東京は山の手と下町に別れる。地形としては、山の手は武蔵野洪積台地、下町は沖積低地である。往古、下町の沖積低地はほとんどが葦の生い茂る低湿地である。江戸開幕の頃の海岸線は現在の総武線のあたり、と言われる。もう少々時代を遡り、室町の頃の古地図を見ると、海岸線は更に上がり、寺島(墨田区東向島)から平井を結んだ線である。つまりは、中央区とか江東区といったあたりは、海の中。台東区にしても、浅草近くの墨田川沿いの微高地を除けば一面の湿地帯である。
このような湿地帯が町屋に生まれ変わったのは、家康が江戸に幕府を開く頃から。天下普請とも呼ばれる一大開発事業・埋め立て事業を行い、宅地開発を進めたわけだ。堀を開削し、その残土を埋め立てに使う。小山を切り崩すといった、大工事も行っている。御茶ノ水の台地や浅草の待乳山を切り崩している。江戸の町が大きくなった後は、市中からでる塵芥をつかって埋め立て事業をおこなってもいる。なかなか面白い。
ということで、埋め立ての歴史をイメージしながら、東京下町低地を歩こうと思う。中央区からはじめる。中央区も当然のことながらほとんどが海の中。皇居のあたりまで日比谷の入り江が入り込んでいた、という。入り江の東には江戸前島という砂洲が東から西に広がっていた。神田あたりから新橋の手前まで延びていた、とも。その砂洲の外海側は現在の首都高速都心環状線、江戸川ランプから京橋ランプあたりではないか、ということだ。
下町散歩の第一回は中央区の八丁堀・湊から新川・霊岸島を巡る。鈴木理生さんの『幻の江戸百円;筑摩書房』によれば、隅田川の中洲を埋め立て霊岸島ができたのが寛永元年(1624年)。八丁堀の埋め立ては、それより少し後。八丁の船入堀を開削し、日本橋川に沿った茅場町に堤を築き、周囲を囲んで埋め立てを行った、とのことである。中央区散歩は八丁堀からはじめる。理由は特に無い。たまたま休日、ある会合で八丁堀に行ったから、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
本日のルート:
八丁堀の与力・同心組屋敷 ;桜川公園 ;gt鉄砲洲稲荷神社 ;亀島川・南高橋 ;亀島川・高橋 ;亀島川・亀島橋 永代通り;亀島川 ; 豊海橋 ; 越前掘児童公園 ;「江戸港(湊)発祥跡」 ;亀島川;南高橋・「徳船(とくふね)稲荷神社」
地下鉄・八丁堀駅近くに「八丁堀の与力・同心組屋敷」
地下鉄・八丁堀駅を降り鍛冶橋通りを銀座方面に少し戻ると京華スクエアがある。昔の小学校を生涯教育センターとして使っているよう。その入口わきに「八丁堀の与力・同心組屋敷」の案内。八丁堀といえば与力・同心の屋敷があったところ。案内板に目をやる;「江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年に、江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心の組屋敷の町が成立しました。その範囲は萱場町から八丁堀一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人からはじまってのち、南北町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300-500坪、同心は30俵二人扶持で100坪ほどの屋敷地でした、これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るために町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られている」、と。
大江戸の街の治安をこの程度の与力・同心で果たして護れるのかどうか、とはおもうのだが、町年寄りとか名主を中心とした自治組織が一方にあり、大概のことは自治組織内で解決するというか、事件など起こしにくい向こう三軒両隣の目があったのだろう。 そもそも八丁堀の名前の由来だが、八丁というから800mほどの水路・八丁堀舟入りがこの地にあったから。現在の八丁堀の北、高速道路、江戸川ランプから京橋ランプにかけて、昔は楓川(かえでがわ)の水路が通り、その水路に沿って10の船入掘がつくられていた。江戸城普請のための荷揚げ場であったわけだが、海防の意味もあってその南側に埋立地がつくられた。ために、海から船入掘に進む水路がつくられることになるが、その長さが八丁。八丁の(船入)掘をもってこの地名とした、と。もっとも、池波正太郎さんの『江戸切絵図散歩』では、家康入府とともに江戸に移ってきたこの地の名主岡崎十左衛門が、故郷岡崎の八丁堤にちなみこの名をつけた、としている。
桜川公園;桜川は八丁堀船入りの水路跡
新大橋通りを渡る。右側に公園。桜川公園。今は埋め立てられているが、この桜川って、八丁掘船入の水路跡。堀川とも呼ばれていた。船入掘のあった水路が楓川、また楓川から外濠、今の東京駅前の道筋がその濠跡だが、その外濠に通じていた水路に紅葉川といった名前の水路がある。楓・紅葉に対して桜、とは、いつ名付けられたのか定かには知らねども、粋な計らいであろう。
入船・湊地区を進み「鉄砲洲稲荷神社」に
公園に沿って道なりに進む。入船1丁目から湊1丁目あたりに。入船とか湊とか、いかにも大江戸の海の玄関、江戸湊って感じ。中央小学校の南の公園を歩く。左手に神社が。鉄砲洲稲荷神社。八丁堀稲荷とも湊稲荷とも呼ばれた。江戸時代には全国から集まる荷物を荷揚げした江戸湊に臨んでいた神社であり、船員や海上守護の神様として人々の信仰を集めてきた。
鉄砲洲の由来;神社にあった御由緒によれば、「鉄砲洲の地は、徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口(*河口)の島であり、今の湊町や東部明石町の部分がこれに相当します。寛永のころはここで大砲の射撃演習をしていたので、この名が生まれたとも伝えられています」、と。またこの出洲が鉄砲の形に似ていたから、という説もある。
亀島川に沿って「南高橋」に
神社を後に少し東に進むと川筋に。隅田川と亀島川の合流点近くの「亀島川水門」のあたりに出る。亀島川の川向こうの地・新川地区って亀島川と日本橋川と隅田川に四方を囲まれている。もともとはこのあたりは霊厳島と呼ばれていたあたり。一面葦の生い茂る隅田川の中洲を埋め立ててできたのが寛永元年(1624年)。八丁堀周辺の埋め立てより時期は少々はやい、と言われる。
霊厳島を川向こうに眺めながら亀島川に沿って歩く。最初の橋は南高橋。この橋がつくられたのは昭和6年。関東大震災で被害を受けた両国橋の部材を再利用してつくられた。明治時代の鉄鋼トラス橋が今に残る。土木遺産としては結構貴重なものである。ちなみに、過日深川の富岡八幡宮を歩いたとき出会った、八幡橋(元の弾正橋)が都内に残る鉄鋼トラスト橋としては最も古い。トラスとは主構造にトラス(三角形に組んだ構造)を利用した橋。
亀島川;鍛冶橋通り・「高橋」
桜川が亀島川に合流した、であろう場所、つまりは八丁堀船入り口のあたりに稲荷橋の跡。八丁堀と湊町をつないでいた橋。
先に進み鍛冶橋通りに。「高橋」が架かる。日本橋川散歩の時にもメモしたが、江戸時代、このあたり船舶の往来激しく、橋脚の高い橋をつくった。それが「高橋」の名前の由来。この橋の八丁堀側が日比谷河岸、新川側が将監河岸と呼ばれる。
なぜここに日比谷が?近くにいかにもこじんまりした日比谷稲荷もあった。どうも、新橋日比谷町の代地がここにあったらしい。稲荷神社も大塚山(日比谷公園)にあったもののよう。 将監河岸の将監とは徳川の水軍を指揮した向井将監のこと。この地に向井将監の御船手組屋敷がこの地にあった。大砲といい、水軍といい、海からの攻撃への備えに配慮していたわけだ。ちなみに、日比谷の「ヒビ」って、海苔の養殖用に浅瀬に立てられた竹の束のことである。
亀島川;八重洲通り・「亀島橋」には堀部安兵衛武庸の碑
八重洲通まで進み亀島橋に。この橋、最初につくられたのは天禄時代と言われている。亀島の由来は、このあたりに小島が点在し、それが亀の姿に似ていたから、とか。橋の北詰に「堀部安兵衛武庸の碑」が。このあたりに住んでいたのだろうか。赤穂浪士が討ち入りの後、この橋を渡っていった、とか。ちなみに泉岳寺までのルートは、両国の「回向院」から「両国橋東詰め」、小名木川に架かる「万年橋」を経て「永代橋」。霊岸島に架かる「湊橋」を渡りこの「高橋」から「稲荷橋」、「聖路加病院(浅野内匠頭江戸上屋敷跡)」、「築地本願寺」、「歌舞伎座(浅野内匠頭嫡男浅野大学屋敷跡)」、「蓮莱橋」、「新橋」、「金杉橋」、「芝浜」、「泉岳寺交差点」といった道を通り「泉岳寺」に向ったようである。
亀島川;永代通り・霊岸橋
八丁堀・湊地区から、新川・霊岸島に移る。平成7年に架け替えられた新亀島橋を越え永代通りに架かる霊岸橋に。霊岸島に架かる橋であるから霊岸橋。結構古いものだろう。霊岸橋を渡り、霊岸島に。霊岸島の名前の由来は、江戸期、ここに霊厳寺があった、ため。寺は明暦の大火で焼失し、その後、現在の江東区白河に移った。
日本橋川と隅田川の合流点・豊海橋には「御宿かわせみ」が
日本橋川に沿って歩くと湊橋。新川地区と日本橋箱崎を結ぶ。先に進み豊海橋に。豊海橋といえば、江戸時代の船手番所であり、明治では日本銀行発祥の地のあたり、ではあるが、それよりなにより、平岩弓枝さんの時代小説『御宿かわせみ』の舞台。そのお宿のあったところである。善き人だけが登場する小説は、まことに読後、心地よい。
地下鉄・八丁堀駅近くに「八丁堀の与力・同心組屋敷」
地下鉄・八丁堀駅を降り鍛冶橋通りを銀座方面に少し戻ると京華スクエアがある。昔の小学校を生涯教育センターとして使っているよう。その入口わきに「八丁堀の与力・同心組屋敷」の案内。八丁堀といえば与力・同心の屋敷があったところ。案内板に目をやる;「江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年に、江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心の組屋敷の町が成立しました。その範囲は萱場町から八丁堀一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人からはじまってのち、南北町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300-500坪、同心は30俵二人扶持で100坪ほどの屋敷地でした、これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るために町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られている」、と。
大江戸の街の治安をこの程度の与力・同心で果たして護れるのかどうか、とはおもうのだが、町年寄りとか名主を中心とした自治組織が一方にあり、大概のことは自治組織内で解決するというか、事件など起こしにくい向こう三軒両隣の目があったのだろう。 そもそも八丁堀の名前の由来だが、八丁というから800mほどの水路・八丁堀舟入りがこの地にあったから。現在の八丁堀の北、高速道路、江戸川ランプから京橋ランプにかけて、昔は楓川(かえでがわ)の水路が通り、その水路に沿って10の船入掘がつくられていた。江戸城普請のための荷揚げ場であったわけだが、海防の意味もあってその南側に埋立地がつくられた。ために、海から船入掘に進む水路がつくられることになるが、その長さが八丁。八丁の(船入)掘をもってこの地名とした、と。もっとも、池波正太郎さんの『江戸切絵図散歩』では、家康入府とともに江戸に移ってきたこの地の名主岡崎十左衛門が、故郷岡崎の八丁堤にちなみこの名をつけた、としている。
桜川公園;桜川は八丁堀船入りの水路跡
新大橋通りを渡る。右側に公園。桜川公園。今は埋め立てられているが、この桜川って、八丁掘船入の水路跡。堀川とも呼ばれていた。船入掘のあった水路が楓川、また楓川から外濠、今の東京駅前の道筋がその濠跡だが、その外濠に通じていた水路に紅葉川といった名前の水路がある。楓・紅葉に対して桜、とは、いつ名付けられたのか定かには知らねども、粋な計らいであろう。
入船・湊地区を進み「鉄砲洲稲荷神社」に
公園に沿って道なりに進む。入船1丁目から湊1丁目あたりに。入船とか湊とか、いかにも大江戸の海の玄関、江戸湊って感じ。中央小学校の南の公園を歩く。左手に神社が。鉄砲洲稲荷神社。八丁堀稲荷とも湊稲荷とも呼ばれた。江戸時代には全国から集まる荷物を荷揚げした江戸湊に臨んでいた神社であり、船員や海上守護の神様として人々の信仰を集めてきた。
鉄砲洲の由来;神社にあった御由緒によれば、「鉄砲洲の地は、徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口(*河口)の島であり、今の湊町や東部明石町の部分がこれに相当します。寛永のころはここで大砲の射撃演習をしていたので、この名が生まれたとも伝えられています」、と。またこの出洲が鉄砲の形に似ていたから、という説もある。
亀島川に沿って「南高橋」に
神社を後に少し東に進むと川筋に。隅田川と亀島川の合流点近くの「亀島川水門」のあたりに出る。亀島川の川向こうの地・新川地区って亀島川と日本橋川と隅田川に四方を囲まれている。もともとはこのあたりは霊厳島と呼ばれていたあたり。一面葦の生い茂る隅田川の中洲を埋め立ててできたのが寛永元年(1624年)。八丁堀周辺の埋め立てより時期は少々はやい、と言われる。
霊厳島を川向こうに眺めながら亀島川に沿って歩く。最初の橋は南高橋。この橋がつくられたのは昭和6年。関東大震災で被害を受けた両国橋の部材を再利用してつくられた。明治時代の鉄鋼トラス橋が今に残る。土木遺産としては結構貴重なものである。ちなみに、過日深川の富岡八幡宮を歩いたとき出会った、八幡橋(元の弾正橋)が都内に残る鉄鋼トラスト橋としては最も古い。トラスとは主構造にトラス(三角形に組んだ構造)を利用した橋。
亀島川;鍛冶橋通り・「高橋」
桜川が亀島川に合流した、であろう場所、つまりは八丁堀船入り口のあたりに稲荷橋の跡。八丁堀と湊町をつないでいた橋。
先に進み鍛冶橋通りに。「高橋」が架かる。日本橋川散歩の時にもメモしたが、江戸時代、このあたり船舶の往来激しく、橋脚の高い橋をつくった。それが「高橋」の名前の由来。この橋の八丁堀側が日比谷河岸、新川側が将監河岸と呼ばれる。
なぜここに日比谷が?近くにいかにもこじんまりした日比谷稲荷もあった。どうも、新橋日比谷町の代地がここにあったらしい。稲荷神社も大塚山(日比谷公園)にあったもののよう。 将監河岸の将監とは徳川の水軍を指揮した向井将監のこと。この地に向井将監の御船手組屋敷がこの地にあった。大砲といい、水軍といい、海からの攻撃への備えに配慮していたわけだ。ちなみに、日比谷の「ヒビ」って、海苔の養殖用に浅瀬に立てられた竹の束のことである。
亀島川;八重洲通り・「亀島橋」には堀部安兵衛武庸の碑
八重洲通まで進み亀島橋に。この橋、最初につくられたのは天禄時代と言われている。亀島の由来は、このあたりに小島が点在し、それが亀の姿に似ていたから、とか。橋の北詰に「堀部安兵衛武庸の碑」が。このあたりに住んでいたのだろうか。赤穂浪士が討ち入りの後、この橋を渡っていった、とか。ちなみに泉岳寺までのルートは、両国の「回向院」から「両国橋東詰め」、小名木川に架かる「万年橋」を経て「永代橋」。霊岸島に架かる「湊橋」を渡りこの「高橋」から「稲荷橋」、「聖路加病院(浅野内匠頭江戸上屋敷跡)」、「築地本願寺」、「歌舞伎座(浅野内匠頭嫡男浅野大学屋敷跡)」、「蓮莱橋」、「新橋」、「金杉橋」、「芝浜」、「泉岳寺交差点」といった道を通り「泉岳寺」に向ったようである。
亀島川;永代通り・霊岸橋
八丁堀・湊地区から、新川・霊岸島に移る。平成7年に架け替えられた新亀島橋を越え永代通りに架かる霊岸橋に。霊岸島に架かる橋であるから霊岸橋。結構古いものだろう。霊岸橋を渡り、霊岸島に。霊岸島の名前の由来は、江戸期、ここに霊厳寺があった、ため。寺は明暦の大火で焼失し、その後、現在の江東区白河に移った。
日本橋川と隅田川の合流点・豊海橋には「御宿かわせみ」が
日本橋川に沿って歩くと湊橋。新川地区と日本橋箱崎を結ぶ。先に進み豊海橋に。豊海橋といえば、江戸時代の船手番所であり、明治では日本銀行発祥の地のあたり、ではあるが、それよりなにより、平岩弓枝さんの時代小説『御宿かわせみ』の舞台。そのお宿のあったところである。善き人だけが登場する小説は、まことに読後、心地よい。
永代橋
隅田川に沿って南に進む。永代橋に当たる。元禄11年というから1698年につくられた当時は、豊海橋の北詰めにあった、よう。赤穂浪士もこの橋を渡って泉岳寺に進んだ、と。名前の由来は、永代島にあった永代寺の門前、門前仲町に向うことから。富岡八幡宮の別当としてつくられた永代寺ではあるが、明治の廃仏毀釈のあおりで廃寺となり、今は無い。
大川、と言うか、隅田川にそって隅田川テラスと呼ばれる散歩道が整備されている。直ぐに「新川の跡」。その昔、永代通りを一筋西に入ったあたりに亀島川と隅田川をつなぐ水路があった。それが新川。万治3年というから、1660年商人である川村瑞賢が荷揚げの便をはかるため開削した、と。ちなみに川村瑞賢の屋敷跡が永代通りと湊橋に続く箱崎湊通りの交差点近くに。
川村瑞賢の屋敷跡
教育委員会の説明版:「江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618-1699)の屋敷があった。瑞賢(瑞軒、随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となる。明暦3年(1657)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財を なし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い、莫大な資産を築いた。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行った。瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことが挙げられる。晩年にはその功績により旗本に列せられた。
斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(1684-1688)ころに南新堀1丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島一円を占めていた、と記されている。表門はいまの永代通りに、裏門はかって新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵4棟があり、広壮な屋敷を構えていたようだ。『御府内沿革図書』延宝年間(1673-1681)の霊巌島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる掘割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができる。所在地は新川1丁目8番地域」、と。
新川跡を越前掘児童公園・越前掘に
新川跡に沿って島の中央あたりに。明正小学校の横に越前掘児童公園。霊岸島の由来書が;「当地区は、今から三百七,八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の湿地葦原であった。寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人が創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が2万7千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南三面に船入掘が掘られて後に越前掘の地名の起こる原因となった。明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊厳寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となった市内の町々が、替地として集団的に移ってきた」。
同じ公園に越前掘の由来書も。概要をメモする;「江戸時代、このあたりは越前福井藩主松平越前守の屋敷があった。屋敷は3方が掘に囲まれ、越前掘と呼ばれていた。堀の幅は20mほどもあり運河として使われていた。明治になり、越前守の屋敷地が越前掘という地名になったが、次第に埋め立てられ、大正の関東大震災以降、完全に埋め立てられ、地名も越前掘から新川となり、現在に至る」、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
隅田川・中央大橋から亀島川・「江戸港(湊)発祥跡」に
再び隅田川の川筋に戻る。中央大橋が。新川と佃島を結ぶ橋。霊岸島を一周しよう、ということで、橋を越え亀島川との合流点に。北に上り亀島水門近くに「江戸港(湊)発祥跡」が。慶長年間、幕府がこの地に江戸湊を築港して以来、水運の中心地として江戸の経済を支えて、昭和のはじめまで、房総の木更津や館山、相模・伊豆七島などへは浦賀、三崎、下田、伊豆諸島を結んだ船便がここから発着していた、と。ここから汽船が発着していたわけだ。
隅田川に沿って南に進む。永代橋に当たる。元禄11年というから1698年につくられた当時は、豊海橋の北詰めにあった、よう。赤穂浪士もこの橋を渡って泉岳寺に進んだ、と。名前の由来は、永代島にあった永代寺の門前、門前仲町に向うことから。富岡八幡宮の別当としてつくられた永代寺ではあるが、明治の廃仏毀釈のあおりで廃寺となり、今は無い。
大川、と言うか、隅田川にそって隅田川テラスと呼ばれる散歩道が整備されている。直ぐに「新川の跡」。その昔、永代通りを一筋西に入ったあたりに亀島川と隅田川をつなぐ水路があった。それが新川。万治3年というから、1660年商人である川村瑞賢が荷揚げの便をはかるため開削した、と。ちなみに川村瑞賢の屋敷跡が永代通りと湊橋に続く箱崎湊通りの交差点近くに。
川村瑞賢の屋敷跡
教育委員会の説明版:「江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618-1699)の屋敷があった。瑞賢(瑞軒、随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となる。明暦3年(1657)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財を なし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い、莫大な資産を築いた。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行った。瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことが挙げられる。晩年にはその功績により旗本に列せられた。
斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(1684-1688)ころに南新堀1丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島一円を占めていた、と記されている。表門はいまの永代通りに、裏門はかって新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵4棟があり、広壮な屋敷を構えていたようだ。『御府内沿革図書』延宝年間(1673-1681)の霊巌島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる掘割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができる。所在地は新川1丁目8番地域」、と。
新川跡を越前掘児童公園・越前掘に
新川跡に沿って島の中央あたりに。明正小学校の横に越前掘児童公園。霊岸島の由来書が;「当地区は、今から三百七,八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の湿地葦原であった。寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人が創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が2万7千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南三面に船入掘が掘られて後に越前掘の地名の起こる原因となった。明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊厳寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となった市内の町々が、替地として集団的に移ってきた」。
同じ公園に越前掘の由来書も。概要をメモする;「江戸時代、このあたりは越前福井藩主松平越前守の屋敷があった。屋敷は3方が掘に囲まれ、越前掘と呼ばれていた。堀の幅は20mほどもあり運河として使われていた。明治になり、越前守の屋敷地が越前掘という地名になったが、次第に埋め立てられ、大正の関東大震災以降、完全に埋め立てられ、地名も越前掘から新川となり、現在に至る」、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
隅田川・中央大橋から亀島川・「江戸港(湊)発祥跡」に
再び隅田川の川筋に戻る。中央大橋が。新川と佃島を結ぶ橋。霊岸島を一周しよう、ということで、橋を越え亀島川との合流点に。北に上り亀島水門近くに「江戸港(湊)発祥跡」が。慶長年間、幕府がこの地に江戸湊を築港して以来、水運の中心地として江戸の経済を支えて、昭和のはじめまで、房総の木更津や館山、相模・伊豆七島などへは浦賀、三崎、下田、伊豆諸島を結んだ船便がここから発着していた、と。ここから汽船が発着していたわけだ。
亀島川;南高橋・「徳船(とくふね)稲荷神社」
霊岸島、ぐるっと一周の最終地、「南高橋」の北詰に。徳船(とくふね)稲荷神社の由来書;「徳川期、この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと いう。
御神体は徳川家の遊船の舳(とも、へさき)を切って彫られたものと伝えられる。明暦3年、世にいう振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼 の寸前、難を免れ、大正11年(1922)に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。関東大震災で再度救出され、昭和6年(1931)、隅田川畔(現中央 大橋北詰辺り)に社を復活し、町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和29年(1954)、同所に再現のあと、平成3年(1991)、中央大橋架橋 工事のため、この地に遷座となる。例祭は11月15日である。
中央区(八丁堀・湊)から(新川・霊厳島)散歩はこれでお終い。次回は佃島に向かう。
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