本日のルート: 浅草橋駅 ; 浅草見附跡 ; 柳原通り ; 銀杏丘八幡 ; 須賀神社 ; 榊神社 ; 浅草御蔵跡 ; 須賀橋派出所交差点・鳥越川 ; 鳥越川跡を遡るt; 鳥越神社 ; 三味線掘 ; 佐竹通り商店街 ; 小島・三筋から新堀川通りに ; 新堀川跡 ; 春日通りの北は寺町跡 ; かっぱ橋道具街通 ; 矢先稲荷神社 ; 海禅寺・「梅田雲浜(うんびん)」の墓 ; 曹源寺。別名「かっぱ寺」 ; 秋葉神社 ; 生涯学習センター ; 竜泉寺 > 三ノ輪駅
総武本線浅草橋・浅草見附跡
総武本線浅草橋下車。江戸通りを少し南に戻り、神田川にかかる浅草橋に。北詰に「浅草見附跡」の碑。浅草橋は江戸三十六門のひとつ。浅草御門・見附門。幕府は交通の要衝に櫓とか橋とか門を築き、江戸のお城を警護。警護は五千石以上一万石以下の諸藩が三年勤番でことにあたった、とか。江戸通りは昔の奥州街道・日光街道。浅草に通じる道筋でもあることから、浅草御門と呼ばれる。警護役人を配置したため浅草見附とも呼ばれた。両国にありながら「浅草橋」と呼ばれる所以である。
明暦の大火の後、浅草に吉原ができると、観音様詣でだけでなく吉原通いの遊び人でこの往還は大いに賑わった。浅草橋から柳橋にかけては多くの船宿ができ、ここから猪牙舟に乗り組み山谷掘まで舟道中、というのが結構格好のいい吉原通いであった、よう。
明暦の大火の際、伝馬町の牢にも火の手が迫ったため、伝馬町牢奉行・石田帯刀により解き放たれた囚人がこの橋に群れる。が、見付役人は囚人の逃亡と思い込み門を閉ざす。ために、多くの一般市民も犠牲となった。ちなみに、浅草橋以外の見付門としては、筋違橋門、小石川門、牛込門、市ヶ谷門、四谷門、赤坂門、虎ノ門などがある。
柳原通り
浅草橋南詰に。このあたりは中央区。神田川の南側を柳原通りに沿って歩く。ここは千代田区。3つの区が境を接する。ともあれ、このあたり、江戸の昔は筋違御門から浅草御門までを柳原と呼ばれていた。もともと柳はなかったようだが、享保年間の将軍の御成りをきっかけに、この土手に柳が植えられ名実ともに「柳原」となった、とか。
銀杏丘八幡
左衛門橋を渡り、総武線を越え駅前に戻る。浅草橋1丁目に「銀杏丘八幡」。名前に惹かれる。社伝によれば、中世のころ、このあたりは小高い丘であり、隅田川が近くに眺められた、とか。11世紀のはじめ、康平5年(1062年)、頼義・義家が奥州平定のとき、隅田川で銀杏の枝を拾い上げた。で、それを丘に刺し、「朝敵征伐のみぎりは、枝葉栄うべし」と。奥州平定後、ふたたびこの地立ち寄る。銀杏が生い茂る。太刀を一振り奉納。八幡宮を勧請した、と。
元和4年(1618)この地を福井藩の松平氏が拝領。神社は邸内社となる。享和10年(1725)屋敷は公収され、町奉行・大岡越前守により福井町と命名され町屋に。銀杏は文化3年 (1806)の江戸大火で焼失。
須賀神社
江戸通りを北に。道筋に須賀神社。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)。古い歴史をもつ古社。江戸十社に入った神社でもある。素戔嗚尊の別称は牛頭天王。故に、社名も牛頭天王社と。また、祇園社、蔵前天王社、団子天王社とも呼ばれる。地元の町名も天王町と呼ばれた。橋名も天王橋と呼ばれた。須賀神社となったのは明治。神仏分離令によって須賀神社と改名。地名も須賀町となり、橋名も須賀橋となった。
牛頭天王がなぜ「須賀」、ということだが、素盞嗚尊(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治し、出雲の国須賀に至り「吾、吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言い、そこに社を作ったことに由来する。また、牛頭天王と素盞嗚尊(すさのおのみこと)の関係だが、朝鮮半島の牛頭山にいた偉い神様、日本でいうところの天照大神等言った神様が素盞嗚尊であった、と言う。スサノオノミコトって朝鮮から来た神様であった、ということ。
須賀橋派出所交差点・鳥越川
須賀橋派出所交差点。鳥越川が江戸通りと交差するところ。鳥越川は関東大震災の後、次第に埋め立てられ、もちろんのこと、須賀橋というか天王橋は、今はない。唯一、交差点にある交番が蔵前警察署「須賀橋」派出所として名前を留めている。鳥越川はこの交差点から東に、江戸の浅草御蔵跡の南端を流れ隅田川に注いでいた。「江戸切絵図」によれば、鳥越川は浅草御蔵のあたりで南に鍵の手状に曲がり、また東に曲がり御蔵の外側を廻るようにして隅田川に注ぐ。
浅草御蔵跡
浅草御蔵跡。このあたりから厩橋にかけての一帯は江戸幕府の米倉・浅草御蔵。幕府天領から船で運ばれてくる年貢米を貯蔵する一大米蔵コンプレックス。元和6年(1620)、隅田河岸を整地して造られた。明暦の大火(1657)後には、隅田川に沿って櫛の歯のように一番?八番の堀を設けられたという。奥州街道、今の江戸通り沿いは石垣や土手で囲まれ、下・中・上と三つの御門があり厳重な警備体勢であった、とか。浅草橋駅並びの御蔵前通りには大きな米問屋や、札差(幕臣等のための米受取代理業者、金貸し業者)、両替商等の豪商が居を構えていた。蔵前橋は昭和2年にできる。場所は三番堀と四番堀の間のあたり。厩橋も明治7年に架橋。今の橋は昭和4年のもの。
榊神社
雨水排水用の暗渠の跡を隅田川に向かう。途中に榊神社。境内に浅草文庫碑と蔵前興業学園の碑。浅草文庫は明治7年、御蔵8番米倉に湯島聖堂から図書を移し閲覧・書庫を設けた。明治10年に上野図書館に移管されるまで開業。蔵前工業学園は東京工業大学の前身。関東大震災の後、この地から目黒区大岡山に移転した。
米蔵があり、学校がこの地にあった、とすれば、この神社って、どこにあったのか?まさか、キャンパス内でもなかろうし。ということで調べると、榊神社がこの地に移ったのは震災後の昭和3年ということ。榊神社という名前になったのも明治6年。それ以前は「第六天神宮」、「浅草御蔵の第六天」と呼ばれていたよう。もともとは蔵前3丁目あたりにあったものが、享保4年(1719年)からは現在の柳橋1丁目あたりにあった、という。
第六天は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を救ったとの古事から道陸神(どうろくしん)の名がある。道陸神は村の境を守り悪魔を払う神。道祖神と同じであろう。見たら駄目、といわれたにもかかわらず妻の「姿」を見てしまった伊弉諾尊。妻は怒り、黄泉国の軍隊を引きつれ追ってくる。伊弉諾尊は追っ手を遮るため、黄泉国とこの世の境に大きな石でバリケードを作り、杖を投げる。この石は塞神。杖は岐神(ふなどのかみ)、道陸神(どうろくじん)などと呼ばれたもの。要は伊弉諾尊を救ったありがたい杖というか神様ということ。第六天って、仏の世界では欲界という天上にいる天魔王のことらしい。明治の廃仏毀釈のとき、仏さんのイメージも強い「第六天」をいう名前を避けて、榊神社とした、とか。ちなみに、織田信長は自分のことを第六天魔王と称した、とか。
鳥越川跡を遡る
さてさて、鳥越川を水源まで登る。といっても先にメモしたように、小島地区までなので、ほんの少しの距離。鳥越川は小島地区にあった三味線堀を水源とする、とメモしたが、その三味線掘りには不忍池から忍川の水が注いでいた、とか。ともあれ、三味線堀に向かう。須賀橋派出所交差点からいかにもな川筋跡を辿り浅草橋3丁目あたりを歩く。この川筋跡は蔵前橋通りと、ほぼ平行に進む。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
鳥越神社
蔵前橋通りの浅草橋3丁目交差点あたりに鳥越神社。ちょっと寄り道。鳥越2丁目にあるこの神社の創建は白雉(はくち)2年(651)。結構古い。日本武尊が東征の折、この地に滞在。その遺徳を偲びこの地の白鳥山に白鳥大明神をおまつりしたのがはじまり。永承(1050)の頃、奥州征伐に向かう八幡太郎義家は、白鳥に浅瀬を教えられ、軍勢を安全に渡す事が出来た。ために、白鳥大明神の御加護と感謝した義家は鳥越の社号を贈る。以後、鳥越神社と改称。付近一帯の地名も鳥越と呼ばれる様になった。鳥越川の由来でもある。ちなみに、白鳥山というか小山は正保2年(1645)ころ削られ、隅田川河岸埋め立て用の土砂採取場となり、跡地は町屋となった、とか。
三味線掘
先に進み清洲橋通りあたる。通りを進み鳥越1丁目から小島1丁目に。佐竹通り南口交差点。このあたりが三味線掘のあったところ。三味線掘は東西50m、南北30mのふたつの船溜りとそれをつなぐ長さ190m、幅10mの掘割からなっていた。そのかたちが三味線に似ていたのが名前の由来。船溜りには農産物、生活物資、それに少々尾籠ではあるが、「おわい船」なともあつまっていた。もちろん消火用水でもあった。この掘りは寛永7年というから1630年ころ、この一帯、姫が池などからなる沼地を埋め立てるために掘られた。大正6年ころまでにはすべて埋め立てられた、とか。
三味線堀に注いでいた川・忍川とちょっと辿ってみる。大体の流路は、不忍池南東端から上野公園入口をへて、アメ横を線路に沿って南下。昭和通・台東4丁目交差点あたりで東に振れ、東上野1丁目と2丁目の境あたりを東に進む。で、清洲通り・御徒町交差点あたりで南に下り、小島1丁目の三味線掘に注いでいた。
江戸切絵図を見ると、上野公園入り口あたりに「三橋(みはし)」、三つの橋が架かっている。真ん中の橋は幅6間(約10m)。将軍が寛永寺におまいりするときだけ使われた。ふだんは両側にある幅2間(3.6m)の橋しか渡れなかった。東上野1丁目と2丁目のあたりで忍川は筑後柳川藩立花家の構え掘りにつながる。その南隣には出羽久保田藩佐竹家の大名屋敷の構え掘りに繋がっている。つまりは大名屋敷の溝掘を通って三味線堀に流れ込んでいた、というのが正確なようだ。三橋あたりの名所百景の図を見ていると、三橋前が大きく開かれている。江戸切絵図で見ると、下谷広小路であった。納得。
昔懐かしい趣の佐竹通り商店街
清洲橋通りを渡り、佐竹通り商店街に。いやはや、結構レトロな雰囲気の商店街。日本で二番目にできた商店街である、と、どこかで聞いた事がある。商店街を進み北端・春日通りに。東上野1丁目とか2丁目あたりをぶらぶらし、再び佐竹通り商店街あたりに戻り、商店街のひとすじ西にある秋葉神社におまいりし、次の目的地というか散歩ルート・新堀川筋に戻ることに。
小島・三筋から新堀川通りに進む
小島1丁目と2丁目の境をブラブラと東に進む。小島町の由来は、この地の名主・小島さんから。三味線掘りというか鳥越川河川工事で掘り起こした土をつかって、このあたりの湿地を埋め立て町屋とした功労者。佐衛門橋通りと交差。佐衛門橋は神田川に架かる。江戸切絵図を見ると、近くに庄内藩酒井左衛門尉の屋敷がある。通りの由来はこのお殿様の名前からであろう。
通りを越え、三筋1丁目と2丁目のあたりを更に東にブラブラと。三筋のあたりは江戸期、書院番組屋敷、大番組屋敷、武家屋敷地があったところ。三筋町という町名ができたのは明治になってから。「三筋」の道筋があったから、とか。
新堀川
新堀通りに。新堀川の水源は本当のところ、どうもはっきりしない。江戸切絵図を見ると、東本願寺脇を海禅寺そして幸龍寺(このお寺、今は無い;どうも先日歩いた烏山寺町にあったように思う。移転したのであろうか)あたりまでは結構大きい川筋。その先は畑地の中を細い川筋が三ノ輪近く、竜泉町の竜泉寺あたりまで続く。
三ノ輪って、音無川、というか石神井川が王子から流れ、思川と山谷掘に分かるれあたり。結局は、石神井川というか音無川の落ち水を集めた入谷田圃が水源。ということは、結局石神井川が水源ということか。「御府内備考」にも、「今は石神井川の余水をも中田圃の辺りにて此掘に落とせり」と書いてある。流れは新堀通りに沿って南下し、蔵前橋通りを越えたあたりで東に向かう。で、江戸通りの手前で再び南下し鳥越川と合流する。今回は逆に水源に向かって歩くことにする。
春日通りの北は寺町跡
新堀通りに沿って北上。春日通を越える。道の両側に数多くのお寺。江戸切絵図でみると、お寺でびっしり。明暦の大火の後、都市計画によって江戸各地の寺院がこの地に集められたのであろう。浅草通りとの交差点は菊屋橋、と。新掘川にかかっていた橋の名残。近くに菊屋というお菓子屋さんがあったことが、名前の由来とか。名残といえば、春日通りの手前にある台東中学校の前に、「新掘小学校之碑」。新堀川の名前を冠したものである、との説明があった。
かっぱ橋道具街通り
菊屋橋交差点を越えると道の東に東本願寺。先に進むと合羽橋南交差点。このあたりからは通称、かっぱ橋道具街通り。道の両側に食器とかの「道具」を商う店が連なる。プラスティックフーズなどとも呼ばれる、料理のサンプルなど外国人観光客に人気がある、とか。
矢先稲荷神社
少し西に入ると、矢先稲荷神社。三代将軍・家光が尚武の意味を込め、京の三十三間堂にならって「浅草三十三間堂」をつくる。で、京と同じく、通し矢、つまりは決められた時間にいくつ矢を射るかを競ったわけだ。お稲荷さんはこの矢の的のあたりにあったので、「矢先」稲荷、と。三十三間堂は元禄11年(1698年)に焼失し、深川で再建。神社だけは地元の要望強く、この地に残った、とか。
海禅寺には「梅田雲浜(うんびん)」の墓v かっぱ橋道具街通りに戻る。少し進むと「合羽橋本通り」と交差。この道は江戸の昔の御成道。将軍が寛永寺から浅草寺にお参りするときに通った道筋。左折し、江戸切絵図にあった海禅寺に。質素なこのお寺には「梅田雲浜(うんびん)」の墓がある。幕末尊王攘夷を求める志士の精神的リーダー。安政の大獄で獄死。
曹源寺。別名「かっぱ寺
」 海禅寺の直ぐ近くに、曹源寺。別名「かっぱ寺」。説明文によれば、「かつて合羽橋は現在の通称合羽橋道具街を流れていた新堀川に架けられていた橋のひとつであり、雨合羽屋喜八の徳をしのんで名づけられたと考えられる。新堀川は昭和の初めころまでに暗渠となった」と。
秋葉神社
曹源寺から少し北、入谷南公園近くに秋葉神社。この神社はもともと、秋葉原にあったもの。秋葉原の名前の由来ともなったもの。明治のころ、火災頻発。火を鎮める神の秋葉神社を秋葉原の火除け地に。明治21年、JR秋葉原建設のため、境内地を払い下げこの地に移る。静岡県浜松の秋葉神社を勧請。秋葉信仰は、江戸期修験者によって秋葉講として全国に広まった。
生涯学習センター
かっぱ橋道具街通りを北に進む。合羽橋北交差点を越え、言問通りとの交差点手前に「生涯学習センター」。中央図書館もあり郷土資料もある。裏手に本念寺。江戸切絵図によれば、このあたり、現在の金竜小学校のあたりかとも思うが、西寄りのところに「立花左近将監」屋敷がある。これって、先回の散歩でメモした「太郎稲荷」のお屋敷。川筋は立花左近将監の屋敷前の田圃で切れている。が、この屋敷を囲む構堀が見える。その先は真っ直ぐに竜泉2丁目の竜泉寺あたりまで続く川というか堀筋と、途中で国際通り方面に分岐し鷲神社、長国寺あたりまで進み、西に振れて再び合流し竜泉寺に進む川筋が見える。
竜泉寺
金竜小学校の先を東に折れ、ふたたび北に進み国際通りと合流し、鷲神社手前あたりを左折。先回、朝日弁財天へと歩いた道筋の直ぐ近く。先回は西に、今回は北に。国際通りの一筋西を北に向かって進み、三ノ輪手前、昭和通と国際通りが交差する手前にある竜泉寺に。地名の由来ともなった古刹。鷲神社の「酉の市」のところでメモしたように、元々のお酉様であった足立の鷲神社、そこが少々遠いがゆえに、江戸のこの地・竜泉寺を「初とり」とした、という、御酉様繁栄のきっかけになったお寺、かとも思う。ともあれ、新堀川の水源あたり、昔の入谷田圃のあたりをイメージし、本日の予定終了。 3回に分けた台東区散歩も一応終了。後上野のお山、不忍池あたりが残っている。このあたりは結構歩いている。文京区の根津の谷を流れる藍染川・谷戸川・谷田川・境川、と呼び名はいろいろの川筋を歩くときに一緒にまとめて歩きたい。
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