日曜日, 5月 13, 2012

神田川散歩そのⅢ;環七・方南橋から青梅街道・淀橋まで

神田川散歩そのⅢ;環七・方南橋から青梅街道・淀橋まで
神田川散歩の3回目。スタート地点は先回の終点である環七・方南橋。環七を越えた神田川は、方南通りを尾根道とし東に突き出た舌状台地(峰と呼ばれていた)と、甲州街道を尾根道とした台地の支尾根といった弥生町・南台の台地の間の谷を進み、峰の先端部で善福寺川と合流する。善福寺川と合流した神田川は青梅街道を尾根道とした中野の台地と、甲州街道を尾根道とした台地の支尾根といった弥生町・南台の台地の間の谷を東に進み、山手通りにかかる長者橋の辺りで前方を新宿・淀橋台地で阻まれ、流路を北に向ける。今回のメモの終点は長者橋で北に流れを変えた神田川が青梅街道に架かる淀橋とする。
カシミール3Dで作成した地形図を見るにつけ、武蔵野台地の開析谷、樹枝状・舌状台地が入りくみ、地形は誠に複雑な様相を呈している。低地部の川筋を辿りながら、左右の台地を意識しながらの散歩を楽しむ。

本日のルート;環七・方南橋>上水橋>たつみ橋>向田橋>神田橋>角田橋>栄橋>善福寺川合流>和田三見橋>富士見橋>高砂橋>寿橋>本郷橋>柳橋>千代田橋>氷川橋>新橋>桜橋>花見橋>月見橋>中ノ橋>皐月橋>桔梗橋>東郷橋>長者橋>宝橋・菖蒲橋>相生橋・豊水橋>淀橋

環七・方南橋>上水橋
環七を越えた神田川は峰ともよばれた、方南通りを尾根道とし東に突き出た舌状台地北に沿って東に少し進み「上水橋」に。橋の北詰め近くに今回の神田川散歩のきっかけともなった釜寺がある。この辺りを幾度も歩いているのだが、かくの如き奇妙な構えのお寺さまが、ほぼ地元にあるのも知らなかったのが、改めて神田川についてのメモをしてみようと思ったわけである。



釜寺・東運寺

釜寺こと、念仏山東運寺は上水橋の左岸、方南通りの通る台地を少し上ったところにある。山門手前の道脇に「身代わり地蔵尊」。お地蔵様にお参りし山門をくぐり境内に。山門は武家風の造り。元は奥州一関藩・田村右京太夫江戸屋敷の脇門であったもの。新橋4丁目辺りにあったこのお屋敷は忠臣蔵の浅野内匠頭が切腹して果てたお屋敷ところでもある。
落ち着いた境内を進み、石段を上ると本堂。本堂の屋根上に大きな釜が載っている。釜寺と呼ばれる所以である。寺伝によれば、天正元年(1573)備前の僧一安上人が、奉じていた安寿と厨子王の守り本尊である「身代わり地蔵尊」を安置して当地に念仏堂を建てた、とか。また、屋根上のお釜は厨子王を釜ゆでから救ったという身代わり地蔵の伝説に因んだもの、と言う。念仏堂は大正11年(1922)、下谷入谷町の東運寺(慶安4年;1651年開山)と合併し、念仏山東運寺と改称した。
「釜ゆで」とは言うものの、森鴎外の『山椒大夫』には釜ゆでなどと言った残酷な場面が登場する覚えがない。チェックすると、もとは説教節として、「いたわしや あらいたわしや」と、聞くも涙、語るも涙の物語として切々たる節で語られた「さんせう太夫」から、原作の持つ残酷な場面や凄惨な復讐の場面をカットして小説としたのが鴎外の『山椒大夫』とか。
説教節ではさんせう太夫の子・三郎が逃げたづし王(厨子王)の行方を「湯攻め水攻めにて問ふ」とあり、釜ゆでは厨子王ではなく安寿である。また、身代わり地蔵も、釜ゆでではなく、三郎によってづし王が見つけられた時、身に着けていた地蔵菩薩が黄金に光り輝き、その目くらましにより、なんとか窮地を脱した、とある。寺伝とは少々物語が異なるが、伝説は所詮伝説ということで受け入れる、べし。
屋根上の釜は戦災で失われ、現在のものは、後に信者が寄進したもの。米一俵を炊くことができる、とか。屋根上にお釜を置くようなお寺は他にあるのかチェックすると、大阪の東千里に「甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂」があるようだ。もと光明院といって伊勢参宮の旅人の休憩所であったこのお寺の屋根の上には、炊事用の釜と水甕が伏せてある。擬宝珠の代わりにお釜を置くようなお寺様が他にあるのだろう、か。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23使、第631号)」)

大山神社(方南神社)
釜寺を出て、坂を少し上った、と言うか、釜寺にすぐ傍に誠にささやかな祠があり、狼の狛犬が祠を護る。この社は釜寺の境内社であったようだが、明治の神仏分離で分かれた。
境内には大山・御嶽山・榛名山の各社が勧請されており、狼の狛犬共々「日本オオカミ=お犬様」信仰の名残を伝える。秩父の三峯神社にしても、奥多摩の御嶽神社にしても、神社の神の使い・眷属は狼。狼・山犬は不思議な力を持つと信じられ「大口真神(おおくちのまかみ)」とも呼ばれ、山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたかと信仰も篤く、「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が「お犬さま」と呼ばれる護符を貼り、講をつくり、お山に登った。
「お犬さま」が神の使い・眷属となり、それが全国に広まったプロセスをまとめると;まずは、作物を荒らす猪鹿に悩まされていた山間の住人の間に「オオカミ」さまの力にすがろうという信仰が広まった。農作物に被害を与えるイノシシやシカをオオカミが食べるという関係から、農民にとっての益獣としてのオオカミへの信仰がひろまった、ということだろう。
山村・農村に基盤をおいた「お犬さま」信仰も、次第に「都市化」の様相を示してゆく。都市化、という意味合いは、山里では重要であった「猪鹿除け」が消え去り、「火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけ」が江戸をはじめとした都市で「お犬様」信仰の中心となってくる、ということ。「お犬さま」の護符を貼り、災難から逃れることを願った。
都市化された「お犬さま」信仰の例は散歩の折々に出合った。千住宿・氷川社の末寺もそのひとつ。縁起には「宿内信心の講中火災盗難為消除、御眷属を奉拝」とあり、「猪鹿除け」は消えている。「白波は三峰山をよけて打ち」って川柳があるほど、だ。これって、歌舞伎の白波5人衆、泥棒5人組み、のことである。泥棒は三峯山(お札)を避ける、って意味である。
江戸時代後半以降、三峯講が盛んとなり、各地で講が組織された。組からは毎年2人ほどが代表となり参拝し、お札をもらってくるのだが、講の加入者に渡される札は火防・盗賊除け・諸災除けの3枚であり農作業に関わる願意は見られない。
信仰の都市化の傾向は江戸だけではない。島崎藤村が小諸市を舞台に描いた『千曲川スケッチ』の中で、村落部に張られたお札は「盗賊除け」と。時代・世相・生産基盤の変化に応じ、願意も変化し、それに応じて、霊験も変化していった、ということだろう。現在の「お犬さま」信仰は、代表的な三峯講だけでも代参・団参あわせて4000余社、崇敬社は20万人以上といわれている。
因みに御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。


たつみ橋
先に進み、たつみ橋。橋の南詰め、方南小学校から台地上の方南児童館辺り一帯には縄文時代後期の向方南遺跡が残る。低地と台地に分かれたのは神田川の蛇行と浸食の結果、とか。方南小学校の裏手にある児童館脇の案内では、土器、土器片、石器、装飾品の他、クルミ、トチ、シイの実などの木の実が発掘されており、住居跡というより、「ゴミ捨て場」か「キャンプサイト」と説明されている。
神田川は、たつみ橋の先で甲州街道を尾根道とした台地の支尾根といった弥生町・南台の台地に行く手を阻まれ流路を北に変える。




向田橋

向田橋と進む。かつて神田川の西に向田という地名があり、それが橋の名の由来だろう。向田橋の北一帯(弥生町6丁目辺り・南台5丁目)に釜寺東(向田)遺跡が発掘されているが、それが地名の名残でもある。神田川に沿って歩くと向田橋の少し手前に「雑色こどもの遊び場」があるが、その昔この辺りには雑色村があり、その村から見て「向こう側」との意味だ、とも言われる。

「雑色」とは「雑職」とも書き、もともと律令制度時代、蔵人(蔵の管理をする官職)に仕えた下級役人。時代が下っても、幕府の雑事にあたった下級役人・町役人ではあるが、雑色村の由来は、『江戸名所図会絵図』に、「雑色村;ここも中野郷の内にて、大宮八幡宮を古え造建のとき、八幡神供雑色料(諸種の品)の地なりという古き称号をとりて村名とはなりし由」とある(『なつかしい東京を歩く;森本哲朗(PHP研究所)』)。大宮八幡に納める穀物などを作っていた地、またはそれに従事する人々の住む地であったのだろう。雑色村は明治22年(1889)まで続いたが、現在、中野区の南の台地、と言った意味の南台に地名は変わっている。少々味気ない。

神田橋
方南通りへと上る少し大きな通りに神田橋がかかる。神田は神社の有する、「神の田」。寺田の対をなす。律令制の元では神田は租税が免除された、所謂不輸租田。橋名の由来は神田川からか、はたまた、神田橋のひとつ下流の角田橋の南にある多田神社の「神の田」からであろうか。

角田橋

東岸には多田神社が鎮座。多田満仲を祀る。源義家の曾祖父。後三年の役での凱旋時に大宮八幡に神鏡を奉納するとともに、大宮八幡の雑色料の地であるこの地に叔敬する曾祖父・多田満仲を祀る祠を建てた。『新編武蔵風土記稿』には「多田権現稲号社」と記されている。裏手の宝福寺は多田神社の別当。聖徳太子が建立との伝説が残る。



方南通り・栄橋
都立中野特別支援学校に架かる睦橋を越えると方南通りに架かる栄橋にあたる。山手通りの清水橋交差点から井の頭通り・西永福交差点まで続き、都道14号新宿国立線の一部となっている方南通りは、かつて栄町(さかえちょう)通りと呼ばれていた。方南通り沿いの地名が栄町(さかえちょう)通りと呼ばれていたからであろう。
方南通りがその一部をなす都道14号新宿国立線は、方南通り>人見街道>東八道路といった順路で府中を目指す。昔の江戸道とも府中道とも呼ばれた道筋とほぼ一致するようだ。
現在方南道路は西永福で一度井の頭通りと合わさり、浜田山で人見街道を分けるが、昭和4年(1929)の地図をみれば、府中道は、方南通りの大宮八幡で右斜めに分岐する道に入り、神社の脇を通り高千穂大学のところから一直線で浜田山の人見街道に合わさる道筋となっている。

中野車両基地
方南通りを越えると、神田川の東岸に地下鉄・丸の内線の赤い車輌が見え隠れする。ここは中野車検場と呼ばれ、丸ノ内線と銀座線の車輌基地。車輌基地の中野車検区と車両工場である中野工場からなる。
中野車輌工場は営団地下鉄・銀座線と丸の内線の車輌基地。日本で最初の地下鉄である銀座線は上野と渋谷に車輌基地があったが、昭和36年(1961)、中野車両基地ができると丸の内線とともに、銀座線も渋谷と上野の車両工場を廃止しこの地に統合した。営団地下鉄創立直後の昭和19年(1944)、地下鉄4号線(現在の丸の内線)用にこの地を確保していた、とのこと。また、小石川(茗荷谷)にあった丸の内線の車検区も平成23年(2011)にこの車両基地に統合された。
因みに、銀座線と丸の内線は歴史が古い故か、他線との接続がなく、車輌搬入は製造メーカーから川崎貨物駅まで輸送され、そこからトラックでこの基地に運び込まれる、とか。
なお、地下鉄の車両基地は、東西線は東陽町、有楽町線は新木場、千代田線は北綾瀬、半蔵門線の車両基地は東急より田園都市線の鷺沼駅にあった車両基地の譲渡を受け車輌基地としている、と。
方南通りの栄橋脇に「区整碑」が建つ。神田川や、この少し下流で合流する善福寺川、その他の細流が流れるこの辺りの土地を整える歴史と、結果的にその土地を中野車両基地に譲り渡す過程が説明されていた。

善福寺川合流点
中野車両基地を見やりながら進むと、方南通りの台地先端部が切れる左手より善福寺川が合流する。神田川と善福寺川を分ける台地は峰と呼ばれていたようである。対岸から見ると山の峰の様に見えた、というのが地名の由来、とか。
善福寺川の源流点は杉並の北西の端、善福寺池をはじまりとし、南東に向けて流れ、途中大きく蛇行を繰り返しながら、杉並区の東端のこの地で神田川に合流する。元々の善福寺川は環七付近(当時環七はなかったが)の微高地を迂回するため、環七付近で北に大きく迂回し、二流に分かれ神田川に合流していたものを、上記区画整理事業の一環で流路を現在のようにショートカットして神田川と結んだ。
ふたつの川が合流する辺りを和田と呼ぶ。和田の由来は、一般的には鎌倉期の武将である和田義盛の館に関係する、ってことだが、「わだ」には「川が湾曲したところ」といった意味がある。また、区画された田を町田・角田>枡田・舛田・升田>増田というのに対して、自然のままの「丸い田」のことを、丸田・円田・輪田、と呼び、「輪」を縁起のよい「和」に置き換え>和田、との説も。また、古来の地名「海田(あまだ)郷」が、「わだ」に転化した、という説も。ここの和田は、はてさてどれであろう、か。

和田見橋
神田川と善福寺川が合流した最初の橋が和田見橋。地下鉄が車輌基地から地下に入るあたり。橋名は和田町と富士見町をまたがる故の合成名であろう。近くの「れんげ公園」には「本郷堰の址」。江戸から昭和初期まであった神田川から引き込んだ用水堰址とのことである。毎年4月から9月、水田用水のため堰を開き、幅2mの小川が台地縁を流れ本町1丁目で神田川本流に合流した。とのことである。


中野富士見町駅・富士見橋丸の内線・富士見町駅に。神田川には富士見橋が架かる。とはいうものの、富士見町という地名は見あたらない。昭和41年(1966)までは富士見町と言う地名があったが、富士見町とか本郷町と呼ばれた地域が現在では弥生町となっている。弥生は、本郷遺跡とか川島町遺跡(弥生町3丁目)、富士見台遺跡(地下鉄富士見町駅の南)など弥生時代の遺跡が残る故の命名ではあろう。




高砂橋・寿橋
高砂橋を越え中野通りに架かる寿橋に。めでたい名前の橋が続く。中野通りを南に下る、というか台地を上ると神明氷川神社。中野新橋にある本郷氷川神社分祀したもの。いつだったか神明氷川神社辺りを彷徨ったとき、中野新橋に下る道筋に川島地蔵尊があった。中央の地蔵尊は亨保10年(1725)この辺りの川嶋村の住人により、また、両脇の六地蔵は宝暦7年(1757)この地の篤志家により建てたれた。地蔵堂の近くの正蔵院には幕末・明治維新の行政官である川住教行が眠る。川住教行の子である元陸軍中尉・川住?三郎は「中野長者の伝説」を調査した人物として知られる。

本郷橋
中野通りを越えると本郷橋。本郷とはその地=郷の中心、と言った意味。江戸から明治にかけて本郷村があり、現在も神田川の北に中野本郷小学校など昔の地名の名残を残す。中野富士見橋で神田川とクロスし山手通りへと一直線で東に通る車道を本郷通と呼ぶ所以でもある。

柳橋・千代田橋・氷川橋
柳橋、千代田橋と進む。千代田橋は昭和42年(1967)まであった千代田町から。向田、神田、千代田など、橋名がこの地の昔の田圃の名残を伝える。千代田橋に続いて氷川橋。北にある本郷氷川神社に因む橋名であろう。本郷氷川神社は文明元年(1469)、太田道灌が武蔵一宮である大宮の氷川神社を勧請したと伝わる。境内の狛犬は親子像。一対は子犬に乳を飲ませ、もう一対は頭をなでる。

氷川神社は全国で261社。そのうち埼玉に162社。東京に68社といったふうに関東ローカルなお宮さま。本社は武蔵一ノ宮である大宮の氷川神社。出雲族の武蔵氏が武蔵国造となってこの地に移ってきたとき、氷川信仰が武蔵の地に普及した。「氷川」の名は出雲の「簸川;現在の斐伊川)」に由来する。もとは、荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたのであろう。
氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置している。森林を開墾し谷の湿地を水田とした人たちが生活のより所として、氷川神社を建てたのであろう。
氷川神社の祭祀圏は荒川西岸。香取神社の祭祀圏は荒川東岸ときっちりと分かれている。散歩を通してこのルールをはずしていたのは、北区・赤羽あたりに香取神社があった1件のみ。

中野新橋・新橋

氷川橋に次いで新橋。欄干が朱に塗られ、かつての花街の名残を残す。花街のはじまりは昭和初期。この辺りは、元は新橋と呼ばれていたようだが、所謂、新橋と区別するため中野新橋とした、と言う。花街が発展したのは地下鉄方南線(丸の内線)の一部が開通し、花街の入り口に駅ができた頃。街を彷徨っていると、貴乃花部屋に出合った。
坂を北に少し上ると福寿院。創建は元応元年(1319)。本尊の薬師如来は弘法大師が彫った二体のひとつ。もう一体は梅照院(新井薬師)に安置したとの伝説がある。福寿院の対面には先ほどメモした旧本郷村の鎮守・本郷氷川神社がある。
逆に坂を南に上り、通から少し東に入ったところに藤神稲荷。ささやかな祠ではあるが、奉

納石碑に「中野新橋三業組合」の銘が残る。三業とは料亭・待合茶屋・芸者置屋の三業種の総称。花街ならではの奉納である。

桜橋・花見橋・月見橋・中ノ橋・皐月橋・桔梗橋・東郷橋
新橋を超えると桜橋、花見橋、月見橋とこれまた風雅な橋が続き中ノ橋に。中橋とも中野橋とも表記される記録が残る。次いで皐月橋、桔梗橋と続き、東郷橋に。昭和42年(1967)頃までこのあたりにあった東郷町、より。本郷の東、と言った意味だろう。桜橋の辺りから川沿いに遊歩道が整備されている。
ところで、中野の地名の由来であるが、武蔵野の真ん中にある郷との説がある。往昔、武蔵野には上野、中野、末野があったが中野郷だけ残った、と(『新編武蔵風土記』)。その他、善福寺川と妙正寺川の中の郷とか、例によってあれこれ。
中野区の地図を見ていて、その形が歪であるのが気になった。南北に長いのだが、北部は頭でっかちで東西に長く延びている。なぜだろうとチェックしていたのだが、その結果、本来はもっと歪になったかも、といったデータが出てきた。つまり、現在新宿区に入っている落合地区(上落合・中井・中落合・下落合・西落合)は中野区に入れる予定であったようだが、「田舎の中野はかなわん」ということで、新宿区に入った、とか。

山手通り・長者橋
東郷橋を越えると山手通りに架かる長者橋に。武蔵野台地の神田川の開析谷を東に進んできた水路は、この長者橋辺りで行く手を淀橋台地に阻まれ、北へと迂回することになる。
長者橋の南に「たから第六天」の祠。以下の成願寺でメモする中野長者である鈴木九郎が建てた、とか。
第六天魔王と言えば、信長の信仰篤き神。こまかいことはさておき、その魔王のもつ破壊的部分が気に入り、常識や既存の価値観を破壊する己の姿をもって、第六天魔王と称した、と。中部・関東に多く、西日本にほとんどみかけないのは、その強力な法力を怖れた秀吉が廃社に追い込んだ、とか。
それはともあれ、神仏混淆の続く江戸の頃までは第六天神社においては、仏教の「第六天魔王」が祭られていた。それが、明治の廃仏毀釈の際、仏教色の強い第六の天魔を避け、祭神を神道系の神々に書き換えたり、第六+天神、を分解し、本来関係のない、天神様を前面に出したケースもあるようだ。

成願寺
長者橋をすこし北にのぼると成願寺。中野長者こと、鈴木九郎の屋敷跡。財宝にまつわる悪行の因縁で失った、ひとり娘のことを深く反省し、仏門に入り、供養のために自宅を寺としたのがはじまり。九州肥前・鍋島家累代の墓もある。鈴木九郎は応永年間、というから14世紀末から15世紀はじめに、熊野よりこの地に来る。もとは、馬喰であった、とか。
この地は多摩と江戸湊、そして浅草湊への交通の要衝。荷駄を扱う問屋場を仕切り勢力をのばす。もちろん、熊野衆であるわけだから、水運を抑えていたわけで、陸運・水運を支配することにより「長者さま」となったのであろう。神田川沿いにある和泉熊野、尾崎熊野、善福寺川沿いの堀の内熊野神社を見るにつけ、熊野衆の勢力を大いに感じる次第。ちなみに西新宿にある十二社熊野神社は鈴木九郎が勧請し、建てたものである。

象小屋の跡
ついでのことで、成願寺を離れ一筋北の道に。朝日が丘児童館の公園(中野区本町2-32))のところに「象小屋の跡」の案内がある。享保13年(1728年)、安南国(べトナム)から吉宗に献上された象だが、餌代なども大変ということで、「浜屋敷」において象の面倒をみていた中野村の農民源助にさげわたされた。
源助は象を見世物として金儲けをたくらむ。が、暖房費をけちったり、当初幕府からもらっていた餌代も、金儲けしているのであれば、ということで打ち切られ、3年もたたないうちに死んでしまったと。それにしても、長崎に到着した象は2ヶ月かけて江戸まで歩いてきた、と。街道は大騒ぎ。京都では天皇や法皇も見物にきた、とか。
ところで、この象小屋、名代官の川崎平右衛門と深い関係がある。川崎平右衛門は、もとは府中押立村の名主。農民を保護し、農営指導するその力量を評価され、享保年間、大岡越前のもと武蔵野の新田開発、というか立て直しに尽力した。
その川崎平右衛門と象小屋の関わりであるが、13年ほどは幕府が飼育するも、維持費が大変、ということで中野村の源助に払い下げられた、と上でメモした。が、正確には下げ渡しに際し、希望者の中から選ばれたのが川崎平右衛門。縁故者の百姓源助が象を見せ物とし、大いに賑わった、とか。
また川崎平右衛門は象の糞尿にて丸薬をつくり、疱瘡の妙薬として売り出した。幕府の宣伝もあり、大いに商売は繁盛し、観覧料や丸薬の売り上げで上がった利益で府中・大国魂神社の随神門の造営妃費として寄進された、と(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』より)。

宝橋・菖蒲橋
長者橋の次は宝橋。中野区最下流の橋。中野長者ならではの橋名である。続く橋は菖蒲(あやめ)橋。菖蒲橋の先、神田川右岸に大きな排水口が見える。これは和泉川と呼ばれる流れが神田川に注いだところである。
水道道路が杉並の和泉から新宿の淀橋浄水場所へと向かう始点、現在の和泉給水所辺りを谷頭、源流点とし南・北の二流に別れ甲州街道と南台・弥生町の台地に挟まれた窪地を流れ、途中で、玉川上水からの分水も含め、幾つもの窪地からの細流を集めながら渋谷区本町あたりで二流が合わさり、南台・弥生町の台地が切れた辺りで神田川に注いでいた、とのことである。
神田川の排水口から少し南に入ったところに、羽衣橋跡があり、その西に温泉スパ「羽衣の湯」がある。この銭湯は「"あなたはもう忘れたかしら.....♪"」で知られるヒット曲、"神田川"の舞台となったところ。ヒット当時の1973年(昭和48)の銭湯の面影は、今は、ない。ちなみに、「神田川」の記念碑は桃園川と神田川との合流点近くに建つ。
菖蒲橋から下流の小滝橋まで神田川の左岸が中野区、右岸が新宿区となっている。また、菖蒲橋の南に下状突起のように渋谷区境が突きだしている。丁度羽衣の湯の裏手辺りである。往昔の神田川はこの辺りで蛇行していたようで、その流路が上流が本郷村(中野)、下流が角筈村(新宿)、舌状突起の部分が幡ヶ谷村(渋谷)といった行政区域の境となっていた名残ではあろう、か。




相生橋・豊水橋

菖蒲橋を越え、和泉川跡からの排水口を見やりながら先に進み相生橋を越え、更に新宿側の字名を残す豊水橋に。豊水橋の先、神田川右岸にある淀橋変電所脇に如何にも水路跡といった緑道が残る。北に戻ると十二社熊野神社前、十二社池の下バス停のところに出る。その昔の玉川上水からの助水路跡であり、淀橋浄水場からの排水路としても利用されていた、とのことである。

青梅街道・淀橋
豊水橋を越えると青梅街道に架かる淀橋に。この橋、「姿見ずの橋」などとも呼ばれていた。「姿見ずの橋」の名前は、上でメモした熊野からこの地に移り住み中野長者と呼ばれるほどになった鈴木九郎に由来する。財宝を隠し場所に運んだ下僕を、そのありかを隠すべくこの橋で殺したため、その姿が見えなくなったから、とか、父親の悪行のゆえ婚礼の直前に呪われて蛇となり、それを悲しみ長者のひとり娘が投身自殺。ためにその姿が見えなかったことに由来する、とか諸説あり。こういった伝説もあり、後世、婚礼の時、花嫁はこの橋を避けて嫁入りした、と言う。

淀橋、となった由来も諸説あり。鷹場に向かう途中、「姿見ずの橋」を通った徳川家光か、徳川吉宗か、いずれにしても将軍家が橋の名前の由来が不吉であるとして、淀川に似ていたことから淀橋と改名した、との説。また、川の流れが淀んでいたので淀橋と家光が名づけたとか、豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移してきた村であり、ここに架かる橋を「余戸橋」、さらには淀橋となったとか、柏木、中野、角筈、本郷の4つの村の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化したなど諸説あり定まる所なし。
淀橋には昔水車があった。淀橋の水車と呼ばれるが、ペリー来航をきっかけに火薬製造の原料を搗き立て(つきたて)ための活用。が、嘉永7年(1854年)大爆発をおこした、とか。この年には板橋、牛込、世田谷の水車小屋も同様に爆発を起こしている。「よどみなき世に淀橋の水車 めぐり来たりける天のわざわい」と狂歌に詠まれる(『神田川朝日新聞社会部編(未来社)』)。

成子坂・成子天神
淀橋の少し東に成子坂下交差点。これって濁り酒の商いの合図に「鳴子」を取り付けたことが名前の由来のようだ。成子坂下交差点の少し東の街道脇に成子天神の石碑。ビルに囲まれた細長い参道を進むと本殿がある。延喜3年(903年)の創建と伝わるこの社は、祭神は菅原道真。建久8年(1197年)に源頼朝が社殿を造営したとも言われるが、詳しいことは不明。ちなみに、菅原道真の係累も将門との関わりも、結構深かった気がする。
富士塚が本殿の裏手にあるとのことだが、普段は公開していないようだ。神社は神楽坂散歩のときに赤城神社で見たような、境内敷地に高層マンションを建設する計画があるよう。本殿もそのうちに赤城神社のようなモダンな風情と変わってしまう、かも。

十二社・熊野神社新宿中央公園脇の熊野神社交差点そばに新宿十二社熊野神社。室町の頃、中野長者こと鈴木九郎が熊野三山より十二所権現を勧請し祠を建てたのがはじまり。はじめは若一王子宮を祀るも、その後家運が盛んになるとともの、十二所権現すべてを勧請した。十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12神となる。

江戸の頃は熊野十二所権現社と呼ばれ、八代将軍吉宗が鷹狩りの折りには参拝し、湧水や滝を配した十二社の池の景観は江戸の景勝地となり、文人・墨客が足を運んだ。境内には蜀山人(太田南畝)が奉納した水鉢がある。因みに、十二所が十二社となったのはこの蜀山人に拠る、とも。蜀山人が「熊野三山十二叢祠(そうし)」といったのがもとで、「十二社」じゅうにそう)」と呼ぶようになったと、とか。
本殿横裏にある大鳥三社の狛犬は。お腹の下がくり抜きになっていない珍しい狛犬として知られる。また、十二社の池が江戸の景勝地であったことを記念する十二社の碑が鳥居近くにあった。嘉永4年(1851)に建てられたものである。 熊野神社は全国で3800ほどあるとも言われる。1042の熊野神社の勧請時期を調査した資料によれば;奈良時代以前 112社(11%) / 平安時代248社(24%) / 鎌倉時代102社(10%) /南北朝時代45社(4%)/室町-戦国時代239社(23%) /江戸時代270社(26%) /明治以降26社(2%)、となっている。

室町から江戸にかけての勧請がほぼ五割。熊野信仰の発展に伴って、というか、熊野神社の全国展開と相まって、というか、互いの相乗効果というか、ともあれ熊野神社フランチャイズが全国に ひろまったわけだ。東京には47の熊野神社。神社以外にも王子、とか八王子とか、音無川(石神井川)とか、飛鳥山(熊野新宮の飛鳥社をこの地に勧請)といった地名が残る。
全国でもっとも多いのは千葉県。268の熊野の社がある。で、先日、まったく別の機会に読んだ『幻の江戸百年(鈴木理生;筑摩書房)』に熊野信仰の全国展開に関する非常に納得感のある記事があった。メモする;
1.熊野信仰は、全国的に海岸地帯に多くの末寺が分布するという形で普及した。
2.それは源平、南北、戦国時代まで、勇名を馳せた熊野衆と呼ばれる強力な水軍の存在と表裏一体。
3.普及の方式は;熊野側は御師・先達制度を形成し、各地の信者と結びつくとともに、熊野に中心をもつ修験道の山伏姿での海陸両面からの伝道活動。御師とは御祈祷師のこと。全国各地に檀那(信者)を作って教導。檀那が参拝の折には拝礼、祈願の仲立ちのほか、宿泊などの世話もする。先達とは参詣の道先案内人、といったところ。
4.御師は地方相互間のコミュニケーション伝達者であり、商業活動の要素を併せ持つ存在。市庭(>市場)の多くは、社寺境内に成立>市場>中世都市5.熊野信仰に関する最も古い資料;九条兼実『玉葉』1164-12005年11月15日に現れている。つまり、源平争乱の時代>広範囲に移動できる時代。
6.熊野を中心に日本列島の沿岸は、非常に広範囲に熊野信仰の拠点がつくられ、それを中心に伝道と商行為が継続的に行われる社会的成熟が見られた。つまりは熊野信仰の拡大=熊野神社の拡大は、単に宗教的活動だけではなく、経済行為・活動と不即不離の形でおこなわれた。また同時に大交通時代の始まりの時期でもあり、人・物の交流が活発になった時代背景も大きく影響している。
で、この熊野神社の全国展開に力を発揮したのが鈴木さん。熊野三党として鈴木氏、榎本氏、宇井氏の三氏があるが、もっとも商売上手だったのが鈴木さん、だったのではなかろうか。全国に熊野商法(神社&商行為&イベント請負=熊野詣の団体参拝)といったことで商圏を拡げ、全国の熊野神社関係の「有力者」に。
全国に鈴木姓が多い理由も、この熊野神社の有力者と大いに関係あるのではないだろうか。つまりは、明治になって国民すべてが姓を使 うようになったとき、「地元有力者=鈴木」って刷り込みがあり、「おらは鈴木にする」ってことになったのではなかろうか。ちなみに新宿の十二社というか熊野神社は室町時代に鈴木九郎さんが故郷の紀州熊野三山から、十二所権現を移して、お祀りしたもの。中野長者とも呼ばれる。いろいろな説はあるけれど、熊野神社を核とした商売で財を成した、と思う。
また、熊野神社の神官として豊島・王子の地にすんだのも鈴木さん(鈴木権頭光景)。東京ではないけれど、有名どころとしては鉄砲を駆使し信長を苦しめた雑賀孫一も本名は鈴木である。

十二社の池
十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小つの池を開発したもの。熊野神社の西、十二社通りを隔てた辺りにあった。大池(中池・上の溜井)は南北126間・東西8~26間。水源は湧水であった、とか。十二社には、いくつかの滝があったと伝わる。このうち十二社の大滝は、『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記され、高さ三丈・幅一丈とも。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け作られた神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところにできたもの、と言う。先ほど、豊水橋の東側を熊野神社に斜めに走る玉川上水の助水路が熊野神社北の熊野池の下バス停辺りに向かっていたが、そのバス停辺りに滝があったのだろう、か。
滝は池とともに景勝地として知られ、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の『怪談乳房榎』の中で、この滝を登場させている。;「ご案内の通り新宿の追分から左へ切れて右へ右へとまいりますので、此処は新宿の賑やかさに引き換えまして、角筈はもう家もまばらで畑が多うございます。十二社の入口は大樹の杉が何本となくありまして、遠くから滝の音が聞こえます。この角筈村の十二社権現の滝と申しますのは、滝壷は只今では滝の巾も狭く高さもいたって低くなりましたとやらで、上水の流でございますから、人が懸かるの浴びるのというわけには相成りませんとやらにききました。最もこの他に滝が二筋もありまして、ここへは誰でも懸かれますから、夏の頃は随分群集しますそうで」、と。明治末期の十二社の姿である。滝の多くは、明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋め立てられた。
池の周囲には享保年間(1716~35)より多数の茶屋ができ景勝地として振るわい、明治時代以後は料亭が並び、花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われたが、昭和43年(1968)7月に埋め立てられた。
大池の北側に隣接する小池(下池、下の溜井)は、大池の分水で、南北50間・東西7~16間。昭和の初期より一部の埋め立てが行われ、第2次大戦中には完全に埋め立てられた(新宿十二社HPより抜粋)。
十二社の池の名残を求めて、十二社通りの西の一画を彷徨う。熊野神社の交差点近くではあるので、下の池の辺りかとも思うが、台地から下る石段、小料理屋、出合茶屋の名残といったホテルなど、それらしき雰囲気を感じる。

淀橋浄水場跡
熊野神社のある新宿中央公園の東、西新宿の高層ビルが建つ一帯にはかつて淀橋浄水場が拡がっていた。その面影は、今は、ない。「新宿の青梅街道口にて電車を下り、青梅街道を西は二三町ゆけば、淀橋浄水場あり。(中略)二個の大烟突、高く空に聳ゆ。多摩川上水の水、ここに来り、ためられ、瀘され、浄められ、蒸気ポンプの力にて鉄管に汲みあげられて、都下に文流す。烟突はその蒸気力をつくるためにのみ用立つもの也。人の身体にたとふれば、ここは心臓にして、全都の地下にひろく行きわたれる大小の鉄管は、なお血管の如し」。これは明治から大正にかけて多くの紀行文を表した大町桂月の『東京遊行記』(1906)にある、淀橋浄水場の情景である。
また、田山花袋は、『時は過ぎゆく』の中で、泥土の中で働く工夫、広い地面に、トロッコの軌道が敷かれや水道管が積まれる淀橋浄水場の工事を描く。(『東京の30年』に記載との記事もあるが、所有する文庫には、その記載は、ない)。
淀橋浄水場があった一帯は江戸の頃、館林秋元家の抱屋敷(下屋敷?)であり、秋元家の下級武士の出であった田山花袋は、秋元家の文書筆写の内職のため新宿内藤町の家から角筈村の旧秋元家屋敷に通 っていた。『東京の30年』に「川そいの路」というコラムがあるが、そこには「丁度其頃、私は毎日新宿の先の角筈新町の裏を流れる玉川上水の細い河岸に添つて歩いて行った。私は小遣取りに、一日二十銭の日給で、さる歴史家の二階に行つて、毎日午後三時まで写字をした」とある。浄水場となる角筈のあたりを頻繁に歩いていたのだろう。それはともあれ、当初浄水場の建設予定地は、この秋元家の屋敷があった淀橋の地ではなく、この南、千駄ヶ谷村の宇都宮藩旧戸田屋敷であったようだ。明治維新の混乱期における上水管理体制の不備や、江戸時代を長きにわたって使ってきた、木樋の腐食による水質汚染もあり、玉川上水の汚染が大きな問題となってきた。また、明治19年(1886)のコレラの大流行での大きな被害も契機となり、近代水道の設置を迫られた政府は、オランダ人ドーソン、イギリス人バルトン氏、パーマ-氏などを起用し水道設置計画を立案し、千駄ヶ谷村をその候補地とした、とのこと。この構想では、旧玉川上水の水路の流路を利用するものであり 、計画は明治23年(1890)に決定された。
当初の予定地の千駄ヶ谷村から、この淀橋の地に変わったのは日本人技師・中島鋭治氏の提言による。綿密な測量により、千駄ヶ谷の浄水場計画地は「凸凹高低がひどく、たくさんの盛り土を必要とし、綿密な構造が不可欠な沈殿池や濾過池としては危険である」、とした。明治24年(1891)には、この提言が認められ、「千駄ヶ谷村を淀橋に、麻布と小石川に建設予定の給水所を本郷と芝に」「但し、淀橋浄水場より以西2000余間は新たに水渠を開鑿する」という計画に変更された。玉川浄水新水路はこの提言に基づいて建設されたものである。淀橋浄水場には4つの沈殿池,24の濾過池、そして、大町桂月の『東京遊行記』に描かれた蒸気を発生される大煙突があった。水道は蒸気ポンプで加圧し、高地給水地域に給水。低地給水地域には、本郷給水所より自然流下で給水した、とのこと。なお、浄水場を千駄ヶ谷から淀橋に変えたことにより、浄水場標高が5m高くなり、結果的に蒸気ポンプ動力の負担減となった、と言う。また、蒸気を発生させる大煙突は東京の近代化のシンボルともなった、とのことである。工事は明治25年(1892)、神田川への余水吐工事からはじまり、浄水場の建設と平行し、明治26年(1893)、代々幡村本村(本村隧道)、下村の道路築堤(本村隧道)、北笹塚道路築堤(中野通りにあった隧道)の建設が始まり、明治31年に完成。当初は神田区、日本橋区のみへの給水であったが、翌明治32年には市内全域に給水するようになった。
この淀橋浄水場も、昭和35年(1960)東村山浄水場が完成するにともない、その機能を徐々に移し、昭和40年(1965)にはその役割を終えた。

本日の散歩のメモはこれでお終い。一路家路へと新宿駅に向かう。


水曜日, 2月 01, 2012

神田川散歩そのⅡ;環八・佃橋から環七・方南橋まで

神田川散歩そのⅡ;環八・佃橋から環七・方南橋まで
 神田川散歩の二回目。今回は環八から環七までの神田川散歩をメモする。大雑把に言って、杉並区の高井戸東からはじめ、浜田山、永福町、和泉へと、武蔵野台地を開析した神田川の谷筋を下ることになる。台地と谷筋の比高差は5mから10mといったところ。この地域も台地崖線下からの湧水なども多く、井の頭池からの水源に流れを加え南東へと下り、永福と和泉の境辺りに至り、流路が台地に阻まれ、流路を大きく北に変える。北に切り返す辺りは、勾配が緩やかなことも相まって、その昔は大きな池があったようであるが、大池に注いだ神田川はその下流でも池や沼の湧水を集め、崖線に沿って環七辺りへと下ってゆく。


杉並は標高50mから30m、武蔵野台地であった「平地」と、神田川や善福寺川、そして神田川・善福寺川水系に注ぐ小さな川が掘り刻んだ谷筋の低地、そして、台地と谷筋との境界にある坂道と、結構うねりに富んだ地形となっている。現在は川の両岸はびっしりと家が建ち並び、元々の比高差5m程度の地形のうねりを感じるのは結構困難ではある。カシミール3Dでつくった地形図や、GOO(ポータルサイト)の昭和22年航空写真、そこには神田川の両岸は田畑が広がるのみで人家とて一軒もない田園風景ではあるが、これらの地形図や写真で往昔の景観を想い描き、時空散歩に出かけることにする。

本日のルート;井の頭線・高井戸駅>杉並清掃工場>正用橋>池袋橋・三泉淵>乙女橋・三井の森>柏の宮公園>堂ノ下橋>塚山公園・高井戸塚山遺跡>鎌倉橋・鎌倉街道>堀兼の井>下高井戸・浜田山八幡>かんな橋・下高井戸用水排水口>永福橋・永福寺池跡>永福寺・永福稲荷>永泉橋・和泉中学校>龍光寺・龍光寺下の湿地>宮前橋・和泉熊野神社>貴船神社・御手洗の池>大円寺>文殊院>弁天橋>方南橋・環七

井の頭線・高井戸駅
自宅を出て、井の頭線高井戸駅で下車。高井戸の地名の由来は諸説ある。杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』によると、村内に小字・堂ノ下というところがあり、そこに昔、辻堂があった。今はその跡もないのだが、その昔、辻堂の傍らに清水があり、小高い地の冷泉であったので、高井戸と呼ばれた、と。また、16世紀の中頃、この地に住んだ御家人・高井氏の土地、ということで「高井土>高井戸」、その高井家が開いた高井山本覚院にあった不動堂「高井堂」が高井戸に転化したなど、例によって諸説ある。なお、高井山本覚院は明治の廃仏毀釈の時、明治44年、宗源寺(下高井戸4-2)に移された。
高井戸と言えば、甲州街道の2番目の宿で知られる。高井戸宿は下宿と上宿に分かれ、下宿・下高井戸は現在の桜上水駅辺りが宿の中心。上宿・上高井戸は京王線八幡山の先となる。慶長5年(1601)、徳川幕府により江戸と甲府を結んだ甲州道中に設けられた高井戸宿では、月の前半を下高井戸村、後半を上高井戸村が助郷を務め、伝馬25頭、人足25人が常置していた、とか。江戸を立った旅人の最初の宿場でもあったため、24軒の旅籠が軒を連ね結構な賑わいであったようだが、新宿に宿が開かれるに及び、次第に廃れていった、と言う。

杉並清掃工場

駅を下りると環八の東、神田川の左岸には高い煙突が見える。東京ゴミ戦争で物議をかもした杉並清掃工場である。東京ゴミ戦争とは、この地に計画された清掃工場建設が地域住民の反対によって進まなくなり、杉並区のゴミを受け入れていた江東区は、それを地域エゴとして、杉並区からのゴミの搬入を実力阻止したという騒動である。昭和47年に起きたこの事件がきっかけとなり、その後ゴミの自区内処理の原則が確立された、という。
この杉並清掃工場も昭和49年には和解が成立し、昭和53年に工事着工、昭和58年に創業を開始した。工事中には縄文時代の遺跡が見つかり、「高井戸東遺跡」と呼ばれている。普段清掃工場辺りを歩いても搬入トラックの姿が見えないと思っていたのだが、搬入口は環境を考慮して、井の頭通りと環八通り交差点から専用の地下道を通って工場に入る、とのことである。

杉並清掃工場の西、区立高井戸地域区民センターの敷地辺り、かつて高井戸の大名主・内藤家の屋敷内に「富士見園(高井戸3-7)」と名付けられた小池があった、とのこと(『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』;以下『杉並の川と橋』)。現在も公園内に人工の小池が残る。このあたり一帯は内藤家の土地であり、清掃工場の敷地も、そのおよそ半分が内藤家の所有地であった、とか。内藤家は「高井戸丸太 杉の丸太なり、細きこと竹の如し。上品にて吉野丸太と同じ。江戸にて作事に用うる良材とす」と『武蔵野名所図会』に称された良質の杉の植林に貢献した、とのことである。昭和22年のGOO航空地図を見るに、杉並清掃工場の北辺りに、鬱蒼とした林が見える。内藤家の屋敷であり、杉林であろう、か。

正用下橋(しょうえい)

高井戸橋を越えると「正用下橋」。江戸の頃、このあたりの小字に正用、正用裏、正用下といった地名があった。「正用」の由来は『地名の研究;柳田国男』によれば「正用、正邑、築田、佃は、いずれも(中世)領主の直轄地に付けられた地名である」と記す、とある(『杉並風土記』)。
環八に架かっていた「佃橋」も佃は、庄園などの領主の直営田のことであり、新たに開墾した「作り田」にはじまる、といったことであり、このあたりにはそのような荘園領主の直営田が開墾されていたのではあろう。

 









池袋橋・三泉淵
正用橋を越え、池袋橋に。『杉並の川と橋』によると、江戸期の「神田上水絵図」に「池袋」の記録が残る。絵図を見るに、風船のような丸い池が狭い口を通して神田川と繋がっている。また、小字に「池袋」の地名も残る。

「袋」とは、水の巻いている所とか。川などの出口がない所、とか。高井戸東1-16辺りには三泉淵(三田釜;さんぜんかま)と呼ばれる湧水地があった、とある。『武蔵名所図会』に、「往古は古き沼にして大蛇住みけり・村民弥五左衛門が先祖なるもの草刈りに出かける時如何にしたりけん。大蛇の頭を鎌にて切り落として、その大蛇死したればそれより水枯れて、今は僅かに五間四方なり。いまもその真中は深さ六、七尋余もありという」、と。また、『新編武蔵風土記稿』では「北辺に廻り九尺許の古井戸みゆる所あり。土人の伝えには昔はかかるさまもあらで、広かりし池にてありしや」とあって大蛇伝説も記されている。
三泉淵(三田釜)を求めて、辺りを彷徨う。手掛かりとしては、環八の神田川右岸から東へと続く水路跡の雰囲気を残す細路がある。道なりに先に進み日本郵政高井戸レクリエーションセンターグラウンドまで進み、グランドのフェンスに沿って神田川へと向かうと、池袋橋の少し東、グランドの西北端の一隅にささやかな祠が見える。フェンス越しに弁天社とあった。この辺りが三泉淵(三田釜;さんぜんかま)のあった辺り、とか。その昔、このグランドは池袋の名前が示す広き沼・池が広がっていたのだろう。
フェンス越えに弁天様にお参りし、フェンスに沿って久我山運動場グランド南の崖線下を進む。高井戸小学校下を過ぎ、都営アパートがあるあたりに「三泉淵緑地」が残る。緩やかな崖面につくられたささやかな緑地ではあるが、「三泉淵」の名前が残るだけで、何となく嬉しい。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)








乙女橋・三井の森

グランドをぐるりと廻り神田川に戻ると「乙女橋」。橋を渡り川の左岸にある三井の森公園に。崖線の斜面林にあるささやかな入口から公園に入る。この地は、もともとは昭和11年より70年に渡り旧三井グループの運動場であった。が、バブル崩壊にともない、その福利厚生施設を処分し、西側と南側の森を杉並区の公園として整備したもの。運動場の敷地は三井不動産によって宅地開発されている。宅地開発まえの森の広がりは失われたが、落ち着いた街並みがつくられつつある。『杉並の川と橋』には、乙女橋西には天水田圃があり、この辺りには多くの湧水があった、とか。

柏の宮公園
三井の森公園の崖線に沿って東に進むと、崖線下には現在でも湧水池が見られる。段丘や崖線の説明とともに、柏の宮公園や、神田川の右岸の塚山公園の崖面下の湧水の説明があった。崖下の湧水は自然のままの雰囲気を残し、湧水もジワジワ、といった風情がなかなか、いい。
この湧水のある崖上には宅地開発された一帯が広がり、この湧水のある辺りは三井の森公園の一部なのか、その東に広がる柏の宮公園の一部なのか定かではないが、それはともあれ先に進むと柏の宮公園になる。この公園は日本興業銀行の所有地であったが、バブル崩壊時の銀行再編でみずほ銀行と統合される際に杉並区に売却され区の公園となった。杉並区では最大の公園となっている。道路に沿ったフェンスの向こうに庭園が見える。フェンスに狭い入口があり、そこを抜けると池に大石が配置された日本庭園があった。この庭園は、元々は寛永年間(1624年から1643年)、若狭小浜藩主・酒井忠勝公が新宿矢来町にあった酒井家下屋敷に小堀遠州の手によって造営されたもの。その後、酒井家の下屋敷の敷地を所有した日本興業銀行の頭取が、この地に茶室を復元し、茶室を移築復元し「林休亭」と名付けた、とか。

もっとも、『杉並風土記;森泰樹』によれば、「大正中頃に横倉善兵衛(よこくらぜんべえ)氏が整備して数奇屋を建て、「柏ノ宮園」と呼んで東京各地から文人墨客を招待して、歌会や観月会を行った。昭和初期には絵葉書にも紹介されるほど有名なところになった」との記事がある。横倉善兵衛氏は高井戸では先述の内藤家と並ぶ大地主であり、三井グランド辺り一帯の土地持ちであったとのことであるから、興銀が取得する前にもそれらしき庭園があったのか、とも思える。因みに、戦時中、海軍の帝都防衛隊が使用し荒れ果てたこの地を、昭和25年に横倉氏が興銀に売り渡した、とある(『杉並風土記:森泰樹』。以下『杉並風土記』)。
なお、柏の宮、といった如何にもありがたそうな名前は、室町時代の武将・太田道灌の命により、その家臣・柏木左右衛門が鎌倉の鶴ヶ丘八幡を勧請し建立した柏の宮、現在の下高井戸・浜田山八幡に由来する。江戸の頃は此の辺りを「柏の宮」と呼んでいたようである。

堂ノ下橋
柏の宮公園を少し西に戻り、神田川に架かる「堂ノ下橋」に。橋の名前の由来はよくわからない。わからないが、橋の北側の小字は堂の上とか堂の下、また寺前とよばれていたと言う。現在は人見街道に沿ったにある松林寺(高井戸東3-34-2)は開創当時、この堂ノ下橋の北側にあった、と言う。松林寺がそのお堂かどうかは定かではないが、ともあれお寺かそのお堂があったのがその名の由来だろう。因みに、上でメモしたように、堂ノ下にあった辻堂が、高井戸の地名の由来、との説もある。

塚山公園・高井戸塚山遺跡

「堂ノ下橋」から神田川右岸を東へと進むと塚山公園。公園の崖下に人工の池が造られているが、これって『杉並の川と橋』の言う、往昔の湧水のあった辺りだろう、か。
公園に入り、池をぐるりと廻り、池の南側に向かうと高井戸塚山遺跡がある。縄文時代の住居のモニュメントも建つ。井の頭公園の御殿山遺跡、高井戸の高井戸東遺跡、そしてこの高井戸塚山遺跡など、神田川に沿った台地には遺跡も多い。杉並南部を流れるこの神田川流域に限らず、杉並北部の妙法寺川や中部を流れる善福寺川流域を合わすと、杉並区内の縄文時代の遺跡の 数は200を越える、という。水辺の台地には古くから人が住んでいた、ということ、か。
なお、『杉並風土記』によれば、この地は長らく朝日新聞の農園であり、朝日農園と呼ばれていたようであるが、昭和48年、朝日新聞社はこの地と築地の国有地と交換。国は大蔵省の官舎を建設予定であったが、住民の反対運動の結果、官舎建設は中止となり、杉並区に払い下げられることになった、と。

鎌倉橋・鎌倉街道

塚山公園の東に鎌倉橋。甲州街道・鎌倉街道入口より浜田山方面へと進む古の鎌倉街道の道筋、とのこと。『武蔵名所図合会』には「上高井戸の界にあり。古えの鎌倉街道にて(中略)いまは農夫、樵者の往来道となりて、野径の如し」とある。往昔、鎌倉・室町の頃は東国御家人が鎌倉へと往来したのであろうが、江戸の頃には廃れ、「野径の如し」といった状態となっていたようである。鎌倉橋の少し南、神田川に沿ってうねる水路跡らしき細路が下高井戸運動場の手前まで続く。神田川の昔の流路跡であろう、か。

堀兼の井
「梢橋」、「藤和橋」を見やりながら進む。『杉並の川と橋』によれば、「鎌倉橋」の東、浜田山1-5辺りには「堀兼の井」があった、とある。『杉並風土記』には「昭和11年頃まで直径4mほどの湧水池があったが、30年頃に埋め立てられた」と描かれている。昭和22年のGOO航空写真には、それらしき影が映る。
堀兼の井、とは言うものの、井戸を掘るような地形ではない。神田川左岸の崖下からの湧水で出来た池ではあろう。また、堀兼の井は文明18年(1486)、東国を巡歴した聖護院門跡の道興準后の紀行文『廻国雑記』に記されるが、その場所は諸説あるも、狭山市の堀兼神社に残るものとの説が有力である。この地の堀兼の井は、江戸の頃、掘兼の井を聞きかじった誰かが、この地の池にその名を冠したもののようである。因みに、聖護院門跡って、山伏の元締め、といったもの。東国巡行は、組織引き締めの目的もあった、とか。

下高井戸・浜田山八幡
先に進むと「八幡橋」。橋の手前の神田川右岸には下高井戸・浜田山八幡の鎮守の森が見える。柏の宮のところでメモしたように、この社は太田道灌が江戸築城の際、工事の安全を祈念し、家臣の柏木左衛門に命じて鎌倉の鶴岡八幡を勧請して建立したもの。境内には稲荷社、天祖神社、御嶽神社、祖霊社が合祀されている。また、先ほどの鎌倉橋の名前の由来も、鎌倉の鶴岡八幡を勧請したこの社の近くにあった、とする説もあるようだ。

浜田山この辺り、神田川の北側は浜田山。浜田山の地名は江戸の頃、内藤新宿の商人である浜田屋弥兵衛に由来する。浜田屋は浜田山4丁目の杉並南郵便局辺り一帯に松やくぬぎの林(此の辺りでは「山」と呼ぶ)を持っていたようである。そこには一族が眠っており、お彼岸には浜田屋の一族がこの地を訪れ、仏の供養へと村の子供たちにお菓子や銭を配り、それはもうお祀りのような騒ぎでもあり、一躍「浜田山」という名が有名になった。浜田屋は明治に米相場に失敗し没落したが、浜田山は小字として残った、と言う(『杉並風土記』)。

かんな橋・下高井戸用水排水口
「むつみ橋」、「弥生橋」、「向陽橋」、「幸福橋」と続く神田川の左岸は西永福。西永福近辺は江戸の頃から武州多摩郡永福寺村水久保と呼ばれていたようだ。久保は窪。水が湧き出る土地である。永福町となったのは昭和7年のことである。
荒玉水道道路に架かる神田橋を越え、「かんな橋」に進むと、大きな排水口が見える。これは下高井戸用水が神田川に注いでいたところ。下高井戸用水は、甲州街道の鎌倉街道入口交差点の少し西辺りからはじまり、鎌倉街道を東西に横切り、街道の東を街道に平行に北に進み、塚山公園の南東、下高井戸4-23辺りで東に流路を変え、向陽中学の南を進む。荒玉水道道路を越えると、東電総合グランドの南を進み、グランドと都立中央ろう学校の間を北に向かい神田川に注いでいる。
水路跡を辿るに、車止め、周囲との若干の段差、道のカラー舗装の水路跡3点セットのうち、カラー舗装はなかったが、神田川排水口から甲州街道の分水口らしきところまで、車止め、周囲との若干の段差を頼りに迷うことなく行き着いた。
因みに、都立中央ろう学校の上には吉田園(下高井戸2-19)と呼ばれる、池と花菖蒲の庭園、そして湧水を利用したプールなどを設けた娯楽庭園があった。このあたりは淀橋上高井戸水爆布線上にあり湧水点が高く、数m掘ればすぐに湧水が出た、と言う(『杉並の川と橋』)。

永福橋・永福寺池跡
「かんな橋」を越えると「永福橋」。井の頭線永福町駅前交差点から甲州街道・下高井戸駅入口交差点を結ぶ都道427号、通称永福通りに架かる。この「永福橋」の辺りにはその昔、永福寺池と呼ばれる池があった、と言う。明治に編纂された「東京通誌」には、「神田上水 源ヲ北多摩郡三鷹村(牟礼)井頭池ニ発シ東流東多摩郡高井戸村(久我山) ニ入リ、同村(上高井戸・下高井戸)ヲ経テ、和田堀之内村(永福寺)ニ至リ、永福寺池ノ下流ヲ併セ、同村(和泉・和田)ニテ善福寺川ヲ併セ中野村(雑色・本郷)ヲ経テ...」、とある。
井の頭の池を水源とし、途中幾多の支流を合わせた神田上水は、永福寺池に注ぎ、更に下流に下ったとのことである。池の規模は結構大きく、西端はこの「永福橋」あたり、東端は神田川が井の頭線と交差するあたりであった、とも言う。もっとも、地形図を見るに、中間の「永高橋」の辺りは神田川左岸の台地が川脇までせり出しているようにも思えるので、池は二つにわかれていたのかもしれない。地形図故の推論であり、根拠、なし。
その昔、永福寺池のあった辺りには、現在、「永福橋」、「ひまわり橋」、「永高橋」、「明風橋」、井の頭線のガードを越えたところには「蔵下橋」が架かる。蔵下は、現在の明大和泉校舎がある台地には江戸幕府の硝煙蔵があったと言う。その台地下ということで、蔵下なのだろう、か。
それはともあれ、井の頭の池からおおむね南東へと下ってきた神田川は、「永福橋」を最南端として、流路を北に向ける。地形図を見るに、東西、そして北を台地で囲まれているわけであり、護岸工事もない当時は穏やかな勾配の川は水を留め、池となっていたのであろう、か。昔の地名は小字・曽根の辺りだろうか。曽は「高いところ」の意。曽根は「高いところの根=下」ということであるから、台地下の低地、といった意味(『杉並風土記』)。

永福寺・永福稲荷永福寺池北の台地上には永福寺。永福の地名の由来ともなったお寺様。大永二年(1522年)開山の古刹。戦国時代は北条氏家臣ゆかりの所領であった、とか。北条氏滅亡後、検地奉行であった安藤兵部丞が帰農し当寺を菩提寺とし現在にいたる、と。 杉並最古の庚申塔がある。近くの永福稲荷は享禄三年(1530)永福寺の鎮守として創建。明治11年頃神仏分離令により現在の場所に移転、村の鎮守様に。

永福・和泉
此の辺りの永福・和泉の歴史は古い。永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」には高井堂(高井戸)とともに永福寺(永福町)が中野郷に属すると考えられる記述があるそうだ。また、宝徳3年(1451年)の「上杉家文書」には和田、堀の内とともに泉(和泉)が武蔵国中野郷に属する、との記述がある。東端の井の頭線のガード北の永福町駅方面へと上る道は古くからの道であり、また、西端の永福町通りも、大山道(世田谷通り)の世田谷宿(世田谷線上町駅付近)から、世田谷八幡、豪徳寺を経て、大宮八幡へ向かう古くからの道であった、とか。
江戸の頃は、和泉村、永福村の大部分は旗本五百石・内田氏の領地。和泉村と永福村の一部は幕府直轄地であった。現在の明大和泉校舎がある台地には江戸幕府の硝煙蔵(火薬庫)があったと言う。直轄地って、その辺りであろう、か。

永泉橋・和泉中学校井の頭線を越え和泉2丁目に入ると、周辺の沼や池からの水も本流に合わさり、井の頭通りに架かる「神泉橋」、和泉中学脇の「永泉橋」、和泉小学校前の「宮前橋」と続く。『杉並の川と端』によれば、「永泉橋」の西側、龍光寺がある台地下の湿地には昭和13年、「泉湧菖蒲園」があった、とか。現在は護岸工事がなされ、湿地跡の名残はどこにもないが、龍光下にあるフェンスで囲まれた芝の一画、春には地域の人が花見を楽しむ辺りは、その昔、湿地であったのだろう。
湿地と言えば、龍光寺対岸の和泉中学校も洪水で悩ませられ続けたと『杉並風土記』にある。同中学の開校10周年の記念誌には「水にはじまって水に終わる。これが和泉中10年の歴史であった」ではじまる。台風の度に洪水の被害を受け、とくに狩野川台風のときには「神田川が氾濫し一面海のようになり、道路も橋も水没し」といった記述がある。

龍光寺・龍光寺下の湿地湧山医王院・龍光寺は真言宗室生寺派の寺院。本尊は薬師如来立像で平安時代末期(十二世紀後半)の造立。開創は承安2年(1172年)、と伝えられる。山号の「泉湧」は龍光寺の少し北にある貴船神社の泉から。院号の「医王」は、本尊の薬師如来から。寺号の「龍光」は神田川の源流・井之頭池に棲む竜が川を下り、このあたりで雷鳴をともども、光を放って昇天したことに由来する、とか。
実際のところ、除夜の鐘のとき以外、このお寺さまに出かけたことはなかった。今回寺域に入り、造作の落ち着いた雰囲気に結構惹かれた。境内裏手には四国八十八箇所巡りもある。いいお寺さまであった。

宮前橋・和泉熊野神社

「宮前橋」を渡る道が台地へと上る坂道の龍光寺と道を隔てた南には和泉熊野神社。旧和泉村の鎮守さま。創建は鎌倉北条時代の文永4年(1267年)、と言う。弘安7年(1284)には、上杉氏を破り江戸を略した北条氏綱が社殿を整えた、と。現在の社殿は文久3年(1863年)の造営。明治4年に修復されている。建築学者からも注目される社殿、落ち着いた境内の雰囲気故か、昭和53年には拝殿内で、「犬神家の一族」の撮影が行われた、と(『杉並風土記』)。境内からは縄文時代後期の土器・打石斧・石棒や,古墳時代の土師器が出土している。また,境内には,徳川家光が鷹狩りの折り、手植えした、との松の大木もある。とはいうものの、初詣、お祭りなど、折に触れてこのお宮さんに出かけているが、手植えの松などは目にしたことは未だ、ない。




貴船神社・御手洗の池

熊野神社の台地下を少し北に進んだところに貴船神社。江戸時代から和泉熊野神社の末社。創建は文永年間(1264~75)とのこと。山城国貴船神社を農作雨の神として勧請したと伝えられる。祭神は「たかおかみ神」。この神は山または川にいる雨水をつかさどる竜神。雨乞い,止雨に霊力があるとのこと。境内に「御手洗の池」。昔はいかなる日照りにも涸れることなくコンコンと清水が湧き出ていた。「和泉」の地名の由来、ともなり、神田川の水源のひとつでもあったこの湧水も、神田川の改修工事や宅地化の影響で昭和40年頃に水が枯れてしまった、とか。江戸の頃は、龍光寺からこの貴船神社がある台地の下の小字は「根河原」。如何にも、台地下(根)の神田川の河原といった地形を著した地名である(『杉並風土記』)。

大円寺神田川から少し離れるのだけれども、神田川左岸の台地上、井の頭線・永福町永福町から一直線に方南通りまで続く商店街の道筋に泉谷山大円寺。慶長2年赤坂に家康が開いた、と。延宝元年(1673年)、薩摩藩主島津光久の嫡子の葬儀をとりおこなって以来、薩摩藩の江戸菩提寺となる。庄内藩士による三田の薩摩藩焼き討ちで倒れた薩摩藩士や、戊辰の戦役でなくなった薩摩藩士のお墓がある。益満休之介の墓もあるとか。「泉谷」という山号がこの地の和泉との関連で気になるのだが、このお寺さまは、その昔、赤坂溜池の辺りにあったとのことではあるので、そちらに由来するものかとも思える。

益満休之介
益満休之介って魅力的な人物。王政復古の直前、西郷が江戸を騒乱状態に陥れるために送り込んだ工作グループの立役者。浪士500名を集め、江戸市内で佐幕派豪商からお金を巻き上げる「御用盗」や、放火、そして幕府屯所襲撃などやりたい放題。幕府を挑発。それに怒った江戸市中見巡組(新徴組)がおこなったのが、上にメモした三田の薩摩藩邸の焼き討ち。この焼き討ちの報に刺激を受け、会津・桑名の兵が「鳥羽・伏見」の戦端を開いた、という説もある。ともあれ、休之介は庄内藩に捕らえられ、勝海舟のもとに幽閉。たが、官軍の江戸総攻撃を前に、無血開城をはかる勝は山岡鉄舟を駿府に送り西郷隆盛と直談判を図る。そのときに、山岡に同道したのが益満。西郷とのラインをもつが故。山岡が西郷との会談に成功したのも、この益満あればこそ、である。その後休之介は体を壊し、明治元年、28歳の若さでなくなった。歴史にIFは、とはいうものの、益満が生きていれば、明治の御世はどうなったのであろう、か。

新徴組
ついでに新徴組。新徴組って、墨田区散歩のとき、本所で屯所跡(墨田区石原4丁目)に出会った。本所三笠町の小笠原加賀守屋敷である。屯所はもう一箇所、飯田橋にもあった。田沼玄蕃頭屋敷(飯田橋1丁目)。新徴組はこの2箇所に分宿していた。
新徴組誕生のきっかけは、庄内藩士・清河八郎による浪士組結成。将軍上洛警護の名目で結成するも、清河の本心は浪士隊を尊王攘夷を主眼とする反幕勢力に転化すること。それに異を唱え清河と袂をわかって結成したのが「新撰組」。結局、幕命により清河と浪士隊は江戸に戻る。清河は驀臣・佐々木只三郎により暗殺され、幕府は残った浪士隊を「新徴組」とし庄内・酒井家にお預け。
当初は存在感もなかったようだが 、文久3年(1863年)に新徴組は歴史の表舞台に登場する。江戸の治安悪化を憂えた幕府が、庄内藩を含む13藩に市中警護の命を下したからだ。が、幕府と命運をともにした庄内藩・新徴組は、戊辰戦役以降,塗炭の苦しみを味わうことになる。

文殊院

神田川脇の遊歩道に戻り「中井橋」、「番屋橋」、「一本橋」、「和泉橋」と先に進む。北に進む神田川が東に向きを変える和泉4丁目の舌状台地のうえに文殊院。本尊の弘法大師坐像は室町末期のもの、とか。縁起によると、寺の起こりは1600年。家康が駿府に開創。1627年に浅草に移り、1696年には港区白金台に。現在地に移ったのは大正9年、とのこと。





弁天橋
和泉橋の次に「弁天橋」。弁天という以上、近くに弁天様であり、水の神様故の池などないものかとチェックする。と、「弁天橋」から少々離れた神田川右岸の舌状台地上、専修大学附属高校脇に和泉弁天社があった。ささやかな鳥居と社からなる境内に池はないが、弁天池の名残なのか、龍の刻まれた小さな水鉢が残っていた。地形図を見るに、水路跡らしき刻みが環七を越えて方南小学校辺りで神田川に注いでいたようである。弁天橋は、弁天社への参道に架かる橋、ということではあろう。

神田川・環状7号線地下調整池弁天橋から方南第一橋、そして環七に架かる方南橋まで、神田川は比高差のある舌状台地に沿って進む。江戸の頃、この辺りの小字は「崕」。高い崖のある地形を著した地名となっている。
往昔は、この辺りにも池や沼があったようであり、その水を合わせ、環七を越え、現在は方南小学校辺りにあった方南田圃を潤した、と『杉並の川と橋』にある。
崖線の対岸、神田川の左岸を進むと、護岸の壁面に水を取り込むための取水口(越流堰;えつりゅうぜき)が見える。これは神田川周辺地域の洪水被害を防ぐため環状7号線の地下につくられた貯水トンネルへの神田川取水施設の取水口。環七下につくられる調整池は第一期と第二期に分けて実施されており、第一期は神田川対策、第二期は善福寺対策を主眼としており、この神田川周辺は梅里に造られた立抗からおおよそ2キロ、地下40mか50mのところに内径12.5mという巨大な貯水池が建設されている。
武蔵野台地を流れる神田川や善福寺川、石神井川流域は急激な都市化の進展により、流域の保水・遊水機能が減少し、集中豪雨の度に多くの水害が発生するようになった。そのため、1時間あたり50mの降雨に対応するように河川整備を行っているとのことだが、神田や善福寺川などの流域は住宅が密集し50m対応の護岸工事に時間を要するため、洪水の一部を貯める施設としてこの地下調整池が建設された、とのことである。現在環七から上流は順次50m対策の護岸工事が進んでいる。

環七
方南橋の架かる環七建設の構想は古く、昭和2年の頃には素案ができている。戦前には一部着工。戦時下になり中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。本日の散歩メモはここまで。通りなれた道筋を家路へと。


神田川散歩そのⅠ;源流点から環八・佃橋まで

神田川散歩そのⅠ;源流点から環八・佃橋まで
我が家のある杉並区和泉の小高い丘の下を、丘に沿って巻くように進む川がある。神田川である。春の桜の頃に限らず、折に触れ川沿いの遊歩道を歩いている。玉川上水散歩と同じく、あまりに幾度も歩いており、あまりに身近であるために、未だ散歩のメモをすることがなかったのだが、先日、家の近くを環七の先まで歩いた時、釜寺などと言うお寺さまに出合った。また、そのとき家の近くに弁天橋があり、それでは弁天さま、弁天池って、どこにあるのだろうなどと、辺りを彷徨った。あらためて思うに、神田川流域のあれこれについては、知っているようで、あまり知らなかったようである。それではと、神田川流域を、気分も新たに歩き直し、水源から隅田川に注ぐまでメモをまとめることにした。

神田川は吉祥寺の井の頭公園の池をその源とし台東区、中央区、墨田区の境となる両国橋辺りで隅田川に注ぐ。江戸の頃は、上水路として大江戸の人々に潤いをもたらした流路ではあるが、もとより現在はその機能はあるはずもなく、洪水対策の護岸工事の施された一級河川として、武蔵野台地に開析された谷筋を、1キロ1.9mといった緩やかな勾配で下ってゆく。流路を見るに、杉並区を南東に下り、杉並区永福町でその方向を北東に向けて大きく切り返し、中野区富士見町で善福寺川を合わせる。河川流域としては神田川より広い善福寺川の水を集めた神田川は、更に新宿区に向かって北東に進み、新宿区落合で妙正寺川の水を合わせ、目白台の崖線に沿って東に進み、文京区関口の江戸川橋交差点へと向かう。関口はかつて上水として使われた神田川・神田上水が満潮時に遡上する海水を防ぐため造られた大洗堰のあったところである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)
神田川が上水として使われていた江戸の頃は、流路はここから二手に分かれ、一手は上水路として小日向台地の崖下に沿って水戸藩江戸屋敷のあった現在の小石川後楽園へと向かい、そこから江戸市中、とくに神田・日本橋辺りへと上水路が整備されていった。もう一方の流路は、上水余水として現在の神田川の流路を南東へ下り、大曲交差点で流路を南に変えて千代田区飯田橋に進む。江戸城外濠に続く飯田橋で流路を直角に変え、水道橋、そしてお茶の水の切り通しの谷を越え、神田を経て隅田川に注ぐ。
隅田川へと向かう神田川の流れは、途中、水道橋の辺りから南に水路を分ける。現在、日本橋川と呼ばれるこの川筋が往昔、平川とも古川とも呼ばれた神田川の旧路である。現在は神田橋、呉服橋、江戸橋などを経て永代橋あたりで隅田川に注ぐが、この流路も人工的に開削された水路であり、更に古くは浅瀬の入り江であった日比谷へと注いでいた、と言う。因みに、日比谷の「ヒビ」とは、海苔を付着させて生育させるもの。古くは竹や木を浅瀬の海中に差し込んで使っていた、とか。
古川とも平川とも呼ばれ、飯田橋辺りから南へと流れていた流路を、東へとその流れを変え、お茶の水から神田へと流した理由は、洪水から江戸城を守るため、とのこと。本郷台地を切り崩し、お茶の水に切り通し・人工の谷をつくり、流路を神田へと変へる普請が仙台・伊達藩の掛かりで行われた。
江戸の上水として使われた神田上水は、武蔵野台地の尾根道を人工的に開削した玉川上水とは異なり、井の頭から流れ出す自然の流路に途中の支流を合わせ整備したもの、と言う。杉並区立郷土博物館で手に入れた『杉並の川と橋』の湧水マップを見るに、神田川の杉並区域にはそれぞれ十数カ所の遊水池と宙水地が記載されている。井の頭池を開析谷の谷頭とし流れ出した流路に、開析谷にそって点在する幾多の湧水地や宙水地か流れ出す支流を集めた自然の流れを、上水路として整備していったのではあろう。
通常武蔵野台地に降った雨はローム層とその下の砂礫層に浸透し、その下にある堅い粘土層に遮られ地下水の帯水層をつくり、その帯水層が崖線の谷頭などで地表にあらわれる。これが湧水池を形成するのだが、時として地下水がローム層と礫層の間にできた粘土層に帯水することがある。これを本格的な地下帯水層と区別して、ちょっと「宙ぶらりん」な帯水層ということで、「宙水」と呼ぶようだ。
今回の散歩は、完全護岸工事が施された神田川の谷筋を進みながらも、地形図の等高線の変化などを見比べ往昔の湧水池・宙水地などに寄り道をしながら、かつて自然流路であった神田川の痕跡を辿りつつ、水源より隅田川までの散歩を始めることとする。

本日のルート;井の頭公園・井の頭池>水門橋>井の頭線の高架を潜る>夕やけ橋>井の頭付近の支流らしき水路>井の頭線・三鷹台駅>三鷹台付近の支流らしき水路>久我山稲荷神社>井の頭線・久我山駅>清水橋付近の崖面上>井の頭線・富士見ヶ丘駅>高井戸駅付近・左岸の水路跡>浴風会>環八・佃橋

井の頭公園・井の頭池
神田川は井の頭池をその主水源とする。その昔は、武蔵野台地を伏流してきた地下水が湧水となり池に水を湛えていたが、現在は周辺のマンション建設などで、その地下水路が断たれ、井戸を掘りポンプアップによる地下水汲み上げを行っている、とのことである。池の西端の崖下に「お茶の水」と呼ばれる水の湧き出る石組みの一隅がある。家康がこの地を訪れたとき、ここの湧水でお茶を点てたのがその名の由来とのことであるが、この湧き出る水も、井戸を掘ったポンプアップの水である。
七井の池とも、七井の湖とも称され、7カ所からの豊かな湧水点を有し、現在、池の中央に架かる七井橋にのみ往昔の湧水の名残を残す井の頭池の湧水であるが、その標高はおおよそ50mと言う。この井の頭池に限らず、善福寺川の水源ともなる善福寺池、妙正寺川の源流点ともなる妙正寺池、石神井川の主水源ともなる三宝寺池、そして池ではないが清冽な水を湛える落合川の水源となる南沢湧水群(東久留米市)など、武蔵野台地の標高50mの地点には湧水点が多い。武蔵野台地を形成している洪積層中のローム層や砂礫を浸透してきた地下水は、堅い粘土層にぶつかると帯水層をつくり、その帯水層が露出したところが標高50mの辺りであり、そこに湧水池・湧水点を形づくる、ということであろう。
杉並区立郷土博物館で手に入れた『杉並の川と橋』によると、往昔の井の頭池からの流出量は1日当たり2万トンから3万トンとあったのこと。現在、深井戸から井の頭池に汲み上げる地下水は3千トンから4千トン、その1日の流出量は千トン、と言うから、往昔のその豊かな湧水量が偲ばれる。
井の頭池の崖の上には御殿山遺跡が残る。御殿山の由来は三代将軍・家光の鷹狩りの際の休憩所から、とのことであるが、それはともあれ、縄文時代の中期から後期の竪穴住居、敷石住居、土器や石器の発掘されたこの遺跡も、井の頭池の豊かな湧水があってこその集落ではあったのだろう。

水門橋

井の頭池の最東端に水門橋が架かる。このコンクリート造りの小橋が神田川の始点であり、ここから全長24.6キロの神田川がはじまる。始点付近の水路には多数の岩が配されてはいるが、水路の周囲、特に南に続く公園に趣を添えるためのものではあろう。家族連れの姿を見やりながら進み「よしきり橋」を越えると井の頭線の高架を潜ることになる。

井の頭線
井の頭線は渋谷と吉祥寺の間、12.8キロを結ぶ。線路の軌道幅は1067mmと標準狭軌サイズで京王本線の1372mmと異なる。これは、元々資本の異なるふたつの会社、旧京王電気軌道(京王本線の系統)と旧帝都電鉄(井の頭線の系統)が京王電鉄の前身、京王帝都電鉄として発足したためである。
京王本線の軌道が1372mmとなっているのは、旧京王電気軌道時代、当時の東京市の市電と繋ぐためにその軌道幅に合わせた、とのことであるが、それはそれとして、ここでは井の頭線の系統である旧帝都電鉄の変遷をまとめておく。
旧帝都電鉄は1926年(大正15年;昭和元年)申請し、翌年免許が交付された東京山手電鉄にまでその歴史を遡る。当時、第二山手線構想のもと、現在の山手線の外周を繋ぐ路線建設の計画が持ち上がった。大井町から自由が丘、梅ヶ丘、明大前を経て、中野、江古田、下板橋、田端、北千住、砂町から須崎を結ぶこの構想は、不況の影響などで計画は停滞し、結局、東京山手電鉄は小田急鉄道(小田急電鉄)の傘下に入る。また、1928年(昭和3年)には、渋谷・吉祥寺間の免許をもつ城西電気鉄道(後の、渋谷電気鉄道)も小田急鉄道の傘下に入る。
しかしながら、その小田急鉄道も第二山手線構想を実現する余力もなく、結局は、収益性の高い渋谷・吉祥寺間の路線建設を優先することとし、東京山手鉄道を改称した東京郊外鉄道が渋谷鉄道を合併。社名を帝都電鉄と改称し、渋谷・吉祥寺間を順次開設していった。井の頭線の軌道が京王本線と異なり、小田急の軌道と同じくするのはこういった経緯が背景にある。帝都電鉄は昭和8年(1933)には渋谷から井の頭公園駅まで開通。翌9年(1934)には吉祥寺まで繋がった。井の頭公園駅と吉祥寺駅までの開通に1年を有した要因は水道道路(現在の井の頭道路)を高架で越える必要があったため、とのこと。
以前、玉川上水散歩でメモしたが、井の頭線の明大前駅の手前に跨線橋がある。上下2つの複線にもかかわらず、橋桁は4路線分となっている。これは第二山手線構想の準備として用意した遺構、とのこと。因みに、境浄水場から和田堀給水所へと導水管を埋めた水道道路を井の頭街道と命名したのは首相の近衛文麿。荻窪の私邸から官邸へのルートとして水道道路を利用していたため、と言う。井の頭通りと甲州街道が合流する手前に石碑が建つ。

夕やけ橋

井の頭線を越えると井の頭公園駅。上でメモしたように、昭和8年(1933)、帝都電鉄として開業。その帝都電鉄は昭和15年(1940)、小田急鉄道と合併し同社の帝都線となるも、昭和17年(1942)には、小田急電鉄が東京急行電鉄(大東急、とも)に併合される。その東京急行電鉄から分離し、京王帝都電鉄となったのは昭和23年(1948)のことである。京王井の頭線が誕生するまでには、戦時体制下とは言いながら、小田急や東急とも関係があった、ということである。
駅の北を流れる神田川の周囲は親水公園となっている。少し進んだところにある橋の名前も「夕やけ橋」。昭和60年代の都による河川改修の計画では、当初このあたりも周辺の樹木を伐採し、コンクリートで護岸工事される計画であったようだが、周辺住民の努力により、計画を変更し、せせらぎと親しむ公園となった。この親水公園も次の神田上水公園辺りからはコンクリート護岸の川筋となる。

井の頭付近の支流らしき水路

「神田上水橋」を越え、「あしはら橋」へと進む。と、「あしはら橋」の少し上流に神田川に注ぐ大きな排水口が見える。カシミール3Dでつくった地形図で見るに、50mの標高線が神田川の谷筋から西に向かって井の頭公園駅前通の先まで大きく食い込んでいる。『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』の湧水点分布図にも、食い込んだ谷頭辺りに宙水点のマークがある。ということで、水路跡の痕跡でもないものかと、ちょっと寄り道。






排水口のあたりからの道筋を進むと、すぐに井の頭線に当たる。踏切を渡り痕跡を探すと、線路脇に水路を塞いだ溝らしき箇所があり、その先にカラー舗装された、いかにも水路跡、といった緩やかなカーブの道が続く。カラー舗装の道、所々に車止め、それに少々の段差という、水路跡によく見られる三点セットもあり、往昔の水路ではあったのではなかろう、か。水路跡らしき道は井の頭公園通りを越えて、玉川上水の近くまで続いていた。この水路は神田川の谷筋から切れ込んだ小さな開析谷の谷頭の宙水からの湧水だけでなく、玉川上水からの助水を受けていたのかもしれない。単なる妄想。根拠なし。

井の頭線・三鷹台駅
元に戻り、「あしはら橋」を越え、「丸山橋」まで進むと井の頭線・三鷹台駅。三鷹台?武蔵野市ではないの?と地図をチェック。神田川を境に南が三鷹市、北が武蔵野市。その武蔵野市も三鷹台駅の川を隔てた北にある立教女学院の西側まで。立教女学院から東側は杉並区久我山となっている。三鷹台駅は三鷹市の東端であった。ちなみに、井の頭の池も三鷹市にあった。作家・小沼丹はその作品「三鷹台附近」に、「三鷹台駅に改札口の附いたのは多分昭和十二、三年頃だったらう。その頃は、駅に降りると線路を横切る道が一本左右に伸びてゐるばかりで、辺り一帯は葦の茂つた湿地であつた。線路沿ひに、井の頭池から出た小川(神田上水)が流れてゐて、釣師の姿をよく見掛けたりした。尤もこの湿地も三鷹台から先は田圃に変つて、菅笠を被つた女が田植ゑをするのを見たことがある。小川に架つた土橋を渡つて左に行くと東京市で、立教女学校があり、人家もある」と描く。
ここには、辺り一帯は葦の茂った湿地であった、とある。丸山橋の手前に「あしはら(葦原)橋」があった所以である。現在の姿からはその由来など想像もできなかったのだが、昭和初期までは橋の名前の通りの情景が広がっていたのだろう。また、小川に架かった土橋というのが「丸山橋」の前身ではあろう。因みに、立教女学院は関東大震災後の大正13年、中央区から移転した。

三鷹台付近の支流らしき水路
三鷹台駅を越えると、少しの間、川沿いの遊歩道が切れる。一旦、立教女学院の方に向かい、最初の角を右に曲がり道を進む。道筋は杉並区久我山と三鷹市の境を歩くことになる。ほどなく踏切があり、井の頭線を越えて川添いの遊歩道に戻る。「神田橋」を見やり、「みすぎ橋」まで進む。ここが三鷹市最東端の橋。「みすぎ」は「みたか」と「すぎなみく」の頭の文字を合わせたもの。
この「みすぎ橋」の少し上流にも四角のおおきな排水口がある。地形図を見るに、「みすぎ橋」あたりから三鷹台駅前通りのあたりまで、50mの等高線が大きく切れ込んでいる。ここでも、水路跡の痕跡でもないものか、と川筋から離れる。排水口辺りから、これまた、カラー舗装の道、車止めといった水路跡の「目印」を辿り、三鷹台駅前通りまで進む。これといった湧水点の痕跡は見あたらなかったが、台地と神田川のから切れ込んだ谷筋の標高差は5m以上もあるわけで、分水界から神田川へ注ぐ流路はあったのかとは思う。

因みに杉並区の地名の由来は杉並木、から。江戸の初期に成宗と田端村を領した岡部氏が領地の境を示すために植えた、と言う。江戸を通じてこの杉並木は名を知られ、明治になって高円寺・馬橋・阿佐ヶ谷・天沼・田端・成宗の6つの村が合併し、新しい村名となったときその名を「杉並村」とした。その後、「村」から「町」になった杉並は、昭和7年10月井荻町・和田掘町・高井戸町と合併し区が誕生するとき、最も知られる杉並をその区の名称にした、とのことである。また、三鷹は徳川将軍家や徳川御三家の鷹場の村が集まっていたこと、そして世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来するとも言われるが、定まった説は、ない。

久我山稲荷神社
杉並区に入って最初の橋「緑橋」を越えると「宮下橋」。橋の北にある久我山稲荷神社に由来する名前ではあろう。久我山稲荷はこの地の鎮守さま。幕末に板橋にて刑に処せられた新撰組局長・近藤勇のなきがらを密かに掘り起こし、三鷹の龍源寺に埋葬すべく夜道を急いだ係累・門弟が一休みしたところ、との話しが伝わる。

いつだったか、久我山稲荷を訪れたことがある。久我山駅北口に下り、崖線に沿って東に進むと崖面に社があった。鳥居の横にある久我山稲荷の石柱を見るに、氏子代表としてふたりの秦さんの名前があった。また、正面の鳥居に続く少々古き趣の二番目の鳥居には寄進者として江戸の文政期は秦野姓、大正期にはその後継者として秦姓が名を連ねる。
この久我山には秦姓が多い、と言われる。元は秦野姓であったものが、明治の戸籍法の制定にともなう戸籍提出に際し、あまりに秦野姓が多いので、手間を省くために「秦」とした、といった話も伝わる。あまりにできすぎた話ではあり、また、そもそもが、この地の秦野氏は相模の秦野氏ではなく、別系統の「秦」氏の出自とする説もあるようで、真偽のほどは定かではない。それはともあれ、神社を訪れたときは、寄進者を書き示した石柱などを見るのが楽しみでもある。そこに多く現れる名前が、その地を開いた人々の末裔であろう、との思いからではあるが、いつだったか奥多摩より仙元峠を越えて下った秩父山中の浦山にあった浦山大日堂に浅見姓が多かったのが印象に残っている。浅見姓は現在でも秩父に多い姓である、と言う。

井の頭線・久我山駅
「宮下橋」の辺りから神田川の両岸にカラー舗装や車止めといった水路跡らしき道筋はあるのだが、地形図で見るに、特に等高線の切れ込んだ谷頭もない。護岸工事をする前の、旧神田川の流路かとも思う。「宮下人道橋」、「都橋」を過ぎると井の頭線・久我山駅。駅の吉祥寺側は45mと50mの等高線が迫っており、急坂となっている。久我山という名前からは公家の久我家が連想される。とはいうものの、久我山の久我の由来は、「陸(くが=りく)」、から。「くぼ(窪)」の逆と考えてもいいだろう。つまりは、川などの近くの盛り上がった山のようなところ。久我山の「山」は、雑木林などを山と呼ぶことも多いので、久我山とは「川のそばの雑木林の茂る台地」といった地形を差すのだろう。
ちなみに、公家の久我家の名前の由来も、元々は源の姓であったものが、京都の伏見区・桂川ちかくにつくった別邸の「久我水閣」、から。その別邸があったところも、桂川近くの少し小高い地にある、と言う。

人見街道
久我山駅前を東西に走る道を人見街道と呼ぶ。「井の頭通り」の京王井の頭線「浜田山駅入口」交差点から分岐して、久我山駅東側の踏切を渡り三鷹市の牟礼に入り、新川、野崎、大沢を経て、府中市若松町まで続く12キロの道である。そもそもの人見街道は甲州街道の烏山付近から北へ何本かの道筋が通り、その道筋は今の下本宿通りにつながり、市役所前から野崎、大沢を経て、府中市の八幡宿へ通じていた、とのこと。人見山のふもとを通り人見山(現在の浅間山)が見えたということなどから、「人見道」とか「人見街道」と呼んでいたそうではある。また、この道は、甲州街道の烏山から府中方面へ抜ける近道でもあったので、「甲州裏道」とも「府中裏道」とも呼ばれていた。人見の地名は武蔵七党の猪俣党の人見氏一族が住んでいたことに由来する、とか。
この道は古道のひとつで、武蔵国府府中から大宮(埼玉)に行く大宮街道、下総の国府(市川市)に通じる下総街道の道筋であったと言われ、近世以前は東西を結ぶ重要な道路であった、よう。江戸に入り甲州街道ができると、脇街道的な性格を強めることになった。近くの久我山五の九の辻にある石塔には「これよりみぎ いのがしらみち」とあり、井の頭への道としても利用されていたようである。
昭和初年に久我山駅前の直線化や拡幅がおこなわれるなどの経緯をへて、正式に通称名が人見街道となったのは昭和59年。その際、旧来の人見街道の道筋変更がはかられ、杉並区内を含む上の部分が新しく人見街道に組み込まれた、とのこと。新たに組み込まれた箇所は久我山から浜田山区間。ために、久我山道とも呼ばれたようである。

清水橋付近の崖面上
久我山駅前の人見街道に架かる久我山橋を渡り、神田川左岸を進む。右岸は段丘崖が迫り川沿いの道は清水橋の先でなくなる。左岸は駅を越えると谷幅は少し広くなるが、その敷地は京王線の車庫(富士見ヶ丘検車区)となっている。車庫はかつて永福町駅にあったようだが、昭和45年に、この地に移ってきた。
右岸の遊歩道を清水橋まで進み、崖線上がどのようになっているのが、ちょっと寄り道。急な石段を上ると東京都太田記念館があった。中国と縁の深かった太田宇之助氏が東京都に寄贈した土地に都が建設したアジアからの留学生の宿舎、とか。




建物前に案内板がある。太田記念館の説明かと足を止めると、その説明は向ノ原遺跡の説明であった。案内をメモ;向ノ原遺跡B地点は、武蔵野市にある井之頭池を水源とする、神田川南岸に形成された急崖な台地上に位置しています。当遺跡は、杉並区久我山二丁目16番を中心とした、先土器時代(約16,000年前)から縄文時代早期後半(約8,000年前)にかけての集落跡で、当遺跡の東側に隣接する向ノ原遺跡(大蔵省印刷局運動場内)と同一遺跡で、その西端をなすものと思われます。
東京都太田記念館建設に先立ち、昭和62年から63年にかけて実施された発掘調査では、先土器時代のナイフ形石器をはじめとする石器類、バーベキュー跡と考えられる拳大の石を数10個集めた礫群が7箇所発見されています。
縄文時代では、草創期(約10,000年前)の隆起線文土器と爪形文土器約30点が出土して注目されました。最古の縄文土器であるこれらの土器群は今のところ、区内はもとより武蔵野台地における当該期の資料として最大の質と量を誇っています。
また、この他にも早期前半(約9,000年前)の住居跡も6基発見されており、神田川流域の当遺跡を中心とした一帯が、区内における最古の縄文文化発祥の地点である可能性を提供した重要な遺跡であると言えます。(なお、出土した考古遺物は、すべて杉並区立郷土博物館に展示してありますので、当記念館では見学することはできません。)」、とあった。

久我山運動場
崖面上を彷徨うに、グランドが広がる、のみ。この久我山運動場(元大蔵相印刷局)のグランドには戦時中は高射砲の陣地があったとのこと。中島飛行機の荻窪工場や武蔵工場(武蔵野市)を防衛するためのもの。最新鋭の15センチ砲据えられ、B29二機が被弾し、一機は久我山4丁目に墜落した、と言う(『荻窪風土記;森泰樹』)。
久我山運動場の南には富士見ヶ丘運動場。この元NHKのグランドの南には玉川上水が流れる。道なりに進み、成り行きで王子製紙の社宅に沿って坂を下ると富士見ヶ丘検車区の入口に続く橋に出る。神田川左岸には線路などもあり、右岸から車庫への車両の出入りのために造られた、車庫専用の橋にようであり、特に橋に名前はない。

井の頭線・富士見ヶ丘駅車庫を見やりながら進み、京王線の車庫が切れる先に井の頭線・富士見ヶ丘駅。駅前の南の神田川には「月見橋」がかかる。『杉並の川と橋(杉並区立郷土博物館)』によれば、通称「清水山」とよばれる地域がこの富士見ヶ丘駅の近くにあり、辺りの神田川両岸は雑木林が続き、崖のあちこちから湧水が見られた、と言う。
地形図を見るに、少し南に切り込んだ地形が富士見駅の南東にある。そのあたりが湧水点なのか、はたまた、先ほど歩いてきた遊歩道に清水橋があったが、橋の南の現在、久我山運動場となっている一帯の崖面から湧水・清水が流れ出していたが故の橋名であろうか。いずれにしても現在はどちらにも湧水跡の痕跡はみつからなかった。

高井戸駅付近・左岸の水路跡

「月見橋」を離れ、「高砂橋」、そして「あかね橋」へと。「たかさご橋」、「あかね橋」の南北に通る道筋は緩やかな曲線を描き、如何にも水路跡らしき雰囲気。地形図を見るに、45mの等高線が北西に切れ込んでいる。神田川左岸の崖線の切れ込んだところへと寄り道。「たかさご橋」を越えたところからカラーブロックの道があり、先に進み井の頭線を越え、高井戸児童館辺りを進む。道は農園でその先を阻まれるが、農園の先には雑木林が残り、周囲も小高くなっており、この水路跡は台地からの水を集めた流路であったのか、とも思う。

浴風会

左岸を彷徨った後、今度は、神田川の右岸に続くカーブの道を辿る。地形図で見た地形の切り込んだところ、清水山の住所は高井戸西1-16辺りとあるので、丁度端から南に蛇行するその先端あたり。なんらかの痕跡でもないものかと彷徨うも、特段それらしき名残は見あたらない。清水山と呼ばれた辺りの東には結構立派な建物が見える。浴風会の施設である。ぱっと見には、昨今登場した高級ケアハウスかと思ったのだが、はじまりは大正12年(1923)の関東大震災に罹災した老廃疾者や扶養者を失った人々の救護のため、御下賜金や一般義援金をもとに設立されたもの。現在は社会福祉法人浴風会として老人保健・福祉・医療の総合福祉施設となっている、と。建物は平成に成って建て直したものが多いが、本館は安田講堂の設計を手がけた内田祥三の手になるもの。都の歴世的建造物の指定を受けたこの建物は、その趣き故、テレビや映画の舞台として数多く使用されている。とか。

環八・佃橋
「むつみ橋」、人道橋である「錦橋」、「やなぎ橋」、そして「あづま橋」を越え環八に架かる「佃橋」に。先日、玉川上水を散歩したときに、江戸の頃、環八、といっても、環八が出来たのは昭和になってからであり、江戸の頃にはなんらかの道筋ではあったのだろうが、それはともあれ、その道筋とクロスするところに「佃橋」が架かっていたと『上水記(寛政3年(1791)に幕府の普請奉行が編纂)』にある。
この佃橋がいつの頃架けられたものか定かではないが、佃の語源には。「作り田」が転化したとの説があり、「作田、突田、築田」などが当てられる、とか。つまりは、突き固めた田、低地に土を盛り上げた田、河川沿いに湿地を開墾した田、といった意味がある。地名の起こりは、庄園などの領主の直営田のことであり、新たに開墾した「作り田」にはじまるようである。
佃の由来はともあれ、「佃橋」の下にある排水口から割と勢いのある水が流れ出ている。この水は玉川上水の境橋から地下の導水管を通り此の地に導かれ、神田川の浄化に活用されている。この玉川上水の水は、昭和61年(1986)、東京都の「玉川・千川上水清流復活事業」により小平監視所より下流に流されることになったものである。
昭和40年(1965)、新宿の淀橋浄水場を廃止し、その機能を東村山浄水場に統合・移転することになる。この施策にともない、羽村で取水された多摩川の水は小平監視所より、東村山浄水場に送られることになった。このため、小平監視所より下流には玉川上水の水は一部維持水を除いて流れることがなくなったわけだが、上記事業施策により、小平監視所から世田谷・浅間橋までの18キロの間、水流が復活した。水源は都多摩川上流処理場で高度処理水された西多摩地区の下水を日量23,200トン流している、と。で、「浅間橋」(先ほど歩いた清水橋の崖上にあったグランドの南東端)から地下を環八まで進み、環八に沿って佃橋下まで下っている。
散歩をしてわかったことだが、水源の湧水を失った東京の河川は、高度処理された下水にその水流を任すことが結構多い。目黒川も西落合の水再生センターで高度処理された下水を烏山川と北沢川の合流点に送り、それが下って目黒川となる。そういえば呑川も大岡山の東京工大辺りで西落合の高度処理水によって助水されていた。

環八
現在交通の大動脈となっている環八であるが、この幹線道路は昭和2年(1927)の構想から全面開通まで、80年近くかかっている。戦前も、戦後も昭和40年(1965)代までは、それほど交通需要がなく、計画は遅々として進むことはなかった。昭和22年、38年のGOOの航空写真を持ても、高井戸の近辺に環八の道筋らしき跡が見えるが、道は途切れたままである。が、その状況が一変したのは、昭和40年(1965)の第三京浜の開通、昭和43年(1968)の東明高速開通、昭和46年(1971)の東京川越3道路(後の関越自動車道路)昭和51年(1976)の中央自動車道の開通などの東京から放射状に地方に向かう幹線道路の開始。が、幹線道路は完成したものの、その始点を結ぶ環状道路がなく、その始点を結ぶ環八の建設が急がれた。しかしながら、地価の高騰や過密化した宅地化のため用地取得が捗らず、全開通まで構想から80年、戦後の正式決定からも60年近くという、長期の期間を必要とした。最後まで残った、練馬区の井荻トンネルから目白通り、練馬の川越街道から板橋の環八高速下交差点までの区間が開通したのは平成18年(2006)5月28日、とか(「ウィキペディア」より)。
今日の散歩メモはここまで。京王線・高井戸駅から見慣れた風景の中を家路へと。
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