日曜日, 10月 17, 2010

石神井川散歩 Ⅰ:源流点から武蔵関公園まで

先日、東横線沿線散歩のとき、祐天寺の古本屋で買った『幻の江戸百年(鈴木理生:ちくまライブラリー)』に以下の記述があった。;「石神井川は、小金井市北端のゴルフ場付近を源流として、田無市を経て富士見池―(練馬区関町)―三宝寺池(同区石神井公園)―石神井池(同区石神井5丁目)から板橋区南部を流れ、北区滝野川に入ってからは台地の川のあり方としては例外的な渓谷状の河川となり、JR王子駅の下を流れて隅田川に注ぐ全長25.21キロの河川である。いまは滝野川の部分を中心に大改修が行われ、つい30年前まであった緑深い渓谷上の河流の面影は全く姿を消した。
それはともかく、滝野川―王子間、特に飛鳥山付近の地形を調べると、本来の石神井川は飛鳥山西麓から、昭和三十年代初めまで残っていた谷田川という河流の線を千駄木―根津―不忍池へと流れ、不忍池から池之端―湯島―須田町―神田(お玉が池)―日本橋堀留に至る河流として、江戸前島東岸の海に注いでいた」
前々から気になる川ではあった。滝野川あたりの地形、渓谷云々、といったコンテキストでよく現れる川である。が、それよりも、滝野川と石神井がどうも繋がらなかった。神田川の時もメモしたが、川は北から南に流れるものとの刷り込みが強かった。多摩川しかり、荒川しかり、である。西の石神井から東の滝野川へ?どこからどこへ流れているのか?今(2010年)となってみれば、武蔵野台地は西から東へと緩やかに傾斜する台地であるし、途方もない年月で開析された谷筋は概ね東西に、しかもこれも大雑把に言えば、東にむかって少し上向きに開かれているわけで、武蔵野台地を流れる川が西から東に流れてもいっこうに不思議ではないのだが、散歩をはじめた2005年の頃は、川の流路が不思議に思えていたのである。また、武蔵野台地の西と東の端を下る多摩川と荒川が北から南に下るもの、まことにもって理にかなってもいた。;
石神井川の流路は武蔵野台地を西から東に横切っている。神田川、善福寺川、そして妙正寺川も同様の流れ、である。しかも、これらの河川の源流点というか湧水点も大雑把に言えばほぼ同じ地帯。「海抜50メートルの南北線上には谷頭が沢山あって、これより東に向かう谷の源となっている」と『東京の自然史(貝塚爽平)』にも記述がある。湧水フリークとしては神田川、善福寺川、そして妙正川の源流点は辿った。残すは石神井川。これが気になる川の所以である。
石神井川を歩こう、とはいうものの、石神井川を源流点から河口まで辿ろうと、地図を見て結構迷った。Webで調べて躊躇した。どうみたところで、源流点近くのあたりの流路には遊歩道などあまり整備されているとは見えないし、あれこれ道に迷うだろうし、同じ道を引き返すことも多そうだし、それは段取り優先、一筆書きを信条とする私にとって、結構鬱陶しいことであるし、はてさて、どうしようか、とは思い迷った。が、結局、出かける事にした。始まりは、案の定というか、予想通りというか、予想以上というか、いやはやのスタートとなった。(yoyochichi (20010年10月10日 20:27:土曜日, 8月 13, 2005のブログを修正)



本日のルート:中央線武蔵小金井駅>嘉悦女子大>小金井公園>多摩自転車道>向台運動場>田無駅前>青梅街道>東伏見稲荷>早稲田大学東伏見運動場>下野谷遺跡公園>武蔵関公園>新青梅街道

中央線武蔵小金井
中央線武蔵小金井下車。バスに乗り、小金井街道を北に進む。都立小金井公園手前、五日市街道との交差点に小金井橋。これって先日の玉川上水散歩のとき歩いたところ。結構近いところを歩いていた、などと何ヶ月か前のエピソードを思い起こしながら、はたまた、エピソードって人の人たる所以であり、ほかの動物には「過去の経験」を思い出す能力はない、といった先日読んだ茂木健一郎さん(だったと思うのだが)の本のコメントを「思い出」しながら嘉悦女子大前(2010年秋現在嘉悦大学に)で下車。

嘉悦女子大(2010年秋に嘉悦大学)近くに源流点
バスを降り、小金井公園の裏手というか前述の「小金井市北端のゴルフ場」と嘉悦女子大の間にある源流点近くの開渠地点に向かう。早速迷う。行き止まりの道に阻まれ、元の道に引き返し、再度トライ、そしてまたエラー。先が思いやられる。
小金井公園道路を見つけ、南に下りなんとか辿りつく。ほとんど大学構内といったところ。先に開渠部が続いているのが見えるが、関係者立ち入り禁止といわれている以上、これ以上進めない。川筋に水は無い。(2010年秋修正;地図を見ていると、嘉悦大を抜けてその先まで流路跡が見える。流路跡は西に向かい新小金井街道脇にある鈴木小学校の手前で切れている。このあたりが源流点のようだ)

小金井公園の裏手を進む
さて、石神井川の川筋ツアー本格スタート。嘉悦大学あたりから暗渠が続くが、小金井公園の裏手というか北端あたりで開渠となる。「石神井川上流端」との案内があった。開渠は公園北端に沿って流れる。水は無い。小金井公園も表というか南側の整地された、いかにも公園といったところは子どもが小さい頃、何度か訪れたことはあった。が、裏はいかにも自然のまま。いい感じの森、というか林を歩く。

多摩自転車道の土手
公園を離れるあたりで川と道が泣き別れ。踏み分け道を左手の流れを意識しながら道に出る。川に戻るがまた、泣き別れ。川は畑の中から、そして、土手の下をくぐっていく。土手、というか堤は、一体何?地形としてはいかにも不自然。畑を迂回し土手に向かう。
多摩自転車道というサインがある。この道路、狭山境緑道とも呼ばれ、武蔵野市の境浄水場から狭山湖までの10キロ強の自転車・歩行者専用道。道路の下には狭山湖(山口貯水池)、多摩湖(村山貯水池)からの水を運ぶ水道管が埋められている。先日歩いた多摩湖・狭山湖のあたりに外周の多摩自転車道というのが、あったが、その自転車道路はここまで続いていたわけだ。堤のようになっていたのは、このあたりの土地が低いため土手が築かれた。「馬の背」などと呼ばれている。

向台運動場
堤から降り、上向台をほとんど民家の軒をかすめるように進む。川に沿ってつかず離れず、一瞬川に沿って道が現れても、すぐに行き止り、行き返りを繰り返しながら、向台運動場のあたりに。川がこの運動場の北端に沿って流れており、行き止まりを怖れながらも場内に。ちびっこサッカー観戦の皆様の間を縫って、川筋を。かろうじて場外への道。再び住宅街を、川に沿って、といっても川沿いに遊歩道があるわけではないので、あそこを流れておるな、などと確認しながら歩く。それにしてもこのあたりは行き止まりが多い。

田無駅前
田無養護学校(田無特別支援学校)を越え、北におおきく振れる川筋を田無駅前近くまで。田無駅前に続く武蔵境通りを越え、文化大橋からは左手に西武新宿線を見ながら進み青梅街道に交差。
田無のあたりは、高低のうねりを感じるおもしろい地形ではある。が、遊歩道は無いし、迷いながらの散歩。水はなかったのに、ちょっと水かさが増えているので、なにかと戻ってみると、濁った水、生活用水か(2010年には生活排水が減っていた。白い泡が見えなくなっているだけで、結構嬉しい)。開渠部分も等間隔に打ち込まれたH鋼に両岸を結ぶ梁をとおした無粋なもの。この梁、いつでも表を覆えるように、、などと思ったのだが、実際は増水したときに左右のH鋼が倒れるのを防ぐ「つっかえ棒」といったもののようだ。
田無の歴史は古い。永禄2年(1559年)の小田原北条家の文書に田無の地名が見える。江戸の頃は青梅街道、所沢街道が交わる宿場町として栄えた。また、それが為に、現在の中央線、当時の甲武鉄道敷設に際しては、既存の宿場の権益を守るべく鉄道敷設に反対し、西武線が開設されるまで交通の要衝の地位を失った、とか。戦前は中島飛行機の軍需工場、大日本時計(シチズン)、石川島播磨などがつくられた。戦後は東京のベッドタウンとして都市化が進んだ。その急激な都市化のためだろうか、あまりに市街地に隘路が多い。地形が入り組み、昔ながらの宿場町で、大きな工場があればそれにともなう町工場も多々あるわけで、しかも急激に市街化が進む。計画的な都市政策の実施には不向きな環境が「充実」しており、ために隘路も多いということだろうか。もっとも石神井の川筋を辿るについての隘路の不便さ、ということであり、日常生活には何の不便もないのか、とも。なお、田無市は2001年、保谷と合併し、現在は西東京市となっている。

青梅街道
西武柳沢駅前交差点で青梅街道と交差。車で走っているときよく見る球形のガスタンクの近くに出る。青梅街道は江戸の頃、青梅の石灰を江戸の町に運ぶために造られた道。明暦の大火で壊滅した江戸の町の再建に、青梅の石灰が白壁つくりの漆喰に欠かせなかった、と。所沢街道は田無駅の北、北原1丁目で青梅街道と別れ、東村山を抜け所沢に至る。青梅街道に田無の宿ができ、人の往来とともに、そこを起点に近郊への生活道路がひらけるわけで、所沢街道もそのひとつ。田無宿から府中街道、志木街道と交差し所沢村へ抜ける。近在の人が田無、所沢、府中・志木街道に沿った久米川村や引又宿(志木)へと往来する街道であったのだろう。

東伏見稲荷神社
石神井川は青梅街道を越えても依然、川に沿っての道はない。水も流れる、というほどのものは、ない。川筋を東伏見稲荷神社に。小高い丘に社はある。京都の伏見稲荷から昭和になって奉還されたもの、とか。本殿の裏は薄暗い森。いくつかのちいさな社と赤い鳥居と狐。この少々の不気味さを醸し出すのはお狐様の故?そもそもお稲荷さんとは?それとなぜ狐?お稲荷さんは五穀豊穣を祝う神様。稲荷=いなり=稲生り、ということだ。で、狐。本来五穀をつかさどるお「稲荷」の神、倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)、その別名、タウメミケツが専女三狐(たうめみけつ)神から来た説、穀物を食べる野ネズミを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、そこから結び付いた、という説いくつかあるようだ。
実際は上の二つを足して二で割る、というところか。もともと民間には「田の神およびその使女(ツカワシメ)を狐とする」信仰があった。で、お稲荷さんを全国に普及キャンペーンをするにあたって、五穀豊穣、といえば狐、それがキャンペーンアイテムとしては皆さんに分かりやすい、ということで採用。ついでに神さんも狐に関わりありそうな別名をつければもっと説得力があるか、といったマーケティング戦略の結果か?真偽のほど不明だが、私としては結構納得。

早稲田大学東伏見運動場
お稲荷さんを離れ、川筋に戻る。早稲田大学運動場の南端を通るあたりから水が増えてくる。澱んでいるといった感じはしなくなる。どこかで、この早稲田大学東伏見運動場に湧水点があるという記事を見たことがあるが、そのことも水が増えている因であろう、か。運動場脇の川筋に水草が茂っているところがあったが、そのあたりも湧水点なのだろうか。川沿いの道も整備されて歩きやすくなってきた。




下野谷遺跡公園運動場に沿って進むと、川筋の右手台地に下野谷遺跡公園。台地に上ると案内があり、石器時代から近代に至るまでの遺跡、とか。縄文の頃はこの台地に大きな関東屈指の環状集落があった、とか。また、近代では中島飛行機製作所関連施設跡まで盛り土し埋められている。西武鉄道(当時の武蔵の鉄道)が通り、石神井川とか白子川とか、千川上水など、水利に恵まれていたのがこういった軍需工場が造られた理由だろう。ために、米軍の空襲を被ることになった。田無宿に昔の宿場の面影が乏しいのは戦禍のため、か。



武蔵関公園
川筋は早稲田大学の敷地へと。右手前方には結構高い丘。川は敷地内へ。川筋と泣き別れ。道に迷いながらも大学敷地横に広がる武蔵関公園、富士見が池に到着(2010年には運動場の南端に遊歩道が整備されていた)。
このあたりも石神井川の水源のひとつであったのだろう。現在は水量を確保するため、早稲田東伏見運動場の湧水も導水している、とか。公園から石神井川への水路が二箇所設けられていた。公園を散歩しながら北に上り、西武新宿線に沿って、武蔵関駅に。それにしても、東伏見稲荷から早稲田大学の敷地一帯、結構ダイナミックな地形のうねり。地形図で細かくチェックしてみたい。
武蔵関駅は、東京23区内で最も西にある駅。武蔵関の由来は、室町時代に関所があったという説、また、武蔵関公園内の富士見池付近に堰(せき)があったからとか、あれこれ。

新青梅街道
武蔵関の駅前を越え、上石神井に入り都営上石神井アパートあたりまで来ると川筋も広くなってくる。川に沿った遊歩道があり、やっと川沿いの遊歩道をゆったり歩けるか、などと思ったのだが、新青梅街道に交差する手前で一旦切れた。
新青梅街道から先の石神井川を眺める。比高差は数メートルといったところ。このあたりの地形のうねりも魅力的。石神井「台」とは、文字通りの地形である。石神井公園ももう指呼の間ではあるが、日没中止。お楽しみは次回へ。ともあれ、本日は予想通りの艱難辛苦。何度行き止まりに遭遇したものやら。次はいい散歩道が整備されていることを祈りつつ一路家路へと。

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