日曜日, 4月 09, 2023

八幡浜街道散歩;卯之町から笠置峠を経て八幡浜へ その②

先回、八幡浜街道散歩の第一回は西予市の卯之町からはじめ、笠置峠を越え八幡浜市域、西の三瓶方面からの谷筋、また東は鳥越峠の谷筋からの水が合わさる地点の釜倉の集落までをメモした。 今回は釜倉の集落から五反田川の谷筋に沿って北へと進み八幡浜の地名の由来ともなった八幡浜市内に鎮座する八幡様までを繋ぐ。距離はおおよそ7キロ。
「愛媛県歴史の道調査報告書」にあるルート図では往昔の八幡浜街道は谷筋を走る県道25号に沿って流れる五反田川の左岸、右岸を抜けているようではあるが、時に旧路に入るも道は藪となり、あるいは崩壊し旧路をトレースすることは出来ず、結局は県道25号を進むことになった。


本日のルート;枇杷ヶ淵>若山>双岩の地蔵>夫婦岩>日ノ浦の遍路道標>布喜川橋の道標>川舞の六地蔵>元井橋を渡り五反田川左岸を祇園八尺神社前に>祇園八尺神社>四国山>明治橋>八幡神社


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釜倉集落より八幡浜へ

杷ヶ淵
釜倉集落より先のルートは、「愛媛県歴史の道調査報告書:八幡浜街道(以下「調査報告書」)」には「三瓶方面からの道(県道252 号)と合流し、釜倉橋を渡ると右手斜面の法面に細々と本来の往還が一部に残っている。法面造成時に削られ、本来の幅をとどめていない。やがてその道も途切れ、しばらくアスファルトの県道を歩くと、笠置峠下を長いトンネルで抜けていた県道25号八幡浜宇和線と合流するすぐ手前で、左側下の五反田川への降り口がある。ここは「枇杷ヶ淵」と呼ばれ、かつては五反田川を渡る飛び石があった。
細い木橋で川の左岸に渡ると、荒れてはいるものの道が残っている。途中、 警報機もない小さな踏切でJR予讃線の線路の左に渡り土道が続く。またすぐに線路の右に戻ると、道幅が広がりコンクリート舗装となるが、谷あいの長閑な道をゆっくり下っていく」とある。 先回の最終地点、釜倉出店の石造仏群の先で三瓶より来た県道252号に出る。道を進み釜倉橋を渡ると、右手に「調査報告書」にある法面が見える。法面上に上るアプローチはあるのだが、道は直ぐに切れているように見える。
法面上の細路もすぐ切れる
笠置峠越の駐車場が整備されていた
法面に上ることなく先に進むと道の左手に「国指定史跡 八幡浜街道 笠置峠越駐車場」が整備されている。「国指定史跡」とあるわりには、笠置峠越の八幡浜市域には充実した西予市域側に比べて標識の整備がほとんどされていない。整備が望まれる。 その先、県道252号を進むと笠置トンネルを抜けてきた県道25号合流する。ここから先、五反田川に沿った道は県道25号となる。
杷ヶ淵の木橋
直ぐ藪となり道は消える
合流点の少し手前、五反田川に架かる木橋が見える。「調査報告書」にある枇杷ヶ淵がそれだろう。県道を逸れ少々危うい木橋を渡り先に進む。が、直ぐ藪に阻まれる。時間に余裕があれば藪に入るのだが、時間がタイト。大人しく県道を歩くべく、引き返す。
藪が切れた辺り、線路を渡る土径が見えた
県道を歩きながら、それでも旧路が気になり五反田川筋を見遣りながら進むと、県道252号と25号が合流する直ぐ手前辺り、激しい藪が切れたところに鉄路をクロスするような土径が見えた。「調査報告書」にある、「踏み切りのない予讃線を左に渡る」とある箇所だろう。藪を進めばそこに出たのではあろうかと思う。


若山
あちこち彷徨うが薬師堂は見つからず
「調査報告書」には、五反田川左岸を進む旧路より「五反田川右岸の景色を見渡すと、双岩中学校の少し手前にこん も りとした森が見える。ここの若山薬師堂は小ぶりではあるが、精緻な組物や大きく広がる垂木が風格を感じさせる建造物で、天保10年(1839)の建立である。また、境内のイブキは高さ約17メートル、目通り幹廻り約4.8メートルで、樹齢は600年以上と推定され八幡浜市の記念物に指定されている。 地区住民から「お薬師のビャクシン」として親しまれている」とある。
その途次、いい感じの小祠
五輪塔と言った風情の石造物が祀られていた
ちょっと寄り道。双岩中学校は閉校となっているが、それらしき辺りを彷徨う。行きつ戻りつ結構探したのだが結局たどり着くことはできなかった。その代りになかなか趣きのあるお堂に祀られる石造仏に出合ったのがせめてもの慰み。しかし、薬師堂は一体どこにあるのだろう、

双岩の地蔵
村橋を渡り左岸に移ると
双岩の地蔵
「若山地区に来ると、一旦川沿いの道が途切れる。 右折して県道に出ると、JR双岩駅はすぐである。双岩駅の北100メートルほどの所は、かつての双岩小学校跡であり、そこから本村橋を渡った所に祠があり、地蔵が祀られている。舟形の光背部分に享和三年(一八〇三)の銘があり、近隣の住民により大切に祀られている。ここはかつて往還に面していたと考えられ、下流側も五反田川の左岸に往還があって、夫婦岩の横を通過するようになっていた」と「調査報告書」に記される。
線路に沿って往還跡を進むが
沢で道が崩壊し、先に進むことはできなかった
県道を進み予讃線双岩駅の少し先、県道を左に折れ本村橋を渡ると小祠があり、地蔵尊が祀られる。地蔵尊より線路に沿って道がある。旧路が続くことを願い先に進むが、ほどなく沢がありそこで道が崩落していた。先に進めず引き返す。

夫婦岩
夫婦岩
夫婦岩の山側を抜けると
県道を進むと五反田川左岸に夫婦岩 が見える。「調査報告書」には「夫婦岩は、五反田川と中津川の合流点付近に立つ奇岩である。大きい方が高さ約11.5メートル、小さい方が約9.6メートルあり、二つの岩が向き合うように立つことからこの名がついた。旧村名の双岩村も、この岩に由来している。 本村橋からの五反田川左岸の往還は途中で途切れているが、夫婦岩の近辺には遊歩道となって往還の一部が残っている。 この近くにある予讃線のトンネルの上までは往還の痕跡が見られるため、予讃線の線路建設により往還が消滅した部分もあると考えられる」とある。
県道25号を逸れ五反田川に架かる橋を渡り奇岩を見遣りながら鉄道高架橋下を潜り五反田川左岸に移る。
夫婦岩の南は崖で道はなく進めない
北へと進む道も直ぐ急斜面の崖。引き換えす
「夫婦岩の近辺には遊歩道となって往還の一部が残っている」と「調査報告書」にあるため夫婦岩 へと向かう道を上る。が、夫婦岩 の南の土径を抜けるとその先は道が切れ崖となり先には進めない。「調査報告書」にあるように「線路建設により往還が消滅した」のだろう。
逆に夫婦岩から八幡浜方面へと続く土径もあったが、それもほどなく藪となった崖となり、敢えて進む気力もなく夫婦岩まで戻り県道を進むことにした。

日ノ浦の遍路道標
土橋のあった橋は崩落していた
日ノ浦の遍路道標
県道を進む。「調査報告書」には「往還は、日の浦団地北側の斜面で再び痕跡を確認でき、ここから土橋で五反田川を渡り、県道八幡浜宇和線の日ノ浦橋たもとに出る。日ノ浦橋東詰の法面に石造物と共に道標が立つ。「四十三番明石寺迄三里二十丁 金山出石寺四里三十ニ丁」と刻まれる。大正8年(1919)の建立」とある。
「調査報告書」に従い日の浦団地北側に向かうべく、県道を左に折れ透谷(とうや)橋を渡り日の浦団地へと進む。が、浦団地北側から五反田川に下りるアプローチは見つからない。透谷(とうや)橋まで戻り県道を進み、「調査報告書」に「日ノ浦橋たもとに出るという五反田川を渡る土橋」を県道よりチェック。土橋はなくしっかりとした橋脚は残るが橋は崩壊していた。
金山出石寺(きんざん・しゅっせきじ)
出石寺 by Wikipedia
標石にある出石寺は愛媛県大洲市豊茂乙1に所在する真言宗御室派別格本山の寺院。山号は金山(きんざん)。本尊は千手千眼観世音菩薩。山号を冠して「金山出石寺」と呼ばれる。また、地元では親しみを込めて「おいずし」と呼ばれる。
出石寺は出石山(いずしやま 812m)の山上に伽藍が広がる。山上からは宇和方面の山々や大洲盆地、久万高原方面が見渡せる。
寺伝によれば、奈良時代初期の養老2年(718年)6月18日に宇和島郷の猟師・作右衛門が鹿を追いかけて、この山に分け入った。すると鹿は消えて暗雲が垂れ込め山中に地鳴りが響き渡った。そして鹿が消えた場所の岩が割け、そこから金色に輝く千手観音と地蔵菩薩が姿を現したという。その光景を目の当たりにした作右衛門は殺生を生業とする猟師という職業を悔い改め仏門に帰依し名を道教と改めた。そして、この仏像を本尊として、この地に堂宇を建立し出石寺と称したという。
平安時代前期、この地で空海(弘法大師)が冬期に雪中修行を行ったとの伝説がある。また、後の世に本尊が粗末にされ、それによって冥罰を受ける者が出てはいけないと本尊を石で囲い密封し秘仏としたと云われる。
開山当初の山号は雲峰山と称していたが、この山に鉱山があることから空海が金山と改めたという。なお、山の北側には硫化銅石の鉱山跡があり、三菱鉱業が明治43年(1910年)から昭和20年(1945年)頃まで採掘を行っていた。
昭和16年(1941年)大火に見舞われ伽藍が焼失した。昭和31年(1956年)に復興した。
開山1300年祭の「いづしまつり」が平成29年10月8日催され、その日より17日まで、50年に一度の本尊開帳が行われた。本尊は厳格な秘仏で、頂上に立つ本堂床下にある石室内にあり地下からの湧出岩とされていた。なお、本堂内陣の中央にある厨子内の千手観音立像(地蔵菩薩はその胎内仏)は前立仏であり毎年1月3日に開帳される。

布喜川橋の道標
布喜川橋の道標
日ノ浦橋から先の八幡浜街道のルートについて「調査報告書」には「ここから旧県道は右岸を通り、現県道は川の左岸を通るが、それらの県道以前の往還がどこを通ったのかはっきりしない。 一説には、往還がここから三本木へ上がり、高神社、宝厳寺の前を通って大峠付近に下りるとされる。しかし、五反田村や布喜川村は江戸時代後半から綿織等で発展しており、三本木までの高低差をわざわざ登る往還では合理性に欠ける。本報告書ではとりあえず、 徳用バス停付近からは五反田川沿い (右岸) を通るものとする」とある。
日ノ浦橋より直ぐ下流。布喜川橋北詰に道標。「明石札所三リ廿丁 出石寺ヘ四リ三十ニ丁」と刻まれる遍路道標。ここにも出石寺。「おいずし」さんの人気のほどが示される。

川舞の六地蔵
道を進む。「調査報告書」には「五反田川右岸を進むと右岸に移ってきた県道25号に合流。旧道は川舞付近では、県道北の一段高い所に細い道が残っており、酒屋の裏手には六地蔵が祀られている。 中央の地蔵は元々別なもので、しかも台座以外は近現代に作り直されている。しかし、後方の六地蔵は「享保十二未年 七月朔日」の銘があり、かなり古い」とある。
県道25号をしばらく進むと道の右手に川亀酒造の建屋。建屋北側の細路に入り道なりに進むと石垣の上にお堂が見える。少し坂道を上りお堂に廻りこむと六地蔵が並んでいた。

元井橋を渡り五反田川左岸を祇園八尺神社前に
前面に八尺神社の丘陵が見えてくる
川舞の六地蔵を過ぎた八幡浜街道について「調査報告書」は「川舞の地蔵を過ぎると川沿いの平地が開け、五反田地区に入る。 五反田川左岸の旧県道沿いは、古い建物が残り落ち着いた佇まいを見せているが、「新道」の小字名が残るように明治初めに開けた地域である。
往還は元井橋付近で五反田川左岸に渡り、元城跡の麓から王子の森公園、JA神山支所の横を通って、祇園八尺神社前に出たものと思われる」とある。
元井橋を渡り五反田地区を進む。「調査報告書」にあるような古き趣きの建屋はあまり目につかない。 しばらく進むと祇園八尺神社前にあたる。
五反田
五反田には戦国時代の元城や、城主の摂津氏にまつわる話が多い。元城は摂津氏(南方氏) の本拠地で、現在の八幡浜市域の南半を支配したとみられる。
平成11年(1999)に発掘調査が行われた結果、城は六つの曲輪からなり、空堀三、竪堀6、虎口3、掘立柱建物11等の遺構を検出し、出土遺物より城が機能した時期を15世紀後半から16世紀後半の約100年間と結論付けている。現在、城跡付近は住宅団地となっている(「調査報告書」)。
五反田の柱祭
photo by八幡浜市
「五反田の柱祭」は、毎年8月14日の晩に行われる火祭りで、県の無形民俗文化財に指定されている。会場の王子の森公園には、先端に麻木籠をつけた20メートル余りの柱が立てられ、各部落から集まった若者たちが、1メートルほどの短い細綱の端に麻木を束ねて火をつけて籠に向かって投げ上げ、部落対抗で火入れの早さを競う。 夜空に尾を引いて火玉が乱舞するさまは壮観である。 元々は競技ではなく、燃え火で神霊を招き、そのもとで祭を行うのが目的であり、投げ上げた火が籠の中に燃え移るまで、幾夜でも続けられることになっている(「調査報告書」)。
五反田地区には、柱祭の起源とされる伝承がある。戦国時代、金剛院という修験者がいた。元城主摂津豊後守と萩森城主宇都宮房綱の間に戦が起こった時、金剛院は九州方面に旅に出ており、急を聞いて元城への帰途、夜中に松明を持って入城しようとした。しかし、城内ではこれを敵襲と見誤り、遠矢を射かけて殺してしまった。結局元城は落城し、その後しばらく経って、この地方に悪病が流行した。これは非業の死を遂げた金剛院のたたりであるという噂が広まり、その霊を慰めるために柱祭が始まったという(「調査報告書」)。
五反田川右岸の寺院
宮田院仙井山保安寺は曹洞宗に属し、寺伝によると永禄年間(1558-70)に元城城主摂津豊後守親安が諸堂を建立したといわれる。その後一時廃寺となっていたが、天正19年(1591)に平井左衛門九郎が新たに魚成の龍澤寺の第一六世久岳宗聞を招き復興した。江戸時代に入って、文政五年(1822)の火災によって記録等一切を焼失したが、再建されて現在に至っている。 また、保安寺の北西70メートルほどの所には、金剛院を祀る祠がある。
 
梅の堂 by 八幡浜市
梅の堂の三尊仏 by 八幡浜市
北西500メートルほどの所に、梅之堂がある。「梅之堂の三尊仏」として知られる阿弥陀如来三尊像は、もともと五尊形式のもので、平安末期に矢野荘の荘官平忠光が、忠光寺を建立した時のものと b伝わる。 その後、寺は廃絶となったが、 嘉慶2年(1388)に地頭平忠清が再興し、梅之堂に五尊仏を安置したが、時を経て再び荒廃した。 天和3年(1683)、宇和島二代藩主伊達宗利は、梅之堂五尊仏の荒廃破損に心を痛め、中尊阿弥陀如来と脇侍観世音、勢至両菩薩像の三体は竜華山等覚寺に、同脇侍竜樹、地蔵両菩薩像の二体は潮音寺にそれぞれ安置した。明治5年(1872)、地元の要請と旧宇和島藩の儒者左氏珠山や蔵福寺住職乗翁和尚らの進言により、三尊像は梅之堂に奉遷された。しかし、潮音寺の菩薩像二体は宇和島に残され、のちに県外に流出して、現在は奈良国立博物館に所蔵されている。平安末期に流行した五尊形式の現存する作例は本像が唯一のもので、昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定された(「調査報告書」)。

祇園八尺神社
県道25号が国道378号にあたる箇所、前面に緑に包まれた小高い丘があり祇園八尺神社が建つ。国道378号を左り折れ、少し戻ったところに社に上る参道石段があり、石段を上り切り小さな独立丘陵上を進み社にお参り。
「八尺は「やさか」と読む。社の案内には「伊達家古文書や王子森古文書によれぱ、伊豫国宇和郡矢野郷の八代に「祇園牛頭天王宮」とあり、奈良朝には既に現在地八代の王子森に御鎮座坐して、古くは矢野郷の守護氏神として広く尊崇を集め、平家全盛なりし頃にその隆盛を極めたと伝えられている。 時代は降って明治初期の神仏分離による神杜名登録届にあたり、神宝の「八尺の勾玉」の八尺(やさか)より八尺神杜と登録された。正しくは「神山王子森天王宮祇園八尺神杜」と云う長い名称である。その後、神山地区、八代区民が氏子の中心となって護持運営にあたってきた」とあった。
祇園牛頭天王宮の本社は京都の祇園さん。明治期の神仏分離令に際し、 祇園牛頭天王宮を改め社のある地名の八坂神社に改名。それに伴い全国の 祇園牛頭天王宮も一斉に八坂神社と改名したとされる。この社の改名は少し異なるとするが、はてさて。。。

四国山
祇園八尺神社の先に直ぐ五反田川に架かる祇園橋がある。八幡浜街道は五反田川を渡ることなく、祇園橋の南詰を左に折れ、五反田川の左岸に沿って下る。ほどなく四国山の裾を抜けてきた道と合流する。
「調査報告書」には「愛媛県立八幡浜工業高等学校を過ぎると左手に四国山がある。 四国山は、嘉永2年(1849) に吉岡屋大八ら信者の手によって開かれたミニ四国霊場である。麓には愛染堂があったが、 平成22年 (2010)に老朽化のため解体された。 往還はその前を通り、古町に入る。 古町の山裾に遍路道標がある。「扁んろ道 すがふさんへ十三里」と刻まれる。久万高原町の44番札所菅生山大宝寺のこと」とある。
愛染堂登山口の石碑
山裾の道との合流点を少し先、道の山側に「霊場お四国さん愛染堂登山口」と刻まれた石碑が建つ。この辺りに「調査報告書」にある愛染堂があったのだろう。
標高135m、周囲3キロほどの四国山は地元では「おしこくさん」と称される。嘉永2年(1849) にお山に石仏を立て、四国遍路ミニ霊場を発願するも、代官所のお咎めを受け一時中断。その後地震、大洪水、疫病などが起きたため、「おしこくさん」再興の機運が持ちあがり、藩も黙認するところとなり、発願より17年目の元治2年(1865)に「おそこくさん」の開眼供養がとりおこなわれた、と。因みに中断していた間石仏は四国山北麓に建つ萬松寺に置かれていたとのことである。
「調査報告書」にある古町の山裾にあるとする遍路道標は見つけることができなかった。

明治橋
四国山より先。「調査報告書」は「現在は明治橋で新川(千丈川の下流部の名)を渡る。現在の明治橋は昭和5 年(1930) 3月竣工で、 現役の鉄筋コンクリート製下路式アーチ橋としてはわが国最古である。ここに橋ができたのは文字通り明治時代で、それ以前には、現在の小泉酒造前または濱田橋の所で新川を徒歩で渡ったようである」と記す。
北進し道なりにクランク状に曲がり明治橋を渡る。「調査報告書」にある小泉酒造は明治橋の一筋西、濱田橋の南詰傍にある。

八幡神社
柳橋跡
千丈川下流の呼称である新川を渡った先の八幡浜街道について、「調査報告書」には、「新川を渡れば、100メートルほどで柳橋跡を通り、八幡神社の鳥居前に至る」と記す。 新川を越え、県道27号をクロスし北西に入る細路を進むと直ぐ左手、電柱脇に寄進者の名が刻まれた柳橋跡が残る。
そこから成り行きで一筋北に進むと丘陵南端部に建つ八幡神社にあたる。石段参道を上り拝殿にお参り。
「調査報告書」には「八幡神社は社伝によると、養老元年(717)に勧請されたといわれ、 「八幡浜」の地名の由来となった神社である。境内一帯は矢野神山といわれ、万葉集二一七八番の短歌「妻ごもる矢野の神山露霜に匂ひそめたり散らまく惜しも」の矢野の神山は当社一帯であるといわれている。 宇和島藩主伊達村候は社殿や祭具に家紋の使用を許し、度々参拝したといわれる。 現社殿は昭和のものだが、当社が所蔵する「八幡大菩薩愚童記」 写本は県指定有形文化財であり、境内の「延宝鳥居」 が市有形文化財となっている。 また、八幡山一帯は市指定の名勝になっている。八幡山の西麓(市民会館の辺り)は八幡浜浦の庄屋屋敷で、代々浅井氏が庄屋を務めた。その隣には現在、八幡浜市立図書館 がある。図書館には郷土資料室が併設され、八幡浜出身で「飛行機の父」と呼ばれる二宮忠八が晩年過ごした住居の一部を移築復元し、八幡浜に関する歴史・文化的資料を所蔵展示している」とある。
神社から八幡浜の町を眺める。「調査報告書」には「町を見下ろす位置には、江西山大法寺がある。 大法寺は慶安二年(1649)の創建で臨済宗妙心寺派に属し、矢野郷随一の大寺院として宇和島藩主の尊崇も篤かった」とあり、また「明治初めの八幡浜住民録」の付図によると、現在の市役所辺りは海で、そこから南へ入江が大きく入り込んで内港となっていた。 内港を囲むように南から砂州が伸びており、砂州上は新地と呼ばれ、現在の大黒町商店街付近が海岸線であった。
砂州の先端に戎堂があり、二軒の遍路宿があった。現在の恵比寿町の地名はその名残である」とある。 九州から四国遍路への行き帰りに利用したのだろう」と記す。

これで卯之町から八幡浜を繋ぐ八幡浜街道のメモはこれでお終い。次回は八幡浜から大洲を繋ぐ八幡浜街道をメモする。

月曜日, 3月 13, 2023

八幡浜街道散歩;卯之町から笠置峠を経て八幡浜へ その①

過日松山から大洲までの大洲街道をトレースした。で、ついでもことでもあるので、大洲街道から先、八幡浜を結ぶ往還を歩くことに。
ルートは大洲街道同様に『愛媛県歴史の道調査報告書:八幡浜街道』の地図に記載されている道筋wo 頼りにトレースする。
ルートは当初、大洲から八幡浜を繋ぐ道を「八幡浜街道」であろうと思っていたのだが、上述調査報告書に拠ると、ルートは大きく二つ。卯之町で宇和島街道と別れ、笠置峠を越えて八幡浜をつなぐもの。もうひとつは大洲より夜明昼峠を越えて八幡浜を繋ぐもの。
前者は在町として栄えた卯之町から八幡浜浦への主要往還であり、宇和島藩主の参勤交代時、いくつかのルートのひとつとして使われてもいる。宇和島を出発し卯之町、笠置峠を越え八幡浜に至り、更に西進し三崎半島の三机より海路播州の室津まで進み、そこから江戸まで陸路を向かった、と。また、この道は四国遍路巡礼を終わり九州に戻るお遍路さんが歩いた道でもあった。また、幕末動乱時、卯之町に住む蘭方医二宮敬作を頼り幾多の蘭学者や志士が歩いた道でもあろう。高野長英、シーボルトの娘イネもその一人である。
後者は九州より四国に上陸した順打ちお遍路さんが大洲へと辿ったみちでもある。このルートには明治40年(1907)、県道大洲八幡浜線が開通した。大正6年(1917)の『愛媛県誌稿』には「大洲よい西走し夜昼峠を越えて川の内、松柏を過ぎて八幡浜に達す(中略)概ね山地といえど車馬の往復に難難からず」とある。険路である笠置峠を避けこのルートに道を開いた。
最初にまず、卯之町から笠置峠を越え八幡浜を繋ぎ、その後八幡浜から夜明峠を越えて大洲をつないでみようと思う。今回はそのうち、卯之町から笠置峠越えを下った釜倉までをメモする。 付記;『愛媛県歴史の道調査報告書:八幡浜街道』に拠れば、文献上「八幡浜街道」と記されたものはなく、「往還」と呼ばれていたようである。八幡浜道という呼称は明治に卯之町と八幡浜を繋ぐ現在の県道25号筋、笠木峠を越える県道、またその北、大洲と八幡浜を繋ぐ夜昼峠越えの県道が建設されたとき、前者を八幡浜旧道、後者を八幡浜新道と称されたときに生まれたとのこと。ここでは便宜上「八幡浜街道」とする。



本日のルート;
卯之町から笠置峠まで
宇和先哲記念館脇の境界石>鳥居門>二宮敬作の住居跡・顕彰碑>高野長英の隠れ家>中町(なかんちょう)>開明学校跡>宇和町小学校手前の境界石>卯之町の標石跡>松葉城跡>満慶寺の徳右衛門道標>下松葉交差点の標石>永長橋の大草鞋>勝光寺>岩木地区の古墳
笠置峠越え
笠置峠上り口から笠置峠へ
笠置峠上り口>安養寺>簡易舗装の林道を進む>林道を左に逸れ土径に>清水地蔵>石畳>林道に出る>林道を左に逸れ土径に>「古墳の窓」を過ぎ林道道に出る>直ぐ林道を逸れ土径に>遍路墓>林道に合流し笠置峠へ>笠置峠>笠置峠古墳
笠置峠から釜倉の下山口まで
地蔵尊裏手より下山開始>「笠木峠古道」標識>笠置峠古道・籠立場跡案内板>笠置峠越標識>お堂>笠置峠越標識>三叉路に標石>釜倉出店の石造物群

国土地理院地図

 
NOTE:地図が表示されない場合は、検索窓に「八幡浜」などの地名(適当に「東京」などを入力しても表示されます)を入力し
エンターキーを押すと地図が表示されます

 卯之町から笠置峠まで

宇和先哲記念館脇の境界石
宇和先哲記念館
先哲記念館北側の境界石
四国遍路第43番札所明石寺より下って来た宇和先哲記念館脇の境界石をスタート地点とする。 「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター;以下「えひめの記憶」)」には、先哲記念館付近に境界石がある、とのこと。通りを探したのだが見つからず、幸先がこれでは、と思い始めた頃、ひょっとして、と記念館北の脇道に入ると、民家の前に境界石が見えた。
「従是西驛内 卯之町」「天保14年 癸卯」と刻まれる。「西驛内」って?地名かと思ったのだが。「駅=宿(卯之町)」の西の境という事だろう。
先哲
「先哲」とは、歴史にかかわる偉人、賢人をあらわす言葉。記念館は、宇和町にゆかりのある人物である、二宮敬作、シーボルトの娘楠本イネなど多くの偉業を残した人物の資料を展示している。

鳥居門
先哲記念館の少し南、道の左手に立派が門構えの屋敷がある。庄屋である鳥居某の屋敷故に鳥居門と呼ばれるようだ。武家屋敷と見まごうその構えは、身分不相応と咎めを受けた、とか。




二宮敬作の住居跡・顕彰碑
二宮敬作翁の住居跡
鳥居門の少し南二宮敬作の住居跡がある。また先哲記念館から北へと札所明石寺への道を進むと公園に翁の顕彰碑がある。
二宮敬作
蘭学者。宇和郡磯崎浦(現八幡浜市保内町)出身。号は如山。文政2年(1819)16歳で蘭方医を志長崎へ赴き、通詞吉雄権之助や美馬順三に師事し、やがてシー ボルトの門人となり「鳴滝塾」で学ぶ。同12年(1829)、シーボルト事件 に連座し入獄。同13年(1830江戸構長崎払(江戸立入禁止、 長崎退去)となる。


公園に翁の石碑
碑文
帰郷後、天保4年(1833)30歳。宇和島藩主伊達宗紀の命もあり、主に宇和郡卯之町(現西予市宇和町)で開業。シ-ボルト門下生中で外科医の第一人者として活躍し、または開国進取的な思想を町民に説くと共に、卯之町の自宅に蘭学塾を開き、多くの門下生を育成した。 その中には、三瀬に周三、シ-ボルトの娘イネなどがいた。イネは敬作から一般医学を学び、宇和町は日本の蘭方女医発祥の地ともなった。嘉永2年(1849)には敬作の離れ屋に高野長英を匿かくまい、この隠家は県の史跡に指定されている。

高野長英の隠れ家
二宮敬作の住居裏手に高野長英の隠れ家がある。小振りな家である。案内には;「高野長英先生 蛮社の獄で入獄。卯之町にも潜伏。
高野長英は文化元年(1804)五月五日、陸奥国水沢(岩手県水沢市)に生まれる。幼名は悦三郎。叔父高野玄斎の養子となり、高野の姓となる。杉田玄白や吉田長淑に入門した後、鳴滝塾でシーボルトに学ぶ。
田原藩家老・渡辺華山や岸和田藩医・小関三英らと尚歯会を結成。飢餓対策や西洋事情の研究などに奔走する。天保八年、浦賀沖にきた米国モリソン号を幕府が砲撃。長英は『夢物語』を、渡辺華山は『慎機論』を書き、幕府の怒りに触れ、長英は永牢の刑になり入獄する(蛮社の獄)。入獄、六年目、獄舎が火災になり一時釈放されるが、そのまま逃亡。諸国の数多い門人や学者、また宇和島や薩摩藩主などに守られ、信越、東北、江戸、上方、宇和島、鹿児島などを巡り、六年間潜行する。
宇和島藩内には嘉永元年四月二日に入り、宇和島横新町の宇和島藩家老・桜田佐渡の別荘に身を隠した。その間に『砲家必読』(全十一巻)などを訳している。翌年一月、追っ手から逃れるため宇和島城下を去り、卯之町に住む学友・ニ宮敬作の自宅裏の離れ二階などに潜む(現在地)。
四月には鹿児島に向かったが安んずることができず、再び宇和島を経由し、六月三日卯之町に到着。十日間余滞在する。八月には江戸を経由し、下総に潜伏。翌年の嘉永三年再び江戸に帰り、青山百人町に居を構え、医業を営む。十月三十日、捕吏七人に襲われ、自刃する」とあった。

中町(なかんちょう)
先哲記念館付近に戻り、入り母屋造りの中二階、白漆喰塗りの酒屋からはじまる、古き屋並みの残る中町通りを進む。
「えひめの記憶」に拠れば、「中町通りは、宇和島藩政時代になって形成され、道の両側には多くの商家が立ち並び、旅籠(はたご)もあって卯之町の中心街をなしていた。『四国遍礼名所図会』でも「鵜の町よき町なり(中略)此所にて支度」と記述しているように、ここで遍路は、物資を調達したり、宿泊したりしたものと思われる。
中町の町並みは、江戸時代や明治時代の建物が数多く現存している。かつてここを訪れた司馬遼太郎は、『街道をゆく』の中で、「百年、二百年といった町家が文字どおり櫛比(しっぴ)して、二百メートルほどの道路の両側にならんでいる。こういう町並は日本にないのではないか。(中略)拙作の『花神』に二宮敬作が出てくる。シーボルトの娘イネも出てくる。『おイネさんが蘭学を学ぶために卯之町の二宮敬作のもとにやってくるのは安政元年ですから、おイネさんが見た卯之町仲之町といまのこの町並とはさほど変わらないのではないでしょうか。』」と記述している」とある。
四国遍礼名所図会
五巻からなる遍路絵日記。寛政十二年(1800 )三月二十日から五月三日までの、七十三日間( 四月閏)の九皋主人の遍路記を翌享和元年(1801 )に書写した河内屋武兵衛蔵が残っている。
卯之町の歴史
何故に、卯之町が栄えたのかちょっと気になりチェック。江戸時代、卯之町は宇和島藩最大の在郷町として、また、宇和島と大洲を結ぶ往還の宿場町として栄えたというが、その歴史は更に古く、宇和郡を治めた西園寺氏まで遡る。
天文18年(1549)、卯之町の2キロほど北の松葉城から、現在の卯之町の宇和運動公園北の黒瀬城に館を移し、山麓をその城下町(松葉町)とした。
西園寺氏は秀吉の四国征伐でその軍門に下り、慶長20年(1615)には伊達氏が10万石の領主として宇和島に入る。伊達氏は松葉町の盛んなるを見て驚いたというが、慶安4年(1651)松葉町を現在の卯之町の地に移し、名も「卯之町」と改め、宿場町、在郷町として農村経済の中核となり明治に至るまでその繁栄が続いた、と。
在郷町
在郷町(ざいごうまち)とは?チェックすると、中世から近世にかけて、農村部などで商品生産の発展に伴って自然発生した町や集落のこと。商工業者のほかに農民が多く在住しているのが特徴。都市と農村の機能を併せ持つ当時の「地方都市」といった性格の町のようである。寛政元年(1789)戸数140軒・住民508人、天保9年(1838)戸数149軒・住民615人との記録があるようだ。
「国選定・重要伝統的建造物群保存地区・西予市宇和町卯之町伝統的建造物群保存地区」の案内
街中に立つ案内には、「西予市宇和町卯之町は、江戸時代を通じて宇和島藩下の在郷町として栄えた。地場産業である良質の檜材や、宇和盆地でつくられた良米等が集まり、5軒の造り酒屋が店を構え、商家が立ち並んだ。また宇和島・大洲を結ぶ街道の拠点として物資が集散したり、白装束のお遍路さんが往来して宿場をにぎわせた。
この区域には、近世(江戸時代)の面影を伝える町家が軒を並べ、併せて寺(江戸期)・学校・教会等、明治・大正・昭和初期の歴史的建造物により、伝統的な町並みが形成されている。町並みの特徴は妻入りと平入りが混在していることである。
妻入りの町家は四国地方にあまり例がなく、また格子や蔀、床几、大戸などに加え、卯建、袖壁、一階軒下の持送り、二階の手摺り、飾り瓦等の意匠も特徴的である。保存地区は中町、新地、横町、大念寺、下町に分けられ、江戸時代の地割や、各時代の建造物で独自の景観を醸し出している」
卯之町の由来
江戸の頃、慶安4年(1651年)にいくつもの大きな火災があり、町を大念寺(現在の光教寺;開明学校の近く)山麓に移す際、火災を恐れた当時の人々が水に因んだ鵜を町の名前にし「鵜の町」とし、それが「卯之町」に変わった、と。上の卯之町の歴史で慶安4年に「卯之町」に移したとメモしたが、正確には「鵜の町」としたようだ。
「鵜の町」「卯之町」となった因は不詳。卯の日に野菜や果物 雑貨などを売る市を立てていたからなど、常の如く諸説あるようだが定まることなし、ではある。

開明学校跡
開明学校へのアプローチ口
仲町の通りから左に少し入った先に、四国最古の小学校である開明学校がある。前身は明治2年(1869)に左氏珠山の門下生や町民の有志により建てられた私塾・申義堂。明治5年(1872)、申義堂を校舎として開明学校が開校。明治15年(1882年)に現存する校舎が竣工した。
旧開明学校校舎は、木造2階建、桟瓦葺きで、窓枠をアーチ状につくるなど、わずかに洋風の意匠を取り入れた擬洋風建築である。地元の大工によって建築された擬洋風建築であり、建築史上、教育史上に価値が高いとして評価され、1997年5月に国の重要文化財に指定された。

宇和町小学校手前の境界石
西予市宇和町小学校の少し手前、道の左手、民家に挟まれて境界石が建つ。「從是東驛内 卯之町」と刻まれる。先哲記念館脇にあった「従是西驛内 卯之町」と刻まれた境界石と対をなし、駅宿としての卯之町の境を示していたのだろう。






卯之町の標石跡
右側壇上に標石があったようだ
大きな四つ辻に建つ多賀神社の少し手前に、民家に挟まれた左に逸れる細い道がある、この三叉路にはかつて標石が立ち、「大洲へ五里半 松山へ十九里 左 山田薬師 八幡浜」と刻まれていた」と。ここを左に逸れるのが往昔の八幡浜街道。ここが大洲へと向かう宇和島街道と八幡浜街道・笠置街道の分岐点であったようだ。
左に逸れた街道は現在の国道56号を少し北進した後、宇和中学辺りで左に逸れ現在の予讃線が走る辺りを北進した後、少し北東に進んだ後北に向きを変え永長橋の東詰め辺りに出たと推測されるが、道は残らず比定はされていない。
いつだったか遍路歩きの途次、もう少し北に行った春日神社傍で「八幡浜道」の標石を見たこともあり、そこをチェックすべく、左に逸れることなく、宇和島街道を北に進む。
山田薬師
ここより東、北に突き出た二つの尾根の山稜にに挟まれた盆地に建つ。正式には潮光山善福寺。曹洞宗。に属する。例年四月八日の灌仏会(花まつり)は近隣でも有名な行事であ沿道に屋台が並び、多くの参拝者で賑わった。
この道標だけでなく、八幡浜市内の釜倉や布喜川橋の道標(後述)にもその名が記されているように、八幡浜のみならず、 佐田岬半島や大洲でも、高齢者のなかには、歩いて山田薬師に参拝したという人が少なくない。
境内の薬師堂(本堂)は江戸期の建立で、檜皮葺入母屋屋根で唐破風を正面に備え、風格のある佇まいを見せている。唐破風の棟飾りには伊達家の家紋が入り、宇和島藩の加護が厚かったことが証される。また、須弥壇上に入母屋軒唐破風詰組の厨子を備えている。薬師堂・厨子は山門とともに西予市の文化財に指定されている。

松葉城跡
卯之町から下松葉の道に入る。しばらく歩くと道の右手に「松葉城跡」の案内。 「嘉禎二年(1236)宇和地方は西園寺公経の荘園となり、西園寺氏が松葉城の前身である岩瀬城に入城したのは、公良の時の永和二年(1376)であったといわれている。のち一九代実充が黒瀬城に居城を移す天文年間ごろまで、約一七〇年間西園寺氏の居城として栄えたが、本城を主とする攻防の歴史は今一つ不明である。 松葉城は標高四〇九.九米、宇和町下松葉裏山にあって、典型的な山城で、平にされた山頂は三段に分かれ、面積約四〇アール余りで、土塁、井戸のほか当時の遺物も多い。山頂は、きつ立した岩をめぐらし、万兵を防ぐに足る要害の地といえる。
かつては周辺の老松が古城跡に風情を添えていた。古書に「祝儀の宴あり、松の葉嵐につれ来り盃にとまる(中略)一千年色盃深し、目出度奇瑞なりとて松葉城と改められる由」とある。城では、たびたび能の会を催すなど、優雅な貴族出身たる城主の一面をのぞかせている。城跡からは、青磁等が多量に出土していて、都の香り高い文化がうかがえる」とあった。松葉城跡まで1キロとの案内があり、寄ってみたいとは思えどの心境で先を進む。
西園寺氏
前述の如く、卯之町の礎を築いた。いつだったか、河野氏ゆかりの地を辿った時、はじめて西園寺氏と愛媛の関わりを知り、ちょっと驚いたことを思い出した。
その西園寺氏であるが、伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、源平合戦期に源氏に与し多くの軍功をたて、鎌倉幕府開幕時の守護・地頭の制度により、鎌倉御家人として宇和の地の地頭に補任され橘氏からほとんど横領といった形で宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。
その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)

満慶寺の徳右衛門道標
左手に走る国道56号と平行に道を進むと満慶寺。道脇の参道入口に「四国のみち」の石碑と並び徳右衛門道標立っていた。「これよりすがう山へ二十里/当村兵頭恵助」と刻まれる「すがう山」は久万高原町にある第44番札所菅生山大宝寺のこと。
西予市
Wikipediaに拠れば、愛媛県の南予地方に位置する西予市は2004年に東宇和郡4町(宇和町・野村町・城川町・明浜町)と西宇和郡1町(三瓶町)の5町が新設合併して誕生した。旧5町のうち旧宇和町は江戸時代より宇和島藩の宿場町として栄え、その中心部(卯之町)に残る歴史的景観は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。旧宇和町は現在でも西予市の中心として機能しており、卯之町には駅や松山自動車道西予宇和インターチェンジがあるなど、比較的交通の利便性が高い。 海から山まで東西に長い市域をもっている。西は宇和海に接し、東部は四国カルストを擁する山地で高知県と境を接している」とあり、続けて、「愛媛県は東予・中予・南予の3地域に分けられるが、「南予=宇和島」のイメージが強く、そのため、八幡浜市・大洲市・喜多郡・西宇和郡・旧東宇和郡(西予市成立で消滅)は、全体の地域を指す言葉として「西伊予」が発案したのだが、この一地域のみが「西予」と称することに他地区からは抵抗があったようだ」といった記述があった。
そういえば、愛媛に生まれた者としても、南予=宇和島、八幡浜、東宇和郡、西宇和郡、といったイメージを持っていた(大洲、喜多郡は「中予」と)。宇和島と一線を画したいといった気持があったのだ、とはじめて知った。
徳右衛門道標
満慶寺
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。 その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。

下松葉交差点の標石
春日神社
下松葉交差点の標石
旧道が国道56号に合わさる下松葉交差点の手前に、西園寺氏の氏神であった春日神社。社に手を合わせ、そのすぐ傍、旧道が国道56号に合わさるところに道標が立つ。「遍ろ道 八幡浜新道」「左 八幡浜旧道 津布里」[明治四十年建立]と読める。
遍路道は案内に従い現在の国道筋を北に向うが、八幡浜街道・笠置峠越えは「左 八幡浜旧道」の指示に従い左に折れ県道30号に乗る
八幡浜新道・八幡浜旧道
遍ろ道 八幡浜新道
明治四十年建立
道標に刻まれる八幡浜旧道はここで左折し、県道30号を少し西進し肱川を渡ると北進し予讃線に沿った県道25号を西進し笠置峠方面を越えて八幡浜に向かっていた。八幡浜新道は明治31年(1898)頃には開削された鳥越峠越えの県道。現在の国道56号を北に進んだ瀬戸・東多田の集落から左折し鳥越峠を越えていた。大江の集落には手印と共に「菅生山 / 左 八幡濱」と刻まれた茂兵衛道標が立つ。建立時期は明治31年。鳥越峠越えの県道開通に合わせ立てられたものだろう。
八幡浜旧道はこの新道ができるまで宇和と八幡浜を結ぶ唯一の往還であり、「彼ノ峻坂ナル笠置峠ヲ越ヘサル可カラサルヲ以テ、荷車等ハ殆ント皆無ニシテ貨物ハ漸ク人肩牛馬ニヨリテ運搬セルニ過キサリキ(えひめの記憶)」と記されるような険しい道であったようだが、それでも八幡浜と卯之町間に鉄道が開通する昭和20年(1945)頃まで使われていたとのことである。
なお、道標にある「津布里」は西予市三瓶町津布里。現在の県道30号筋を三瓶トンネル、三瓶隧道辺りで山越えし谷道川の谷筋を津布里に向かったのだろうか。道筋を想像するだけで、結構幸せな気分になれる。
八幡浜街道の呼称
「愛媛県歴史の道調査報告書:八幡浜街道」(以下「歴史の道調査報告書」)には「街道の名称である「八幡浜街道」は、道の目的地にあたる地名を街道名に冠するという原則に従い、本報告書において命名した造語である。文献において「八幡浜街道」の名称が記載されている例はなく、沿線の住民がこの名称を使用する例も見あたらず、単に「往還」と呼ぶ場合がほとんどであった。
笠置峠越えルートでは、上述の如く卯之町に明治時代に建てられた道標に「八幡濱」の記載が見られるほか、この下松葉(西予市宇和町下松葉)の道標には「八幡濱旧道」の名が記されている。歴史の道調査報告書第六集『宇和島街道』では、「笠置街道」の名称が用いられた。 近年、笠置峠の街道の保存活動を行っている住民グループ (笠置文化保存会)でも、この「笠置街道」の名称を用いている」とある。

永長橋の大草鞋
肱川に架かる永長橋の西詰に大きな草鞋が据えられている。「歴史の道報告書」には、「永長地区では、この草履を取り替える行事を「念仏の口開け」と呼び、新春(現在では一月一五日)の恒例行事となっている。その年の年行司らが編んだ魔よけの大草履は、常居寺の本堂に供えて念仏を唱えた後、村境である永長橋のたもとに運ばれて据え付けられる。
村に大草履を履く大男が住んでいることを示し、外敵や禍が侵入するのを防ぐ村内安全の願いが込められている」とある。

瑞山禅寺南の山裾の道を進む
瑞山禅寺
池の東端に地蔵が立つ
永長橋を越え少し西進した後、街道は北に折れ若宮神社の辺りを進み予讃線の踏み切を越え県道25号に出る。旧路は県道25を横切り少し北に進んだ後左に折れ県道に復帰。少し西進した後県道25号を左に逸れ小原の集落へと山裾の道を進む。
道なりに進むと瑞山禅寺。南側を廻り込むと定広池。池の北側に標石。「左 八幡浜 右 卯之町」と刻まれるとあるが、結構探したのだが見つからなかった。池の東端に地蔵が祀られていた、

勝光寺
船岡城跡の残る丸い山裾の南を廻り込み岩木集落に入る。「歴史の道調査報告書」」は「岩木集落の北東側の山裾、谷の奥に勝光寺があり北側にある墓地のさらに裏の山に佐渡巡礼の墓がある。地元の伝承では、明治38年(1905)の秋、佐渡から来た父娘二人の巡礼が笠置村にやって来たが、娘の方の具合が急に悪くなり、介抱の甲斐もなく亡くなってしまった。地元の住民は娘を手厚く葬り、墓碑を建てたので、その後も娘の生家から長い間お礼の手紙が届いたそうである」とあるとある。これも広い墓地の裏手を当てどもなく彷徨ったのだが、見つけることはできなかった。

岩木地区の古墳
岩木地区には古墳や遺跡が多く残る。「歴史の道調査報告書」より引用する;
岩木赤坂古墳
「勝光寺の南にあり、「墳丘の大半で後世の削平を受けており、詳細は不明であるが、方後円墳であった可能性がある。遺物は鉄製甲冑、銅鏃などが出土しており、県でも数が少ない、古墳時代中期後半の古墳と考えられる」。上述勝光寺に向かう道の左手にある。古墳と言われなければ到底わからいないほど削平を受けていた

ナルタキ古墳群
 集落内に立つ案内を頼りに進み、集落の切れる辺り、民家石垣の前に立つ案内に従い山道に入る。
踏まれた道なりに進むと古墳があった。古墳とはっきりわかるのは2基ではあった。
一号墳
二号墳?
「調査報告書」には「勝光寺の北、河内谷山麓の南面する緩斜面に位置し、六基の古墳が存在したという記録がある。このうち、一号墳は直径一二メートルの円墳で、両袖式の横穴式石室からは須恵器、太刀、鉄鏃、玉類などが出土しており、出土遺物り六世紀後半から七世紀初頭の古墳と考えられる」。
なお、トラックログは電池が切れているのがわからず、集落入口から古墳までのログは取れていない。が、結構踏まれて道が続くので迷うことはないだろう。
東大谷古墳
「ナルタキ古墳群の更に北、一辺約一〇メートルの方墳で、七世紀後半頃の古墳とみられる。付近に八世紀前半の築造とみられる二号墳もあり、被葬者は律令国家形成における、この地方の有力者である可能性が高く、西ノ前遺跡の時代につながる墳として注目される」。
ここはナルタキ古墳群から更に山に入らなければならない。時間の関係パス。
西ノ前遺跡
「三瓶神社の前に中池(寺中池)があり、その東側一帯の水田に西ノ前遺跡がある。古代の寺院ないし官衙遺跡と考えられている。この付近では、過去に複弁八葉蓮華文軒丸瓦や重弧文軒平瓦が採集され、「岩木廃寺」と呼ばれていた。 瓦、畿内系土師器、緑釉陶器など八世紀後半から九世紀頃の遺物が出土するとともに、瓦列等の遺構が検出された。採集された瓦が七世紀後半のものを含んでおり、7世紀から10世紀にかけて継続した、寺院ないし官衙遺跡の可能性が示されている」。
一面の耕地。案内がなければ遺跡とわかることはないだろう。
上井遺跡
「三瓶神社の正面石段を下りた南側にあたり、円面硯をはじめ古代の遺物が出土しており、官衙関連遺跡の可能性が指摘された」。
特に案内も見つからずパス。


峠越笠置え


笠置峠上り口から笠置峠へ

笠置峠上り口
地中池の北側を廻ると、笠置峠への登り口。三叉路の所に案内があったおようだが、現在は壊されたままとなっていた。
ここを右折するとすぐ左に三瓶神社の裏口の鳥居がある。
三瓶神社
「歴史の道調査報告書」には、「三瓶神社ははもともと、蔵貫浦の海岸に三つの甕が打ち上げられ、これを祀ったのが始まりされ、平家に関係する神様だといわれている。その後、海がよく見える郷内の上の方に祀ったところ、海を通る舟の白い帆を嫌って風を送り、舟をひっくり返したりした。
三瓶神社鳥居
このため、神様を今の場所に移すことになった。ところが、ここでも白い物をまとって近くを通りかかると、吹き飛ばされたりした。人々は相談して「三瓶神社より格の高い神様をお連れしてきたら、 いたずらをおやめになるじゃろう」ということで、紀州熊野の十二所権現を祀ったところ、いたずらをしなくなった(『宇和の昔話と伝説』)」と記す。



安養寺
笠置峠への道はしばらくは舗装された林道で、 二度目に道が大きく屈曲し切り返す部分で墓地の向こうに安養寺が見える。
霊岩山安養寺は臨済宗妙心寺派に属し、本尊は阿弥陀如来。安養寺には禅宗寺院にはめずらしく、境内に大師堂がある。その大師堂の内部には、四国霊場の遍路により納札が多数貼られている。これは、札所の巡礼を終えた九州からの遍路たちが、卯之町から八幡浜に向かう途次ここに参拝し、納めたものであるという。
安養寺大師堂

寺籍調査表によると堂宇は明治39年(1906)に改築したとあり、明治の末年以降でも、笠置峠を経て八幡浜に向かう遍路がいたことを示している(「歴史の道調査報告書」)。
お寺に地元の方がいらっしゃったので、笠木峠越えのルートをお聞きする。峠まではしっかりとした道案内があり、迷うことはないが、峠の先の下りには案内が整備されていなととのこと。峠までが西予市、峠から西が八幡浜市と行政区域が異なるためだろう。下りがちょっと心配。とはいえ、時間は峠まで30分、下りも同じくらいで里にでる、とのことであり、それほど難しいルートではないようだ。

「笠置峠古墳」への案内に従い簡易舗装の林道を進む;午前9時17分
「笠置峠古墳古墳」への案内板
案内板には詳細なルート図もあり安心
安養寺を出て直ぐ、林道を左に逸れる土径がある。入口には「笠置峠古墳古墳まであと1.6キロ、とあり、その下にルート地図と史跡・現在地が描かれたわかりやすい地図が整備されている。

「案内標識」より林道を左に逸れ土径に;午前9時24分
案内に従い林道を逸れ土径に入る

道は整備されており快適
少し道を上ると左手に「笠置峠古墳;古道 左林道」と書かれた標識と同じく現在地を示した地図。土径を進むと清水地蔵があると記す。
「調査報告書に」、「続いて林道が三度目に切り返す部分から、幅約1.8メートルの土道が分岐している。ここから笠置峠を越え、八幡浜市側の釜倉地区に至る区間は、往還の残存状況が良好である」と記される。

清水地蔵;ごぜ午前9時29分
清水地蔵の祠
貯水タンクが設けられていた
土径を5分ほど歩くと道の山側に清水地蔵。横には貯水タンクがある。いまでも現役で使われているのだろうか。そのためもあるのだろうか、湧水は地表には現れていなく、直接貯水タンクに繋がれているようにも見える。
「調査報告書」には「登り坂の道を歩いて行くと、右手にコンクリートの貯水槽が見える。ここに小さな祠があり清水地蔵が安置されている。「寛政八丙辰年 清水地蔵 岩木邑中」と刻まれ、麓の岩木村の村民が祀ったものである。
大日如来と馬頭観音像
寛政8年(1796)の建立のわりに像の状態が良く、祠が古くなれば改築を重ね、村民に大切に守られてきたのであろう。
清水地蔵の隣には、大日如来と馬頭観音が祀られている。大日如来は無銘、馬頭観音は文字しか刻まれていないものだが、昔の人々が牛馬を荷役や農耕のパートナーとして大切に思う気持ちが込められており、往還に縁の深いものである」と記される。

石畳;午前9時31分
これが石畳?
清水地蔵の直ぐ先、石畳と謂ればそうかな、と思うようなところがある。「調査報告書」には、「少し行くと、石畳が敷きつめられている。長さにするとわずかなものであり、往還の勾配がきつい部分で、土壌の流出を防ぐとともに、路面が雨などでぬか る んで滑るのを防ぐ目的で整備されたと考えられる」と記される。


林道に出る;午前9時34分
林道に出ると直ぐ
「ものい嶽」分岐標識
石畳からほどなく土径は林道に出る。林道を進むと見晴らしの良い岩場である「ものい嶽」への分岐(午前9時38分)。見晴らしは笠置山古墳からの眺めで十分だろうと先に進む。



林道を左に逸れ土径に;午前9時40分
案内標識が二つ並ぶ
上の標識で林道を逸れ土径に
ものい嶽分岐で林道を曲がると、林道を左に逸れる道があり、そこに「笠置峠古墳」への案内が二つ並ぶ。「笠置峠古墳 あと960メートル」、その直ぐ先に「笠置峠古墳 あと940メートル」とあり、現在地の示されたわかりやすい地図が共に整備されている、林道を離れ土径に入る。

「古墳の窓」を過ぎ林道道に出る;午前9時47分
古墳の窓を越えると
林道に出る
土径を進むと「古墳の窓」の案内(午前9時45分)。笠置山古墳が見えるように木々が伐採されスペースが開いている。が、どこが古墳かよくわからない。
道を進むと林道に出る(午前9時47分)。k
「笠置街道」と記された木の標識
「笠置街道」と記された木の標識も立つ。上述の如く、「八幡浜街道」は便宜上つけた名称であり、地元の方は単に「往還」、もしくは「笠置街道」と称していたのだろう。
ここから先、特に笠置峠から先、八幡浜市域に入ると標識は「笠置街道」もしくは「笠置峠古道」の名称が目につく。



直ぐ林道を逸れ土径に;午前9時48分
林道に出るも、その直ぐ先に案内標識があり「笠置峠あと760メートル」とあり林道を左に逸れる土径を案内する。数分歩くと「笠置街道」の木の標識と共に、下に石碑の「写真」が付けられている(午前9時50分)。この写真が何かよくわからないが、地図にこの先に遍路墓があるとのことであり、巡礼の途次倒れたお遍路さんのものかとも思う。

遍路墓;午前9時51分
「笠置街道」の案内の直ぐ先、道の山側に幾多の遍路墓が並ぶ。「調査報告書」には「ここは峠の南、岩木村側で旅の途中に亡くなった人を埋葬した 「遍路墓」である。手前には碑銘の刻まれたものが六基、奥の方には碑銘のない自然石の墓が多数祀られている。遍路たちにとって、あと少しで八幡浜にたどり着き、船に乗れば故郷の九州が目前であったろうが、峠の登りは体の弱った者の命を奪う難所であったようである。
碑銘が刻まれ出身地の分かる墓碑六基のうち、四基が九州出身者のものだが、一基は「隣静塔 加州金澤 霊雲寺徒 文政十二丑年三月十日」と記され、加賀金沢と遠来の旅人であったことが分かる(「歴史の道調査報告書」)」とある。
先ほどの「笠置街道」案内下にあった写真の石碑には「肥後」と刻まれていた。途次倒れた肥後のお遍路さんのお墓の写真かと思う。
遍路墓の傍には説明板があり「街道の歴史遺産 遍路墓(無縁仏)
笠置街道は、九州方面からの四国八十八札所巡りを行う人たちの主要な遍路道だったようです。|病や貧困で故郷を追われ、帰ることも許されず、死ぬまで札所を巡り続けたと思われるお遍路の悲しいお墓です。
人里で行き倒れて、 戸板などで運ばれてきて埋葬されたのでしょう。 自然石の墓標が多い中、石塔には,九州、松山、遠くは加州金沢の霊雲寺僧の文字が刻まれています。
明治三八年(1905) の暮れに重い病に侵されていた二十代前の娘さんと父の二人連れのお遍路がいて、笠置村で亡くなりました。 菊池慶治郎さんは、勝光寺の裏山へ埋葬し墓石も建てて、菊池家では昭和初期まで仏の供養が行われていたと聞きます。 墓石には、
新潟縣佐渡郡
元柿野浦村
河内ウメ墓
明治三十八年十一月1日」
とあります。
笠置文化保存会」とあった。佐渡のお遍路墓とは勝光寺で見つけられず、お弔いの出来なかった佐渡の遍路墓のことでしょう。

林道に合流し笠置峠へ;午前9時56分
遍路墓から5分程度歩くと林道に出る。「笠置峠古墳 あと500m」の案内。数分歩くと「笠置峠まであと200m」の案内。ほどなく建屋が見えてくる。


笠置峠;午前10時3分
林道にでたところから数分で峠。建屋は「御休み処 笠置文化保存会」とあった。その傍には「笠置峠古墳 あと300メートル」の案内も立つ。
「調査報告書」には、「峠にはかつて、松の大木が茂り、麓からもよく見えるほどであったという。『双岩村誌』には「老松乱立、春風一路、宇和の沖田を見晴らす景色いと美し双岩八景の一つ、曰く笠置の夜雨」と記されている。
休憩所の場所にはかつて、峠の茶屋があった。もとは二軒の茶屋があり、そのうちの一軒が昭和の前半まで営まれていた。峠から南側の谷に一〇〇メートルほど下った場所に「文さん井戸」と呼ばれる井戸があり、茶屋で使う水もそこでまかなわれた」とある。
峠の茶屋跡
御休み処の傍には「峠の茶屋跡」の案内があり、「笠置峠には大正初期、2軒の茶店があり、切り屋根の小さな瓦家には老夫婦が、茅葺家には立花文助さん夫婦峠の茶屋跡が、駄菓子、雑貨,呉服まで置かれ、峠付近は畑で、麦、サツマイモ、麦などが作られていたといいます。
天保11年(1810)、イネ(シーボルトの娘)が11歳で峠を越え卯之町へ来たといわれていますが、この時は文さんの祖父。橘倉治さん夫婦が、茶の接待などをされたようで、倉治郎さんの子嶋吉さんが10歳だった安政元年(1854)にイネが再度卯之町へ。
峠から*m程下った所にある通称 「文さん井戸」 では今も水が出ていて、昔からの大切な生活用水で、 茶屋のお茶もこの水を使ったようです。大正6年(1917) 嶋吉さんが亡くなり、間もなく文助さんは峠から人里へ下りたそうです。笠置文化保存会」とあった。
文さん井戸にも行ってみようと思うのだが案内もなく止めにした。御休み処の直ぐ先の山側に、「笠置峠海抜四〇〇M」と書かれた自然石が立っていた。
笠置峠古道のしおり
峠平坦部に「笠置峠古道のしおり」と記された大きな説明文が立ち、「置峠の山頂にある笠置峠古墳(標高四百十二m)は、一九九七年から二〇〇四年にかけて行われた発掘調査で、四世紀前後に築造された西南四国最古の前方後円墳(全長四十五m)と確認され、地元の人々から注目を浴びました。古墳の石室には、いわゆる青石(八幡浜産か)の蓋石が設置されていたと考えられており、峠越えの道は「古墳の道」として拓かれたとしても不思議ではありません。
それから長い歴史を庶民の生活の道として、あるいは権力者たちの往来の道として今日まであり続けたのです。
特に国事多難な幕末期には、オランダ おいねこと楠本イネや二宮敬作、そして高野長英・村田蔵六(大村益次郎)たちも幾度となくこの道を通ったことでしょう。
その昔、峠には追いはぎや物の怪が出ると恐れられていました。釜倉の和気吉蔵氏が旅の安全を願って寛政六(一七九四)年にお地蔵さまを祀りました。このお地蔵さまの前で毎年、村中の人が集り奉納相撲が行われ、とても賑やかだったそうです。
お地蔵さまの近くには大きな松があり「笠置の松」といって地元の人々に親しまれ「双岩八景」のひとつに数えられ、日本三大薬師のひとつ山田薬師の縁日には多くの参拝者で賑わいました。
大正初期頃には二軒の茶店があり、お茶のほか駄菓子や雑などが売られていました。牛馬を連れて登る里八や行商人、旅人やお遍路さんなど、時に険しく、時に親しまれたこの笠置峠を多くの人々が行き交いました。
この一千年をはるかに超える古道に、じっと耳をすまし、遠い古からの先人たちが築きあげてきた文化と歴史の足音を聴こうではありませんか」と記され、また説明板の挿絵には「一九四〇年代の笠置峠頂上風景 双岩駅辺からも遠くその姿を望むことが出来たというこの大松は、あたかも大蛇のように大きくうねったその根の上から、横に迫り出した大きな枝に手をかけ登ることが出来たと伝えられています」とのキャプションも記されていた。
峠の地蔵
「笠置峠古道のしおり」の先に地蔵尊がある。「調査報告書」には
「(正面) 大乗妙典石書 福壽延長 菩提圓満
(右面) (欠損)珪 現雲松 大年 現禅興 師瑞謹書寫之 これより 南あげいし江二り十丁
(左面) 是より北いづし江五り同やはたはま江二里
化縁主 釜倉 和氣吉蔵 寛政六甲寅三月吉辰
寛政六年(一七九四)といえば今から二〇〇年以上も前の事だが、釜倉村の和氣吉蔵が、村内の安泰と峠を通行する旅人の安全を祈願して建立したもので、その折に村人が一字一石経を記した石を、地蔵の下に埋めたと伝えられている。
地蔵の顔面が割られたように欠損しているのが異様である。
台座が標石となっている
地蔵顔面が欠損している
その理由として、この地蔵に皮膚病の治癒を祈願する者が、顔面を割って持ち帰ったという説があるが、疑わしい。地蔵の顔面だけでなく、台座も右隅を中心に欠損しており、自然災害等により左から物理的な力が加わり破壊されたか、あるいは廃仏毀釈の際に人為的に壊されたという可能性も考えられるであろう。
また、地蔵には「あげいし」(明石寺)、「いづし」 (金山出石寺)、「やはたはま」への道程が刻まれているが、かな文字を多用し書体も異なるうえ、文字の彫りが甘い。このことから、地蔵建立の際にはなかった道程に関する刻銘が、後年になって追加して刻まれた可能性がある。
地元では、笠置峠はかつて「カサギント」と呼ばれ、高齢の住民には今でもこの呼び方が通用する。 峠にはもののけ、首なし馬や追いはぎが出るという伝説があって、地元の住民も遅い時間には通らないようにしていたらしい。 
また、峠の地蔵の祭礼には相撲大会が行われ、露店も出て大勢の人で賑わったという。 山田薬師の縁日の時にも人通りが多く、団子やアイスクリーム、ラムネなどを売る露店が出たそうだが、戦前で途絶えたようである」とあった。

台座に
笠置峠古墳
峠の地蔵から、尾根沿いの林道を400メートルほど行くと、笠置峠古墳がある。途中「笠置峠古墳 左順路 直進里山ゾーン」とある。フラットな順路を進んだが、古墳に行くには少し上り気味の直進ルートのほうがいいかもしれない。
「調査報告書」には「笠置峠古墳は全長44メートル、 二段築成の前方後円墳で、平面形はくびれがほとんどなく、前方部が末端へ行くほどすぼまる。墳丘は岩盤の上に盛土して築かれており、後円部や前方部の一部に、当地産のチャート製の葺石が巡らされていた。
後円部墳頂からは、長さ4.6メートルの竪穴式石標が検出され、壺や高坏などの土器、土製模造品、折り曲げ鉄剣や袋状鉄斧、鍬鋤先などの鉄製品が出土し、これらの成果より、古墳時代前期前半の築造と考えられている。 古墳からは、宇和盆地のみならず、 八幡浜、宇和海、佐田岬半島、好天時は九州まで望むことができる」と。

笠置峠より釜倉の下山口へ

地蔵尊裏手より下山開始;午前10時23分
地蔵の裏手より下る道がある
笠置峠から下りの道を探す。と、地蔵尊裏手に下りの道がある。「調査報告書」には「少し下ると、既に廃道となっている道が左へ分岐している。
尾根部分の石室状に岩を組んだ祠に、石像二体が祀られており、上に生育する木の根が成長して石室が崩壊しかけている。
ここは地元住民から「牛神様」と呼ばれており、向かって右に大日如来、左に馬頭観音の石像が安置されている。この地域では、大日如来は牛を、馬頭観音は馬を守護するとされ、二体一対で祀られることが多い。ここは往還の休憩場所に適した地形であり、牛馬を用いて運送を行う人々や、博労など街道交通に関わる人々の信仰対象であったと考えられる」とあるが、見つけることはできなかった。

「笠木峠古道」標識;午前10時32分
「笠置峠古道」の標資の立つ林道にでる
林道をクロスし、木のベンチ谷側の道を下る
よく踏まれた道を10分弱下ると「笠木峠古道」の標識の立つ林道に出る。ここでは注意が必要。「笠木峠古道」より左へと下る道あるが、下山道は「笠木峠古道」の標識の前にある木のベンチの裏から下る道。私もよさげな下山道と左手へと下りていったのだが、あらぬ方向へすすんでいることをGPSで確認し「笠木峠古道」標識地点まで戻り、ベンチ裏より下る道を見つけオンコースであろうと国土地理院地図に描かれる北へと下る道へと入る。

笠置峠古道・籠立場跡案内板;午前10時48分
「調査報告書」に、「原則として尾根上を通り勾配の大きい部分のみ切り返すという、山間部における古い往還の形態を保っている」といったルートを下ること15分ほど、よく踏まれた道の左手に「笠置峠古道」、右手に「籠立場跡」の木の標識が立つ。
特に案内はないが、籠立場は大名行列の際に大名が籠から下りて休憩した場所として知られる。宇和島藩の参勤交代の折、殿さまが休憩したところだろうか。

笠置峠越標識;午前10時52分
籠立場案内から数分、舗装された道筋に出る。前面が開け、里に近づいたように思う。舗装された道への下り口には結構新しい「笠置峠越」標識が立つ。

舗装れた道に出ると笠置峠越の標識
ミカン畑に沿って北に下ること
ここも注意が必要。道なりに左へと下る道を取ることなく、ミカン畑の東側を北へと下りる道を取ること。 ここもお気楽に左へと下って行ったが、あらに方向へ向かっていることをGPSで確認し標識地点まで戻り、地理院図に実線で描かれる北へと向かう道を前面が開けた遠景を楽しみながら下りていった。

お堂;午前11時
少し下ると道の左手にお堂が建つ。結構古さびているのだが、奥に祀られる仏様は結構立派であったような風情。「調査報告書」には記述がなくお堂の詳細不明。
そのすぐ先、石畳と言われればそれらしき箇所があった(午前11時2分)。確信はない。
少し下ると民家が見えて来た(午前11時4分)




笠置峠越標識;午前11時5分
笠置峠越標識。舗装道をクロスし坂を下る
地理院地図に描かれる尾根筋を5分ほど下ると舗装された道に出る。そこには「笠置峠越」の標識が立つ。街道は道を横切りコンクリート舗装された細い道を下りる。





三叉路に標石;午前11時9分
数分下ると舗装道路に出る。そこに標石が立ち、「調査報告書」には「すぐに鳥越峠方面からの道と合流する三叉路となっており道標が立っている。正面に「右山田やくし宇之町明石寺」、裏面に 「大正十五年」右面に「和家千代松 福井寅治 木□□□」と刻銘されている」とある。





釜倉出店の石造物群;午前11時11分
三叉路の標石から左に舗装された道を下ると直ぐ幾多の石造物が並ぶ。「調査報告書」には「この辺りは釜倉地区のなかでも出店という小字で、往還の往来が盛んな頃には、本当に宿屋や雑貨屋などの店舗が数軒あったという。
数10メートル下った所には、一群の石造物が集まっている。 まず目につく面長な地蔵は、「右辺んろみち左ひがしたゞみち 施主當村惣兵衛」 と記され、文化9年(1812)の銘がある。地蔵と道標を兼ねている石像で、 道程に関する刻銘はかな文字を多用し書体も異なっており、後世 (近代)に刻まれた可能性が高い。 その隣の墓碑は「浄身禅定門日向国奈迦郡(那珂郡) 上方村 庄右ヱ門」と刻まれ、文政13年(1830の銘があり、遍路墓と伝えられる。
さらに舟形の地蔵立像を挟んで、ここにも大日如来と馬頭観音の石像が対になって祀られており、二体のいずれにも慶応3年(1867) の刻銘がある。いずれの前にも賽銭の小銭と青い花柴が絶やさず供えられ、地元の人々に大切にされていることが分かる。
当日も地元の方が仏様のお掃除をしておられた。
「たゞみち」
鳥越峠を越える「八幡浜新道(現在の県道262号)」を東進し国道56号に交差した北に多田地区がある。

釜倉出店の標石
石造物の傍に標石が立つ。「右三瓶町 三島村 三木生村」「左山田村 笠置 宇和町」らしき文字が読める。建立は「大正十三年」と刻まれる。


笠置峠までの上りでおよそ45分。下りでおよそ1時間10分ほどかかったことになる。笠置峠までの西予市域は道案内がしっかり整備されているが、峠を越えた八幡浜市域には時に「笠置峠越古道」の標識は立つが、道案内は無く二度ほどあら方向に進んでしまった。GPSがあるからいいものの、GPS無しで下山するのは道に迷う(といっても林道だが)ようにも思う。要所要所に道案内があればいいかと。
これで今回のメモはお終い。次回は笠置峠下り口から八幡浜を繋ぐ。