日曜日, 2月 11, 2018

伊予 歩き遍路;五十九番札所・国分寺から六十番札所・横峰寺を繋ぐ ① : 生木道・香園道分岐点まで

昨年、五十九番札所・国分寺を打った後、歩き残していた予土国境から四十三番札所・明石寺を繋ごうと南予に出向いたため、少し間が開いたのだが、再び東予に戻り国分寺から横峰寺へと向かうことにする。
横峰寺を繋ぐ、とは書いてはいるが、いつだったか六十一番札所・香園寺の奥の院から逆打ちで六十番札所・横峰寺へ歩いており、実際は国分寺から香園寺を繋ぐことにする。
国分寺から横峰寺へのルートは今治市域を抜け、西条市に入り大明神川を渡ると遍路道は大きく二つに分かれる。ひとつは生木(いきき)地蔵経由の生木道。このルートは生木地蔵から中山川を渡り、旧小松町(現西条市小松町)の大頭から湯浪に進み横峰寺へと向かう。
もうひとつのルーは香園寺道。大明神川を渡るとすぐ生木道と別れ、中山川を越えて直接六十一番札所・香園寺を目指す。このルートは基本逆打ルートとなるわけだが、このルートもふたつに分かれ、ひとつは香園寺から岡村を経て横峰寺へと向かうものであり、もうひとつは香園寺から香園寺奥の院経由で横峰寺へと向かうことになる。

昔歩いた逆打ちルートは香園寺奥の院経由で横峰寺へ上り、横峰寺からは生木道ルートの上り口である湯浪へと遍路道を下るものであったが、順打ちとして湯浪から上り香園寺奥の院へと下りるもよし、岡村へと下りるもよし、逆打ちも香園寺から岡村を経て横峰寺へ上り、奥の院へと下るもよし、湯浪に下るもよしと、国分寺から横峰寺に向かうは幾つもバリエーションがある。
今回のメモは大明神川を越えた後。生木道を進み大頭を経て湯浪への順打ちルートと、大明神川を越えて生木道と別れ香園寺に進み、岡村から横峰を目指す逆打ちルートの分岐点までをメモする。


本日のルート;
国分寺から孫兵衛作へ
国分寺>駐車場脇の道標>路地突き当たりの道標>県道156号出口の道標>県道156号の茂兵衛道標>今治最大の地蔵道標>桜井中学校傍の茂兵衛道標>法華寺T字路の道標と標石>法華寺>T字路の道標と標石>綱敷天満宮>網敷天満宮の道標>細い三差路の道標>猿子橋>徳右衛門道標>舟形地蔵>孫兵衛作交差点
孫兵衛作から生木道・香園道分岐点へ
県道159号に入る>世田薬師傍三差路の茂兵衛道標>六軒屋の道標>自安橋>道安寺>臼井大師堂の徳右衛門道標>出張橋>大明神川>金比羅道標と道標>生木道と香園寺道の分岐点の茂兵衛道標


国分寺から孫兵衛作へ

国分寺を離れる
国分寺の駐車場脇に道標が立つ。そこから南に民家脇を進む細い路地があり、手印とともに「横峰寺 六里廿八丁」の文字が刻まれる。 手印に従い路地を進むと突き当たりに「右 へんろ」と刻まれた道標が、道に半分埋もれて見える。






県道156号に道標と茂兵衛道標
道標に従い路地を右に折れると県道156号に出る。県道との合流点の民家生垣に南を示す手印と「遍ろみち 弘化」といった文字が読める道標がある。「み」の文字の辺りに折れていたものを修理したような痕跡がある。
また、県道を挟んだ向かい側には茂兵衛道標が立つ。手印と供に国分寺と刻まれる面と、南を示す手印とともに「六十番」と刻まれる、と言う。



今治最大の地蔵道標
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター(以下略)」には「県道を渡って100mほど南西に行った四つ角の右手に今治市内で最大の地蔵の道標がある。旧国分村の人たちが浄財を出し合って、天保15年(1844)に建立したものである」と記す。
道を進むと小川に架かる橋の手前に地蔵道標が立つ。「左 遍ろみち」と刻まれている。「えひめの記憶」には「遍路道は、地蔵道標で左折しJR予讃線と並行する小道を小川(用水路)に沿って南東へ進む」の記述とともに、「県道156号ができるのは昭和33年だが、それ以前のもう一つの遍路道は、県道に沿って南東に約300m進み、商店で右折して100mほど西に行くと、JR予讃線と並行して南東へ進む遍路道と合流した」とある。
ここで言うもうひとつの遍路道とは、上述の県道156号脇に立っていた茂兵衛道標が示す道筋のことかとも推測する。

桜井中学校傍・県道T字路の茂兵衛道標
「えひめの記憶」には「やがて遍路道は、桜井中学校前に出て左折し再び県道156号に出る。その三差路の突き当たりの県道の左側に茂兵衛道標がある。この道標は、長らく現位置の西側に放置されていたが、道路整備のとき元の位置にもどされたという」とする。
小川なのか用水路なのか、ともあれJR予讃線に沿って進んだ遍路道は、桜井中学の運動場手前で左折し県道156号筋に合流したようだ。生垣に埋もれたような茂兵衛道標には「大峰寺へ五里余 / 國分寺へ十五丁」と刻まれる。
大峰寺
ここにある大峰寺とは六十番札所・横峰寺が明治4年(1971)の神仏分離令により廃寺となり、明治42年(1909)に元に復すまで一時期称した寺名である。経緯は明治4年(1871)、神仏分離令への対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。
六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
上記茂兵衛道標の建立は明治37年(1904)であるから、六十番大峰寺と称していた時期である。清楽寺は逆打ち香園寺道のメモで取り上げる。

桜井小学校前の道標?
Google Street Viewで作成
T字路を右折し、県道を少し進むと桜井小学校前の三差路に当たる。「えひめの記憶」には「歩道脇に、二つに折れた道標が放置されている」とあるのだが、現在それらしきものは見当たらない。
試しにGoogle Street Viewでチェックすると、2015年3月の日付で折れた道標らしきものが見える。この時期以降、なんらかの理由で移されたのだろうか。


法華寺T字路の道標と標石
道を進み、桜井小学校の校庭の切れるところから右手に入る道がある。T字路の県道左手の生垣に道標が立つ。「えひめの記憶」に拠れば、信州出身の尼僧が願主とのことである。
道標の右手、桜井小学校の校庭に沿って西に入る道の入り口に「法華寺 国分尼寺」と刻まれた大きな寺号石が立つ。





法華(ほっけい)寺
線路を渡った高台に法華寺が建つ。奈良時代の天平13年(741)、伊予国の国分尼寺として建立された当時は、桜井小学校から予讃線桜井駅に達する広大な敷地であったようだが、幾度かの戦火で焼失、江戸時代に現在の高台に移った、と(Wikipedia)。
法華寺から予讃線に沿って南に進み、次の踏切の西側に国分尼寺塔跡が残るとのことである。



T字路の道標と標石
県道を更に進むと、広い三差路の少し手前に左に入る細い道があり、その角に道標が立つ。手印は左右を示すが、文字は「右 へんろみち」「明治四十五年」とある。「えひめの記憶」に拠れば、「この道標の願主は郷廻船中とあり、特産の桜井漆器を全国に行商していた椀船(わんぶね)船主たちが建てたものと思われる。
桜井漆器は、明治30年以後は生産業者の組織化が行われ、大正期後半に最盛期となった。したがってこの道標が建立されたのは最盛期に至る時期であり、椀船船主たちが航海の安全を祈願して建立したと考えられる」とする。
また、道標の逆側、県道右手には「綱敷(つなしき)天満宮 五丁」と刻まれた道標が立つ。
遍路道を離れ、菅原道真ゆかりの綱敷天満宮にちょっと立ち寄り。

綱敷天満宮
広い境内には風呂神社、荒神社、須賀神社などいくつかの境内社も見える。絵馬堂が印象に残る。案内に拠れば、「国指定 名勝 志島ケ原
「こち深ば 匂いおこせよ梅の花 あるじかしとて春な忘れそ」
藤原氏が全盛をきわめ、平安文化が最盛に達したころ、右大臣菅原道真は天皇の信用を受けながら、藤原氏の告げ口によって、遠い九州の大宰府に流されることになった。都を出発して、途中桜井の沖にさしかかった時、海がにわかに荒れてやっと志島ケ原にたどりついた。里人たちは菅公の身に何事もなかったのをよろこび、船の舳綱(ともづな)を巻いて敷物にしてお迎えしたので、綱敷天満神社の名が付けられたと言われている。
境内の広さは約11万平方メートル、約2000本の黒松の巨木と白砂青松の景勝地である。海岸近くには菅公ゆかりの衣干岩や筆塚、記念碑などがある。海岸側には幕末の黒船に備えた台場跡があり、文政二年巳卯六月戌の碑が残っている。
また、桜井名物として名高い、えびかにの料理がある。近年梅林などが育てられて県境が整備されて、夏の海水浴客も多く、前に燧灘、後ろに世田山などの史跡地を控えて、四季折々の眺めは又格別である。 昭和16年 文部省指定」とある。

網敷神社はこの今治以外に。大阪、神戸、福岡と道真が大宰府へと流されるルート上に建つ。如何なるプロセスで同様の縁起を持った社が建立されるのか、興味を惹かれる。

網敷天満宮の道標
網敷天満宮から遍路道に戻り、先に進むと予讃線桜井駅へと入るT字路の県道左側に「網敷天満宮道」と刻まれた道標が立つ。








細い三差路の道標
城下町でもないところで、如何なる事情か、桜井駅の先で鈎型に曲がる県道を進み、大きな三差路の手前、地蔵堂が建つ箇所から右斜めに入る細い三差路角の電柱下に道標が立つ。
「えひめの記憶」に拠れば、「遍路道はここで二手に分かれる。主な遍路道はこの道標に従い、県道156号を進み、国道196号を斜めに渡り細い道を菜切谷池の下や、猿子川沿いの土手道へと進むことになる。この土手道が江戸時代の幹線道路である西条道(旧街道)で、昔は道沿いに松並木があったが、今は堤に松はなく昔の面影を見い出すことはできない。この遍路道はやがて猿子橋近くで国道196号を横切り、国道の西にある細い道を南進する
。 一方、道標のある三差路を右に行く細い道がもう1本の旧街道であったらしい。この道も遍路道であったようであるが、この地は長沢という地名が示すように、しばしば水があふれて道が通れなくなったという。途中左手に弘化2年(1845)に建立された常夜灯がある。しかしそれ以南は、昔の猿子川の流路がはっきりせず、遍路道の経路もわからない」とある。

猿子橋
県道156号を進み、左手からくる県道38号と合わさり、上記菜切谷の池、左手に接近する猿子川に沿って進むと長沢交差点で国道196号・今治バイパスと合流する。
国道に沿って流れる猿子川の土手道を進むと、川筋は二手に分かれるが直進し高速今治小松自動車道のインターチェンジへの、少々狭いアプローチ道下を潜り、更に湯ノ裏温泉へのアプローチ道を越え、大きく弧を描く今治小松自動車道アプローチの高架下を進むと猿子川は国道196号と交差する。そこが猿子橋である。

道の駅今治湯ノ浦温泉裏手の徳右衛門道標
国道196号を渡り、猿子川の右岸の道に入る。右手には予讃線が走る。道を少し進み、猿子川の左岸に道の駅今治湯ノ浦温泉の建物が見える辺り、道の右手に徳右衛門道標が立つ。「是より横峯*五里」と刻まれるとのことである。 道を進み、遍路道が国道196号に合流する手前に舟形地蔵が佇んでいた。

孫兵衛作交差点
国道196号を渡り、孫兵衛作交差点の国道右手に、長井孫平の頌功(しょうこう)碑が立つ。この辺りの地名ともなっている旧孫兵衛作村(今治市孫兵衛作)の発展に貢献した人物とのこと。
桜井の石風呂
この交差点から左に入ると桜井の石風呂がある。「えひめの記憶」には「ここで左折し約700mほど行くと海岸へ出る。そこに、『今治の文学』に「往古(むかし)弘法大師此ノ二名島修行シ玉シ頃 当浜二遊ヒ温石窟(イシフロ)ノ功能(コウノウ)広大ナル事ヲ御覧シテ除病延寿ノ勝計(ケイ)此温窟(フロ)ニ過タルハナシ」と記された「桜井の石風呂」がある。
この石風呂を有名にしたのは、天和元年(1681)に入浴して難病を治した南明(なんめい)禅師の事績であると同所の碑文に記されている。現在もシダなどを蒸し焼きにした、サウナのような石風呂に、大勢の人が健康を願ってやってくる」とある。
子供の頃、祖母と訪れたような気もするのだが、現在は休業中とのことである。 ●南明禅師(一六一八~八四) 「元和三年四月八日、越智郡龍岡村(現、玉川町)元幸門城主正岡盛元の子として芸州(広島県)で生まれた。九歳のとき東予市の長福寺に入り、一七歳で奥州瑞巌寺雲居和尚(土佐出身)に師事。慶安三年、小松藩主のため仏心寺を開設、寛文一二年に京都妙心寺の第二一五世となる。貞享元年一〇月一五日入寂、六七歳。(えひめの記憶))」

孫兵衛作から生木道・香園道分岐点へ

県道159号に入る
長井孫平頌功碑から300m進み、左手に医王池が見える辺りから国道196号を離れ県道159号に入る。予讃線の踏切を渡りそれほど急ではない医王山の峠道を上ると、市域は今治市から西条市に変わる。
道の左手は谷として開かれた道筋を進む。今は快適な車道ではあるが、県道が整備される以前は鬱蒼とした山道であり、長坂とも若い百姓の男女の心中事件故に「心中坂」とも称された、と。
坂を上り、右手の世田山の丘陵から、古代山城跡で知られる永納山と続く丘陵部を抜いた切り通しの峠を越え、少し進むと世田薬師に至る。
医王池
この池は、蛇越(じゃこし)池とも呼ばれ、現在はサギソウの群生地として知られる。蛇越(じゃこし)池とも称されるように、この池には大蛇伝説が残る。その昔、日照りが続き、仕方なく大蛇が棲むというこの池の水を抜くことにした。心優しき大蛇は村人の願いを聞き、飛び去り、村人はその徳を龍神様としてお祀りした、とのことである。
なお、医王山は、もとは「猪追山」と称されたようだ。猪多きが故ではあろう。

世田薬師傍三差路の茂兵衛道標
厄除けで知られる世田薬師は、いつだったか辿った散歩のメモをご覧頂くことにして、遍路道を辿ることにする。
世田薬師前に三差路がある。三差路とは言いながら、一つは永納山の登山口に向かう土径ではあるが、それはともあれ、県道から道が分かれる角に茂兵衛道標が立つ。正面に「國分寺 大峰寺」、県道から分岐する側に「左 ちか道」、その逆面には「明治四十四年」の文字が刻まれる。また、年号の刻まれた面には「迷ふ身を教へて通寸(私注;とおす)法の道」の和歌も刻まれるとのことである。
道標の指示からすれば、県道も遍路道ではあるが、今回は左に折れて近道を進むことにする。
永納山城跡
三差路のうちのひとつは「国指定史跡永納山城」へのアプローチ道。すぐ先に立つ案内には「国指定史跡 永納山城跡
平成17年7月14日 指定
平成19年7月26日 追加指定
史跡面積 406,427.54㎡
永納山城は、全国的にも貴重な古代山城のひとつです。
〈古代山城とは〉
古代山城は、西暦663年に朝鮮半島で起こった「白村江はくすきのえの会戦」前後の国際的緊張の高まりの中で築造されました。『日本書紀』には古代山城に関する記載が見られ、百済くだらの亡命貴族の指揮のもと築造された、とあります。永納山城は文献には登場しませんが、各地の山城との類似性から、古代山城であることが明らかにされています。
〈永納山城跡の立地〉
永納山城は、道前平野と今治平野との中間に位置しています。また、すぐ東には燧灘が広がっており、極めて海に接近している点が立地上の特徴。
標高132.4mの永納山と、北西に位置する医王山いおうさんの二つの独立山塊を取り囲むように城壁が築かれていて、城壁の全長は約2.5㎞になります。
〈調査の変遷〉
永納山城跡は、昭和52年に発見され、その直後から昭和54年度、及び平成14~16年度に城壁の確認調査を実施しました。これらの調査によって遺跡の範囲、列石や土塁からなる城壁構造などが明らかになりました。 平成20年3月 西条市教育委員会」とある。

六軒屋の道標
県道を離れ予讃線の踏切を越え、六軒屋集落が切れ田圃の中を進む道に入ると直ぐ、道の左手に道標が立つ。脇に神社の幟立てもある。「えひめの記憶」には「右 こんぴら道へんろみち 左 河原津」と刻まれるとのこと。左に道はないのだが、海岸線にある河原津に抜ける道のある場所から、この地に移されたとのことである。

自安橋
田圃の中の道を進むと北川に架かる自安橋に出る。ここで世田薬師で直進した旧県道159号が合流する(現在は地図には県道159号は、世田薬師の先で分かれ、西を二車線の道として走る道となっているため、この道筋を仮に旧県道159 号としておく)。
自安橋は、暴れ川の北川に石橋を架けた楠村の豊田源左衛門が隠居し還俗した法名自安に因る。この道筋は小松から今治へと進む古代官道筋であり、重要な街道筋に橋がないのは不便と自費で普請した。自安没後、地元民はその徳を称え自安橋と名付けた、と言う。
時代が下り、昭和39年(1964)、コンクリート橋となるに際し、地区名をとり、「楠木橋」とされたが、地元民の願いにより自安橋に復された。

道安寺
道を進むと、道の左手に道安寺。幸徳天皇の勅願を受け、伊予国主・小千(越智)氏により建立されたという道安寺を道の左に見遣り進む。往時は五重の大塔をもつ大伽藍であったようだが、火災や戦火(源平合戦の平氏方西寂入道の河野氏・高縄城攻め、南北朝期の細川氏の世田山攻め、秀吉の四国征伐)などにより、今日の姿として宝灯を伝える。

御来迎臼井(うすい)水
予讃線の踏切を渡ると直ぐ、道の左手下にお堂と遊水地が見える。路から3mほど下り、湧水に囲まれた大師堂にお参り。湧水は弘法大師の御加持水とされる。水不足に苦しむ老婆の話を聞き、杖で地を突くと、あら不思議、水が滾々と湧き出た、と伝わる。 お堂脇に「御来迎臼井(うすい)水」とある。澄んだ湧水を一心に祈れは、七色の輝きの中に諸仏(薬師如来、日光・月光菩薩、十二神像、弘法大師)が現れる故とのことである。誠に美しい水ではあった。
なお、かつては三井村(御井村;舒明天皇行幸の折、御意村)と称された如く、村内には、この臼井の他、岸井、曾良田井の三つの弘法大師由来の湧水がある、という(私注;岸井、曾良田井は未確認)。
徳右衛門道標
「えひめの記憶」に「御来迎臼井水」の向かいの道端に徳右衛門道標がある。風化が激しくて読み取りにくいが、「是より横峯迄四里」と刻まれているようである」とする。「向かいの道端」の指す意味合いが分からず少々迷ったが、大師堂から旧県道に上る階段手前、生垣に囲まれて立っていた。

訂正;下のコメントにあるように「標石さがし」さんよりご指定頂き、徳右衛門道標を間違えて掲載したことがわかりました。ご指摘の通り、道路沿い、お墓の傍に徳右衛門道標が立っていました。
「標石さがし」さんには三角寺への途次、標石に刻まれた文字が梵字であることをご指摘頂くなど、素人故の間違いを訂正して頂き有り難く思っています。






出張橋
小川の傍、道の右手に案内があり、「出張橋」とある。説明には「この川はお大師さん川、または“真手川”という。ここに架かっていた真手川橋を古くより出張橋と呼んでいた。
慶長六年(今から三百九十年前、1601年)、三芳村(中村東・中村西・黒本村)は大洲藩の領地であった。そのため、毎年年貢の検知・収納・運搬などで代官派遣が行われた。大洲藩としては遠隔地のため色々と不便を来していた。 寛永十一年(1634)松山二十四万石に蒲生忠知が封じられた。しかし、忠知は参勤交代の途中、急病に罹り死亡した。
忠知には後継がなく、お家は撮り潰し、領地は没収とされた。その後1年間は大洲藩領預かりとなった。大洲藩としてはこの際不便な飛び地問題を解決したく幕府に願い出た。それは松山藩と大洲藩の領地交換である。松山藩に一万三千二百八石、大洲藩に一万三千四百七十二石の領地交換であるが、幕府は検討の末判断し許可を与えた。
この年を最後に三芳村の大洲藩代官所時代の出張は終わった。その名残として出張橋の名が今に伝わっている。翌、寛永十二年(1635)伊勢桑名城主松平定行が松山十二万石の城主となった。(三芳村が天領になったのは、明和二年(1765)である)。
藤堂高虎
この地に限らず、北条の辺りにも大洲藩の飛地があった。その因は江戸初期、大洲藩は今治藩主であった藤堂高虎の預り地であったことにあるかと思う。秀吉の時代、朝鮮の役の武功に寄り宇和島七万石、更に大洲一万石を領し、関ヶ原の後、家康の時代に入ると今治城主として十二万石を加増され、宇和島には係累を城代として置いたとのこと。
このような経緯により、東予の風早郡桑村郡57箇村を有していた大洲藩と松山藩領伊予郡、浮穴郡37箇村(約1万3千石)の替地がおこなわれた、ということであろう。

日切地蔵
道の右手に酒造会社を見遣り、道を進むと大明神川の手前、道の左手に河野家第38代当主・野通宣ゆかりの寺との光明寺。
ぱっと見た目には特段通宣との関わりを示す史跡が残るわけでもないのだが、それはともあれ、その道を隔てた逆側、細い路地の先に日切誓願の日切地蔵がある。
路地を進み、如何にも庶民信仰の風情の残る大師堂にお参り。その横には一段高いところに地蔵堂。境内には鳥居のような石造りの門が立つ。その門を潜ると同じ鳥居が堂宇軒下に立ち、その奥に石仏。阿弥陀堂とも言われているようだ。傍に金比羅さまも祀られる。
寺伝によると天平13年(741)行基により開基。大同2年(807)には空海が訪れ、日切の誓願(日を限って事の成就を願うと、その願いが叶う)を立てたのが「日切」の由来。正式には日切山大性院弘福寺と称す。

大明神川
日切地蔵を離れ大明神川を渡る。大明神川は天井川として知られる。中山川やこの大明神川、その支流の関屋川などにより運ばれた土砂が堆積して形成された周桑平野は典型的な扇状地となっている。
扇状地を流れる河川は一般に暴れ川が多く、人々は洪水から護るため土手を築くことになるが、土手に挟まれた川床には砂礫が堆積し、川床が上昇し、天井川が形成されることになる。この周桑平野では大明神川の天井川化が特に著しく、ここから少し下流では予讃線が川床下を抜けている。

大明神川橋南詰の金比羅道標と道標
川を渡ると橋傍に金比羅道標と道標が並ぶ。背の高い金比羅道標には「こんぴら大門へ二十一里 天保十三年」、道標には手印とともに、「前札ヨリ 四国六十番前札所清楽寺 同六十一番札所香園寺 同六十二番札所一ノ宮」「新田西山久妙寺生木地蔵大峰寺道 明治四十亥」とある。
遍路道標は上述した六十番札所横峰寺の神仏分離帝に伴う歴史が反映されて面白い。六十番札所・横峰寺は、明治4年(1871)、神仏分離令への対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺となり、そして明治42年(1909)に横峰寺に復した。道標の建立時期である明治四十年は未だ六十番札所大峰寺と称した時期。「大峰寺道」とあるのがそのエビデンス。
明治4年(1871)から明治18年(1885)まで、六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となっていたが、明治四十年には道標に刻まれるとおり、清楽寺は六十番前札所に戻った。 六十二番札所一ノ宮とは一ノ宮の別当寺であった宝寿寺のこと。西山は古刹・西山興隆寺のことである。
金比羅道
いつだったか松山から桜三里を越えて、金比羅街道が中山川を渡る史跡 釜之口井堰へと辿ったことがある。大雑把に言って、そこから国道11号の旧道を金比羅さんに向かうのが金比羅道ではあろうが、今辿っている遍路道、昔の西條道は今治と西條を結ぶメーンルートであろうから、この道も金比羅さんに向かう金比羅道とも言うのか、それとも桜三里を越えて来た金比羅道に通じる、という意味合いなのか、現在のところ未確認である。

生木道と香園寺道の分岐点に茂兵衛道標
その先道が左右に分岐する箇所に茂兵衛道標が立つ。「四国六十番霊場 横峯山 是より百六十八*」「国分寺二里余」と刻まれる。この茂兵衛道標は「中務」ではなく「中司」と刻まれる、とある。
この道標に従い右に進むと、生木地蔵経由の生木道を進み順路で六十番札所・横峰寺へ向かう遍路道であり、左は六十一番札所・香園寺から逆打ちで横峰寺に上る香園道となる。

今回のメモはここまで。次回は生木道、そして香園寺道を辿ることにする。



水曜日, 1月 17, 2018

伊予 歩き遍路 南予の遍路道 そのⅣ;柏坂を越えた上畑地の大門から宇和島の市街へと道を辿る

南予の山越え・峠越えの遍路道、松尾峠と柏坂の間を繋ぎ、柏坂を下りた里から宇和島へと向かう遍路歩きの2日目。
初日は予土国境・松尾峠を越えて下りた里、小山の集落から愛媛県愛南町を進み40番札所・観自在寺を打ち終えて柏坂上り口までを繋いだ。二日目は柏坂を下りた里である宇和島市津島町上畑地から宇和島市街へと進む。津島町から宇和島市街の間には松尾峠(予土国境の松尾峠と同名)があり、常の如く単独・車行のため峠ピストンに時間がかかり、結局、宇和島市街入り口で時間切れとなった。
本日のルート
大門から岩松へ
大門バス停>薬師堂>内田の観音堂>オサカの鼻の地蔵堂>芳原の延命地蔵・芳原庵寺
岩松の町
臨江寺>旧小西家跡>獅子文六記念碑
岩松から上谷へ
岩松橋>保木から熱田に>下谷から松尾峠取り付口に>遍路道案内
松尾峠越え
松尾峠への取り付き口から松尾峠□
遍路小屋;午前9時4分>旧道との交差箇所の道標:9時20分>峠の切通し;9時31分
□松尾峠から旧国道との合流点に
清掃センター脇に出る;9時46分>旧国道と合流;9時56分
旧国道合流点から柿ノ木の庚申堂まで□
旧国道から土径の遍路道に>県道46号に出る>柴折堂>県道46号から土径の遍路道に入る>柿ノ木の庚申堂
デポ地へのピストン折り返し
松尾隧道>旧道分岐点>車デポ地に
柿ノ木から佐伯番所跡へ
柿ノ木庚申堂から千歳橋へ
旧国道と国道56号の合流点へ>国道56号・千歳橋へ
千歳橋から普達橋へ□
薬師川手前に3体の石仏
薬師川から佐伯番所まで
赤土鼻の茂平道標>並松街道>馬目木大師堂>佐伯の町番所跡


大門から岩松へ

「えひめの記憶」には、「灘道は、津島町上畑地(かみはたじ)の大門で再び国道56号を横切り、旧上畑地村の旧庄屋屋敷や禅蔵寺薬師堂を左に見て、高岡橋から山沿いに芳原川左岸を北上する。小祝から芳原にかけては「梅三里」といわれ、かつて梅の並木があったというが今はその面影はない。
鴨田橋より山沿いを西に進み、下畑地(しもはたじ)内田の観音堂の右側を通り、芳原川に架かる金剛橋に至る。ここから道は、国道を横切り山裾(すそ)を北上しオサカの鼻の地蔵堂を経て、再び東の山際(ぎわ)を芳原庵寺や延命地蔵の芳原に向かい、さらに北進して岩松に至る」とある。

大門バス停
先般の柏越えの車デポ地であり、また旧内海町柏から柏越えをして戻ってきた上畑地の大門バス停が今回のスタート地点。国道56号の西、山裾の遍路道を進む。

薬師堂
大門バス停からの国道56号の西、山裾に沿って続く遍路道を入ったところを直ぐ山側に入ると薬師堂がある。このお堂は先回の散歩の締めにお参りしたのだが、便宜上再掲;
茅葺お堂の案内には「愛媛県指定有形文化財 禅蔵寺薬師堂一棟
この建物は方三間(間口)、5.61メートル、一重、方形造、茅葺である。創建は室町時代末期とされ、その様式を残して江戸中期に再建されている。
外部は素朴な草庵風の日本の伝統的民家様式で、構造および内部1は唐様である。特に花頭窓は禅宗様の古い形のものである。
建築年代は板札によると、天正年間(1573-91)とあるが、寺の伝説によると、天文年間(1540)ごろ、畑地鶴ケ森城の鶴御前のため、津島城主越智通考が祈願所として建立したと伝えられる。
平成2年、向背、花頭窓、内陣そのままに解体修理された」とあった。

内田の観音堂
高岡橋を右に見遣り、芳原川左岸の山裾の道を進む。途中、芳原川は保場川を合せ北へと下る。道は鴨田橋の西詰で山裾に沿って西に向かい内田の観音堂下に出る。
大瀧山観音寺。曹洞宗のお寺さま。観音堂と記されていたので小祠かと思っていたのだが、新しい本堂が建っていた。特に案内はなく、資料もみつからないのだが、本尊は観音様なのだろう、か。

オサカの鼻の地蔵堂
内田の観音堂を離れ道なりに進み芳原川に架かる金剛橋を渡る。「えひめの記憶」には「国道を横切り山裾(すそ)を北上しオサカの鼻の地蔵堂を経て」とあるが、ちょっと混乱。「オサカの鼻」の言葉に惹かれ、記事通りに進んでも地蔵堂は見当たらない。「鼻」とあるので、「突き出た」ところであろうと、金剛橋のひとつ下流の於泥橋の辺りの国道56号傍を探すが、みつからない。
で、国道左手を見ると小山がある。根拠はないのだが、国道建設時に開削された丘陵先端部?とも想い、国道を左に折れ於泥橋の東詰めに進むと、丘陵突端部に小祠がありお地蔵様が祀られていた。
ルートは正確には、金剛橋を渡り、国道を進まず、芳原川右岸に沿って進み、於泥橋東詰めから丘陵先端部を廻りこみ国道56号に進む、ということだろう。 於泥とは文字通り「泥沼」。「オサカ」の由来は不明。



芳原の延命地蔵・芳原庵寺
オサカの鼻の地蔵堂から国道56号に戻り、芳原川右岸の山裾の道を進む。芳原の集落に入ると道脇に延命地蔵。
芳原の芳原庵寺は延命地蔵のある四差路を右に折れた芳原集会所の傍にあり、小さな石仏群の右端に地蔵堂の小祠が建っていた。
耳神さま
延命地蔵に戻り、山裾の道を進み、道沿い山側に建つ耳神さまの小祠にお参りし道を進むと岩松に入る。

金剛橋から岩松への別ルート
「えひめの記憶」には、「このほかに金剛橋の手前を芳原川左岸の土手沿いに進み、オサカの鼻の地蔵堂の左側を通り、岩松へ入る道もあったという。いずれにせよ遍路道は、後背湿地の沼沢地を避け、山際や土手などの微高地を通っていた」とある。於泥の地名が示す通り、一帯は湿地帯であったのだろう。


岩松の町

「えひめの記憶」には「道は岩松代官所跡前を通って街道沿いに密集した町並みの商店街を北に進み、臨江寺の手前で左折し、旧小西家の蔵通りを北西に進み(後略)」とある。

臨江寺
記事に従い、道なりに進み、芳原川が北から下る岩松川に合わさり、北灘湾に注ぐ地にある旧津島町の中心地である岩松に入る。
記事にある岩松代官所跡はチェックしても不明のため、古き趣の町並みが残る道筋を進むと、道の右手に少し趣の異なるお寺の山門が見える。臨江寺山門である。
道脇に案内があり「江戸時代に林光寺から臨光寺に変わったといわれます。小西家の菩提寺。本堂は大正2年、山門は昭和14年の建立。山門中央上部の櫓窓が大正ロマンのつくりになっていてとても珍しいものです。
どちらも総ケヤキ造り」と。
元はは黄檗宗であったが、享保2年(1717)、臨済宗妙心寺派となったようだ。後述する本小西家及び東小西家が大檀那となり、欅普請8間4面の大本堂を建立。本尊薬師如来を安置。山門及び庫裡、位牌堂も建立された、とある、

本堂と境内の地蔵堂にお参り。池に宝船が浮かぶのは大旦那小西家が商いに使った千石船のイメージだろうか。
山門の地蔵堂と閻魔堂・大師堂
山門に戻ると、2階は鐘楼、左は延命地蔵堂、右は閻魔堂と大師堂となっていた。
案内には「えんま様と十王佛様 閻魔大王ははもとは、ヒンドゥー教の神様で、死後の世界の王様で、地蔵菩薩の化身とされています。
閻魔大王の眼は、太陽のように眩しくその声は、幾千もの雷が鳴り響くような恐ろしい声です。たいがいの死者は、閻魔大王に会うなりその恐ろしい姿に気を失うのだそうです。
その閻魔大王は、前世での生き様が記されている閻魔帳を開き恐ろしい声で、死者にその罪を読み上げていきます。
閻魔様が唐の時代の役人の服装をしているのは、仏教が中国を経由するとき、道教の影響を受けた為だと言われています。
。 また十王佛とは道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う裁判官です。 この思想によれば、人間を初めとするすべての衆生は、
没して後、七日ごとにそれぞれ
・秦広王(初七日忌、不動明王)・初江王(十四日忌、釈迦如来)
・宋帝王(三七日忌、文殊菩薩)・五官王(四七日忌、普賢菩薩)
・閻魔王(五七日忌、地蔵菩薩)・変成王(六七日忌、弥勒菩薩)
・泰山王(四十九日忌、薬師如来)追加の審理で、平等王(百ヶ日忌、観音菩薩) ・都市王(一周忌・勢至菩薩)・五道転輪王(三回忌、阿弥陀如来)となる。
この後、中国から伝わった十王信仰に江戸時代以降、日本独自の解釈で更に三仏を加えたものを「十三仏信仰」と呼び、蓮上王(七回忌、阿?如来)・抜苦王(十三回忌、大日如来)・慈恩王(三十三回忌、虚空蔵菩薩)となる。この三仏は生前の罪を裁く裁判官というよりも迷える死者を救い導く仏としての側面が強いとされる。
仏師曰く、ここに鎮座されている 左 閻魔大王と十王佛  右 弘法大師の仏像は、今から700年前の鎌倉時代(1185-1333)頃に造られた物だと考えられる。平成29年(2017)修復」とある。

説明の文の繋がりにちょっと変なところがあるが、それはともあれ、すべての衆生は没後、七日おきに七回審判を受けるとされるが、各ステップで問題なしとされると中抜けでき転生するとのこと。また通常5回目の閻魔大王が最終審判者として引導を渡すようである。
もっとも、中には7回の審判でも決まらない厄介な者もあるようだが、その場合でも7回目の審判で、とりあえず六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)のいずれかに配され、8回目から10回目は救済処置の審判として、地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちた者を救済し、修羅道・人道・天道に配された者には更なる徳をつむ処置がなされるとのことである。
我々が七日ごとに法事をおこなうのは、大王の審判に際し、生前の罪を減じる嘆願であり、また、供養の態度も審判の対象となるが故、という。

閻魔堂の閻魔様や十王佛、大師堂は新しく修復されたようで、少々可愛すぎる像となっている。但し、亡き人の経帷子をはぎ取る奪衣婆像は修復されず、古き趣の像として閻魔様の前に坐っていた。

なお、山門の左右に地蔵と閻魔が分かれて配置されているのは、閻魔さまの本地仏が地蔵菩薩であり、お地蔵さまと閻魔さまがペアとなって山門に建つのが通例故とのことである。

旧小西家跡
旧小西家の蔵通りを辿る。記事にある臨江寺手前を左折し進むが、蔵はあるが更地が多く蔵通りといった雰囲気は残っていない。岩松川まで進み、少し下流に進むと大畑旅館があり、その傍に「大畑旅館 元東小西邸。東小西時代にも、一時期「松風荘」という料理屋を経営していました。獅子文禄が小説『てんやわんや』を書いた部屋があることでも有名です。大正期の建物です」とある。 建物は新しく、最近建て変えられたように見える。
小西家
「えひめの記憶」には「第二次大戦前の岩松に君臨し、その繁栄をほしいままにしたのは、小西家であった。小西家は貞享元年(一六八四)宇和島から岩松に移住してきた酒造商であり、三代目の当主は藩主村候より苗字帯刀を許され、以後小西と名乗るようになった。寛政一〇年(一七九八)御荘村に新田開発をしたのを契機に、以後幕末に至るまで僧都川の河口と岩松川の河口に長崎新田や胼ノ江新田を相次いで開いた。また幕末には近家塩田を経営し、蝋座頭取役にも任ぜられ、宇和島藩では最も家格の高い庄屋であった。
小西家には本家小西家と、その分家の東小西家があり、岩松の町の中心部に居宅を構えていた。本家小西家は大地主であると共に酒造と製蝋を経営していた。酒造は明治中期に、製蝋も同年代ころには廃止する。
昭和初期の小作料は約六〇〇〇俵であったので、その所有地は水田二四〇町歩程度であったと推定されている。水田は津島町内のみならず、遠く南宇和郡の御荘・城辺町にも及んだ。水田以外に畑、山林、借家も多く所有し、山林は約二〇〇町歩、借家は町内に約一二〇軒所有していたという。
東小西家も大地主であると共に、明治末年まで醤油・生蝋の生産を営んでいた。明治二八年の所有地は水田四三町歩、畑五町歩、借家は三三軒、小作料は四〇〇石であった。また金融業も営み、明治以降その所有地を拡大する。昭和初期の小作料は四〇〇〇~五〇〇〇俵程度であったので、その所有地は水田一六〇~二〇〇町歩程度であったと推定される。山林は三〇〇~三五〇町歩程度、借家は一三〇軒程度所有していたという。
本家小西家と東小西家は第二次大戦後急速に没落する。その契機になったのは農地改革による小作地の解放であったが、それ以前に山林を売却したこと、東小西家では昭和二〇年、本家小西家では同二三年相次いで当主が死亡し、その相続税や財産税が多く賦課されたことも、両家の没落を早めた。本家小西家と東小西家は町の中心部に、河岸から旧国道までの間に、共に一五〇〇坪の宅地を持っていた。
国道ぞいに本宅があり、その裏に米倉や宝物倉があり、岩松川にのぞんで離れ座敷が配置されている構造は両家に共通していた。現在は共に数一〇軒の家に分割所有されているが、両小西家の本宅の大屋根、離れ座敷、東小西家の本座敷や宝物倉、醤油倉や庭園などは今日に残り、往時の繁栄の跡をしのぼせてくれる。また町内には棟割長屋式の家屋が多数残存しているが、これらはいずれも両小西家の借家の名残をとどめるものである」とある。

岩松の近世・近代
「えひめの記憶」をもとにまとめる:山地に阻まれ、物資輸送として陸上交通が機能しない時代、岩松川の河口左岸に延びる岩松は津島郷(旧津島村)の物資の集散地であり、藩政時代より船運により物資の積み出しが盛んな湊町として栄える。
藩政時代の最も重要な集散物は櫨(ハゼ;木蝋の原料)であり、明治から大正にかけては山間部で生産された木炭や杭木であり、木炭は大阪に、坑木は北九種の炭田へと海路送られた。
明治末期から昭和の初期にかけては、北灘・下灘などの宇和海沿岸の段畑地帯で養蚕業が盛んになり、そこで生産された繭の集散地となり、この地に製糸工場も誕生し、最盛期の昭和初期には4つの工場で働く女工さんの数が400名から500名にも達した。明治の末年から昭和の初期にかけてが、岩松の繁栄はその頂点に達していたとのことである。
岩松川の上流からの土砂の堆積により、大正初期には岩松の湊に大型船が停泊できなくなり、大正年間には岩松から少し西に離れた近家に港を移すなどするも、岩松は陸上交通が整備されるまでの明治・大正年間・昭和初期に至るまでは海運物資の集散地として栄えた。
この状況に変化が起きるのは、明治末年以降はじまる道路網の整備。松尾峠により隔てられていた宇和島との交通も、明治43年(1910)松尾峠に馬車道が開通、大正8年には津島郷と南宇和郡の間に鳥越トンネルが開通。大正8年(1919)には宇和島と御荘の間にバス路線も開通する。
この結果、津島郷の物資の集散地は次第に宇和島に移り、岩松の衰退がはじまることになる。
陸上での物資輸送の進展につれて、海運の町である岩松の町は次第に物資の集散地としての役割を終えることになる。
昭和30年()、近隣の6町村が合併し北宇和郡津島町が誕生し、この岩松が行政の中心地となるが、岩松の旧市街は山地と岩松川に挟まれ市街地拡張はできない。ために昭和30年以降岩松川右岸の水田を埋め立て、更には昭和38年(1963)に津島大橋が架橋されるに際し、右岸に国道バイパスが通るに至り、現在の市街地が形成されるに至る。平成17年(2005)、市町村合併で宇和島市となり。現在に至る。

獅子文六記念碑
蔵跡と共に更地も目立つ町並みを見遣りながら東小西邸跡から少し下流に下ると「てんやわんや」の案内。「てんやわんや 岩松は「てんやわんやのまち」といわれています。作家 獅子文六は、昭和二十年十二月から約二年滞在しました。
彼は小説『てんやわんや』で岩松を「相生町」と紹介し、ここに暮らす人々をおもしろおかしく描いています。

「えひめの記憶」には新橋近くの岩松川に沿う国道脇に、文六の「思いきや伊予の涯にて初硯(すずり)」の句碑が立っ、という。ちょっと寄り道。新橋を渡ると、橋の少し下流、国道と岩松川に挟まれて歌碑があった。
歌碑の脇に平成9年(1997)の銘がある石碑に説明文がある。簡単にまとめると「ペーソス溢れるユーモア小説の第一人者である獅子文六氏は、夫人の縁で戦後の2年間、当地の東小西家に寄寓。その間に見聞したことをいくつかの作品にまとめた。作品には「てんやわんや」「大番」「娘と私」、他短編、随筆などがあり、岩松の名は小説の舞台として全国的に知られることとなった。 こうした当地に対する貢献に報いるため、獅子文六氏より寄せられた句の中から選び建立した」とあった。
夫人の縁とは、最初のフランス人の妻と別れた後再婚した静子夫人が、この岩田の出身であったとのこと(碑文では見えない箇所があり、文字通りでは「たまご夫人」と読めるのだが、そんなわけはないだろうし。。。)
文六餅
ついでのことながら、臨江寺への旧岩松の町並みを進んでいると、文六餅の店があり、その店頭に「名物にうまい物あり“文六”餅」の経緯などが懸れている。興味があれば写真をご覧頂くこととして、フックが掛かったのはその横にある「我が小説 娘と私 ウソを書くもの」との赤く描かれた大文字とともに、長文の説明文。
この赤字の三題話に惹かれ説明文を読むと、小説とはウソを書くもの、ツクリゴトを書くものを身上とする文六氏が、ふとした心の迷いで『娘と私』を書き、申し訳なく、その罰は十分おもい知らされた、と。今度でつくづく懲りた。我と我がプライバシーを侵害したのだから訴訟もできない」とある。
『娘と私』は最初の婦人との間に出来た娘との日常を描いた私小説に近いものであり、ツクリゴトとは真逆のものであったわけである。このお餅屋さんが、店頭にこの文章を選んだ心持は?ともあれ三題話の謎解きが楽しめた。

岩松から上谷へ

「えひめの記憶」には、臨江寺手前で左折し旧小西家の蔵通りを北西に進んだ遍路道は、「田んぼの中(現国道56号が通っているところ)を旧高田村の保木に出て、慶応2年(1866)に付け替えられる前の岩松川を飛び石伝いに渡っていた。 伊達家の『岩松川絵図面』によると、岩松川は山麓の保木から南下して岩松小学校、JAえひめ南農協津島支所の所を大きく迂(う)回しながら海に流れ込んでいたようで、現在よりかなり西方の山際を流れていたらしい。明治44年(1911)、町の北端に岩松大橋が完成し通行は容易になった。
遍路道は岩松川を渡り、高田の保木から熱田へ進み、国道を横切り津島高校の裏側から山裾(すそ)を北へ進む。下谷を過ぎ再び国道を渡って上谷に入ると2体の石仏がある」とする。

 地図を見ると、岩松川右岸の山裾に沿って水路が走り、岩松小学校、JAえひめの山側を抜けて新橋の少し下で岩松川に注ぐ。この水路が付け替え前の岩松川の本流であったのだろうか。遍路道は湿地を避けて山裾を進んだと思うが、記事に「明治44年(1911)、町の北端に岩松大橋が完成し通行は容易になった」とある岩松大橋に向かう。

岩松橋
臨江寺から旧町並みを抜けると遍路道の案内があり、その先に岩松橋がある。平成22年(2010)竣工とある。記事にある岩松大橋とイメージが異なる。少し手前に戻り遍路道の道標手前の岩松川沿いに、「岩松大橋」の案内と「岩松橋」と記z間れた橋跡がガードレールに挟まれて残る。対岸には橋跡らしい姿も残している。
案内には「岩松大橋 大正10年頃の建築。側面にキーストン(要石)やキャピタル(柱頭)の模様があります。建設当時は欄干も鋳鉄で装飾され、中央部にはガス灯が設置してあったが、大戦中に鉄の没収により今の形となりました」とあった。新しい橋の完成とともに取り壊された。「今の形となりました」とあるので、この案内は平成22年(2010)以前のものだろう。
「えひめの記憶」には岩松大橋の完成は明治44年(1911)とあるが、はてさて。

旧市街から新しい岩松橋に出る手前に道案内がある。「松尾坂(へんろみち)」は国道筋を進むよう左折し橋を渡るが、右折方向に同じく「野井坂(へんろみち)」とある。野井坂は、満願寺で篠山道が合流した中道が、野井坂峠を越えて柿の木の庚申堂で灘道と合流する道筋である。

保木から熱田に
今回は、国道筋ではなく、かつての遍路道ではなかろうかと推測する山裾の水路に沿った道を進むことにする。遍路案内は特にないが、水路が岩松川に注ぐ辺りからJAえひめ、岩松小学校の裏手を進む。汐入という如何にも河口らしき地名を越え、保木から熱田へと抜ける。


下谷から松尾峠取り付口に
「えひめの記憶」には、熱田を越えると、国道を横切り津島高校の裏手の山裾を北に進む、とあるので、成り行きで国道56号に戻り、遠近川を渡り津島高校脇に出る。
遠近川左岸の山裾の道はほどなく国道に戻り、少々国道を進むと右に分岐し下谷の集落へと入る。下谷の集落を抜けると道は国道と交差し、遍路道は国道を越えて上谷の集落に入る。
当日は見逃したが、国道を交差し道を少し進み、Y字路を右の細路に入ると、遠近川の支流の少し手前に2体の石仏があるとのことである。地図を見ると遍路道はその支流に沿って松尾峠方面へと向かっているように見える。

遍路道案内
下谷から遍路道が国道をクロスし上谷の集落に入る道の左、ガードレールに「遍路道 このまま国道を600メートル トンネル左側に登り口あります」の案内。この案内が左に入ることなく国道を進み、上谷の2体の石仏を見逃した因でもあるのだが、「えひめの記憶」では、いまひとつ分からなかった松尾峠越えのアプローチ点がはっきりし、一安心。


松尾峠越え

国道を進み、旧国道の三差路を越え、しばらく国道に沿って歩くと新松尾トンネルがあり、その手前左手に「遍路道 宇和島松尾峠案内図」とその先に取り付き口が見えた。

松尾峠への取り付き口から松尾峠
「えひめの記憶」には、「道は旧国道(市道祝森線)松尾峠への三差路を越え、国道56号を横断し、人家付近から昭和53年(1978)に完成した新松尾トンネル(1710m)上の急峻な山道を登る」とある。「旧国道三差路を越え、国道56号を横断し、人家付近から山道を登る」との説明の「国道56号を横断し」が今ひとつよくわからないが、取り付き口に来る途中で、国道から右に分岐し松尾峠へと続く道がある。
偶々ピストンでの戻る最後の最後で、道を間違え、トンネル右手を下る道に入り込んだ。途中から戻りはしたのだが、その道は下に続いており、上述分岐点からの道とつながっているのかもしれない。
「愛媛の記憶」がいつの記事か不明だが、現在ではこの記述と異なり、トンネル左手から上ることになる。もっとも、トンネル左右からの道は直ぐにひとつになる。

遍路小屋;午前9時4分
峠への取り付き口手前の広いスペースに車をデポし松尾峠越えに。上ると直ぐに遍路小屋。落書きなのか、意図した励ましのメッセージなのか、外観は少々煩いが、中はマットレスっぽいものが敷かれ、屋根だけ、壁無しの遍路小屋に比べれば、快適な夜が過ごせそうではあった。

旧道との交差箇所の道標:9時20分
土径に入り、遠近川に注ぐ沢を越え15分ほどで高度を150mほど上げると東西に走る道に出る。「えひめの記憶」に「やがて明治41年(1908)から3年かけて完成した旧道に出るが、現在は荒れるにまかせ昔の面影はない」と記された道ではないかと思う。
旧国道の松尾隧道の竣工が昭和26年(1991)と言うから、明治44年から昭和26年までは、この旧道を往来していたのだろう。 どうでもいいことだけど、記述にある国道、旧国道、旧道、とくに旧国道と旧道が頭の中で混乱し、実際にこの「旧道」と交差するまで、遍路道は旧国道と交差するものと思い込んでいた。
それはともあれ、旧道と交差した遍路道の脇に道標と筒に入ったお地蔵さんがある。道標には、岩松、四十番札所(観自在寺)、四十番札所奥の院(篠山神社)への里程が刻まれていた。
「えひめの記憶」には「旧道と遍路道が交差する草むらの中に、昭和8年(1933)に建てられた道標がある」とするが、草は冬枯れの季節か、整備のおかげか、きれいに取り除かれていた。
道標横には、洒落っ気なのか遊び心なのか、円筒にお地蔵様が佇む。結構惹かれる。

峠の切通し;9時31分
旧道から10分、ほぼ等高線に沿った広く緩やか道を進むと切り通しに出る。こここが松尾峠。旧津島町と宇和島市の境となっている。
切通しを越えると四阿があり、休憩できる。嘗ての茶屋跡とのこと。峠の真下に松尾隧道が抜ける。

松尾峠から旧国道との合流点に
「えひめの記憶」には、「茶屋跡から左に折れてまた旧道に入り、木々の間から農免道路を左下に見ながら下る。緩やかな斜面をしばらく下って旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る。お堂のすぐ前を県道宇和島城辺線(46号)が通り、山裾(すそ)の道を約500m東進すると柿の木の庚申堂に至る。天和元年(1681)建立という古い庚申堂は、松尾坂越えの灘道と野井坂越えの中道の合流点である」と柿の木の庚申堂までの案内がある。

記事は柿の木の庚申堂まで結構あっさり書いているが、道筋は旧国道に下りた後、土径に入ったり、県道46号に入ったり、またそこから分かれて土径に入ったたりと、結構複雑。最もわかりにくかったのは、芝折堂が県道46号筋にあったことである。右往左往した結果のルートを以下メモする。

清掃センター脇に出る;9時46分
茶屋跡から路傍に立つ遍路道案内に従い左に折れる。右に進む道もあり、うっかりすると右へと行きそうではあるので気を付けて。
遍路道は竹林、掘り割りの道、杉林、名は知らないが植林ではない自然な木々の中を下る。
記事に農免道路を左下に見ながらとある。地図で確認するに、松尾隧道手前で右に折れ半島部へと向かう道に農免道路と記載されている。
15分ほどで高度を150mほど下げると、右手に宇和島市の清掃センターが見え、道は山際清掃センターの間を進む。
農免道路
正式には「農林漁業用揮発油税財源身替農道」。農業用の機械に使われた分のガソリン税を財源に、農業のために必要な道路(農道)を整備したのが農免道路である。

旧国道と合流;9時56分
右手に清掃センター、左手に採石場・工場と遍路道には似合わない景観の中を10分ほど進むと舗装道路に出る。松尾隧道を抜けてきた旧国道である。

当日は、車デポ地へのピストンの基本通り、ここから折り返し新松尾トンネル前の車デポ地に戻ったのだが、ルート説明の便宜上、柿の木の庚申堂までメモを続ける。時刻は省略し、所要時間だけを記す。

旧国道合流点から柿ノ木の庚申堂まで
「えひめの記憶」には「緩やかな斜面をしばらく下って旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る。お堂のすぐ前を県道宇和島城辺線(46号)が通り、山裾(すそ)の道を約500m東進すると柿の木の庚申堂に至る。天和元年(1681)建立という古い庚申堂は、松尾坂越えの灘道と野井坂越えの中道の合流点である」と記される

旧国道から土径の遍路道に
左手に巨大な砕石場を見ながら国道を少し下ると、道路右手に遍路道の木標があり、右手に入る指示がある。来村川に注ぐ支流の沢にかかる小橋を渡り土径に入る。

県道46号に出る
沢を見遣り、崖上に通る県道46号を見上げながら沢の右岸を5分ほど下ると県道46号に出る。崖上を進む県道46号は強烈なヘアピンカーブで曲がり、遍路道との合流点に下ってくる。

柴折堂
GPSツールがあるので、県道46号に下りたのは分かったのだが、柴折堂は?「えひめの記憶」には「旧国道と交差し、間もなく小川沿いにひっそりと立つ柴折堂に至る」とあるだけ。旧国道と交差しははっきりしないが、「小川沿い」を頼りにGPSで地図をチェックすると、県道46号を少し旧国道との合流点に向かったところに、右岸を下っていきた沢がある。
確証はないのだが、とりあえず沢まで道を戻ると、橋が架かり「柴折橋」とある。小川に沿ってとあるのでこの辺り?橋の南詰に少し広い場所があり、その奥に小祠が見える。特に表記はないが、ここが柴折堂だろう。遍路道が県道46号に出る地点からほんの少しの場所にあった。

県道46号から土径の遍路道に入る
柴折堂から県道46号を山側に5分弱戻ると、道の左手に案内があり、左手に下る土径がある。案内には、「庚申堂への遍路道 松尾峠から宇和島市中心部に向かうこの遍路道は、昔の伊予と土佐を結ぶ宿毛街道の灘道で、人や物資の行き交う交通の要路でした。
宿毛街道には伊予に入ると、一番西寄り海岸沿いのこの「灘道」、宇和島藩の官道であった「中道」、一番東寄りで篠山(1065m)を越える「篠山道」の三ルートに分かれ、遍路もこのいずれかを辿りました。中道と篠山道は宇和島市津島町の満願寺で合流し、さらに野井坂を越えて来て、この先(約三百m)の庚申堂で灘道と合流します。
明治以降、車両通行にため道路整備が進みルートが変わったところが少なくありませんが、歩いてだけ利用できるこの庚申堂への遍路道は昔をしのばせる貴重な歴史遺産です。宇和島市教育委員会」とある。中道と合流する柿の木の庚申堂への遍路道である。

柿ノ木の庚申堂
左・中道 右・灘道
木々の間から左手の旧国道や畑地を見遣りながら6分ほど歩くと柿ノ木の庚申堂に出る。




お堂の下にある案内には、「この庚申堂のある地点(宇和島市祝森柿ノ木)は、かつての宿毛街道中道と灘道が合流する交通の要地でした。
伊予宇和島と土佐宿毛を結ぶ宿毛街道には、西寄り海沿いの「灘道」、真ん中の「中道」、東寄りで篠山(1065m)を越える「篠山道」の三ルートがあり、遍路道もほぼこれに重なっていました。江戸時代初期にはここから南方の岩淵(宇和島市津島町岩淵)で分岐(合流)していたのですが、江戸時代中期に北宇和郡岩松が経済発展するにつれ、灘道は松尾峠を経て宇和島城下と直結するようになり、この庚申堂前で中道と分岐するようになりました。
庚申堂は、古くは中国道教に由来すると言われますが、六十日毎に巡ってくるい庚申の日に徹夜をして神仏を祀り災厄を避けるという民間信仰に基づくものです。柿ノ木庚申堂では弘法大師の伝承による青面金剛が本尊とされており、猿がその使いとされます。
当地(宇和島市祝森清水)に明治時代まであった表具所では、遍路土産に木版仏絵を販売していたとのことで、その中のひとつとして、庚申の絵柄のものもあり、青面金剛と猿を刻した木版が現在も個人蔵で伝わっています 宇和島市教育委員会」とある。

灘道と中道のルートを説明の通り解釈すると、江戸初期には岩淵で分岐していた、とあるので宿毛街道は満願寺のある岩淵に3ルートが集まり、野井坂峠を越えて、この柿ノ木に出ていたことになる。現在の灘道・松尾峠越えは無かったということだ。また、上述岩松の繁栄も江戸中期からということを意味する。 「えひめの記憶」には、「岩松から岩淵の満願寺への道は、かつて灘道を通り宇和島城下に行く旅人や遍路は必ず通った道である。しかし、岩松から高田を経て松尾峠越えの道が開かれた明治以降は極度に人通りが減少し、満願寺もかつての賑(にぎ)わいが見られない」とある。最初、この記述が何を意味するのかよく分からなかったのだが、上記庚申堂にあった案内と組み合わせて、やっとわかった。また、松尾峠越えの灘道は江戸中期から開かれたが、荷馬車の往来なども可能となった明治44年の旧道開通により人や物の流れが松尾峠ルートの灘道に変わった、ということだろう。
お堂の東側、宇和島道路との間を庚申堂に下る中道をしばらく眺め、灘道と中道の合流点を実感する。
庚申堂の由来
「昔、柿木部落に孝行な兄弟がおりました。兄は地蔵菩薩を信じ、弟は青面金剛を崇拝していました。
そこえ弘法大師が巡ってこられ、兄弟に感心され、それぞれ仏像を刻んで下さいました。それから兄弟の子孫は代々長命を保ち栄えたので、松ケ鼻に地蔵堂を、松尾坂の麓に青面金剛のお堂を造っておりましたが、乱世となり子孫は四散し、堂は壊れ像は土中深く埋没してしまいました。
時は移り、天和元年(1681)北宇和郡深田(広見町)の庄屋河野勘兵衛道行が祝森で余生を送っていたとき霊夢のお告げと一匹の猿の導きで松尾坂の麓で蒼面金剛を掘り出しお堂を建て安置した歴史のある建物で明治三十三年(1900)に再建せられ柿木祝川住民の心のより所として大切に保存をしております。平成十四年 柿木庚申堂保存会」


■デポ地へのピストン折り返し

当日は松尾峠を下り、清掃センター脇の旧国道と繋いだ時点で車をデポした新松尾トンネルの南口までピストンで折り返した。ピストンルートは、松尾峠下の松尾隧道を見ておきたい、ということもあり、旧国道を戻ることにした。

農免道路
旧国道の松尾隧道手前に標識があり、大きな文字で「農免道路」と書かれた下に道方向が「下波 三浦」 直進方向が「津島」とある。この標識では、どちらの道も農免道路と読めるのだが、地図には右の三浦隧道を抜け下波・三浦に向かう道を農免道路としている。津島方向へ進む旧国道が農免道路ということはないと思うが、標識だけではよくわらない。農免道路標識まで、遍路道と旧国道合流点からおおよそ15分程度だった。

松尾隧道
昭和26年(1991)開削された松尾隧道に入る。遍路案内などの写真では結構古い趣の隧道と見えるが、現在では改修工事がなされたのか、ふつうのトンネルと変わることがない。
先ほどの農免道路の標識、その支柱に「農耕車優先」といったプレートを想えば、旧国道も農免道路として財源確保され改修されたのか、清掃センター設置に伴う津島からの利便性確保のため改修されてものか、根拠もないのに、あれこれ妄想が膨らむ。

旧道分岐点
松尾隧道を見たいがために、お気楽に旧国道を戻りはしたのだが、地図をみると車デポ地点へは結構大廻りとなる。地図を見ると松尾隧道上の松尾峠に戻り、往路の遍路道を下るのが最短距離。
旧国道松尾隧道出口から松尾峠へと続く「実線」はあるのだが、途中で道が切れ藪となる。藪漕ぎは勘弁と、旧国道に戻り少し先にす進むと、簡易舗装の道が旧国道から分岐する。
どこに進むかよくわからないが、とりあえず道を進むと見たような景色。道脇は道標と円筒に座るお地蔵さまもある。遍路道が「旧道」と交差する箇所だった。この道が、松尾隧道が開かれる以前の「旧道」であることが、そこではじめてわかった。往路のルートメモの旧道云々はこれを踏まえてのことである。松尾隧道を抜けておおよそ20分で遍路道に戻った。

車デポ地に
旧道からは往路の折り返し。最後の最後で前述の如く道を誤り、新松尾トンネルのデポ地逆側に進んでしまった。結果的には、この道筋が「えひめの記憶」から解釈さえる道筋と思えるのが「成果」ではあったのだが、この道から国道56号に途中から下りようにも、国道との間に沢があり、沢が切れる上部は法面が高く、国道に下りることはでない。結局道を戻り、車デポ地側への踏み分け遍路道に入り、車デポ地に戻った。旧道交差地点からおおよそ25分程度であった。


■柿ノ木から佐伯番所跡へ

□柿ノ木庚申堂から千歳橋
旧国道と国道56号の合流点へ 庚申堂から旧国道と合流した県道46号を進み、宇和島道路の高架を潜り国道56号との合流点に。「えひめの記憶」には「遍路道は柿の木から宇和島城下までは中道(宿毛街道の主道)をたどる。新旧国道の分岐点から旧国道(現県道宇和島城辺線)に寄った崖下に7体の石仏が祀(まつ)られている。右端の地蔵の台座に里程を刻んだ道標がある」と記すが、辺りを結構探したがそれらしき石仏を見付けることができなかった。

国道56号・千歳橋へ
新旧国道の合流点付近から先は、「ここから中道は国道56号の西側を北へ向かって進む。清水の山腹にある小さなお堂前を通り、現在の旧国道より少し高い所を通っていた。しばらく進んで常夜灯や子安地蔵を過ぎ、また国道に出て千歳橋を渡る」と「えひめの記憶」にある、国道56号の西側の山裾を進む道に入る。
清水の山腹にある小さなお堂の前を通り、現在の旧国道より少し高い所を通っていた、とするが、清水の集落の一部に山側に一瞬入る道の他に、旧国道より高い所を通る道筋は見つからない。一瞬山側に入る道に小さなお堂があったのかもしれないが、見逃した。
来村川に沿って道なりに旧国道を進み、道が国道56号に出た所には常夜灯とその裏手に子安地蔵堂があった。
常夜灯で一瞬国道56号をかすめるが、すぐに左、山裾を進む道があるので、特に根拠はないのだが、旧国道だろうか、などと思いながら道を進み、千歳橋で国道56号を渡る。

千歳橋から普達橋へ
千歳橋を渡ると、松が鼻で右に入る道がある、とりあえず道に入るが、すぐに国道に出る。その先で再び右に入る道がある。「えひめの記憶」のには、「再び国道から分かれて狭い保田(やすだ)の旧国道に入って間もなく、左手の居林邸(保田甲483)の入口に「岩松へ三里一丁」と刻まれた道標がある。これは宇和島藩村明細帳を集成した『大成郡録(たいせいぐんろく)』の里程から考察して、どこからかここに移設されたものと思われる」とある。住所から見て、この道筋だとは思うのだが、それらしき道標を見付けることはできなかった。
この道筋もほどなく国道に出るが、保田のバス停がある辺りから、またまた右に入る道がある。旧国道?と思うほどの細い道だが、これもほどなく国道56号に出た。「えひめの記憶」の記憶には、「旧国道(中道)より一段高い山寄りに遍路道が通っていた。山寄りの道筋に小さな大師堂があり、享保8年(1723)と刻まれている小さな大師像と道祖神が祀られている」とある。この細い道より更に右に入り込むと大師堂と道祖神があったようだ。

薬師川手前に3体の石仏
「えひめの記憶」には、この先の遍路道について、「遍路道はさらに進んで薬師谷川左岸に至る。国道に架かる普達橋からやや上流、薬師谷川の左岸の渡河地点に3体の石仏があり、真中の地蔵の台座に「此道御城下迄三十一丁」と刻まれた道標がある。ここから川幅約15mの薬師谷川を飛び石伝いに右岸に渡り、寄松・並松(なんまつ)を経て宇和島城下を目指して進む」とある。 記事に従い進むと薬師川で行き止まりとなる。民家脇を山際に廻り込み道を進むと、薬師川を背に岩の上に3体の石仏・石碑があった。右手の石碑は遍路墓と言う。

薬師川から佐伯番所まで

赤土鼻の茂平道標
国道56号にかかる普達橋を渡り、丘陵が西に突き出た下保田で国道56号のバイパスといった宇和島道路と分かれた国道56号は、丘陵に沿って右に折れ北東へと進む。
寄松を進み並松2丁目辺り、丘陵が西に突き出た辺りで旧国道は国道56号から分岐する。分岐箇所辺りを赤土鼻と呼び、小高い丘になっていたようだが、国道開削時に削られたようである。
道の分岐点には茂兵衛道標が立つ。手印が左右に分かれ「観自在寺十里 和霊神社四十一番 四十番奥の院へ廿丁余」「明治四十四年」といった文字が読める。 四十番札所の奥の院とされる宇和島市街にある龍光院まで廿丁余(2キロ強)ということだろうか。
「えひめの記憶」には「国道56号から並松に入る三差路西側の水野邸(中沢町2-4-11)横に茂兵衛道標がある。ここは昔、湿地帯でこの道標は田んぼの畦(あぜ)道に建てられていたという」とある。

並松街道
この分岐から先は「並松街道」と呼ばれていたようである。「えひめの記憶」には、「赤土鼻から国道と分かれて並松の旧国道「並松街道」に入る。並松は道のり約6丁を「並松街道」と呼び、街道沿いの松並木が多くの旅人や遍路を慰めたという。真念は『四国邊路道指南』の中で「これより宇和島城下迄なミ(並)松、よき道也。」と記し、英仙本明は『南海四州紀行』の中で「道悪ク並松曲疲タリ。」と記している。約120年の時差があるが、道路の表記は大きく異なる」とする。また「明治15年(1882)当時の並松の道幅をみると「狭キハ壱間半ヨリ広キ八三間二至ル凡平均弐間」56)と記され、街道の道幅は城下に次いで広い。道の両側は古い民家や商店が建ち並び典型的な街村をなす」ともある。

馬目木大師堂
山際から元結掛(もとゆいき)を進み、神田川(じんでん)手前、三差路の右手山際に馬目木大師堂がある。お堂の前に巨大な立派な常夜灯、石仏の小祠、寺の裏手には五輪塔や石碑が並ぶ。お堂前の銀杏の巨木が古き趣を増していた。

境内にあった案内には「弘法大師が開かれたという、九島鯨谷の願成寺は、四国霊場四十番の札所観自在寺(御荘平城)の奥の院であったが、離れ島にあるため巡拝に不便であったので、寛永8年(1631年)に結掛の大師堂に移し、元結掛願成寺といった。この寺は明治になってからさらに国鉄駅の近くの龍光院に併せられた。
この大師堂を馬目木大師堂といういわれは、弘法大師は九島の願成寺を造られたものの、海を渡って九島までお札を納めに行くのは大層不便なので、宇和島の海岸にあった渡し場に遥拝所をた。そしてこれに札を掛けよと、馬目木(ウバメガシ)の枝を立てていたものが、いつしか根づいて葉が茂るようになったという。
元結掛の地名については、いつの頃かここで信仰心のあつい人が頭をそって仏道に入り、その髪を元結(まげをしばるひも)でこの馬目木に掛けておいたから「もとゆい木」といわれるようになったとも、またこの土地は海岸通りで、通行人の元結がこの馬目木の枝にひっかかるので名付けたともいわれている。 現在もお堂と馬目木が残り、土地の人の深い信仰心の対象となっている」 とあった。
地図で見ると現在、九島は橋で宇和島と結ばれていた。

佐伯の町番所跡
神田川を少し下流に戻り佐伯橋を渡る。橋には「佐伯橋 富田信高が城主の時代、佐伯権之助の家老屋敷があったのが名前の由来です。
明治4年、須藤頼明がこの橋の上で泥酔した農夫にからまれ無礼討ちしました。禁止令が出る直前で最後の無礼討ちと言われています」と共に、「佐伯町御番所跡 南部から城下町に入る際の御番所。手形改めの後通行人はここにあった井戸で往来の汚れを洗い流したそうです」とあった。
橋の北詰はカラオケ店となっていた。
富田信高
富田 信高(とみた のぶたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。伊勢安濃津城主。津藩第2代藩主。関ヶ原の戦いの功績によって、伊予宇和島藩初代藩主に転じたが、改易された(wiki)。
どうでもいいことだろうが、改易の理由をチェックすると、信高の夫人と、その弟、そしてその甥の間のトラブルに巻き込まれてのトバッチリを受けたといったもの。こんなことで改易になるのかと、Wikipediaをもとに、ちょっとメモする;事のはじまりは、夫人の甥である宇喜多左門が、夫人の弟である石見津和野藩主坂崎直盛の婢(小童とも)と密通。怒った直盛が左門を討たんと送った家臣が返り討ち。左門は信高のもとに逃れる。直盛は引き渡しを求めるが果たせなかった。
その間、信高は伊予板島城に転封となり、これが宇和島藩となる。転封にともない、左門は日向延岡藩主のもとに身を隠す。
事が動いたのは、信高の夫人が、左門の援助にと米とともに送った手紙が直盛の手に入り、直盛が将軍家に訴え出たこと。結果、夫人の罪が咎められ、信高は改易され、岩城平藩で蟄居、左門は死罪に処される。
但し、これは表向きの理由で、実際は大久保長安事件に連座したのが真相とも言われる。
これで本日の散歩は終了。後は城下を抜け、窓峠、歯長峠を越えて旧卯之町の明石寺を繋ごうと思う。明石寺を繋げば、予土国境から今治までの遍路道がやっと繋がる。