土曜日, 9月 03, 2005

仙川散歩 そのⅠ; 源流点から武蔵境へ

川を歩こう、とするとき、源流点がいかにも気になる。その理由はよくわからない。が、中国地方や九州では川 = カワ、といえば井戸、というか、水源のことを指す。伊豆七島でも共同井戸のことを、「カァ」と言う(『川の文化誌』北見俊夫:日本書籍)。川 = 源、といったことが刷り込まれているのだろう、か。ともあれ、仙川の源流点に向かう。
仙川の源流点は東京都小金井市・東京学芸大学の近く。仙川に限らず、東京の川の源流点は、この付近に多い。ここから1キロ弱、嘉悦女子短期大学の構内には石神井川の源流点もある。仙川は多摩川水系、石神井川は荒川水系である。多摩川水系には仙川のほか野川が知られる。荒川水系は、石神井川のほか、東久留米の湧水に源を発する黒目川・落合川などがある
水系の境となるところを分水界、と言う。多くは尾根道がそれにあたるが、武蔵野台地のこのあたりでは、玉川上水の流路が分水界であろうかとも思える。実際、仙川の源流点・上流部の流れのすぐ北、緩やかな坂の上に玉川上水の流路がある。石神井川の源流点はその「尾根道」の向こうでもある。
玉川上水は多摩川・荒川の両水系の間を東流する。分水界の尾根道を辿りながら、四谷大木戸へと開削していったのであろう。玉川上水とつかず離れず、仙川上流部の散歩を始めることとする。




本日のコース: サレジオ小中学校 >>仙川開渠最上流部> 山王稲穂神社 > 築樋 >仙川・小金井街道 >三光院 >大尽の坂 >浴恩館公園 > 東大通り>市杵島神社>梶野大通り> 桜堤公園 >くぬぎ橋通り・仙川 > 亜細亜大学・仙川 >武蔵境通り・仙川 >仙川開渠に >JR武蔵境駅

サレジオ小中学校
JR 武蔵小金井駅で下車。成り行きで歩き、東京学芸大学を目指す。仙川の源流点は、大学の北隣、サレジオ小中学校内の池、といった記事を見たことがある。それをたよりにサレジオ小中学校に。構内には入れないだろう、とは思っていたのだが、開放されていた。感謝。広々と、自然豊かな構内を歩く。結構広い構内を巡ったが池らしきものは、見当たらず。学校を離れ、新小金井街道沿いの「仙川上流端」まで戻る。



新小金井街道・「仙川上流端」
新小金井街道・学芸大角交差点のすぐ北に「仙川上流端」の案内板。開渠部には水の流れはなにも、ない。秋の頃でもあり、落ち葉が重なる。新小金井街道下からは暗渠部となっている。サレジオ小中学校に一直線の道があるが、それが昔の川筋であったのだろう、か。湧水も枯れ、川筋も埋められたので、あろう。
小金井には湧水が多かった、という。この新小金井街道の「小金井」も、「黄金のようにすばらしい水が湧き出るところ」、という説もある。また、このあたりの地名・貫井にしても同じ。貫井って練馬にもあるが、「温かい(ぬくい)水が湧き出ることろ」といった意味のようで、ある。先日歩いた貫井神社、小金井の貫井南にあるこの神社では、崖下(はけ)から豊かな地下水が湧き出ていた。

小金井公務員住宅
学芸大角交差点を東に折れ、北大通りに。最初の信号を北に折れ、仙川脇に。周囲は小金井公務員住宅。川筋に沿って道が続く。とはいっても、水路の周囲はフェンスで囲まれ、中に入ることはできない。水の流れはなにも、無い。川筋の両側には桜の並木が続く。小金井公務員住宅の東に本町住宅。どちらも公務員宿舎である。ようだ。これらの公務員住宅は、作られた当時、大規模団地のモデルとして、大いに人気があった、と言う。

山王稲穂神社

本町住宅を抜けると道のすぐ南に「山王稲穂神社」。承応3年(1654年)、小金井新田開発の守護のため、麹町山王宮(赤坂の日枝神社)より勧請されたもの。稲穂神社、という名前は明治になってつけられたのだろうが、この「稲穂」、最近あることで有名になった。早稲田実業の夏の甲子園優勝が、それ。早稲田実業の校章は「稲穂」。その縁もあり、この山王稲穂神社の宮司さんが地鎮祭を行った。またまた、その縁もあり、甲子園での活躍を祈って、この神社の「お守り」をナインに贈る。で、優勝。ハンカチ王子こと、斉藤投手も身につけていたという、神社の「幸福守り」、大願成就のお守りとして少々有名になった、とか。

「築樋(つきどい)」
神社を離れる。神社のすぐ北で、仙川は南北に走る堤の下をくぐる。仙川が交差する堤上に「築樋(つきどい)」の案内板。築樋(つきどい):「築樋(つきどい)は、赤土を盛ってつき固め、土手を築いて、そこを用水路としたもの。武蔵野台地では水車用水や、起伏の大きい場所に水を通すときに用いられた土木工法。元禄9年(1696年)、飲用水として玉川上水を分水するために造られたもの。長さ104m、高さ5.4mあったと記録されている。当時は仙川のうえを一部掛樋で渡していた」、と。

小金井用水跡を歩く

南北に続く堤は、玉川上水から分岐された「小金井用水」の水路であった。いつだったか玉川上水を歩いたときにメモした、小金井分水の案内板のまとめ:「承応3年(1654年)に玉川上水が開設。付近の村々は呑用水、田用水として分水を幕府に願い出る。小金井村分水は元禄年間(1688 - 1704年)に許可が出る。水路は山王窪(稲穂神社北側)の築樋を通り、小金井村に分水された。明治3年(1870年)、玉川上水の通船事業(明治5年廃止)に支障があるとの理由で、旧分水樋口や、井筋が廃止・統合される。新たに砂川用水が延長され、小金井村分水はこの場で分水されるようになった」、と。
玉川上水の通船事業というのは、玉川上水を船運水路として活用する事業。江戸期から何度も意申請が行われたが実現したのは明治になってから。とはいうものの、上水が汚染される、ということで、2年程度で廃止となった。
小金井分水はこの通船事業が開始されるとき、玉川上水からの分水が止められ、砂川用水から分水されることになる。砂川用水は西武立川駅の東、東文化通りと玉川上水が交差するところで、玉川上水から分岐。五日市街道に沿って南東に下り、小平の上水本町で玉川上水と接近。このあたりでは玉川上水と平行で東流していた。
玉川上水の少し南に切れ切れに水路跡がある。砂川用水の跡だろう。分水は飲料水、灌漑、水車等に利用され、新田開発に大きな役割を果たしたが、昭和40年代になり都市化にともないその役割を終えた。

小金井街道・「大松木之下の稲荷神社」
仙川をまたぐ堤を北に進む。小金井用水跡はちょっとした遊歩道として整備されている。少し北に進むと、道脇に水路が続いている。水は何も、無い。更に北に進み、再び仙川に引き返すべく、成り行きで東に折れる。
すこし進むと小金井一中。学校の南端を進み、上水公園を越え、小金井養護学校のあたりから南に下る。道なりに進み仙川筋に戻る。
本町4丁目を仙川に沿って東に進む。水はなにも、無い。水路は北大通りと合流するあたりで暗渠となる。東に進むと小金井街道。本町2丁目交差点。交差点東詰めに「大松木之下の稲荷神社」。現在は暗渠となっているが、江戸時代の末頃、仙川の水路の縁にあたるこの稲荷神社には、御神木の松の大木があった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

三光院
交差点を東に進む。すぐに仙川の開渠部にあたる。今まで東に進んできた水路は、ここから北に向かう。このあたりから水路脇に道はなくなる。つかず離れずの川筋歩きとなる。石神井川歩きでの右往左往の戸惑いを思い出す。同じことになるのであろう、か。水は相変わらずなにも、無い。
本町3丁目、川の少し東に三光院。境内に「山岡鉄舟先生之碑」がある、と言う。鉄舟って、江戸城無血開城の立役者。勝海舟、高橋泥舟とともに、幕末の「三舟」と称される人物。剣・禅・書の達人といわれるが、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と言わせしめた人物。徳川慶喜に仕え、明治には明治天皇の教育係りをつとめあげたこともうなずける。
門は閉じられており、境内に入ることはできなかった。が、外から眺めても、所謂よくある「お寺」って感じがしない。なんとなく佇まいが気になる。すこしチェック(WEBサイト「坂東千年大国」より):この三光院は鉄舟が晩年の住処として買い求めた場所である、と言う。が、結局この地には尼寺が建てられることになる。昭和初期のことである。台東区谷中にある鉄舟開基の寺・全生庵ゆかりの女子が資財を投じて建てた、と言う。この女子、鉄道唱歌「汽笛一声新橋を」を冊子にして売り出して大成功を収めた、とか。三光院の初代住職は京都嵐山の曇華院から招かれた。曇華院は京都・嵯峨野にある尼門跡寺院(女宮様のお住まいの寺)。三光院では曇華院の流れを受けた竹之御所流精進料理がいただける、のはこういった経緯による。なんとなくの雰囲気を感じたのは、精進料理をもてなす尼寺、といったこともその因であったの、かも。
鉄舟が住処としてこの地を買い求めることになるのは、鉄舟と親交のあった侠客・小金井小次郎の口利きによる、と言う。幕府の重臣と侠客、このふたりが交わるまでには小金井小次郎の結構面白いストーリーがあった。前述、「坂東千年王国」からまとめる:小金井小次郎。三多摩から相模にかけての大侠客。元は小田原北条の武家の出。江戸時代、この地に移り関野新田を開墾し、名主となった関家の6代目。が、浪曲・講談ではないけれど、ガキの頃からばくち三昧。十代の頃には勘当され、無宿人に。草鞋を脱いだところが府中の大親分万吉一家。一宿一飯の恩義であろうが、「出入り」の末、凶状持ちに。江戸を逃れるも結局はお縄。石川島の人足寄場に送られる。二十歳過ぎのこと、と言う。
石川島の人足寄場で出会った人物が鉄舟との縁となる。新門辰五郎がそれ。辰五郎は大名火消しとの出入りでこの獄舎に送られていた。ここで二人は兄弟分となった。その後二人は石川島の人足寄場に類を及ぼすような大火に際し大活躍。その功績を認められ、晴れて自由の身となる。新門辰五郎はその後一橋慶喜の警護役として活躍。これまた有名な話。一方小次郎は府中の万吉の跡目をついで子分数千人という大親分となる。
十数年が過ぎる。小次郎親分、再びお縄に。積年の賭博の罪により三宅島に島流し。三十代も後半の頃、と言う。島から戻ったのは幕府の大政奉還の特赦。島にいた時には貯水槽をつくったりと、住民に感謝された、とか。
で、鉄舟と小次郎のかかわりは、新門辰五郎との両者の縁による。小次郎>辰五郎<慶喜<鉄舟、といった関連であろう。こういった縁で小次郎と知り合った鉄舟が、共にこの地を散策した、という。で、小次郎の口利きもあり、この地を買い求めるに至った経緯は、こういうことである。何気なく立ち寄ったお寺から、結構な時空散歩が楽しめることになった。先に進む。

大尽の坂
川筋に戻る。川の向こうに「大尽の坂」。名前に惹かれて北に進んだが、なんということのいない坂道、というか緩やかな上り。昔、この坂の西側、仙川の北に「お大尽 = 大金持ち」がいた、と言う。鴨下荘左衛門がそれ。醤油醸造業を営んで財を成した、とか。ちなみに、先ほどの侠客・小金井小次郎であるが、生家関家は小金井村鴨下の名主。先祖は北条の過家臣と書いたが、正確には鴨下出雲。鴨下家ゆかりの人物がこの地で関家を起こしたとき、昔の家名を地名としたのだろう、か。ともあれ、鴨下、ってこの地の有力者であったのだろう。

浴恩館公
仙川に戻る。川筋に人がひとり通れるかどうか、といった細路が続く。善福寺川筋もこういった、細路があったなあ、などと思い出しながら先に進む。緑中央通りと交差。川筋に沿ってはもう進めない。法政大学に向かって北に進む。明治の頃は法政大学のある一帯は大きな窪地。亀の子の形をしていたため亀の子久保地と呼ばれた田圃であった。
成り行きで東に折れ、浴恩館公園に。アカマツ、ナラ、ツツジなどの古木の茂る園内には昭和初期の家屋が残る。昭和5年、青年団指導者講習所として使われていた、という。その所長が下村湖人。『次郎物語』の舞台ともなっている。「次郎物語」を執筆した「空林荘」も残っている。
このあたり、緑町一帯は浴恩館を中心に雑木林や畑が残る。江戸時代には下山谷と呼ばれ、仙川の谷筋に新田が開かれた。緑町という名前は、緑豊かな地勢をもって命名された、と。

市杵島神社
浴恩館公園を離れ仙川筋に戻る。相変わらず水は何も、無い。川筋に沿って歩く道もない。仙川は、ここからすこし東に進み、東大通り手前で南に向かって流路を変える。川筋に沿って歩けるわけではないので、成り行きで東に進む。東大通り手前、小金井北高のテニスコールの東に沿って川筋が続く。水はなにも、ない。
東大通りと交差した川筋は、まっすぐ東に進み梶野通りへと進む。川筋には道はない。川筋の少し北に「市杵島神社」。細長い参道を進むと社があった。梶野弁天とも呼ばれている。
弁天様ってインド・ガンジス川市杵島神社の神。芸術、音楽、美の神様。川の恵みから転じて農業、富の神、ともなる。かくのごとき御利益多きインドの神様は、仏教とともに日本にもたらされ美貌の女神・市杵島姫命と習合する。市杵島神社が梶野弁天とよばれる所以である。市杵島姫命は北九州・宗像の海の民が祀った宗像三神のひとつ。古来、航海の安全を守る神として、海の民の間に広まる。瀬戸内の厳島神社もその名前は、「市杵島」に由来する。(『知っておきたい日本の神様』武光誠:角川文庫より)

梶野新田跡
市杵島神社を離れ、東に進む。梶野通りに。東大通りから東進した仙川は、東京電機大学中学・高校あたりで梶野通りに交差。流れを北に向ける。梶野通りに沿って走る水路を確認。水は、ない。東京電機大学中学・高校の北で仙川は梶野通りから離れ、桜堤2丁目にある上水南公園に向かって心もち斜めに上る。
梶野通り脇にあった案内によれば、このあたりに築樋があるとのことだが、見つからなかった。「梶野分水築樋」とのこと。このあたりの梶野新田の灌漑のため、玉川上水から分水されたもの。山王窪の築樋と同じく、仙川の谷と立体交差する築樋(長さ230m・高さ4m)が造らた、ようだ。この梶野分水は、明治三年(1870年)の玉川上水通舟事業開始に際し、砂川用水とつながり、下流は深大寺村(現調布市)まで伸びた、という。深大寺用水とも呼ばれた。

桜堤公園
上水南公園から仙川は東にまっすぐ進む。水はなにも、ない。周囲には桜並木が続く。川筋に沿って「くぬぎ橋通り」に。通りの手前に桜堤公園。仙川は公園の中に向かって南に下る。突然の水音。池から水が仙川に注がれる。この池、団地内に降った雨水を地下に貯め、ポンプアップして池の水とする。で、池に水があふれると、仙川に流している、と言う。人工とはいいながら、仙川で水をみたのはこれがはじめて。

「くぬぎ橋通り」
「くぬぎ橋通り」で交差した仙川は暗渠となる。川筋には道もないので、再び開渠となる亜細亜大学の北に向かって進む。くぬぎ通りを少し下り、東に折れ川筋をチェック。水はすでになくなって、いた。一瞬の「水辺」であった。
川に沿って道を下り、亜細亜大学のキャンパス内に。川筋は左に折れ、キャンパスを横切る。川筋に道はなく、なりゆきで南にくだる、のみ。アジア大学通りに交差。交差点を東に折れる。ここから武蔵境通りまで、川筋に道はない。

「武蔵境通り」
泣き別れでアジア大学通りを武蔵境通りまで進み、交差点を北に折れ、武蔵境通りと交差する仙川を確認。仙川は武蔵境通りからまたまた暗渠となり、開渠となるのは、アジア大学通りを少し東にいったところ。開渠部を確認し、仙川上流部散歩終える。水も無く、「川とは名のみの」といった風情ではあったが、小金井小次郎や分水築樋など、思いがけない時空散歩は楽しめた。

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