土曜日, 1月 18, 2020

讃岐 歩き遍路;八十六番札所 志度寺より八十七番番札所 長尾寺へ

屋島寺、八栗寺、志度寺と讃岐の北東端の海沿いを辿った遍路道も、志度寺からは南に下り阿讃を画する山地へと向かう。
南に進んだ次の札所である八十八番長尾寺は未だ讃岐平野の中。大よそ7キロほどの行程。距離はみじかいのだが、志度寺であれこれ気になることが現れ、メモが少し多くなった。今回は志度寺から長尾寺までのメモとする。



本日のルート;
八十六番札所 志度寺>普門院>高松自動車道手前に山頭火歌碑>暮当・当願大明神>標石>萩地蔵>玉泉寺に2基の茂兵衛道標(241度目・143度目)>造田八幡の茂兵衛道標(159度目)>広瀬橋北詰の茂兵衛道標(181度目)>長尾橋(へんろ橋)北詰に2基の標石>茂兵衛道標〈175度目〉>住吉神社北の標石>秋田清水九兵衛道標>八十七番札所長尾寺

八十六番札所 志度寺

圓通寺・自性院
参道を仁王門へと進む。途中左手に圓通寺、右手に自性院。圓通寺は、元志度寺の末寺西林坊と称され、江戸時代、元和年間(17世紀初頭)の頃までは志度寺住職の隠居寺となっていたようだ。
自性院は元志度寺の御影堂跡とも言われ、境内に平賀源内の墓があることで知られる。源内の墓は浅草橋場の総泉寺跡にあるが、そこから分骨されたものとのこと。お墓の写真は常のごとく遠慮しておく。

仁王門
大型の八脚門。切妻造り・本瓦葺き。寺伝によれば寛文年間(17世紀中頃)再建と言われ、国の重要文化財に指定されている。仁王門に建つ金剛力士像は3mを越える大像であり、運慶作とも伝わる。
仁王門を潜り境内を進む。一万坪とも言われる境内には木々が茂り、森の中を歩くといった雰囲気。土佐と伊予の県境から讃岐へと多くのお寺さまを歩いて来たが、こういった参道が木々に覆われた境内はあまり見かけなかったように思う。境内を進み本坊・庫裏の前を左折し本堂に。

五重塔
本堂に向かう左手に五重塔。地元篤志家が建てたもので、昭和50年(1975)落成法要が行われている。その高さ33mと言われる。

奪衣婆堂
本堂手前の左手に奪衣婆堂。奪衣婆像とその左右には地蔵像と太山府君が並ぶとのこと。奪衣婆は三途の川で待ちかまえ、亡者の衣服をはぎ取り、その重さで三途の川の渡りかたを教える役割をもつ、と言う。楽に渡れるか苦労するか、亡者があの世で最初に出合う試練である。閻魔大王の妻とも言われ、民間信仰では重要な役割をもつ。
奪衣婆像の左右に並ぶ地蔵と太山府君。地蔵は閻魔の化身、また太山府君は閻魔さまと同じく地獄の10人の裁判官(十王のひとり)ともされる。

それはともあれ、奪衣婆が立派な堂に祀られることは四国の札所ではあまり見かけなかったように思う。この寺の境内には閻魔堂もあり、なんとなく閻魔様が重要視されているようだ。チェックすると、このお寺様は閻魔様の氏寺といった縁起があった;
御衣木縁起
寺に御衣木(みそぎ)縁起が残る。御衣木(みそぎ)とは神仏の像を造るために用いる木のことである、縁起に拠れば、はるか昔近江の国高島郡の深谷・白蓮華谷に瑞光・異香を薫じる大木があった。その大木が継体天皇の御代、天変地異により谷より流れ、琵琶湖、淀の津を経て海上に至り志度の浦に流れ着いた。その間数百年の歳月を経るも朽ちることはなかった、と。
推古天皇33年(626)、この地、志度寺直ぐ傍の地蔵寺の地に庵を結ぶ凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)がこの霊木を草庵へ持ち帰り安置した。と、しばらくして仏師が現れ、その霊木を刻み十一面観音を造立した。この仏師は補陀落観音の化現であった。
本尊はできた。が、それを安置する堂宇がない。さて、と思っていると番匠が現れ一間四面の堂宇を建てた。この番匠は閻魔大王の化現であった。閻志度寺が閻魔大王の氏寺と称される所以である。

本堂
中世以来の密教本堂の姿を今に伝える本堂は国指定重要文化財。本尊の木造十一面観音も国指定重要文化財となっている。
補陀落山清浄光院志度寺。真言宗善通寺派の寺。補陀落山の由来は補陀落信仰の故。境内のすぐ北に迫る志度の海は、土佐の24番札所御崎寺、38番金剛福寺と共に補陀落渡海の海。補陀落浄土に繋がるとされ、極楽浄土を求める渡海者を生んだと言う。「死度の海」、「死門の海」とも称された。
死度の海
死度の海と言えば、この寺も「死度道場」とも呼ばれた、と。「讃州志度道場縁起」には:天智天皇の御代、藤原鎌足の娘・白光女が唐の高宗の妃となる。白光女は藤原氏の氏寺である興福寺に三つの宝珠を送るも、そのひとつ面向不背の珠が志度の浦で竜神に奪われる。
時を経て鎌足の子、藤原不比等が珠を取り戻すべく志度の浦に。3年の歳月が過ぎ海女との間に房崎を成す。不比等は素性を明かし、珠を竜神より取り返すことができたなら、房崎(次男であるが)を後継者とすると海女に告げる。
海女はわが子のために浦に潜り竜神より珠を取り戻すが、竜神との闘いの傷がもとでむなしくなる。不比等は五間四面の堂を立て海女を弔った。このお堂は「死度の道場」と名付けられた。「死んで帰る」の意である。不比等は都に戻り、房崎は長じて房前の大臣となった。この「海女の珠取り伝説」は謡曲「海人」として知られる。

元より藤原鎌足の娘が唐の皇帝の妃となったこともなく、不比等が志度の浦に来たこともないであろうが、「讃岐の志度道場」は平安時代後期の歌謡集である「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には、信濃の戸隠、駿河の富士などとともに、「四方(よも)の霊験所(れいげんしょ)」として知られていたようであり、それ故に、志度の海は古くから異界へ通じる霊場とされていたようである。「死度」の所以ではあろうか。

因みに取り戻した珠は一時興福寺中金堂に戻るも、康平三年(1060)のお堂焼失後行方不明となる。が、はるか時を隔てた昭和51年(1976)に琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺で見つかった、との記事があった。竹生島は越前の興福寺所領の海上輸送路上ではある。
また、珠を奪われた竜神は取り戻すべく奈良興福寺の猿沢の池に来たりて、奈良の竜神となった後、室生の善女竜神となった、と言う。これもなにか意味がありそうだが、深堀は一時思考停止。 因みに興福寺は藤原氏の氏寺である。

それはそれとして、何故に藤原不比等が志度寺の縁起に登場するのだろう。讃岐の代表的国人は讃岐氏、讃岐橘氏、讃岐藤原氏ともいう。そう言えば、遍路道すがら出合った香西氏も藤原氏の流れであった。そういった背景があっての藤原家の祖である不比等の登場だろうか。単なる妄想。根拠なし。

大師堂
本堂右手に大師堂。本堂と結ばれる。大師堂の傍に薬師如来、阿弥陀如来、観世音菩薩の坐像がある。初代藩主松平頼重が若き頃、家臣を切腹に処したことを後悔し別邸に祀ったもの。元禄15年(1702)住職が時の藩主頼常に願い当時に移したものである。

閻魔堂
大師堂の北に西面する閻魔堂。奪衣婆堂と対面する。お堂には十一面閻魔大王が祀られる。上述縁起の如く、志度寺は閻魔が番匠として化現し寺を建てたとされるが、その他の寺に伝わる縁起も閻魔大王による蘇生譚をベースとして寺の再建がなされたとの縁起がある。白杖童子、当願暮当、松竹童子縁起による平安時代の再興、また千歳童子、沙弥阿一の蘇生による鎌倉時代の寺の修造伝説がそれである。十一面観音の宝冠を戴く龍王=閻魔の慈悲により蘇生するといったストーリー・蘇生譚を語り修行僧が寺の修築費用を勧請して廻る拠り所としての縁起譚という記事も見かけた。
因みに、今回奪衣婆堂→本堂→大師堂→閻魔堂と巡ったが、志度寺はかつて「死渡道場」とも呼ばれ、この世とあの世の境と考えられていたわけで、とすれば三途の川でまず奪衣婆に出会い、観音様(本堂)、お大師様(大師堂)で功徳を積み、閻魔様の裁きで蘇生する、というストーリーがこの境内で展開されるよう配置されているとの記事もあった。

薬師堂
薬師堂前の石造香台は名古屋の伊藤萬蔵の寄進、世話人中務茂兵衛の手になるもの。茂兵衛道標で知られる中務茂兵衛は説明するまでもないだろう。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。後に、全国各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。68番神恵院の石灯籠、74番甲山寺の香台など遍路歩きの各所で萬蔵寄進の石灯籠、香台に出合った。

海女の墓
仁王門の北側に石塔群が建つ。上述『讃州志度道場縁起』には、藤原房前が行基菩薩とこの地を訪れ、母である海女の菩提を弔うため千基の石塔を建てたとあるが、石塔群はその名残である。

生駒親正の墓
海女の墓の傍に生駒親正の墓塔と伝わる五輪の塔がある。常の如く写真はパス。
美濃の生まれ。織田信長に仕え、のちに秀吉のもと身を立て、賤ヶ岳の合戦などの武功により、秀吉の天下の頃、天正15年(1587)には17万石を与えられ讃岐国主となり、高松城、丸亀城を築き善政を敷く。
朝鮮出兵の後は伏見城に戻り中老として豊臣政権を支える。関ケ原合戦時には西軍に与したため謹慎し、一時高野山に籠るも、一子一正の東軍での活躍によりその罪を許された。所領を安堵され、讃岐に戻り、慶長8年(1603年)に高松城にて没する。
案内には「隣の海女の墓は生駒家の先祖に当たるとして志度寺を崇敬した」とある。ということは生駒氏の先祖は藤原摂関家に繋がるとのことであろうか。チェックすると、生駒氏は藤原氏の末裔と称した、と、その故の不比等の珠取り伝説?とは思えども、志度寺縁起は鎌倉から室町の頃のものと言うから、生駒氏の来讃より古いわけで、妄想あえなく撃沈。

志度寺庭園
本坊の裏に庭園がある。室町期の文明5年(1473)頃、讃岐を支配していた細川氏により寄進された曲水式、回遊式池水庭園。長年荒廃したままであったようだが、昭和56年(1981)修復された。


お辻の井戸
回遊式庭園に続く無染庭の南にはお辻の井戸がある。田宮坊太郎の仇討ち成就を金毘羅大権現に祈願し満願の日に自害して果てた乳母のお辻ゆかりの井戸と言う。この井戸で水垢離をとったと伝わる。
田宮坊太郎
我々の世代には子供時代の読み物に登場した人物であり仇討物の主人公として知られるが、仇討のエピソードは信憑性が疑われており、芝居や講釈師や浪花節などから生まれた虚構との説もある。
それはそれとして、案内には「坊太郎の父田宮源太郎は文武にすぐれ讃岐丸亀藩の生駒氏に召し抱えられる。が、その信望の高まるのを恐れた藩の武芸指南である堀口源太左衛門によりだまし討ちにあう。
坊太郎を護るべく乳母のお辻は志度寺に逃れる。成人した坊太郎は江戸に出て柳生道場で剣の修行に励み、18歳になり丸亀に戻り藩主の許可を得て本懐を遂げる。坊太郎はその後仏門に入り父とお辻の冥福を祈り、二十二歳でその生涯を終えた」とあった。

上述の如く、数々の伝説に彩られたこの寺は源平合戦の舞台でもあった。平家は志度寺に陣を張っている。が、志度を目指した義経の率いる八十騎に不意を突かれ一戦も交えることなく海上に退いたとのこと。
室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄するが、その後、長曾我部の兵火により堂宇悉く焼失。江戸時代に入り、慶長9年(1604年)生駒親正の夫人教芳院が観音堂を再興。善年に亡くなった生駒親正の供養だろう。その後代々の生駒氏により寺は庇護され、寛文10年(1671)、には新たに高松藩主となった松平氏によりの本堂・仁王門などの寄進が行われ、寺は興された。

志度寺から長尾寺へ

普門院
志度寺山門を出て参道口を左に折れ南に下る。道の左手に普門院。境内を囲む塀が美しい。境内も落ち着いたお寺さま。世界的デザイナであるイサムノグチ氏の愛した寺とも言う。ロスの生まれ。高松市牟礼の花崗岩・庵治石を使ったことがきっかけで牟礼にアトリエを構えた、と。 道なりに進み、国道11号を越えると道は県道3号志度山川線となる。徳島県吉野川市へと抜ける道である。

高松自動車道手前に山頭火歌碑
更に南に進み、高松自動車道の少し手前で県道から右に入る道がある。これが旧遍路道。県道を離れ右に入ると高松自動車道の高架手前にお堂があり、傍に「カラスないてわたしもひとり 山頭火」と刻まれた石碑が立つ。
山頭火
種田山頭火。漂泊の自由律詩人として知られる。遍路歩きの途次、松山では終焉の地一草庵に出合った。また讃岐の出釈迦寺には「山あれば山を観る」と刻まれた大きな句碑も立っていた。 この句碑がここにあるのは、山頭火がこの地で詠んだ?チェックすると、この句は大正15年(1926)の俳誌「層雲」に掲載されたもので、詠まれたのは大正14年(1925)、熊本の味取観音堂での堂守の時。山口県防府市の実家破産の後、精神疾患などを病んだ末に熊本に居を移し、出家得度した時の作。添書きに「放哉居士の作に和して」とあるように、「層雲」に掲載された尾崎放哉の「咳をしても一人」を念頭に造られたもの。オリジナルは「鴉啼いてわたしも一人」。 漂白の詩人たる『解くすべもない惑ひを背負うて』、行乞(ぎょうこつ)流転の旅に出たのは大正15(1926)年のことであり、四国遍路は昭和3年(1928)、46歳の時と昭和14年(1839)57歳の時の二度と言う。ということは、この句はこの地の詠まれたものでもないし、漂白の旅の途次の作でもないようだ。寂しさの漂う詩情に故に立てられたものかと思える。

暮当・当願大明神
高松自動車道で一旦途切れた遍路道は、高速道路高架先から再び県道に沿って山側に入る。少し小高い所を進み再び県道3号に合流する箇所に「しこくの道」の指導標が立つ。
県道に合流した遍路道は幸田地区を進む。道の左手に幸田池(国土地理院地図は幸田池とあるが、Google mapは長行池とある)を見遣り長行地区に入ると、県道右手に幾多の石造物の立つ堂宇がある。暮当・当願大明神である。
暮当・当願については、志度寺の縁起に登場した。文字面に何となく惹かれたのだが、深堀すると大変そう、ということでスルーしたのだが、またまた現れた。案内には「延暦(約1200年前)の昔、此の長行に当願と暮当という仲の良い猟師が居た。ある日、志度寺の修築法要が営まれ、暮当は狩りに出たが、当願は志度寺に参拝した。法席にいながら当願は「暮当は大きな獲物を捕まえただろう」と殺生心を起こした。忽ち当願は口がきけず立つことが出来なくなった。
心配して迎えに来た暮当は、当願の下半身が蛇となっているのを見て驚いた。当願を背負って帰る途中、「体が熱いので池に入れてくれ」と云うので、しかたなく幸田の池に入れた。
この時に当願は片眼をくり抜き「この目玉を壷に入れておくと汲めども尽きに美酒ができる」と教えた。暮当は云うとおりにして売ると家は繁盛した。
当願の体は次第に大きくなり、幸田池から満濃池に、その後大槌、小槌の海に入って竜神となったという。里人はゆかりのある此処に二人を大明神として祀った。旱ばつの時に神酒を供えて雨乞いをする習慣が今も残っている」とある。

なんとなくわかったようでわからない。目玉をくり抜くくだり、そして特に後半部は結論を急ごう、といった風で繋がりがわからず、唐突感がある。あれこれチェックし補足する;
目玉をくり抜くくだりは、「蛇となった当願に暮当は毎日会いに来る。当願はそれを徳とし、一眼を抜いて暮当に与え、尽きることのない酒を手に入れることができるようにした」とある。
また後半部は、「この美酒の秘密に不審の念をもった暮当の妻が不思議の因が珠(目玉)にあることを知る。そのことが噂となり国主の耳に達する。曰く、「美酒を生み出すのが片目であるとすれば、もう一つの目も差し出せ」と。
暮当は深く悩みながらも大蛇となった当願にもうひとつの目を乞う。当願は快諾。暮当はもうひとつの目国司に献上するも褒賞も断り、それ以来行方不明となった。 当願はこのことを知り、悲しみ怒り、池を飛び出し高松・香西沖の大槌と小槌の島の間(槌の門)まで飛んでいき、竜神となった」ということである。
縁起仕様で読むと
なんとなくストーリーはつながった。が、志度寺の縁起という観点からこの話をどのように解釈すればいいのだろう。以下は妄想。
まずは暮当と当願という名前。猟師というより僧侶といった響きの名。暮当は「暮に当たる>末世を連想させる。当願は「仏に救いを願う」、また「とうがん>到岸=涅槃の岸」を連想させる。 次いで、当願が参列した志度寺の法要。これは山城淀の津の白杖童子が仏のお告げによって志度寺本堂を造営し、その落慶供養の席とのこと。その大切な法要で、有難い法華八講の最中、弟の狩りでの殺生・邪心を抱き念仏を唱えることもなかった、と。蛇となったのはその報いということだろうか。
暮当の行いを徳とし、一眼を抜いて暮当に与え、尽きることのない酒を与えるといったくだりは、暮当は「六根の缺ぬる者は成佛せす」とその申し出を断ろうとするが、当願は、「薩?は虎に身をほとこすといへとも皆是佛果を証」すと左眼を抜いて渡したようだ。如何にも仏の功徳といったテイストである。美酒を与えるとは邪心故に大蛇となった当願の菩薩行=利他行への境地を暗喩しているようにも思える。我流解釈ではあるが、なんとなく縁起話といったコンテクストになってきた。 境内の説明にはなかった、当願が行方不明となったというくだりは、単に己の行いを恥じた故のことか、それとも暮当と当願が一心同体の存在に昇華されたとの暗示?ちょっと強引だが。

以上を志度寺の縁起風に読むならば、末世において彼岸の浄土を願う民が己の邪心故の咎として苦悩する(大蛇の姿)も、菩薩行を行い、自分だけでなく他人をも仏とする(美酒で象徴)といったストーリーとして読み解く。あくまでも妄想。なんら根拠なし。

標石
遍路道は堂宇脇から県道を逸れ土径を進む。ほどなく舗装された道となる遍路道を進む。農家の間、のどかな風景を見遣りながら歩くと道はふたつにあかれる。その分岐点、コンクリートの墓地土台前に標石。「右 扁んろみち」とある。
指示に従い右手の道を数進むと、ほどなく少し広い舗装道に出る。その箇所から先には如何にも遍路道らしき土径が続くのだが、遍路道はここを左折。道なりに進み県道3号に戻る。

萩地蔵
遍路道は県道を斜めに横切り、県道の左手に移るのだが、県道との交差点に萩地蔵が祀られたお堂がある。お堂といってもプレハブ造りで遍路休憩所を兼ねているようだ。飯田桃園の敷地にあり、飯田さんが管理してくださっている、とのこと。
お堂に入ると石造の地蔵坐像がある。台座には弘化三年と刻まれる。
お堂にあった萩地蔵の由来によれば、「本村大字宮西字長行に萩地蔵がある。地蔵堂は明治三十三年の頃までは今の場所で西に面していたのを志度脇町線の道路改修の時、東面に変更した。
この地蔵を萩地蔵と言うのは千百数十年前、弘法大師が四国開発のため志度から長尾に向かっていたところ、ここに萩の木があった。大師はこの萩の木を採取してその萩の木のあったところに安置し開眼し萩地蔵と言った。
そして*百年前、長尾寺本尊開帳及び寺宝展覧を行った時、弘法大師とゆかりのふかいのと隣村ということでこの萩地蔵尊を持ち帰り陳列した。展覧が終わっても返還しなかったので長行村の人がとりに行った。ところが寺の方は地蔵尊を紛失したといってその責任をとって今の石造りの地蔵尊を代償として送り今のところに安置したと伝えている。
なおもとの萩の地蔵尊は現在長尾寺の堂内に安置しているとのことである」とある。
この案内には手書きで補足修正がなされている。大師がこの地の萩の木を採取して尊像を彫った とのくだりには、「志度寺の本尊を作った、その余った木でつくったとの説あり。当時、鋸は無く、石を割るように、木を剥ぐ技法が使われていた」と書かれている。萩の木は尊像を彫れるような大きな木でもなく、本尊を彫るための木を剥ぐ>はぐ>萩という事だろう。
戻された石造りの地蔵尊については「衣をはぐってみると弘法大師の像の頭部と左手を壊し、別のもので急ぎつくった偽物地蔵であることが判明している」とあり、最後には「後年別の大師像も小さな像にすり替えられているので、そのままあったとしても盗難にあっていたはずなので、長尾寺恵良にあるほうが良策と思える」としていた。
なおまた、「四国のみち」にある案内は作り話で、この案内がこの地に伝わる伝承を記述した原本と一致するとのコメントも書かれていた。
まとめると、萩地蔵は萩の木で彫られたものではなく、志度寺の本尊を彫るために剥いだ木の余ったものを、貰い受け彫った〈剥地蔵>萩地蔵〉ものであり、木彫りが石造りとなっているのは長尾寺が木彫り地蔵に替えて石造地蔵を戻したため。ということだろう。「四国のみち」にある案内は目にしていないためコメントできず。

玉泉寺に2基の茂兵衛道標(241度目・143度目)
県道左手に移った遍路道を進むと、道の左手に玉泉寺がある。境内は道路より一段高いが道脇には2基の道標。共に茂兵衛道標である。
手前のものは茂兵衛241度目のもの。「八十七番奥の院」、また手印と共に「日切地蔵尊 明治四十四年」といった文字が刻まれる。もう1基には「ひだり 長尾寺 明治弐十八年」といった文字が刻まれる。巡礼回数は刻まれていないのは珍しいが、巡礼年度からして143度目のものである。このお寺は札所長尾寺の奥の院ということになる。

石段を上り境内はいる山門前に「お大師さんの休み場」の案内。「十六世紀の半ば過ぎに書かれた岡田大夫の『さぬき一円道者日記』には、西沢の里から宮の西の里の間に六人の道者の名が書かれている。このあたりが「お大師さんの休み場」と言われる由来も、ここがそのような聖なる場所であったためと思われる。『新撰讃岐圀風土記』には、宮の西に仏堂として「数珠くり地蔵」が載っている。門前に「お茶堂」があって、昔からお接待で賑わうミニ札所であった。
お地蔵さんは、この世とあの世を守る仏として、庶民に親しまれ、信仰されてきた。
玉泉寺の本尊日切地蔵の日切というには、日を限ってお願いすると功徳がいただけるというお地蔵さまである。
境内には六十年間に二百八十回巡拝した中務茂兵衛が建てた明治二十八年(1995)と明治四十四年の二つの道標がある。
同寺の本堂・庫裏・鐘楼は、昭和恐慌の不景気の最中に整備されたもので、山門は霊芝寺から移された薬医門である。本堂前の棚仕立ての古木〈白い房の長い藤の花〉は、近在きっての美しさである」とあった。

宮西はこの辺り。西沢の里はどこなのか不明。お接待は盛んでたったようで、振る舞われたミカンの皮を頼りに歩けば長尾寺へと至った、とも。霊芝寺は、この地の東、野間池傍に見える。

山門を潜り境内に。こじんまりしたお寺さま。縁起によれば、大師がこの地に紫雲たなびく光明を発する霊石を感得し一宇を立て、地蔵菩薩を安置したのがはじまり。故に古くは霊石寺と称されたが、明治初年に廃寺となるも、昭和5年(1930)に観音寺の玉泉寺を移し寺名を玉泉寺とした、と言う。

造田八幡の茂兵衛道標(159度目)
道を南に下り、造田八幡の石段上り口に茂兵衛道標。「長尾寺 志度寺 明治参十壱年」、巡拝礼159度目のもの。手印が逆を指す。どこか、道の右手にあったものを移した故だろう。








広瀬橋北詰の茂兵衛道標(181度目)
道を進むと鴨部川に架かる広瀬橋北詰で遍路道は県道3号に合流。橋の北詰、県道右手に茂兵衛道標が建つ。手印と共に「長尾寺 志度寺」と刻まれる巡拝181度目のもの。 橋の南詰にも道標があるが、旧遍路道は橋を渡らず、鴨部川北岸の土手を西に向かう。




長尾橋(へんろ橋)北詰に2基の標石
鴨部川左岸の土手を進むと長尾橋が架かる。橋柱には「へんろ橋」と書かれる。その北詰に遍路休憩所があり、2基の標石も立つ。
木標の傍の標石には手印と共に「左 へんろ道 十三丁」、橋傍の標石には大師坐像と共に「左 扁んろ道 安政四」といった文字が刻まれる。手印に従い道を左に折れて橋を渡る。橋には「旧へんろ道」の案内もあった。


茂兵衛道標〈175度目〉
橋を渡ると道の左手に「京都中井氏の道標」の案内がある。地図と共に「図の吉田家のところにある道標の願主中務茂兵衛は大正十一年四国を巡拝すること二百八十度目の長尾寺を前にして、七十八歳で果てたのである。今までに知られている彼の名を刻んだ道標は、四国に二四〇基近くあるとされている。
施主は京都三条通東洞院西入の中井三郎兵衛とその妻ツタである。明治三三年三月にここに建てた道標は、中井氏先祖代々供養のためとして、長尾寺と志度寺の道しるべとなっている。 中井氏と中務氏が組んで建てた道標は、明治二四年に高坂市坂本に、明治三年に徳島県平等寺の近くに、明治三四年に愛媛県新宮村に建てられている。四国の四県に各一基ということになるが、いずれも、二か寺を案内する道標になっている。
中井三郎兵衛氏は、京都府会議員で、観光都市京都の発展に貢献した実業家である」と案内される。

地図に従い、「へんろ橋」の南詰めを左折し、土手道を50mほど進み道なりに南に折れる。この道筋は大正10年(1921)に遍路橋が架けられる以前(現在の橋は昭和39年(1964)のもの)、漁船のあがり底を針金で止めてつくられた「橋」を渡り、土手から続く遍路道とのこと。
集落を南に進むと四つ辻、農家の軒下に茂兵衛道標が立つ。道標の正面には「長尾寺 施主 京都三条通り」、右面には「志度寺 為中井氏先祖代**」、左面には「明治三十三年」、裏面には「百七十五度為供養 願主中務茂兵衛」と刻まれる。
中務茂兵衛終焉の地
「えひめの記憶」には、「最後の78歳280度目は6か月余りかかって、長尾寺と結願の大窪寺を目前にして、彼のよき支援者であり、信奉者であった久保ちか子方(香川県高松市通り町)で56年にわたる遍路生涯の幕を下ろして大往生を遂げた。時に、大正11年(1922) 3月20日午前1時であり、旧暦の2月23日であった」とある。

亡くなる10日前まで巡礼を続けていたとの記録もある。この辺りで倒れ、高松市内に運ばれたのだろう。
茂兵衛が道標を立てはじめたのは280回に及ぶ四国霊場巡拝の88度目から。明治19年(1886)からのことである。発願の88度目は19基、最大は明治21年(1888)の28基、建立のない年もある。願主として中井氏のような施主と共に建立するケースが多いが、自ら施主となっている道標もある。茂兵衛は単なる遍路というだけではなく住職の資格を持ち、念仏行者として祈祷し謝礼を得ることもでき、独力でも道標建立ができたわけである。
道標には添句が刻まれるものもある。「旅嬉し只一すじに法の道」「迷う身を教えて通す立石のこの世はおろか極楽の道」などが知られるが、「生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり」の句が、いい。

住吉神社北の標石
茂兵衛道標の手印に従い四つ辻を右折し、へんろ橋からの道筋に戻る。その四つ辻、左角に標石。手印と「文政七」といった文字が刻まれる。四つ辻を南に進むと左手に住吉神社の社があった。




秋田清水九兵衛道標
道なりに進むと、道の右手に「秋田清水九兵衛道標」の案内。「明和三年に、出羽国(秋田県)の清水九兵衛が建てたもの。南無大師遍照金剛、これより六丁長尾寺までの距離を書く。六年後の明和九年に、南の県道高松・長尾・大内線と市道筒井・北原線の交差点北詰の、木戸家の墓地に清水九兵衛は立派な三界万霊供養の地蔵坐像を建立している」とある。
正面に「南無大師遍照金剛」の文字が読める。右面には「是より六丁 明和三」といった文字が刻まれているようだ。





八十七番札所長尾寺

道なりに南に進み、道の右手に長尾寺の東門を見遣り四つ辻に。そこを右折すると長尾寺の正門前に着く。

経幢2基
山門の左右に覆屋で保護された石造物が並ぶ。案内には「重要文化財 長尾寺経幢二基 経幢(きょうどう)は中国で唐から宋時代に流行したもので、わが国では鎌倉中期ごろからつくられ経文を埋納保存する施設、あるいは供養の標識として各地に建てられるようになった。この形式に単制と複制とがあり単制はこの経幢のようなもの、複制は幢身の上部に中台や龕(がん)部があって灯篭ふうになったものである。
この経幢は凝灰岩製で基礎の上に面取り四角形の幢身を立て、その上に重厚な八角の笠と低い宝珠をのせたもので東側のは弘安九年五月、西側のは弘安六年七月の銘があり一基ずつ相ついで奉納されたことがわかる」とある。
年代から見て、弘安の役での犠牲者の霊を供養するためのものとも伝わる。幢身上部には 阿弥陀如来、閼伽如来、宝生如来、不空成就如来といって尊像を象徴する種子(しゅじ;梵;)がうっすら残る。
種子
密教において仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。梵字で表記したものを、日本密教では特に種子字(しゅじじ)と言い、また種字(しゅじ)とも略称し、一般にはこの「種字」という表記が多用される。
これら種子は、密教の修法において本尊となる仏を想起するためのシンボルとなるので、これを植物の種に譬えて種子という。
また護符や曼荼羅などに、仏尊の絵姿の代わりに種子を書くことも多い。 これには、絵姿を描くより梵字で済ませた方が手間がかからないという実用的な意味もある、とWikipediaにある。 仏さまを表わす梵字は、基本となる一字(親)に点や線を付加えることで、色々な字(子)が生まれるので種子しゅじと称されるようである。

仁王門
山門より境内に入る。左右に仁王さまが立つ仁王門は日本三大名門のひとつとWikipediaにある。日本三大名門が何を指すのか不明であるが、それはそれとして、それほど大きくはないが寛文10年(1670年)建立とされる門は落ち着いた風情がある。

境内
境内には枝ぶりのいい松が、これも落ち着いた風情を呈する。正面に本堂、右側に大師堂、薬師堂、左側に常行堂、護摩堂と並ぶ。

補陀落山観音院長尾寺。天台宗寺門派のお寺さま。Wikipediaに拠れば本尊は聖観世音菩薩。寺伝によれば天平11年(739年)行基が当地で楊柳に霊夢を感じその木で聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされ、その当時は法相宗とされた。なお、寂本の『四国偏礼霊場記(1689年刊)』には、聖徳太子が創建し、本尊聖観音菩薩像は空海作で同時に阿弥陀如来を造り当寺を再興したとなっている
。 空海(弘法大師)が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、その7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、これは毎年1月7日の「大会陽福奪い」として今に伝わっている。天長2年(825年)唐より帰朝した空海は大日経を一石に一字写経の万霊供養塔(現存せず)を建立し伽藍を整え真言宗に改宗した。
その後、幾度かの兵火により堂宇は失われたが、慶長年間(1596~1615)生駒氏によって再興、長尾観音寺と呼ばれる。天和元年(1681)には藩主松平頼常が堂塔を寄進、翌々年には讃岐七観音の随一とし、真言宗から天台宗に改宗される。元禄6年(1693)には寺領を賜り観音院長尾寺と改称する」とある。
常行堂
常行三昧堂は天台宗の寺に見られる堂宇。「常行三昧」、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行をするための道場、である。
常行堂という言葉に最初にフックがかかったのは姫路の書写山円教寺。ここに結構な構えの常行堂があった。菩薩行(利他行)をベースに現世功徳のイメージの強い法華教を根本経典とし、法華天台宗とも称される天台の寺に、何故に来世のイメージの強い阿弥陀仏がと思っていたのだが、「ブラタモリ」の比叡山延暦寺の放送で、延暦寺に常行堂があるのを知った。天台宗の僧の多くは「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀を頼みとした、とのことである。
〇天台宗への改宗
改宗は高松藩初代藩主である松平頼重の頃との記事もあった。幕府指南役でもあった上野寛永寺の天台僧である天海大僧正の教えを受けた頼重が、改宗を契機に堂宇の整備、料田の寄進が行われ、「賽銭無用」の寺であったとされる。
東門
仁王門に辿る途中、遍路道の右手にあった門。往昔この東門が正門であったよう。現在の門は、元は栗林公園の北側正門として18世紀中頃に建てられたもの。大正2年(1913)に移された。
静御前 剃髪塚
本堂左脇陣には静御前ゆかりの剃髪塚がある。案内には、「静御前 剃髪塚 平安時代の武将 源義経が愛したとされる静御前。
静は舞の名人であった母 磯禅師から舞を教わり、宮中で雨乞いの舞を披露した際に後白河天皇より“日本一の舞姫”と賞賛される。
母 磯禅師が東かがわ市小磯の生まれだった縁から静が晩年過ごしたとされる旧長尾町や三木町には史跡が数多くあり、その中の一つがこの「剃髪塚」。
静は奈良・吉野の山中で義経と別れた後、京へ帰ったが義経恋しさのあまり病気を患い、郷愁を感じていた母と共に讃岐の地へ帰ることになる
。 母と共に信仰の旅へ出た静は長尾寺へと辿り着き、住職の宥意和尚から「いろはうた」などにより世の無常を諭され、二人は得度した。静は宥意和尚の一文字をもらい「宥心尼(ゆうしんに)」、母は「磯禅尼(いそのぜんに)」となった。
その際に落とした静御前の髪が剃髪塚に納められているとされる」とある。

静御前にまつわる物語は全国にある。いつだったか利根川東遷事業の地を訪ねて埼玉県久喜市栗橋を訪れたとき、駅前に直ぐ近くに「静御前終焉の地」があるとの案内があった。奥州へ落ちのびた義経を追って、このあたりでその死を知り、落胆のあまり命を落とした、とか。 静御前終焉の地って全国に7箇所もあるようで、実際のところはよくわからないが、ここ栗橋駅周辺の伊坂の地は往時、静村と呼ばれていたようだし、この地の静御前の墓は、江戸末期の関東郡代・中川飛騨守忠秀が建てたとも伝えられるわけで、諸説の中では信憑性は高い、とは言われている、と。
とはいうものの、静御前は『吾妻鏡』にその名が出るだけで、他に資料は何もない。ちなみに長尾寺の南西2キロほどのところ、鍛冶池の畔に静御前が庵を結び義経の菩提を弔ったとの口伝のある静薬師堂があるとのことである。
長尾天満自在天神宮
本坊の南に鳥居の建つ社がある。長尾天満自在天神宮とある。案内には、「平安時代、当長尾寺に明印という名僧がいた。讃岐国司であった菅原道真公と親交厚く、延喜2年(902年)、道真公が九州へ左遷のときに志度浦に出て「不期天上一円月、忽入西方万里雲」の詩を贈って心を慰めた。公もまた詩と自画像を明印に与え別れを惜しんだが、後にこの古事により、宝永7年(1710年)、天満自在天神宮として建立、当山鎮守として祀られている」と記される。
「天満大自在天」とは菅原道真の御霊に追贈された神名。世界を創造し支配するヒンズー教のシバ神の漢訳である大自在天の威力を道真の御霊に習合させたものである。
この寺の天満自在堂は「幼な姿の天満宮」とも称される。上述明印の詩に対し、流人故の身を憚って童形の姿を描き答礼したという。その画像が今に残る、とか。
https://09270927.at.webry.info/201807/article_17.html 面白い 境内の標石
本堂右手の「四国八十七番霊場」と刻まれた碑の裏面には「左 志度道 明治」といって文字が刻まれる。「世話人 長州 中務茂兵」といった文字があるようで、茂兵衛道標ではとの記事もある。駐車場から境内を出る辺り、自在天満堂の傍にも手印と共に「右 へんろみかみち」と刻まれた標石がある。また山門右手に「大くぼじ江三里半 文政」と刻まれたもの、本坊そばにも2基の標石がある。

本日の散歩はこれでお終い。次回は結願の寺、88番札所大窪寺へ向かう。

土曜日, 12月 07, 2019

讃岐 歩き遍路;八十五番札所 八栗寺より八十六番番札所 志度寺へ

八栗寺から八栗山を東南に下り、海岸線を志度寺へと向かう。距離おおよそ5キロ強。途中、四国遍路中興の祖とも称される真念法師が眠る地に出合ったり、希代の異能・平賀源内の旧宅にであったりもしたのだが、なにより嬉しかったのは、八栗寺からお山を下る途中で生木観音に知らず出合ったこと。生木をくり抜き刻まれた古き観音様を見たのはこれがはじめて。これも事前準備無しの成り行き任せの散歩の妙。ひとり、セレンディピティ( serendipity)とはこのことと悦に入る。とはいいながら、保存状態があまり良くないのは、世にこの生木観音様を有り難く思う人はそれほど多くないということだろうか。
ともあれ、散歩のメモをはじめる。

本日のルート;八十五番札所 八栗寺>(裏参道)>一丁標石>二丁標石>三丁標石>生木観音>源平合戦碑と標石>六万寺道分岐点に標石>(六万寺)>二ツ池傍に2基の標石>小堂と標石>標石と「四国のみち」指導標>真念墓所への裏道分岐点>真念の墓跡>塩竃神社の標石>茂兵衛道標>多和神社参道口に標石>御蔵用心堀の石灯籠>平賀源内旧邸>珠橋西詰の大燈篭と標石>地蔵寺>石鉄大権現灯籠>八十六番札所志度寺の山門


八十五番札所 八栗寺
お迎え大師
表参道を上り切ったところに展望台があり、石造りのお迎え大師坐像がある。屋島や高松などの讃岐平野が眼下に広がる。展望台や大師石造は結構新しい。案内には、「弘法大師が修行でこの五剣山にたどりついた時、岩間よりあふれる清水でのどをうるおしたと言う。里人はその水辺に大師像をまつり、いつしか水大師と呼ぶようになった。
このたび大師堂の弘法大師木造を、石像で作り讃岐平野をのぞむこの地にまつる。 水大師にちなみ、参詣者を迎えるお迎え大師と名付けた。平成二十二年」とあった。
水大師さんは表参道途中にあった「弘法大師御加持水」の石仏群の中にあった大師坐像のことだろう。か。

山門
これも比較的新しい役の行者の石像をみやり鳥居を潜り山門に。正面の本堂の背後に五剣山の峰が聳える。険阻な五つの峰よりなるが故の「五剣山」。うちひとつは宝暦四年(1707)の地震で崩れ、現在は四峰、とのこと。
役の行者の石像のが示すが如く、このお山は修験の地。山頂には祠が祀られるとのことだが、峰に上る鎖場や鉄梯子は高所恐怖症には荷が重そう。現在では峰への入山は危険立ち入り禁止とされている。鳥居と山門そして背後に聳えるお山。この絵柄を眺めるだけで充分。

本堂
本堂にお参り。Wikipddiaには「八栗寺(やくりじ)は、香川県高松市牟礼町牟礼字八栗にある真言宗大覚寺派の寺院。本尊は聖観音。
四国85番霊場とともに、歓喜天霊場として知られ、木食以空が東福門院から賜った伝・弘法大師作の歓喜天が祀られていて「八栗の聖天さん」と呼ばれる。
寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を中獄に埋め、岩盤に丈六の大日如来の像を刻んで山の鎮護とし五剣山と名づけ天長6年(829年)開基したという。
五剣山頂上は眺望が良く八つの国が見えたので、「八国寺」ともいわれた。唐から帰朝後、空海は再訪し唐に渡る前に入唐求法の前効を試みるため、植えておいた焼き栗八つがみな成長し繁殖しているのを見て八国寺を「八栗寺」に改めた。
天正の兵火で全焼したが、文禄年中(1593-96年)に無辺上人が本堂を再建した。さらに寛永19年(1642年)高松藩主松平頼重が現在の本堂を再建して、聖観音を本尊とし観自在院と称するようになる。なお棟札によると二天門と本堂は三代藩主松平頼豊が宝永6年(1709年)再建とあるが、宝永3年(1706年)五剣山のうち東峰が崩壊する大地震が影響していると思われる」とある。

聖天堂
本堂の左手に聖天堂。歓喜天を祀る。表参道の途中に建つ鳥居の扁額に「歓喜天」とあったように、この寺は御本尊の聖観音だけでなくこの歓喜天、聖天さまへの信仰も強い。「大聖歓喜自在天」故の「聖天」さま。
このお寺さまの歓喜天は秘仏として拝顔できないが、通常は象頭と人身男女二体抱擁の姿。男女二体抱擁の形像はその姿が示すが如く、男女和合の神として、更には家内安全・商売繁盛の神として多くの参拝者を集める。初詣には例年10万人もの参詣者で大混雑といった記事もあった。屋島のケーブルカーが運休となったのに、八栗寺のケーブルが残るのはこういった因も?
違い大根
聖天さんの外陣を飾る幕は右が「巾着」、左は「ふた股大根」。大根を食べて元気に、巾着に財を貯めよう、ということだろう。
またよく見ると、お堂右手の石造物も「ふた股大根」。歓喜天の性格からして少々意味深ではあるが、「ちがい大根」として寺紋となっているようだ。「八栗聖天大根祭り」で賑わうという。


磨崖五輪塔
お堂の周りを彷徨っていると、お堂右手の崖岩に切り込みが。よく見ると7基ほどの五輪塔が線彫りにされていた。摩崖五輪塔は七十一番札所弥谷寺や七十三番札所出釈迦寺の奥の院で出合って以来、それまでなら見過ごしたであろう、崖にうっすらと残る五輪塔を見つける「眼力」がついたようだ。

中将坊
本堂左手より山に上る石段。上り口に手印と共に「中将坊道一丁 文久」と刻まれた丁石がある。百七十段ほどの石段を上る。途中三つの鳥居を潜る。お堂は岩肌に食い込むように建っていた。 中将坊はお山の守護神とされ、尊像は両翼のある天狗像とのこと。山門前で見た行者石像は役の行者ではなく中将坊?が、その石像には翼がなく、また役行者開山の修行のお山ともあったので、お像はやはり役行者だろう。
五剣山
お参りを済ませ本堂へと戻る途中に「危険 入山禁止」の案内があった。そこがお山への登山口。山好きの弟が五剣山に登ったレポートがあったが、寺からではないアプローチで登ったようで、下山してはじめて入山禁止に気づいたようだ。写真を見るにつけ、とてもではないが高所恐怖症の人は敬して近づかずがいいように思える。

鳥居脇に標石
中将坊からの下り石段は本堂右手に下りる。そこから本堂と逆方向へと向かうと鳥居が立つ。境内には神仏混交の名残である鳥居が多い。
鳥居の右側に標石。硯状の窪みに大師座像が浮き彫りで刻まれ、「自是志度 五十丁 寛政十二」といった文字も見える。
その標石の直ぐ先、四国八十八霊場八十八番大窪寺の石仏脇にも標石。手印と共に「大師堂六十米 本坊百八十米」とある。

大師堂 
左手に以空上人座像、地蔵堂と続きその先に大師堂があった。
以空上人
木食以空上人として知られる。肉類,五穀を食べず,木の実や草などを糧として修行することを木食といい,その修行を続け身を浄め,心を堅固にした高僧を木食上人と称す。以空上人は江戸時代前期の人。摂津の勝尾寺で苦行を続け霊験あらたかな僧として知られた。

多宝塔
多宝塔、八十七番札所長尾寺の石仏、比較的新しそうな四国八十八石仏霊場への石段入口を越え本坊の辺りで道はふたつに分かれる。








裏参道へ
右に折れるとケーブル乗り場、直進すると裏参道に出る。分岐点に標石があり、手印で「八十六番志度寺」への裏参道を示す。裏参道とは言うものの、そこは県道145号。舗装された車道となっていた。特段駐車場はないようだ。道の左右に車を停めていた。




八栗寺から志度寺への旧遍路道

一丁標石
県道を下り最初のカーブを東に廻りこむ箇所、道の右手に標石があり摩耗した大師像の下に「是ヨリ一丁」の文字が刻まれる。周りは開けており見落とすことはないだろう。道の反対部にも標石。こちらの手印は八栗寺を指す。

二丁標石
カーブを曲がり切った道の左手、少し道から入ったところに舟形地蔵。更に道を下ると左手に古い日本酒の看板の残る建屋。商店のようでもある。道の反対側に標石があり、「是ヨリ二丁 八月」と刻まれる。

三丁・四丁標石
道の右手に「三丁」、少し下ったカーブの左手に「是より四丁 八月」と刻まれた標石が続き、更に道を下った先に、道の右手に「四国のみち」の指導標。
そこから少し南、道の右手、林の前の砂利スペースにブロック造りのふたつのお堂。そこに生木観音があった。

生木観音
ふたつのお堂のうち、上手のお堂の中に観音像や石仏とともに生木観音(なまきかんのん)が祀られる。伐りとられた枯れた松の根元の穴の中に、高さ50センチほどの観音像が刻まれている。かつてはブロックのお堂横に枯れた木のまま残されていたようだが、現在はお堂内に移されていた。 生木仏像は愛媛で2箇所ほど出合った。ひとつは西条市の生木地蔵。こちらは「いききじぞう」と読む。もうひとつは四国中央市。前者は実物を見ることができず、後者は昭和に彫られたもので「生き木地蔵」とあるから、読みは「いきき」だろう。
詠みの違いは、それはそれとして、昔ながらの生木仏像はここで初めて出合った。が、保存状態は少々ぞんざい。堂内の観音石仏は生木観音の写しであるようだが、オリジナルの保全が少々気になる。生木仏像に「萌える」人はそれほど多くない、ということなのだろうか。

生木観音から林の中を尾根筋に続く土径がある。尾根筋を下り、後述する麓の六万寺へと下る道もあった、といった記事を見かけた。辿ってみたいとは思えども、時間に余裕がなく、道を少し進み、それらしき雰囲気を感じた後に県道に引き返す。

源平合戦碑と標石
生木観音辺りまでは開けていた空も、その先は木々に覆われ、遍路道は木々の緑の中を下る。カーブとなった箇所に「源平合戦碑」と刻まれた石碑。特段、石碑箇所がどういった史跡跡といった案内はないが、石碑天辺の地図に、石碑東に源氏ヶ峰(217m)が刻まれていた。
源平合戦の折、源義経が山頂より平家の陣を見下ろし作戦を立てた、との故事が残るようだ。山好きの弟によれば源氏ヶ峰の頂きからは屋島全体は見えないが、平氏の海側守りの拠点であった総門付近は見下ろせる、と。
源平合戦碑から少し下った道の左手、山側に舟形地蔵標石があり、「志ど道」と刻まれる。

六万寺道分岐点に標石
県道から六万寺へと向かう道が右に分岐する箇所に標石。「安徳天皇行在所 讃岐霊場六万 西国三十一番霊場」「志度」といった文が手印と共に刻まれる。
安徳天皇行在所の文字に惹かれ、ちょっと立ち寄り。右に折れる急坂を下り、簡易舗装の道を15分ほど里道を進むと六万寺があった。この道筋は「馬ガ背道」と称されるようである。
六萬寺
比較的こぶりなお寺様。ここが行在所?案内には「寺記によれば、天平年間、全国に伝染病が流行し、多数の死者を出したので、聖武天皇は、行基菩薩に命じてこの地に一寺を建立し、お祈りさせたところ忽ち伝染病は消滅したという。
その後有志により六万躯の小仏像を安置して六万寺と称したと伝えられています。また牟礼、大町附近に42の支院を持ち寿永2年源平合戦の時、安徳天皇の行在所となった由緒ある寺であるといわれています。
しかし中世兵火のため焼失したがその後復興された。現在の建物は、延宝6年再興されたものであるといわれています」とあった。
讃岐の寺院には「中世兵火のため焼失」という記録が多い。それはほぼ土佐の長曾我部氏の四国平定の折での徹底した焼き討ちよる。只、この寺の縁起には、この寺に関しては長曾我部元親しは寺の由来などに感激し焼き討ちの対象となることはなかったが、家臣の失火により焼失した、とあった。
道休禅師の墓
当日行きそびれたのだが、六万寺の南、蓮池土手の南西角に道禅師の墓がある。真念はその著『四国遍路道指南』の中で、「是(注;八栗寺のこと)志度寺まで一里半。たい村、皆々志有、やどかす。此所に道休禅師がはか有り。此の禅門ながく大師に帰依し奉り、はき物せずしてじゅんれいする事十二度、すべて二十七度の遍路功なりて、ついにみまかるとて(中略)皆々ご回向頼たてまつる。大町村、志度村(後略)」と記す。
ここには道休禅師は27度の四国遍路をなした僧であり、ここ田井村にその墓があること、そして遍路に道休への回向を頼んでいる。『四国遍路道指南』に他には個人の墓への回向を頼んでいる記述はないようであり、そのことから真念と道休は親密な関係であり、また、『四国遍路道指南』発行に際し、真念は四国遍路の先達である道休から多くの情報を得たその感謝の証、ともされる。 さらに、この記述から、真念当時の遍路道は、八栗寺から蓮池を経て讃岐牟礼駅から大町駅をへて志度寺へと向かったと思われる。なお、八栗寺から蓮池までの間は上述生木観音から右に折れ尾根道を下り六万寺近くから蓮池へと出たようである。
上述馬ガ背道を含め、この蓮池経由の道は「六万寺経由の遍路道」と称される。


役戸経由の遍路道

二ツ池傍に2基の標石
六万寺への分岐点に戻り、県道を下り里に出る。道は二ツ池で大きく二つに分かれる。県道145号は南に下るが遍路道はここを左折し東へ向かう。この道は上述「六万寺経由の遍路道」に対し、「役戸経由の遍路道」と称される。
分岐点に標石2基。坐像の下に「是ヨリ十八丁」と刻まれる標石とい、結構摩耗した自然石の標石。浮かし彫りの手印である、と言われればそう見えないこともない。

小堂と標石
左に折れ少し役戸の集落を東に進むと道はふたつに分かれる。その分岐点に小堂。その右手に手印と供に「右しど道 左やくり道 明治四十年」といった文字が刻まれる。
役戸
かつてこの地に荘園があった頃、この地は年貢積み出しの湊であり、役所があったため、とのこと。牟礼港と地図にあった。
牟礼港
牟礼港は美しい五剣山を背後に控え、志度湾に臨む、庵治半島の基部に位置しています。 本港の歴史は古く、かつて讃岐の各郡が一つずつ港を持っていたころ牟礼港は、三木郡(旧木田郡の牟礼町・庵治町・三木町)唯一の海の玄関として砂糖、米、塩の積出し等で賑わいました。 また、明治に入っては背後で良質の粘土が算出することから、港の周辺は窯業の町へと一変し、港は窯の煙突で取り囲まれるほどとなり、浜には土管、レンガ、コンロ等の製品が並べられ、機帆船で各地へ出荷されました。
代わってコンクリート製品化が進んだため、現在の港湾貨物は砂・砂利等が大半を占めるようになっています。
また、本港周辺海域では、ノリ、カキ等の養殖業も盛んであり、平成10年度に新たな物揚場が整備され、背後地域は高松市のベッドタウンとして急激な都市化も進んでいることから、今後はこのような、新しいニーズに応えた総合的な港湾としての発展が期待されています(香川県土木部弘港湾課)」

標石と「四国のみち」指導標
標石に従い右手の道をとり先に進むと県道36号・高松牟礼線がある。県道交差部にある「四国のみち」指導標を見遣り、県道を東に越えた次の道筋の交差部に標石と「四国のみち」の指導標。 標石には手印と共に「志度寺 三十六丁 八栗寺」と刻まれるようだが、風化してよくわからない。「四国のみち」には「八十六番志度寺 4.2km 八十五番八栗寺2.8km」とあった。
交差点には遍路道案内の「遍路タグ」もあり、指示に従い角を右折し南に進む。

真念墓所への裏道分岐点
遍路道は南に進み下井出川に架かる「しもいで川橋」を渡る。橋を渡って直ぐ、道の右手に遍路休憩所、その先右のお墓の方に分かれる細路がある。民家の裏とお墓の間の道を進むと四つ辻に標石。手印と共に「志度寺 廿五丁 八栗寺 明治廿七年」といった文字が刻まれる。志度寺にも八栗寺へも二十五丁。丁度札所の中間点ということだ。

真念の墓跡
標石の先、道の左手にあった墓地は消え民家が続くが、ほどなく墓地が現れる。「南三昧」とある。須崎寺に移される前、真念が無縁仏として祀られていた墓跡がある共同墓地だ。
墓跡を探すがなかなか見つからない。あきらめて裏道筋に出たところ、お墓の南西端、裏道と接するような場所に真新しい御影石があり、「四国遍路の父 真念の墓跡」「平成三年」といった文字が刻まれていた。
真念
Wikipediaより掲載;真念(しんねん、出生年は不明、没年は1692年〈元禄5年〉、または1691年〈元禄4年〉の説もある)は、江戸時代初期の高野聖。その生涯の長らくにわたり四国八十八箇所の巡拝を行うとともに、それにまつわる様々な活動を行って四国遍路を広く人々に知らしめたことから「遍路の父」「四国遍路中興の祖」と云われる。土佐国の生まれとされ、遍路巡拝を行わない時には大阪の寺嶋で暮らし、自らを抖そうする頭陀と称した。
四国八十八箇所を20回以上歩いて巡拝し、四国遍路について現存する初めての旅行案内書と云われる『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』と、その霊験記である『四國遍禮功徳記』を出版し、また、遍路に宿を貸す人を募り、自ら遍路屋(真念庵)の建立や標石を200基余造立をして、庶民の四国遍路が定着したとされている。現存する標石は24基。
また、寂本の『四國遍禮霊場記』の作成に資料を提供した。同記には、初めて各寺の風景が描かれていて、当時の寺の様子が視覚でわかり、各札所の縁起・由緒がまとめられている。同記により四国遍路に興味を持った読者が、真念の本を持って四国遍路に出立するように意図されている。
以上の功績を遺してのち、元禄の初期に遍路巡拝の最中、讃岐国高松藩三木郡内において同郡の大町村と原村(現在の香川県高松市牟礼字大町から字原の区間)を結ぶ元結(もといむすび)峠の東側(原村側)にて倒死したとされる。墓は現地の人々の手により当初は元結峠付近の丘に建てられたとされるが、のちに地域の墓地整理などの紆余曲折を経て牟礼字大町の南三昧墓地に無縁仏として置かれるも、さらにのち1980年(昭和55年)に同墓地にて発見されたことで改めて手厚い供養を行う意図の元、現在は香川県高松市牟礼字宗時の洲崎寺に置かれている。
著作
四國邊路道指南:1687年(貞享4年)刊行。本書を以て初めて八十八の札所番号が記されていて、番号順に登場する。当書は、真念と寂本に加えて洪卓(真念と同じく聖の仲間)の3人グループで作ったと云われている。1698年(元禄11年)5回目の改刻から1ページあたり6行であったのを8行にして本を薄くし携行しやすくしているのと同時に、タイトルを『四國遍禮道指南』と変更していて、これは寂本の意見だと云われていて、「四国の縁辺を歩く人」という意味であったのから「人の生きる道を模索する人」との意味が込められた。内容として、旅に出る服装と持ち物、参拝方法、寺の立地と向き、本尊が秘仏か否か・姿態・大きさ・作者、御詠歌、道順、札所間の距離、宿の情報などが綿密に記されている。真念の没後、『四國邊路道指南増補大成』という形で明治時代まで引き継がれていくが内容はほとんど刷新されなかった。
四國遍禮功徳記:内容は次のような順で書かれている。仏教の利益と解説、八十八箇所の成立と88の理由、27の霊験話、大師の御家姓の事」

元結峠はJR高徳線・讃岐牟礼駅の南東、おおよそ500m弱のところにあるようだ。

塩竃神社
南三昧の共同墓地の南に塩竃神社。かつてあった塩田の神として勧請されたものだろう。地名の塩屋にしても塩田が想起される。
案内には「塩竈神社 祭神 塩竈塩土翁(しおがましおつちのおじ) この地は昔塩田のあったところである。祭神は塩竈塩土翁、元禄十一年(1698)に勧請され、地元では明神さんと呼ばれている。
大正十二年(1923)十月建立の七五三柱(しめばしら)には次のような歌が刻まれている。 人皆の朝け夕けに食う塩は この塩竈の神のたまもの」とあった。
塩土翁

Wikipediaには「シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。
名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。
シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある。
『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。
海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。
『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある」とあった。

祭神名である塩竈塩土翁ではヒットしない。「塩竈」は塩竈明神とも称される故、塩土翁の前に冠されたものだろうか。

神社鳥居横に2基の標石
「左 八栗寺道 三十五丁 右志度寺 寛政十一」、もう1基には「一国七十八番 愛染* 慶応三年」と刻まれるようだが、風化してまったく読めなかった。






県道合流点に標石
標石傍に遍路道案内のタグがあり、指示に従い右折する。県道に出たところにも標石があり、「左志ど道 右やくり道 享和元年」の文字が刻まれる。



茂兵衛道標
県道は南に進み琴電志度駅の東を踏切で越え国道11号に合流。南に下り「房前」交差点で国道を左折。遍路道は国道の一筋東の旧道を進むことになる。
旧道へ入る角に茂兵衛道標。「志度寺 長尾寺」「屋島寺 八栗寺」「高松 丸亀」」と言った文字が刻まれる。茂兵衛152度目の四国巡礼時のものと言う。
幡羅八幡
茂兵衛道標の直ぐ北鳥居が建つ。辺りに社はなくちょっと唐突。チェックするとこの地の少し北西、国道11号の西にある幡羅(はら)神社の鳥居とか。位置的にはちょっと不自然だが、Google Street Viewで見ると境内に続く道筋には他に1基鳥居があるので、長い参道を構成する鳥居なのか、またはこの八幡様は幾度か遷宮しているようであり、この鳥居に刻まれる弘化四年(1848)の頃は現在と別の地にあったと旧社殿への鳥居なのかはっきりしない。
それとチェックの過程でこの八幡様の境内には愛染山と称される産土神が鎮まる神山があるとのこと。上述標石の「愛染」が指すのはこの幡羅八幡なのかもしれない。
遠く奈良時代、持統天皇8年(694年)藤原房前がこの地に春日神社を勧請されたちなのに始まるという由緒ある社のようだ。交差点が房前であるのもこの故であろうか。
因みに、Google Street Viewで幡羅八幡境内近くの鳥居を見ていると、その扁額には「原八幡」と書かれていた。かつて幡羅八幡は、現在の原と大町からなる幡羅郷の氏神であったが、その後大町が離れ、氏子は原地区だけとなったため、とか。

多和神社参道口に標石
牟礼町原の町並みの中を進む。琴平電鉄志度線の原駅を越えると高松市からさぬき市志度となる。ほどなく道の左手、多和神社参道口に標石。「八十六番志度寺」の文字が手印と共に刻まれる。
多和神社
Wikipediaには「さぬき市志度にある神社。式内社で、讃岐国三宮と伝える。創建時期は不明である。志度寺に隣接しており、889年(寛平元年)、八幡神を祀り「多和八幡宮」と改称していたという。1479年(文明11年)に志度寺とともに焼失する。1671年(寛文11年)、高松藩藩主松平頼重の手で志度寺が復興されると、多和神社も復興される。この時、現在地に移転する(1623年(元和9年)現在地に遷座の説もあり)」とある。

御蔵用心堀の石灯籠
道の左手に4mほどの巨大な石の灯籠。案内には「用心堀と石灯籠 高松藩松平家が、領内の百姓から取り立てる年貢米を収納するため、藩内各所に米蔵を建てた。その一つが此処にあって、面積5.5ヘクタールの敷地に9mに27.3mの蔵が三棟と、年貢米検査所、藩役人や蔵番の部屋があり、志度のお蔵と呼ばれ、毎年秋に1万5千俵の米が収納され非常に賑わった。
志度町新町「平賀家」は、初代「喜左衛門良盛」が明暦3年(1657年)8月、お蔵番を命じられて以来、世襲してきた。平賀源内先生は父「茂左衛門良房」の死により後役となったが、宝暦4年(1754年)7月、学問を目指して退役したため、平賀家4代98年間のお蔵番に終わりをつげた。 この石灯籠は寛永4年(1851年)津田村の大庄屋「上野氏」と志度村庄屋の「岡田氏」の両氏がお蔵の用心のため建てたものである」とあった。

平賀源内旧邸
石灯籠からほどなく、道の右手に平賀源内旧邸があった。横には遺品館があり、入口前には源内ゆかりの「ホルトの木」が植えられている。
ホルトの木
讃岐の宇多津にある78番札所・郷照寺にもホルトの木があったが、源内ゆかりとは?「ポルトガから入ってきた木」という意味で「ホルトの木」と命名したのが源内との説がある。江戸時代に採取されたホルト油(オリーブ油)が取れた故との説もある。オリーブ油が採れるわけでもなく、日本各地に自生しており、ポルトガルから入ってきた木でもないようだ。
が、面白いにはその学名が「ホルトノキ」科の植物となっていること。また表記が「ホルトの木」なのか「ホルトノキ」なのかよくわから」ななくなってしまった。ホルトノキ科のホルトであればなんとなくしっくりするが、ホルトノキ科のホルトの木はないだろう、ということ。
平賀源内旧邸
平賀源内旧邸の案内には、「今から二百数十年前、日本の夜明けとも言うべき時代に現れ、数奇な運命をたどった源内先生は、高松藩の軽輩御蔵番の子として、ここ志度町新町(現さぬき市)に生まれた。
先生は幼名を伝次郎、四方吉。元服して国倫。通称を源内と呼んだ。また号を鳩渓、風来山人、天竺浪人。作家として福内鬼外、俳諧では李山と称した。
宝暦2年(1752)、新知識の輸入地である長崎に留学し、主として医学、本草学を修め、帰郷後は磁針計、量程機の発明、陶器の製造など藩に新風を吹き込んだが、世間の風当たりは強く、27歳の時退官を願い出て江戸に立ち、田村藍水に師事する一方、昌平黌にも学んだ。 宝暦7年(1757)、藍水と共に日本で最初の物産会を江戸湯島で開催、その後は自ら会主となった。高松藩では先生が名声を博するや、一方的に薬坊主格、切米銀十枚、四人扶持の藩士に召しかかえたが、先生は再び俸禄を辞した。
その後伊豆に於ける芒硝の発見、紀州物産誌の編纂、物類品隲の刊行をはじめ、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の発掘、寒熱昇降器の発明、源内焼、西洋画の教授、日本で初めてのエレキテルの復元など世人を驚かせた。この外、滑稽小説「根南志草」、「放屁論」、「風流志道軒伝」や浄瑠璃「神霊矢口の渡」、「弓勢智勇湊」「忠臣伊呂波実記」などの作品をつぎつぎ発表して江戸の人気を博した。
安永8年(1779)、ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、伝馬町の獄中で52歳の心なじまぬ生涯を終えた。友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に埋葬。そのほとりに碑を建て「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる」と記し、先生の一生を讃えた。
この旧邸は昭和54年3月25日源内先生二百年祭にあたり修復したものである」とあった。
平賀源内先生遺品館
また、平賀源内先生遺品館の案内には「源内先生は、日本文化の爛熟した江戸時代中期に生まれ、まず本草家として日本初の博覧会=薬品会を開催して名を挙げ、鉱山開発を行い、戯作・浄瑠璃を作っては作家の親玉と言われ、西洋画を描いては秋田蘭画の仕掛人となり、陶器を造っては源内焼の流れを作り、エレキテルの復元をはじめ数々の発明品を創り出し、変化龍の如く、その多彩な才能を発揮して、広範囲の分野で活躍しました。
先生は獄中で悲劇の生涯を閉じられましたが、洋学の黎明期に果たされたその偉業は広く認められ、その死は惜しまれました。
先生を顕彰する思いは明治13年の没後百年祭から始まり、昭和4年には百五十年祭とともに平賀源内先生顕彰会が発足しました。
松平頼寿(貴族院議長)を会長に、東京での墓地修復、「平賀源内全集」の発刊、地元では旧邸・遺品の保存、銅像の建設などが行われました。
そしてこの遺品館は、ニ百年祭記念にあたり昭和54年3月25日新築しました。
源内先生の先見性や独創性、また広い視野と柔軟な発想で現実に立ち向かった行動力を、ご来館の皆様に感じ取っていただければ幸いです」とあった。

散歩の折々で源内ゆかりの地が顔を出す。台東区では総泉寺跡に平賀源内の墓があった(この総泉寺は板橋(小豆沢)に移り、源内のお墓だけが残っている)。大田区・六郷用水散歩のとき、源内先生が考案した破魔矢がはじめて売られたという新田神社、はじめて住まいをもった神田加治町などなど。江戸のダヴィンチとも、奇人変人の代名詞とも言われる。「土用の丑の日」に鰻を食べるって習慣をはじめた人物、とも。
源内についてはあれこれの書籍で読んだりしており、讃岐の人とは知っていたが、この志度の生まれとは知らなかった。文字面だけで知っていた源内にまたひとつリアリティを付け加えることができた。

珠橋西詰の大燈篭と標石
源内通りと称される道を進むと玉浦川に架かる珠橋。その西詰のホルトの木も見える植え込みの中に自然石造りの大きな灯籠が立つ。「市指定文化財 新町自然石灯籠(石鎚山奉献灯籠)」とあり、植え込み中の案内に「自然石を使ったこのユニークな灯籠は、志度町間川、雲附山に祀られている石鎚神社の奉献と、志度の海辺から玉浦川の河口にかけて繋留する漁船のしるべの為、「もとや醤油」初代当主「小倉嘉平」が、石鎚神社の信仰に燃える実弟、高松藩士「田山助蔵」の勧めによって、弘化3年(1846年)に建立したものである。小倉嘉平を中心に始まった石鎚講は、間川を中心に今も続いている」とある。
灯籠左手には「石鉄山道 是ヨリ二十丁」と刻まれた自然石標石も立つ。雲附山(標高239m)の石鎚神社までおおよそ2キロ強ということ。
植え込みには手印と共に「八十六番へ七丁 八十五番へ六十丁」と刻まれた丁石。その右側には「珠橋」「慶応三」と刻まれたかつての玉橋の橋柱もあった。

地蔵寺
珠橋を渡ると道の左手にお寺様があり、塀に案内がある。「地蔵寺には、その中興の祖密英が日本廻国六十六部巡礼を果たして奉納した一国一仏の仏像六十六体が納められています。 日本廻国六十六部とは、鎌倉時代から江戸時代まで続いた全国を巡る巡礼です。明治以前、我が国は六十六カ国に分かれており、その国ごとにいづれかの一寺社に詣で、法華経を奉納して納経帳に請取証を貰うのがこの巡礼の建前でした。
密英は宝永二年(1705)から約3年をかけて全国を巡り納経帳を遺しました。さらに享保十年(1725)全国六十六カ国の納経寺社の本尊・本地仏として六十六仏を造立しました。
三世紀以上前の納経帳が残るだけではなく、諸国霊場の六十六体の仏像を祀る寺院は全国でもほとんど類例が無く、これらは当時の巡礼を知る貴重な歴史資料です 文殊院地蔵寺」と。

遍路道を歩いていると六部(六十六部)ゆかりの「日本廻国供養塔」によく出合う。で、六十六部の文字に惹かれ境内に。「志度寺奥の院」と刻まれた寺名石のある門から境内に。
本堂に祀られるという六十六仏像は拝顔できなかった。ちょっと残念。どんなものだろうとサイトを検索するがその仏像群の写真はヒットしなかた。これも残念。
境内に「史跡と伝統の寺 地蔵寺」の案内。「景行天皇23年、土佐の海に棲んでいた怪魚が瀬戸内海にはいりこみ神出鬼没、時には海岸にまで押しよせて悪事を働いた。
天皇は心配して、日本武尊の御子霊子に討伐を命令した。
悪魚退治に成功した霊子は、天皇より褒美として讃岐一国を貰い受け国司となり、里人から讃留霊王(さるれおう)と呼ばれた。
後に悪魚のたたりを恐れた里人が、お堂を建て地蔵菩薩を安置したのが地蔵寺(別名魚霊堂)の始まりだと伝えられている。
開祖は、文殊菩薩の化身といわれる薗子尼で、近江の国より流れてきた霊木から志度寺本尊十一面観音を刻ませたお方で、当寺が志度寺奥の院といわれる由縁である。
本堂には本尊文殊菩薩と、中世から江戸時代にかけての巡礼で(当時は日本は66の国で構成されていた)日本全ての国を拝むことにより願い事が叶うといわれた「日本廻国六十六体尊」の本尊が祭られ密教仏としては、全国で唯一のものといわれている」とあった。
讃留霊王
讃岐を歩いているとこの讃留霊王の悪魚退治の話に時に出合う。79番札所・天皇寺傍の八十場の霊水のところでは、「八十場は古くは矢蘇場、弥蘇場、八十蘇場とも書かれた、と。景行天皇の御代、南海の悪魚を制すべく出向いた讃留禮王子と八十人の軍勢が、王子の持参した泉(前述の八十場の泉)の水で蘇生したが故の地名である」とメモした。

また80番札所国分寺の手前にあった「日向王の塚」のところでは、
「『全讃史』に景行天皇の御代、南海に大魚があり船を呑み込むなどして人々を苦しめていたため、武穀王(たけかいおう)に命じて退治させた。
武穀王は讃留霊王(さるれおう)とも称され、讃岐の国造であったとも伝えられる。日向王は讃留霊王の七代目の子孫。古代に綾川流域を中心とした阿野郡に勢力を誇った綾氏の祖先とされる。この塚が王の墓跡とされる」とある。

この南海の悪魚、武穀王・讃留霊王は、折に触れて登場する。南海の悪魚とは海賊のことであろうか。その海賊を退治したのが景行天皇の御子である日本武尊の第五子である武穀王。武穀王は讃留霊王とも称されるとあるが、讃留霊王は景行天皇の御子である神櫛王ともある。はるか昔の伝説であろうから、どちらがどちらであっても門外漢にはかまわないが、ともあれその讃留霊王は讃岐国造の始祖であり、綾氏の祖先とするようだ。
で、讃留霊王って、讃岐に留まる霊なる王と読める。武穀王であれ、神櫛王であれ「讃岐に留まり国造の祖となったが故の讃留」か?と妄想したのだが、本居宣長はこの漢字は後世の当て字であり。「サルレ」の音のみが有意とするとある。妄想だった。
また、「海賊退治」とメモには書いたが、景行天皇は自ら兵を率いて西国に赴き、南九州の異族・豪族の叛乱鎮圧にあたったが、この武力討伐際しては諸王子も動員し、御諸別王を東北山形方面へ、櫛別王を四国讃岐方面へ、武田凝別王を四国伊予方面へ、国乳別王を四国宇和島方面へと派遣し異族鎮定に当たらせている。とすれば、悪魚とは王権に服(まつろ)わぬ讃岐の部族を指しているのかとも思える。
本居宣長の古事記伝にある「讃留霊王」
讃岐国鵜足郡に讃留霊王と言う祠あり、それは彼の国に讃留霊記と言ふ古き書ありて記せるは景行二十三年、南海の悪しき魚の大な るか゛住みて、往来の船を悩ましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て、討ち平らけ゛賜ひて、やか゛て留まりて国主となり賜へる故に、讃留霊王と申し奉る、それを綾氏和気氏等の祖なりと云ことを記したり、
或いは此を景行天皇の御子神櫛王なりとも、 は大碓命なりとも云ひ伝へたり、讃岐の国主の始めは倭建命の御子、武卵王の由、古書に見えたれは゛、武卵王にてもあらむか、
今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必す゛鳴動するなりと、近きころ、 彼の国の事と゛も記せる物に云へり、
今思ふに、讃岐の国造の始めならは゛、神櫛王なるへ゛し、然れと゛も倭建命の御子と云、又綾君和気君の祖と云るは武卵王と聞ゆるなり、 さてさるれいと云は、いかなる由の称にかあ らむ、讃留霊と書くは、後人の当てたる文字 なるへ゛し

石鉄大権現灯籠
地蔵寺を過ぎると志度寺は指呼の間。街並みの中を続く道を一直線に進むと志度寺参道口に。参道手前で遍路道と交差する大きな車道の西側、上述の「もとや醤油」酒蔵の前にこれも大きな石灯籠。市指定文化財に指定されている雲附山に祀られている石鎚神社への奉献の自然石灯籠。ここが雲附山への参詣道なのだろう。

八十六番札所志度寺の山門
四つ辻を突き切ると八十六番札所志度寺に到着。八十五番八栗寺より志度寺への旧遍路道を辿り終へ、本日の散歩を終える。