地に隘路が多い。地形が入り組み、昔ながらの宿場町で、大きな工場があればそれにともなう町工場も多々あるわけで、しかも急激に市街化が進む。計画的な都市政策の実施には不向きな環境が「充実」しており、ために隘路も多いということだろうか。もっとも石神井の川筋を辿るについての隘路の不便さ、ということであり、日常生活には何の不便もないのか、とも。なお、田無市は2001年、保谷と合併し、現在は西東京市となっている。

青梅街道
西武柳沢駅前交差点で青梅街道と交差。車で走っているときよく見る球形のガスタンクの近くに出る。青梅街道は江戸の頃、青梅の石灰を江戸の町に運ぶために造られた道。明暦の大火で壊滅した江戸の町の再建に、青梅の石灰が白壁つくりの漆喰に欠かせなかった、と。所沢街道は田無駅の北、北原1丁目で青梅街道と別れ、東村山を抜け所沢に至る。青梅街道に田無の宿ができ、人の往来とともに、そこを起点に近郊への生活道路がひらけるわけで、所沢街道もそのひとつ。田無宿から府中街道、志木街道と交差し所沢村へ抜ける。近在の人が田無、所沢、府中・志木街道に沿った久米川村や引又宿(志木)へと往来する街道であったのだろう。

東伏見稲荷神社
石神井川は青梅街道を越えても依然、川に沿っての道はない。水も流れる、というほどのものは、ない。川筋を東伏見稲荷神社に。小高い丘に社はある。京都の伏見稲荷から昭和になって奉還されたもの、とか。本殿の裏は薄暗い森。いくつかのちいさな社と赤い鳥居と狐。この少々の不気味さを醸し出すのはお狐様の故?そもそもお稲荷さんとは?それとなぜ狐?お稲荷さんは五穀豊穣を祝う神様。稲荷=いなり=稲生り、ということだ。で、狐。本来五穀をつかさどるお「稲荷」の神、倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)、その別名、タウメミケツが専女三狐(たうめみけつ)神から来た説、穀物を食べる野ネズミを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、そこから結び付いた、という説いくつかあるようだ。
実際は上の二つを足して二で割る、というところか。もともと民間には「田の神およびその使女(ツカワシメ)を狐とする」信仰があった。で、お稲荷さんを全国に普及キャンペーンをするにあたって、五穀豊穣、といえば狐、それがキャンペーンアイテムとしては皆さんに分かりやすい、ということで採用。ついでに神さんも狐に関わりありそうな別名をつければもっと説得力があるか、といったマーケティング戦略の結果か?真偽のほど不明だが、私としては結構納得。

早稲田大学東伏見運動場
お稲荷さんを離れ、川筋に戻る。早稲田大学運動場の南端を通るあたりから水が増えてくる。澱んでいるといった感じはしなくなる。どこかで、この早稲田大学東伏見運動場に湧水点があるという記事を見たことがあるが、そのことも水が増えている因であろう、か。運動場脇の川筋に水草が茂っているところがあったが、そのあたりも湧水点なのだろうか。川沿いの道も整備されて歩きやすくなってきた。




下野谷遺跡公園運動場に沿って進むと、川筋の右手台地に下野谷遺跡公園。台地に上ると案内があり、石器時代から近代に至るまでの遺跡、とか。縄文の頃はこの台地に大きな関東屈指の環状集落があった、とか。また、近代では中島飛行機製作所関連施設跡まで盛り土し埋められている。西武鉄道(当時の武蔵の鉄道)が通り、石神井川とか白子川とか、千川上水など、水利に恵まれていたのがこういった軍需工場が造られた理由だろう。ために、米軍の空襲を被ることになった。田無宿に昔の宿場の面影が乏しいのは戦禍のため、か。



武蔵関公園
川筋は早稲田大学の敷地へと。右手前方には結構高い丘。川は敷地内へ。川筋と泣き別れ。道に迷いながらも大学敷地横に広がる武蔵関公園、富士見が池に到着(2010年には運動場の南端に遊歩道が整備されていた)。
このあたりも石神井川の水源のひとつであったのだろう。現在は水量を確保するため、早稲田東伏見運動場の湧水も導水している、とか。公園から石神井川への水路が二箇所設けられていた。公園を散歩しながら北に上り、西武新宿線に沿って、武蔵関駅に。それにしても、東伏見稲荷から早稲田大学の敷地一帯、結構ダイナミックな地形のうねり。地形図で細かくチェックしてみたい。
武蔵関駅は、東京23区内で最も西にある駅。武蔵関の由来は、室町時代に関所があったという説、また、武蔵関公園内の富士見池付近に堰(せき)があったからとか、あれこれ。

新青梅街道
武蔵関の駅前を越え、上石神井に入り都営上石神井アパートあたりまで来ると川筋も広くなってくる。川に沿った遊歩道があり、やっと川沿いの遊歩道をゆったり歩けるか、などと思ったのだが、新青梅街道に交差する手前で一旦切れた。
新青梅街道から先の石神井川を眺める。比高差は数メートルといったところ。このあたりの地形のうねりも魅力的。石神井「台」とは、文字通りの地形である。石神井公園ももう指呼の間ではあるが、日没中止。お楽しみは次回へ。ともあれ、本日は予想通りの艱難辛苦。何度行き止まりに遭遇したものやら。次はいい散歩道が整備されていることを祈りつつ一路家路へと。