火曜日, 5月 23, 2006

荒川区散歩 そのⅠ:音無川跡を西日暮里から根岸の里を巡り、三ノ輪へと

台東区の散歩の折、浅草から石浜神社に足をのばした。このあたりは台東区ではなく荒川区。荒川区って、大雑把に言って、北と東は隅田川、南は台東区と京浜東北線、西は京浜東北線の尾久辺り、というラインで囲まれた地域。
荒川区は散歩をはじめるきっかけとなったところでもある。田端とか西日暮里のあたり、京浜東北線にそって聳える崖線が気になり、「崖線のその先にあるものは」、といった好奇心から散歩が始まった。そのとき最初に訪れた田端の駅あたりは北区ではある。が、西日暮里駅東の道潅山台地一帯、「ひぐらしの里」と呼ばれる高台は荒川区だった。花見寺と呼ばれる妙隆寺・修性院、青雲寺、月見寺の本行寺、雪見寺として名高い浄光寺など、1年前の記憶がちょっと蘇る。
「ひぐらしの里」はさておき、今回は、荒川をどのコースから歩こうか、地図を眺めあれこれ考える。で、結論は、台東区散歩の折、時々顔を現した「音無川」の川筋を歩くことにした。名前がいかにも、いい。音無川の名前の由来は熊野の本宮大社前を流れる川の名前から。そもそも音無川の水源点とされる北区・王子が、熊野権現信仰の若王子(にゃくおうじ)権現の社(現在の王子神社)があったところであり、熊野信仰の社の前を流れる川 = 音無川、といったアナロジーでつけられた名前だろう。ともあれ、音無川を辿る。



本日のコース: 西日暮里駅 ; 日暮里駅前 ; 善性寺・「将軍橋と芋坂」跡 ; 御隠殿橋 ; 御行の松 ; 根岸の里 ; 三ノ輪

地下鉄千代田線・西日暮里駅
スタートは音無川が荒川区に入り込むあたり、西日暮里から始める。地下鉄千代田線・西日暮里駅下車。JR 西日暮里の東口に。音無川の川筋跡を探す。山手線に沿って、いかにも川筋跡といった雰囲気の道。確証はないのだが、道筋の揺れ具合、というかうねり具合が川の流れをイメージできる。音無川の水源は王子駅あたり。石神井川からの分水とのこと。
『新編武蔵風土記稿』によると、「王子村石堰より十間許上流にて分派し、飛鳥山下を流れ、西ヶ原、梶原、堀ノ内、田端、新堀、三河島、金杉、竜泉寺、山谷、橋場数村を経て浅草川に達す。其近郷二十三村に引注ぐ故、直に二十三ケ村用水と名づく」とある。
JR 王子駅南端辺りで京浜東北本線を横切り、次いで尾久に向かってカーブする東北本線を横切る。その後は、京浜東北線に沿って南に向かい、尾久操車場と田端操車場の間を流れ、西日暮里の駅前に出る、ってのが大体の流路、である。

日暮里駅前
川筋跡を南に進む。京成線のガードをくぐり常磐線の踏み切りを越える。道なりに進むと直ぐに日暮里駅前。次の目安は善性寺。このお寺の前に音無川に架かっていた「将軍橋」跡が残っている、と。例によって駅前の案内図で場所を確認。はっきりした案内図ではなかったので、結構道に迷う。駅前をぐるぐる廻り、結局駅の中にある案内図で再度確認し、再び善性寺に向かう。結局は京浜東北線に沿った商店街の道筋を進めばよかった。日暮里の由来は、新しい堀を穿った地、と言うことではあったが、後に、高台からの日暮れの眺めが如何にも素晴らしい、ということから日暮の里、とした、と言われる。

善性寺
門前に「将軍橋と芋坂」跡の碑が。このお寺は六代将軍家宣の生母がまつられて、将軍ゆかりの寺となる。後に家宣の弟がここに隠棲。ために将軍の御成りがしばしばあり、門前の橋を将軍橋と名づけた、と。
善性寺の向かいに羽二重団子の看板を掲げた和菓子屋。文政2年(1819年)上野寛永寺出入りの植木職人庄五郎が芋坂下と呼ばれたこのあたりで団子屋を開く。羽二重のようにきめの細かい団子が評判となる。屋号「羽二重団子」として今に続いている。
明治には泉鏡花とか正岡子規もこの店に出入りしたよう。子規の呼んだ句:「芋坂も団子も月のゆかりかな」「名月や月の根岸の串団子」。漱石の『我輩は猫である』にも、芋坂と団子屋が登場する:「行きましょう。上野にしますか。芋坂(いもざか)へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮(ふる)ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱(くつぬぎ)へ下りる。吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行(びこう)する勇気もないからずっと略してその間(あいだ)休養せんければならん。」、と。
江戸切絵図を見ると、芋坂を下りたところに「植木屋」の文字がある。また、善性寺ではなく「善光寺」と書かれていた。ちなみに、この場合の「芋」は自然薯、のこと。昔はこの辺りで、山芋が採れたのであろう。

御隠殿橋
おみやげの団子を買い求め先に進む。尾久橋通りとの交差する手前に「御隠殿橋」の説明文。台地上にあった上野寛永寺門主・輪王寺宮の隠居所から坂道を下ったところにあった橋。昭和8年頃に音無川が埋められ暗渠となった、とのことである。輪王寺宮とは江戸時代の門跡のひとつ。皇族が門主をつとめる寺院のこと。天海僧正開山のこの上野寛永寺も三代目から代々、皇族がその門主となり、13代に渡り、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺の3山を統轄した。

御行の松
次の目標は「御行の松」。川筋は荒川区と台東区の境に沿って進んでいたよう。川が行政単位の区切りとなることはよくあること。区境の町名、台東区の根岸・荒川区の東日暮里を跨ぐつもりで歩を進める。
尾久橋通りを少し南に。竹台高校前交差点あたりから、いかにも川筋跡っぽい道が西に。左折し進む。尾竹橋通りと交差。東日暮里4丁目南交差点。細い道が西に続く。東日暮里4丁目22の辺りで北に。実際は、直進し完全に根岸、つまりは台東区に入ってしまったため、慌てて引き返した次第。少し進むと西方向に曲がる。突き当たりにお寺っぽいものが。お不動さん。そこが「御行の松」跡。
江戸名所図会に描かれている松は、大層立派。大正年間も天然記念物の指定を受けたほど。樹齢350年。高さ13m、幹の周り4.6mの堂々とした松であったよう。その松は枯れ現在は3代目である、とか。江戸名所図会に見る音無川はそれほど大きくはない。幅は2mから3mといったところ。小川といった風情ではある。江戸名所図会で見ても、江戸切絵図を見ても、周囲はまったくの田地である。

根岸の里

「根岸の里の侘び住まい」、というフレーズを良く聞く。根岸の里って、この御行の松のあたり一帯のことだろう、とは思う。根岸の名前の由来は、上野のお山の「根もと」にあり、沼地・田圃の水際だった、ということ。江戸名所図会によれば、「呉竹の根岸の里は、上野の山陰にして幽趣ある故にや、都下の遊人多くは、ここに隠棲す、花になく鶯、水にすむ蛙も、ともにこの地に産するもの其声ひとふしありて、世に賞愛せられはべり」と。根岸は、上野の高台を控え、(音無川の)豊かな流水に恵まれた閑静な地で、だから鶯や蛙の声もよそとは違うと、いった意味。
この風光明媚な地をめでて文人墨客が根岸の里に「別荘」をもつ。文人墨客だけでなく大店の寮(別荘)も。浅草の橋場とともに江戸の二大別荘リゾートであった。とはいうものの、文化文政の頃の戸数はわずか230戸。確かに「侘び住まい」の雰囲気であろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

三ノ輪
東日暮里4丁目と根岸4丁目、つまりは荒川区と台東区の境を進む。くねくねと小刻みに蛇行を繰り返す。日暮里駅前から昭和通に続く結構広い道路にでる。このあたり、東日暮里2丁目と根岸5丁目の境道あたりまで来ると、道幅も広くなる。昭和通と平行に北に東日暮里1丁目を進み明治通りと交差。明治通りを越え、常磐線のガードの手前を東に進むと、日光街道と交差。
道の東側に三ノ輪橋の碑。「石神井川の支流として分流した音無川にかけられていて、長さ10m程、幅6m程あった」と。音無川はこのすぐ裏にある浄閑寺、吉原の遊女の投げ込み寺からから二手に分かれ、ひとつは思川として明治通りから橋場そして隅田川、もう一方は山谷掘として日本堤に沿って下り、今戸のあたりで隅田川に注ぐことになる。三ノ輪は「水の輪」に由来する、とか。地下鉄の三ノ輪駅に向かい、本日の散歩終了

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