日曜日, 7月 09, 2006

北区散歩 そのⅡ:荒川・隅田川に挟まれた下町低地を歩く

荒川から隅田川、そして石神井川へと
北区散歩の第一回は武蔵野台地の東端、東京下町低地に境に屹立する崖線にそって歩いた。今回は、荒川・隅田川に囲まれた一帯、また武蔵野台地と隅田川に囲まれた低地を一回りする。北区で気になるキーワード、荒川知水館、というか岩渕水門もカバーできるだろう。

さて、どこから、と、思案する。荒川区散歩のとき、ちょっとかすった掘船地区の船方神社から北というか西に動くか、浮間から南というか東に向かうか、と考える。で、結局、浮間からはじめることにした。

一番の理由は「浮間」という名前に惹かれたため。その後は、荒川に沿って岩渕水門まで下り、赤羽とか王子の東、隅田川と武蔵野台地の間の下町低地を進むことにした。


本日のルート;埼京線・浮間船渡駅・都立浮間公園>氷川神社>荒川土手>新河岸川>岩淵水門>知水資料館>熊野神社>八雲神社>宝憧院>R赤羽駅>国道122号線・北本通り>神谷掘公園>豊島馬場遺跡>清光寺>紀州神社>西福寺>石神井川


埼京線・浮間船渡駅・都立浮間公園
埼京線・浮間船渡駅(ふなど)駅に。北口に出る。駅からすぐのところに都立浮間公園。浮間ケ池を中心にした自然豊かな公園。もと、ここは荒川の流路。蛇行していた流路を大正から昭和にかけての河川改修で直線化し、川の流れが池として残った。浮間ケ池がそれ。 いつだったか、川崎市中原区の武蔵小杉を歩いていたとき出会った、多摩川脇の等々力公園が同じく、多摩川の河川改修によって残された流路跡であった、かと。 池の西側を荒川堤防に向かって進む。

氷川神社
堤防手前で池の東側に折れる。氷川神社にちょっと御参り。すぐ横に、浮間ケ原桜草圃場。江戸から昭和初期にかけて、このあたり一体は桜草の名所。浮間ケ原の由来は、荒川に突き出した半島状の地勢が島のようであったから、とか。 神社から北東に少し堤防方面に歩いたところ、浮間2丁目4番地に、北向き地蔵。もともとの場所は現在の荒川河川敷。村の北の入り口に、外に向かって立っていた。外敵から村を守るが如く、と。

荒川土手
堤防の道をのんびり歩く。川向こうに高層ビル群が見える。川口あたり、だろう。我々団塊の世代の人間にとっては川口、って吉永小百合主演の『キューポラのある街』、つまりは小さな鋳物工場がひしめ街といったイメージが強い。が、現在では、様変わり。その鋳物工場の跡地が高層ビル街に変身している。55階のビルをはじめとして、20階以上のビルが川口駅前に20近くあるよう、だ。 

川口駅周辺に高層ビルが多いのは、鋳物工場の街であった、ということと大いに関係ある、とか。詳しくは知らないが、工場地域というのは、都市計画上建築制限が緩く、工場の跡地など広い土地の確保などが容易であり、その結果高層ビル群が林立することになった、よう。周辺に高いビルが見えない分、川口あたりの景観が目につく。

新河岸川
京浜東北線と交差するあたり、南手に川筋が接近する。新河岸川。川越から隅田川と合流するあたりまで全長34キロ弱。入間川の分流を川越で集めて水源とする。といっても単なる自然の流れではなく、知恵伊豆こと川越藩主・松平信綱が大きく手を加えている。水量安定のため、川筋を湾曲させており、九十九曲がり、と言われるほど、である。 
新河岸川は江戸から明治初期にかけ江戸と川越を結ぶ水運ルートとして賑わった。船にも並船、早船、急船、飛切船などいろいろ。並船は江戸までの往復1週間から20日かかる不定期船。急船は一往復2,4日の荷船。飛切船はそれより速い特急便、といったもの。

川越からの荷物は農産物。江戸からの帰り船は日用品と肥料。肥料とは、早い話が下肥。江戸の人々の糞尿は大切な肥料。この下肥を巡る利権争いもあった、よう。大名屋敷のそれは栄養状態もいいので値が高く、かつまた大量に確保できるので、争奪戦も激しかった、とか。 尾籠な話はともかく、川越街道による陸運を凌駕し運送の大動脈であったこの「川越夜船」も、明治になって鉄道の開通、河川改修による水量の減少などにより、昭和6年、その役割を終えることになった。

岩渕水門

京浜東北線を越え次の目的地、「荒川知水館」に進む。新荒川大橋下の河川敷を歩きしばらくすると水門が見える。旧岩淵水門。水門あたりで新河岸川も合流する。水門脇に案内板があった。メモする;昔、荒川の本流は隅田川。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐことができなかった。ために、明治44年から昭和5年にかけて、河口までの約22km、人工の川(放水路)を作る。大雨のとき、あふれそうになった水をこの放水路(現在の荒川)に流すことにした。

この放水路が元の隅田川と分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて作られたのがこの旧岩淵水門。9mの幅のゲートが5門ついている。その後旧岩淵水門が老朽化したこと、また、もっと大きな洪水にも対応できるようにと、昭和50年から新しい水門(下流に作った青い水門)の工事が進められ、昭和57 年に完成。旧岩淵水門の役割は新しい水門に引き継がれた、と。 

放水路建設のきっかけは明治43年の大洪水。埼玉県名栗で1212mmの総雨量を記録。荒川のほとんどの堤防があふれ、破れた堤数十箇所。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没した。流出・全壊家屋1679戸。浸水家屋27万戸、といったもの。 
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、気になった。ちょっとメモ;第一フェーズ)人力で、川岸の部分を平らにする。掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズ)平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防を作る。第三フェーズ)水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てする。浚渫船がポイントのような気がした。

知水資料館
水門近く、新河岸川そばに「知水資料館」。展示それ自体はそれほどでもないが、水に関する図書資料は充実している。また、ここでもっとも印象に残ったのは青山士(あきら)さん。荒川放水路工事に多大の貢献をした技術者。
明治36年、単身でパナマに移り、日本人でただひとり、パナマ運河建設工事に参加した人物。はじめは単なる測量員からスタート。次第に力を認められ後年、ガツンダムおよび閘門の測量調査、閘門設計に従事するまでに。明治45年、帰国後荒川放水路建設工事に従事。旧岩淵水門の設計もおこなう。氏の設計したこの水門は関東大震災にも耐えた堅牢なものであった。 


業績もさることながら、公益のために無私の心で奉仕する、といった思想が潔い。無協会主義の内村鑑三氏に強い影響を受けたとされる。荒川放水路の記念碑にも、「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と、自分の名前は載せていない。2冊ほど伝記が出版されているよう。晩年の生活はそれほど豊かではなかった、と。ちなみに、日露戦争において学徒兵として最初に戦死した市川紀元二はお兄さん、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

熊野神社
資料館を出て志茂橋を渡り少し東に進み志茂4丁目の熊野神社に。結構長い参道。志茂の由来は、岩淵下村の「下」から。町になるとき、「下町」では、東京の下町と混同しやすい、ということで、しも=志茂、と読み違えのないように漢字をあてた、との説、これあり。熊野神社の近くに西蓮寺。雰囲気のいいお寺さま。本尊は聖徳太子がつくった、と言われる阿弥陀如来像。運慶作と言われる毘沙門天像もある。熊野神社の別当寺。熊野神社を勧請したのは昔のここのお住職。

八雲神社
西蓮寺から新荒川大橋・国道122号線方面に戻る。国道手前の岩淵橋の近くに八雲神社。創建年次は不明。江戸時代の日光御成街道が通る岩淵宿の鎮守であった。
境内に「町名保存の碑」。往時、宿場町としてこのあたり一帯の中心地であった「岩淵」の名前を後世に残すために努力した市井の人たちの功績を記す。要するに、岩淵って地名を、近年になって勢いをもってきた「赤羽」に吸収しようとする行政の動きに対して断固抵抗した、ってこと。高崎線の駅名が岩淵ではなく、赤羽となったことに納得のいかない古老もいる、とか。地下鉄南北線の駅名が「赤羽岩淵」となっているのに、大いに納得。 


宿場町・岩淵宿についてメモ;江戸からあまり距離もないこの地に宿が設けられ理由は、荒川が「荒ぶる川」であったため。氾濫して渡しが止まり、足止めになることも多く、そのための臨時というか緊急用宿場といった按配。そのため千住宿のように大きな宿となることはなかった。が、それでも天保の頃というから19世紀の中頃には戸数200軒強、人口1500人程度では合った、と言う。

 ついでに、岩槻街道、というか、日光御成道のルートをメモする;王子までは本郷通り>王子で石神井川というか音無川、それにかかる音無橋を渡り>今回あるいた、王子神社崖下の森下通り商店街>王子稲荷神社前>名主の滝公園前をとおり>崖上の道に>京浜東北線に沿って>中十条1丁目交差点>地福寺>中十条2丁目>東十条駅西>西音寺西>環七通り・馬坂交差点>京浜東北線と埼京線の合流点近く・京浜東北線に最接近>埼京線を西に>香取神社・普門院・静勝寺の崖下を>赤羽駅前・宝撞院>ここから新荒川大橋まで一直線・赤羽岩淵駅>北本通り>新荒川大橋へと進む。 

宝憧院
新荒川大橋南詰から日光御成道にそって赤羽に向かう。途中、梅王寺とか正光寺跡とか大満寺といったお寺さまに寄りながら地下鉄南北線・赤羽岩淵駅に。
梅王寺は、もとは尼寺。正光寺は火事で本堂が焼失。門と観音さまだけが残っている。大満寺は岩淵不動とも。赤羽岩淵駅からJR 線に向かって少し進むと宝憧院(ほうどういん)。院の前に道標。「東 川口善光寺道日光岩付道」「西 西国富士道 板橋道」「南 江戸道」、と。日光御成道上の交通の要衝、であったということか。

JR赤羽駅
JR赤羽駅。現在の赤羽駅前は大きく賑わっている。が、明治以前は岩槻街道・日光御成道筋の一集落。岩淵宿のほうが宿場町として賑わっていた。状況が変わってきたのは、鉄道駅と陸軍か。明治18年赤羽駅。明治20年代には近衛師団・第一師団の陸軍工兵隊が赤羽台に移転。それを皮切りに多くの陸軍施設がこの地につくられ、赤羽地区が賑わっていった、ということ。 
ちなみに、赤羽の由来。荒川に抉られた台地面に赤土が露出していたので、赤土を意味する赤埴(あかはね)と呼ばれていたのが由来とか。埴とは埴輪など、赤粘土のこと。これも諸説あり定かならず。

国道122号線・北本通り

さてと、赤羽から先は新田地区の清光寺、というから隅田川畔まで進み、そこから最後の目的地・王子に戻るコースを取る。赤羽駅・東口を適当に北東に進む。スズラン通り商店街。活気がある。商店街の出口付近、岩淵中の隅を右折。道なりに進む。赤羽中の横を通り、志茂地区を適当に進む。
地下鉄南北線・志茂駅近くに。 北清掃工場脇を通る。明治の頃、このあたり、東というか北は神谷の荒川土手から、西というか南は京浜東北線にかけて飛行場があった。名前は岸飛行場。岸さんというお医者さんの所有する18万坪にもおよぶ広大なものであったらしい。 国道122号線・北本通りに出る。
ちなみに北本通りの読みは「きたほんどおり」。ずっと「きたもとどおり」と思い込

んでいた。埼玉県の北本市と何か関係あるのか、とも思っていた。が、読みが違えば関係ない。この国道122号線、栃木県の日光からはじまり、群馬・埼玉と経由し東京都の豊島区の西巣鴨交差点(国道17号線交点)までの157.5キロ。都内では明治通り・北本通り、埼玉に入って岩槻までは岩槻街道と呼ばれる。

神谷掘公園

北本通を神谷地区に。少し進むと神谷掘公園。神谷掘とも、「甚兵衛掘」とも呼ばれていた排水路跡。甚兵衛堀の由来は、この堀をつくり新田開発に貢献した甚兵衛さん、から。かつてこの地は湿地帯。大雨や洪水のたびに田畑に大被害。掘は江戸時代排水のためにつくられた、とか。明治になり、旧王子製紙十条工場が隣接地に作られ、その物資の運搬に使われたが、現在は埋め立てられている。



豊島馬場遺跡
神谷掘公園を隅田川方向に進む。王子5丁目から豊島8丁目へと進む。東京聖徳学園前、隅田川にほど近いあたりに古墳時代の遺跡・「豊島馬場遺跡」。現在は公園になっている。台地上のいくつもの集落の共同墓地と言われる。台地上だけでなく低地帯でも生活ができるほど、土木技術も進歩していったのだろう。神谷の由来は、蟹庭か蟹谷が転化したもの、と。蟹が群れていた地帯だったのだろう。実際、神谷掘のあたりは、渓谷であったと言われる。


清光寺
豊島7丁目、新田橋の近くに清光寺。品のいいお寺さん。休憩所など、もてなし、ご接待の気持ちがありがたい。このお寺平安末期から鎌倉初期にこの地で活躍した豊島康家・清光が開基のお寺さん、と言われる。ひとり娘の菩提をとむらうお寺、とも。
清光は子の清重とともに、頼朝の武蔵討ち入りに協力し、鎌倉幕府の御家人として重きをなした。本尊は不動明王。行基作の「豊島の七仏」のひとつ、と。ちなみに、行基と七仏、というか七仏薬師って、全国各地に見られる。時間ができたら調べてみよう。(つい最近訪れたときは、本堂の工事中。お堂が影も形も無くなっていた)



紀州神社
お寺を出て新田橋通りを進み、紀州通りを左折し紀州神社に。この神社、もとは王子の王子権現の境内にあった。王子権現も紀州神社も、豊島氏が紀州熊野から勧請したもの。この地に移ったきっかけは、水争い。

この地・豊島村と王子村の間で争いとなり、豊島村の産土神である紀州神社をこの地に戻した。このとき先頭で錆びた槍をもち、豊島村のために戦ったのが甚兵衛さん。その姿から「錆槍甚兵衛」と呼ばれるようになる。で、この甚兵衛さん、先ほどの神谷掘、というか甚兵衛掘の名前の由来ともなった人物でもある。 

西福寺

紀州神社を離れ、豊島中央通商店街を南に下る。豊島3丁目に西福寺。六阿弥陀第一番のお寺として知られる。境内には敗走中に殺害された六名の彰義隊員を供養する六地蔵、それと「土佐の高知の播磨や橋で、ぼんさん、かんざし、買うを見た」の歌で、ぼんさんにかんざしをもらった、お馬さんのお墓もある。で、六阿弥陀についてまとめておく。といっても、足立散歩のときにも、荒川区散歩のときちょっとかすめた北区の船方神社でもメモしたように思う。 


六阿弥陀って、嫁ぎ先での不仲を悲しみ川に身を投げた姫というか娘と、5人の侍女の計6人をとむらうもの。川に身を投げた娘は清光の娘、といわれたり、清光のもとに嫁いだ娘、とも言われたり、嫁ぐにしても、清光が悪代官の如く、いやがる娘を無理やりおのれのものにしたり、とあれこれ。身を投げた川も、荒川であったり沼田川(足立区)であったり、と、あれこれ。ともあれ、娘をなくした「誰か」が熊野に参詣。夢枕に仏が曰く「よき木を与える。行基が訪ね参るので、阿弥陀仏を作らしめるべし」と。行基が訪れる。一夜で六体の仏像を掘りあげる。で、その六体を六ヶ所のお寺おつくり安置した。 
第一の寺;西方浄土に生まれ出る御利益を授ける、西福寺。 北区豊島2丁目 
第二の寺;家内安全・息災延命の御利益を授ける延命寺 足立区江北2丁目 
第三の寺;福寿無量に諸願を成就させる無量寺。北区西ヶ原2丁目 
第四の寺;皆に安楽を与える与楽寺。 北区田端1丁目 
第五の寺;一家和楽の福徳を授ける常楽院。現在、調布市西つつじヶ丘、に移転 
第六の寺;常に光明を放つ常光寺と名付けた。江東区亀戸4丁目 そのほかにも余った木でつくったという二体の仏さん 木余りの弥陀:性翁寺足立区扇2丁目 木残りの観音:昌林寺;北区西ヶ原3丁目 
それにしても六阿弥陀信仰って足立、荒川、北区ローカルな「巡りもの」。これもどこかでメモしたと思うのだが、六阿弥陀巡りは結構距離がある。「六つに出て六ツに帰るは六あみだ」と読まれるように六里から7里もあるわけで、隅田川から武蔵野台地の崖線に沿って歩く1日がかりで歩くことになる。信仰、参詣とはいうものの、大いにレクレーションもかねているわけで、春秋のお彼岸の日に、入日を遥拝することによって西方浄土、極楽浄土に行けるという信仰をお題目に、太陽の廻る方向に東から西の寺院を「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」などとあれこれお話をしながら骨休めをしたのでありましょう。北区散歩の最後で豊島清光ゆかりの、「清光寺」、そして清光ゆかりの「六阿弥陀さん」の第一番のお寺でしめくるのも、偶然とはいえ、奇しくもの因縁か。 

石神井川
西福寺の後は、いつだったか石神井川を散歩したとき、王子から隅田川への合流点まで歩いた道筋、つまりは、新掘橋から掘船地区への道筋を逆に辿り王子駅に。北区散歩も石神井川散歩からはじまり、奇しくも石神井川で終わった。
ついでのことながら、この石神井川って明治の工業化の立役者。北区の産業発祥の地は幕府建造の反射炉(大砲製造所)跡地につくられた鹿島紡績所。現在の滝野川2丁目につくられたこの工場の動力源は千川上水から石神井川に落として廻した水車。その後渋沢栄一がつくった抄紙工場や印刷局抄紙工場も石神井川の下流につくられた。
こういった石神井川下流部にできた工業を契機にして繊維、製紙などの工場、さらには軍事施設関連工場などが相まって近代産業の礎がつくられた、とか。滝野川地区の石神井川の姿を思い起こしながら、北区散歩を一応終わりとする。

0 件のコメント:

コメントを投稿