水曜日, 2月 08, 2006

江戸の塩の道散歩 そのⅡ;小名木川を荒川との合流点まで

先回は日本橋川を下り隅田川まで歩いた。今回は隅田川から荒川までを小名木川を歩く。小名木川は家康が行徳の塩田地帯でつくられる塩を江戸に運ぶためにつくった川筋・運河。葛西から船橋にかけての一帯は鎌倉時代から塩の生産地。北条氏に年貢として納めていたともいう。海浜地帯であることは塩をつくる必要条件としても、十分条件は燃料である薪の確保。利根川・江戸川水系の水路のネットワークにより燃料供給が安定していたことが、この地で塩田が発達した要因という。ともあれ、清洲橋の少し北で隅田川から分岐する小名木川に向う。(水曜日, 2月 08, 2006のブログを修正)(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


本日のルート;新小名木川水門>高橋>西深川橋>東深川橋>大富橋>新高橋>(扇橋)>新扇橋>小松橋>小名木川橋>小名木川クロバー橋>横十間川親水公園>進開橋>丸八橋>番所橋>旧中川>中川大橋>大島・小松川公園>小名木川排水機場>荒川>新船堀橋>中川>船堀橋>都営新宿線船堀橋

小名木川

小名木川は、隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川。家康の命により小名木四郎兵衛がこの運河を開削したのが名前の由来。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
もともとは行徳(千葉県市川市)の塩を江戸に運ぶために開削された。が、後に、関西地方から江戸に塩がもたらされるようになってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川としてその役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、茨城あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能したのだろう。ともあれ、歩をすすめることにする。

万年橋
隅田川から分岐した小名木川にかかる最初の橋が万年橋。橋の北に「川船番所跡」の案内。深川番所・川船番所・深川口人改の御番所とも呼ばれる。海の関所といったところ。水路をとおって江戸に出入りする人や荷を監視するため隅田川口に設けられた。人の通行改めはそれほど厳しくはなかったが、川船に積まれた荷物、とくに米、酒、鮮魚、野菜、硫黄、塩などの監視は極めて厳しかった、とか。万年橋は元番所橋ともよばれる。
万年橋近辺には俳人・松尾芭蕉ゆかりの地がいくつかある。常盤1-3-12の芭蕉庵跡・芭蕉稲荷。1680年にこの地に庵を結び、1694年に51歳でなくなるまで、この地から全国への旅に出た、と。「こゝのとせ(九年)の春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。(しばの戸)」。「深川三またの辺に草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ(寒夜の辞」」。北斎の富嶽三十六景「深川万年橋下」の光景か。新大橋通り方面に少し上ると、芭蕉記念館もある。逆に、清澄通りを少し南に下り、海辺橋の南詰めに採茶庵跡。庵と芭蕉の銅像があった。

新小名木川水門
万年橋から少し進む。新小名木川水門。隅田川からの逆流を防ぐための水門、とか。工業化・地下水汲み上げの影響による地盤地沈下により、小名木川筋のほうが水位が低い。仙台堀を歩いていたとき、木場公園のあたりで防水工事案内を目にした。大潮の干潮時の水位をゼロとすれば、満潮時は2.1m。堤防の高さは6.4m。今立っているあたりは2.5m。昭和34年の伊勢湾台風のときは潮位5.1mまでになったという。堤防がなければ完沈である。台風などの水害防止のためにも水門が機能しているのだろう。

高橋
清澄通りに架かる高橋に進む道筋の南、清澄3丁目には大鵬部屋・北の海部屋・尾車部屋などといった相撲部屋も見られる。高橋って、もともとは橋の中央が盛り上がる、というか「高く」なっていたためつけられた名前。水運華やかなりし川ではの、名前ではあろう。

新高橋
川筋に沿ってつかず離れず進む。西深川橋から東深川橋三つ目通りにかかる大富橋、そして新高橋。先ほどの高橋とこの新高橋、このペアに近いものが近くの川にもあった。日本橋川が隅田川に流れ込む手前に分岐している亀島川に架かる高橋と南高橋。それがどうした、と言えば、それだけのことではあるのだが。。。

大横川と交差
新高橋を越えると小名木川は大横川と交差する。川筋には道がないので、一度清洲橋通りまで戻り扇橋を渡り、新扇橋から小松橋へと進む。小松橋は鉄骨組みのトラス橋。

扇橋閘門(こうもん)
小松橋と新扇橋の間に水門が。扇橋閘門(こうもん)。江東区の東は西と比べて地盤が低いので、水害防止のため東側地区の水位を常に低くしておく対策を実施。水門で囲えばいいわけだろうが、通船の水路確保のために閘門を設けることになる。閘門とは、京都の琵琶湖疎水のインクラインと仕組みは同じ、か。水位差のある箇所をふたつの水門で囲う。片方の水門を開けて船を入れる。このときの水位は水を入れた側と同じ。次に水門を閉じポンプで水を注入する、あるいは排水して反対側の水位と合わす。水位が合うと、出る側の水門を開き船を通す、という段取りとなる。パナマ運河の小規模版といったもの。付近に製粉会社が目に付く。新扇橋のたもとに、日本発の蒸気機関をつかった製粉工場をつくった雨宮啓次郎さんの碑があった。

小名木川橋
小名木川橋。南の東陽町から北の錦糸町を経て押上に通じる四つ目通りに架かる。この橋というか、四つ目通りを境に、東西の街の相が少々異なる。西は昔ながらの下町、東は新開地といった雰囲気。民家の多い東と団地の多い西、生活道路中心の東と幹線道路が南北に走る西、と言った感じもする。
歴史的にみても江東区はこのあたりを境に西が深川区で東が城東区。もっと歴史を遡ると、江戸の時代深川まで、つまりは四つ目通りあたりまでが江戸の内、それより東は外縁部であった、とか。川筋の遊歩道も小名木川橋より西は途中で突然道がなくなる。が、これより東は整地された遊歩道が完備、といった按配であった。歩いてわかる街の姿、ではあります。

小名木川クロバー橋

川筋をすすみ小名木川クロバー橋に。横十間川との交差点。交差点をクロスしたX型の橋。南は横十間川親水公園となっている。少し下ってみたが、結構いい雰囲気の散歩道となっている。JRの貨物駅の脇を進み進開橋に。明治通りとの交差点。川の北側は大島地区。正倉院文書に葛飾郡大嶋郷と記されている。それがこの地の名前の由来かどうか、定かならず。

中川船番所
丸八通りにかかる丸八橋を越え少し進むと仙台堀川公園が分岐。仙台堀は南に下り、葛西橋通りあたりで西に向い、小名木川のひと筋南をほぼ平行に開削されている。
旧中川の手前に番所橋。隅田川口、万年橋北詰めにあった深川口船番所・深川口人改之御番所が1661年、この地に移転し中川船番所に。中川・小名木川・新川(船堀川)が交差するこの地におかれ、人や物資の取り締まりをおこなった。ただ、通船数が多くなるにつれ、通関手続きは形骸化し「「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳で揶揄されてはいたようだ。

荒川ロックゲート
川筋を一筋北にのぼり旧中川にかかる中川大橋を渡り、小高い大島・小松川公園を眺めながら小名木川排水機場に。荒川ロックゲートとも呼ばれている。扇橋閘門と同じ原理での水門。荒川と中川の水位差を調節している。荒川に沿って新大橋通りに。東に向かい荒川にかかる新船堀橋を歩く。中堤に首都高中央環状線が南北に走る。高架下をくぐると中堤を隔てたほうひとつの川・中川。船堀橋を渡り都営新宿線船堀橋に到着。本日の予定終了となる。

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