火曜日, 2月 07, 2006

江戸の塩の道散歩 そのⅠ;日本橋川を隅田川まで


東京の下町低地,広義での利根川の河口部=沖積地、の散歩には今ひとつ意欲が湧かなかった。理由はひとつだけ。地形のうねりが感じらづないから。ゼロメートル地帯というか、マイナス3メートルのところもある、という。凸凹のない地形散歩ってポイントが絞れない。とはいうものの、深川不動とか富岡八幡に行ったり、清澄公園とか深川江戸資料館に行ったり、吉良邸とか回向院、江戸東京博物館に行ったり、錦糸町で飲み会の後夜中に新宿まで歩いたりはしていた。が、今ひとつこれといった散歩ターゲットがみつからない。はてさて、と地図を眺めていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




と、隅田川から荒川に繋がる川筋がある。小名木川という。名前が面白そう。一体どんな由来のある川筋なのだろう。調べてみた。江戸開幕の折、千葉・行徳の塩を江戸に運ぶため開かれた堀・運河である。江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる塩の道。散歩のストーリーとしては美しい。ということで、道三堀・日本橋川から行徳までの川筋散歩に向うことにした。(火曜日, 2月 07, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR水道橋駅>神田川と日本橋川の分岐点>三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋>南堀留橋>俎橋>宝田橋>雉子橋>一ツ橋>錦橋>神田橋・日比谷通り交差>鎌倉橋>常盤橋>新常盤橋>一石橋>西河岸橋呉服橋>日本橋>江戸橋>鎧橋>茅場橋>豊海橋>隅田川>隅田川大橋西詰め>箱崎の東京シティエアーターミナル>半蔵門線・水天宮前

道三堀
道三堀。家康が城普請よりなにより、先ず最初に手がけたのはこの堀の開削工事。未だ天下人とはなっていない時期なので、天下に「お手伝い」の号令を出すこともできず、家康の家臣のみて工事を始めた。慣れぬ土木仕事に家康家臣は苦労した、とか。流路は和田倉門・辰ノ口、現在のパレスホテルのあたりから始まり大手町交差点を経て呉服橋門あたりまで。およそ1キロ程度の運河。後に日本橋川に合流することになる。
名前は、この運河の近くに徳川家の典医・曲直瀬道三邸があったから。とはいうものの現在は埋め立てられ跡形もない。であれば、日本橋川との合流点・呉服橋あたりからはじめるべし。とは思いながらも、どうせのことなら、日本橋川のスタート地点から歩を進めることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

神田川と日本橋川の分岐・三崎橋


日本橋川は中世の平川、もともとの神田川のルートにあたる。つまりは飯田橋・水道橋のあたりから日比谷入江に注ぐ川筋である。現在の神田川は1620年頃の第三次天下普請により、御茶ノ水の台地を切り崩し直接隅田川に流れ込む川筋となっている。理由は、江戸のお城への洪水を避けるため。
日本橋川と神田川の分岐点に歩を進める。JR総武線・水道橋で下車。少し飯田橋に戻ると神田川と日本橋川の分岐・三崎橋。ちょっと昔まで、このあたりにJRの貨物駅があったような気がするのだが、今は都市開発ですっかり様変わりである。

堀留橋

目白通りと水道橋西通りの間を流れる川筋に沿って歩く。三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋で専大通りと交差。堀留とは、川を上流から埋め立て下流部分を水路として残したものを言う。江戸のお城や日本橋への洪水を避けるため、御茶ノ水の台地を切り崩した瀬変えにともない、三崎町から九段までを埋め立てた。で、この堀留が海浜部から内地に最も入り込んだ水路。この湊町を基点に九段の台地上の旗本屋敷へ生活物資を送り込んだわけだ。

雉子橋
南堀留橋>俎橋>宝田橋>共立女子大脇の雉子橋と進む。江戸時代、唐国からの使者の接待に雉子にまさるものなし、ということで雉子を集めた小屋をつくる。その小屋近くにあった橋であったので、雉子橋と。
毎日新聞社と丸紅の脇に一ツ橋。家康入府の折り、大きな丸太一本の橋があったので一ツ橋。後に知恵伊豆こと松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋と呼ばれたこともある、という。平川門に通じている。平川門は「不浄の門」とも呼ばれ、江戸城内の罪人などの運び出すときに使われた、と。刃傷事件を起こした浅野内匠頭もこの門から城外に出たと、言う。また、通常は大奥の通用門であった、とか。

神田橋
錦橋から神田橋に。土井大炊守利勝の屋敷があったので大炊殿橋と呼ばれたことも。神田橋門は将軍菩提寺の上野寛永寺への参詣の道筋でもあり、警護はことのほか厳しかった、と。現在は日比谷通り。

鎌倉橋
外堀通りとの交差点・鎌倉橋に。家康入府の折、この河岸に建築資材である木材・石材が相模の国鎌倉から数多く運び込まれたのが名前の由来。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸』は今は高速道路に覆われている。






常磐橋

JR京浜東北線を越えれば常盤橋。三代将軍家光の頃、大橋とも浅草口橋とも呼ばれていた。しかしその名前、よろしくない、とのことで町年寄・奈良屋市右衛門が改名案を考えるように命じられた。で、家に寄宿する浪人に相談。金葉集、太夫典侍の「色かへぬ松によそへて東路の常盤の橋にかかる藤波」、これって歌の心を松平にかけて、おめでたい名である、ということで橋の名に。
江戸城外郭の正面にあたり、常盤橋御門と呼ばれる重要な門があった。橋の傍にある公園には江戸城の威容を今に伝える4mの石塁が残っている。渋沢栄一の銅像も。

竜閑橋交差点
鎌倉橋から常盤橋に進む途中、JR京浜東北線の手前で道が二つに分かれる。その分岐点の名前が竜閑橋。JRを越えるところに今川橋という交差点もある。今は川筋とてないが、往古竜閑川が神田川へと流れていた名残だろう。

一石橋
新常盤橋を越え一石橋に。橋の南北に商人・後藤家が二軒。五斗(ごとう)+五斗=一石が名前の由来。洒落ている。西詰めに「迷い子の志るべ」。江戸時代の迷い子探しの伝言板。当時このあたり、人で賑わっていたのだろう。

西河岸橋
西河岸橋。川や海に面した町屋敷・町人の「荷揚げ」の地を河岸(かし)という。で、荷揚げだけに留まらず市が立つのは自然の成り行き。水路に沿って多くの河岸ができることになる。地名を冠したもの、扱う商品を冠したものなどさまざま。西河岸周辺だけでも魚河岸、裏河岸、米河岸、四日市河岸(木更津河岸)など。行き先の地名を冠した行徳河岸も。行徳からの船便の到着する場所であったのだろう。江戸には65もの河岸があった、とか。ちなみに同じ荷揚げ場所でも武家の場合は「物揚場」と呼ばれた。

鎧橋
呉服橋から日本橋へと進む。で、江戸橋を越え、鎧橋に。明治5年に架橋。兜町(かぶと)に鎧橋(よろい)って、出来過ぎ。米や油の取 引所、銀行や株式取引所でにぎわっていた、とのこと。当時の風景を谷崎潤一郎は「兜橋の欄干に顔を押し付けて水の流れを見ていると、この橋が動いているように見える。私は渋沢邸のお伽のような建物を飽かずに見入ったものである。。。」。対岸の小網町には土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる、といったことが案内されていた。異国情緒の景観があったのだろう。ちなみに、橋ができるまでは「鎧の渡し」と呼ばれる渡船場があった。

亀島川分岐
日枝山王神社の御旅所などにお参りし、先に進む。茅場橋を越え、湊橋の手前に亀島川との分岐が。江戸橋付近には木更津漁師の拝領地があり、木更津・銚子方面への船便で賑わった。木更津河岸と呼ばれた所以か。

豊海橋
茅場橋から湊橋。茅場は茅を扱う商人が多く住んでいたから。そして隅田川の手前に豊海橋。橋のそばに高尾稲荷起縁の地の案内。「江戸時代この地は船手組持ち場であったが、宝永年間、下役の喜平次が見回り中に対岸になきがらが漂着しているのを見つけ、手厚く葬った。吉原の高尾太夫が仙台藩伊達綱宗候に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたがなびかず。ために、隅田川三又の船中で吊し切りにされ河川を朱に染めたという。事実かどうかは定かではない。が、世人は高尾をまつり当時盛んだった稲荷信仰と結びつき、高尾稲荷社の起縁となった」と。

隅田川
で、隅田川に到着。川沿いを隅田川大橋まで登り、箱崎の東京シティエアーターミナルを越え、半蔵門線・水天宮前で地下鉄に乗り、本日の散歩終了。
今日、何年か振りに交換した携帯のナビおよび写真を使う。案内板など写し、ミニSDをPCに移し参考にしながらメモを取る。結構イケてる散歩になってきた。

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