本日のルート: 両国駅;回向院;吉良邸跡; 両国公園に勝海舟生誕の地の碑;堅川・塩原橋; 旧安田庭園>北斎通り・「南割下水」;亀沢町 ;法恩寺;能勢妙見堂; 横川1丁目遺跡 ;本所>JR 総武線・錦糸町駅
総武線・両国駅
武蔵と下総の二つをつなぐことで両国橋、と。明暦の大火で逃げ場を失い十万人近くの人が犠牲に。その教訓から千住大橋以南、江戸に至近の位置にはじめてつくられた橋。時期は万治2年(1659年)。本所・深川地区を埋め立て・開発し、大名・旗本・御家人などの武家屋敷や町屋をつくり、発展させるためにも必要な架橋でもあった。大川(隅田川)にかけられたので当初「大橋」と。橋の両側は広小路。両国西広小路と東広小路。防火のための空きスペース・火除地。とはいうものの、空きスペース、いまどきのことばではオープンスペースには芝居小屋、見世物小屋、仮設飲食店が立ち並び、歓楽の地として賑わいをみせる。
京葉道路に面して回向院
境内には明暦大火の供養等。海難供養等、昭和11年に相撲協会がつくった「力塚」が残る。毛色の変わったものとしては、怪盗・鼠小僧次郎吉の墓も。回向院には牢死者も葬られた。が、刑死者は本所回向院の別院である小塚原の回向院に葬られるのが本筋。鼠小僧次郎吉は小塚原で刑死し無縁のものとして小塚原の回向院に葬られたのだが、やがてこの寺にもお墓ができた。ひとえにその人気ゆえのもの、と司馬遼太郎さん(『街道をゆく36 江戸本所深川』)。
吉良邸跡は両国3町目に
吉良邸跡・本所松坂町公園に。公園といっても吉良邸跡を残すだけ。石壁は江戸時代の高家の格式をあらわす「なまこ塀長屋門」を模したつくり。本所松坂町公園由来;吉良上野介義央の上屋敷跡。吉良邸は松坂町1丁目、2丁目(現在の両国2丁目、3丁目)のうち8400平方メートルを占める広大な屋敷であった」、と。映画やテレビで「本所松坂町の吉良邸」という言い方をされる。が、これはダブルフォールト。第一のフォールトは武家屋敷には町名は付けない。第二は、松坂町という町名は吉良邸が取り壊され町屋となったときの地名。吉良邸があったころには「松坂町」という名前は存在していなかった、ということ。
吉良邸跡の東・両国公園に勝海舟生誕の地の碑
吉良邸跡から少し東、両国小学校の東隣の両国公園に。勝海舟生誕の地の碑。咸臨丸で艦長として渡米、西郷隆盛との談判による江戸無血開城の立役者など、言うまでもない幕末の雄のひとり。
公園の少し南・馬車通りあたりに囲碁の「本因坊の屋敷跡」がある、とのことだが、見つけられなかった。江東区散歩のメモに書いたように、三ツ目通りとか四ツ目通り、一之橋、二之橋といった地名・橋名の基準となったところ。この本因坊の屋敷があったところから、3つ目の通りが三ツ目通り、といった風。
堅川
隅田川から横十間川までは水面が残るが、その先は埋め立てられ「堅川河川敷公園」となっている。首都高速7号・小松川線が上を走る。清澄通り架かる二之橋、隅田川に向かって千歳橋、塩原橋、そして一之橋といった橋がある。塩原橋は亀戸天神でもメモした塩原太助に由来する。
旧安田庭園
北斎通りの元の名前は「南割下水」
で、この道筋、北斎通りと呼ばれているが、昔は「南割下水」と呼ばれる。下水とはいうものの、基本的には掘割のひとつ。道の真ん中に水はけをよくするための排水溝が掘られていたから、そう呼ばれた。3.6m程度の幅。「黙礼の中を流るる割下水」といった川柳も。このあたり武家地。割下水を隔てて挨拶を交わす武家の姿が浮かんでくる。俳人・小林一茶も割下水の住人。「葛飾や月さす家は下水端」「朝顔や下水の泥も朝のさま」「鶯が呑むぞ浴びるぞ割下水」といった句を読んでいる。
亀沢町には三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地が

少し進み区役所通りと交差。このあたりに三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地といったものがあるようだが、場所特定できず。亀沢町の由来は、この地に住んでいた旗本荒川助力郎の屋敷内に亀沢の池と呼ばれる池があったから、とか、単に縁起がいいからとか、亀のすんでいた池たあったからとか、例によっていろいろ。ちなみに、一説にはありふれた盗人、とも言われる鼠小僧次郎吉を一躍ヒーローに仕立てた仕掛け人が河竹黙阿弥。黙阿弥の書いた歌舞伎『 鼠小紋春着雛形 』が大ブレークしたためだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
「新徴組屋敷の跡」は見つからず
北に進み蔵前橋通りの手前、石原2丁目あたりを右折し適当に道筋を東に進む。石原の地名の由来は、隅田川の流れの故か石が転がっていたから、とか。三ツ目通りを過ぎると、このあたりに「新徴組屋敷の跡」がある、と言う。
新徴組って、新撰組の江戸守護バージョン。清河八郎に率いられ、将軍守護の名目で京に上った浪士組が、もともと幕府など眼中になく尊王思想第一とする清河の企てにより、倒幕の戦闘集団にするという天皇の勅許を受ける。これで幕府の軍隊から天皇の軍隊に。この動きに異を唱えた近藤勇一派は京に残り新撰組を結成。江戸に戻った清河は幕府に睨まれ佐々木只三郎により暗殺される。江戸に残された浪士組は庄内藩預かりとなり「新徴組」として江戸市内警護に。初代組長は沖田総司の義兄・沖田林太郎。戊辰戦争時には庄内にて官軍と戦う。
「新徴組屋敷の跡」は見つけることができなかった。本所三笠町。錦糸堀の近くに庄内藩・江戸の下屋敷があった、という。錦糸堀、って南割下水の大横川より東側の呼称。新徴組屋敷の詳細は知らないけれど、庄内藩下屋敷内にあったと想像すれば、このあたりだろう、とは思う。ちなみに庄内藩上屋敷は飯田橋のあたり。飯田橋の駅の近くには「新徴組屯所跡」の碑がある。
蔵前通りと大横川が交差するあたりに法恩寺。道灌ゆかりの寺である
境内には例によって「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」の歌。この逸話、道潅ゆかりの地で何箇所聞いたことだろう。鎌倉散歩のとき朝比奈の切通しのあたりにもあったし、荒川の町屋、豊島区高田、そのほか秩父の越生にも。道潅がそれほど親しみをもたれていた、ということだろう。法恩寺、現在は4つの堂宇だけのお寺ではあるが、江戸のころは20を越える堂宇からなる広い寺域からなっていた。ちなみにこのあたりの大平の地名の由来は、大田道潅の「大」+平河山の{平}=大平と。
法恩寺と大横川を隔てたところに能勢妙見堂
少し話はそれるが、この能勢一族の歴史も面白い。明智光秀に与力したため、秀吉により一族滅亡の危機。が、能勢の地から一族落ち延び隠れ里に。時代は移り、家康の家臣に。関が原で戦功をたて、お家再興。法華経への信仰の故と、広大な家屋敷を有徳の僧に寄進。これが能勢妙見山のはじまり。能勢頼直のときに、この地に下屋敷を拝領。妙見大菩薩の分体をこの地にまつる。
横川1丁目遺跡
春日通りを西に本所に向かう
本所の語義は、中心の地ということ。石原村、牛嶋村の中心で本村、中之郷、本所であるということだろうか。このあたりは大小の旗本屋敷がならんでいたところ。本所全体で旗本・御家人といった直参の屋敷が240ほどあった。市街地造成が完了した元禄元年(1688年)以降移ってきた、と司馬遼太郎さんの『街道をゆく36 本所深川散歩』に書いてあった。
本所2丁目、華厳寺えんま堂。江戸66えんま巡りの2番目のえんまさまのあたりを右折し北に進む。駒形3丁目あたりで適当に右折。道なりに再び東に向かう。要は、本所あたりをあてもなく散策しよう、というとこ。
錦糸町
次回は墨田区北部エリア、旧中川から荒川堤防に歩を進める。
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