木曜日, 5月 11, 2006

墨田区散歩 そのⅡ:本所へ

墨田区散歩2回目。先回の散歩は墨田区中央部、というか中世の海浜部を東から西に隅田川まで進み、そこからは隅田川沿いの微高地を南から北に登り、古代からの交通の要衝・「隅田宿」あたりから隅田川を渡った。今回は江戸時代に開拓され大名・旗本・御家人などの武家屋敷や町屋となった本所地区を巡る。





本日のルート: 両国駅;回向院;吉良邸跡; 両国公園に勝海舟生誕の地の碑;堅川・塩原橋; 旧安田庭園>北斎通り・「南割下水」;亀沢町 ;法恩寺;能勢妙見堂; 横川1丁目遺跡 ;本所>JR 総武線・錦糸町駅

総武線・両国駅
総武線両国駅で下車。両国とは武蔵と下総のふたつの国のこと。駅の北に江戸東京博物館。何度か足を運んだ。今回は、足は逆方向、両国駅西口から南に下り京葉道路方面に。西方向に進めば両国橋。
武蔵と下総の二つをつなぐことで両国橋、と。明暦の大火で逃げ場を失い十万人近くの人が犠牲に。その教訓から千住大橋以南、江戸に至近の位置にはじめてつくられた橋。時期は万治2年(1659年)。本所・深川地区を埋め立て・開発し、大名・旗本・御家人などの武家屋敷や町屋をつくり、発展させるためにも必要な架橋でもあった。大川(隅田川)にかけられたので当初「大橋」と。橋の両側は広小路。両国西広小路と東広小路。防火のための空きスペース・火除地。とはいうものの、空きスペース、いまどきのことばではオープンスペースには芝居小屋、見世物小屋、仮設飲食店が立ち並び、歓楽の地として賑わいをみせる。

京葉道路に面して回向院

両国橋西口からの道が京葉道路にあたる十字路に回向院。関東大震災などで破壊され、現在は鉄筋コンクリートのモダンなお寺さま。将軍家綱の命により、振袖火事とも呼ばれる明暦の大火の被害者・無縁仏をまつった「万年塚」がお寺の始まり。後に安政の大地震の被害者、水難犠牲者など幾多の無縁仏をおまつりするようになり、江戸市民の信仰を集める。江戸中期には両国橋広小路という歓楽地の近くという地の利もあり、全国のお寺の秘仏を公開する出開帳(でがいちょう)の寺院として大いに賑わう。幕末までの200年間に計160回の出開帳(でがいちょう)を実施。出開帳を主催する寺・「宿寺」として日本でナンバーワンの実績。あと、深川永代寺、浅草・浅草寺と宿寺ランキングが続く。ちなみに、江戸出開帳の中でも、圧倒的集客を誇ったお寺・秘仏は京都・嵯峨清涼寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来、身延山久遠寺の祖師像、成田山新勝寺の不動明王の四つと『観光都市江戸の誕生:安藤優一郎(新潮新書)』に書いていた。また、江戸後期には勧進相撲もはじまり、明治までの76年間、回向院相撲がとりおこなわれる。
境内には明暦大火の供養等。海難供養等、昭和11年に相撲協会がつくった「力塚」が残る。毛色の変わったものとしては、怪盗・鼠小僧次郎吉の墓も。回向院には牢死者も葬られた。が、刑死者は本所回向院の別院である小塚原の回向院に葬られるのが本筋。鼠小僧次郎吉は小塚原で刑死し無縁のものとして小塚原の回向院に葬られたのだが、やがてこの寺にもお墓ができた。ひとえにその人気ゆえのもの、と司馬遼太郎さん(『街道をゆく36 江戸本所深川』)。

吉良邸跡は両国3町目に

「吉良邸跡」を求めて両国3町目に。江戸切絵図によれば、回向院の道を隔てた東隣に土屋主税邸、本田孫太郎邸がある。吉良邸はその二つの屋敷の南にそって現在の馬車通りあたりまでの広大な邸宅であったよう。江戸切絵図には「松阪丁」とあるだけで、吉良邸の名前はない。
吉良邸跡・本所松坂町公園に。公園といっても吉良邸跡を残すだけ。石壁は江戸時代の高家の格式をあらわす「なまこ塀長屋門」を模したつくり。本所松坂町公園由来;吉良上野介義央の上屋敷跡。吉良邸は松坂町1丁目、2丁目(現在の両国2丁目、3丁目)のうち8400平方メートルを占める広大な屋敷であった」、と。映画やテレビで「本所松坂町の吉良邸」という言い方をされる。が、これはダブルフォールト。第一のフォールトは武家屋敷には町名は付けない。第二は、松坂町という町名は吉良邸が取り壊され町屋となったときの地名。吉良邸があったころには「松坂町」という名前は存在していなかった、ということ。

吉良邸跡の東・両国公園に勝海舟生誕の地の碑
吉良邸跡から少し東、両国小学校の東隣の両国公園に。勝海舟生誕の地の碑。咸臨丸で艦長として渡米、西郷隆盛との談判による江戸無血開城の立役者など、言うまでもない幕末の雄のひとり。
公園の少し南・馬車通りあたりに囲碁の「本因坊の屋敷跡」がある、とのことだが、見つけられなかった。江東区散歩のメモに書いたように、三ツ目通りとか四ツ目通り、一之橋、二之橋といった地名・橋名の基準となったところ。この本因坊の屋敷があったところから、3つ目の通りが三ツ目通り、といった風。

堅川
少し南に「堅川(たてかわ)」。江戸のお城から見て縦方向であり、堅川(たてかわ)。明和年間の本所開拓の時に開削された掘のひとつ。隅田川と中川を結ぶ。
隅田川から横十間川までは水面が残るが、その先は埋め立てられ「堅川河川敷公園」となっている。首都高速7号・小松川線が上を走る。清澄通り架かる二之橋、隅田川に向かって千歳橋、塩原橋、そして一之橋といった橋がある。塩原橋は亀戸天神でもメモした塩原太助に由来する。




旧安田庭園
隅田川の手前に架かる一の橋を渡り、一の橋通りを北に向かう。「両国国技館」の西を歩き「旧安田庭園」に。常陸笠間藩・本庄因幡守によりつくられる。隅田川の干満により水位を変化させる潮入り回遊式庭園。つまりは、水位の高低で見えたり見えなかったりする「小島」の景観を作り出す。明治期、安田財閥の創始者・安田善次郎の所有となり、のちに都に寄贈されて現在に至る。





北斎通りの元の名前は「南割下水」
旧安田庭園の北隣に横網町公園に。東京大空襲の犠牲者の慰霊塔が。清澄通りを南に下り、「江戸東京博交差点」に。T字路を東に向かう道筋は「北斎通り」。江戸東京博の近くには北斎生誕の地の碑がある、とか。北斎はこのあたりで生まれた江戸後期の浮世絵師。「富岳三十六景」などが有名。
で、この道筋、北斎通りと呼ばれているが、昔は「南割下水」と呼ばれる。下水とはいうものの、基本的には掘割のひとつ。道の真ん中に水はけをよくするための排水溝が掘られていたから、そう呼ばれた。3.6m程度の幅。「黙礼の中を流るる割下水」といった川柳も。このあたり武家地。割下水を隔てて挨拶を交わす武家の姿が浮かんでくる。俳人・小林一茶も割下水の住人。「葛飾や月さす家は下水端」「朝顔や下水の泥も朝のさま」「鶯が呑むぞ浴びるぞ割下水」といった句を読んでいる。

亀沢町には三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地が


北斎通りを亀沢1丁目、2丁目と歩き「野見宿禰神社」に。相撲の神と言われる野見宿禰を祀る神社。明治時代に陸奥弘前藩津軽越中守上屋敷跡につくられたもの。
少し進み区役所通りと交差。このあたりに三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地といったものがあるようだが、場所特定できず。亀沢町の由来は、この地に住んでいた旗本荒川助力郎の屋敷内に亀沢の池と呼ばれる池があったから、とか、単に縁起がいいからとか、亀のすんでいた池たあったからとか、例によっていろいろ。ちなみに、一説にはありふれた盗人、とも言われる鼠小僧次郎吉を一躍ヒーローに仕立てた仕掛け人が河竹黙阿弥。黙阿弥の書いた歌舞伎『 鼠小紋春着雛形 』が大ブレークしたためだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

「新徴組屋敷の跡」は見つからず

北に進み蔵前橋通りの手前、石原2丁目あたりを右折し適当に道筋を東に進む。石原の地名の由来は、隅田川の流れの故か石が転がっていたから、とか。三ツ目通りを過ぎると、このあたりに「新徴組屋敷の跡」がある、と言う。
新徴組って、新撰組の江戸守護バージョン。清河八郎に率いられ、将軍守護の名目で京に上った浪士組が、もともと幕府など眼中になく尊王思想第一とする清河の企てにより、倒幕の戦闘集団にするという天皇の勅許を受ける。これで幕府の軍隊から天皇の軍隊に。この動きに異を唱えた近藤勇一派は京に残り新撰組を結成。江戸に戻った清河は幕府に睨まれ佐々木只三郎により暗殺される。江戸に残された浪士組は庄内藩預かりとなり「新徴組」として江戸市内警護に。初代組長は沖田総司の義兄・沖田林太郎。戊辰戦争時には庄内にて官軍と戦う。
「新徴組屋敷の跡」は見つけることができなかった。本所三笠町。錦糸堀の近くに庄内藩・江戸の下屋敷があった、という。錦糸堀、って南割下水の大横川より東側の呼称。新徴組屋敷の詳細は知らないけれど、庄内藩下屋敷内にあったと想像すれば、このあたりだろう、とは思う。ちなみに庄内藩上屋敷は飯田橋のあたり。飯田橋の駅の近くには「新徴組屯所跡」の碑がある。

蔵前通りと大横川が交差するあたりに法恩寺。道灌ゆかりの寺である

下町の街中をブラブラ。蔵前橋通りからひと筋、ふた筋はいったあたりにいかにも相撲部屋といった建物。九重部屋であった。東に進み「大横川親水公園」に。北に進み、蔵前橋通りに架かる法恩寺橋を渡り法恩寺に向かう。開基は太田道潅。道潅江戸城築城の折、丑寅の方向に城内鎮護のため本住院を立てる。平河山(法恩寺)と呼ばれるくらいだから、もともとは平河町あたりにあったのだろう。その後、家康江戸入府にともなう江戸城拡張のため神田柳原、次に谷中清水町へと移り、元禄8年この地に移った。
境内には例によって「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」の歌。この逸話、道潅ゆかりの地で何箇所聞いたことだろう。鎌倉散歩のとき朝比奈の切通しのあたりにもあったし、荒川の町屋、豊島区高田、そのほか秩父の越生にも。道潅がそれほど親しみをもたれていた、ということだろう。法恩寺、現在は4つの堂宇だけのお寺ではあるが、江戸のころは20を越える堂宇からなる広い寺域からなっていた。ちなみにこのあたりの大平の地名の由来は、大田道潅の「大」+平河山の{平}=大平と。

法恩寺と大横川を隔てたところに能勢妙見堂

法恩寺を離れ、大横川の妙見橋を渡り本所4丁目の能勢妙見堂に。大阪で能勢の妙見山に行ったことがある。ここはその妙見さんの別院。江戸切絵図には能勢熊之助の敷地内に「妙見社」とある。ここは親子鷹、勝小吉・海舟親子の熱烈な信仰を受けた神社。勝海舟の父・小吉が海舟、当時の麟太郎の出世開運を願ってか、はたまた、犬に噛まれた怪我の回復を祈ってか、ともあれ水垢離をとったところ。境内には海舟の銅像もある。
少し話はそれるが、この能勢一族の歴史も面白い。明智光秀に与力したため、秀吉により一族滅亡の危機。が、能勢の地から一族落ち延び隠れ里に。時代は移り、家康の家臣に。関が原で戦功をたて、お家再興。法華経への信仰の故と、広大な家屋敷を有徳の僧に寄進。これが能勢妙見山のはじまり。能勢頼直のときに、この地に下屋敷を拝領。妙見大菩薩の分体をこの地にまつる。

横川1丁目遺跡

北にのぼり横川1丁目。地名は明暦年間開拓の横川に由来。堅川(たてかわ)に対する横川。横川1丁目遺跡が。弥生中期頃以前にはこのあたりは、浅海の砂泥底。弥生中期頃には潮間帯に変化しカキ礁が形成された。その後、浅海、河川、後背湿地と変化した(横川1丁目遺跡調査会)。案内をメモ;「このあたりは地史的には海域、干潟、および湿地的環境。生活に適した地ではなかった。この地が整備されたのは明暦の大火(振袖火事)の後、江戸市街を拡張する都市計画の実施以降。以来武家屋敷や寺院がこの地に移ってきた。法恩寺もそのひとつ。このあたりは旗本・太田家の抱屋敷跡」、と。

春日通りを西に本所に向かう

春日通りを西に向かう。横十間川から大横川までは東北割下水。大横川から本所2丁目あたりまでは北割下水が掘られていた。いずれも万治2年(1659年)に本所地区が市街地として開発されたとき、水はけのための排水用に掘られたもの。本所3丁目、2丁目の境、区役所通りあたりまでぶらぶら歩く。
本所の語義は、中心の地ということ。石原村、牛嶋村の中心で本村、中之郷、本所であるということだろうか。このあたりは大小の旗本屋敷がならんでいたところ。本所全体で旗本・御家人といった直参の屋敷が240ほどあった。市街地造成が完了した元禄元年(1688年)以降移ってきた、と司馬遼太郎さんの『街道をゆく36 本所深川散歩』に書いてあった。
本所2丁目、華厳寺えんま堂。江戸66えんま巡りの2番目のえんまさまのあたりを右折し北に進む。駒形3丁目あたりで適当に右折。道なりに再び東に向かう。要は、本所あたりをあてもなく散策しよう、というとこ。

錦糸町

道なりに本所をブラブラ歩き横十間川まで進み、錦糸町に。錦糸町の由来は、錦糸掘があったから。で、錦糸掘の由来は?岸掘がなまったから、とか、明治時代紡績産業で栄えたこの地、金糸銀糸が輝いていたから、だとか、運河の水面がきらきら輝いていたから、だとか。とはいうものの、錦糸町の地名ができたはじまりは、ひょっとして昭和になってからかも。
次回は墨田区北部エリア、旧中川から荒川堤防に歩を進める。

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