火曜日, 6月 17, 2014

相模原台地散歩 そのⅠ;相模原段丘面と田名原段丘面を画する段丘崖線を辿る

先日、中津川台地を散歩したとき、この中津原台地って幾つかに分けられる相模原台地の段丘面のひとつであることを知った。Wikipediaに拠れば、「相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河岸段丘である。
大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群、中津原面、田名原面群、陽原(みなはら)面群に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている」とある。
相模原台地のイメージとしては相模原にしても、橋本にしても、昔軍の軍需工廠があったところであり、現在は工廠に代わって工場群が建ち並ぶ平坦な台地にといったイメージしかなく、高位段丘面(相模原面群、中津原面)、中位段丘面(田名原面群)、低位段丘面(陽原(みなはら)面群)といった数段に分かれる段丘面から成るといったことは結構新鮮な驚きであった。
で、段丘面がある、ということはそれぞれの段丘面の境には崖線があるだろう、崖線があれば湧水もあるだろう、湧水があれば、それを水源とした清流もあるだろうと、俄然相模原台地散歩にフックがかかった。実際カシミール3Dで等高線に従い色分けした彩色図をつくると、明らかに段丘面が色分けされる。そして、その色分けされた段丘面を見るに、相模原面には境川、田名原面には道保川、姥川、鳩川が流れ、陽原面には八瀬川が流れていた。
ということで、相模原台地の崖線・湧水巡りに出かけることに。最初は上位面の相模原面と中位面の田名原面を区切る崖線・湧水散歩。二回目は中位面の田名原面と低位面の陽原面の崖線・湧水散歩とし、その後はどうせのこと、「後の祭り」があるだろうから、成り行きで、そのフォローの散歩でも、といった大雑把な段取りではある。
本日のルート;京王線・橋本駅> てるて橋>県営企業団・北相送水管>公共下水道雨水吐き室>道保川源流域>道保川公園>道保川>淡水魚増殖試験場>横浜水道みち緑道>姥川・枡田橋>姥川・鳩川合流点に >大正坂下交差点>道保川から鳩川との分水界を辿る>下溝八幡宮>姥川が鳩川に合流>鳩川・道保川合流>姥川分水路が相模川に>三段の滝>相模線・下溝駅

相模線・南橋本駅
京王線橋本から相模線に乗り換え南橋本駅に。相模線は神奈川県茅ケ崎駅と相模原市の橋本駅を結ぶJR東日本の路線。もとは、大正10年(1921)、相模川の砂利運送を目的に私鉄の相模鉄道として建設されたが、戦時中、首都東京が攻撃されたときに備え、首都圏の迂回ルート路線として国有化され、国鉄の民有化を経て現在に至る。
駅から成り行きで南に下り、国道129号・上溝バイパス「下の原」交差点に。この辺りから道は下りとなる。相模原段丘面と田名原段丘面の境に差し掛かった、ということだろう。

日枝神社
バイパス脇の坂を下る。道の北に日枝神社。作ノ口地区の鎮守さま。道脇に幾つかの石碑が建つ。中には「百番観音」と刻まれた石碑もあるようだ。その石碑は日枝神社の逆側、バイパスから分かれる脇道の「観音辻」にあったものが、道路拡張にともなってこの社に移された、と言う。日枝神社のあたりの坂を観音坂と称するようだが、その由来となる観音様であろうか。
鳥居を見ると、左は「日枝神社」、右は「蚕影山神社」、拝殿前の石碑は「御嶽神社」とある。幾多の神様が同居しているのは、明治期に集落の社を合祀したものだろう。拝殿にお参り。創建不詳。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。

○大山咋命
Wikipediaに拠れば、「名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味する、と。『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑(なりかぶら;注「音をたてて飛ぶ鏑矢」)を神体とすると記されている。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、天台宗および延暦寺の守護神ともされた。(中略)太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建て、江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている」とある。

ところで、山王権現は日吉山王権現と称される。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開き、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。

○蚕影神社・御嶽神社
蚕影神社(こかげじんじゃ)は、茨城県つくば市神郡に総本社のある社。正式表記(旧字体)は蠶影神社。蚕影神社は神衣を織るための養蚕、製糸、機織の技術伝来の地として養蚕の神を祀っている(Wikipedia)。
境内にある小さな祠が蚕影神社だろう、か。また、御嶽神社は明治期、一時合祀されたが、悪いことが続いたため再び元の場所に戻して祀るようになった、という。下九沢に御嶽神社があるが、それがこの御嶽神社だろう。
○観音辻
観音辻には「大山道」の石標が残る、という。八王子、橋本から作ノ口、上溝を経て下当麻に進み、当麻の渡しで上依知に渡り大山へ向かった道である。「埼玉往還」、「八王子道」などとも呼ばれた。
また観音辻付近、現在の「作の口踏切」辺りにその昔「相模線・作の口駅」があったが、相模線の国有化の際に廃止されたようである。

田名原段丘面
観音坂を下り切り、後ろを振り返るに崖線の斜面林が相模原段丘面と田名原段丘面を区切り、南西へと弧を描いて連綿と続く。段丘面の比高差は30mほど。フラットと思っていた相模原台地の段丘面のギャップをはじめて実感する。

■相模原台地
田名原段丘面も、はるか昔に相模川によって形作られたものと言う。相模原面の等高線を見ると、南西に向かって地形が下っている。もともと、といっても、はるか昔の、その又昔(50万年前)、相模川は多摩川方面へと流れ東京湾に注いでいた。それが、なんらかの地殻変動により地形に変化が起こり、30万年前頃、その流路を南に変え、橋本から藤沢にかけて大きな扇状地をつくった。これが相模原台地の土台となっている。その台地には40万年前から活動をはじめた箱根火山からの大漁の火山灰・軽石が降り注ぎ台地を覆っていった。これが5万年前頃まで続いた、とか。
その相模台地に変化が起こったのは5万年前から1万年前に起きた氷期。2万年前をピークとする氷期により海面が低下し現在より100mも低くなった、とのこと。その結果傾斜が急になった相模川の流れは急流となり、台地を開析し、新たな段丘面を形成した。これが田名原段丘面であり、おおよそ3万年ほど前のこととも言われている。
現在相模原段丘面にも田名原面に相模川は流れていない。氷期がピークを越えた後、6000万年前の頃と言うから縄文時代に温暖化が進み、氷が解け海面が上昇し、相模川の谷筋に海水が入り込んだ、とか。この縄文海進期に緩やかな傾斜となった相模川が「探し当てた」流路が現在の流路なのだろう。
相模原面の境川は往昔の相模川の名残とも言われる。また田名原面には現在、鳩川、姥川、道保川が流れる。往昔は崖線より湧き出した湧水が源流だろうが、さて現在はどうだろう。実際に歩いて確かめてみる。

鳩川
段丘面を分ける崖線の下を流れる姥川の源流点が最初の目的地ではあるのだが、「作ノ口交差点」のすぐ先に鳩川が流れる。この地の北、相模原の上九沢の大島団地付近にその源を発し田名原面を下り、海老名で相模川に合流する姥川は、この作ノ口交差点辺りでは、崖線から離れ段丘面の真ん中を流れるが、地形図をチェックすると源流部辺りでは相模原段丘崖傍を下っている。田名原段丘面形成に「貢献」したであろう鳩川に「敬意」を表し、ちょっと立ち寄る。市街地をゆったり流れる鳩川を眺め、姥川源流点に向かう。

姥川源流点
上溝バイパスを「作ノ口交差点」まで戻り、その右手にある姥川源流点に向かう。成り行きで道を進むと緑の植え込みといった一隅があり、そこから暗渠が続いている。この緑の植え込みの辺りが源流点でのようである。姥川源流付近は、工業用地からの排水や雨水対策のため河川改修工事が行われたようであり、その結果として現在の姿ではあろう。現在では崖線からの湧水といった風情とはほど遠い姥川の源流点である。




横山丘陵緑地・姥沢地区

源流点からの暗渠はすぐ終わり、排水兼流量調節用のような水門からコンクリート溝の開渠となって民家の間を流れる。この水門は昔の工業用地からの排水を行っていたときの名残なのだろうか。さすがに工場排水を垂れ流しはしていないだろうが、現在でも処理された工場排水や雨水が姥川の源流点へと流されているのだろうか。
源流からの流量の名残も見えない姥川が、この水門から先には清冽とは言い難い水が流れ出ていた。現在はわからないが、平成22年(2010)の記事には「姥川では上流部で水質管理されていない排水が流れ込んでいる」とあるので、現在もその状況が続いているのかもしれない。
突如水路が現れた姥川の流路を少し辿った後、流路から離れ相模原段丘面と田名原段丘面の崖線に整備された横山丘陵緑地に向かう。案内に従って歩を進めると、かつては崖線からの豊かな湧水に浸されてだろうと思われる緑地が現れた。

○「照手姫遺跡の碑」
緑地は谷戸と言った景観を呈し、緑地入り口から湧水によって刻まれた「谷」へと崖道を下る。緑地には木道が整備されたおり、先に進むと「照手姫遺跡の碑」があった。
碑文には「この地は姥川の水源地として常に清水こんこんと湧き出づる泉であった。里俗称するところによればかっては横山将監の娘照手姫の産湯の水に使い、長じては朝な夕なにその玉の肌をみがいたともいう。照手姫は小栗判官満重との説話の主である。
往時茫々 今や市勢進展とともに工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて僅かにその伝承のみを残すにいたった。
巷間謡わるる ほんに横山照手の前の 眉に似たよな三日月がかかり 虫も音を引くほそぼそと の風情を偲びつつ 永くその跡を伝えんとするものである」と刻まれていた。

この石碑はもともとは、先ほど訪れた姥川の源流点辺りに昭和37年(1962)頃、河川改修を記念して建立されたようであるが、平成 14 年(2002)頃、姥沢地区の横山緑地が整備された時にこの地に移された。碑文にあった、「工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて」といった下りは、当時の源流点での工事を記念して建立されたものであり、この地のことを指すのではないようだ。

○照手姫
照手姫って、説教節で名高い『小栗判官』の悲劇のヒロイン。この緑地の地名の由来とも言われる横山党一族の館がこの崖線上にあり、照手姫は横山氏の姫とか、あれこれ説はあるが、そもそも実在の人物かどうかもはっきりしていない。実際、甲州街道の小仏峠を越えた時、美女谷温泉に照手姫出生の地との伝説が伝わっていた。

 ○小栗判官
先日、相模のサバ神社を辿る散歩の折り、西俣野で「伝承小栗塚之跡」の石碑に出合った。諸説あるなかで、照手姫と小栗判官が最初に出合った地とされる西俣野に伝わる小栗判官と照手姫の話をメモする。
「小栗判官」は遊行上人が、仏の教えを上手な語りで人々に説き教える「説教節」のひとつ。中世(室町期)にはじまった口承芸能であるが、江戸期には歌舞伎や浄瑠璃の流行で廃れ今は残っていない。森鴎外の「山椒大夫」も説教節の「さんせう大夫」をもとにしたものである。

で、その「小栗判官」であるが、常陸国の小栗城主がモデルとはされるも、「小栗判官」自体は創作上の人物ではある。物語も各地を遊行した時宗の僧(遊行僧)により全国に普及し、縁のある各地にそれぞれ異なった伝承が残り、また浄瑠璃、歌舞伎などで脚色され、いろいろなバージョンがあるようだが、西俣野に伝わる小栗判官の物語は、各地を遊行した時宗の僧侶の総本山である藤沢市遊行寺の長生院(元は閻魔堂とも称された)に伝わる物語をベースにしたものである。

その原型は室町時代、鎌倉公方と関東管領の争いである上杉禅秀の乱により滅亡した常陸国の小栗氏の御霊を鎮める巫女の語りとして発生。戦に破れ常陸を落ち延びた小栗判官。相模国に潜伏中、相模の横山家(横山大膳。戸塚区俣野に伝説が残る)に仕える娘・絶世の美女である照手姫を見初める。しかし盗賊である横山氏の知るところとなり、家来もろとも毒殺される。照手姫も不義故に相模川に沈められるが、金沢六浦の漁師に助けられる。が、漁師の女房の嫉妬に苦しめられ、結果人買いの手に移り各地を転々とする。
閻魔大王が登場。裁定により、小栗判官を生き返らせる。そのとき閻魔大王は遊行寺の大空上人の夢枕に立ち「熊野本宮の・湯の峰の湯に入れて回復させるべし」、と。上人に箱車をつくってもらい「この車を一引きすれば千僧供養・・」とのメッセージのもと、西へと美濃へ。
その地、美濃国大垣の青墓で照手姫が下女として働いていた。餓鬼の姿を見ても小栗判官とはわからないながら、5日の閑をもらい大津まで車を曳いていく。その後は熊野詣の人に曳かれ湯の峰の湯に浸かった餓鬼は回復し元の美男子に。やがて罪も許され常陸国の領主となり、横山大膳を討ち美濃の青墓で照手姫とも再会しふたりは結ばれた、って話。

なお、下俣野には小栗判官ゆかりの地が残る。下俣野の和泉川の西には閻魔大王が安置され、名主である飯田五郎右衛門宅にあったものが移管された地獄変相十王絵図、閻魔法印、小栗判官縁起絵が残る花応院などがある。

横山丘陵緑地・姥沢地区を彷徨う
「照手姫遺跡の碑」から少し谷頭に近い崖線方向へと彷徨っていると、排水管なのか導水管なのか、ともあれ水管が残っていた。その時は、乏しくなった姥川源流域の湧水を補う相模原段丘面の雨水「養水」口だろうか。
崖線から「照手姫遺跡の碑」に戻り、緑に囲まれた木道を先に進む。嘗ては豊であっただろう湧水地も、現在ではちょっと湿った、といった程度でしかない。それでも足元の一面の緑は気持ちいい。崖線上下の比高差も20m以上はありそうだ。

○照手姫伝説伝承の地・イラストマップ
歩を進め、横山丘陵緑地が姥川に接する辺りに到ると、地面はまったく「湿気」はなくなる。姥川脇には「照手姫伝説伝承地」の案内と「てるて姫の里 ロマン探訪の小路イラストマップ」。
「照手姫伝説伝承地」には、市内に残る照手姫伝説伝承地として、この横山段丘崖を中心に、姥沢地区の他、姥沢源流域や姥沢地区に接する日金沢(ひがん)沢、横山台の榎神社、下溝の古山地区などにその伝承が残されている、とあった。古山地区はここからちょっと離れているため今回辿ることはできそうもないが、そこには伝承地は「十二塚」とか「ババヤマ」といった伝承地が残ると案内されていた。
また、「イラストマップ」には、照手姫遺跡の碑は、清水の湧き出る姥川最上流部からこの地に移されたこと、現在地から少し姥川を遡ったところに照手姫と乳母の日野金子の姿を描いた「姥沢幻想の碑」、姥川を少し下ったところには照手姫が姿を映し化粧をしたという「鏡の泉」、台地上には榎神社などが残ると紹介されていた。その案内を頼りに榎神社と鏡の泉を訪れることにする。

横山緑地・日金沢地区
先に進むと、横山丘陵緑地の姥沢地区と日金沢地区の境を示す道標。日金沢は「ひがんさわ」と読む。照手姫の乳母である日野金子由来の地名、と言う。

せどむら坂
ほどなく「せどむら橋」。橋から「せどむら坂」が崖線を上るが、橋の脇に道祖神や「せどむら坂改修記念」の石碑が並ぶ。坂の名の由来は坂下にあった村名、から。
ヘアピンカーブの坂を上る途中に横穴。入口が木の柵で守られえている。横穴古墳なのか、鎌倉に見られる「やぐら;墓穴」なのか、説明もなく不明である。

榎神社
坂を上り切り崖線を切り裂く相模線を越え、道を右に折れ線路に沿って進み、行き止まりを左に折れると榎神社があった。ささやかな境内に照手姫が祀られている。
案内には「この神社は「榎さま」として親しまれ、伝説の人物照手姫を祀っている。照手姫は武将横山将監の娘で、敵方の武将小栗判官と恋仲になる悲劇の主人公であり、相模原の昔話にも残されている。
榎神社の神木であるこの大榎は、明治18年(1885)に植えられた二代目であるが、初代の榎は照手姫がさした杖に根づいたもので、枝が下を向いた「さかさ榎」であったと伝えられている」とあった。
その初代の榎であるが、あまりにも大きくなり、付近の耕地の日当たりが悪くなり、ために明治16年(1884)頃切り倒したところ、村民に疫病が蔓延したため二代目の榎を植えたとのことである。




○姥沢の横山党

横山党とは児玉党、村山党など共に鎌倉幕府の中核となった武蔵七党のひとつ。多摩の横山庄を中心に武蔵の各地に勢力を拡げた。またその勢力は南下して愛甲氏を破り相模に橋頭堡を確保。一族が愛甲氏を名乗り、海老名氏や波多野市との姻戚関係を結ぶなど相模に勢力を拡げ各地に進出。その地名を性として相模に覇を唱える。相原、小山、矢部、田名など、現在も地名にその名残を残す。その横山党は建保元年(1213)の和田合戦で和田義盛に与し北条氏に敗れ勢力を失うことになる。
で、この照手姫伝説との関連での横山氏であるが、時代は室町で横山党は和田合戦で壊滅しているわけで、由緒ある「横山党」、というより、最初に『小栗判官』ありき、ということで、その話の中に登場する横山某がこの地に住んでいた故の後付けではないか、という説が妥当なところ、かと。

鏡の泉
榎神社を離れ、再び崖線の坂を下り姥川脇に戻る。緑の斜面林に覆われた崖線下を流れる姥川に沿って少し下ると流路脇に「鏡の泉」。崖線下の岩の間から湧水が流れ出している。姥川に湧水からの水が注ぐのは、ここがはじめて。上にメモしたように、照手姫が姿を映し化粧をしたいという話が残る。

日金沢橋
鏡の泉を少し下った川脇に「相模原市の多自然川つくり(姥川)」の案内。「姥川は、中央区上溝1丁目からはじまり田名原段丘を東に流れ南区下溝で鳩川に合流し相模川へ流れ込む延長6.5キロの河川です。
河川改修を実施する上で、自然環境等に配慮した「多自然川つくり基本方針」を踏まえ、横山丘陵地からの地下水・湧水が自然と流れ込むよう、石材等を詰めた鉄線カゴ(カかごマット)を使用し、常時水が流れる部分は捨石等により蛇行させ、瀬や淵など多様な流れを創出する整備を行っています。これらにより安定的な水循環を確保し、併せて川自身が持つ浄化作用の再生を図る事業を行っております」とあった。
川に沿って歩くと、なるほど説明にあった護岸整備が見て取れる。日金沢橋を越えた辺りでは、鉄線カゴ(カかごマット)の護岸がよくわかる。目には見えないけれど崖線からの湧水が上流部で排水に少々汚れた姥川の水を浄化しているのであろう。

てるて橋
日金沢橋を越えた辺りから姥川は崖線を離れ始める。それにつれて、川の周囲には住宅が建ち並び、自然の景観は乏しくなってくる。先に進むと大きな通りに橋が架かる。この通りは相模線・上溝駅前からの通りでもあり、人通りも多い。少し読みにくいのだが、「てるて橋」と刻まれているようだ。

姥川の源流点辺りから崖線を切り割って走ってきた相模線も上溝駅から大きく弧を描いて田名原段丘面に下りてくる。相模鉄道も南武線や東急玉川線、京王相模原線、西武多摩川線など多くの鉄道事業者と同様、その発足時の主要事業が「砂利採取」であったわけであるから、相模川に近づくのは当然ではあろう。

県営企業団・北相送水管
「てるて橋」を越え、「堰の橋」から「田中橋」へと下る間に姥川にブルーにペイントされた大きな送水管が見える。何となく気になってチェックすると、この水管は神奈川県企業庁(神奈川県が経営する地方公営企業。住民の福利厚生を目的に税金ではなく、独立採算で運営される)がおこなう水道事業網の水管。県営企業団の水道事業は相模川水系の寒川や谷ヶ原で企業庁が取水した自己水源、そして酒匂川・相模川の水を水源とする神奈川県内広域水道企業団(神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市が昭和44年に共同で設立した「特別地方公共団体」)からの受水をもとに、湘南、県央、県北及び箱根地区など12市6町を給水区域とし、神奈川県民の約31パーセントにあたる約278万人に給水している。
で、この水管はその中でも、相模ダムでの発電放流水を下流の沼本ダムで取水し、津久井隧道を経て津久井分水池(津久井湖から西に下る相模川が大きく南に流路を変える辺り)に導き、分水池で県営水道、横浜水道、川崎水道などに分水。県営水道に分水された水は、津久井分水地のお隣にある県営谷ヶ原浄水場で浄水され水道水となり、相模原、厚木、愛川町の45万人を潤している水道網の一環のよう。

○北相送水管の経路
北相送水管の大雑把な経路は谷ヶ原浄水場から、相模川に沿って大島地区に下り、渓松園辺りから県道48号を大島北交差点まで進み、交差点から左に折れ北東に向かい六地蔵に。そこから南東に「作の口交差点」方向へと下り、この地で姥川を渡る。
姥川を渡った水路は南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、途中相模原に分水しながら、下原交差点で県道52号に当たる。北相送水管は県道で右に折れて県道にそって進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到る。
何気なく撮った一枚の水管写真から、神奈川の送水ネットワークの一部が見えてきた。ちょっとしたことにでも好奇心を、って成り行きまかせの散歩の基本を改めて想い起こす。

公共下水道雨水吐き室
田中橋から川筋を離れ、築堤上を走る相模線をくぐり、久保ヶ谷戸地区に入る。左手に再び崖線の緑の斜面林を見遣りながら宅地化された一帯を成り行きで進むと水道施設らしき構造物と敷地がある。名称をチェックすると「公共下水道雨水吐き室」とあった。
雨水調整池は散歩の折々によく出合うのだが、「雨水吐き室」って言葉ははじめてなのでチェックする。下水道には下水と雨水を別々の管渠で管理する「分流式」と同一の管渠で管理する「合流式」のふたつがあり、「雨水吐き室」は「合流式」の管理方式のひとつ。
この方式では、通常下水は処理場に送られるが、大雨時などに大幅に(晴天時の下水量の3倍から5倍程度)流入したとき、大雨で希釈された下水を室内にある堰を越流させ河川に排出方式のよう。その吐き出し口だろうか、雨水吐き室の少し下流の姥川右岸に、おおきく口を開けた箇所が見える。

道保川源流点
蛇行し、一時崖線に近づいた姥川と離れ崖線方向へと進む。次の目標は少し崖線から離れた姥川に代わり、相模原面と田名原面を画する崖線下を流れる道保川への「乗り換え」のためである。
道脇の小祠にお参りし、崖線を切りさいた車道の「丸崎交差点」に出る。交差点から崖線下を通る道を進んでいると、道脇に崖線に入るアプローチが目に入った。このアプローチが道保公園に続くかどうか不明ではあるが、とりあえず小径に入り込む。小径は道保川公園へと続いていた。
道保川の源流点であろう一帯は湿地と水草に覆われて誠に美しい。湿地には木道が整備されているが、道保川の源流点を求め一帯を彷徨う。グズグズの泥湿地ではあるが、崖下から流れ出すささやかな湧水を見てはちょっと幸せな時を過ごす。
○道保川
道保川は相模原市の上溝地区の道保川公園にその源を発し、模原段丘面と田名原段丘面を画する崖線下を流れ、下溝で鳩川に合流する延長4キロ弱の河川。水源は段丘崖線からの湧水を主源とし、ポンプアップされた環境用水(地下水)。源流点から続く崖線の斜面林と合わせその豊かな環境保全への取り組みが成されている。

道保川公園
源流点一帯から崖線に沿って整備されている道保川公園を進む。進むにつれて如何にも公園といった風情となり、水草の茂る湿地の中の木道を進む。湿地は崖線に沿って南北に延びているが、湿地からは崖線の斜面林に向かって大小いくつかの沢が伸びている。
最初に現れるのが「さえずりの沢」。この沢は野鳥観察をテーマとしている。ついで「こもれびの沢」は山野草観察、「ふたご沢」は森林生態観察がそのテーマとなっており、公園南端の「水鳥の池」の周囲は「せせらぎの沢」と名付けられている。そのせせらぎと野鳥のさえずり故か、平成8年(1996)には環境庁より「残したい“日本の音風景100選”」のひとつに選定されている。
公園内を気ままに彷徨う。沢のテーマに関係なく、沢の谷頭辺りで滲み出す湧水、それが溜まった小池、いかにも「山葵田」跡といった石組みが残る。まさしく「谷戸」といった景観が残る。実際、この地が公園として整備される前は谷戸田であり、山葵が栽培されていたようである。

この豊かな湧水に恵まれる道保川源流域も、昭和55年(1980)代より湧水量の低下が顕著となり、沢が涸れるといった状況になったとのこと。原因は崖線上の湧水涵養地である相模原段丘面の宅地化。
相模原を象徴する地形のひとつである、「河岸段丘と斜面林、豊富な湧水、せせらぎを包括的に保全するための施策」が実施され、現在は湧水だけでなく補助水源として地下水を6基のポンプで揚水、また10mから20mの井戸掘削も計6本整備されている。現在、湧水とポンプ揚水量の構成比は豊水期は湧水が10倍程度、渇水期(1月下旬から)でも2,3倍はあるというから、湧水量が低下したというものの、豊かな崖下からの湧水に恵まれている。
豊かな水を湛えた水鳥の池の脇を抜け、久しぶりに湧水を源流とする川の源流域を堪能し公園を離れる。

南へと続く崖線の斜面林
公園を出ると、相模段丘面よりの七曲り坂の下り口辺りで道保川の水は一瞬地表から姿を消すが、道の対面で再び顔をだす。水路は公園での風情とは異なり、深く刻まれた谷となる。南へと連綿と続く崖線の斜面林や道保川の谷筋は野趣豊かであり、谷筋を歩くことはできそうもない。
道保川の谷筋を見下ろしながら道を進む。道保川も道から離れたり、近づいたはするものの、谷筋は整備されておらず道から見下ろすのみ。崖線から流れる沢水を合わせた先に、相模段丘面から下る車道の上中丸交差点に。

淡水魚増殖試験場
道を進み、成り行きで道保川近くを通る小径を進むと道保川と道の間に、いくつかの水槽をもつ施設がある。地図には「淡水魚増殖試験場」とあった。が、あまり活動をしている雰囲気はない。昭和40年(1965)から全国に先駆けて鮎人工種苗生産技術の開発などをおこなったようだが、平成7年(1995)に水産総合研究所内水面試験場として相模原市大島に移転した、とのことである。

横浜水道みち緑道
小径から「下原やえざくら通り」にそって少しすすむと、道の左手の住宅街の中から異様に一直線の道がクロスしてきた。ちょっと気になり周囲を注意すると、道脇に案内があり、「横浜水道みち緑道」とあった。
案内によると、「横浜水道みち トロッコの歴史;三井用水取入れ所から17.5km。この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)我が国最初の近代水道として創設されました。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です(横浜市水道局)」とのこと。
緑道を道保川に向かう。水路橋か水路管など見えないものかと先に進むと橋がある。水路橋はない。それでは水路管など橋下を通っていないものかと橋の両岸をチェックするが柵や木々に遮られ橋下を見ることができない。で、辺りを彷徨っているとフェンスに案内があり「深度;計画川床下6.338m下 外径Φ1500mmコンクリート管 内径Φ1500mmダクタイル鋳鉄管」といった表記がある。昔は水管橋があったようだが、現在は水路管はコンクリート管と二重構造となって川床下を通っているようである。
「横浜水道みち緑道」は崖線から相模原段丘面へと上る。横浜水道みちは自然流下方式であり、下から上って、とは思うのだが、開渠でなく鉄管であれば、取水口と最終配水池の標高差があれば、途中での凸凹は問題ない、とのことである。実際取水口辺りの標高は142m、最終地の野毛山は40m程度である。もっとも、これは創設期の明治の頃であり、その後の改修工事などでポンプによる揚水なども可能になっているのかとも思うのだが、確証はとってはいない。

○横浜水道みち
戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。その後、明治23年(1890)の水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することとなり、同年4月から横浜市に移管され市営として運営されるようになり、現在横浜市水道局の管轄にある。
相模川が山間を深く切り開く上流部、案内にもあった、川井接合井から野毛山浄水場までの起伏の多い丘陵などを、基本、一直線に貫く水路の建設は難航したと言う。また、近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)を現場に運ぶには、相模川を船で上流に運び上げたり、この案内にもあるように、トロッコ路を敷設し水管を運び上げたとのことである。

経路を見るに、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りを、一直線でこの地まで進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。 経路や施設なども創設時と現在では状況も大分異なっているとは思う。実際、この地から緑道を辿った崖線の相模原段丘面にある相模原沈殿地は、昭和29年(1954)の第四回拡張工事の際に竣工された横浜水道みちの施設と聞く。そのうち、一度実際に歩いて実感してみたいと思う。

姥川・枡田橋
横浜水道みち緑道を離れ、先に進むと県道52号に当たる。この辺りが道保川と姥川が再接近しているところ。ふたつの川を分ける地形は一見する限りは平坦な市街地といったもの。道保川筋から姥川へと乗り換えるべく県道52号を西に向かうと、ほどなく姥川にかかる枡田(しょうだ)橋に出合った。坂を上った実感もなく、地形図で標高を確認すると、道保川脇が標高70m、姥川への分水界の標高は73mといったものであった。




姥川・鳩川合流点に

地図を見ると枡田川から少し下った辺りで、姥川は鳩川に合流する。合流点の雰囲気を確認すべく、姥川に沿って下る。川脇に道はないため、道なりに南に進み姥川が鳩川に合流する地点に。散歩の初めに、田名原段丘面に下りたとき、崖線から既に離れ、崖線下の流れを姥川に「任せた」鳩川が、この地でやっと合流した、といった様である。

鳩川から道保川に乗り換え大正坂下交差点に
都市河川といった趣きの鳩川を成り行きで下り、これまた成り行きで道保川へと分水界を越える。分水界といっても姥川の標高が68m、分水界が70m、そこから65mの道保川筋へと下る、といったものであり、エッジの効いた分水界越えとはほど遠い。下りきったところは大正坂下交差点。再び南に連綿と続く崖線の斜面林が見えてきた。
葛篭(つずら)折れ大正坂は地質フリークには有名な坂のようである。切り通しには関東ローム層が剥き出した露頭を観察できる階段まで整備されているようだ。地質・地層にフックがそれほどかからない小生はそのままスルー。

道保川から鳩川との分水界を辿る
美しい緑を保つ道保川を下り、道保川が鳩川に再接近するあたりで鳩川に乗り換えるべく分水界に向かう。道保川の標高は62mほどだが、比高差3mほどの分水界というか「尾根道」に上り、鳩川を眺め、再び分水界に戻る。

下溝八幡
道なりに進むと、広い境内の社が見える。鳥居をくぐって参道をすすむと、少々小振りな本殿。境内右手にはトタン葺きの神楽伝や不動堂があった。祭神は応神天皇。本殿は新築されている。平成24年(2012)不審火で焼失したようである。
境内にある案内によると、「この神社は、天文(1532~55)年間に溝郷が上溝と下溝の両村に分かれた際に、下溝村の鎮守として上溝村の亀ヶ池八幡宮から勧請されて創建された神社と伝わる。また、中世の屋敷跡と思われる「堀の内」と呼ばれる地点からみて、その裏鬼門(西南)にあたるので、ここに建立されたとの説もある。
参道の脇にある小祠には、市の重要文化財に指定されている不動明王坐像が安置されている。これは享保9年(1724)に後藤左近藤原義貴(よしたか)が製作したもので、もともとは別当大光院の本尊であった」とある。

○堀之内
堀の内の由来は、北条氏照の娘・貞心尼が家臣山中大炊助に嫁いだ館および家臣団の居住域とか。また化粧田として上溝、下溝の地が与えられたという。 中世には鳩川・姥川沿いに「溝」という地名があり、その後上と下に分かれるが、その地はおおよそ田名原段丘面であり、八王子往還(大山道)が通り、定期市が開かれ、明治には警察所や学校が置かれるなど行政・経済の中心地であったようだ。その頃、水の乏しい段丘上の相模原は文字通り一面の原野が拡がっていたようであり、相模原段丘面が開けていったのは昭和5年(1930)頃からの相模原面での軍都構想の進展による、とのこと。

道保川と鳩川の合流点
下溝八幡を離れ、道なりに進み道保川筋に戻る。下溝八幡の標高は65m、坂を下りきったところの道保川に架かる泉橋の標高は59mであるから、6m程度の比高差があった。泉橋の上流には川床に緑も多く、自然のままなのか、環境整備の故なのか定かにはわからないが、ともあれ未だ美しい川の姿を保っている。
泉橋から西に向かい鳩川に架かる大盛橋に。こちらは都市河川といった趣きである。大盛橋を下流に進むと鳩川に道保川が合流する。道保川も鳩川との合流点はコンクリートの壁がつくられている。ここでやっと田名原段丘面を流れる鳩川・姥川・道保川が一本になった。

鳩川分水路
道保川の水を集めた鳩川は流れを東に向け相模川に注ぐ。水路を相模川方面に進むと大下(おおじも)橋が架かるが、そこには「鳩川分水路」とあった。鳩川の水を相模川に「吐く」ために昭和63年(1988)に建設されたもの、と言う。大下橋の先は相模線が走り、その先の県道46の先には相模川、その向こうには丹沢の山塊が拡がる。

南下する鳩川
鳩川放水路が相模川に合流する姿を見る前に、道保川と鳩川の合流点あたりを彷徨っていると、道保川が鳩川に合流する手前から南に水路が延びる。地図で確認すると「鳩川」とあった。鳩川はこの分水路の先も南下し、海老名辺りで相模川に注ぐ、と言う。水量もこの地から南は大幅に少なくなっている。
地図で鳩川流路をチェックしていた時は、鳩川と道保川が合流し相模川に注ぐこの地が鳩川の終点であろうし、そうすれば崖線もこの辺りで切れる、ということは田名原段丘面も此の辺りで相模川の沖積地へ埋没するものと思っていたのだが、崖線の斜面林は南に連綿と続いている。田名原段丘面はこの先も南に続くようである。地形を見るに、なるほど鳩川分水路は崖線を切り通し、相模川に力技で水を抜いているようである。
鳩川分水路建設の主因は何だろう。この鳩川分水路だけであれば、都市化・宅地開発による大雨時の洪水対策などと妄想もできるのだが、この鳩川放水路のすぐ南に昭和8年(1933)に建設された鳩川の分水路、正式には「鳩川隧道分水路」があるわけで、その頃に都市化がそれほど進んでいるとも思えない。鳩川自体が暴れ川であったのだろうか。はてさて。

三段の滝
相模線の鉄路に遮られる鳩川分水路を離れ、成り行きで鉄路を迂回し。県道46号・新磯橋を渡り相模川の崖線上にある新磯橋入口交差点に。この崖線は中位の田名原段丘面と低位の陽原段丘面を画するものであろうが、大雑把に言って、この地で陽原段丘面の崖線が田名原段丘面の崖線に合わさり埋没することになるのだろう。
崖線上からは相模川の広大な河川敷、対岸の中津原段丘面、その向こうに丹沢の山塊が一望のもと。誠に雄大な景観である。
交差点脇から河川敷の整地された公園に下りる階段がある。最後の仕上げに、相模川から鳩川の分水路を眺めるため階段を下りる。公園には分水路正面に橋が架かり、そこからは「三段の滝」がよく見える。滝といっても、自然のものではなく、段丘上からの放流水勢を緩やかにするため設けられた段差によって生じる「滝」ではあるが、水量も多く、なかなか迫力があった。

相模線・下溝駅
上にメモしたように、鳩川分水路の南には昔の分水路である「鳩川隧道分水路」もあり、そこにも三段の滝がある、とのことだが、想定と異なり田名原崖線は更に南に続きここで田名原崖線散歩は、この地で終わりとはならず、更に先に進む必要もある、ということで、「鳩川隧道分水路」は次回以降のお楽しみとする。 公園から崖線上に戻り、県道46号を少し北に戻り相模線・下溝駅に向かい、一路家路へと。

火曜日, 5月 13, 2014

相模・宮ヶ瀬散歩;河川争奪の地を訪ね宮ヶ瀬湖から串川を下る

いつの頃だったか、津久井城を訪ね城山を南へと下ったとき串川に出合った。深く刻まれた谷が印象に残り、流路を上流に向かうと発達した河成段丘が広がっていた。ささやかな流れに比べてあまりにもアンバランスな深い谷・発達した段丘面が気になりチェックすると、はるか昔、串川は現在とは異なり「大河」であった、よう。上流の宮ヶ瀬辺りで丹沢の水を集めた早戸川が串川に注ぎ、水量豊かな「大河」として深い谷を刻み、発達した河岸段丘を創り上げた。 その串川であるが、いつの頃か、はるか昔のことではあろうが、早戸川の流れは中津川に奪われ、上流からの「水源」を絶たれた串川は現在見るささやかな流れとなったという。
河川の流路を別水系の流れがその流路を奪うことを「河川争奪」と言う。早戸川が中津川にその流路を奪われたのは地形の隆起とか、断層のズレのためとも言われるが門外漢にはいまひとつよくわからない。
河川争奪の要因はわからないが、早戸川がその流路を中津川に奪われ合流した地点は宮ヶ瀬である。が、現在その合流点は宮ヶ瀬湖の湖底に沈む。一方、早戸川の流れを奪われた串川はその宮ヶ瀬湖底の合流点のすぐ北を東へと流れる。地形図で見るに、かつて早戸川と串川が合流していた地点であろう辺りより、少し下ったところは、現在の串川に比べてアンバランスに大きい平坦地が広がっている。
早戸川と中津川が合流した地点は湖底で見ることはできないだろうが、それぞれの川が丹沢山塊から下り合流する谷筋の景観、そしてかつての串川と早戸川の合流点辺りの地形を見てみようと宮ヶ瀬湖に向かう。合流点から後のルートは時間の許す限り串川の流れに沿って、流路の周囲に拡がるかつての「大河」の痕跡でも見てみようと、晩春の週末、「河川争奪」の地に散歩に出かけることにする。

本日のルート;愛川町半原>半原水源地>石小屋ダム>石小屋跡>津久井導水路取水口>大沢の滝>宮ヶ瀬ダム>やまびこ大橋>熊野神社>宮ヶ瀬湖畔園地>虹の大橋>鳥居原園地>串川の風隙>道場>御屋敷>東陽寺>諏訪神社>地震峠>光明寺>国道412号・関交差点>青山神社>長竹三差路>串川橋>根古谷中野バス停




愛川町半原
通い慣れたる小田急線・本厚木駅より半原行きのバスに乗り終点の半原に向かう。半原を最初に訪れたのは数年前。武田信玄と小田原北条氏が戦った三増合戦の地を訪ねて志田峠を越え、折り返し国道412半原バイパスを半原の地に戻って以来のことである
。 半原は明治から大正、そして昭和にかけ「撚糸の町」として知られていた。戦前は陸軍飛行場、現在は工業団地となっている中津原段丘面は一面の桑畑であったようで、半原は相模三大養蚕地帯のひとつでもあり、中津川により四季を通して一定の湿度が保たれる、八王子という生糸の集散地・絹織物の生産地に近い、といった地の利、また養蚕地帯故に家庭で糸を扱うことに馴れた村人も多いといった人の利も相まって撚糸業が興った、と言う。
半原の撚糸業は文化4年(1807)、群馬の桐生でつくられた「八丁式撚糸機」を導入したのがそのはじまりと言われる。電気のない当時、動力源に水車を利用し糸を撚るこの撚糸機を動かすため、半原では水量の安定した中津川の水を活用することとし、明治20年(1887)には川の両岸に水路を設け、半原にある半原水源地(横須賀軍港貯水池)の取入れ口より下流の田代まで、およそ300機もの木製水車があったと伝えられる。その後動力は鉄製タービン水車なども加わり、昭和24年(1949)には全国の絹縫糸の生産量の80%を占めたとのことであり、その後、ナイロンを素材とした合成繊維の生産、ポリエステル縫糸、織物・ニット用撚糸の生産などを経て、現在は綿や麻との合繊撚糸の生産が行われているとのことである。

 因みに、撚糸(ねんし)とは「糸に撚(より)をかけること」。早い話が「捻(ねじ)り合わせる」ことである。その目的は、繭からほぐした糸は細く、何本か束にしなければならないが、そのままでバラバラして扱いにくいため生糸の束を軽く捻り合わせ、丈夫な一本の糸とする。そうすることによって生地に光沢といったものも出てくるとのこと。ついでのことながら、「腕に撚りをかける」とか、「撚りを戻す」ってフレーズは、この糸を撚ることから来ているようである。

半原水源地
現在も合繊撚糸の生産が行われている、とはいうもののそんな気配はあまり感じられず、工場は海外に移転したのかと思うほど静かな町を横須賀軍港へと水を送った水源地である半原水源地へ向かう。
バスで台地から半原の町に下る時、バスの窓から目視しており、バス停から日向橋の南詰に向かい中津川右岸を少し上流に進み、途中、若宮八幡にお参りし半原水源地に。
柵で囲まれた水源地の中には幾つかの沈殿池があり、この水源地の上流500mほどのところにある取水口から取り入れ沈殿池の砂利などで濾過した後、およそ53キロ離れた横須賀の逸見浄水場に自然流下で送られていたようだが、平成19年(2007年)4月より送水は休止中とのことである。

石小屋ダム
半原水源地から宮ヶ瀬ダムへは石小屋ダム経由で進む。地図を見るに中津川右岸から進む道はないようであるので、国道412号に架かる橋を渡り中津川左岸をしばし進む。半原水源地への取水口など見えないものかと注意しながら進むと、木々に遮られ定かには確認できなかったが、中津川右岸にそれらしき柵が見えた。幅1,2m,高さ1,9mの取水口 このことである。
先に進むにつれ深い谷を塞いだ堤高156mの宮ヶ瀬ダムが姿を表す。ほどなく石小屋の石碑があり、その先に石小屋ダム。正式には宮ヶ瀬副ダムと称する。水位が低下したときには、宮ヶ瀬ダム建設時、中津川の水を上流で堰止め、2キロに渡り中津川右岸に通した工事用排水管の排水口が見えるようだが、今回は水量豊かなために見ることは叶わなかった。
案内によると石小屋ダム建設の目的は大きく3つ。第一は宮ヶ瀬ダムの放流水の勢いを弱め、下流での洪水被害を防ぐ、第二は津久井導水路導水路の水位確保、そして第三は発電(愛川第二発電所)の水位確保、とのこと。
第一の目的は芦ノ湖に匹敵する水量を貯めた宮ヶ瀬湖の水を堤高156mもある宮ヶ瀬ダムからの放水による急激な水量による弊害を避けるため。 第二の津久井導水路導水路とは宮ヶ瀬ダムの水を城山ダム(津久井湖)に導水するおよそ5キロの隧道。城山ダムの上流の道志川に水を送り、相模川本川が水不足で中下流の磯部頭首工、相模大堰、寒川取水堰などで取水が困難になりそうになった時、津久井湖に水を供給するためのものである。ふたつのダムが連携し水資源の有効活用を図るというわけである。第三の愛川第二発電所は石小屋ダムの左手下に見える。
このような目的で、「副」とは言いながら堤高35m弱という本格的な石小屋ダムは宮ヶ瀬ダムと共に建設が開始され、2000年(平成12年)に宮ヶ瀬ダムと共に完成した。

○相模導水

導水路といえば、宮ヶ瀬ダムには相模導水があり、この場合は津久井導水路とは逆に道志川の水を宮ヶ瀬湖に送る。集水面積は小さいが貯水容量の大きい中津川水系の宮ヶ瀬ダムと、逆に集水面積は大きいが貯水容量の少ない相模川水系の城山ダムや相模ダムが連携しての水資源の活用を行っている。

石小屋跡
石小屋ダムのすぐ先に大岩が重なる。そこが石小屋跡。石小屋とは三つの巨石が重なり、ふたつの石が支柱となりちょっとした空間ができ丁度「小屋」のようになっている。伐採した木材を流す「木流し」職人なども夜を過ごしたのだろうか、いつしか「石小屋」と呼ばれるようになった、とのこと。

○中津渓谷
ところで、宮ヶ瀬ダムができる前はこの石小屋から宮ヶ瀬・落合地区までの3キロは渓谷美で知られ中津渓谷と称された。当時は数件の旅館もあったようである。中津渓谷に架かる石小屋橋は少し上流、現在の宮ヶ瀬ダムの少し手前辺りにあったようである。

津久井導水路取水口
石小屋ダムの右の台地上には愛川町役場郷土資料館や神奈川県立あいかわ公園などがあり、その台地の道を辿るとダムの天端にのぼれるようだが、圧倒的なダムを見上げながら天端(てんば;ダムや堤防の一番高い部分)に上るべく先に進むと石小屋ダム脇に白い箱型の施設。そこが津久井導水路取水口であった。

大沢の滝
アーチ型の新石小屋橋でダムの右岸に渡り先に進むと岩肌から下る滝が目に入る。大沢の滝である。案内には「目の前の岩山をつたい流れる「大沢」は、これより奥、高取山からの一尾根を挟んで出ている「屏風沢」と「夕日の沢」を源としている。この沢が中津川に入る少し手前で岩を噛む数段の滝となる。地元ではこれを「大沢の滝」と呼び親しんでいる(愛川町商工観光課)」とあった。

宮ヶ瀬ダム
愛川第一発電所脇を進みダムの直下に。堤高156mはさすがに圧倒的。ダムを見上げると上部と低部に「吐口」が見える。案内によると、上部の吐口(高位常用洪水吐)は洪水時と観光放水時に使用するゲート。低位(低位常用洪水吐)の吐口は急速に水位を低下する場合に使用される,とあった。
また、目には見えないがダムの堤の内側には「選択取水設備」があり、「水温、濁りに配慮した放水をおこなうため、さまざまな水深からの取水を可能としている」との説明があり、イラストでその選択取水設備から愛川第一発電所と「利水放水設備」へと水管が続いていた。「利水放水設備」とは「灌漑、水道用水、工業用水等の利水利用のための放流設備」。相模川水系、酒匂川水系とともに神奈川を潤す。特に上にメモしたように、相模川水系とは水の「貸し借り」をしながら連携して効率的な水資源利用を図る。

○インクライン
ダムの天端に上るべくルートを探す。ダムの中津川左岸側には天端(てんば;ダムや堤防の一番高い部分)までステップが続いているが立ち入り禁止のよう。天端に上るにはエレベーター(無料)か工事の時使用したインクラインを活用したケーブルカー(有料)しかないようだ。折角のことでもあるのでダムのスケールを実感すべくインクラインのケーブルカーに。
最大斜度35度というインクラインは建設工法を重力式とする宮ヶ瀬ダム建設時、大量に必要となるセメントを積載トラックごと運び上げたという。建設当時の写真を見るに、中央に直線が二本、左右に斜めにそれぞれ一本のツリー型のインクラインが見える。電力を多く使うインクラインの電力負荷を軽減するためカウンターウエイトのラインを設けていた、とのことである。上りと下りを同時に動かし、上りの負荷を軽減したのだろう、か。

○重力式ダム
重力式ダムとは、コンクリートを大量に使い、その質量をもとに自重で水圧に耐えるダムの建設工法。他にアーチ式ダム、フィル式ダムなどがある。アーチ式ダムはダムをアーチ型にし、左右の堅い岩盤に水圧を分散させる工法。重力式ほどコンクリートを必要としない。また、フィル式は岩石や土砂を積み上げてつくる工法。岩石を積み上げるダムはロックフィルダムと呼ぶ。

宮ヶ瀬ダムの天端
ダムの天端に立ち中津川下流を眺める。かつて渓谷美を誇った中津川渓谷の深く刻まれた景観が一望のもと。逆にダム湖側を見るに、その貯水量が芦ノ湖と匹敵するほどと称される湖面が拡がる。灌漑用水、水道用水、工業用水、発電にと多目的に遣われる宮ヶ瀬湖の水ではあるが、特に上水道は横浜市・川崎市・横須賀市等神奈川県全体の2/3の地域、県人口の90%に供給している、とのことである。

○宮ヶ瀬湖建設までの経緯
宮ヶ瀬湖建設までの経緯を簡単にメモすると、昭和22年(1947)には相模川水系の相模ダム(相模湖)が完成、また昭和45年(1970)にはその下流に城山ダム(津久井弧)完成。そして昭和47年(1972)には相寒川取水施設(寒川取水堰(せき))も完成し、相模川水系の水資源の活用が図られた。
酒匂川水系においても、昭和54年(1079)に三保ダム(丹沢湖)が完成。飯泉取水施設(飯泉取水堰(ぜき))も造られ酒匂川の水利用も推進された。
しかしながら、水需要の増大は当初の計画以上と想定される状況に至り、その対応として中津川水系の水資源総開発が計画。当初は相模川、酒匂川水系と同じく県営事業として中津川ダム建設が計画されたが、最終的にはその規模を各段に大きくした宮ヶ瀬ダムが建設大臣直轄事業として実施されることになる。
平成10年(1998)に宮ヶ瀬ダム本体と津久井導水路が完成し、平成11年(1999)4月より、上でメモした宮ヶ瀬ダムの一部運用に伴う既設ダム群との総合運用を開始し、平成13年(2001)4月からは宮ヶ瀬ダムの全面運用に伴う本格的な総合運用を開始。相模取水施設(相模大堰(ぜき))のほか既存の寒川取水施設(寒川取水堰(せき))等も暫定的に使用して宮ヶ瀬ダムの水を有効活用している。

やまびこ大橋
次の目的地は中津川が宮ヶ瀬湖に流入する山峡を遠望できるであろう「やまびこ大橋」へと向かう。ダムまでは愛川町、ダムから西は清川村宮ヶ瀬地区に入る。宮ヶ瀬湖南岸に通る県道514号を進む。交通量が多い県道を幾つかのトンネルを通り抜け、結構長い宮ヶ瀬トンネルを通り抜けた後、湖に突き出た舌状丘陵の奥に入り込んだ湖水に架かる橋を渡り、舌状丘陵の切り通しを過ぎると「やまびこ大橋」に到着。橋から南を眺めると、中央に湖に突き出す山容の左が川弟川の谷筋。右が中津川の谷筋である。

○中津川
丹沢山地のヤビツ峠付近にその源を発し、4キロほど北流しタライゴヤ沢合流点辺りまでは藤熊川、その合流点から更に北に3キロほど北流し本谷川との合流点辺りまでは布川戸呼ばれる。その合流点から下流は中津川となり、大山を水源とする唐沢川などを集め宮ヶ瀬湖へと注ぐ。

○宮ヶ瀬ダムと宮ヶ瀬村
昔の川筋は湖底に沈み見ることはできないが、おおよその流路は「やまびこ大橋」の下を通り、北西へと進み、やまびこ大橋の北の宮ヶ瀬湖の中央部分で南下してきた早戸川と合流し、合流点でその進路を東へと大きく変え、宮ヶ瀬ダム方向へと向かってゆく。
ダムの底に沈んだ中津川や、中津川に合流した早戸川、そして宮ヶ瀬村の姿を「ふるさと宮ヶ瀬;ふるさと宮ヶ瀬を語り継ぐ会(夢工房)」をもとに以下メモする。現在芦ノ湖ほどの広さをもつ宮が瀬湖であるが、昭和41年(1966)、県営事業として中津川水系の利水開発、所謂「三点ダム構想」が発表されたときは、中津川(宮ヶ瀬字一之瀬;唐沢川との合流点の下流)、早戸川(宮ヶ瀬字落合上流)をロックフィルダムで堰止めて調整、自然流水を石小屋から津久井湖に導水し、既存の県営利水設備に機能させ水需要に対応しようというものであった。しかし3年かけて準備してきたこの計画は昭和44年(1069)、建設省によって発表された巨大ダム構想に取って代わられる。その結果、県営事業では想定していなかった宮ヶ瀬村が湖底に沈むことになった。
当時の宮ヶ瀬村は240戸ほど。交渉の結果、昭和44年(1069)宮ヶ瀬ダム計画を受け入れた住民は補償金とともに代替地に移転することになる。いくつかの候補地の中から厚木市中荻野(現、宮の里)に200戸、宮ヶ瀬(現在の水の郷、宮の平)におよそ30戸、その他の町村に残りの村民が移住した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
■北集落
川弟川が中津川に合流した下流左岸。現在のやまびこ大橋の西詰めの南、宮ヶ瀬村の氏神が鎮座する熊野神社の東の湖底に沈む。この熊野神社も水没を避け移築したものである。北集落の少し北、現在の「やまびこ大橋」の辺りには、中津川を渡る「宮ヶ瀬橋」が架かっていた。 ■馬場集落
川弟川が中津川に合流した下流左岸。地名の由来は、昔、津久井郡青根村から入植した人がはじめて馬を飼ったところ、から。宮ヶ瀬村の中心であり大正4年(1915)には宮ヶ瀬小学校、昭和22年(1947)には中学校が出来た。 ○異人館と唐人河原
この地には異人館があり、幕末から明治初年にかけて横浜居留地の外国人がこの地を訪れた。安政5年(1858)諸外国と締結された「修好通商条約」によって外国人は十里四方以遠への旅行を制限されており、この宮ヶ瀬が横浜から旅行できる山紫水明の地として重宝されたのであろう。写真家のベアトやヘボン式ローマ字のヘボン氏などがこの地を訪ねている。集落から川を隔てた対岸は「唐人河原」と呼ばれていたようである。
いつだったか飯山観音を訪れた時、幕末の報道写真家、フェリックス・ベアトが宮ケ瀬への途中、庫裏橋を撮った写真があった。藁だか萱だかで葺いた屋根の民家。橋の袂に所在なさげに座る人。その横で箒をもつ人。掃き清められ清潔な風景が切り取られている。素敵な写真である。その時はなぜ宮ヶ瀬に?と思っていたのだが、これでその時の疑問が解決した。
■久保の坂集落
馬場集落の南。中津川左岸の川辺であり、急坂の両側に集落があった。この集落には湧水があり伊勢原、厚木への往還、大山参りの人の渇きを潤していた。
■南集落
久保の坂集落の南。中津川上流の札掛に向かう道筋であり、丹沢への登山口への道筋でもあった。札掛は中津川の上流、藤熊川沿いにある地名。樅(モミ)の原生林や欅(ケヤキ)の大木などが繁る森は、江戸幕府の御料林であり、杉・ひのき・モミ・ツゲ・ケヤキ・カヤは「丹沢六木」称され建材としてとして厳重に保護されていた。札掛の由来は役人が欅の大木を見回り、掛けた札による。 御用林は明治に皇室の御料林となり、昭和6年(1931)には県有林となった。
■和田集落(川弟川方面)
煤ヶ谷方面、土山峠付近より北上する川弟川が中津川に合流した右岸。中津川の堆積土上に集落があった。対岸の久保の坂集落とは「宮ヶ瀬大橋」で結ばれていた。
■上村集落(川弟川方面)
和田集落の皆南、中津川がつくた河成段丘上に集落があった。和田村を上村に対し下村と呼んだり、前和田・奥和田と称したり、ふたつの集落を合わせて「川前」とも称したようである。また、対岸の集落を「向かい」と呼んだ。
■向落合・前落合集落(早戸川方面)
馬場から津久井方面に2キロほど北に上り、早戸川が中津川に合流する少し上流、早戸川の左岸に向落合、右岸に前落合の集落があった。両集落で70戸ほど。この集落から少し南に下った日陰横根で早戸川は中津川に合流し、記念橋(関東大震災を記念した橋)が架かり、津久井には橋を渡り、愛川へは日陰横根から右に折れて中津川に沿って下っていった。

熊野神社
やまびこ橋を渡り、中津川左岸に渡る。県道沿いに熊野神社。水没した北集落にあったものを移したもの。祭神は伊弉諾命( いざなぎのみこと ) 、伊弉冊命 ( いざなみのみこと )。摂末社の八坂神社は須佐男命 ( すさのおのみこと ) を祀る。その他大六天社も。
境内にあった案内をまとめると、「古くは諏訪神社として勧請。当初の守護神であった。しかし、延文3年と言うから14世紀の半ば、武蔵の国・矢口の合戦に敗れた新田義興の郎党矢内入道信吉がこの地に落ち延び、村を隔てる一里余の平地の中津川畔に館を構え、更に遡る布川・塩水川合流点直下に奥野権現を祀り氏神として深く信仰していた。しかし、賊徒の凶刃に斃れ一族滅亡。祭主を失い、荒廃した社を村人が村内に移し、社号を熊野神社と改め明暦元年古社(私注;これが諏訪神社のことを指すのだろう)と合祀した。
時がたち、宮ヶ瀬ダム建設のため氏子の住居とともに水没することとなり、長年鎮座の地より八坂神社とともに当地に移し再建。さらに当地より移転した厚木市宮の里地区に分社を造営。在落落合郷第六天社稲荷神社を春の木丸地区に、更に旧村内各部落祭祀の小社を覆殿に移し、祭っている」とあった。

上で水没する村民は厚木市中荻野(現、宮の里)に200戸、宮ヶ瀬(現在の水の郷、宮の平)におよそ30戸が移転したとメモした。確かに厚木市宮の里には熊野神社が鎮座する。また、宮ヶ瀬地区の移転先である宮ヶ瀬湖畔園地・水の郷(上の案内にある春の木丸:正確には「B代替地;商業地」)の売店脇には水の郷第六天社が鎮座している。因みに宮ヶ瀬・宮の平とは正確には「北原地区(A代替地;住宅地)であり、熊野神社の南にある宮ヶ瀬北原交差点近くにある住宅地のことであろう。

宮ヶ瀬湖畔園地
熊野神社から県道64号を離れ、水の郷大つり橋を渡り、宮ヶ瀬湖畔園地をぬけて鳥屋方面へと向かう。整地された湖畔園地内には宮ヶ瀬水の交流館、水の郷観光案内所、丹沢登山やハイキングのサポートセンター県立宮ヶ瀬ビジターセンターがあった。また上でメモしたようにこの公園の南の住宅地、西側の県道脇の売店は友に水没した村民の移転先でもある。
公園内を進み、県道脇の売店群の北にある水の郷第六天社にお参りし園地を離れ、再び県道に戻る。

虹の大橋
湖に細長く北に突き出た台地上の県道の切り通しを抜けて進むと「虹の大橋」に出る。台地を通る県道64号の東は宮ヶ瀬、西は相模原市緑区鳥屋(とや)、そして「虹の大橋」の中央を境に、鳥屋と宮ヶ瀬に分かれる。
橋から西に見える山峡が早戸川の谷筋である。

○早戸川
早戸川は丹沢山の北麓にその源を発し、しばし北流した後、その流路を東に変え宮ヶ瀬湖に注ぐ。早戸川は「虹の大橋」の中央真下を通り東に進むが、虹の大橋を渡った県道64号が湖畔を離れ北に大きく方向を変える辺りの南でその流路を急激に南方向へと向け、中津川に合流していた。
おおよその場所は、北に大きく方向を変える県道64号の南で湖に向かって突き出る台地の先といったところである。また中津川との合流点はそこから少し南、現在の地形で言えば、虹の大橋に向かって湖に突き出した台地の付け根あたりと、やまびこ大橋を越えた先にあった湖に突きだした台地から線を伸ばしクロスした辺りではあろう。

鳥居原園地

今回の目的は早戸川・中津川・串川の河川争奪の名残を感じる散歩。ポイントは早戸川が急激に流路を南に帰る辺り。その場所はおおよそ予測できたので、そこから串川の流れまで、現在どのような地形になっているか辿ることにする。

虹の大橋を渡り、北東へと緩やかに曲がる県道64号が北へと下るところで県道と離れ、そのまま直進すると「鳥居原園地」がある。「鳥居原ふれあいの館(いえ)」などが整備された総合観光施設である。この園地からの宮ヶ瀬湖、やまびこ大橋、宮ヶ瀬湖畔園地、虹の大橋、そして宮ヶ瀬湖の奥に聳える丹沢の山容が一望のもと。左端の土山峠、その横に辺室山、最奥部に聳える大山、右端に蛭ヶ岳と有名どころの山々も案内写真の助けで遠景を楽しめる。

○湖底の早戸川と中津川合流点


宮ヶ瀬湖に突き出ている鳥居原園地のある台地の少し南の湖底には、早戸川がその流路をグイっと南に変え、中津川に合流していた記念橋も残っているのだろうか。記念橋からは早戸川に沿って北上し、前落合集落から早戸川の右岸を進めば早戸川の源流方面進む。一方、宮ヶ瀬から津久井へと進む道は、前落合集落で落合橋を渡り早戸川左岸の向落合の集落の九十九折れの道を北に進み、鳥居原園地のある台地の東、湖が入り込んでいる台地に沿ってぐるりと回り、鳥居原園地いの台地に至り現在の県道64号沿いに北に向かったようである。その前落合集落も向落合集落も、この鳥居原園地の先に沈む。

串川の風隙
鳥居原園地から道路を隔てた北に小さな丘が見える。標高337mのこの島のような丘は、はるか昔の川の流れによって堆積した段丘の名残と言う。この河成段丘面の北は扇型に平坦な地が北の串川の谷筋に向かって下る。この平坦な地は河川争奪によりその流路を中津川に奪われた串川の流路跡とも言われる。水の絶えた谷合の水路跡を「風隙」と称する。
串川の谷底低地に向かって緩やかに下る山間に広がる平坦な地を下る。平坦な地の西端に、途中から唐突に谷筋が現れるが水は無い。左右、南北の景観を眺めながら串川の流れる谷底低地に下り道場の集落に。




道場・串川の谷底堆積地
道場の集落を流れる串川は、ささやかな流れである。そしてそのささやかな流れに比して、串川周囲の谷底堆積地のスケールが大きく、誠にアンバランス。地形図で彩色するに、山間に平坦地が大きく広がっている。これははるか昔、早戸川が串川に合流していた頃の「大河」の名残とのことである。
串川の周囲の平坦地は、鳥居原園地の風隙から下ってきた道場の集落の上流にある御屋敷集落の周囲にも大きく広がっている。早戸川を巡る串川と中津川の河川争奪は構造線の横ずれと上下運動によって形成された、と言う。このような地殻変動が数度に渡って行われ、流路も変遷を重ねたのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

御屋敷
串川のさらに上流がどのようなものか、御屋敷集落辺りまで、ちょっと行ってみようと先に進む。御屋敷って興味深い地名。詳しい由来はわからないが、この地名に関わる伝説が残る。昔々、道場(堂場とも)に住む若者が得意な笛を吹きながら串川を川上へと進み美しい女性に出会う。この女性は御屋敷御殿の姫君。二人は恋に落ち、若者は母の形見の櫛を贈る。都へと出向き若者と会えなくなった姫君は、川面に彼の姿を認め手を伸ばしたとき、大切な串を川に落とす。必死になって串を探す姫の姿を痛ましく思った地元の民は、この悲恋(串を落とした日に若者は亡くなっていた)の櫛に因み、この川を「櫛川」>「串川」と称するようになった、と。
櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。

東陽寺
先に進み東陽寺で串川は南北から合流する。東陽寺は室町時代の開創。臨済宗建長寺派のお寺さま。関の光明寺と深い法縁をもつ、と言う。
本流は北からの流れであったのだが、あまり調べず成り行きで進み南の宝樹沢に進んでしまった。しばらく進み、水も絶えた辺りまで行ったところで本流ではないことに気が付き元に戻る。




諏訪神社
串川に沿って下る。流路の周囲は結構広々としている。西門集落を越え、宮ノ浦に鳥屋諏訪神社。御神木の大杉が残る。社殿(覆殿?)が特徴的。これが本殿かと思ったのだが、本殿はこの中に鎮座している。案内によれば、「本殿の桁行、梁行とも1.3mで、一間社宝形造、屋根は柿(こけら)葺き、四方に千鳥破風を置き,正面には軒唐破風を付ける珍しいもの。また、向拝社は全体に昇竜の彫刻を施すなど彫刻による装飾が非常に豊かなのもこの本殿の特徴。本殿内の棟札に安永4(1775)年の再建年代及び大工の名が記されている。本殿は毎年8月の祭礼の時に開帳される。相模原市の指定文化財である」とあった。
歴史は古く、仁治2年(1241)に菱山肥後守入道隆頼公が菱山氏菩提のため、清真寺を此の地(鳥屋中学の西)に建立したと同時に山内鎮守として勧請、享禄3年(1530)に現在地に遷座された(菱山肥後守の詳細はわからない)。
境内前に石仏群。中央に六字名号塔、左右に馬頭観音や廿三夜塔が配置されている。道路拡張等により、ここに集められたものだろう。六字名号塔とは「南無阿弥陀仏」が刻まれた石塔のこと。

地震峠
やまびこ大橋から共に進んだ県道64号は諏訪神社脇で串川を離れ、道志みち・国道412号へと北上する。かわって串川に沿って県道513号に乗り換え、道脇に地区を示す道標を見やりながら先に進む。
「ここは中上 標高274m」 、「ここは中下 標高271m」、「ここは渡戸 標高267m」と続いた後、切り通しといった道の南側擁壁の上に「鳥屋 地震峠」の案内があった。案内には関東大震災の全体の説明に続き、「・・・当津久井郡内では、死者三十三名、負傷者十六名、全壊棟数百二十戸、半壊棟数四百二戸となっているが、この内ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。当時の串川は現在の県道よりもずっと南側を流れていたが、山津波のために串川がせき止められ、上流五百メートル位まで湖のようになってしまったという。・・・昭和六十一年三月 津久井町教育委員会」とある。
南の山地側の斜面が地震の時崩壊し土砂が押し寄せ、人家を埋め串川を堰止めたのだろう。現在切通しとなっている県道は崩壊土砂を切通して通しているが、串川は崩壊土砂を避け利用に左側に大きく迂回している。
地震による山地斜面の崩壊、河川の閉塞、流路の変更、切り通しとなった道など、自然による地形の変化のサンプルがこの峠に現れている。

光明寺
馬石橋を渡り、「ここは馬石 標高257m」の標識を見やり桜野を越え、串川の流れに沿って進む。県道が国道412号・道志みちに合流する関交差点の手前、串川が鳥屋の山地を抜けた辺りに光明寺。臨済宗建長寺派の古刹。もとは「桐ケ谷宝積寺」と号し、台蜜禅兼学にて七堂伽藍と坊舎を有するお寺さまであったが、永禄十二年(1569)年武田軍と北条軍による三増合戦のとき、兵火によって堂塔と坊舎を焼失。武田軍は炎上する寺院の明かりで、甲州に向かった、とも。本尊は運慶作と伝わる延命地蔵菩薩(本尊)。像高66cm座高25㎝台座巾76cmなど多くの寺宝を有する、と。

国道412号・関交差点
光明寺を越え関の交差点に。この関の交差点から東への国道412号も、交差点から北西へと相模湖方面へと向かう国道412も既に一度歩いている。三増合戦散歩の一環として、信玄退却路を辿り志田峠から串川橋に下り、この国道を相模湖まで辿った道である。
関の交差点から東の国道412号は、津久井城から成り行きで串川の谷筋に下り、深く刻まれた串川の谷に沿って串川橋をへて辿った道である。深い谷と進むにつれて現れたささやかな串川の流れ、そして深い谷に代わって現れた発達した川成段丘。そのアンバランスが気になってチェックした結果が今回の河川争奪の散歩に繋がったわけである。

青山神社
関交差点のすぐ東に青山神社が鎮座する。諏訪社、諏訪宮、諏訪大明神と呼ばれていたが、明治6年(1873年)、八坂神社(天王宮)と御岳神社(御岳宮)を合わせ、青山神社と改称された。青山とは地区の名称である。
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。

長竹三差路
東に向かうと国道412号に相乗りしていた県道513号は、長竹三差路交差点で北東へと分岐し相模湖方面の中野へと向かう。長竹三差路は三増合戦に登場する地名。津久井湖畔の中野から下る道、相模湖へと向かう道、串川沿い、または半原へと南に下る道が交差する。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、津久井城から出撃するときは、三増峠に進もうが、半原・志田峠を目指そうが、必ずこの長竹三差路を通らなければならなかった、と。
三増合戦の時、長竹と言えば、武田方の遊軍・山県勢5千に先立ち、津久井城の押さえのため進軍した小幡尾張守信貞の部隊が「長竹」に伏せたと伝わる。1200名の軍勢が、中峠から韮尾根に下り、串川を渡り、山王の瀬あたりの窪地に隠れ、津久井城の北条方に備えた、と。戦略的立地からして、この「長竹」って、その長竹三差路のあたりでは、なかろうか。

串川橋
長竹三差路辺から右手が次第に開け、台地下を流れる串川が見えてくる。水路の規模と比して、発達した河成段丘がつくられている。道は緩やかに下り串川に架かる串川橋で串川右岸に移る。
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。 この串川橋には2度ほど訪れている。一度は三増合戦の跡を辿り、志田峠を越え、突如眼前に広がる、高原といった景観を呈する緩やかな傾斜の扇状地に下り、国道412号・韮尾橋を経て串川橋まで下った。2度目は上でメモしたように、津久井城山から串川の谷に下り、深く刻まれた谷筋が次第に発達した河成る段丘へと姿を変える景観を見やりながら上ってきた。 2度目の散歩が、串川をめぐる河川争奪を知るきっかけとはなったのだが、1回目の韮尾根の扇状地にも河川争奪の痕跡が残る、と言う。

 ■韮尾根の河川争奪と風隙 現在、志田峠から南流する流れは山裾をぐるりと回り、国道412号の「真名沢」を経て半原の日向橋の少し下流中津川に注いでいる。往昔、志田峠からの流れは「韮尾根」の扇状地を下り串川に注いでいた、と言う。なんらかの理由により、串川に注いでいた流れは、中津川へと下る流れの浸食によりその流路を奪われてしまった。現在の韮尾根の谷は水のない風隙と呼ばれる地形となってしまった、とのことである。




根古谷中野バス停
御堂橋で串川を渡り直し、道脇にある春日神社にお参りし先に進むと三増峠へと続く県道65号が南に分かれる。バスの時間を気にしながら小走りで串川に架かる中野橋から渓谷の眺めをチェック。根小屋バス停で橋本駅行のバス乗り、深い串川の渓谷を眺め、相模川近くで圏央道の工事を見ながら、相模川に架かる小倉橋を渡り橋本駅に向かい、本日の散歩を終える。