日曜日, 10月 08, 2006

杉並区散歩 そのⅣ;今川観泉寺から善福寺川・妙正寺川の分水界を歩く

杉並散歩も杉並の西端・南端あたりを残すのみとなった。今回杉並のことを少し調べると、「今川観泉寺」って結構由緒ありそう。以前善福寺川を巡ったときには源流点・善福寺池まで歩いた。妙正寺川を巡ったときには源流点・妙正寺まで歩いた。が、川筋をひたすら歩く、といった按配で周囲の神社・仏閣への寄り道はほとんどしていない。ということで、今回は今川・観泉寺を第一ターゲットに、善福寺池から妙正寺池のあたりの時空散歩からはじめ、あとは成り行きで歩こう、と思う。


本日のルート;
JR西荻窪駅>荻窪八幡神社>観泉寺薬師堂(薬王院)>観泉寺>(今川地区)>青梅街道>井草八幡宮>善福寺公園(市杵島神社・遅い井の滝)>善福寺>青梅街道>切り通し公園>井草遺跡>(井草川)>三谷公園・上井草3丁目・上井草2丁目>西部新宿線交差>井草5丁目>井草4丁目>西武新宿線交差>上井草1丁目>環状8号線>井荻駅前>下井草4丁目>妙正寺池>妙正寺>四面堂>荻窪白山神社>光明院>神明天祖神社>南荻窪中央公園>中道寺>松湲遺跡公園>天桂寺


JR西荻窪駅
Jr西荻窪駅下車。商店街を北進む。善福寺川にかかる関根橋を越え、東に折れ道なりに進む。 

荻窪八幡神社

 青梅街道・荻窪警察署交差点の南に「荻窪八幡神社」。旧上荻村の鎮守さま。寛平年間(889-898年)創祀と伝えられる。永承6年(1051年)、鎮守府将軍・源頼義が奥州東征のとき、この地に宿陣・戦捷を祈願。康平5年(1062年)凱旋するにあたって社を修繕・祝祭を行った、と。文明9年(1477年)、大田道灌が石神井城を攻略するに あたり軍神祭をとり行う。社前に「槙樹」1株を植栽。「道灌槙」である、と。どこにあるのだろか。丁度、ウォークラリーの参加者の大集団。多勢に無勢ですぐにお宮を退散する。

観泉寺薬師堂
青梅街道を渡ると信号東に観泉寺薬師堂(薬王院)。観泉寺の境外仏堂。本尊は薬師如来像。秘仏ゆえに公開されない、と。門も閉じられていた。元禄年間(1688~1703)に創設。この地の領主である名門・今川氏の祈祷所となる。1747年頃には観泉寺の末寺。明治期に合併して境外仏堂(薬師堂)と。また、一説には、もと寺分(現・杉並区善福寺1丁目)にあった古寺・玉光山薬王院万福寺、とも言われている。

旧中島飛行機製作所跡


北に進む。西手に大きな公園。これって、昔日産プリンスの荻窪工場があったところ。我が愛車「Nissan Skyline GT-R」誕生のところ、か?現在は更地となり公園、に。
で、この地は旧中島飛行機製作所跡。大正14年にエンジン研究工場として建設。太平洋戦争中の世界の名機・ゼロ戦のエンジンもここで開発された。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


今川観泉寺

道なりに北に進むと山門に突き当たる。今川観泉寺。この地の領主・今川氏ゆかりの菩提寺。「慶長2年(1597年)、中野成願寺の和尚が下井草2-25に観音寺を創立。正保2年(1645年)に領主となった今川範英(直房)が現在地に移し観泉寺と。慶安2年(1649年)に将軍家光公より、寺領十石の朱印状が下付された。山門を入ると正面に立派な本堂。手入れの行き届いた庭。いい雰囲気のお寺さま。

この今川氏は駿河の名族。今川義元が織田信長に討たれてから衰退していたところ、名門好きの家康に旗本として召抱えられ、正保二年(1645)範英の代に杉並区今川付近に知行地を与えられた。家光の命により、朝廷におもむき家康の御霊に「東照大権現」の称号を授与されるに、多大の功績があった、ため。5ケ村の加増を受けた、とか。
石高は2500石。一万石以下ではあったが、名族故に、大名の格式を得て領内の青梅街道沿いに陣屋を構えた。が、この陣屋も長くは続かず、宝永四年(1707)に領内の開拓が一段落したとのことで陣屋を破却して耕地に払い下げられた。大名の格式は財政負担が重く、少ない石高では陣屋を維持できなかった、というのも理由のひとつ。

四面道交差点から2つ目の交差点に「八丁」というところがあるが、それは陣屋の敷地が八町あり、その跡地付近であった、から。陣屋がなくなってからは、観泉寺の境内で年貢の取立や裁判なども行われていた。つまりはこのお寺は代官所としての役割も兼ねていたよう。今川地区。地名の由来は「今川氏」にあるのはいうまでもない。

井草八幡宮
今川3丁目・4丁目を道なりにすすみ青梅街道に交差。道を隔てて鬱蒼とした鎮守の森。「井草八幡宮」。往古、「遅ノ井八幡」と呼ばれた、旧上下井草村の鎮守様。この地には縄文時代から人々が生活していた、と。すぐ隣の善福寺池の豊富な湧水がポイントか。
境内地及び周辺地域からも縄文時代 (約四千年前)の住居址が発見され、また多くの土器や石器が発掘されて、 「井草新町遺跡」と呼ばれている。南に善福寺川の清流を望む高台にあり、中世初頭まで宿駅として、また交通の要衝として栄えた。

神社としての体裁がととのったのは平安末期。はじめは春日社をおまつりしていた。文治5年(1189年)、源頼朝が奥州征伐の途次、戦勝を祈願して松樹を手植す。以来、八幡さまを主祭神と。
文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏攻略の折り、当社に戦勝を祈願したとの言い伝えもある。江戸時代になると三代将軍家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営せしめ、慶安3年(1649年)に朱印領六石を寄進。また歴代将軍何れも朱印地を寄進し江戸末期の 萬延元年に及んでいる。 今川家の氏神さまでもあった。

善福寺池
井草八幡を離れ、台地道を善福寺公園・池に下る。善福寺川の水源。古来より武蔵野台地からの湧水地として知られる。ここに限らず、東京の湧水点は標高50m程度のところから湧き出ている。石神井の池しかり、井の頭の駅しかり、である。

池の西南部に弁天様(市杵島神社)をまつった小島。そのそばには「遅野井の滝」。源頼朝が奥州討伐からの帰途、この地に滞在。折からの旱魃で将士、渇きに苦しむ。頼朝、弁財天に祈り、7箇所地を穿つ。将士、渇きのあまり、「水の出ること遅し」とて、「遅ノ井」と。島の弁天さまは江ノ島弁才天をこの地にもってきた、もの。現在の「遅野井の滝」は千川上水から導水した人工の滝。昭和5年に町営水道の深井戸が近くで掘られて以来、泉は枯れた、と。

善福寺
善福寺公園の周囲を歩き、青梅街道へと向かう。途中に善福寺。もとは今川観泉寺の境外仏寺で、福寿庵と呼ばれていた。善福寺となったのは昭和になってから。ということは、中世のころ、この地にあった善福寺ではないわけで、では本物の善福寺は?麻布善福寺を歩いていたとき、その寺勢がこの地まで及んでいた、とメモしたが、果たして??よくわからない。

井草遺跡

青梅街道を越え、上井草4丁目に進む。都立杉並工業高校脇のゆるやかな坂を登ると、坂の途中に「井草遺跡」の碑。メモ;上井草4丁目13を中心に広がる縄文時代草創期(約9000年前)の遺跡。
草創期の頃は、河川流域の湧水周辺のゆるやかな斜面に小規模な集落を形成する例が多く見られる。この遺跡もそのひとつで、井草川の西側斜面に位置しています。うむ?井草川?ということはこのあたりに井草川跡が。ちょっとしらべてみよう、と。

切り通し公園

地図をチェック。青梅街道にほど近い、「切り通し公園」あたりから、いかにも流路のような道筋が。道に沿って三谷公園、道潅橋公園、上瀬戸公園など、いくつもの公園が続いている。川筋を利用した緑道であろう。ということで、「切り通し公園」に。
結構な勾配のある公園。谷頭あたりから昔、湧水が湧き出ていたのであろう、といった雰囲気。公園下から、緑道を進み道潅橋公園に。太田道潅に由来のあるのだろう、とは思う。実際この公園の南、早稲田通りの今川3丁目交差点のあたりは「陣幕」と呼ばれていたらしい。道潅が豊島氏の居城・石神井城を攻めるに際し、この地に陣を敷いた、とか。

西武新宿線井荻駅

歩を進め、上井草8丁目を過ぎ上井草2丁目。四宮森公園を過ぎると西武新宿線に当たる。道はここで切れる。迂回し西武新宿線の北に回り、さきほどの行き止まりのあたりまで戻る。再び緑道が続く。矢頭公園を越えると再び西武新宿線に交差。南に下ることになる。

線路を渡り柿木北公園を過ぎると環八。環八を越えると西武新宿線井荻駅に。井荻駅前に「科学と自然の散歩道」の案内図。井草川遊歩道をノーベル賞受賞科学者・小柴先生の受賞記念事業としてつくられたもの。小柴先生の日常の散歩コースであったらしい。井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館をつないだ散歩道になっている。

妙正寺公園

下井草5丁目・4丁目を下り、早稲田通りを過ぎると妙正寺公園にあたる。井草川はこの妙正寺池に流れ、この池の湧水を合わせ妙正川となって下ることになる。妙正寺池は昭和30年頃までは湧水が溢れていた、とか。

妙正寺
公園から南に少し進むと妙正寺。いつだったか、妙正寺川を巡ったとき、訪れた。慶安2年(1649年)、家光が鷹狩の途中この地に立ち寄り、寺領5石と葵の幔幕を寄進した、と。どこにいっても鷹狩、って話があるので、どこまでほんとうなのか、と思っていたのだが、杉並・中野の鷹場の話を知った今となっては、少々のリアリティを感じる次第。

四面道
清水の町並みを南に進み、青梅街道と環八が交差する「四面道」の交差点。この交差点は天沼・下井草・上井草・下井草の4カ村の境。そこに秋葉神社があり、その角柱の常夜灯・灯篭(四面塔・四面灯籠)が四カ村・四方面を照らしていたので、「四面燈」と呼ばれていた。で、「四面塔」「四面燈」。が、、いつしか灯籠も無くなり、「塔」が「道」に。現在秋葉神社と常夜灯は荻窪八幡に移されている。

荻窪白山神社
環八を南に下ると荻窪白山神社。JR荻窪駅から駅前商店街を進むと、参道入口に。結構長い参道。下荻窪村の鎮守。文明年間(1469-1487年)、地頭・中田加賀守が加賀の白山(しらやま)比め神社から分霊。歯痛の神様として知られていた。

光明院
環八がJRと交差するあたりに光明院。門は閉められている、というか脇の門があいているので、お邪魔する。なかなか寺域が広い。荻窪の観音様。伝承「和銅元年(708年)、観音さまの仏像を背負って諸国行脚していた行者が、この地に来たとき、突然観音様が重くなり、動くこと叶わず、といった状態に。この地に留まりたい、という観音様の意思であろう、と、この地にとどまり、付近の萩を刈り、草堂をつくり観音様をおまつりした」と。これが寺のはじまり。
また、草堂はその後荻堂と呼ばれ、荻窪の地名のはじまりとなった、と。さすがに和銅年間ということはないにしても、南北朝の頃の創建ではないかと言われる。

神明天祖神社

光明院脇の道、JRとの間に続く細い道を進む。すぐ、JRをくぐる地下道。JRを南に出る。善福寺川を渡り、南荻窪2丁目を道成りに進む。神明天祖神社。結構広い境内。天祖神社って、こじんまりしたものが多かったようでもあり、予想外。
創建は天正19年(1591年)、下総国、香取郡水刀谷の城主・水刀谷影賢の孫正近が社殿修復。正近は姓を井川と改め、紀州家に仕官。神社の東に馬場をつくったので、そのあたりを桜の馬場とよばれていた。

南荻窪中央公園

神社を出て、南荻窪を進む。南荻窪中央公園。与謝野鉄幹・晶子邸のあったところを公園とした、と。関東大震災を契機に、この地に移る。当時、このあたりは一面の野原。『木漏れ日の街で』の中で、当時の風景が。描かれている;「我が家は高台にあるので、駅までの道のりの半分はだらだら坂を下る。(中略)坂を下りきる手前に小さな木の橋が架かっている。下を流れているのは善福寺川である。水は空が映るほど澄みきっていて、水底の小石の数まで数えられそうだ。(中略)坂を下りきった角には変電所がある。子供の頃、このあたりは見渡すかぎりの野っ原で、変電所の建物だけが場違いなほど堂々とそびえ立っていた。今は民家が点在しているものの、それでもこの界隈は草が生い茂ってもの寂しい。変電所から駅まではゆるい上り坂になる。坂の途中に青バスの車庫があって、上りきったところが荻窪駅である」、と。

中道寺
再び環八に戻り、善福寺川・春日橋の南に中道寺。開創は天正10年(1582)、本尊日蓮上人像は通称「黒目の祖師」といわれ山門は欅作りの二階建。二階には梵鐘が吊ってある。


松湲遺跡公園
中道寺から、すこし南に「松湲遺跡公園」。縄文中期の住居跡3基発掘される。保存のため地下に埋められている。近くには川南遺跡もある。
日が暮れてきた。が、杉並散歩の締めくくりとして、今回はなんとしても、天桂寺には行っておきたかった。理由は、杉並の名前の由来をつくった、岡部氏の菩提寺である、ということ。また、ここでも「中野成願寺」、ってキーワードが現れるから、である。場所は地下鉄の南阿佐ヶ谷の少し南。直線距離で2キロ弱だろう、か。
中道寺に戻り、善福寺川を渡り、荻窪2丁目、4丁目を足早に進む。荻窪2丁目43番には荻外荘(てきがいそう)。近衛文麿邸。この名は西園寺公望が命名したもので、昭和12年6月に第一次近衛内閣を組閣以後、服毒自殺した20年12月16日まで住んだところで、16年10月の対米和戦会議、20年2月の戦争終結方針など、わが国の歴史を左右した重大会議が行われた、と。
3丁目には太田黒公園。音楽評論家の太田黒元雄氏の邸宅を整備した公園。そのうち、このあたりも歩いてみよう。

天桂寺

さてさて、あたりは真っ暗。携帯のGPS情報だけがたより。成田東5丁目、成田東4丁目をなりゆきで歩き天桂寺に。
寛永10年(1633年)田端・成宗の領主岡部田忠正が中野成願寺の鉄叟和尚を招いて開く。忠正は薩摩守忠度を討ち取った岡部六弥太田忠澄の末裔。杉並の地名は忠正が青梅街道に植えた杉から、ということでもあるし、杉並でしばしば現れる「中野成願寺の」って、フレーズのお寺を真っ暗ではあるが雰囲気だけ感じ、杉並散歩をしめくくる。

なんとなく思いついた、というか書き忘れたメモを残す。
1.奈良時代は武蔵国多下郡
2.平安時代は多摩郡海田郷
3.宝徳3年(1451年)5月 25日付の「上杉家文書」には、和田、堀之内、泉(今の和泉)の3つの村が武蔵国中野郷に所属していると記されている。 
4.貞治元年(1362年)12月17日付の「武蔵国願文」では大宮八幡宮も中野郷にあったことを示唆する箇所がある
5.永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」では高井堂(今の高井戸)、永福寺(今の永福町)の2つの村が中野郷に所属していたと推測できる箇所がある
6.つまりは、平安時代までには、和田、阿佐谷、和泉、堀之内、永福寺、高井戸村は成立していた事。
7.鎌倉時代の杉並
大宮八幡宮、井草八幡宮の周辺には集落があった、だろう、と。井草、今川、清水地域の集落は市のためのもの、とも。が、それ以外は見渡す野原。

後深草院二条(中院雅忠の女)の日記文学である「とわずがたり」の巻四の描写;浅草の観音様へお参りするときの様子をメモしたもの;「八月(はづき)の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ、今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵の国へ帰りて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野の中をはるばると分けゆくに、萩・女郎花(をみなへし)・荻(をぎ)・芒(すすき)よりほかは、またまじるものもな く、これが高さは、馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿(しゆく)などもあ れ、はるばる一とほりは、来(こ)し方(かた)行く末野原なり。」。このようにほとんどが萩、女郎花、荻、芒、萱などの名前が出てくるだけの野原が広がっていたのだろう。
8.江戸時代には、20村
9.阿佐ヶ谷、天沼、下荻窪、堀之内の4つの村は麹町山王日枝神社の領地
10.上井草、下井草の2つの村は旗本今川氏の領地
11.和田村の全部と和泉、永福寺村の大部分は旗本内田氏の領地
12.残りの11の村は幕府直轄の天領。 
13.五代将軍徳川綱吉の時代には、中野から天沼にかけての約29万坪に 「お犬様」の犬小屋が作られ、約10万頭の犬が養われていました。
14.19世紀前半で、推定7,763人。明治5年の人口は、9,563名


土曜日, 9月 30, 2006

杉並区散歩 そのⅢ;桃園川跡を辿る

何回かにわけて歩いた桃園川緑道散歩をまとめる。源流点というか、水源は天沼3丁目23あたりにあった弁天池、とのこと。もっとも、練馬区の関町あたりで千川上水から分かれた分水流が青梅街道に沿って進み、この弁天池に流入した、と。弁天池までは用水溝といった小さな流れで、「用水掘」とか「新堀」と呼ばれており、弁天池から下流が桃園川と呼ばれたようだ。
天沼3丁目を成行きで歩く。いかにも水路跡のような遊歩道。辿っていくと、天沼八幡神社の境内前に出る。桃園川跡に間違いなし。八幡様の参拝は後にまわし、とりあえず源流点・弁天池跡に進む。

少し西に進むと遊歩道が切れる。が、いかにも川筋跡のような道が北に続く。ちょっと辿るとお屋敷手前で道が切れる。結構な屋敷跡。屋敷「跡」というのは、更地工事をしているようであった、から。鬱蒼とした緑は未だ残っている。ここが弁天池を埋めた跡地ではなかろうか。
お屋敷の周りをぐるり一周。直ぐ西には東京衛生病院。この病院は息子と娘が生まれたところ。病院のする裏手、というか東側が源流点であった。後からわかったのだが、この弁天池跡地のお屋敷は西武の堤義明氏の荻窪御殿、と呼ばれていたところらしい。件(くだん)の事件もあり、お屋敷を売却したのだろう、か。
「天沼」という地名の由来は弁天池、から。雨でも降ると水が溢れ、一面沼沢地のようになったのであろう、か。天沼=雨沼、かもしれない。実際、この一帯の地名、井草=「葦(藺)草;水草」、であり、荻窪=荻の生える窪地、ということで湿地帯であったことは間違いないだろう。天沼の北に「本天沼」って地名がある。もとの天沼村を南北に分けるとき、北が「本天沼」と先に宣言。もともとの地名の由来にもなった地域は「天沼」に。素人目には「本天沼」のほうが本家・本元って感じがする。
『続日本紀』に武蔵国「乗潴(あまぬま)駅」って記述がある。諸説ある中でも、その場所はこの天沼あたりではないか、というのが定説になっている。「乗潴(あまぬま)駅」は、武蔵の国府のある国分寺から下総の国府のある国府台に通じる街道の「駅家」。官用の往来のため、馬などを常備していた、と。乗潴(あまぬま)駅から、武蔵にあったもうひとつの駅家・豊島(江戸城付近)を経由する官道があったのだろう。ちなみに「潴」、って「沼」の意味。


本日のルート;
天沼八幡神社(天沼2)>天沼熊野神社(天沼1)>慈恩寺(阿佐谷北3)>世尊院>阿佐ヶ谷神明宮>欅屋敷>馬橋稲荷神社>高円寺5丁目・大久保通 り>宮園橋>中野5差路>上宮橋>もみじ山公園下>堀越学園前>谷戸小学校>宝仙寺>宮下・山手通り>田替橋>末広橋>神田川合流>北新宿>新宿

天沼八幡神社

源 流点を確認し、再び桃園川緑道に戻る。少し歩くと天沼八幡神社。弁天沼跡から100m程度だろうか。天正年間(1573~92)の創建といわれる。天沼村中谷戸(なかがいと)の鎮守。弁天池はもと、この八幡様の土地。現在の社殿の建築費用をつくるため売却し、埋め立てられた、とか。弁天池の弁天様は現在境内に遷座している、と。境内末社の大鳥神社では酉の市が開かれる。


天沼熊野神社
桃園川緑道に戻り下流に向かう。天沼2丁目に「天沼熊野神社」。緑道から少し離れたところにある。旧天沼村の鎮守。明治以前には十二社権現と呼ばれた。創建年代は不明だが、社伝によると「元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの途次、ここに宿陣し、社殿を修め、戦勝を祈って2本の杉苗を献植した」と。伝承の杉は昭和10年に枯れた。今も伐り株が残っている。

中杉通り

桃園川緑道を下る。民家の間をくねくね進み、阿佐ヶ谷1丁目29
あたりで中野と杉並を結ぶ「中杉通り」に交差する。ここで緑道は一度途切れる。阿佐ヶ谷北1-1、JR中央線脇にある「けやき公園」の先から緑道が再びはじまるまでは、湾曲した、いかにも川筋跡といった道路を進む。

阿佐谷神明宮
緑道をちょっと離れる。阿佐谷神明宮と世尊院に。阿佐谷神明宮は丁度秋祭り。旧阿佐ヶ谷村の鎮守さま。『江戸名所図会』に、「景行天皇44年に、日本武尊ご東征の帰途、ここに休まれたので、のちに里人が日本武尊の武功を慕って神明社を建立。また、建久(1190-99年)のころ、横井兵部が伊勢五十鈴川から持ち帰った霊石をご神体とし、僧祇海が社を今の地に移した」、と。景行天皇44年って、西暦 4世紀ではある。が、そもそも景行天皇って、伝説上の天皇でもあるわけで、縁起は縁起としておこう、と。

世尊院

世尊院。永享元年(1429年)に阿佐ヶ谷にあった宝仙寺が中野に移った頃

、それを惜しんだ地元民が小寺として残したのがそのはじまりと、いう。宝仙寺は大宮八幡宮の別当寺であった、といわれる。阿佐ヶ谷に居を構えた江戸氏の庶流・「あさかや殿」の庇護のもと作られたのであろうか。「あさかや殿」が歴史に現れた記録は応永27年(1420年)の『米良文書』にある。熊野那智神社の御師が武蔵国の大檀那の江戸氏一門の苗字を書き上げた中に、中野殿などとともに登場する。「あさかや殿」はこのあたりを拠点に土地を拓きながら、戦乱の続く南北朝を生き抜いたのであろう。その衰退の時期はつまびらかではない。が、上にメモした、永享元年(1429年)頃、庇護した宝仙寺が中野に移ったころではないか、と言われている。庇護する威勢を失っていたのであろう。一般公開はしていない。観音堂にまつられている聖観音像は南北朝の作と言われる。ちなみに阿佐ヶ谷の地名の由来は「浅ケ谷」から。桃園川が流れる「浅い谷〔地〕」、であったということだろう。
JR中央線の阿佐ヶ谷駅
Jr中央線の阿佐ヶ谷駅に。JR中央線って、もとは甲武鉄道。明治22年、立川―新宿。立川―八王子が開通した。本来の路線計画では、甲州街道か青梅街道沿いに走る予定であった。が住民の反対に会い、田園・林野を一直線に走る現在の路線になった、とか。駅から少し東、「けやき公園」に。

馬橋公園

ちょっと寄り道。けやき公園から北に進んだ、馬橋公園のあたりに陸軍中野学校教場があった。本部は中野駅前。昭和2年に陸軍通信学校が建設されたことと関係あるのだろうか。なんせ。防諜と通信は切り離すこと叶わず、であろう。太平洋戦争末期には陸軍気象部がおかれ、戦後運輸省気象研究所になった。現在は公園となり、気象庁の職員住宅となっている。また、この馬橋公園の近く、阿佐ヶ谷北5丁目-3あたりには、縄文時代後期の遺跡・小山遺跡も発見されている。桃園川沿いの微高地でもあり、古くから人々が生活していたのであろ う。

馬橋稲荷神社
中央線を越えたあたりから、再び緑道がはじまる。少し歩くと「馬橋稲荷神社」。旧馬橋村の鎮守さま。馬橋村って、このあたりから高円寺にかけての昔の地名。地名の由来は、これまた例によってあれこれ。ひとつは、桃園川か馬で一跨ぎする程度の小さい川であった、という説。また、昔々、桃園川の湿地帯を馬の背を橋のかわりにして軍勢が押し渡ったため、といった説もある。真偽の程は定かならず。

新堀用水、というか天保用水が合流

緑道を進む。緑道脇に桃園川の流路図。結構複雑に分岐している。その川筋のひとつだろう、とは思うが、昔、このあたりには新堀用水、というか天保用水が合流していた、と。中野・馬橋・高円寺の三村に灌漑用水を供給するため善福寺川から分水したもの。桃園川の湧水が減り、天水に頼らざるを得なくなった、その対策として村相互の協力によって計画したもの。

先日散歩の須賀神社の脇で見た新堀用水跡、つまりはこのあたりにあった弁天池に善福寺川から導水し、池の湧き水とともに掘割と暗渠で青梅街道を通り、区役所脇を東北に抜け、馬橋児童遊園のあたりを通り桃園川に合流していた、と。いつか、もう一度流路図をチェックし、用水流路を確認しておこう。

長仙寺
寄り道が多く、なかなか先に進めない。高円寺南3丁目を進む。民家の間を進む。高円寺駅から南に青梅街道まで続く「駅前商店街 パル」にあたる。駅の南口に長仙寺。本堂前庭に「歯神様」と呼ばれる石仏の如意輪観音が安置している、と。享保9年(1724年)の銘。「駅前商店街 パル」を越えると緑道の北に氷川神社と高円寺。

氷川神社
氷川神社は高円寺村字原の鎮守様。天文(1532-55年)の頃の創建、と。境内に小祠・気象神社。先のメモした、陸軍気象部がきちんと気象予報ができるようにと、つくられた。

高円寺

氷川神社を東に少し進むと高円寺。創立にはちょっとしたお話がある;昔、ひとりの旅人がこの地に。父娘の住む農家に一夜の宿を求める旅のもの。飢饉ゆえ食るものも無い、と断わるも、たっての頼みに断わりきれず泊めることに。で、娘が食べ物を探しに外出した後、父親はその旅の人が大金を持っていることを知り、殺害。戻ってきた娘はそのことを悲しみ尼となり、庵をたて菩提をとむらった。弘治元年(1555)建室和尚がその庵をもとにつくったのがこの高円寺、と。
『新編武蔵風土記功稿』の「高円寺村」の箇所に「当村、古は小沢村と言えるも、大猷院殿(三代将軍徳川家光)しばしば村内高円寺にお遊びありければ、世人高円寺御成りありと言いしに、いつしか高円寺村の名起これり」と。昔は小沢村と言っていたが、将軍が鷹狩に御成りのとき、ここで休憩をとった、事実お寺には御茶屋跡もあるとかで、高円寺というお寺の名前が一人歩きし、いつしか寺名が地名までも奪取した、ということか。

寺町

氷川神社や高円寺と桃園川緑道を隔てた南側は寺町がつくられている。明治末期、この地の所有者が商売に失敗し、抵当流れで安い地価となった。お寺といえば少々広い土地が必要であろうし、ということでお寺がこの地に移ってきた、とか。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


高円寺天祖神社と田中稲荷

緑道を進み、環七を越える。高円寺天祖神社と田中稲荷。高円寺村字通りの鎮守様。田中稲荷神社は高円寺天祖神社の境外末社。創建の由来は不明だが、桃園川沿いの田圃の中にあったので「田中稲荷」と。

鳥見橋

田中稲荷を越えるとすぐ中野区。少し進むと鳥見橋。名前の由来は、将軍家の「鷹場」を管理する鳥見役人の役宅に通じる道が通っていたため。役宅があったのは杉並区高円寺南5丁目あたりと言われている。御鷹場があったのは中野2丁目から5丁目にかけての広大な土地。
鷹場のあるところは、この地に限らず御鷹場禁制や御鷹場法度で農民は多くの制約を受けていた。で、村々を巡回し野鳥の保護を第一に、農民を監視していたのが鳥見役人。鳥見役人は若年寄支配下にあり格は高かったが、高円寺の役宅に常駐する役人は微禄の小役人。農民を苛め、賄賂をとるなど、代官所からも厄介者扱いされていた、とか。

であるからして、明治維新にはこの役宅、農民の怒りの矛先となり、すぐさま取り壊された、と。ちなみに、この「御鷹場」はもと、野犬の「御囲」場。綱吉による「生類憐みの令」による「お犬様」を保護・収容していたところ。綱吉の死後廃止され、鷹場となった。どちらにしろ、人々にとっては厄介このうえないものであっただろう。

桃園橋
宮園橋を越えると緑道は少し北に迂回。中野通りとの交差するところに桃園橋。そこは将軍吉宗が桃園に行くときの御成り橋。桃園は中野3丁目一帯にあった、と言われている。中野通りの一筋西を通る「桃園通り」を南に進み、下り坂となる分岐のあたりに「将軍のお立場(中野3丁目28)」。放鷹を眺めたり、桃園を眺めたりする絶好の場所であった、とか。

城山

中野五差路のあたりを越えると、緑道は「大久保通り」の南を、道に沿って進む。紅葉山公園が下る道筋を越え、大久保通りでいえば堀越学園前交差点のあたりに、太田道潅の砦跡、とも伝えられる「城山(中野1-31)」が。谷戸運動公園の北側に土塁跡が残る。
緑道は掘越学園の裏手を進み、実践学園傍を歩く。この南には宝仙寺。前にメモした「阿佐ヶ谷殿」が阿佐ヶ谷につくり、その勢力がうしなわれたころ、この中野に移

る。今回は緑道を急ぐ。お寺巡りは次回のお楽しみに残す。

先に進み、山手通りと交差。宮下交差点。南に下ると青梅街道の中野坂上。中央1丁目を進み田替橋を過ぎると大久保通り・末広橋で桃園川は神田川と合流。桃園川散歩を終える。後は、北新宿から西新宿を通りJR新宿駅に歩き自宅に戻る。

桃園川って、高円寺の商店街を歩いていたとき、いかにも路地裏、といったところでたまたま見つけた。なんということもない、小流であったのだろう、と思ったのだか、この流路に沿ってもあれこれ歴史があった。緑道もすぐ途切れる、と思っていたのだが、結局神田川まで引っ張られた。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、なるほど、桃園川の流れに沿って、谷地が作られている。偶然見つけた川筋を、好奇心で歩き、あれこれ時空散歩が楽しめた。どこかで見かけた桃園川の案内をメモして今回はおしまい、とする。

桃園川緑道の沿革;桃園川緑道は、元来天沼の弁天池(天沼3丁目地内)を水源として東流し末広橋(中野区)で神田川と合流する「桃園川」と呼ばれる小河川でした。桃園川の名は江戸時代初期に付近の「高円寺」境内に桃の木が多かったことから将軍より地名を「桃園」とするよう沙汰があったことに由来しています(その後桃園は中野に移されています)。
江戸時代中期には千川上水から分水したり、善福寺川から「新堀用水」を開削し、導水するなどして、「桃園川」沿いの新田開発が進められました。大正末期には関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理がおこなわれ数条に分岐していた「桃園川」も流路が整えられ、それにともない水田風景も姿を消しました」

水曜日, 9月 27, 2006

杉並区散歩 そのⅡ:永福から善福寺川に沿って荻窪へ

先日、桃園川跡を高円寺から下った。逆方向に、阿佐ヶ谷までは辿ったことがあるのだが、源流点は確認していない。ということで、今回は桃園川の源流点に向かうことに。
桃園川の水源は天沼3丁目にあった弁天沼、とか。環八と青梅街道が交差する「四面道」のすぐ近く。荻窪駅の北になる。
さて、どのコースをとるか、だが、善福寺川に沿って歩くことにした。この散歩道は何度となく歩いたことがある。善福寺川の源流まで遡ったこともある。が、川筋に沿って続く遊歩道だけ。川筋に点在する遺跡・神社は訪れていない。いい機会でもあるので、遺跡・神社を巡り、あれこれメモしてみたい。


本日のルート;
永福寺>永福稲荷>大円寺>郷土博物館>済美台遺跡>松ノ木遺跡>和田掘公園>成宗白山神社>宝昌寺>尾崎熊野神社>須賀神社>田端神社>弁天池

永福寺
自宅を出て和泉小学校脇から神田川緑道に入る。ちょっと上流に戻る。井の頭通り、京王井の頭線を越え、川筋が大きく湾曲するあたりで台地に登ると永福寺。大永二年(1522年)開山の古刹。戦国時代は北条氏家臣ゆかりの所領であった、とか。北条氏滅亡後、その家臣が帰農し当寺を菩提寺とし現在にいたる、と。 杉並最古の庚申塔がある。

永福稲荷

近くの永福稲荷は享禄三年(1530)永福寺の鎮守として創建。明治11年頃神仏分離令により現在の場所に移転、村の鎮守様に。

大円寺
稲荷神社の前の道筋を北に。高井戸から井の頭線・永福町永福町に通じている。この道筋は井の頭通りを越えると、一直線に方南通りまで続く商店街となっている。この道筋に大円寺。慶長2年赤坂に家康が開いた、と。延宝元年(1673年)、薩摩藩主島津光久の嫡子の葬儀をとりおこなって以来、薩摩藩の江戸菩提寺となる。庄内藩士による三田の薩摩藩焼き討ちで倒れた薩摩藩士や、戊辰の戦役でなくなった薩摩藩士のお墓がある。益満休之介の墓もあるとか。

益満休之介

益満休之介って魅力的な人物。王政復古の直前、西郷が江戸を騒乱状態に陥れるために送り込んだ工作グループの立役者。浪士500名を集め、江戸市内で佐幕派豪商からお金を巻き上げる「御用盗」や、放火、そして幕府屯所襲撃などやりたい放題。幕府を挑発。それに怒った江戸市中見巡組(新徴組)がおこなったのが、上にメモした三田の薩摩藩邸の焼き討ち。この焼き討ちの報に刺激を受け、会津・桑名の兵が「鳥羽・伏見」の戦端を開いた、という説もある。
ともあれ、休之介は庄内藩に捕らえられ、勝海舟のもとに幽閉。たが、官軍の江戸総攻撃を前に、無血開城をはかる勝は山岡鉄舟を駿府に送り西郷隆盛と直談判を図る。そのときに、山岡に同道したのが益満。西郷とのラインをもつが故。山岡が西郷との会談に成功したのも、この益満あればこそ、である。その後休之介は体を壊し、明治元年、28歳の若さでなくなった。歴史にIFは、とはいうものの、益満が生きていれば、はてさて明治の御世はどうなったのであろう、か。

新徴組
ついでに新徴組。新徴組って、墨田区散歩のとき、本所で屯所跡(墨田区石原4丁目)に出会った。本所三笠町の小笠原加賀守屋敷である。屯所はもう一箇所、飯田橋にもあった。田沼玄蕃頭屋敷(飯田橋1丁目)。新徴組はこの2箇所に分宿していた。
新徴組誕生のきっかけは、庄内藩士・清河八郎による浪士組結成。将軍上洛警護の名目で結成するも、清河の本心は浪士隊を尊王攘夷を主眼とする反幕勢力に転化すること。それに異を唱え清河と袂をわかって結成したのが「新撰組」。結局、幕命により清河と浪士隊は江戸に戻る。清河は驀臣・佐々木只三郎により暗殺され、幕府は残った浪士隊を「新徴組」とし庄内・酒井家にお預け。

当初は存在感もなかったようだが、文久3年(1863年)に新徴組は歴史の表舞台に登場する。江戸の治安悪化を憂えた幕府が、庄内藩を含む13藩に市中警護の命を下したからだ。が、幕府と命運をともにした庄内藩・新徴組は、戊辰戦役以降,塗炭の苦しみを味わうことになるのは、言わずもがな、のこと。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大宮八幡への参道

商店街で足を捕られ歩みが止まった。先を急 ぐ。商店街を北に抜けると方南通りにあたる。大宮八幡入口交差点。交差点を渡り、方南通りの一筋北に通る、大宮八幡への参道を進む。ここは昔の鎌倉街道。『武蔵名所図会』に記述がある;「大宮八幡宮の大門路は往古の鎌倉より奥州街道なり。東へ廿町余行きて、中野街道へ出て、それより追分を北に行けば板橋宿 に行く」、と。

鞍懸の松
参道を進む。道脇に鞍懸の松(和田の曲松)。『江戸名所図会』によれば、「鞍懸の松は、大宮八幡宮の馬場先の大路、民家構えの外にあり、鬱蒼として繁茂せり。根より一丈ばかりに至りて屈曲せる故、土人和田の曲り松と称し或いは鞍懸の松共呼べり。相伝う、八幡 太郎義家朝臣奥州逆徒征伐の折、この松に鞍をかけられしより、しかと言うと」。八幡太郎は至るところで顔を出す。真偽の程定かならず。また、松は二代目、と。


荒玉水道道路
少し進み大宮神社の鳥居の手前、荒玉水道道路で参道を離れ、北に折れる。杉並郷土博物館に寄り道のため。以前メモしたが、荒玉水道道路って、荒=荒川、と玉=多摩川を結ぶ上水道。大正12年の関東大震災後、東京市に隣接した町村の人口拡大にともなう上水事情を改善すべく計画。ただ、実際は多摩川と荒川が結ばれることはなく、世田谷区砧給水所から中野区の野方給水所(江古田1-3)を経て板橋区の大谷口給水所で終わっている。
砧給水所からこの杉並の妙法寺あたりまで一直線に延びている10キロほどの道筋を荒玉水道道路、と呼ぶ。砧と大谷口あたりは以前歩いた。杉並散歩の次は中野。野方給水塔をランドマークにしておこう(後日、野方給水塔を訪ねた)。

杉並郷土博物館
荒玉水道道路を少し北に。区立郷土博物館入口の信号で水道道路を離れ、郷土博物館に。江戸時代の名主屋敷・長屋門を玄関にしたこの博物館には何回も訪れている。今回は、前々から気になっていた資料を買い求めるため。『江戸のごみ 東京のごみ;杉並から見た廃棄物処理の社会史』が目的の資料。
江戸期の 永代島の埋め立てにも市中から出る塵芥を使っている。尾篭な話ではあるが、下肥の利権争い、つまりは、大名屋敷といった大量確保できるところ、しかも栄養状態のいい下肥の獲得にしのぎを削った、といった話もある。葛西船とか川越船といった下肥運搬船の話もあった。散歩のいたるところで、「ごみ」の話が顔を出す。ということで、ちょっとまとめてお勉強を、と思った次第(つい最近『江戸の夢の島;伊藤好一(吉川好文館)』を手に入れた。)。また、思いがけず「杉並区史跡散歩地図」も手に入る。散歩のルーティングには大変役に立ちそう。

この郷土博物館は元嵯峨公爵邸跡。満州皇帝愛親覚羅傳儀の弟傳傑に嫁いだ浩(ひろ)の生まれ育ったところ。終戦後、傳傑は中国政府に捕らえられる。浩は娘二人とともに帰国。「流転の王妃」浩の長女慧生(えいせい)に悲劇が。「天城心中」「天国に結ぶ恋」などと書きたてられてはいるが、実際はストーカー男に銃で殺されたのでは、と言われている。その後の浩は釈放された傳傑のもとに戻り、北京でなくなった。

済美台遺跡

郷土博物館のあるこの台地には古墳時代の済美台遺跡がある。舌状台地に沿って善福寺川が湾曲している。善福寺川は杉並区の西端善福寺池より発し、区内の中央部を蛇行し、和田1丁目で中野区内に入り神田川に合流する全長10キロ弱の川。郷土博物館のすぐ東を流れる。

和田堀公園
郷土博物館を離れ、橋を渡り松ノ木1丁目を西に進む。すぐ南に和田堀公園。あれ、和田堀って由来は?なんとなく和田+堀ノ内=和田堀、となったように思う。 調べると、そのとおり。明治には和田堀ノ内村。が、大正の町制に移るに際し、和田堀ノ内町では少々長すぎる、ということで和田堀町となった、と。

松ノ木遺跡

和田堀運動場の北、松ノ木中学との間の道を進む。台地上に松ノ木遺跡(松ノ木1-3)。古墳時代の復原住居と土師式保存竪穴がある。30戸くらいの家族が住んでいたと想定されている。
先ほどの済美台も含め、善福寺川中流域のこのあたりの台地群は、杉並の古代人の「はじまり」の地ではないかと言われる。善福寺川を隔てて南の台地上には大宮遺跡がある。大宮八幡宮の北門を出た崖の縁がその場所である。

松ノ木遺跡の案内板によれば、「昭和40年夏、ここで弥生時代末期の墓三基本発掘した。中央に墓穴を設け、周囲に溝がめぐらされていた。形が四角なので方形周溝墓と呼ばれ、墓より壷形土器五個、勾玉一個・ガラス玉十二個出土した」、と。
人々は集落を環り・区切り、区画ごとにまとまった生活集団をしていたのであろう。台地から見下ろす崖下の河川敷、和田堀運動場とか、和田堀公園であろうが、そこでは水稲耕作がおこなわれていたのだろう。川では魚を捕り、川を離れれば一面の原野。台地の奥に出かけては狩をしていたのであろう。『和名類聚抄』によれば、平安前期の武蔵野・多摩郡は10の郷からなっており、そのひとつ、「海田(あまだ)郷」に現在の杉並区が含まれる。で、この海田(あまだ)が変化し「わだ(和田)」となった、とされる。
言わんとするところは、このあたりに点在した原始期からの集落がそのまま古代に受け継がれ、古代期においても地域の中心となり、地名も「あまだ>わだ」と受け継いできたのだろう、ということ。

大宮八幡宮
寄り道のついでに大宮八幡宮のメモ。このお宮さんには幾度となく御参りに訪れている。初詣、秋祭り、子供と散歩。数限りない。あまりに身近であるので、それほど気にしていなかったのだが、散歩をはじめて各地のお宮さんにおまいりしても、これほどの雰囲気のあるお宮さんはそれほどなかった。大いに見直す。
で、メモ。『大宮八幡宮史』;「康平6年(1063年)、源頼義が奥州の豪族・安倍氏を征伐し凱旋の折り、京の石清水八幡宮の分神を勧請す。 寛治6年(1092年)に源義家が社殿を修復し、鎌倉時代には幕府より毎年奉幣使が派遣された。天正19年(1591年)に徳川氏より30石の朱印状が寄進され、幕末期には将軍・御三家が社参した」と。紀州熊野那智神社の『米良文書』に「貞治元年(1362年)に大宮住僧三人が那智神社に参拝した」という記録もある。

江戸時代の境内地は6万坪。明治維新で3万5千坪が政府に召し上げられ、現在は1万三千坪。それでも明治神宮・靖国神社に次いで都内3位の広さを誇る。

松ノ木遺跡を離れ、台地上を歩く。善福寺川の北にこんな台地があるというのは知らなかった。正確に言えば、もともと台地が平地であり、長い年月をかけ善福寺川によって開析され、川筋が谷となり、周囲より低くなった、ということではあろう。

白山神社
台 地と崖の境の道を少し進むと白山神社。旧成宗村字白旗の鎮守さま。創建の時期は不明だが、古墳時代の土器などが発見されており、大宮神社と同じ頃にできたのではないか、と言われる。地名の白幡は、またまた源氏の誰某の由来であろう、と予測。そのとおりで、源頼義が奥州征伐のおり、このあたりで空に白旗の如くたなびく雲を見て、勝利の証と慶び一社(大宮八幡)を勧請した、と。
「成宗」とは永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に「永福、沼袋、成宗の三カ村、弐拾壱貫文、島津孫四郎」との記述がある。古くからの村であった。その後、成宗村は幕府の天領となるまでは、旗本岡部忠正氏の知行地であった。
ちなみに、「杉並」の地名はこの岡部氏に由来する。江戸時代に田端・成宗両村を領していた岡部氏が、境界の目印に植えた杉の木が杉並木となり、旅人や市場に通う百姓の道中のランドマークとなった。
で、区ができるとき、どの地区にも当たり障りなく、かつまた、この地域の俗称ともなっていた、俗称となっていた「杉並〔木〕」とした、とか。ついでのことだが、この岡部忠正って薩摩守忠度を討ち取った岡部六弥太田忠澄の末裔。薩摩守忠度(ただのり)のことは熊野散歩でメモしたとおり。

尾崎橋
白 山神社を離れ、台地上の道を善福寺川と「つかず、離れず」北西に。湾曲・蛇行する善福寺川が五日市街道と交差するところに尾崎橋。橋の袂に案内板。簡単にメモ:「上流に向かって左側の台地が「尾崎」と呼ばれる。「おざき」とは「突き出した台地の先端=小さな崎」を指す。発掘された土器などから見て、8,000年前から人が住んでいた、と想定される。
源頼義が奥州征伐の折、白旗のような瑞雲が現れ大宮神宮を勧請することになったが、その頭を白旗地区、尾の部分を尾崎とした、との説もある。このあたりは風光明媚なところで、江戸には文人墨客が訪れた、とか。橋の上流に続く善福寺川緑地公園って、春の桜は素晴らしい。今年の春も会社の仲間と花見と洒落た、場所でもある。

尾崎の七曲
「馬橋村のなかばより、左に折れて山畑のかたへのほそき道をゆく」「つつらおりめいたる坂をくだりて田面の畔を(進む)。他の中に小川ありて橋を渡る。これを尾崎橋」、といった記述も案内板に記してあった。この「つつらおりめいたる」って記述、尾崎の七曲のこと。
現在の五日市街道は工事により直線にはなっているが、昔は尾崎橋あたりはカーブの続く坂道であった、とか。そうえいば、橋の西・東に、大きく曲がる道筋が残っている。またまた、そういえば、結構最近まで、このあたりの五日市街道の道筋は曲がりくねっていたように思う。なんとなく、そういった記憶が残っている。

五日市街道

五日市街道のメモ;「地下鉄新高円寺駅あたりで青梅街道を離れ、松庵1丁目を通り、武蔵野市・小金井市を経てあきるの市に達する街道。江戸時代初期は、「伊奈道」と呼ばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸に運ぶ道。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道など呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついた道であった。
明治以降、五日市街道と呼ばれる。この街道に沿った区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができる」、と。

尾崎橋を渡り、ほんの一瞬五日市街道を歩く。交通公園入口交差点。この交通公園には子供が小さい頃、何十回来たことであろうか。その子供も、すでに高校生。あっという間の、人生であります(現在は既に大学生)。

宝昌寺
気を取り直して、散歩を続ける。交通公園入口交差点前に宝昌寺。文禄3年(1594年)中野成願寺の葉山宗朔和尚によって創立。もとは真言宗。のちに曹洞宗。この「中野成願寺の」というフレーズ、杉並のお寺でよく目にする。中野長者・鈴木九朗が建てたお寺ではあり、大寺院ではあったのだろうが、有徳僧を輩出したのだろうか?そのうちに調べてみよう。

三年坂
お寺を離れ、尾崎熊野神社に向かう。成行きで杉並第二小学校の南の坂をのぼる。この坂は「三年坂」と呼ばれていた、と。「急坂で転倒して怪我をすると三年でなくなる」というのが名前の由来。往時、赤土の急坂で、滑って転んで怪我をする人が多かったので、くれぐれも気をつけるように、という意味で名付けられたのだろう。

尾崎熊野神社
台地上の道を北に進む。尾崎熊野神社。善福寺川低地を望む舌状台地鎮座する成宗村字尾崎の鎮守さま。正和元年(1312)頃の創建と、伝えられる。大宮八幡や村内の白山神社とほぼ同年代の創建でなないか、と言われている。
鎌倉時代末期、鎌倉から移住してきた武士が紀州の熊野権現をこの地に勧請。境内から縄文前期の住居跡が発見され、縄文・弥生・古墳時代の石器・土器などが多く出土した。ために、「尾崎熊野遺跡」と名づけられた。

須賀神社
台地を下り、善福寺川にかかる天王橋を渡り北に進む。須賀神社。旧成宗村字本村の鎮守さま。創建は天慶5年(942年)とも伝えられるが不詳。出雲の須賀神社にならった、とも。慶長4年(1559年)に領主・岡部氏が社殿を再興したとの伝承があるほか、詳しいことは伝わっていない。江戸時代は牛頭天王社、と呼ばれていた。
須賀神社には散歩の折々に出会う。台東区の浅草橋近くにもあった。狭山の箱根ケ崎でも出会った。この神社は島根と高知に多い。この地の須賀神社と同じく「牛頭天王社」と呼ばれていたことろが多いようだ。やまたのおろちを平らげて、「我、この地に着たりて心須賀、須賀し、」といったかどうだか、素盞嗚命(スサノオノミコト)をおまつりする。
牛頭天王って、インドで仏様のお住まいである祇園精舎の守り神。その猛々しさがスサノオのイメージとはなはだ近く、スサノオ(神)=牛頭天王(仏)と神仏習合された、と言われる。スサノオ、と言えば出雲の暴れん坊。先日の氷川神社と同様、この地を開拓した出雲族の名残であろう、か。

弁天社
須賀神社の西隣に弁天社。成宗村開村と同じころに創立。社前の石橋と掘跡は天保11年(1840年)に善福寺川の水を桃園川に引くために掘られた新堀用水路の名残り。神社の前は杉並高校。丁度学園祭。ブラスバンドの音が、いかにも青春でありましょう。

矢倉台
須賀神社を離れ、西に進む。往時、このあたりを鎌倉街道が通っていた、と。地名も「矢倉台」と言われる。中世に物見櫓があった、とか。「成宗の砦」とも呼ばれる。戦国時代に、中野左兵衛門之尉成宗が、鎌倉街道を見張るために、街道の往来が見渡せるこの高台に砦を構えた、と。成宗はこの付近の開拓者として、地名の由来ともなっている。
ちなみに、先ほど渡った「天王橋」のひとつ上流にかかる橋は「矢倉(屋倉橋)」となっている。ちなみに、ちなみに、開拓者の名前は中野左兵衛門之尉成宗ではなく、野口成宗との説も。当面はどちらでもいいか。

田端神社
さらに進むと田端神社。田端村の鎮守。社伝によれば、応永年間(1394年-1429
年)、足利持氏と上杉禅秀が戦ったとき、品川右京の家臣・良影がこの地に定住し、北野天神を勧請したことにはじまる。往時は北野神社とも、社の場所が「田の端」にあったため、田端天神とも呼ばれ、土地の産土神に。田端という地名は神社の名前に由来する。

境内は古墳であった、と。
ちなみに、このあたりの地名、成田の由来。「成」宗+「田」端>成田、との合成語。成田さんでも関係あるかと思っていたが、全く関係なし。昭和44年ごろに、もとの成宗村と田端村(西田端)一帯を成田西、成宗村と田端村飛地(東田端)を成田東と呼ぶようになった。

田端神社を離れ、本日の目的地、桃園川の源流点、天沼を目指す。成行きではあるが、まっすぐ北に進む。杉並区中央図書館前を通り青梅街道と交差。青梅街道が中央線を跨ぐ橋の東詰めで青梅街道を渡る。



天沼3丁目に桃園川の源流点・弁天池天沼1丁目に。あとは、これまた成行きで天沼3丁目23あたりの桃園川の源流点・弁天池に到着。本来はこの後、桃園川緑道を阿佐ヶ谷・高円寺方面に下るのだが、少々メモが長くなった。実際の散歩コースではないのだが、先回の高円寺から下流と本日の高円寺から上流へのメモをまとめて、次回まとめることにする。

月曜日, 9月 25, 2006

杉並区散歩 そのⅠ;和泉から妙法寺・寺町を経て高円寺に

9月のとある週末。例によって、散歩に出かけよう、とは思うのだが、これといって行き先が思い当たらない。はてさて、地図を眺める。が、決まらない。こんなときの解法の選択枝はそれほど多くない。とりあえず電車に乗り、その間に考える。これがひとつ。もうひとつは、古本屋に行く。そのくらいである。

今回は古本屋へ、ということにした。散歩をはじめて多くの古本屋に出会った。たまたま入った本屋で、探し歩いていた本を見つけたり、思わず惹かれる本に出会ったり、それはそれは、嬉しい限りである。はてさて、今回はどこに。
と、なんとなく高円寺駅前の古本屋に行こう、と思った。自宅は杉並・和泉。歩いていける距離である。で、ついでのことでもあるので、高円寺駅前商店街で見かけた桃園川跡を歩き、どこに行き着くのか、なりゆきで歩こう、ということにした。
高円寺の古本屋へは,何度も歩いている。が、メモは今まで書いていないように思う。いい機会なので、自宅まわりから高円寺まで、ついでのことなので杉並の「時空散歩」を楽しもう、と思う。



本日のルート;(神田川)和泉熊野神社>龍光寺>貴船神社>文殊院>方南通り>(善福寺川)堀ノ内熊野神社>妙法寺>高円寺>(桃園川>高円寺5丁目・大久保通り>宮園橋>中野5差路>上宮橋>もみじ山公園下>堀越学園前>谷戸小学校>宝仙寺>宮下・山手通り>田替橋>末広橋>神田川合流>北新宿>新宿)

和泉熊野神社
自宅は杉並・和泉。近くに神田川が流れる。川そばの台地に熊野神社がある。和泉熊野神社。旧和泉村の鎮守さま。創建は文永4年(1267年)、ということだ。現在の社殿は文久3年(1863年)の造営。明治4年に修復されている。境内からは縄文時代後期の土器・打石斧・石棒や,古墳時代の土師器が出土している。また,境内には,徳川家光が鷹狩りの折り、手植えした、との松の大木もある。とはいうものの、初詣、お祭りなど、折に触れてこのお宮さんに出かけているが、手植えの松などは目にしたことは未だ、ない。
この熊野神社のある台地に限らず、神田川流域の台地には縄文時代の遺跡がいくつもある。京王線・高井戸駅近くには「高井戸東遺跡」。杉並清掃工場の工事の時みつかった、とか。浜田山からの鎌倉街道が神田川と交差する鎌倉橋ちかくには「高井戸塚山遺跡」がある。杉並南部を流れるこの神田川流域に限らず、杉並北部の妙法寺川や中部を流れる善福寺川流域を合わすと、杉並区内の縄文時代の遺跡の 数は200を越える、という。水辺の台地には古くから人が住んでいた、ということ、か。

和泉の歴史は古い。宝徳3年(1451年)の「上杉家文書」には和田、堀の内とともに泉(和泉)が武蔵国中野郷に属する、との記述がある。また、永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」には高井堂(高井戸)とともに永福寺(永福町)が中野郷に属すると考えられる記述があるそうだ。つまるところ、このあたり和泉・永福は平安時代までには村、というか、ちょっとした集落が成立していた、ということ。

貴船神社
熊野神社から時空散歩が少々拡がった。先に進む。熊野神社の台地下を少し北に進んだところに貴船神社。江戸時代から和泉熊野神社の末社。創建は文永年間(1264~75)とのこと。山城国貴船神社を農作雨の神として勧請したと伝えられる。祭神は「たかおかみ神」。この神は山または川にいる雨水をつかさどる竜神。雨乞い,止雨に霊力があるとのこと。
境内に「御手洗の池」。昔は和泉が湧き出ていた。で、それが「和泉」の地名の由来、となった。神田川の改修工事や宅地化の影響で昭和40年頃に水が枯れてしまった、とか。

龍光寺
熊野神社と坂道を隔てた台地上、貴族船神社と逆方向に泉湧山医王院・龍光寺。真言宗室生寺派の寺院。本尊は薬師如来立像で平安時代末期(十二世紀後半)の造立。開創は承安2年(1172年)、と伝えられる。
山号の「泉湧」は貴船神社の泉から。院号の「医王」は、本尊の薬師如来から。寺号の「龍光」は神田川の源流・井之頭池に棲む竜が川を下り、このあたりで雷鳴をともども、光を放って昇天したことに由来する、とか。
実際のところ、除夜の鐘のとき以外、このお寺さまに出かけたことはなかった。今回寺域に入り、造作の落ち着いた雰囲気に結構惹かれた。境内裏手には四国八十八箇所巡りもある。いいお寺さまであった。

文殊院
神田川脇の遊歩道に戻り、先に進む。北に進む神田川が東に向きを変える和泉4丁目の台地のうえに文殊院。本尊の弘法大師坐像は室町末期のもの、とか。縁起によると、寺の起こりは1600年。家康が駿府に開創。1627年に浅草に移り、1696年には港区白金台に。現在地に移ったのは大正9年、とのこと。都市計画にともなうお寺の移転のモデルケース、って感じがする。
神田川はこのお寺のあるあたりから環七に交差するあたりまで、標高差のある台地下を流れることになる。環七を越えた神田川は方南通りを尾根道とし、東に突き出た舌状台地に沿って北に迂回し、台地先端部で善福寺川と合流する。

方南通り

文殊院から台地を下り、神田川を越え「方南通り」へと台地の坂を登る。方南の由来は不明。ここら一帯が和田村の南の方、であったから、という説や、幕府の鷹場である野方領の南の方、などあれこれ。


ついでのことながら、「和田」の由来。地名の由来・「東京23区辞典」によると、「和田」って一般的には和田義盛の館に関係する、ってことだが、「わだ」には「川が湾曲したところ」といった意味がある、よう。
また、区画された田を町田・角田>枡田・舛田・升田>増田というのに対して、自然のままの「丸い田」のことを、丸田・円田・輪田、という。「輪」を縁起のよい「和」に置き換え>和田、との説も。
また、古来の地名「海田(あまだ)郷」が、「わだ」に転化した、という説も。ここの和田は、はてさてどれであろう、か。

方南通りから北に台地を下る。堀ノ内1丁目。すぐに善福寺川にあたる。この善福寺川は昨年、源流から歩いた。環八より上流は川筋にさしたる遊歩道もなく、少々難儀した。源流点は杉並の北西の端。善福寺池をはじまりとし、南東に向けて流れ、途中大きく蛇行を繰り返しながら、杉並区の東端で神田川に合流する。

杉並の地形
杉並の地形についてちょいとメモ。杉並区は標高30mから50mの武蔵野台地の中にある。西から東に向かってなだらかに標高が下がる。この台地を、前出の神田川、そしてこの善福寺川が気にとおくなるような年月をかけて浸食し、複雑な地形をつくる。
カシミールでつくった地形図を見る限りでは、川筋は周囲の台地より5mから10mほど削られた開析谷となっている。つまるところ杉並の地形とは、もともとの 武蔵野台地であった「平地」と、神田川と善福寺川及びそれらに流れ込む小さな川が掘り刻んだ谷筋の低地、そして、台地と谷筋との境界にある坂と、で形成されている、ということであろう。

堀ノ内熊野神社
善福寺川にかかる堀ノ内橋を渡り北に進む。堀ノ内熊野神社。旧堀ノ内村の鎮守。創建は文永4年(1267年)。戦国時代に「北条氏綱が上杉氏を破り江戸を略するや大いに社殿を修めて祝祭を行えり(豊多摩郡神社誌)」、と。本殿は安政4年(1857年)の建築。神社の前を東西に走る道は、中世の鎌倉街道と言われる。


向山遺跡
熊野神社のすぐ近く、神田川に沿って向山遺跡。古墳時代から近世にかけての集落跡、と。神田川とおなじく善福寺川筋にも多くの遺跡がある。堀ノ内には弥生から古墳時代を

中心とする複合遺跡・済美台遺跡。堀ノ内の隣の大宮地区には弥生時代末の大宮遺跡、松ノ木地区には古墳時代の松ノ木遺跡、といったように、川筋に沿って遺跡が点在する。

杉並の遺跡
縄文とか弥生とか古墳とか、いまひとつ興味がない。あまりに「遠すぎ」、リアリティがない、ということではある。が、ちょいと杉並の遺跡をまとめておく。
縄文前期には武蔵野台地最古の局部磨製石斧(約27,000年から30,000年前)を出土した高井戸東遺跡や下高井戸塚山遺跡など、神田川流域に多くの遺跡が見られる。また、妙正寺川の水源あたりには、縄文時代早期の井草遺跡が発見されている。神田川中流域には、縄文時代早創期(約12,000年前)の遺跡も発掘されている。縄文中期には、神田川流域の上にメモした塚山遺跡、善福寺川流域では松ノ木遺跡、後期には神田川流域にいくつかの遺跡が見つかっている。弥生時代には善福寺川流域の松ノ木・済美台など、神田川流域の鎌倉橋上遺跡など。いずれも直径100mを越す環濠集落を形成していた、と。古墳時代になると善福寺川流域にある大宮台地上に円形周溝墓が発見されている。6世紀前半にこの地を治めていた権力者の墓とのこと。

妙法寺
向山遺跡を離れ、環七に沿って北にすすむと妙法寺。寛永9年(1635年)の開創。元禄5年(1692年)、目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした。む?碑文谷の法華寺、ってあの円融寺、「不受不施」で物議をかましたあの円融寺 の旧名、である。
法華寺・円融寺のおさらい;もとは天台宗のお寺としてはじまったこの寺は、弘安6年(1283)日蓮宗に改宗。「法華寺」として世田谷城主吉良氏や徳川氏の保護を受け大寺院として約400年間大いに栄えた。
が、不受不施、つまりは、他宗派からは何も受けず、何も施さず、ただ信仰を同じくする人とのみ供に生きる、ってかたくなな教義のゆえ為政者からにらまれる。秀吉しかり。また、徳川幕府から大弾圧を受ける。
結果、元禄11年に法華寺は取り潰され、円融寺、となった、と。「目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした」って、その混乱・騒乱のときに起こった出来事ではなかろうか。

で、このご本尊は厄除けに霊験あらたか、ということで江戸市民の信仰をあつめ、堀ノ内の御祖師様、として大いに繁盛した、と。堂々とした仁王門、国重要文化財指定の鉄門などが知られる。

蓮華往生
ついでのことであるが、先日、種村季弘さんの『江戸東京<奇想>徘徊記;朝日文庫』を買った。その中に、「碑文谷の蓮華往生」って記事があった。法華寺の話である。
法華寺に限らず、日蓮宗のお寺には美男僧が多く、そのアイドル僧見たさに、女性の参拝が押し寄せた、と。まあ、これはご愛嬌。参拝客が押し寄せたのは、「蓮華往生」というイベントのため、というまことしやかな話もある。

蓮華往生とは、信仰故に即身成仏を願う信者を蓮華の台にのせ、信者が周りでお題目を唱えれば、日蓮のご法力で極楽往生できるというもの。が、実際は、蓮華台の花を閉じ、周囲からわからないようにして下から槍で突き殺していた、と。悲鳴は周囲の読経や鐘・太鼓の音にかき消され、わかるはずもなく。後は火葬し家族に引き渡すので、殺人の証拠もない。逆に家族は成仏を喜び多額の喜捨をした、と。その額、百両とも二百両とも言われている。が、その悪事も露見。首謀社の坊主・日附は遠島処分となった、と。
こういったスキャンダルもあり、法華寺が取り潰された、とか、そもそもこの蓮華往生などというスキャンダルは、不受不施の教義を嫌った当局のでっち上げ、といった説もあり、その上、悪事を見つけたのは一心太助、といった説もあり、なにがなんだか、わからなくなってきた。このあたりでメモを止める。

八丈島流人帳
とはいいながら、もう少々話を続ける。本日、青山学院大学に仕事で行く途中、青山通り沿いの古本屋で『八丈島流人帳;今川徳三(毎日新聞社)』を見つけた。中に、「不受不
施僧」という記事。元禄4年、26人の不受不施僧の流人の記録。また、元禄11年には8人の不受不施僧の記録があり、その中には「碑文谷 法華寺 日附」と記されている。遠島の理由;八カ年以前、悲田派お停止の説、誓詞まで仕り候ところ、あひ背き、(中略)改派の催しに同心いたし候段、重罪につき遠島仰せつけ候」、と。あれこれ襷が繋がっていく。

寺町

妙法寺での時空散歩、結構深掘り、と相成った。先を進む。妙法寺の北、青梅街道とのあいだには寺が集まり寺町をつくっている。いずれも明治の末から大正にか けて都心から移ってきたもの。このあたりの地名、堀ノ内って、中世の武士や在地領主の館のこと

。館の周囲には堀を巡らしていたので、この名前がついたのだろう。土居、も同じ意味、と。また、梅里は梅が多くあった。というわけではなく、青梅街道に近い、というだけのこと。

青梅街道
青梅街道って、慶長11年(1605年)、大久保長安が、青梅の成木・小曾木の石灰を江戸に運ぶために整備した道。江戸城の白壁の材料につかうため、とか。 青梅というか八王子の裏手の山々で石灰を取り出すために山を切り崩した跡を目にした。実際八王子や秩父を歩いて、切り崩された山々を目にしたこともあり、 おおいに実感。

西方寺
寺町を成行きで進むと西方寺(さいほう)に。慶長10年(1605年)、家光の弟、駿河大納言忠長が創立、と。もとは新宿駅北口あたりにあったが、大正9年にここに移る。境内にはマリア観音と呼ばれる石仏・キリシタン灯籠。また、明治の政商山口(山城屋)和助の墓がある。
山県有朋の推挙で一時巨万の富を得たが、生糸の暴落で公金返還できず陸軍省内で割腹し果てた。で、忠長卿って、二代将軍秀忠の子。幼少のころ国松とよばれ、溺愛される、と。が、結局は兄の竹千代こと家光が三代将軍に。忠長は甲斐そして駿河の国を拝領。が、故なきご乱行のため、甲府での蟄居。秀忠死後は家光より高崎閉塞の命が下され、高崎城にて自害して果てる。ご乱行の真意についてはあれこれ諸説あり。

桃園川緑道
西方寺を離れ、北に進み五日市街道入口交差点に。すこし西に進み、高円寺パル商店街を北に進む。駅のすこし手前にいかにも川筋跡といった遊歩道。これが桃園川緑道。先日、この川筋跡を西に、阿佐ヶ谷方面に辿った。水源は天沼あたり。次回、この水源からもう一度阿佐ヶ谷まで下り、メモしようと思う。今回はここより下流へ歩く予定。駅前のガード下にある古本屋でのんびりした後、さてさて、緑道を歩くことにする。メモは少々長くなったので、本日はこれで終了。川筋下りのメモは後日 記す。