で、直角の流路。これは「自然」では稀な流路。河川改修が施されたのであろう。直角の流路のが繰り返される連雀町のあたりは明暦の大火のあと、焼け出された神田連雀町の人々によって開墾されたところである。直角の流路が当時の開墾地の反映なのか、時代がずっと下ってのものなのか分からないが、基本的には人の手がかかったものであるのは間違いない。人見街道より上流は平成4年までに河川改修を終えたというので、ひょっとすると、遠い昔のことではないかもしれない。
連雀町の開墾は明暦以降というから17世紀の後半のことである。玉川上水からの分水によるところが多かった、と。この近辺の新田開発の経緯をメモする:三鷹市の資料によれば、牟礼、上・中仙川村、そして大沢村は古くからあった、よう。牟礼は井の頭の南。仙川は現在の中原・新川あたりだろうか。大沢は国立天文台のあたりに地名が残る。その後、1690年頃までには、下・上連尺村、北野村、野川村、野崎村が開かれる。北野は現在も地名が残る。牟礼と中央道に囲まれた一帯、か。野川村、野崎村は現在の地名には無いが、位置から見て、連雀町と仲原町に囲まれた一帯のように思える。杏林大学の近辺かもしれない。玉川上水・街道の開発によるところが多い、と言う。これらの村々は古新田と呼ばれた。で、武蔵野新田と呼ばれる、井口新田、野崎新田、深大寺新田、大沢新田が開かれたのは1725年より後のことになる。幕府の財政立て直しの施策として八代将軍吉宗が各地で新田開発をおこなったが、その一環であろう。
直角の流路 > 人工 > 新田開発、といった連想ゲームで話が少々広がってきた。ともあれ、散歩に出かける。< <
本日のコース: JR線・武蔵境駅 > 水源の森 > 禅林寺 > 野川宿橋 > 仙川公園 > 勝淵神社と丸池公園 > 甲州街道・仙川崖線緑地 > 京王線・仙川駅
中央線・武蔵境駅
武蔵境って、このメモするまで、都心と郊外の「境」といったことであろう、と思っていた。がどうも大きな誤りのよう。名前の由来は、このあたりに「境新田」があった、ため。現在の境とか桜堤といった一帯だろう。で、「境新田」の由来は、出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏がご用屋敷のあった場所を幕府より貰い受け、新田開発につとめた、ため、と言う。
武蔵野市境南町から三鷹市上連雀に
水源の森
上連雀5丁目あたりに、「水源の森」。森といっても森があるわけでもなく、雨水を浸透させ地下に貯め、湧水のように仙川に流し込む人工的な水の循環施設。ちょっとした公園、といったもの。仙川を水の流れる川にするための試み。そういえば、武蔵境より先の、仙川の源流からの水などほとんど流れていなかったよう。また、水源の森のあたりにも水はあまりなかったようだが???
禅林寺
黄檗宗、いかにも中国風の山門をもつ禅林寺には太宰治とか森鴎外のお墓がある。太宰は森鴎外を尊敬していたとのこと。「花吹雪」のなかでは「この寺には、森鴎外の墓がある。・・・墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と。玉川上水で入水自殺をした太宰治は森鴎外のお墓の斜め前で永久 の眠りについている。
野川宿橋
仙川公園
野川宿橋から川幅も急に大きくなる。また、橋下から勢いよく湧き出している。湧水?ではなく、ちょっと下った新川4丁目あたりにある樋口取水場からくみ上げた湧水が、ポンプでこの橋まで送られてきているとのこと。東八道路にかかる新川大橋をこえ、遊歩道に。川の両側に緑の公園。仙川公園。公園の名を小川が流れている。もちろん、人工のせせらき・小川だし、樋口取水場から送られてきた人工の湧水だろう。仙川遊歩道が快い。
勝淵神社と丸池公園
ところでこの「明神さま」っていったい何だ? どうも特定の神さまではないようだが? 調べてみた。広辞苑によると、「神を尊んでいう称号」「名神(みょうしん)の転」とあり、「名神」は「延喜式に定められた社格。名神祭にあずかる神々で、官国幣を奉られる大社から、年代も古く由緒も正しく、崇敬の 顕著な神々を選んだもの」とあった。つまり、古くから祀られた由緒正しい神や神社のことを、一般的に「明神(めいしん)様」と呼ぶのだそうだ。ただ、明神(みょうじん)さまが普及したのは神仏習合・本地垂迹とも呼ばれた仏教普及策が広がってからではある。
勝淵神社 の東はちょっとした丘。丘を散歩し下に下りる。南に丸池公園。ここが遊水地「丸池」があったところ。昔はこのあたりを「千釜」と呼ばれていた。釜とは湧水源のこと。釜の形のように多くの湧水噴出し口があったのだろう。一時埋め立てられたが、今は池のある公園となって往時の姿の一部を再現した。ちなみに、こ の「千釜」がなまったものが仙川の名前の由来、とか。
甲州街道・仙川崖線緑地
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